「神の数学」が語る「真実」と「その証明」(1)
≪人類究極の望みである「神の存在」を明らかにする≫ [その1]
2012年9月 謹んで上載
『神の存在』、これほど永遠の昔から人類を悩ませ、多くの思慕の念をかきたてて来たものはない。
しかし、未だに誰も探し当てることは出来ないのである。この数千年の間、どれほどの人々が生涯をかけて探し求めたことであろうか。
全世界の人々が「神の存在」を信じ、「神」を求めてただただ右往左往しているのである。今までに、神に関する書はそれこそ無数に出されている。しかし、誰もその存在すら確認した者はいない、その姿を垣間見て描いた者もいないのである。
恐らくは、私が神のあるべき姿を描き、その持てる業を最初に見出した人間であろう。すべては日本の古神道から見出したものであり、いわば、神代の日本の存在した「古代叡知」の発現であり、奇しくも現代に現れたその「再来の知」なのである。すべては言葉ではなく、「数」と言う万国語で記されているものであり、何も難しいものではない。 小、中学生でも簡単に読み込むことが出来る大変易しいものである。
ではその「神」の姿とその持てる業をこの後、紹介することにしょう、今までの常識知や習慣知などは傍らに置いて、素直な心、まっさらな直の魂で「数」で描かれた大いなる図を検証し、感激の涙を流して貰いたい。全ての図は神の手になるもので、人知等は触れることも匂いをつけること一切は無いものである。いわば、ひょっとすると、それは失われた古神道の言葉、「カムナガラの道」と言われるものかも知れない、
なぜならば、その言葉通りのものであり、ピッタリとあてはまるものだからである。 さあ、頑張って「神」の正体と言うものを見極めてほしい。
現在のように科学は発達したと言われている時代でも『神』のことに関しては数千年前と少しも変わってはいない、いやかえって退化していると言うべきかも知れない。何故なら、現在の人類が『神』と崇め、『神』と慕っている大いなる存在は数千年前の確立された「神」の姿」そのままであり、何ら進化も、変化もせずに同じ内容、同じ姿を頑なに守っているからである。科学はどんどん進歩し、人の心はどんどん変わって来たのであるが「神」の概念はそのままであり、一向に変ることはなかったものである。
現代科学、あるいは宗教がどんどん進化するにつれて、少しは[神」の姿が明らかになったかと思えば、さにあらず、逆に文明は混迷度が増すばかりなのである。この数千年の間に「神」に助けを乞うためにその名は何百億回、何千億回唱えられて来たことか…。しかるに、その微かな存在の印さえも捉えることも叶わず、それゆえに、「神」と言う存在は一切無いとフランスの哲学者のデカルトが断言したのである。彼は、「神」と縁を切り、独自の人類知を作り上げようとしたのである。それがいわゆる、現代西洋科学知であり、それをそのまま踏襲している現代文明の姿なのである。
しかし、20世紀末あたりから先端物理学者達から声が上がり、「神」がいないとすれば余りにも見事な自然造化の顕現やその不可思議極まりない妙技の発現などには舌を巻かざるを得ず、どうしてもその説明がつかないと言い始めているのである。
すなわち、すべては「神」と言う究極の存在があってこそはじめてすべては成り立つものであると多くの意見が出されているのである。
確かに、最近の物理学者達はだんだんと「神」の存在を認め始めている、それでもさすがに今まで散々否定してきた「神」と言う言葉に抵抗があるのか、それとも宗教界の独占言葉である「神」という言葉に反発を感じているのか、「神」の名の代わりに「大いなる存在」、「宇宙の最高知性」、あるいは「サムシング・グレイト」等の新しい言葉を用いて盛んに「神」を持ち出し、こぞって礼賛をし始めているのである。要するに、科学界も「神」の存在を認めてその足跡を追おうと本気でトレ−スし始めている現在である。しかるに、一方、我々一般人はただただ置いてきぼりをされ盲目のままの状態である。 しかし、それも自然のなりゆきの中で徐々に啓蒙され次第に「神ありの世界」に移行していくものと思われる。
恐らく今、すなわちこの二十一世紀初頭がその「神あり時代」の過度期の始まりになるものであろう。
「神の存在証明」、それは人間の歴史上の古くからの命題であり、何人も為し得なかったもっとも過酷で、難解な証明問題と言うものである。
要するに、人類発生以来今までに、その片鱗さえも掴むことが出来なかったと言っても決して過言ではない。「神の存在」、それは今でも立証できず、まさに古今無類な大きな難問として未来へ引き継がれようとしているものである。
その余りの本性の不可解さ、神妙な理の奥深さに学者達はあきれ果ててだんだんと遠ざかり、今では議論さえも避けようとしている、いわば、「神」の問題は彼らにとっては一つのタブ−であり、アンタッチァブルな存在として象徴となっているのである。
それを言い始めたのが、近代科学の祖であるデカルトであり、彼の「神の棚上げ」の言葉がその事実をシッカリと物語っているものである。
それからもう400年近い、そろそろ真実に目覚めてもいい頃であろう。その嚆矢となるものが、この「神の数学」であり、[数」の語る「神」の如実な姿の存在である。要するに、「神」とは一つの自然法則なのであり、無ければならない必須無窮なものなのであるが、今の人間知ではその影さえも捉えることが出来ないのである。そのあたりのこと、すなわち、「神」の存在の印を次回の記あたりから追々解き放って見たいと思う。
なぜならば、「神の数学」が語る「神の法陣」には「神」の現実的存在がはっきりと描かれているのであり、その存在が有るからこそあらゆる自然象においての秩序、調和が存在し、滑らかな流れに一役かっているからである。要するに、神が関与するから自然の仕組みがキッチリと動き、調和と秩序をもってスム−スに展開していると「数」はハッキリと証明しているのである。
そればかりではない、更に、「神の数学」に精通するようになると全ての現象の始めと終わりには必ず「神」が顔を出して締めくくるのであり、後始末をきれいにつけてくれることが判るのである。それらの真実を知りたければ、「ひふみ九九算表」や「神の法陣」表を調べるがよい、そこには必ず「神(0)」が現れて全体を取り仕切って纏めているのであり、それゆえに調和と秩序が保たれて終焉0をを迎えている事実が判るはずである。
何を阿呆なことを言い出すのか…、そのようなつぶやきが学者達の間から聞こえて来そうである。しかし、この「神の存在」と言う問題をクリア−しない限り最早現代科学は一歩も前進することは叶わないことを知らなければならないのである。
要するに、「神」をこのあたりで是認しない限り、一切の前進は出来ず、ドンズマリ状態に陥ってしまうと言うことである。それがこの50〜60年来の科学の停滞の姿であり、その現実なのである。見るがよい、物理学も化学も最早進歩の手を止めているではないか…、ただ健気にも小手先のテクノロジ−だけが懸命に気を吐いて、あたかも進歩しているように感じているだけであらう。
この数年間、いろいろと「神」の存在に関しての書籍、あるいはレポ−ト類を漁ってみたが、残念ながら、99%以上は宗教に関するもの、、あるいは単なる抽象的な言葉による概念説明に終始する「神」と言うものであり、すべては単なる精神論的な語りに過ぎないものばかりであった。
要するに、誰も「神」の正体やその本質を知らないと言うことであり、ただただ影と噂だけを引き摺って論争に明け暮れているだけである。
要するに、現実性のある物理象として、または自然的な有用性を持つ「神」としての現実の語りは皆無の状態と言うことであり、すべて抽象的な観念上の存在としての語りかけに過ぎないものである。だから、各人の「神」の見方がまちまちなのである。
要するに、現代においては「神の実在性」を検証することはまったく不可能であり、何ら手立てさえも無いと言うことである。
それだけ、「神」の存在を科学界はなおざりにしていたのであり、「神」の探索には手を抜いて来たと言うことである。
この「神」と言う言葉は遥かな昔、恐らく人類の黎明期から存在していたのであるが、すべては概念上、あるいは言葉上の存在のみにとどまり、姿、形等の可視的形容、あるいは力、業と言う物理的な存在としては掴むことはまったく出来ないまま、現在に至っているのである。
そこでは ただ「神」と言う言葉が優先されるだけで、その真実にはまったく触れられることは無く、ただ置いてきぼりにされてきただけである。
しかし、「神」は世界のあらゆる国々、あらゆる民族の上に、あらゆる人々の上に厳として存在しているのであり、だから信仰も決して失われることもなく、何時の時代にも盛んに「神」を求めて人々は右往左往しているのである。現代もそれが続いて人々の心は休まることも知らないのである。
また、文明化されていない未開人も、文明化したあらゆる民族のほとんどは「神」を信じ、「神」を支えに生きている、それが現在の世界なのである。
すなわち、「神」とは「そんなものは無い」と完全に否定は出来ない本来のあるべき大いなる象徴の存在であり、それを否定して来たがゆえに、現代西洋科学文明は被行状態に陥り、自然との対決を余儀なくされているのである。
要するに、現代文明は「神」を持たなかったゆえに、自然との共存共栄に失敗したのであり、全く自然の心を掴むことが叶わなかったのである。
もっとハッキリ言えば、 「神」を否定するには今の西洋科学ではまだまだ認識知不足であり、力不足も甚だしいと言っても決して過言ではない。
ただ、最後の望みを賭けるとすれば、は恐らく「数学」であり、神の申し子である「数」こそが期待に添い得るものであろう。
「数学」、あるいは「数」こそが見えない世界を探り出してくれる唯一のものであり、長年の期待に添えるものであることは間違いない。
何故なら、「哲学」、「物理学」などの学問は人間の作り上げた観念上の学問、仮想上の学問に過ぎず、人間知以上のものはそこには何も含まれてはいないことがハッキリしているからである。 その証拠に「哲学」、「物理学」などは自然を完全に解き放つことが出来ず、自然の解明には完全に失敗している現在である。 要するに、長年経っても自然との調和同調が一向に進まず、自然との共鳴状態に入ることも叶わない状態なのである。
しかし、ただ本来あるべき「自然本来の数学」、すなわち、自然数学における「数」だけは人間の知以上の何かを内蔵している可能性があるのである。その一切を詳しく説いているものが日本の古神道であり、それに従っている この「神の数学」と言う古神道から現れた究極の学問である。
確かに、「神」の正体やその本質は不明であり、今の人間知ではまったく歯が立たないのは確かである。それは、疑いもないことである。
しかし、古神道の祝詞から現われた「123…天地の数歌」の姿をしっかり調べると「神」の姿や自然の妙なる仕組みが完全な形で描かれていることが解るのである。おそらく、これは世界的な知の偉業であり、人類の歴史上の大きな金字塔と言うべきものであろう。
それにしても、何と言う皮肉なのであろうか、今まで、世界の宗教家や宗教研究者によって最も得体の知れない宗教、最も程度の低い原始宗教とのレッテルを貼られて軽侮されていた日本神道が一躍トップの位に躍り出て、他のすっべての宗教を完全に圧倒し、小さく見せているのである。
おそらく、これらの事情を未だに何も知らぬ日本人もただただ唖然とするだけであり、信じられない思いでただ目を見張っているだけであろう。
要するに日本人は余りにも神道の上に胡坐をかきすぎて本来在るべきものを見失っていたのであり、長年にわたって神道の研究そのものを怠って来たと言うことなのである。今までに何回もその事情を説明しては来たのであるが、改めてもう一度、そのあたりの真実を申し上げておきたい。
その大いなる規範を示すものが古神道の奥儀祝詞である「123…天地の数歌」であるが、今までの神道に携わっていた者達の余りの洞察力の欠如や、甚だしい盲目的な曲解が原因でその一切合切は完全に不明となる憂き目を見て来たのである。そのあたりの真実の一切を改めてここで申し上げて置くことにしたい。
本来は、古神道の祝詞である「123…天地の数歌」とは単なる題名に過ぎず、その奥には本義である主題が厳として鎮座していたのである。しかし、数千年と言う長い歴史の経過の間に題名だけが残り、いつの間にか本題は忘れ去られてしまったのである。それゆえに、古神道の祝詞である「123…天地の数歌」だけをいくら懸命に調べても何も発見出来なかったのである。 何と言うこと…!、「123…天地の数歌」とは単なる題名としての表示に過ぎず、大切な本題部は別に存在していたのである。 すなわち、「123…天地の数歌」とは次にある本題の最初の一節を名前として借りて呼んでいたものである。 その本題の紛失こそはまさに歴史上の大不始末と言ってもいいものである。
また、その本題の内容を指して古の人々は「カムナガラの道」と呼んでいたものである。 不審に思う御仁は「123…天地の数歌」の本体をよく調べるがよい、そこにある自然の理のすべてはまさに「カムナガラの道」であり、大自然の摂理そのものであることが解るであろう。
これから、その主題、本題を調査し、そこにある数々の「神」の奇跡(軌跡)を明らかにして行かなければならない。そこには様々な天地自然の極致が「数」で描かれているのであるが、今まで誰もそれを紐解いた者はいない。いや、この数千年、その存在さえも知られることがなかったものである。
要するに、余程「数」に信頼を置く者、数に目覚めた者でなければそこにある「天の律」、「地の譜」を読むことが出来ず、それゆえに古来より誰も手をつけることがなかったものである。今初めてその次第をここで開眼し、その「大いなる業」を万国に広めようとしているのである。
出来れば十分に合点がいくまで何回も、何回も手と頭を用いて図をなぞり、「神」の描くこの「千古不易のモノグラム」の極致を十分に堪能し、心ゆくまで味わってもらいたい。要するに、図を読むことから始め、それから改めて数を見ることである。丹念に、更に丹念に…。
一つこの「神のモノグラム」に挑もうとする方々にお願いしておきたい。それは遠慮はいらない、この「神のモノグラム」の語る内容が何を意味し、何を示唆するものかを自分なりに考え、自分の心のままに描き出してもらいたい。私はそれを最初に極めた者としての私なりの見解をあなた方に伝えるだけであり、その存在を知らせるだけである。要するに、それは一つの規範としての自然法則の形を「数」で示されているものであり、その真実を導き出し、その「数の語り」を易しい形で言葉に変えて伝えることが私の務めなのである。諸氏はそれを頼りに更なる「天の律」、「地の定め」の確たる存在を見出し、更なる奥へと進んでもらわなければならないのである。それが次なる者の務めであり、行うべき義務なのである。
これについてはまだ私以外には誰も知る者はいない、しかし、この古神道の謳う「永遠のモノグラム」、すなわち、「ひふみ…天地の数歌」の中にはまだまだ限りない天地の叡智が数多内蔵されて訪れる者を待っているのである。そのことだけは是非とも知っていてほしい。
ただそれを解くためには、素直な心と極まりない洞察心が必要であり、あくなき自尊心と自然を愛でる心がなければ解き放つことは出来ないのである。 要するに、それらが無い限り自然の素直さ、自然の美しさを見出すことが叶わないと言うことである。なぜならば、そこには何も同調の心が生まれず、一致と言う共鳴の響きさえもまったく見られることがないからである。
さあ、一つあなた方と一緒に古神道の真髄である祝詞「123…天地の数歌」の本体である「123…天地の数歌」の本義を見てみることにしよう。
ひょっとすると、これこそが古神道の言う失われた「カムナガラの道」と言うものかも知れない、何せ、それは失われてから久しいものとだけ神道書には書かれているだけであり、学者達にも皆目見当がつかないものなのである。 ただ、神道書にいわく、「カムナガラの道」とは「神の意思のままで、人為を加えない、日本固有の道」とあるだけである。
祝詞「123…天地の数歌」の本体である「ひふみ…九九算表」を見る
(これを称して「神の数学」では「宇宙次元原理表」,あるいは「カムナガラの道」と呼んでいるものである)。
4番目 0360360360 → 0360369369 = 45
すると、この表のすべての数列の加算数()は45になり、一桁化して9になり、0になることが判る。それは縦、横すべての数列が持つ同一な答えであり、その同一の表れである本質の姿なのである。
しかし、この図は思いもよらぬ「神の秘密」を更に何重にもわたって内蔵しているものであり、その姿の全容は今の私にもまったく解らないものである。その包んであるベ−ルを一枚剥ぎ取ればその下には新たな神の秘密のベ−ルが姿を現してくるのである。いわば、ベ−ルが何層にも重なって織りなし「神の秘密」を包み込んでいると言うことである。多分、これは一つの「宇宙システム」の図と考えてもいいものであろう。
@ この図は以前の演算で示した通り、各縦列、横列の数を加算すればすべては0になるものである。
A この図は玉ねぎの皮のように外側から次々と四角マスを取り去り、その各マスの総数を加算する。するとすべては0になる。
B この図は易で言う「太極」の相であり、なぜならば、その本質は0であるからである。また、この図から両義、四象、八卦等のすべての易相が引っ張り出すことが出来ることは以前に検証した通りである。更に考えを深めて見るがよい、「易」の真実が続々とこぼれ落ちてくるはずである。それらの真実を突き止めていくと、どうしても「易」の起源の地は古代日本であると断定せざるを得ないのである。
Cまだまだ、この「ひふみ九九算表」には「神の心」が数多内蔵されている。「陰と陽」の心、「鏡面対称」の心、「自然比」の心、「メビュス体」の心、「自然演算」の心、「五種類のエネルギ−形態」の心、「縮小宇宙モデル」の心、「神有り世界」の心、「エネルギ−循環」の心、、「自然自律性」の心、「自然完全体」の心等、エトセトラ、エトセトラである…。
知にあふれている方々よ、解くがよい。たとえ一つでも解き得たなら、それはあなたの心の永遠の灯となり生涯あなたの心を照らし続けるであろう。例え、今後人類知の代表とされるアインシタインの相対性原理が否定されることがあっても、この「宇宙次元原理表」にある諸定理は覆されることは決して無い、何故なら、すべては宇宙意識の永遠の「知の業」であり、その歩む道だからである。
今回はその一端に的を絞って更に不可思議きわまりない「神の叡智」を引っ張り出して見よう。
それはこの@ABなどを遥かに超える「摩訶不思議な数象」の表れであり、世界の万人がアッと目をむくものである。その仕組み、仕業はまさに「数の奏でる神の業」の出現であり、人間業では到底理解することさえも叶わない「数の語り」である。
あなた方にはどうあっても信じられないであろう、なぜなら、信じるとなれば今まで培ってきた科学概念や数学的な概念が音を立てて崩れ去ってしまうからである。しかし、これらはまだ「神の数学」の「実証編」の一つであり、この上には更に「応用編」と題して信じられないような様々な「神の業」が数によって披露され、語られているのである。まさにすべては超ド級の数の語る「神の秘密物語」と言ってもいいものである。
要するに、「神の数学」には果てがない、限りがないと言うことである。それはすなわち、それはまた、人間知はどうして未だ未熟、幼稚であり、自然の知(神の知)には到底及びのつかないことと相通じるものであろう。
ここで一つこの「宇宙次元原理表」の新しい顔を紹介しょう、それが「神」に通じる道であり、また人間知を一段とレベル・アップする一つの処方箋としても甚だ有効なものでもある。現代文明知はこれを学ぶことにより今の「神無し科学」がだんだん「神在り科学」に変わってゆくのは間違いないことであろう。なんせ、「神の存在」を持ち出さない限り、自然の持つ自然象と言うものは一切解けないのである。
〔1〕「宇宙次元原理表(ひふみ九九算)」の神の秘密とは…!!
さあ、それらの「求めあっている数(神の定数)」を探し出して結び上げ、そして完璧なものにまとめてもらいたい、果たしてどのような奇蹟が生じ、すべてはどのように展開して丸く納まるのであろうか…!!?。 まさにこれは人知の向こうにある「神のはかりごと」と言うものである。
大自然(宇宙意識)はこのようにその知のすべてを「数」と「図」に託し、すべてをまかせているのである。しかし、今まで人類の誰もそのことを知らない、「数」とは自分達が作り上げた知の概念であり、人間知以上のものは何も含まれてはいない、それ故に、「数」には余り重きを置かなかったのである。
何たる失態であり、何たることであろうか…!!。まさに歴史的時間の損失であり、本当の知の不在を招いた原因なのである、…!!。
それを知らなかったことが最大の「知の発展」を阻害した要因であり、あるべき自然知の存在を完全に押し隠したものである。恐らく、これからは「数」に重きを置くことになり、「数」にすべてを学ぶことが必要となることであろう。
〔2〕「宇宙次元原理表」の秘密を紐解く…!!
まず、図を対角線で二分割する。すると、その一つが「陰●」、他の一つが「陽○」という相反する性質≠持った二つの世界が現れる。それはちょうど磁石と同様、二つの極に相反する力が生じて互いに支え合っている現象とまったく同じものと考えてもいいものである。
その最大の違いとはモ−メントの進行方向がまったく逆相であると言うことだけである。
それは「相反しながら、しかも引き合い、求め合う」と言う自然の陰陽の象であり、磁石の性質や(+)(−)の電気の性質とまったく同一なものである。要するに、相対的な形の自然の性を常に帯持し、常に相対的な形で対持していると言うことである。すなわち、「陽」と「陰」は反発しながらも一心同体の形、無くてはならない対の関係で常に結ばれていると言うことである。
それは人間界でも同じであり、男と女の関係を見ればよく解るであろう。それとまったく同じような関係であると言うものである。常々男女は別々に固まっている状態持っているのであるが、その表の姿に反して、ひそかに通じあって和を作っていると言う裏の事実があると言うことである。
要するにそれが自然の趨勢であり、宇宙の相互作用の姿、すなわち、「陰」と「陽」のあるべき姿と言うものである。
それはいわば、一つの「宇宙の律」なのであり、永遠に存続するためにはどうしても必要なことなのである。それが「陰」と「陽」と言う互いに拮抗した姿と言うものである。
次に、その二つの世界、すなわちそこにあるべき対極世界が結ぶ相互関係を調べてみることにしよう。
この図は永遠に変わらない安定持続の為に、まずは全体的調和やバランスの存在が必要不可欠であることを示している。それはまさしく宇宙次元成立の基本態そのものであり、その基本構造を示しているものである。
要するに「調和とバランス」こそが、永遠なる存在を得るための条件」であると言うことを示すもので、恐らく、これもそのまま人間界にも通じるものであろう。そのあたりの次第を是非考えてほしい。要するに、我々人間も宇宙自然の一つの産物二過ぎないものと言うことである。
この事実を科学的に言えば、一つの陰の宇宙エネルギ−(数の流れ)」は「見える世界(正世界)」と「見えない世界(反世界)」を一巡して初めて定常値(同一値)の姿となり調和状態に納まるのであり、その上でもう一つの陽のエネルギ−も同じような過程を経て調和状態(定常値)となって納まり、そこでその二つは定則通りに結びついて完成(0)に至ることを示しているのである。
要するに、その完成の究極の姿(最大の9)とは永遠の姿であり、元型の姿である0になることであり、それはまた、初めの姿、始原の姿の無垢な状態、すなわち、0に還ることを意味するものである。すなわち、改めて元の0に戻って新たな再出発ラインに立つと言うことである。(9=0)
そのための調和とは「最小+最大は常に一定が必要」、すなわち、反比例関係にある状態なのである。
そのあたりを上に掲げた「ひふみ九九算表」対角線の数列を見ながら、一つ計算(加算)してほしい。 なお、この場合、先に述べたように、どうしてもこの場合、中心(対角線)は一つではなく、二つ必要と言うのはダブル処理=i陰と陽)と言う方法が必要となるのである。これは今までの人間知には無い手法である。 しかもそれは宇宙万象すべてに通じる「無くてはならない手法」である。 そのあたりもしっかり考えに入れて計算してもらいたい。
もし、このダブル処理℃阮@をおろそかにするか、または無視する場合は現代知は進むこともままならず、相変わらず、地をうろつくだけであり、決して、天に上る事は出来ないであろう。
この大切なダブル処理≠ニ言う手法が今までの人類の「理」にはまったく欠けているのであり、故に矛盾が多く、常に悩みや苦しみを抱えて呻吟しなければならないのである。そのあたりは何回も計算することにより、だんだんその仕組みが解って来るはずである。このダブル処理の理さえ解れば当然リインカーネーション(輪廻転生)の存在もあり得ることが十分に納得出来るのであり、悩みも半減するはずである。
要するに、今のところ、人間知と宇宙意識の持つ知の基本態にはずれがあってピタリとは合わず、それゆえに、どうあっても解けないと言うジレンマに陥いり、人々を苦しめているのである。それはすなわち、人間知は素直ではない、自然ではないと言うことに尽きるものであり、自然知とはまったく噛み合わない状態と言うことでもある。
考えてみると、何十億年という年月をかけて醸成され、練りに練られて完成に至った宇宙意識の叡知と、高々数千年しか経ていない我々の現代知ではどう見ても格が違う、レベルが異なるのは当然なことである。それを同等として扱っている限り、そこには差が生じて合わず、人間を永遠に苦しめ、悲哀が付きまとうのはこれまた当然なことであり、当たり前なことである。
それはいわば、認識の次元レベルが違うことであり、「完成」と「未完成」と言う大きな違いなのである。
それを知りたくば、次の《図2》を見てもら痛い。そこを丹念に調べるとよく解るであろう。
さあ、これから〔1〕「宇宙次元原理表」の秘密を紐解いて見よう、一つ検証をお願いしたい。
しっかりとその仕組みを見て、素直に考え、素直に心に写すことである。これらの「超仕組み」と「その存在」をしっかり考えることにより、
あなたの心は「神の存在」が必然的に必要であることに気がつくはずである。「神」、すなわち、『0』の存在こそが調和と安定をもたらし、
すべてをまとめ上げているのである。要するに、自然とは最初に「神」があってこそすべては成り立ち、また最後にも「神」が控えているから
すべてはうまく完結し、循環の道をまっとうしていると言うことである。そのあたりのことを是非心に置いて検証してほしいものである。
自然とは秩序と調和のある正しい循環により永遠を保ち、人間知は直線と言うものを通して無限、すなわち永遠を得ようとしているのである。
しかし、悲しいことに、人間知は永遠を得ることは叶わず、複雑と混沌の闇の中でもがいているだけである。何故なら、人間知の世界は「神」を置かないから、秩序と調和を保つことが出来ないのであり、有るのは不整合とランダムなアンチ自然の論理だけがまかり通っているだけである。
そのあたりのことをこれから提示する「数の仕組み」の物語から是非見取って欲しい。「自然の知」とは「人間知」よりも遥かに偉大であり、遥かな真実を語って止まないのである。そのことだけは決して忘れてはいけない、常に頭に置くことである。。
さあ、一数、一数節も見逃さず丁寧に加算することである。すると、すべての数列は3と言う共鳴数に変わり何ごとかを囁いているのである。
しかし、それを完全に解き放たない限り、その囁きの意味は解らない。すべては天網の数であり、それを洩らすことは自然を無視し、天の律をないがしろにすることと心得てほしい。そこにあるのは大いなる「天の仕組み」であり、「天の答」なのである。しっかりその事実をここで確認して欲しい。
最終的にあるのはすべて3の数である、しかし、その意味を解かなければ何にもならず、すべては無意味に終わるのである。要するに、この3が最終的には大きな意味を持つことになるのであるが、それを突き止めることが必要なのである。
さあ、そのあたりの真実、すなわち3と相対して大いなる究極の結(ムスビ)を極める数とは一体何であろうか…、そのあたりを楽しみながら考え、究極の答となるものを見出してもらいたい。すべてはすでに決まっている数であり、天則の数と言うものである。それを見出すことが必要なのである。
まさにそこにあるのは「天網恢恢、租にして漏らさず」の言葉通りのものである。その意味とは究極の結びの輪が完全に完了完成すれば、自ずからわかることになるはずである。それはまさに「神の輪(和)」の姿と言うものである
決して、おろそかにしてはならない、ここで心に銘じて置かなければ、すべてはうたかたの泡となって消えてしまい、「南珂の夢」で終わるのである。
別に難しいものではない、小学上級生か中学生でも十分に解ける「大いなる神」の心の問題であり、学の過不足、知識の多少などは一切関係ないものである。ただ、あなた方にはただ「神の存在」と言う観念を持とうとはしないから解けないのであり、あるべき真実がまったく見えないだけなのである。
いくら時間がかかってもいいではないか、神の心と同調して満足の境地に至る絶好のチャンスと心得て精一杯頑張ってもらいたい。
もっとハッキリさせよう、ここまでで半分の道のり、すなわち「陰」の筋道なのである。すると、あとの半分の「陽」の仕組みを見つけて、3と対となる数を見出し、確保しなければならないと言うことである。果たして、それはどこにあるのであろうか…?。どのようにして見出すことが出来るのか…!?。
さあ、直感と推理力を働かせて考えてもらいたい。果たして3と究極のパ−トナ−となる数とは一体何であろうか、さあ、心して探すがよい…??。
私は敢えて口は出さない、答を示すこともしない。これはあなた方の洞察力を養成するための問題であり、たゆまぬ努力とひるますに図に挑戦するためのテスタメント・テ−ブルなのである。何と言っても、あなたのたゆまぬ努力と一途なる心の有無こそが真実の世界へ導いてくれる唯一のものである。時間はいくらかかってもいいではないか。 一生は長いのである。心で納得するまで何回でも反芻し、調査、検討に精を出して貰いたい。
ひょっとすると、これは新たな秩序世界への扉になるものかも知れない。そして、その扉を開いて「新たな世界」への先導者となるのはあなたかも知れない、とにかく精一杯考察を進めて、そこにある「数のシステム」の一切を解き放ってもらいたい。これは今まで人類には明かされてはいなかった「数の秘物語」であり、神の心をまさぐることの出来る最大の武器と言うものである。
そう、その通りである、正方形には対角線は二つあるのである。 上記の答が「陰」であるならば、もう一つの答である「陽」の答があるはずである。まったく同じ要領、同じ道筋でそれを探し出し、あるべき最終的な数を求めることが必要なのである。それを求めることにより「陰」と「陽」の自然的な因縁の存在にあなたは気が付き、驚きと共に歓喜の声をあげる事になるのである。
「我はやったり、天地の因縁をほどいたり、自然の律の本体を見破ったり」と…!!。
また、それによりあなたは一層の信頼を「神の数学」に置くことになるはずである。と同時に「数」に対する畏敬の念も抱き、更には「神」の存在、「宇宙意識」の存在に気づくことになり、心の持ち方がガラッと変わってくるのはこれまた、当然な自然のなりゆきと心得るべきである。
さあ、この問題を完全に征服し、理解しない限り、ここにある大いなる「神の存在」の真実証を見出すことは叶わない、とにかく、あらゆる方面から攻略し、出来れば丸裸にしてもらいたい。
これら「宇宙次元原理表」や「神の法陣」には現代の科学者達が悩みに悩んでいる「宇宙の始め」、すなわち“宇宙の誕生”や“宇宙のマトリックス”さえも解き放つことが出来る可能性も秘めているかも知れない、また今までの人間知の限界を押し広げてくれるものかも知らない。とにかく、我を忘れて没頭するだけの価値があるものであり、それだけの収穫は十分にあるものである。
この「宇宙次元原理表」の後に続く「神の法陣」にこそ「神の存在」を明らかにする大いなる仕組みが組み込まれているものである。
それを極めるためにはどうしてもこの「宇宙次元原理表」を徹底的に学びその仕組みを理解することがどうしても必要なのである。何せ、「宇宙次元原理表」は「神の法陣」の解読の要となるものであり、そのためのテスタメント・テ−ブルと言ってもいいものである。
要するに、「宇宙次元原理表」が解ければ自然に「神の法陣」も解けると言うことであり、g同時に、「神の心」も見抜けると言うことである。
さあ、来月は「神の法陣」を徹底的に極め、「神」の存在を白昼の下に引っ張り出して見ようではないか…。
現代文明は「神無し文明」であり、「神」が存在しなくても物事はすべては順調に推移すると言う概念でここまで進んで来ているのである。果たしてそれは真実なのであろうか…?。自然に逆らって「種」を蒔いていると言う事実はないであろうか…!!?。
一方、「神の法陣」は物事のすべてに「神」を置いて調和を図らなければ必ず被行状態に陥り、完全に円満に欠ける状態になって何時かは滅び去ることを教えているのであるが、果たしてあなた方はそれを読み取ることが出来るであろうか…!!?。
果たして、どちらが本当の「現実世界」であり、「我々の世界」と言うものであろうか…!?。
恐らく次回がその天王山であり、恐らく「神」の存在、不存在の決着がつくことになるであろう。
我々の「自然世界」には「神」の作用があるから、万物は巧みな形と妙なる色彩の美しさを奏でて調和状態にあると言うのであろうか…!?。
それとも、「神」は存在しないが、万物には意思があり自己主張があるから、あのような独自の自然形態や色彩を持つに至ったと言うのであろうか…!?。すると動物や植物、あるいは山や川、鉱物にも意識があり、意思決定の心があるので現在のような素晴らしい姿や形、あるいは進化の過程を得ることになった言うことなのであろうか…?!。 果たして、その真実とは…?!。
まずは、ここにある「宇宙次元原理表」には「神」が顔を出していることを知ってもらいたい。我こそはと知に自信のある方はそれを探し出して、あるべき理論的な解明を施してもらいたい。すべては人類の未来のためであり、未来永劫に続く人類存続のためにである。
そうすることにより次回の「神」の探査行はスム−スに移行するのであり、それと共にあなたの知の能力は倍加状態になって膨れ上がって来るはずである。また、それにより、あなたの心にある色々な疑問が消え去り、新たな希望と期待が生まれて来て未来に結びつくことになるのである。
すべては神の心のままであり、すべては神の心と同調するか、否かにあるのである。素直な者はすぐにでも神の袖の中に入れるが、人間知に凝り固まった者達は永久に神の周りをうろうろするだけであり、ただただ神を求めて嘆息を漏らすだけである。
哀れなるかな、彼等は永遠に神を知ることは叶わず、「神」の姿を語ることも出来ないのである。
さあ、次回からは「神」の姿を求めて「神の法陣」の解明に入ってみようではないか…。
果たしてあなた方はそこで「神」に遭遇し、その正体を探り当てることが出来るであろうか。
それとも、心が余りにも頑是ないので、「神」の姿、形を捉える事が出来ないと言うことになるのであろうか…。それでも、せめて「神」の匂い、「神」の吐息くらいは確かめてもらいたいものである。
私も万全を期すためにも、これからすぐにでも起稿に入り、まとめ上げるつもりである。しかし、言葉で説明するのはかなり難題であり、少々途方に暮れて、自信を失いかけているのも事実である。なぜならば、あなた方の「神」の概念と真実の「神」の姿には余りにも隔たりがあり、似ても似つかないものだからである。それを言葉で表す、言葉で埋める、果たして不器用な私にそれが出来るのであろうか…?!。私はいぶかしむ…!?。
何せ、人類の歴史始まって以来の大きな命題に挑むのであり、それを解決して、人類をよりよい意識世界、自然にピッタリと沿った真実世界に導いて行かねばならないのである。そのためには毎日でも冷たい水垢離をとってでも頑張らなければまさに男がすたると言うものであり、ビックマウスと言われて笑いものになるだけである。それだけは御免蒙りたい、そのくらいのプライドはまだ十分にあるつもりである。
ひょっとすうと、ひっきょうのメモリアル・トピックとしてこれから永らく人々の口端に残り、心ある人々の対話や議論の中に残っていくものになるものかも知れない、一つの宇宙知のスタンダ−ド・ナンバ−としてこれから全人類の上に輝き、永遠の金字塔として歴史に名を残す「数の物語」になるものかも知れない。とにかく出来るだけ希望を持って懸命に頑張るだけであり、ただ己の心に対して十分にベストを尽くしたいと言う気持ちで一杯である。
(9月の証 完)
「神の数学」が語る「真実」と「その証明」
≪人類究極の望みである「神の存在」を明らかにする≫ [その2]
2012年10月 謹んで上載
さあ、今回は「神の存在」を明らかにしなければならない、それがあなた方との約束だからである。あなた方にその存在をハッキリとした形で見せながら、かつ「神」の正体を確かめてもらう、それが今回の最大の目的である。まさに、人類史上最も難しく困難な主題への挑戦であり、持てる知をフルに回転させて検証にあたらなければならないものである。これは現代科学知などではどうあっても歯が立たないものであり、どう考えてもおぼつかないものである。それだからと言ってこのままほうって置けば現代文明はこれ以上の進展を見ることが出来ず、どこかで破綻してしまう可能性がすこぶる大なのである。
まさに文明の岐路を左右する試金石とも言うべき重大な問題であり、未来を決めるものである。 あなた方にも一つ本気で考えてもらいたい。
それを証明すること、すなわち、「神の存在証明」があれば人類のすべては神の存在を心で納得し、荒廃した気持ちも休まることになるのである。 要するに、「神」が存在するから大自然のすべては巧く回って過不足なく完成を見せて永遠につながっているのであり、もし、「神」が無かったら秩序も調和も無く、すべては無秩序に陥り、混乱と破壊があるだけであることを知ることが必要なことなのである。
考えて見れば確かに、「神」が実在するからこそ、宇宙大自然は整然とした循環と調和のある動きをしているのであり、永遠なる秩序回路を整然とした姿で廻り回っているのである。それは「神」の下にある大自然の動きや、生きとし生けるものの生命活動の整然さ、その神妙な動きを見ればよく解るはずである。しかし、余りにも傲慢すぎ、自然をないがしろにする自己顕示欲が強すぎる人間達は、そんな些細で当たり前のことには何も目がいかない、気がつくこともないのである。しかし、どこかでは振り返ることが必要なのである。
自然のすべては秩序と調和を基本軸にして始原から始まり再び始原に還えっていく一つの循環経路を持って動いているのであり、その繰り返しが永遠につながり、それが廻り廻って永遠に繋がっているのである。それが永遠の息吹であり、大自然の果てしない呼吸、すなわち、永劫に変わることのない大きな宇宙大自然のリズムなのである。大きな目で見ると大自然は生きていると言うことであり、呼吸していると言うことである。
その事実を知らずして「神の存在証明」は語れない、いくら理屈や言葉を用いて格好よく捻りまわして講釈をしても「神の正体」を知ることは到底不可能なのである。今の限り、すなわち、現代知程度のものでは「神」の存在を見ることはとても不可能であり、望むことさえも無理なことなのである。
要するに、人間の知以上の存在であるものを限られた人間の言葉や思考をもって語ろうとしても、所詮は無理であり、はかない望みと言うことである。如何にせん、どのようにしても完全な説明は不可能であり、説明するための言葉、ボキャボラリ−の類さえも持ってはいないからである。
それゆえに昔から、うやむやの中に代々持ち越されて常に未来へと託され続けて来ているのである。
それはそうであろう、考えてみれば至極当然なことである。人間の知や理性、あるいは言葉等は人間の持つ想定知の範囲の内にあるものであり、決してその外にあるものではない。要するに、人間知の範囲の外にあるものは決して人間は知ることは出来ないのであり、語ることも出来ないのである。
また、言葉を変えて言えば、現代西洋科学は「神」を持たず、「神」の存在を否定することから始まっているものである。
ゆえに「神」の姿を求めようとしても探すことが出来ず、その正体も見出すことが出来ないのである。いわば、自己否定がすべてを壊し、不可能にしていると言うことである。
それが現代西洋科学文明の姿であり、いわば、自分で播いた種であり、自分で招いた宿命なのである。
要するに、「神無し文明」であるが故に「神」の存在を知ることは出来ないのであり、いくら頑張ってもその本当の姿を伺い知ることも出来ないと言うことである。そのジレンマ状態が過去から現代まで続いていると考えてもいいのである。このままでは決して解決することは叶わないと考えるべきである。
要するに、今になって「神」の存在をいくら言葉や理屈で証明しようとしても無理であり、いくら想像をたくましくしても、どうこねまわしてても「神」の正体を知ることは出来ないと言うことである。それは自縄自縛しながら、何とか動こうと図るようなものであり、理に合わないことを行なっているのである。
一言で言えば理に合わない、無理なことをしているから「神」を見いだせないと言うことであり、その姿も描けないと言うことである。
いくら現代西洋科学知をもって「神」を描こうとしても、その知の中からは「神」がすっぽりと抜け落ちているのであり、それゆえに、今ではその概念的な表現も出来ず、ただもがいて苦しんでいるだけである。挙句の果てには、余りにも複雑であるとか、混沌から成り立っているので一切は不明であると泣きごとを並べながら自らを弁明し、互いに慰め合っているのである。
なんせ、最初から「神は無い」として「神無し世界」を作って来て、それを基盤に自然の探究を進め、その下で歩んで来ているのである、その「神無し世界」のル−ルをもって、今になり、「神あり世界」を解明し、それをもって新たな世界を構築しようとしても所詮は無理なことなのである。
一方、あるべき大いなる自然知は「神」は存在するものとして、最初からその知の中に刷り込み済みになっているのである。だから、何時でも「神」を見ることが可能で、更にはその姿、本質でさえも描けるのである。しかも、面白いことに、すこぶる単純な形でしっかり臨在しているのが誰にも解り、しかも、その役割でさえもハッキリと目と心で確かめられる、それも自然の流れの中にである。
元来、日本人は昔から「神」と共に在り、「神の姿」を身辺に戴いて毎日を過ごして来ている。それをはっきりと示した内容を持っているのが古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」であり、その本体の「ひふみ九九数の歌」なのである。そこにはまごうことない「神の姿」が誰の目にもはっきりと描き出され、しかも、その働きの確かさをまざまざと見せつけているのである。それは僅か小学高学年、あるいは中学生にでもハッキリとその存在が判り、その仕組みや働きさえもハッキリとした形で理解が出来るのである。
ただしである、余りにも現代知に溺れ、見えないものを疑うような御仁にはその限りではない。何故なら、完全な明き盲の状態であり、はっきり見えるものさえ見えないような特殊な状態にあるからである。要するに、己の心にシッカリと扉を下ろし、見ることを拒んでいる、だから「見るもの」もまったく見えないと言う異常な状態にある、まさにそれなのである。
まずはそのような御仁の心は一旦解きほごしてから改めて「神の存在」を見つめ直すことから始めることが大切である。そのため「神の法陣」を紐解いて「神」の姿を見る前の練習エクササイズとしてもう一度「宇宙次元原理表」を再考察してハッキリとした「神」の存在とそこに存在する別の仕組みを解き放つことが必要と考え、何度でも飽きずトライすることである。それが心の修練であり、確固たる意志の現れを養成することになるものである。
そのために、今回もエクササイズとして、それらをもう一度手でなぞりながら改めて「神」の存在の検証に入りたいと思う。
要するに、すべては偶然とか、単なる数の偶然象ではないことを確認するための一つの確認証としてもう一度「ひふみ九九算表」を検めて改めて見ようと言うのである。それらが見事に貴方の心に納まってから、改めて「神」の心と姿が目に入ると言うことであり、それと同時に「神」の心があなたの中にシッカリと根を下ろすことにも繋がるものである。
恐らく、今のところ、あなた方は「数がものを言う」、「数が語る」などと言っても信じることは出来ないであろう。あなた方はただ「数」をこき使うだけであり、「数」に心があるなどとは誰一人夢にも思ってはいないはずである。ましてや、人間以上に「数」は「大自然の理」を知っているなどと言えばただ気狂い扱いにされるだけであり、ただただ愚か者と罵られるだけであろう。
要するに、人類全体の知がもう少し向上しない限り現段階では本当の理解は無理と言うことである。
次の事実を「ひふみ九九算の数図」によりシッカリ知って心で考えてほしい。すなわち、自然には何も無駄はない、すべてはなるようにしてなり、すべて自然の理のまま流れ流れて0(ゼロ)となり、自然の機構の中に収斂されてただ流れて行くだけであることを…。
所詮、欲に駆られた現代科学知をもって考えても駄目である、あくまで心の奥、魂の次元で考えなければならないのである。やがて、あなたはすべての目に見える動きは即、見えない動きを誘い一つの完成的状態になって鎮まっていくことに気がつくであろう。
それを示しているのがこの「宇宙次元原理表」、すなわち、「ひふみ九九算の数図」なのである。それは自然態の本当の姿を描いたものであり、永遠なるエネルギ−活動の絶えることにない根源原理の根本をゆくりなく語っているものである。
要するに、世の中には無駄な動きは何も無い、すべては何らかの意味を持って息づきながら連動していることを知るべきである。例えば、あなたの一呼吸、一動作さえも無駄なものではなく、間違いなく「見えない世界」と連動して一つの完成象となって昇華し、無限の大完成に至っているのである。その太極宇宙の仕組みをこの「ひふみ九九算表」がいみじくも語り、その真実を教えようとしているのである。
恐らく、これは科学で言う「エントロピ−の法則」につながるものであり、「自然宇宙」の本質法則を説明するものであろう。
今の科学は「エントロピ−は増大するだけであり、何時かはその増大の流れにすべては巻き込まれ、ただ崩壊するだけである」と言っている。それでは大自然はとっくの昔に崩壊し、姿、形は無くなっているはずである。しかし、それはしっかりと変わりない姿を今でも見せているではないか。要するに、その事実は人間の科学知には大きな誤りがあることを示しているものである。
ただし、科学者たちは付け加えている、この「エントロピ−」の法則が適用されるのは「形而下の世界」、すなわち物質と言う有限な世界のみに適用されるものであるとの但し書きをもって…。
その言葉が正しいものであるのはこの「数が語る自然世界の図」をみれば一目了然であろう。
この図は事象の背後には必ず驚くべき法則性が連ながり、二元の世界、すなわち、「形而上の世界」と「形而下の世界」が相対的な形で存在していることを教えているものである。そのあたりを深く考えてもらいたいと思う。それが自然の姿であり、存在している本当の形なのである。
この法則性を紐解けば宇宙自然には因果の法則が間違いなく存在し、結果を結びながら歩んでいることが解り、常にゆくりなくその歩を踏んでやまないことが解る。ただし、それは自然数学的な知を追って自然事象の正しい方程式を見出した人々にだけ解るものなのである。
別に難しいものではない、素直な心と目覚めようとする気持ちがあれば誰にでも可能であり、、例え子供にでも十分に可能なものである。
今回は鏡面対称数列と言う聞き慣れない言葉が出て来ている。それは数列の真ん中を対称にして両側、すなわち右と左に同じ数が並んでいるものである。恐らく、現代数学では今のところ鏡面対称数列に関しては何も見出してはいない、いや、そのような言葉さえも無いと言うべきかも知れない。 これは恐らく、「メタ自然数学」のテレトリ−あたりに属するものと言ってもいいであろう。
しかし、大自然を相手にして深く語り合う場合にはこの「鏡面対称数列」がどうしても必要となり、ましてやその心を垣間見るためには必要欠くべからざるものである。その証(あかし)、証拠となるものが、遥か古代では「神」を表す言葉には必ず鏡面対称的(シンメトリ−)な名前をつけて共に敬い、共に祈りを捧げていたと言う事実である。それを明かしているのが、神代の神々の名前であり、そこにあるシンメトリ−な神の名前である。願わくば、そこにある由緒、起源を見出してその理由を尋ねて見ることである。超古代の歴史文書にはそのあたりの古代の知の結晶が数多く眠っているはずである。
しかし、あなた方はそんなことは何も知らない、何も教えられてはいないはずである。自分で探し、自分の手で真相を見いださなければならないのである。それが一番の近道であり、確実な方法である。そもそも、そこにはどのような真実が人知れず眠っているのであろうか…!?。
今の神道家達はそのあたりの事情、すなわち古の神の名はシンメトリ−であると承知はしているようであるが、なぜかその真実の如何をを解き明かすことが出来なかったようである。なぜならば、彼等は神代の時代まで踏み込むことを拒み、神代と言う時代を完全に排除してしまったからである。
例えば、日本の最初の神様の名前である、その神の名は「天の中主神」と言う究極の神であり、その歴史書には一回限りの登場だけである。その名前は天、中、主の字が示すようにすべての文字は鏡面対称性を持っているのである。
しかも、その意味は天の中央におわす最も大切な神との意味である。そしてその両側に侍(はべ)るのが 「高御産巣日」の神と「神産巣日」の神の二神である。また、これらの神々の名もシンメトリ−性の文字を多分に持っていることに注意してもらいたい。
探すがよい、シンメトリ−の名を持つ古代の神々はゴロゴロと転がっていて、枚挙にいとまがないくらいである。それは時代を経るごとにどんどん少なくなって来ているのである。要するに、そこには何らかの大きな民族的変化があったことが察せられるのである。
神話では特にこの三神を造化三神、すなわち、神々を生み出す母神と呼んで敬っていたのである。なぜか、古い時代には、多くの神々に対して鏡面対称文字で表された名前がつけられ、信仰の対象とされていたのである…!!。その理由とは一体何故なのであろうか…!!。
要するに、申し上げたいのは「天の中主の神」こそが、この「宇宙次元原理表」の二つの世界の境界を示す対角線場であり、すべてはこのシンメトリ−に分け隔てる中心点(軸)から始まってと言うことである。また、次の二神である「高御産巣日」の神と「神産巣日」の神とは対角線で上下に分けられた「陰の場」と「陽の場」の二つの場の神々であり、鏡面対称位置にありながら、しかも自分自身でも鏡面対称性を持っているのである。それらの秘密は恐らくこの対称数列にあるのではなかろうか…!?。
よく見るがよい、これら「陰の場」と「陽の場」を結ぶことにより次々と純正な神々が生まれてくることを…。それはまさに「産」の文字通りのものであり、次々と生み出されたと言うことである。このメタファ−的な表現こそは古代人の知の深さを示す証(あかし)と言ってもいいであろう。
また、そこにある産巣の字の意味を見るがよい、まさに、その二つの場は産みだす巣、すなわち、精子と卵子が合一する場の意味を持つ文字であり、「子宮的な場」であることを示しているものである。それが高天原と呼ばれる宇宙次元を表している「ひふみ九九算表」の本当の姿なのである。
この図の「陰」と「陽」の場を結ぶラインを見るがよい、すべては神託性を持つ妙なる調べを持つものであることが判るであろう。
図[A]
さあ、この表「宇宙次元原理表」を見て、目と手を用いて無心になぞるがよい、そうすることによりあなたは古神道が描き出す日本の「神の心」のすべてを悟ることが出来て、「神」の存在そのものを信じて止まないことになるはずである。全てのいきさつが段々に判ってくることになるはずである。
ここには神(0)が存在しているからすべてはうまく、そして過不足もなく巡り巡っていることが描かれているまことに貴重な図である。
その意味が判らない御仁は繰り返し何回でも円の線をまさぐるがよい。判るまで何回も何回も辿ることである。そうすることにより、0(神)が存在しなければこの円循環は決して成り立たないことが解るであろう。この0(神)の存在を認めていない故に現代の西洋科学知は混乱と複雑に支配され、挙句の果てには混沌とかカオスなどの言葉を持ち出すことになっているのである。神の存在を認めればすべてはピシャット割り切れて苦悩は無くなるのである。いわゆる、人間の病や心の歪みも神の存在を認めることにより軽減されるのであるが、そのことは誰も知らない、誰も考えようとはしない…。
人間にはその「神の存在」の取り掛かりとなるようなものが必要であり、そのための立派な証拠、存在証拠となるものが必要なのである。
それを求める手段として人間は科学を生み、哲学を育て、神学を作り上げたのである。ところが、その3者は心ない者たちによって占拠され、お互いにお山の大将を争う羽目になり、その結果、今では科学が優勢を極めついには哲学は消え去り、神学は下手に立たされなぶられている有様である。本来はお互いに手を携えて進まない限り、目的には達せないはずなのであるが…。
この「宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)」の対角線を境にして上部は「陰(形而上)の世界」下部は「陽(形而下)の世界」の存在を示している。要するに、その二つの世界はエネルギ−の流れが逆になっている、お互いに逆向きと言う相関関係を持っていることに気がつかなければならないのである。是非、それらの仕組みを調べることである。流れの正と逆を結ぶことによりすべては完成され、本質は0となって鎮まるのである。
<不明の場合は前回9月分の(図1)、(図2)を併読してほしい>
さあ、そこでこの二つの世界を流れる「陰のエネルギ−」と「陽のエネルギ−」を結びつけてエネルギ−を安定させ、リニュ−アル化させる(0になる)のである。 その事実を学ぶことにより、あなたは本当の自然の仕組みを知ることが出来るのである。そこには決してランダムや乱調などは無く、常に秩序と調和が整然として存在し、永遠を謳歌していることを…!。 それが「神の御業」、「神の妙手の業」と言うものであり、自然宇宙をくまなく律しているものである。
少々そのあたりの内容を見聞することにより、自然真実の偉大さを実感し、天を仰いで嘆息するがよい、その上で己の知の貧しさを嘆き、その上で新たなる知の再生を図ることである。まだまだ、先は長い、真実の知は常にあなたの手の届くところにあり、あなたを待っていることを知っていてほしい。
まずはそこにある計算式をまずはお目にかけることにしよう。何回でも納得するまでなぞって反芻を繰り返すがよい。
図[B] 右上がり対角線に沿った鏡面対称数列である図[A]を解く
@ |
0 + 0 8 5 0 2 2 0 5 8 0 |
|
|
↓ v v v v v v v v v |
|||
無 8 6 4 2 0 7 5 3 1 ……→ |
|||
A |
0 0 + 0 7 3 6 7 6 3 7 0 |
|
|
v v v v v v v v v |
|||
0 7 5 3 1 8 6 4 2 ……→ |
|||
B |
0 1 0 + 0 6 1 3 3 1 6 0 |
|
|
v v v v v v v v v |
|||
1 8 6 4 2 0 7 5 3 ……→ |
|||
C |
0 2 2 0 + 0 5 8 0 8 5 0 |
|
|
v v v v v v v v v |
|||
2 0 7 5 3 1 8 6 4 ……→ |
|||
D |
0 3 4 3 0 + 0 4 6 6 4 0 |
|
|
v v v v v v v v v |
|||
3 1 8 6 4 2 0 7 5 ……→ |
|||
E |
0 4 6 6 4 0 + 0 3 4 3 0 |
|
|
v v v v v v v v v |
|||
4 2 0 7 5 3 1 8 6……→ |
|||
F |
0 5 8 0 8 5 0 + 0 2 2 0 |
|
|
v v v v v v v v v |
|||
5 3 1 8 6 4 2 0 7 ……→ |
|||
G |
0 6 1 3 3 1 6 0 + 0 1 0 |
|
|
v v v v v v v v v |
|||
6 4 2 0 7 5 3 1 8 ……→ |
|||
H |
0 7 3 6 7 6 3 7 0 + 0 0 |
|
|
v v v v v v v v v |
|||
7 5 3 1 8 6 4 2 0………→ |
|||
I |
0 8 5 0 2 2 0 5 8 0 + 0 |
|
|
v v v v v v v v v ↓ |
|||
8 6 4 2 0 7 5 3 1 無……→ |
<これらについての詳細は「宇宙次元原理」No22、No23を参照のこと>
何と言うことであろうか、すべてを秩序ある連結に結ぶとすべてが0と言う本質を見せて鎮まるのである…!!!。
そんな馬鹿なとは言わずに、ここにある循環の輪線を自分の目と手でなぞってみるがよい。すると、ここにあるすべての数列は驚くべき真実性を持ってあなたの心に迫って来て、あなたにいろいろと深い真実の姿を見せ、全ての事実を教えてくれるはずである。
見るがいい、知るがいい、これは完全な規則性と共に大変美しい調和と大自然のリズムがある希有な「数の図」の姿であることを…!。
このようにして大自然のエネルギ−は常に「陰」と「陽」を巡り巡って完全な昇華を果たしながら、永遠に流れ流れて尽きないのである。
この図は宇宙自然次元の縮図モデル、すなわち、その構造縮図であり、磨かれて磨かれて出来あがった宇宙次元の究極の姿なのである。
<もう何回も説明しているのであるが記号Vの意味は右の数から左の数を引き算すると言うこと、あるいはその逆と言うことである。ただし、「神算法」と言う自然的計算法を用いなければならない、何故なら人間の用いている10進法は自然の計算法ではない、すなわち、自然にはマイナス数と言う概念は一切ないからである。マイナス数とは現代数学の用いている詭弁の数、偽りの数である。現代数学にマイナス数や虚数がある限り、自然とこのように語りあうことは出来ないと考えてほしい。そんなものは自然には一切無いのであり、まったく不用なものである。>
図[B]の解説
(1)
御覧のように現れて来た答の数を合計(Σ)すると、すべては36になり0になるのである。0とは本質が0を意味し、どのような変化にも対応が可能になるものと言うことである。要するに、どのようにでも転化、進展が出来るまさに有機的な存在と言えるものである。
また、「陰」と「陽」の数を見ると、何と言うこと、そこに現れた数列とはすべて原図である「宇宙次元原理表」の中の数列そのままの姿であると言う驚くべき事態を呈していることが解る。 それにしても、何と神妙で不可思議極まりない数の出現なのであろうか…!!。
要するに、これらは同一の数列が左回りの姿(陰の姿)でぐるぐる回って循環し、無限循環を繰り返していることを示しているものである。 要するに、進展度に従い次々と回転し、循環しているていると言うことである。要するに、数図の上半分は左回りの姿で回転し、下の半分は逆に、右回りの姿で回転しているといことである。そのことは数を追って行けば誰にでも解るはずである、
(2)
ここで加算した二つの「陰の鏡面対称数列」と「陽の鏡面対称数列」の関係は甚だ不思議な関係であり、どちらを後、先にもっていってもピタリとつながる不思議な関係にある。その結果と計算法は図(B)をよく見ればよく解るはずである。@とI、AとH、BとG、CとD、の関係をよく見てほしい、すべてそれらの二つの数列の関係は完全な前後性を持っていることに気づくであろう。要するに、それぞれが前後を変えてつなげても、そこにある数列の姿は一切崩れない、同一の秩序や同調関係を何時でも保っていると言うことである。何と不思議な光景であろうか…!!!。
(3)
同じようにここに現れた縦数列の最初の一桁目を見るがよい、そこには8012345678となる自然数が姿を見せている。その両端の数8を重ねてカミムスビを行えば、そこには012345678となる循環帯となって永久に鎮まるのである。2番目の数は6780123456であり、同じようにカミムスビすると780123456となり、まったく同じ012345678の循環帯であることが解るのである。
要するに、すべてはまったく同じ循環帯012345678の姿であり、同一循環数列が右回りの姿(陽の姿)でぐるぐると循環回転しているものである。一体、その姿は何を示唆しているのであろうか…!!??。
(4)
ここにある鏡面対称数列の本質姿、及びその可逆性を見てみよう、その例として「右上がり対角線数列」と「左上がりの対角線数列」を挙げてそれぞれの計算を施して見ることにする。
鏡面対称数列の可逆性とは……?!。
[1] 0850220580 …… 右上がり対角線数列を例に…。
(@) 0 8 5 0 2 2 0 5 8 0 ……この場合、(右数から左数を引く)
∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨
8 6 4 2 0 7 5 3 1 ……本質数(宇宙次元原理表8段目の数列)
(A) 0 8 5 0 2 2 0 5 8 0 ……この場合、(左数から右数を引く)
∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨
1 3 5 7 0 2 4 6 8 ……本質数(宇宙次元原理表3段目の数列)
[2] 0140770410…… 右下がり対角線数列を例に…。
(@) 0 1 4 0 7 7 0 4 1 0 ……この場合、(右数から左数を引く)
∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨
1 3 5 7 0 2 4 6 8 ……本質数(宇宙次元原理表3段目の数列)
(A) 0 1 4 0 7 7 0 4 1 0 ……この場合、(左数から右数を引く)
∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨ ∨
8 6 4 2 0 7 5 3 1 ……本質数(宇宙次元原理表8段目の数列)
@ 上記の数列計算を楽しみながら「自然の計算法」を十分にマスタ−してほしい…!!。
そこにはマイナス数や虚数の姿などは一切無い、それらは人間が作った虚偽の数であり、自然にはまったく必要がないものなのである。<計算参考理は0=9,1+8=9,2+7=9、3+6=9、4+5=9、 ∵(よって) −1=8、−2=7、−3=6、−4=5、となるのである。 >
A また、対角線数列であるA=0850220580とB=0140770410の二つの対角線数列は姿、形こそまったく異なるものであるが本質は同じものであることがよく解るであろう。要するに、互いに逆構造関係に成っているだけと言うことである。何と、「陰」と「陽」の相関関係とはすなわち、相対的には逆向きの関係であると言っているのである。この二つの対角線数列がまったく同じと言う証明式がA−B=0となるものである。
さあ、腕に自信のある御仁は見事この証明式を完成させるがよい。小、中学生の頭脳があれば解決する問題であるが、学者には無理であろう。
要するに、何事も見かけだけで判断してはいけない、その心を見なければ判らないと言う自然の教えがそこにあるのである。
すなわち、これら二つの対角線数列の姿は相対的なリアリテイを持つこ完全に異なった姿であるが、そこには絶対的な本質の姿が秘隠され、しかも密接な相関関係にあることを囁いているのである。今の我々は相対的なリアリテイの姿を見てそれを解き放とうと懸命に努力しているのであり、本質の存在にはまだ気がついてはいない、すなわち、表面だけを見て追及し、それで満足し、了としていると言うことである。
それが我々人間の性(サガ)であり、これから日常生活の上でも改めていかなければならないものである。
要するに、人を見るにも外見に騙されず、その本質、すなわち心を見ることが必要と言うことであり、それが本当の正しい見方なのである。
さあ、知に満ち、知に溢れている知の秀者(すぐれもの)達よ、願わくば、そこにあるもう一つの対角線に沿った鏡面対称数列群[B]の存在に注目し、まったく同じ計算形式をもつてその意義内容を解き放って見てほしい。 さあ、これは「神」の心を読むための問題であり、そのための貴重な例題とも言うべきものである。
すると「答の数図」としては[A]の答数図とまったく同じような数図が再び飛び出して来ていろいろと教えてくれるはずである。
ただしそれは[A]の対角線と[B]の対角線は完全に90度差の対称的な姿、すなわち、(陰と陽)を持ち、そのふたつを重ねるとすべては99999…になる言っている。 それと全く同じように、[A]の「対角線群の答の数図」と[B]の「対角線群の答の数図」を重ねれば全体が99999…の数字で埋まってしまい、すべては0に変わってしまうのである。それはすなわち、[A]と[B]の数図は完全なる「陰」と「陽」の関係にあることを示しているものである。
同時に、その事実は図全体の本質が0となり、無になると言う素晴らしい数の語りを示していることに気がついて欲しい。
何たる、不思議な光景であり、 何たる神妙な神業を示している図なのであろうか…!!。ただただ感激にむせぶだけである。
何と言う「自然の超知」の存在を語る「数の語り」なのであろうか…!、到底信じられないものである。
是非そのあたりを十分に検証して「神の数学」、すなわち、自然数学の面白さを知って欲しい。
<これらについての詳細は「宇宙次元原理」No22及びNo23を参照してほしい。>
このように、数列「大」に対してそれに相対秩序もつ数列「小」が対応して調和状態に仕上げる、それが自然の象であり、自然の律と言うものである。その結果として「本質0」が生じて昇華復元する、すなわち積み上げたエントロピ−をすべて中和して初源に戻り、改めて新しいスタ−トラインに立つことが可能になるのである。その仕組みの存在をこの図で数が語っているのである。要するに大自然宇宙は比例関係で成り立っているのではなく、反比例関係で成り立ち、その流れが全体を秩序よく作り上げ、完全な調和状態に仕上げていると言っているのである。
これがすなわち、大宇宙自然の基本となる法則であり、我々の宇宙自然も当然それに従っているのである。
そうするとすべてがハッキリと判り、明るみに出て来るのである…!!!。
この事実はすなわち、最小基本体である原子がそのまま大きな宇宙とつながって常に共鳴状態にあること、また、それは同時に我々の心の響き(リズム)がそのまま宇宙のリズム(ゆらぎ)とつながって共鳴状態にあることさえも示唆し、教えているのである。
この図を読めばその事実が誰にでも理解出来るのであり、納得のいくものであろう。これが自然の仕組み作用の図であり、本来のあるべき姿なのである。ただ、人間だけがそれを知らずに、己の知を誇る余り、あたりかまわず闇雲に突進し、その結果、複雑系だの、カオスだのと言って自己弁護に走っているのである。複雑やカオスからは決して秩序や同調共鳴などが生まれて来ることはない。また、同じように、秩序や同調からは決して複雑やカオスなどが生じては来ることはないことを知らなければならない。
自然はすべてミクロの持つ法則や本質を基本規範として成り立っているので、けっしてマクロな宇宙を規範を模して造られているのではない、この図がそれを高々と歌っているのである。そのあたりの真実をこの図からしっかり学び取ってほしい。
そのような見地から見ると、現在物議をかもしているアインシタインの相対性原理の「物体の速度が光に近づけば近づくほどその物体の質量は無限大になる。故にいかなる物体も決して光の速度を超えることはできない」の論証にも決着がつくはずである。 その場合、光の速度を大になると見るか小になると見るかが問題なのである。もし光の速度を大と見れば。物体は限りなく小になるのであり、光の速度が小になる、すなわち、時間的に小とものと見れば、物体は限りなく無限に大きくなるのである。要するに、すなわち、光の速度になることを速度時間の収縮、あるいは空間単位の縮小と考え、その本質を小と見るかである。それを小と見れば物体は限りなく大きくなると言うことである。また、速度が光の速度になることを速度大と見れば物体は無限に小さく縮小することになるのである。なぜならば、宇宙自然においては相対的な関係にあるものはすべて反比例関係で成り立っていることを「数」は示しているからである。今の皆さんの解釈法で言えば、アインシタインの相対性原理では光の速度と物体の質量は比例関係が成立しているのである。
現在のように、速度が光の速度を越えれば物質は無限大になると言うことは矛盾も甚だしい。現在宇宙の彼方から地球を目指して飛んで来て地球を貫いて飛び去る微小粒子群(二ユ−トリノ、その他)はすべて光に近い速度で飛んで来る、もし、アインシタインの理論が正しければ地球などはとうの昔にビック・クラッシュ(大衝突)に遭って粉々になって影も形も無いはずである。なぜならば、光速で飛んでくる微小粒子群は質量が無限に大きくなっているからである。
あなた方も、どちらが正しいのかを十分に検証して貴方としての結論を出して見てほしい…!!。
これらの図はまだ何かを語りかけているのであるが、凡な私の脳ではもはや聞くことも叶わない、ままならないのである。余りにも老いさらばえて知の自在性,伸縮性を失いかけているのである。もはや限界であり、これ以上の新たな「神の学」、「神の知」を見出すことは諦めなければならない。
それほど思考力に限界を感じている今日この頃を見れば判ろうというものであり、いたく自分に失望している現在を見れば自然に判るのである。
せめてこれまでに学び終えた「神の学」と自分で解析した「神の知」を世の中に残し、本当の自然真実を知ろうとする若者達の為に少しでも役立ちたいと今は考えるだけである。
まだまだ道は半ばの状態であり、本格的な論旨に突入するのはこれからである。全体的に見れば、まだ道中は20%くらいであろうか…、まだまだ資料はうず高く積まれたままである。ただただ使命感と積念の思いが頭の中によぎって止まないだけである。それが悲しく、残念であり、無常感と使命感が入り乱れてわが身を間断なく責め上げている現在である。
今の状態はまさに「日は暮れて、道遠し」の状態であり、ただただ途方に暮れているのが偽らぬ実情である。毎日が時間と心との葛藤の連続であり、無情な時間の経過がただただ恨めしく思えるだけである。
まだまだあなた方に知らせておかなければならないものは山ほどある、書き記さなければならないことは海ほどあるのだが、ただただ空しく時間が過ぎ去る恨みが残るだけである。 一体、あと、どのくらい続くやら…?!。
まことに「数」の語りは面白い、それを裏返せば我々人間の「学」は余りにも平々坦々であり、全体的には抑揚や刺激を欠いて面白さが全く無いと言うことであろう。今、日本の子供たちの数学能力はすこぶる低下しているが、原因はそのあたりにあるのかもしれない。何しろ、「数の語り」はただ数学に限ることなく、一般物理や宇宙物理、あるいは哲学、神学などの全般に及んで尽きることがないのである。まさに、それは一理を知れば全理に及ぶのと言えるものである。さあ、若者諸君、1を知って10を悟ろうではないか…、それが「神の数学」では可能なのである。
その点、大自然は偉大であり、その内容は変化に富み、ただただ驚かされるだけである。それと同じようにその真実を語る「数」もまた、基本軸はまったく変わらないままで千変万化しながら変幻自在に流れて「真実物語」の絵巻を滔々と繰り広げているのである。そこには決して矛盾や不整合などは無く、あるのはただただ自然に沿って流れるたゆみない真実の尽きない流れであり、永遠に流れて止まない知の回路の姿があるだけである。
それは確かに今の人間知、いわゆる常識知などでは少々理解に苦しむような驚くべき自然の姿を垣間見せて流れる本流であり、到底、人間知などは歯が立たない強烈さを持って流れているものである。しかも、それはどうあっても、今までの人間知ではどうしても理解できない恒久の尽きない流れを持つ真理なのである。
要するに、それは今までの人間知サイドの基本に誤りがあり、正常な流れではなかったことを示しているものであり、本物では無かったと言うことである。 それらをこれから糺しながら、少しづつ語っていかなければならない、それが私の使命なのである。果たして、理解してくれるであろうか…?!。
すべてはエネルギ−は「見える世界「と「見えない世界」をめぐって初めて正常な活動形態を果たしているのである。
言葉を変えれば、これら二つの形状形態を経過することにより、あるいは循環することによりそれまでの偏ったエントロピ−状態がプラス・マイナス0の状態にに是正され、元のまっさらな状態(0)に還ると言うことなのである。要するに、易しく言えば、「プラスの世界」の本質と「マイナスの世界」の本質を合一、すなわち、それらを併せ持つことにより、本質0が生まれて、新たな出発がスタ−トすることになると言うことである。
もう一つ言って置きたいことがある。それは「宇宙次元原理表(ひふみ九九算)」の対角線に沿った数列群はご覧の通り、すべては強烈な鏡面対称数列であり、それは未だ人類の知らない大きな秘密を秘めているもの」であると言うことである。。 恐らくそれは現代人が初めて対面する「メタ自然数学」と言うものであろう。今まで、誰もこのような鏡面対称数列の存在には気がつかず、その存在やその意義などについて言及した者は誰も居なかったのである。そのすべてはここから始まるのであり、今からスタ−トすることになるのである。
学者達にとってはまさに寝耳に水というものであろう。出来るだけ検証を急いでもらわなければならない。何故ならば、この鏡面対称数列の持つ意味が解明された暁には人類文明と自然は手を取り合って歩み、未来を分かち合うことが出来ることになるはずだからである。これら「鏡面対称数列」の性質、及びそこにある大きな潜在的な意味等についての考察はこれから現代数学でも取り上げるであろうし、これから興味を持って調査、検証する者も徐々に増えていくことでもあろう。 ただただそれを期待するだけである。
すべてはこれから始まる未来の「超(メタ)数学」であり、自然が語る本当の「数の明かす理」なのである。我々がこれから自然の語りを理解し、共同歩調をとるためにどうしても必要な対話言葉、それがすなわち、このナンバ−スタイル・ダイヤログ(数の語り)なのである。「数の語り」が表す真実こそ宇宙意識の心の表れそのものであり、まさにそれを代弁するものと言っても決して過言ではない。それだけは強調して置きたい。
現在、日本は自然との共生、自然的循環態の必要性を旗印に、自然と共に歩むことの大切さを率先して世界に示そうとしている最中であるが、それにはどうしても自然の心を読み込み、そこにある本質を知る必要があるのである。それを知らずに自然の心を説こうとしても所詮は無理なのである。
まさにその事実の存在を日本の「古神道」は教え、その真実を諭(さと)そうとしているのであり、我々はそれを知らなければならないのである。
その意味を込めてこの「神の数学」を学び、「数」の語る自然の心を懸命に心を込めて修めてもらいたいものである。これは現代数学の頚木(くびき)からあなたを解き放ち、「真実の数学」の存在を垣間見せてくれる唯一のものである。そこにある巧妙自在な「数の走り」と間断なく続く「数の真実性」のめくりめくる現れにはただただ驚嘆と畏怖を感じるだけであり、ただ、ただ身が引き締まる思いをするだけである。
果たして遥か遠い過去に誰がこのような驚くべき「数が囁く自然の超知」を見出し、古神道の最奥儀として冒頭に祭り、遥かな未来に残そうとしたのであろうか…?。それは現実に数千年にわたり引き継がれ現代にその「真実の姿」を再び甦ろうとしているのである。
その意図がおぼろげながら解りかけてきているのである。 果たしてそこにある真意、本義とは一体何であろうか…!?。
最後に、今回、果たそうとして果たせなかった「神の法陣」を次回こそは間違いなく順序たてて解き明かすことを約束したい。
(10月の証) 完
「神の数学」が語る「真実」と「その証明」
≪人類究極の望みである「神の存在」を明らかにする≫ [その3]
2012年11月 謹んで上載
これからここに記すものは「神の姿」と「その存在」を明かすもの、すなわち、全人類待望の「神の論証」とも言うべき数の語りであり、人類が初めて手にする「神の存在証」言っていいものである。これらの「超知」はすべて日本が発祥の地であり、古神道の中から現れるべくして現れた神授の「数の物語」である。心ある人だけでよい、静かに心を傾けて「数の語り」を聞いて欲しいものである。
これは一つの預言的存在と考えてもらいたい、すなわち、人間の手になるものではなく、一つの啓示的なもの、人間知の外、または上部にある知の存在を第三者的な視点で見なければならないものである。それは「神」の所有物を一時的に私が借りて公開しているものと考えてもいいである。
皆さんは予言と預言を混同しているように見受けられるが、この二つは全くべつのものである。予言とは未来のことを人間が予測して話すことであり、預言とは神の言葉を受けてそのまま取り継ぐことである。すなわち、それは神託と呼ばれるものと同じものと考えてもいいであろう。
それからするとこれ、この「神の数学」は恐らく、預言と呼ぶべきものであり、神授の「数による預言物語」であろう。
なぜならば、それらの知は線形的に少しづつ与えられ学習したものではなく、突然時間が止まり、その瞬間非線形的な形で一つの塊となって頭の中に落ちてきて焼き付けられたような感じのものだからである。それはまさに一瞬であり、自分の意識等は何も関係無く、あれよあれよと言う間にである。 改めて思い起こすとそれは一種の「知の憑き物」と言ってもいいものかもしれない。
とにかく、これらを一旦人に話すか、それとも文章に起こせばそれですっかり頭の中は空になり、無となって何も残ってはいないのである。要するに、パソコンの手法で言えば頭の中の内容をコピ−するのではなく、切り取ってしまうことと同じこと、それが一番適切な言い回しと言えるものである。
だから、今、記している「神の数学」の内容は、あらかじめ初めに記載して置いた資料を見ながら、その上頭をひねりながら改めて考え、書き写しているものであると承知して欲しい。
現在、ぼんやりとした形で頭の中にそれらの内容があるが、これは何回も資料を見ている中に覚えた資料の残像あたりであろう。何故なら、そこには最初の強烈さがまったく無く、ただ貧弱な内容映像がただぼっと広がっているだけであるからである。
何せ、今でも資料を読む度に、その記載事に心が興奮し、体がわななく思いがするのである。その上、それら資料内容の驚くべき事実の存在にただ感心し、陶酔状態になってしまうのである。今でも、思う、一体あの時何があったのであろうかと…?。
何せ、「神の数学」は最初から最後までは二千数百ぺ−ジ以上、最も分厚い辞書である「広辞苑」と肩を並べるものである。それを資料にまとめるためには時間にして約10年近くかかり、それをまた、協力を申し出てくれたある編集者の下で校正清書し、図案化、チャ−ト化して新しい資料とするにはまた2年以上要した次第である。
今は殆ど、私の頭の中には新しいものは何も残ってはいない、なぜならば、もう少し何かを書き残して置きたいと思い、筆を取ろうとするが一向に進まず、脳は完全に抜け殻、腑抜けの状態を見せているのである。
それがもう何年も続いていて、何時も同じ結果に終わるのである。そこで最近は頭の中には何も残ってはいない空と判断し、一切手をつけることはない。もう、すでに数年にもなる。
また面白いことに、書き写しながらしきりに感動して涙を流している自分があるのである。何と全く第三者的な感動に浸っている自分を見出して、また新たな感動に震えながら筆を進めている状態なのである。
その度に、こんな不思議な数の語りが果たして在るのであろうかと自問自答しながら改めて資料の内容を検討し、再計算をしながら確かめている次第である。どうもそのあたりは我ながらまことに不本意で、不甲斐ない状態と感じているのであるが…。
さあ、今回は急いで記さなければならない、前置きはこのくらいにして本題に入ろう。
今回、あなた方には「神の存在」を己の目で確かめながら、その内容次第を自らの目と手で追い結果を自分の心で確認すると言う大技を奮ってもらわなければならない。それがいわゆる自己確認である、そこで、これらのすべては自己検証性を持っていることをあなたは知ることになるのである。
なぜならば、その後は少々数を見るだけでこれらの真偽が確かめられ、主観的な確認が出来つからである。
これから「神の法陣」の説明に入るのであるが、その前に一つだけ念を押して置きたい。
まあ、何回か、以前の資料解説の中で申し上げているのであるが、更にもう一度繰り返して伝えて置かなければならない。シッカリ心で聞いてじっくりと納得してもらいたいと思う。
それは「宇宙次元原理表」、すなわち、「ひふみ九九算表」は「神の法陣」を解くための解説書であり、一つの「指南書」と言うものである。
要するに、「ひふみ九九算表」に内蔵されている法則類はすべてそのまま「神の法陣」に利用出来る不思議があり、幾千、幾万と言う無限なる「神の法陣」のすべてにそのまま通用するものであると言うことである。
それゆえに、「ひふみ九九算表」をとことん自らの手で解き明かし、その解法業とそこにある内容と意味をしっかり覚え、その上で「神の法陣」を開く時に利用するのが一番いい方法なのである。それだけはしっかり覚えていて欲しい。
≪数の神秘、『神の法陣』をひも解く≫…!!!。
これは世界初の快挙であり、「神」の存在を確かめることが出来る唯一無二のものである。
まさにこれは人類揺籃期に始まる「神の存在」と言う命題を証明しなお余りあるものである。また、これは長年にわたる「神」の存在論争に一つの決着をつけることになるはずである。いくら時間がかかろうともいいではないか、自分の手でゆっくり、じっくりと完成させてもらいたい。
なぜならば、「神」とは自分の心に置くものであり、自分の心の永遠の羅針盤として、進む道の存在を明らかにしてくれるものであるからである。
そこには一切の虚偽も無ければ、いい加減も無い、あるのは「真実の語り」とそれに伴う結果を余すことなく教えてくれる限りない姿だけである。
要するに、これは、今までの古い人類の知、すなわち現代線形文明知に別れを告げて二十一世紀から始まる新しい基幹を持つ文明知の到来を告げるものであり、人類に与えられた「古くて新しい知」の誕生と言うものであろう。
いわば、これは新しい、一つの「神の知」の到来を示すものであり、その真実をいみじくも語っているものである。そのあたりはこれから本文を読み込んでいくことにより自ずから次第に解って来ることになるであろう。 そのためにも何回でも、何回でも計算を試みてもらいたい。
恐らく、あなた方は狐につまされた感じであろう、しかし、ここにある厳然とした真実を知れば、あなたの頑是ない心も次第にゆるんで来るはずである。出来ればそのあたりのことについては柔軟な姿勢をもって新らしい知の到来に拍手で迎えてもらいたい。例え、如何に我々が否定しても、現実に存在する「神の数学」は厳然とした形で真実を示し、誰にも否定出来ない形で真実の存在を叫んでいるのである。
まずはそれを知ることが大切であり、心してそのあたりを学ぶことから始めてもらいたい。
まずは「神の法陣」の姿を紹介しよう、参考例としてまずは3次元体、4次元体、5次元体を用いてそこにある「神の秘密業」を明らかにして見ることにしょう。まずは心静かにそこにある変幻自在な「神の仕組み」とその意味の探究し学び取ることから始めてもらいたい。
さあ、これらがどのような変化態を持ち、どのような答をはじき出すのか、出来ればこのままで一年でも二年でもじっくりと考えてもらいたい気持ちで一杯である。一切の雑音は入らない、雑視も入らない、ただ己の脳と己の知覚をフルに用いて心のままに探究に邁進し、自然の心を極め尽くすのである、まさに最高であり、尋ねあぐねた極楽浄土の心地そのままとも言うべきものであろう。
すべてはなるようにしてなり、流れるままの自然の姿そのものとして考えることである。すなわち、決して流れを壊わすことなく、ありのままの姿をそのままの状態で調査検証することが大切なことであり、最も肝要なことなのである。
これは「易」の数図のように流れを破壊分断して人為的に数を置き替へ、人間の意のままに作り上げたものではない。自然の態(すがた)を壊し、人間の知を優先させる、それはまさに現代西洋知の愚行そのままであり、暴挙そのものなのである。
「易」の実体は自然の流れを破壊して、自然を人間の知の下に置こうとしたものであり、いわば反自然的な次元構造体である。それは自然の持つ規範とか法則はすべて断ち切って、完全に無視して捨て去ったものである。その有様を一つ簡単な「3次元表」を用いて見てみることにしょう。
(A)『易の図』の物語り
現代文明は「神」が関わりを持たない一つの段階的な人類知物語であり、明らかに「神」の関与を外した下で花開いた文明史と言ってもいいものである。それが現代文明史の本当の姿であり、二十一世紀初頭の現在まで続いている西洋科学知文明の姿なのである。
その名は「線形文明」、すなわち現代文明のことである。何故ならすべては直線的に考えて直線的に進むことを本分としているからである。その例が現代数学の基本態である「10進法」である。「10進法」の基本はどこまでも無限に至るまでの直線を想定して、ただその極限を求めて走ることである。 数学の故郷であるインドでは「現代数学」を称して「直線数学法」と呼んでいることからも判るであろう。。
そもそも線形と言う言葉が甚だ曖昧なものである。いろいろな学者に聞いてもよくは解らないと言うし、たまたま解る学者に聞けば今度は余りにも言葉が難解で今度はこちらが解らなくなるのである。
要するに、無限直線の一部を称して線分などとも言う時もあり、ただただ難しい一言に尽きるものである。しかし、何のことはない、思考概念が直線で始まり、直線で進み、直線ですべてが終わっているものと言うことである。
そのあたりは「神の数学」ではもっと割り切って「線形」=直線と捉えてその煩わしさを省いている。
次に非線形の言葉であるが、またこれも難しい、学者でさえも線形以外のものを非線形と言うのであり、曲線的な進行形態を言うとの一点ばりである。要するに、「線形」とは直線で表せるもの、「非線形」とは直線以外の曲線、すなわち、循環的な形で表せるものと考えてもいいであろう。
現代文明を例えて言うと、それは「易」の数図、すなわち、「3次の魔方陣(河図洛書)」に代表されると考えてもいいであろう。何故なら、そこでは直線が巾をきかし、すべては直線的な機能で進み、すべてを直線で纏め上げられているからである。それはいわば一つの線形文明の象徴態と言ってもいいものである。
「易」の図(河図洛書の図)
【A】「魔方陣」の解き方とは…??!。
これらはすべて直線手法で解き放たれ、縦、横、斜めの答の数字はすべて15となっている。
しかし、そこには何の哲学性や自然真実のカケラさえも無い。ただ全部が15と言う答が現れているのが不思議と感じられるだけである。それだけである、ただそれだけのことである。
【B】『神の法陣』の解き方とは…??!。
【これらの図、及び内容は「神の数学」の<真実の数理講座>bVよりの転載である】
お解りであろうか…?、【B】「神の法陣」における解き方とは中心を軸として定められた「天(陰)」と「地(陽)」を結ぶことである。それはまさに、中心を巡って相対的方向に走る電子の動きであり、全体的に見るとそれはまさに原子内における「電子軌道の図」そのものなのである。
上記の図の数の走りをよく見てほしい、自然の知、自然の法則とは甚だ単純でありながら、奥が深く神妙な足跡を持っていることが解るであろう。あなた方は余りにも複雑を好み、複雑こそが最高の神の仕組みと考え、それを解き明かすことが与えられた学者の本分と考えているようであるが、それは大きな間違いなのである。真実はまったく逆であり極端な思いすごしと言うべきものである。その証拠に自然は単純な仕組みで成り立っていることを数は教えているではないか…。でも考えてみると、単純なものほど奥が深く、幾重にも重なり合っているのであり、いくら真実を掴んでも次の真実がその奥から顔を出してくるのである。
でも、あなた方は少しも耳を貸さない、見ようともしない、探そうともしない。要するに素直さに欠けていると言うことである。
これらの図をしっかりと見るがよい、その姿はまさに自然象の姿を映しているものではないか…。それはすなわち、自然象とは循環の法則に従い、その動きを見せながら調和と秩序をもって納まり、自然の形をとって何気ない形でく鎮まっていることが解るであろう。
しかし、 あなた方は今まで、そのことも知らず、直線系を好みひたすら無限に向かい、挙句の果てに目的を失い、カオスとか複雑系という言葉を編み出して人々を煙に巻いて誤魔化そうとしているのである。要するに、詐欺まがいの論証に引っかかっていたのである。
小は電子の動きから、大は地球を含む宇宙全体の星々のすべて、あるいは銀河系、アンドロメダ星雲等さえも宇宙の中心を軸に廻りに廻っている存在である。 一切の自然は循環系であり、循環と言う言葉ですべてをまとめることが出来るのであり、決して例外ト言うものは無い。
また最近、この大きな全体宇宙さえも何らかの中心を巡って回転運動を行っていると宇宙理論学者達は結論づけて世間をアッと言わしている。
なんせ、自然には「直線の理」は何も無く、すべては「循環の理」で渦巻き、循環の理により永遠を支えているのである。
さあ、要は具体的に実証することである。要するに、「天が下のもの、すべてが回転作用により、秩序と調和を保ち、永遠のたゆみない姿を持っている」と言うことを証明すればいいのである。
その事実をこれから数多の「神の法陣」で説明しよう、そこではその一切を数が巧みな方法で語り上げ、教えていることを知ってほしい。
それを規範的、かつ意識的な形で作り上げ、宇宙の最高レベルと共鳴しているのが「宇宙次元原理表(ひふみ九九算)」であり、それに基づいて羅列状態にある数多の「神の法陣」の姿なのである。まずはそれを知ることが肝心であり、最も必要なことである。
すなわち、「宇宙次元原理表(ひふみ九九算)」は神の心の本体とするならば、数多の「神の法陣」はそれに基づいて散開する自然の有象無象の姿であり、数多な自然の本質象の姿を表していることを知らなければならない。
ゆえに、「宇宙次元原理表(ひふみ九九算)」は数多の「神の法陣」と相似の関係にあり、「宇宙次元原理表(ひふみ九九算)」の心は「神の法陣」と完全につながっているものである。 それは「親」と「子」の関係と言っていいものかも知れない。
宇宙次元の縮小モデルとなるものがこの「神の法陣」であり、宇宙次元の構造の在り方、その内容をシッカリと見せてくれているものである。要するに、現在ある物理宇宙の中の次元モデルに対応する諸構造やそれに対応する法則性を内蔵しているもの、それがこの「神の法陣」なのである。 そのあたりを心して学んでもらいたい。
これを見るとやはり「神」は現存し、宇宙創生と同時に知のレールを引いていることが解る、我々はそれを学ぶことから始めるべきなのである。それも知らずに人類は最初から自分達の知を頼りに営々と一歩から文明を作り上げ、己の知を頼りに現在の大文明を築き上げて来たのである。その方向は大きな誤りであることも知らずにである。
おそらく、数学者や物理学者達は「神」、そんなものはあるはずが無いとこぞって反駁し、責めたてるであろう。しかし、それは余りにも狭量な考えであり、現代の学者の自然を無視した一つの妄想的な主観であり、いわば、一つの屁理屈と言うものである。
要するに、それは数百年前の「神」の概念をそのまま引きずっているゆえに、まったく進歩のない姿と言ってもいいものである。
現在、相変わらず人間知でこの広大な自然宇宙を解明しようとしているが、それはとても出来ない相談である。それに気がついた先端的な科学者達は今盛んに「神」を持ち出し、神の意識(最高知性)がこの宇宙を創造し、運行させていると述べて「神」の存在を第一儀に持って来ようとしているのである。それは300年前にデカルトが棚上げした「神の存在」を改めて見直し、「神」を認めようと言う動きである。
その一人が最年少の若さでノ−ベル物理学賞を受賞したブライアン・ジョセフソン博士である。彼は「神(最高知性)」の言葉は数学であり、数字を用いた方程式などで表現出来るとも語っている。それはかのアインシタインの数による方程式あたりから始まっているものである。 残念ながら、現代数学による方程式は複雑的なものなので、我々専門外の者には甚だ理解し難いものである。
今のところ、これ以上の科学者による「神」に関する回答はまだ出されてはいない、現在、彼等は鋭意模索中なのであろう。
要するに、我々の知、すなわち現代数学は次元的なレベルが一段低く、本当の自然意識知のレベルとは程遠いものである。
すなわち、基本軸が自然とはまったく異なり、独特な進化を遂げて来たものである。それゆえに、自然知とはまったく合わない、共には歩めない、会話が出来ないと言うことである。よって、いくら人間の知が発達しても自然の秘密を手にすることはまったく出来ないと言うことである。
さあ、私の頑是ない講釈はこのくらいにして先を進めよう。これからが本講となるものである。
それらは次の通りである、懸命に筆でなぞりながら、あるべき真実を求めてもらいたい。すべては真実の存在であり、その綴りである。このあとの理解度についてはそれぞれ個人の直感と洞察力の差により決まるものであり、「神」の采配の縁の如何によるものと考えてもらいたい。とにかく、一生懸命、それが最も近い解決策と言えるものである。
【これらすべては「神の数学」初級講座(3)からの抜粋である】
なんと言う巧みな自然の動きであり、その手さばきなのであろうか。すべては物質の基本構成要素である原子の動きそのものであり、自然世界はそれに模して造られていることが十分に伺えるものである。すべては循環の姿、その一言に尽きると言うことである。それはまさに、現在の直線系文明では及びのつかないものであり、基本軸足が全く異なる「自然の学」の姿なのである。
さあ、この「3次元法陣表」の解き方を会得したならば、同じような要領でここにある「4次元法陣表」、「5次元法陣表」を自分の手で解くがよい。
顔は異なるがすべては全く同じ手法でひも解けるものである。また、それらの仕組みを完全に会得したなら、あとは自分の力でその後に続く6次元、7次元、8次元、……の各「神の法陣」を作りそこに現れる最終数字の意味を見出すがよい。
自然は無限ではあるが、そこには必ずトレ−ス可能な何らかの足跡が残されているものである。まずはそれを見出すことである、それが大切な次の解決策のヒントとなるものである。とにかく、考えに考えることが大切である。
果たしてそこに現れる最終数字の数とは一体何を語っているものであろうか…、すべては「神の秘密の数の語り」であり、現代知の領外にあるものである。じっくりと考えて答を見出すがよい。そしてその足跡を更に追いかけることにより次々と真実が現れていろいろと囁きかけてくるのである。
その囁きをしっかりと掴むこと、決して、聞き逃したりしてはいけない…!!。
これらの図を見て一瞬にしてすべてを悟り、滔々とこの後に続く各次元の仕組みを解き明かすことの出来る御仁もいるであろう。彼はこの図以外にも様々な図の物語を次々と展開してくれるはずである。恐らくそのような御方はこの世に何十回も何百回もの生を受けている感受性の高いハイ・スピリットの持ち主であり、すべての仕組みを簡単に察してしまう御仁なのである。でも、そうではなく、まだその進化の途中にある諸氏はこれらの図を何回でもなぞりながら懸命に心を寄せ、真剣に考えることである。
それが最良の方法であり、「神の法陣」の秘密をすべからく明らかにし、最初から最後までを心から納得が出来ることになる最良の方法である。
さあ、先を急ごう。「神の存在」に今回こそは決着をつけなければならない。それがあなた方との約束だからである。今度は対角線に沿った数の動きをじっくりと観察してもらいたい。あなた方の求めて止まない「神の存在」を見出すための新たな第一歩である。
さあ、ここに「3次元法陣表」と「4次元法陣表」が示されている。あなた方の役割はこれらの法陣表の二つの対角線で分けられた「陰の場」と「陽の場」にある最小数列と最大数列を見出して秩序通りに循環円で結ぶことである。その方法が正しければすべては同一数と化して何事かを囁くはずである。さあ、そこに現れる同一数とは一体何と言う数字であろうか、懸命に考えてほしい。
<説明のよく解らない方は前々回9月掲載の《図2》の「定数の出現」を参照してほしい>
一つ断っておきたい、各図には二つの対角線が存在し、それに沿ってまったく別な対角線数列群があまた姿を見せていることが解るであろう。しかし、それら両方に現れ出る答の数は不思議なことにすべてにわたり同一数が姿を見せているものである。まずはそのことをハッキリ把握することであり、それを確実に認識することである。それが今回の最大の目的である。それにより、そこにある真実をあなた方自身がハッキリと学び取ることが出来るである。それは概してやさしいものであり、単純なものではある。
この、同一数と言う不思議な現れがミソであり、最高のヒントともなるものである。
更なるヒントを与えよう。
@ 今の「神無し人知学」では到底解けない、なぜならば「神」があって初めて解ける問題であるからである。だから現代数学では解くことは不能であり、解くことが可能なのは「神」を持つ「神の数学」だけである。そのことはしっかり覚えていてほしい。
A 一つ解ればあとは類似的にスム−スに解け、循環的無限に至るものである。要はその過程であり、結び方である。
B これは人間知の考え出したゲ−ム的な知の遊びなどではない、すべては宇宙意識(神)が創り上げた自然道の知の道、すなわち、自然のたゆまない道理の存在を歌っている道、すなわち「神道」と言うべきものである。心して取り掛かってもらいたい。
C まさに、「神」の存在とその作用があるからこそ、すべては存在し秩序と調和が保たれていることを示すものである。しかし、その事実を現代科学は何も知らないし、よしんば、知ったとしても決して認めようとはしない。何故なら、認めると今まで構築して来た現代西洋科学体系はガラガラと音をたてて崩れてしまうからである。
D 解らない方は先々回9月の〔図1〕、〔図2〕及び先回10月の〔図A〕、〔図B〕の運行図を十分に参照しながら循環の考察を進めてもらいたい。それらはまさに「絶好の指南図」であり、「有難い天啓の図」とも言うべきものである。
もし、「神」などはないと「神」の存在を断ち切れば、「神」は存在を失いその姿を消し、その代わりに複雑、カオスが顔をもたげ出しすべては不能、不可で終わるのである。これらのことはいくら口で言い、言葉で説明しても解る者は誰もいない、ただ馬鹿にされ、罵られるだけである。ところが数多の「神の法陣表」を用いて次々とその真実を証明するとだんだん自然の真実に気がついてくるのである。あなたも間違いなくそうなるはずである。真実とはそのようなものである、だから真実なのである。
そこで必要なのが「数」であり、「数の語り」なのである。あなた方自身でさえ数の言葉(計算)は信用するが人間の言葉は信用できないことを身をもって知り、常にそう言っているはずである。一旦、すべてを「数」に任せ真実を見てみようではないか…!!。
私も人間の言葉は余りにもあやふやなので信用はしてはいない、だからすべてを「数」に託して人間知の向こうにある自然の真実を語らせようと言うのであり、数や数列の姿、あるいはその心を借りて誰も反駁出来ない形で「神の存在」を実証を展開しているのである。全てが完了した暁にはそのすべてをあなた方に託すつもりである。なぜならば、それがより遠い未来にこれらの知を残す最良の方法であり、確実な手段と考えているからである。
恐らく、今の西洋科学知にどっぷり漬かり、我を忘れている現在の日本人にこれらの数の真実を理解するのは恐らく無理であり、ただ、混乱と戸惑いを招くだけであろう。要するに、知的にはまだ少々早いと言う段階であり、真の目覚めはこれから始まることになるのである。
残念ながら、そろそろ紙数も尽きようとしている、そこで、この神の存在を証明する「斜め陰陽世界」の正しい回答図は次回に延ばすことにしたい。 どうも最初に思ったよりもいろいろと手順を踏む必要があり、思ったよりも初期の説明に手をかけなければならないようである。簡単に理解出来るであろうと思っていたのであるが、そうもいかないようである。
私としては甚だ不本意なのではあるが、まあ、止むをえないことであろう…!!。
その仕組みと正しい答は来月に回したい。それらは世界で最初のメモリアルな「超知」と言うものなので、新たな知を告げるフアンファレ−をじっくり時間をかけて吹奏しなければならない。私の思いは「神の数学」のすべてをゆくりなくあなた方のもとへと旅立たせ、じっくりと育て上げて貰うことである。
これから先は、あなた方の手で更なる真相を解明し、それを世界中に広げてもらいたい、新しい自然の知を求めて止まない人々のため、次に来る意識文明の手掛かりを心待ちにしている人々のためにである。
確か、別のものが出なければ、現代文明と人類は今後の数十年の中に滅び去るであろうと預言者、ノストラダムスは言っていた。恐らく、別のものとは古神道であり、古神道の教えであると故馬野周二氏(二ユ−ヨ−ク工科大学教授)は言っていたのを思い出す。私はそれに少々付け加えさせて戴こう、その古神道の教えとは古神道から現れた意識の玉手箱、「神の数学」のことであると…!!。
次回までの1ヶ月、この「神の法陣」図の循環の道理をを正しく追いながらじっくり考え、成果をまとめ上げてもらいたい。それが私の本音であり、今の望みでもある。要は素直に、かつ単純に考えることである。それが正しく解くための最大のキイ−・ポイントとなるものである。
あなた方の頭脳なら十分に完成に達し、その「見えない働き」の素晴らしさに大きな感動を覚えるはずである。それは同時にあなたの無碍の魂に感動を与え、多大なる共感を呼ぶことになるのである。
そこで御願して置きたいのは、1ヶ月の間に、これらの「図」と「数」の走り」が示す神の存在、そこにあまねく存在する「神」を見出し、その存在の如何とその働き(仕組み)をつぶさに洗い出し、徹底的に検証してもらいたい。
恐らく、そこにはまだ見出されてはいない「神の秘密」が沢山眠っているはずである。それを発見すること、それがあなたの生涯の輝かしい功績として心に残るものとなり、生涯の伴侶として共に永遠に日の目を見ることになるであろう。
また、それによりあなたは確かな「神の存在」を見いだし、何時でも「神の存在」を語ることが出来ることになるはずである。
それにしても、一体誰が「神」の秘密のノ−トを密かに覗き見して、そこにある秘密の内容を我々の大いなる祖に与えたのであろうか、それが大きな謎である。これらの内容はとても人間知の業などではない、余りにも卓越した知の業であり、驚嘆すべき超知の業なのである。到底、人間の手などでは負えぬものであり、人間以上の何かが必ず手を貸し、関与しているはずである。
しかも、いまのところ、これらの内容の解法等については現代人の知などではなかなか理解が進まないものであり、十分に納得し運用を始めるまでには恐らく大分時間がかかるであろう。なんせ、現代人は現代知に取憑かれ、正気を失っているのである。その挙句、あるべき真実さえも見ることも叶わない状態になっているのである。もって瞑すすべし…!!。
しかし、その恐るべき内容大意を大いなる祖達は完全に解き放ち、理解していたこともこれまた間違い無いことである。それがゆえに古神道の最初に置いて封印して未来へ残そうと図ったのである。まさに当時の大いなる知者達が意図した通りに、これらの知は古神道の中に3千年以上の間完全に封印されて、未来に宛てた見事なタイム・カプセルとなっていたのである。それは我々日本民族が開いて見ない限り、誰も開くことが出来ない、ましてや、その本儀を知り、解き明かすことなどは日本民族以外には誰にも出来やしないものである。
最近つぶやいた 《独り言》現在のマスコミは中国を4000年の歴史ある国と誉め讃え、持ち上げているが、まことに愚かなことであり、笑止千万なことである。本当の中国人の王朝は恐らく数百年であろう。それ以外は中国を征服した北方異民族の王朝であり、始皇帝に始まる何代もの北方民族の建てた外来王朝の存在なのである。現代の中国でさえ、満州周辺に興った北方異民族の築き上げた国である。本来の中国の正統な支配者として君臨した蒋介石は日本の敗戦後北方異民族の軍隊である共産勢力に追われて、海を渡って台湾に逃げ込んだ、いわば敗残勢力と言うものである。台湾に上陸するやいなや、早速三万人に及ぶ台湾の指導者やインテリ層を虐殺して指導権を握っているのである。それはつい最近、60年前の出来ごとである。
そのような事情もわきまえないでマスコミは中国が喧伝している歴史をそのまま信じているのである。阿呆かと言いたい。
彼らマスコミは半世紀以前に教わった歴史教科書を諳んじているだけであり、本格的な最近の歴史等は全く知らないと言わざるを得ない。中国は折に触れて「日本は歴史の勉強をして下さい、正しい、歴史認識を持って下さい」と言っているが、そんなものはそのまま中国人に返すのが当然であろう。彼等こそ本当の自国の歴史には目をつぶり、真実を隠している張本人である。
そんなことも知らないマスコミたるもの、あまり中国などの言動に踊らされるべきではない。そのためには歴史の真実を知っておくべきである。
日本人であるならば、もう少し本当の歴史を勉強すべきであり、国を知り、国を思うことがもっと必要なのではないのか…!!。
同じ論旨なら、日本は1万数千年の歴史を有する国であり、世界一長い古代エジプトの歴史に比肩する偉大な国なのである。
なぜ、そのあたりを国外に向かって喧伝しないのか、国民に広く知らしめようとはしないのであろうか…!!。
その証拠になるものが最近になって発掘された諸々の世界的な遺跡遺物である。しかし、誰も報じない、誰も知らない…!!。
@ 石器の年代では日本が世界で一番古い、それが埼玉県秩父市小鹿坂遺跡で発見した約50万年前の「秩父原人」の住居跡や石器埋納遺構などである。その前に存在した宮城県築館町上高森遺跡は約60万〜70万年前の前期旧石器時代にさかのぼる石器埋納遺構であったが、古学者によって捏造されたものであったことが発覚し、取り消されている。しかし次に古いのは五十万年前のものである。とにかく、六十万年前でも、五十万年前でも世界で一番古いことには間違いない。
A 同様に日本の土器の年代も最も古いものでは一万六千年前のものであり、世界一の古さである。
B福井県鳥浜貝塚の1万1千年前の漆加工の存在。
C 北海道の垣の島遺跡の世界最古の赤色漆塗り糸で織った衣服の出土品。約9000年前のもの。
日本民族よ、自分の国の歴史にもっと自信を持つべきである。今や、世界の学者達は日本の文明の存在とその歴史に驚嘆の目を向け始まっているのを知ってほしい。しかし、当の日本人が一向にその気が無い、逆に自国の歴史を否定し、おとしめて快かなを叫んでいる愚かな者達もいるのである。それが驚くべきことに最近の学校の教師達にも見られると言うのである。自国の国歌と国旗をなぐさみものとして論証なく否定し、あまつさえ生徒にそれを押しつけようとしていると言うのである。一体、誰が給料を払っているのであろうか、我々国民ではないのか…!。それにしては余りにも考えられない言動である。国から給料をもらって、国に反逆する、とてもまともではない、まともな精神状態ではないものである…??!。おそらく、歴史代々にわたってその態度は笑いものとして永遠に残されていくであろう。彼らの精神状態は一体どのようになっているのであろうか…!!?。
そこで考えられることは一つである、彼らの祖達は数百年、あるいは最近日本に入って来た大陸の族(やから)であると言うことである。未だ血と魂が日本に同化せず、常に故郷を向いているのである。故郷恋しと本能的に大陸を恋い慕っているのである。何と不思議千万なことが多いのであろうか。日本人よ、しっかり性根を据えて考えてほしい…!!!。
(11月の証) 完
「神の数学」が語る「真実」と「その証明」
≪人類究極の望みである「神の存在」を明らかにする≫ [その4]
2012年12月 謹んで上載
今月の講義演題は「神の存在」の証明のコア(芯)とも言うべきものであり、ゆるがせに出来ない肝心かなめの重要主題である。
決しておろそかにせず心を込めて十分な検証に励んでもらいたい。これは「神の心」の揺るぎない姿へのホ−リステックな接近であり、今後の更なる調査、解明が待たれるものである。すべては「数」の語りであり、人間の知の関与などはまったく無い。すべては自然の知そのものである。
もし、これでもあなた方が「神」の要旨や本質を理解出来ないならば、恐らく今後当分の間はこのままの状態が続くことであろう。要するに現代文明の存続している間には「神」の正体を見定めることはなかなか難しいと言うことである。
これらを知ることにより、今までのあなたが抱いていた一般的、通念的な「神」と言う概念は完全に捨て去ることになるであろう。今までの「神」はあまりにも人間的であり、擬人化された人間救済的な「神」の姿であり、それを利用し人の心をくすぐって来たものが今までの宗教や宗教団体等やその親玉達なのである。
特に西洋社会の「神」は完全な人であり、過去2000年の間、特別な人間を神と崇めて遥拝して来た。それは東洋社会が自然を「神」として讃えているのから見ると甚だ次元が低いものであり、まことに幼稚なものである。
なぜならば、本当の「神」の正体と言うものを知れば、自ずから心の曇りが晴れて最早求める必要もなくなる存在なのである。
だから、宗教などというものは今世紀、すなわち、21世紀の半ばあたりまでには消滅してしまうことになるであろう。
本当の「神」は人間の心や意識などは歯牙にもかけないものであり、ましてや、人間の領分などには決して入って来ることはない。巷で言われているように、人の心にリスポンスして言葉で会話をかわすなどはまったくあり得ないことである。すべては人間の作った「子供騙し」の為のいい加減な物語である。 もしあるとすれば、人間が神の領域に入り、たまたま「神」の流れに遭遇して、それを第6感的、超意識的に感じて心が動き、そう感じた時であろう。なぜならば「神」は確実に存在する、しかし、それは自然の持つ法則としての存在であり、現実に見えるもの、目に見える存在などではないからである。
考えると、我々の3千年前の祖達は「神」の存在を太陽に例え、神の代用として礼賛していた。確かに、我々は太陽があるから、すべての生きとし生けるもの、命のあるものは毎日をつつがなく過ごしている。まさに太陽は命の源と言うべき大切な存在と言えるものである。しかし、そうだからと言って、我々は毎日太陽を意識して感謝を込めて生活してはいない、日頃、太陽の存在などは誰も気にもしないし、誰も有難く思って毎日を過ごしているわけでもない。よく考えると、なにかそこにはやるせない気持ちと割り切れないこだわりの気持ちが残るような気がするのであるが…!?。
確かに、太陽があるのは当たり前のこととであり、特に太陽の存在を有難く思って毎日生活しているわけではない。ましてや、太陽に向かって念願をする、頼みごとをするような者はほとんどいないはずである。
なぜなら、決して願いを叶えてくれるようなものでは無く、まったく無機質な存在であることを知っているからである。しかし、太陽の輝きが無くなれば一瞬にしてすべては終わりになり、生命をもつものは一瞬にして生存出来ず死に至ることは十分に知っている。、これもまた真実なのである。
太陽とはそれほど重要にして欠くべからずのものであるが、誰も日頃恩恵を感じ、感謝している訳てはない。どうであろう、そう思っても余りにも身勝手とは誰も思わなであろう…。再び問う、あなたは毎日太陽の存在を意識して過ごし、感謝を込めているのであろうか…!!。
ノンである。その理由とは我々は太陽は有って当たり前のもの、別に感謝しなくても常に大空に輝いているものであることを知っているからである。それで誰も意識もせず、無視同然の態度で感謝もすることが無く毎日を過ごしているのである。
なぜであろう、それは意識を払って有難がっても何の効果もない、すなわち無駄骨であり、まったく無意味であることを知っているからである。それだけ、文明が進むにつれて人間は狡知に長け、考えがずるくなり、純粋さが失われているということであろう。
しかし、我々の日本民族はその限りでは無かった、すなわち、純真な心を持って今でも太陽を有難がって拝み、日々感謝を込めて生活に勤しんでいる。いや、今でも同じ状態を毎日送っているのであるが、そのことは誰も知らない、誰も感じてはいない。
あなたも多分言うであろう、そんな馬鹿なことをした覚えはない、するはずが無いと異口同音に…!?。
そう言う前に、あなたの家の神棚を見るがよい、そこには必ず「天照大御神」のお札があるはずである。「天照大御神」とはその字のごとく、「太陽」の神道名であり、日本民族ゆかりの神の名前なのである。要するに、我々は知らず知らずに神道の派生以来、3千年以上も「太陽」を「神」として崇め、「神」として拝み祭って生きてきているのである。
我々の祖達は「神」、それは姿は見えない、一切の存在感触や気配も無い、しかし、存在するのは間違いないと敏な肌で直感的に感じていたのである。すなわち見えない絶対的な「神」を我々は古代から「太陽」に例えて日頃感謝を捧げて来ているのである。今になって考えて見ると、まさにむべなるかのもの、まさに疑似的な表現としては他にはないピッタリのものと言えるものである。
確かに、「神」は見ることは出来ない、感じることも出来ない、しかし、「神」は太陽と同じようその存在が無ければ我々は生きていくことは叶わなく、同様に大自然の森羅万象は誕生することも、生を受けることも出来ないのである。だから祖達は判りやすいように現実的な太陽に「神」を例えて感謝を捧げ、祭り上げて来たのである。
しかし、「神」の存在証明は現在でもまったく出来ずに今ではすっかり諦めている状態である。その理由は現代の科学や哲学ではまったく定義が出来なく、その実在理論の確立することが出来ないからである。なぜならば、現代西洋科学は「神無し科学」であり、「神」の存在を認めていない、だから、そこには「神」を説明する言葉も無く、その存在の説明方法もまったく持ってはいないのである。
考えて見るがよい、神を持たず、神を否定することから始めた学問が神の存在を認めて容認するというのは一つの悲劇であり、大きな矛盾を抱えることになるのである。まさにそれは一つのパラドックスと言うものであろう。
もっとハッキリ言えば、「神」の存在が無ければすべては成り立たない、顕在化(この世に現象として現れること)は不能であると言うことであり、それを現代科学は理論的に立証が出来ず、それゆえに「神」は無いとうそぶいているのである。
しかし、言葉を変えれば、このように現実として顕在化している自然があるのだから「神」は存在すると言うことが出来るのである。すなわち、「神」があるからこそ自然界にあるものは顕在可能であり、ここにしっかり存在しているという厳然とした事実があるのである。
しかし、学者達はその事実の存在さえも認めようとはしない。
そのあたりをこれから「数」を用いて説明し、検証しようと言うのである。世界で初めてのことではあるが、別に難しいことではなく中学生にでも解る単純なものである。要するに「神」があるから、大自然(宇宙)は秩序を持ち、調和に満ちていることを証明すればいいのであり、「神」が無ければすべての秩序、調和は崩れ去り、複雑と混沌が生じるだけであると言う事実をしっかり納得出来ればいいのである。それを「数」で説明するということである。
まずはこの広大な大宇宙自然は2極、すなわち、陰と陽、プラスとマイナス、正と反、等の2つの相異なる原理・性質が対立して存在するから、そこには千変変化の諸現象が生じていることを知ることである。一つだけ、片方だけの存在では何の変化も起きず、動は無くただ静のみの存在である。
そこには進歩も発展も無くただ静かさで凍りついた永遠の停滞した世界があるだけである。 要するに、相手が存在して互いに引き合い(吸引)、押し合う(反発)から変化が生まれ、万象があるのであり、相手がいなければ自分の存在さえも無意味と化し、すべてはただただ停滞しているだけである。
我々人間も自然宇宙一員としての存在であるから、陰と陽、すなわち男と女の二つの性が存在し、互いに魅かれ引き合うので変化、変遷があるのである。その変化の極限はお互いの合一であり、それにより永遠の時間を渡ることが可能になるのである。もし、どちらかが無ければ、当然そこで終了しすべては消滅するだけである。
そこに相反した二つの作用があって常に均衡したバランスに向かおうとしているのである。そのバランスを形作るためにプラスに振れ、マイナスに振れながら徐々に均衡した永遠性のある0(ゼロ)の状態を目指すのであり、安定した状態の0に近づこうと頑張っているのである。その振れの状態、それが宇宙のため息であり、宇宙の持つ揺らぎと言う現象である。要するに、0と言うのはプラス電荷とマイナスの電荷が完全に重なって、見かけ上中和されて見えない状態にあるのであり、それがずれるに従ってその分だけ電荷がプラスとか、マイナス状態に変化するのである。その度に見えないものが陽炎のように揺らいでみえる、それが「宇宙の揺らぎ」であり、「宇宙のリズム」と呼ばれるものである。
それを最も易しく、厳しく描いているのが「宇宙次元原理表(ひふみ九九算)」であり、すべての「数」は常に0を挟んで陰と陽の関係にあると言う相対的な0の姿を常に見せているのであり、それぞれの相対位置にある実数の姿なのである。
それが「宇宙次元原理表(ひふみ九九算)」の端整にして秩序と調和のある素晴らしい姿である。そのあたりををもう一度目を見開いて学んでもらいたい。
では誰も知らなかったもう一つの「宇宙次元原理表(ひふみ九九算)」の顔を次に紹介して見よう。まずはその「ひふみ九九算」の左右の両端にある0を結んで立体図的な形を作ってもらいたい。すると0が重複が消えて一つの0が残り、首飾り状に数の輪が連なっている状態になる。
そこで、その0を中央に持ってくるのである。すると数の並びは次のようになる。また、それらの数を敢えて平面図的に置くと、最初の数列0123456780は次のような並びとなる。これが古神道の奥儀祝詞「ひふみ…天地の数歌」の真実である。
どうであろう、すべては0を挟んで対極にある各数は見事に「陰」と「陽」の数の性質を見せながら母なる数0に納まろうとしているることが解るであろう…、よく見るがよい、すべての相対する位置にある二つの「陰」と「陽」の数は相和すると見事に0の姿になる関係にあるではないか…!!。
何と言う神妙な仕組みなのであろうか、まさに言葉もない…!!!。まさに真実の仕組みの発現である…!!。
古来、この奥儀祝詞「ひふみ…天地の数歌」の真実を求めんとどれだけ多くの人々が考察解明にに明け暮れていたことであろうか…。しかし、何人もそこにある秘密を覗くことはおろか、匂いを嗅ぐこともも叶わず生涯を閉じたことか…!!。それが、ただただ持ち越されて現代に至っているのである。
これは一つの宇宙自然の基本原理であり、宇宙自然の基本構造であることを表すものである。この神妙にして妙なる仕組みは最初の数列 012345…に限らず、すべての「ひふみ99算表」の中の数列について言えることである。そのあたりを自分で検算検証、すなわち、自己検証を試みることである。それが自分を納得させる最も最良の方法である。
するとここでも相和して0になる「陰」と「陽」の確かな対数(つい数)の存在があることが解るであろう。それは1と8、2と7、3と6,4と5、それに0と9、の5組であり、それ以外には決して無いことをここで数は改めてここで証言しているのである。それらの対には決して狂いはなく、常に5組だけの存在である。 この組み合わせこそが「宇宙最大の秘数」であることは、もう諸氏も十分に判るであろう。
それは今までの「数」の展開通りのものであり、何一つ矛盾はしていない。考えて見るがよい、すべては調和への道づくりであり、秩序と調和こそが宇宙意識(神)の求める「神の道」であることを物語っているのである。
もう一度、「神」を求める前に要点を要約して置きたい。すなわち、宇宙大自然の本質は「陰」と「陽」と言う2極(2元)の絡まりによる秩序ある調和であり、その調和の最たるものが0と言う極限の調和の姿なのである。
すなわち、宇宙自然の森羅万象は調和に始まる本質0を求めて変化流動し、安定しょう何時もと模索状態にあるのである。
そのためには「陰」と「陽」の相対2極の存在が絶対必要であり、1極、すなわち単極のみでは存在出来ない、すなわち、顕在不能となるのである。 現代でも、物理学者達は単極、すなわちモノ・ポ−ルを探して右往左往しているが、決して見つかることは無い、何故なら単極そのものは顕在は不能であり、消滅するだけであるからである。
さあ、次へ進もう、あなた方は最早知っているはずである、方図の対角線は二つあり、性質的には「陰」と「陽」の姿を持っていることを…!。
また「陰」と「陽」の対角線は各々一つであるが、それを見た目通りに1ヶと判断すれば現代西洋科学のように道を誤り、複雑、カオスの世界へ堕ちてしまうのである。中心にある対角線は見かけは1ヶであるが、実際は「陰」と「陽」の2ヶとして計算を施さなければ正しい理は得られない。
本来は1ヶを陰陽2ヶの対の存在として扱うことが宇宙原理の基本であり、あるべき筋なのである。
見るがいい、現代西洋科学は1ヶはあくまでも1ヶであり、2ヶではないとうそぶいてそれ以上は考えようとはしない…!!。
それゆえに自然との対話が不能であり「神」の存在を見出すことが叶わないのである。恐らく、あなた方も同じ思いにとらわれているであろう。その限りでは最早一歩の前進もままならないであり、知は停滞あるのみである。まことに残念なことではある…!!。
あなたはそこに留まらず、その固定的な概念をガラリと変えるべきである、それにより新しい真実の道が開け、自然との対話が始まるからである。まさに、いいチヤンスではないか…!!。それには「神の法陣」が明かす宇宙自然の本当の姿を見ることであろう、…!!。
一つ、試みとして「神の法陣」の3次元表、4次元表、5次元表、の各図を記して置くのでしっかり心で覗いて見るがいい。
ここでは「数」が「神」の確かな存在を証明しているのである。これらのすべては人類史初めての試みであり未だかって誰も知らない「神」の秘図、すなわち、本来の自然知の絵姿なのである。これを逃せば100年や200年は無為無策の限りない状態、すなわち自然に対して手も足も出ず、ただただ、停滞のままで終わることになるのである。
願わくば、懸命に学び取ることにより、私の至らなかった説明等をもっと判りやすい言葉に直して、改めて世人に説明をしてもらいたい。不肖なれど、私も出来るだけ力を注いで解明に努力するつもりである。
ここにある対角線は「陰場」と「陽場」を分ける線分であり、すべての方形には各2ヶ存在するものである。
これらの仔細を詳察すれば、現代西洋科学の概念の不完全性や我々の持つ現代知の限度が見えて来るのである。我々は自然の知に沿って、あるいは自然の知の下でもう一度知の再構築を行う必要があるのかも知れない。場合によっては…!!。
要するに、我々にはどうしても真実が見えず、現れて来るべき本当の道筋の見当さえもつかなかったのであり、それゆえに自然の持つ「真実の道」を知ることが出来ず、学者達は右往左往を繰り返すだけであり、足を踏み出すことが叶わなかったのである。
その理由の一つは、我々の持っているのは『「神」が無い世界の知であり、「神」を持たない世界の知だからである』。要するに、それは一つの片輪な世界,片チンバの世界であり、まさに不完全な世界だからである。そのことをこの図は告げ、教えているのである。
しかし、その事実を誰も知らないし、また考えようともしない…。
本来、すべての大自然には「神」の存在があり、「神」が関与しているから秩序と調和が生まれ、永久不滅の姿を保っているのである。
もし、「神」の存在が無ければすべては秩序と調和を失い顕在不能となって姿を消してしまうことになるだけである。
それが自然万象の宿命と言うものであり、それが本当の宇宙の仕組みの姿なのである。
しかし、その事実を学者達は無視して物事を進めているから、現れて来るのは複雑系とかカオス系などの訳の分からない言葉であり、その言葉に自分達も辟易しているのが現状である。
要するに、それらの言葉で自分自身を慰め、誤魔化して満足しているのである。何故なら、それしか取る道は無いからである。
この3次元表に「神」を置いて改めて全体的な構成を見るのである。その上で「数」の言葉を聞いて見るのである。何かが解るはずである…!。
それから真実の如何を求めながら改めて全体図を見て正否を判断すればいいのである。個々も全体も共に矛盾がなく筋が通っていることをしっかり確かめることである。すべては自然の流れであり、それに沿った自然の道なのである。
何とそこには、すべての図は秩序と調和で満たされて満杯になると言う見事な結果が出現して我々を驚かせ興奮の坩堝に落とし入れるのである。何たる驚き、何たる感激なのであろうか……!!!。
その結果、そこには統一と言う希有な数字が現れ、すべてにわたり平衡状態が出現して全体がすべて丸く納まることになるのである。
それにより「神」の存在は疑うことはない事実であることが検証され、「神」があるから大自然のすべては円滑に秩序と調和を醸し出しながら永遠を織って鎮まっていることが明らかになるのである。
まさにその事実の現れと存在こそが一つの奇蹟であり、妙なる仕組みの発現なのである。決しておろそかにすべきではない。
恐らく、頭脳明晰であり、洞察力の優れている御仁達はすでにここにある「神の存在」を目にする前に、すでに先行検証を終えて心の満足を果たしているであろう。その理由は先々月、すなわち9月の「神の存在を語る」《図1》と《図2》の仕組み、および、先月、10月の同本文の中の《図A》をよく見ることにより第6感にピンと響いて、すぐさま検証に赴いた結果と言えるものであろう。
そうである、まさにその通りである。すべてはまったく同じ仕組みを持って永遠なる姿を誇りながら限りない姿で鎮座ましましているのである。それがすなわち、尽きない自然の真理であり、永遠を渡る「神」の仕組みの姿である。そのことを念頭に置いて「神の法陣」のくすしき物語を目と手でなぞりながら読み込み、納得するまで咀嚼反芻を試みることが望ましい。あなたのために…!!。
[1]「神」の手さばきによる「真実の仕組み」を見る(3次元表)
これらは我々の今までの常識では考えられない非常識、すなわち現代科学常識には無いとんでもない概念の出現である。考えるがよかろう、悩むがよかろう…、まさに「神の学」の出現と言ってもいいものである。今までの「人の学」などではとても手が出ず、歯が立たないことが解るであろう。
余りにも易しい「真理の発現」がゆえに逆にただおろおろするだけで切り込めないかもしれない。しかし、すべては現実の事実である。
子供でも判る道理と計算の羅列であるが、切り口や開け口、あるいは取り出し口がまったく異なるので手がつけられないと言うかも知れない。
知るがいい、これらを学び考える度にあなたの知は確実に進化し、知らず知らずの中に意識は向上していくことを…!!。
さあ、あなたは世界中の誰も知らない「神の存在」の驚くべき証拠を手にいれたのである。要するに、人類最高の学者でさえも知らない「神の超知」と言う屈指の叡智をあなたは手に入れているのである。さあ、考えて欲しい、この意味するところは一体何であろうか…!?、
ここから、どのようにこれをさばいて道筋を広げようとするのか、そしてどのような方向で更なる知の進化を遂げようとするのか、それはあなた方の直感力と洞察力の確かさ如何にかかっているのである。それがこれからは物を言うのであり、結果をもたらすことになるのである。単なる物珍しさと好奇心によりここまで来たのか、それとも妙なる真実の知の匂いに惹かれてここまで辿って来たのか、まずは自分でそれを知ることが必要であり、それに従って現れてくる答はまったく異なるものになって来るはずである。
ここから先は完全な独立独歩の世界である。出来ることなら、ここからはあなたの気の向くままに、あなたの思うままに数を展開し、妙なる数の囁きをじっくりと聞き取って貰いたい。これから先、「数」はあなたの心に対応するのであり、知の程度に敏感に感応して様々な形をもって語り上げてくれるのである。さあ、心いくまでじっくりと「数」を相手に会話をかわし、真実を学び取ってほしい。
いま、あなたが覗いているのは未だ誰も知らない世界であり、神のみの知る峻厳な世界である。そこはまだ人間の知に蹂躙されていない真理の世界でもあり、無上の心を癒してくれる世界でもある。また、誰が覗き見をしようが、誰が先鞭をつけようが一切関係ない「真実と調和の世界」でもある。
さあ、はばかりながら、先達である私が先導を承り、手を引いて行こう…!!。
今までの説明に対し、偶然であるとか、人間的な作為の匂いがすると難癖をつける者もいるであろう。その口を封じるためにももう一つの「法陣」、すなわち、「神の法陣」の5次元表の解法を更に追加し、ここに上げて調理することにする。心ゆくまで楽しみながらじっくりと検証の手を進めてもらいたい。それにより自然は無矛盾な世界であり、絶対的な秩序と調和を持つ真理の世界でもあることがだんだんと解って来ることになるのである。また、それを知ることにより、世の中の出来ごとに対して疑心暗鬼にさいなまれて陰りを見せていたあなたの心にも光がさすことになり、本来のあるべき穏やかさが甦り、生き生きとした活性化を見せることになるであろう。
[3]「神」の手さばきによる「真実の仕組み」を見る(5次元表)
あなた方もおぼろげながら気がついていたことであろう、自然(宇宙)は厳然とした意思を持っていることを、そしてその意思の疎通を図る言葉が、すなわち「数」そのものであることを…!!。「数」の語りをシッカリ聞くがよい、すべては秩序と調和のハモ二−に満たされて常に矛盾が無いことが解るであろう。また、 それを知ることからあなたの未来が始まるのであり、新たな心の開眼も叶うのである。例えばである、一つの「自然法陣」の中に部分的、対称的に異なる「陰」と「陽」の本質が」存在し、また、それが全体を通して新たな「陰」と「陽」の存在を作り上げながら一つの顕在体として存在していると数は言っているのである。何と言う、人知では想像も出来無い大自然の仕組みの見事さなのであろうか…!!。
それを知る御仁、まだ余力のある御仁達はこの後に続く6、7,8,9……の各次元表を自分の手で開いて検証して見るがよい。それにより、その仕組み(法則)は無限に広がる「神の方陣」の全般にわたって通用することが見出されることになるのである。
要するに、それらを知ることが「神の存在」の真実を深める絆となり、心には更なる尊厳な気持ち、真摯な心と言うものが生れて来るのである。
しかも、あなたはそのうちにそれは節を持ってつながる循環体であり、同時にそれはそのまま全体につながる一つの輪であることを知ることになるであろう。また、それを知ることにより、あなたは「神の法陣」が囁く大自然のハモ二−の存在とその確かな意味を紐解くことが可能となり、心には余裕さえも出て来るはずである。まさに真実の効果の現れと言うものである。重畳、々…!!。
さあ、次回もこの『神』の言葉である「数」を用いて更なる驚くべき「神の真実」、学者達が尻尾を巻いて逃げ出すような「絶対真理」の数々を諸氏の前に広げながらその全体像を改めて語り合うことにしよう。すべては真理であり、「神」の意思を語るものである。
恐らく、これらの「数」の囁きにより「神」の存在が確定的になるはずであり、同時に我々人類はその神の言葉、すなわち、「数」の語る自然の理を追いかけて行けば決して足を踏み外して理に迷うこともないことを知ることになるのである。
また、それと共に予期もしなかった知の進歩の道が開け、新たな知の領域、新たな形の秩序の存在が明らかになるのである。
それにより、ひょっとするとより高い知のレベルの存在との会話が開けることになるのかも知れないし、そのレベルとの相互的なフィド・バックが可能と言うことになり、我々の知も更に高みに上がっていくかも知れない。いずれにしても大切に扱かい、懸命に育んでいかなければならないものである。
我々がそれを行っていけば、後に続く若者達も希望と夢を抱いて大きく飛躍してくれるのである、我々がしょぼけていてはどうするのか、真実は真実とハッキリ認めて胸を張って明日を生きよう…!!!。それが希望であり、夢を実現させる心のエネルギ−と言うものである。
〔付記〕
先人達の「神の存在証明」を見て見よう、果たして「神の数学」の言い分と一致しているかどうか、それを判定するのがあなた方である。宜しくお願いしたい…!!。
〔1〕 現に宇宙が存在するからには、宇宙が存在するようになった原因も必然的に存在する。その第一の原因は「神」である。……ト−マス・アクイナスの言葉。
〔2〕 この世界はあまりにも精巧にできており、単なる偶然の積み重ねでできたとは考えられない。よって世界の知的な設計者が存在する、それが「神」である。……(アリストテレス)
<要するに大自然(宇宙)は大きな秩序と統一原理をもって極めて精巧な姿を永遠に維持管理をしている。見るがいい、人間の体や動物植物に至るまで見事な活動形態を持ち、同時に驚くべき精巧な姿を持っている現実を…!!。
まさにそれは「神」の心の息吹であり、巧妙な手のさばきの業である。それはまた人知を超えた絶対者の存在がなければ説明が出来ず、また不可能なことである。 よってそのような素晴らしい自然が存在すると言うことは人間を越えた絶対者、すなわち「神」の存在を意味するものであり、それらを設計した「聖なる存在」があると言うことである。それが「神」であり、これらの数の語りこそ、その確たる存在証明なのである。>
〔3〕 私流、すなわち、「神の数学」的に言えば,「数」がこのように明確な論理、法則の存在を語ると言うことは我々には想像もつかない大きな意思が大自然には存在し、秩序と調和の心を持って大自然を創り上げているとの証明である。その大自然の意思、それを名付けて人々は「神」と呼び、また、その意思が果たされた時にはそれを「神の力」と呼んで敬って来たのである。
<「神の存在証明」は来月に続く…、>
「神の数学」が語る「真実」と「その証明」
≪人類究極の望みである「神の存在」を明らかにする≫ [その5]
2013年元旦 謹んで上載
自然とは何十億年、何百億年と試行錯誤を繰り返した上で不用なものは消しさり、必要なものを残して出来あがった完全なものであり、至高の完成物であり完成象なのである。要するに、その過程で矛盾や不整合なものはすべて排除され、消去されて出来あがったものが現在ある宇宙自然と言う極限まで完成された完全世界なのである。
今までは完全完成体の意味を誰も知らず、どのようなものが完成体なのか人の知では皆目解らなかったのであるが、先月12月の「神の存在を明らかにする」に記されている「数の語り」をひも解くことにより大分事情が解ってきたことと思われる。何せ、そこにはストレ−トな神の仕組みが広がり、数により一切の真実が語られていたのであるから……!!。
とにかく、「数」はすべてを純粋にそしてありのままに真実を語り、自然のあるべき道をひたすらに開示しているのである。そのあたりのことを示しているのがこの古神道から現れた「神の数学の真実」である。 決しておろそかにすべきものではない…!!。
しかし、今までは誰もそれを知らず、西洋数学にうつつをぬかすだけで「数の心」を読もうとする者などは現れなかったのである。
その「数」の心を読むべし、知るべしと遥かな昔の聖達は古代文献に書き残しているのであるが、誰もせせら笑うだけで、読み込むこともせずただ放り出すだけで長らく顧みることもしなかったのである。
その文献の名は以前にも紹介した「『先代旧事本紀』の中の『「神文傳(かみふみのこととぎ)」』であり、その余りの不可解な内容ゆえに江戸時代に幕府により発刊禁止の処分を受け、それ以降荒唐無稽な偽書として公(おおやけ)の場からは姿を消し、現代に至っているものである。 【『広辞苑』には『先代旧事本紀』とは「神代から推古朝までの事跡を記した史書とある】。
◎@ 「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にある。「数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり」。
◎A 「数は天、地、神、人、物の法(のり)を総(す)べ、しかして萬法(よろずのり)の根(おおね)となる。故にこの文、その 音は数によさす。 …これ先天の理なるのみ」。
<ここにある先天とは古代史で言う「神代の時代」、すなわち先史文明のことであり、恐らくは現代歴史を遥かにさかのぼる1万〜2万年前あたりであろう。恐らく、超古代文献に記されている「カタカムナ」の時代と轍を共にしているのではないかと思われる>。 (そのあたりの情報がほしい…!!。)
少々つたない言葉での解釈ではあるが、その意味することを伝えておくことにしたい。
≪意釈≫
◎@ 学問というものはここ、すなわち自然に学ぶことから始まるものである。その自然の知の内容と言うものの一切は「数」に託されていて、「数」がすべてを心得上げているのである。また数の教えには天地一切の法則、律、因果関係(シンクロにシティ作用)さえも含み、かつそれをすべて開放しているものである。その意味においては「数」の説く自然の法則は余りにも奥が深くて到底人知の及びもつかない神妙にして無尽妙なもの、すなわち、時間・空間を超越して天地万物の根源である絶対的な真理道の存在さえも謳っているのである。しかし、それらのことについては今の人は誰も知る者はいない。
これらのことは遥かな昔に存在していた「神々の文明(先史文明)」から伝承されてきたものである。
◎A 「数」は宇宙自然の全般の法則、すなわち、決まり事、その成り行きの仔細までのすべてを知り、それらをまとめて掌握しているものである。しかもその上、これらのすべての法則の基礎・基盤を語り上げることが出来る偉大なものである。だから、これらの文字の構造や言葉のつくり等はすべて「数」に由来があるのであり、「数」により統括されているのである。これらはすべて「神々の御世(先史文明)」からの伝えられた「天の知」そのものである。
これを読む限りにおいては現代の学者諸氏も江戸時代の学者たちとまったく同じ判断力しか無いと言うことであり、戯(たわ)けごと、狂人の愚言としか聞こえないものであろう。要するに、人間知はこの5百年間、あるべき自然の知にはまったくアプロ−チすることも叶わず、ただ野放図な人間知の赴くまま無駄な発展を遂げて来ただけなのである。ここで言う無駄な発展とは自然の知に沿った進歩発展ではなく、人の知と心の走るがままに漫然と歩んできたことを指すものである。要するに、その結果、すべては時間と共に何時かは儚く消え去って何も残らないと言うことである。すなわち、そこには自然との共存、すなわち、自然に沿った知などは何もなく、まったく意味の無い無駄な進歩があるだけと言うことである。
本来、我々はすべてを自然に学び、自然に沿って歩んでこそ自然と共に栄えていくことが出来るのである。そのためには自然を敬い、自然と語り合い、自然の姿を見ながら、それを学ぶことが必要であり、それが自然との和合の本筋と言うものである。それを最初から機械論的な自然を作り上げ、自然のすべてをそれに沿ってまとめ上げ、それに沿って論じ上げてきたものでる。
それが「神」の関与等は一切は無いとして、神を否定し、完全に追放してしまったのが我々の世界であり、この現代西洋科学なのである。
現在の大部分の科学者達でさえも過去を引きずり、宇宙は機械的に発生し、機械的に動いていると言う愚論に終始している者が多い。では妙なる生命現象さえも機械的に発生し、機械的に一生を過ごし、機械的に終えて行くのかと質問すれば何の回答も出来ない、ただ口をつぐむだけである。要するに、彼等も何か釈然としない矛盾を感じていると言うことであろう。
おそらく、これに対する答を出せる者は誰もいないであろう。なぜなら、自然のすべては有機的な仕組み、すなわち、自然の心(神)の関与があり、それに従って動いているのであるから…。
あなた方が漫然と見ている自然の姿はすべて「神」の手が作り上げた有機的な形と有機的な仕組みを持って存在しているのであり、それに沿って動いているものである。ただ、あなた方にはそれを理解するだけの知がまだ伴わないので真実を知らないだけなのである。その点においては古代人の知の方がよほど勝っていたと言ってもいいものである。そのあたりをしっかり知りたくば、上記の『「神文傳(かみふみのこととぎ)」』の真意をしっかり掴み、その内容を明らかにすることが必要と言うことである。
「神の数学」のすべては古神道の祝詞から見出されたものであり、古神道の歴史は大体三千年くらいであろうと言われている。すると『先代旧事本紀』にある文言は今から約一五〇〇年前あたりに記された伝承の秘事口伝、もしくは神代文字で書かれた文に記されていたものと思われる。しかし、考えて見ると、千年以上の間、口述伝承が変わらぬ姿で言い伝えられたとは考えられない、 それを余すことなく伝えるにはやはりどうしても文字の存在があったと考えなければならないのである。
恐らく、この古い文文字(ふみもじ)を現代のあなたの知を持ってきて読み解こうと計っても無理であろう。出来れば、分厚い漢和辞典でも引っ張り出して来て漢字の意味から調べることである。そこには今では失われてしまった意味が数多くあるので、多分興味をひかれるはずである。僅かな一時ではあるが、面白い時間を過ごすことが出来るはずであり、有意義この上ないはずである。
恐らく、そこにある言葉の意味は既に失われ、文字でさえも大きく様変わりしているはずである。ただ、真実の心を持つ「数」だけが常に変わらぬ永遠の姿を持って現在に至り、更には果てしない未来へと足を延ばして行くことが出来るものである。
要するに、言葉や文字は既に当てにならず、最早、すべてを「数」に教えを乞い、そして学び取るしか方法は無いのである。
しかし、あなた方は「数」を見くびり、「数」に信を置いてはいない、ゆえに、「数」もあなた方には何も教えようとはしないのである。 要するに、お互いに相手を信じる心を持ってはいないと言うことに尽きると言うことであろう。
そこで「数」とは既知の間柄である私の出番ということになるのである。どうも「数」は私にだけは信を置いているようである。
では、先回と同様、「神の存在証明」を数に語らせて大自然の妙を再び探査してみよう。さて、鬼が出るか、蛇が出るのか、はたまた「神」が現れてすべてに止(とど)めをさすのか、そのあたりを楽しみながら、心のいくまでまさぐって欲しい…!!。
まずは、3次元、4次元、5次元までの「神の法陣」を作って貰いたい。要するに、すべてn×nの方陣に1〜9(0)までの「ひふみ…数」を置いたものを用意するのである。 その名は「神の法陣」と呼ばれる神の意思を持つ秩序ある宇宙次元の表である。
すべては神聖にして永遠なる神の意思を持つ「数図表」である。この中には「神の仕組み」が数多(あまた)隠されているのであるが、今のところ、私はまだその中の30〜40ヶを探し出した状態であろう。ここにはまだまだ数多の驚くべき「神の知」が隠されていることを知ってほしい。素直に数を運べる御仁、そして数の心に近寄れる御仁なら、誰でもそれらを見つけることが出来るはずである。
知のエネルギ−に溢れ、洞察力の優れている方々よ、願わくばまだ未発見の「神の仕組み」を探し出し、是非、世の中に出して欲しい、すべては人類知のため、未来の人類の繁栄のためにと考え、渾身の力を振り絞って考えてもらいたい。
では今回の妙なる「神の仕組み」、題して「神の存在証明」と言うものを先回の続きとして公開し、諸氏の知を擽(くすぐる)ることにしょう。ペンでなぞって何回でも仔細を調査し心に刻み込んでもらいたい。そのためには何回での検証することである。
なかなか面白い数の示しであるが、現代知の持ち主であるあなた方には少々奇異に感じられるものかも知れない。何故なら、あなた方の学んで来た現代数学とは完全に軌跡が異なり、質が異なるものであるからである。これらのすべては自然に見事にマッチし、ありふれた概念に溢れながら、シンプルで美しい構図を持っているものである。まさにそれは自然の象図の姿そのものであり、かつ永久(とわ)に不変な姿を見せているものである。それらはこの内容を明らかにするにつれて次第に判明して来るのである。
出来る限り、心静かに向きあい、その素晴らしい構図の神髄に思いを馳せながら時間を過ごす、これまた一つの修行である。
しかし現代西洋科学知のように自然と異なる概念、自然に合わない計算則で見て行けば、すべては難しい、すべては不可解であるとの結論に達するのである。その結果、自然は複雑極まりないものであり、すべては混沌(カオス)と不規則性に満ちているとのなげやりの言葉が出て来て、一歩も二歩も身を引くことになるのである。
この事実は、より深い自然の真実を語るためには「神(0)」を置いた上で語る必要があるということであり、それが「数」の奇跡を呼ぶことにつながるものである。要するに、それが現代人には一番欠けているものであり、従って「現代数学」も自然には合わない欠陥数学なのである。
現代西洋科学はこの「神」を排斥し、棚上げした上での自然探索であったので自然万象の心、その方向性などを十分に掴むことが出来なかった、それがこの100年間ただうろうろするだけで、大きな理論や斬新な理論の発見には至らなかった最大の理由なのである。要するに、基本原理たるものがしっかりしてはいなかったので現代科学のパラダイム・シフト(認識の枠組み)は自然の仕組みとは異なった方向に向き、共同共歩の歩みから外れてしまったのである。まことに痛い人間サイドの過ち(あやまち)である。
「神の数学」はまさに大きな「数の自然真実の語り」であり、人間知の足りないところ、人間知の不整合を十分に描いてもなお余りのあるものである。我々の知、すなわち現代知が余りにもおざなりであり、考え不足であったことがこれを学ぶことにより十分に伺い取れるであろう。
我々は最早、破綻間際であり、完全に前進することを止めてしまった現代数学に新たな自然の概念と「あるべき理」を吹き込むことにより再生させなければならない、学が変われば文明の軸さえもがらつと変わり、新しい世界を生み出すことができるのである。さあ、更に「神の法陣」の歩を進めて見よう、果たして同じ手法でこの「3次元表」に続く「4次元表」、「5次元表」、……を語ることが出来るであろうか…?。【詳細は「神の法陣」中級講座(1)、(2)参照】
さあ、この由々しい「数の真実の語り」が解ったであろうか、まさに数は真実を語って止まないものであり、それは同時に我々の学の至らなさを十分に示しているものである。まずは、それを知ることから始めなければならない。
これらの「数の走り」は現代数学にはまったく無い「数の理」や「計算仕組み」であることはお解りであろう。また、これが天地宇宙自然の持つ現実の計算法であり、本来あるべき「数の仕組み」と言うものである。それは「右上がりの構図」、「左上がりの構図」の示す本義本質はまったく同一であると言うことであり、、それはすなわち、「陰」と「陽」はすべて相等しいと言う自然の示し事なのである。これらの数々の「神の法陣図」はその事実を図と数をもって我々に等しく教えてくれるものである。
これらの仕組みを知ることにより、まさに、何ものかが「数」に意識を吹き込み、あるべき自然の理を余すことなく語らせようと図っていることが解ろうと言うものである。それは恐らく、次元宇宙を創った大いなる意識(神)と言う存在であると考えればすべての辻褄が合うのである。 また、そう考えなければどうしてもこの数の語る「自然の本質」の存在や、それをめぐる「数の仕組み」というものの存在は説明がつかないのであり、その真実を探し出すことも到底出来ないものである。
とにかく、誰が何と言おうとも「数の語り」はこのように厳然として実在し、まさに微動もせず鎮座している事実はしかと存在しているのである。それは誰も否定は出来ない事実であり、真実であることがここに「数」と「図」をもってしっかり描かれ、「ひふみ天地の数歌」を謳っているのである。
ただ、今までは誰もこの事実を解する者がいなかった、そこまで考えが及ぶ者は誰もいなかったと言うことなのである。
さあ、この手法を用いて0,1、…5、7、8、9……の各次元を攻略してそこにある答を出してもらいたい。 それにより、新たな真実が次々と浮かんでくるはずである。
すべては成るようにして成ると言うことが解って来たはずである。知のさとい方は「数」は知を持ち、意識を持っていることを最早十分に感じ始めていることであろう。 そう、素直になり自然に還ることが最も心と体にはいいことであり、心の安易を保つためには大切なことなのである。また、それが本当の自然を知るための近道と言うものである。要するに、先入観を持たず自然のままに物事を見、そして自然のままに考えを進めることが大切なのである。それが今の現代知には最も欠けているのであり、それ故に自然と言う軸芯を持たずに暴走しているのである。
例えばである、ここにある5次元表の「数の走り」を見るがよい、そこには8と言う数を持つ並列数列が現れて一つの新たな真実を懸命に囁いているのであるが、あなたにはそれが解るであろうか。それはすなわち、次のように見ることである。
0=0、8=8、88=16、888=24、8888=32、88888=40 (8の数を数えると、その比は012345となる)
すなわち現代知の表現では次のようになる。0,8,16、24、32、40 → その比は 0:1:3:4;5
これが現代数学による答の算出方法である。しかし、自然はもっと簡単である、それはすなわち、同じ数の並列 こそが自然の持つ数の表し方と言うものである。例えば、ここにある8の同数並列状態のようにである。すなわち、同じ数の並列によりその本質状態を表しているものである。見るがいい…、何と、単純にしてまことに美しい自然的な姿ではないか…!!。
出来れば、0次元から9次元表までを作り、対角線上に広がる同一数の関係を同数並列にして見てほしい。0と9次元は0の並列数、 1と8次元表は2の数の並列、 2と7次元表は5の数の並列、 3と6次元は1の数の並列、 4と5次元は8の数の並列から成り立ち、その全体数は常に9ヶで完了と言う不思議な関係下にあるのである。そこにある面白い意味とは一体何であろうか…、一つ考えてほしい…!!。
見るがいい、すべては9に連なり、9でまとまろうとしているのである。この9こそすべての数の回帰数であり、母体数である0に再収斂するための回帰点と言うものなのである。
〔例〕
3と6次元表 → 111+111111=9→0(1が9ヶ) 4と5次元表 → 8888+88888=72→9→0(8が9ヶ)
1と8次元表 →2+22222222=18→9→0(2が9ヶ) 2と7次元表→55+5555555=45→9→0(5が9ヶ)
さあ、不思議と感じるのなら、そこにある深い意味(道理)を考えて欲しい、まさにこれは一つの宇宙哲裡と言うものであろう。
ここには現代数学的には0、8,16、24、32、40が並んでいるのであるが、これは相対的な数の並びであり、人間の持つ10進法の数の姿を用いて表されているものである。
それらは外側から中心に向かうほど数がどんどん大きくなることを示していが、その意味とは…?。
それは全ての表について同じことが言えることは解るであろう、しかも、そこには大きな宇宙次元的、宇宙哲学的な意味を囁いて何事かを伝えようとしているのである。一体なにを…?。それは到底、自然の知を解さない我々の知では皆目不明なものである。
ひょっとして、これは輪廻回生の秘密を表す「自然の律」かもしれない、それとも、量子物理の唱えている次元はコンパクト化されて見えなくなったとの答の仕組みを説明しているものかも知れない。とにかく、大変面白い題材であることには間違いはない。
遠慮はいらない、自由気ままに想像を巡らし、とんでもない答を見出してほしい。人間の発想力はまだまだ貧困であり、かぼそく頼りないものである。、もっとエネルギ−シュに、もっと大胆に仮説をたてて未知の分野に挑戦してこそ思いは果てるのである。
さて、ここに現れているのは相対的な数理、すなわち、数の大きさで見て来た(現代数学的)のであるが、本来は絶対的な数理(神の数学)用いて秘められた本質を見ることが必要なのである。
そもそも「神の数学」は万像(物質)や万象(意識)の本質(内部、心)を見るためのものであり、それに対して、現代数学は得てして表面の姿、形を見るためのものに過ぎない。我々はそれを称して「最高の知」と誉め、「宇宙最高の学」と自賛していたのである。
さて、この後、6次元表、7次元表、8次元表…を同様に解いてもらうのであるが、少々注意しながら考察してもらいたい。
あなた方は往々にして現代数学知を振りかざして、間違っているとか不整合であると難癖をつけるようである。しかし、それらは、「神の数学」手法に間違いがあるのではなく、現代数学の数の表し方に問題があるのである。そのことは計算を通じて是非とも知って貰らいたい。 <その驚くべき計算法の詳細は「神の法陣」上級講座ai7)(8)(9)を見て欲しい>
〔例〕 「8次元法陣」の数の流れを見てみよう。
ここには0 2 4 24 26 46 48 68 70、の数列が現れるが、その相対比は今までの考察例から判断すると 0:1:2:3:4:5:6:7:8となることが予想される。しかし、このままではその数字が出てくる気配はない。さあ、どうするのか、現代数学的な概念下ではここですべては終わりとなり、理解不能としてただ捨て去るだけである。
これは次のように考えて処理するのである。
24→6、 26→8、 46→10、48→12 68→14であり、次の 70→(54+16)→16となる。なぜなら(54=6×9→0)となり、残りは16となるからである。よって、70は→16となるのである。(9=0より)。
ではあなたの手で7次元表を解読してもらいたい、出来るかな…、さて、はて…。<詳細は「神の法陣講座」中級(1)を照覧してほしい>
ここから解るであろう、なぜ多桁を一桁化するのにそれぞれの数を足すのかが…!、たとえば、ここにある68について見て見よう。素直にそれぞれを加算すれば上の通り6+8=14であるが、正しくは(68=6×9+14、しかし、6×9=54→9→0、よって14である)。または(7×9+7)となり7にもなるのである。 70→16→7、これらは見せかけはまったく異なるが、まったく同じものである。 分かるかな…!!。
現代数学で70と16と7はまったく同じものと言ったら気狂い扱いにされるだけである。 ご用心…、ご用心…!!。
なぜ加算するのかと言ってもその理由は誰も知らない、ただ昔からの言い伝えであるとの言葉が返ってくるだけである。ユダヤのカバラ数秘術やピタゴラス学なども有名であるが、そのに先立つ数千年前には既にギリシャやエジプトあたりでもこの数秘計算が存在したことが数々の証拠の存在により判明している。当時は許された者だけが口頭のみで教えられたと言われ、秘中の秘とされていたものであり、決して文字などでは残してはならなかったのである。
恐らく、現代の数学者達もまったく知らない、ただ不思議と感じているだけであろう。
なぜそれが成り立つのかについては現代文明歴史上、誰も知らなかったことであり、これが歴史上初めての公開となるのである。
私は古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」からその仔細を学んだのである。それまでは諸氏と同様に漠然と桁を足して一桁にしてよしとして悦にいっていたのである。ただなぜ…?と言う疑問は常に付きまとってはいた。
ここで、なぜ数を一桁化すれば答が得られるのであろうか…?、現代人の誰も知らない数の一桁化の仔細(法則)を明らかにしてみよう。上記の8次元表から現れた数を見てほしい。(9=0)
0 = 0 / 0=0
2 = 2 / 2=2
4 = 4 / 4=4
24=(2×9+6)→2×9=0、残は6。24→6 / (3×9−3)→−3→6
26=(2×9+8)、∴ 26→8 / (3×9−1)→−1→8
46=(4×9+10)、∴ 46→10 / (5×9+1)→1
48=(4×9+12)、∴ 48→12 / (5×9+3)→3
68=(6×9+14) ∴ 68→14 / (7×9+5)→5
70=(6×9+16) ∴ 70→16 / (7×9+7)→7 すべて(9=0)より
改めて、上記の/線の右側に並ぶ数列を見てもらいたい。これは左の数列(複桁)を更に一桁化した数列である。要するに、これは我々が「神の数列」と呼んでいる究極の数である。
次の 8次元表の「数の表れ」を見ながら考えてみよう…。
@ 現代数の計算より 0 2 4 24 26 46 48 68 70(Σ=288→9→0)<不揃い、無秩序>
A 古代の計算法より → 0 2 4 6 8 10 12 14 16(Σ=72→9→0) (2差)
B 「神の数学」手法 → 0 2 4 6 8 1 3 5 7(Σ=36→9→0)…<ひふみ九九算>(2差)
C 自然の表し方 → 0 2 22 222 2222 22222 222222 2222222 22222222
(数の個数は36ヶ→9→0、数のΣ=72→9→0)
(自然数は2差である)
< @ABCのすべては同じものである。>
(なぜ数はこのように9になることを求め、0に収斂しようとしているのであろうか…!!。現代知などでは予想もつか ないような大きな数の業仕組みの姿である。そこにあるのは一体何を意味するものなのであろうか…!!。)
あなたは見覚えがあるであろう、その通り、Bは「ひふみ九九算表」にある「聖なる数列」の一つである。
いや、もっと正確に言えば、「ひふみ九九算表」にある真実の数列は5ヶであり、右回りの数列の姿である。それが上半分の「陰」の数列である。また、下半分の5ヶの数列は上半分の数列の逆回りの姿を持つものであり、「陽」の数列と呼ばれるものである。そこに並ぶのは「陰」の5数列と「陰」とは逆回りの「陽」の5数列である。併せて計10数列の姿と言うものである。
要するに、秩序ある数列をしっかり辿って行くとすべての最後には「神の数列」である「ひふみ九九算」が現れてその本質の如何とその仕組みを告げてくれるのである。
私は「神の数学」を開くたびに感嘆の声を上げる、何と言う見事な「数の語り」なのであり、かぐわしい真理の匂い≠ェ漂うものであろうかと…!!。 その度に「宇宙意思(神)の存在」を改めて感じ、襟を正さずにはいられないのである。
今回の見ものは先回(先月)と同様のすざまじい真理のほとばしり、すなわち、「神の法陣」のおける「右上がりの数の走り」と「左上がりの数の走り」の描き上げる驚くべき「答の一致」である。これをして偶然であるとか、たまたまの一致で片づけてしまうような学者は最早能無し、学者資格は無いと言わなければならない。「数の走り」とは現代数学のような意味の無い無機的な数の羅列ではなく、このように深い神の窮理を秘めながら燦然と輝いて永遠に鎮まっている有機的な意思を持つ姿である。
ただ、今までの数学者は余り深く考えることもなく、ただ西洋流の無機質な数の扱いに終始してそれに溺れ、言うがままに邁進してきたのであり、その結果、進むも退くのもままならない現状に至って苦吟しているのである。
それが現代数学であり、自然数学(意識数学)であった超古代数学とは形態や仔細がまったく異なるものである。本来の自然数学とはもっと哲学的な色合いを持つもので、しかも、自然科学の基本をまっとうするものでなければならないのである。
要するに、自然科学の基本とは数理(科学)、哲学、神学を包括してそれら全部に相通じるものでなければならないものであり、共通項を持たなければならないものである。現代知のように科学、哲学、神学と分派し、その間の共通因子、共通回路は何も無い、それどころか、お互いに仇敵のようにいがみ合っている関係はまさに言語道断に尽きるものである。
そもそも、科学、哲学、神学は三位一体として自然を極めることから生まれたものである。
それがいつの間にか、三角関係に堕してお互いを無視し、かつ争いを始めているのである。 何と言う理不尽な醜態を見せているのであろうか……!!!。
さて、優秀な頭の持ち主であるあなた方にはよくお解りであろう。これまで説明して来たのは世界的な謎として有名な古代の「数秘術の基本態」の仔細であり、不明として数千年にわたり尋ねられて来た遥か太古の「数の理」なのである。
歴史上で完全に失われていたはずの超古代の数の知が今ここ日本で甦りを果たそうとしているのである。恐らく、これらはすぐに全世界に広まり、多くの人々が引用することになろう。それはそれでいいではないか、人類の知の向上に役立つならば。
ただ、その前に是非とも、あなた方日本民族が理解し、その仔細や詳細一切を握っていてもらいたい。
確かに、煩雑な計算は無用、それぞれ数の桁を加算すれば同じ結果を生むのである。その大いなる「数の秘密」を今日本の古神道の祝詞である「ひふみ…天地の数歌」が今まで封じ持っていたのであり、今ここで古代に咲いた知の花を再び咲かせようとしているのである。我々は決してこれをあだ花として葬ってはならない。
これが西洋の数秘術の中の存在している「数の一桁化」の失われた真実であり、記憶の回生と言うものである。恐らく、これは日本の古代文献である「『先代旧事本紀』の中の『「神文傳(かみふみのこととぎ)」』の中に記されている「先天の理」と同じもの、すなわち、先史文明の叡智の名残であり、知のオパーツ(場違いな知)とも言ってもいいものであろう。
すると今まで誰も気にも留めなかったが古神道の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」もその分に洩れぬ大きな「知のオパーツ」であったのであり、現代西洋科学と異なる「数」のパラダイム軸足を持った超古代に栄えた先天文明の遺産を語る大変なものであったと言うことである。
現在、西洋の数学者達は0の持つ不思議さに気がつきその正体を突き止めようと大わらわである。しかし、彼の地には歴史が無い、古い歴史が何もない、だから超古代の史証と言うものは遺跡以外には何も残されてはいないのである。その点、日本は世界一長い歴史を持ち、超古代からの遺産知が数多残されている唯一の国であり、先史文明からの引き継ぎものも世界が羨むほど沢山あるのである。
しかし、日本には古い歴史は無いと言う固定観念にとらわれていて誰も気がつかず放りぱなしなのである。そこを探れば0の秘密さえ十分に手に入ると言うものである。そこに描かれている「0の知」は西洋数学が見出している0よりも一段も二段も奥深く、神妙極まりないものである。まあ、当分彼らには見出すことは出来ないであろう。まあ、その差は50年、いや100年かもしれない…。
ただし、「神の数学」が流出した場合にはその限りではない。彼等は理に合った知に対しては極めて貪欲である、短期間で習得することになるであろう。
何と言うことであろうか、これは諺「古きを尋ねて新しきを知る」をまさに地でいっているものではないのか…!!。
まさに、弥栄、「古神道の奥儀」であり、祝詞「ひふみ…天地の数歌」に永久なる弥栄あれと叫びたい…!!。
(平成13年1月分完)
「神の数学」が語る「真実」と「その証明」
≪人類究極の望みである「神の存在」を明らかにする≫ [その6]
2013年2月 謹んで上載
先月の記は古神道に残されている言葉である「双(左右)の決まり」による天地の真実を「数」で示したもの、すなわち、「陰」と「陽」の2元が見事に手を取り合って祝詞「ひふみ…天地の数歌」を歌っている古代の哲科数学の妙技を披露したのである。出来る限り何回でも手と目でしっかりと確かめてほしい。
それにより、そこに結ばれている深玄な天地の仕組みの妙を十分に堪能することが出来るはずである。
我々に解るのは「陰」と「陽」の2元を規則性をもって順次に結ぶことにより完全な自然数がそこに現れて天地の真実の証を語りかけている姿があると言うことである。
我々は営々と長年にわたって獲得した現代知こそ無二無上のものと奢った考えで次々と論証を拡大させ、運用して来たのであるが、それらは単なる独りよがりの思い込みであり、単純な幻想に過ぎなかったことが今になって判って来たのである。
我々は自らの科学知を頼りに懸命に自然界の法則や仕組みを探ろうとして来たのであるが、今や、進歩の種も切れ果て大きなジレンマにさいなまされている状態である。
その理由は自然のあるべき本質を掴まず、ただ表面的な姿を探ろうとしていたことにあるのである。
本来はもっと謙虚に自然に教えを乞い、そこにある基本的な知を真摯に学び取ることが必要なのであるが、しかし、誰も自然を軽んじるだけで、目もくれようとはしなかったのである。
自然と懸命に向き合うことにより、あなたの心にも変化が徐々に現れて、張りと希望と、そして確定した安逸感が生まれ、同時に体全体にふつふつとした自信と使命感が漲って来ることになるのである。要するに、人間界のしがらみから離れると言うことである。
使命感とはおだやかではないとのたまう方よ、本来、あなた方はそれぞれ使命があってこの世に生まれて来ているのである。ただ、それを知らずに世の中のあくたもくた(有象無象)に打ち負かされて余儀なく生涯を終えているのであり、その結果、使命を果たすまで何回でも何回でも生まれ変わりを続けなければならないのである。まずはそれを知ってほしい。あなた方は余りにもその方面には蒙昧無知であり、考えようともしないのはまことに淋しく、悲しい限りである…!!。
さて、前回の最後に記した中に古代の秘法である「天津金木の法」の言葉について少々書き残さなければならないようである。調べて見ると、その言葉については諸説ふんぷんとして纏まったものは一つも無いようである。やれ古代の占いであるとか、神道の秘術であるとか、まさに言いたい放題であり、まさに絵に描いた餅の感がある。 しかも、その割にはまったく実証のかけらも無なければ、そこにある論議も実証不能な言葉によるものであり、戴けないものが多い。自説をすすめるならば少しでもいい、真実のカケラあたりを一つや二つぐらいは用意し、それから語るべきであろう。
ではここで、それらの中からこれはと思えるものを少々取り上げて見るとしよう。
《大意解》→ 天の言葉である「ひふみ…祝詞」は123456789をもって大成する。しかし、9まで進んでもそれは初めの0に立ち還るもの、それが神の算法というものである。また、12345…は直線的に進むものではない。それは回るようにして123、345、567、789と進む。そして最後の数9は元に還り神始めの数0になるのである。ここで申している神始めの元の数とはすなわち0であり、数の初めとはすべては0から始まるものである。それが神界の決まりなのである。知るべし、知るべし…!。
その各数列のΣを見て見よう、123Σ=6、345=12、567=18、789=24、となる。これを一桁化すると6、3、0、6 となって最初と最後の数はまったく同じものということになる。
しかし、事実はそうではなく「金」と「木」と言う完全に異なった性質を持つことを意味するもので、決して同一視してはならないとの例え言葉である。平べったく今様で言えば、それは「陰」と「陽」の言葉そのものを表す言葉である。要するに、これは「陰」と「陽」の言葉の出来る前の大変古い言い回し言葉であり、もはや失なわれてしまった言葉なのである。いまどきの人が解らないのも無理はない。
まあ、そのあたりの真実についてはあなた方の中の誰か、頭脳明晰で洞察力の確かな方が的確な判断を下し、新たな叫び声を上げてくれることになるはずである。まあ、それを気長に待つとしょう。
私が論証し、明らかにすべきものは前述のCとDについてである。これらはまさに祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本体である「ひふみ九九算表」を名指すものであることは間違いない。そのあたりの説明に入ろう。
要するに、3次元の表を作り、これらの数を途中で無理に分離して循環的に置いて見ることである。次の図である。
「法陣」においては横に走る数は天(陰)の数であり、縦に走る数は地(陽)の数なのである。だから天は123と走り、地は345と走るのであり、天と地はまったく別物なのであるが、そのはざまにある3は両方に含まれてしかるべきものなのである。これが太古の神道で神秘とされた天津金木(あまつかなぎ)の法の仕組みであり、失われた古代の叡智の真髄と言うものである。
要するに、同じ手法を用いることによりすべての「神の法陣」の秘密は明らかになり、声を揃えて「ひふみ…の歌」を歌い出すのである。
ただ、頭でっかちの現代人にはそれが見えない、聞こえない、感じられないのであり、その上、余りにも増長慢に陥った心には何も響かず、それゆえに自然をないがしろにして平然と構えているのである。
「数」は相対的な自律性を持って行動し、宇宙を創った宇宙意識と共に存在し、なおかつ、宇宙意識を条件づけている偉大な存在であると言うことが…!!!。
簡単に言えば、「数」は意識性を持つばかりか、いろいろな知さえも秘め持ち、なおかつ、宇宙創造の主である「意識」と共にこの宇宙を作り上げ、かつ「意識」に先立って存在して、「意識」にいろいろと教え込んだ偉大な先駆者なのであると言うことが学者達にも判ってきた」と言うことである。
「ひふみ九九算表(宇宙次元原理表)」についてもっと面白いものを紹介しよう。
同じように「ひふみ九九算表(宇宙次元原理表)」の枠を剥いて見るのである。
それにしても、何と見事な「ひふみ…天地の数歌」の現れなのであろうか、ただ感泣あるのみである。
よく見るがいい、ここには天明さんの言う「真理の9の花」が満開に咲き誇っているでは無いか…。
また、同時に天明さんは「世界の何処を探してもここ(九九)以外には神のマコトの道知らすところはない」とも言っている。こことは九九であり、「ひふみ九九算表」のことを指すものである。
まさに、その通り、まったく彼の御眼力には恐れ入るだけであり、ただお見事の一言である。
本来の「9の花」とは極楽浄土に咲く完全無欠な真実の花であり、純白無垢の「0の花」でもある。しかも、「0の花」とは新しい出発の門出の花であり、純真無垢の生まれ出る魂を祝う花なのである。
要するに、今泉氏はこの言葉を通して「一霊四魂」の姿をじっくりと見たのであろう、まさにその言葉通りのものが今ここに姿を現し、古神道の言う道理を説き始めているのである。が今となってはその言葉の真実を確かめる術とてない。何せ、今泉定助氏は百年前に活躍した御仁なのであるから…!。
この「ひふみ九九算表」の持つ内容にはただ畏れ入るだけであり、頭が下がるだけである。
「神の数学」はまことに由々しい「自然の知」を明らかにするものである。
ひょっとすると「現代数学」のパラダイムが崩れ去ってしまう要因になるかも知れない。
さあここで、更なる検証を行い、そこにある真実をまさぐってみよう。
その真実を十分に学び終えた暁には最早あなた方の「神の数学」に対する疑念はうたかたの泡のように消え去り、心は青空のように澄み切って穢れは消え去り、チャレンジ精神が旺盛になるはずである。 では次にパ−トナ−となる隣の次元を「ひふみ九九算表」から見い出し、一緒にデュエットしその真実を見て見ようではないか。
検証1
検証3
あなた方にもう一つの検証をお願いしたい、別に難しいものではない、一切の雑念を排して考えれば誰にでも出来るものである。楽しみながら数を追って貰いたい。
A 最外枠を取り除いた図の全体数を出す。
B その次の枠を取り除いた図の全体数を出す。
C またその次の枠を取り除いた図の全体数を出す。
が現れたならばあなたの挑戦は見事に完成し,完全な答を得ることが出来たと言うことである。
何と言うことであろうか、あらゆるところから続々と「「ひふみ…」が現れて弥栄とばかり「ひふみ…天地の歌」を歌いだしているのである。そう言えば天明さんもこの言葉を繰り返し叫んでいたではないか…!、何と言うこと…!!。
「ひふみ…」唱えよ、神人共に「ひふみ…」唱えて岩戸開けるのざぞ。「ひふみ…」をとけよ、「ひふみ…」であるぞ、ケ(九)であるぞ、レ(0)であるぞ、ホ(ほんとう)であるぞ。皆の者に「ひふみ…」唱させよ。五柱御働きぞ、八柱十五柱御働きぞ、十連(イズラ)ぞ、いろはぞ、判りたか。「ひふみ祝詞」であるぞ。≫…ひふみ神示より
そもそも数学とは自然を「数」で解く学問のはずなのである、そして、その解かれた学問が自然の理学、すなわち「科学」であり、「哲学」でもあり、「神学」と呼ばれるものである。
それが我々の誇る現代科学と言う異端な学の形態であり、自然知とはまったく相いれないない学なのである。
もし、あなたが現代数学的手法を用いて同じ計算を行うならばばすべては複雑と混沌の暗闇に飲み込まれることは必定である。要するに、現代数学では自然の秘密を解くことは出来ないと言うことである。是非、このことは心に置いて歩を進めて欲しい。
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自然のすべては整数序で成り立つものであり、半分とか、1/3と言う中途半端は存在は自然には無い。要するに、1の次は2であり、2の次は3、3の次は4なのである。その間の存在と言うものは一切無いのである。それが自然の姿であり、天の律である。
またフラクタルとは日本の言葉である「相似象」と同じものであり、ただ西洋科学崇拝者である愚な日本の学者がカナ文字はかっこいいと思ってフラクタルの言葉を使っているだけである。
よく考えて見ると、日本には素晴らしい言葉が存在しているのであるが、日本を卑下し、西洋に憧れる日本の学者達は敢えて使うことを好まず、西洋風の言葉をもって科学の言葉としているのである。
要するに、今の日本の学者達の心は100年前と昔と同じであり、まったく進歩が無いと断じてもいいと言うことである。それにしても哀れなものである。それでは到底世界に進出して気を吐くなどの活躍は夢また夢である。それでは最初から精神的に太刀打ちできないことは明らかであり、遅れをとることは最初から予想ができると言うものであろう。
日本の学者諸氏よ、精神的な強みをもたなければ他国の学者と伍していくことは出来ない、共に伍して行くには自分の国の学に自信を持つことである。そのためには「神の数学」があるではないか、自信を持って「神の数学」を相手に説き、共に語るがよい。十分に興味を持たれて尊敬されることは疑いの無いことである。何故なら、そこには決して反駁の出来ない「数の語り」がキラ星のように輝いているからであり、そこには彼等が好む自然の真実が一杯転がっているからである。
数は万国共通の言葉であり、同時に普遍の真理を相手に伝えるためには無くてはならない自然の言葉なのである。
大自然の歌、究極真理の数(9)の歌を聞こう
完結数≪9≫の大秘密を語る(1)
2013年3月 謹んで上載
この講は整理のために講座(2)の「九の秘密」に移籍することになりました。ぜひ、そちらを御照覧の程を願い致したいと思いますます。
まさに、古代知の究極性を秘めたものであり、二つとない日本の叡智の粋とも言うべきものです。
是非、お読みいただき新たに日本民族としての希望と期待感を目覚めさせるものとして、更には未来への灯りをともすものとして心に置いて戴ければ幸甚です。
完結数≪9≫の大秘密を語る(2)
2013年4月 謹んで上載
完結数≪9≫の大秘密を語る(3)
2013年5月 謹んで上載(5/28)
ガイド
@ 「神の数学」が語る「真実」と「その証明」 (1)…2012年9月
A 「神の数学」が語る「真実」と「その証明」 (2)…2012年10月
B 「神の数学」が語る「真実」と「その証明」 (3)…2012年11月
C 「神の数学」が語る「真実」と「その証明」 (4)…2012年12月
D 「神の数学」が語る「真実」と「その証明」 (5)…2013年1月
E 「神の数学」が語る「真実」と「その証明」 (6)…2013年2月(最新版)
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