ガイド  数のささやき(2)
   

    @「自然の持つ本当の数の調べを考えよう。<1、2,3,4、5,6>
    
    
   数のささやき(2)

自然の持つ本当の数の調べを考えよう<1>
         < その計算法は人間の知とはまったく相容れないものであった…!!>   平成25年11













                                   

   我々の数の計算とは「10進法」と呼ばれるものであり、この数千年間使い慣れてきたものである。学者達の説明によると人間には指が10本あるので指を折り数えるための便宜法として10進法が用いられていると言うことである。
 要するに、この計算法は人間の便宜のための一時的な手法であって、何も自然界に基く尺度計算法ではないものであない。 ハッキリ言えば、人間は己の便宜上のために勝手につくり上げたものであり、何ら自然の法則に基いたもの、あるいは自然則に即した尺度法ではないと言うことである。 まあ、これについては誰も同じような見方であり、反対を申し述べるような御仁もいないであろう。

さあ、そこで一つ考えてみよう、この人間により考案された計算法と言うものは果たして自然の持つ計算法と合致し、かつ自然の持つ摂理をうまく説明してくれるものなのであろうか…??。 要するに、これは人間史上の大問題であり、自然を知るためには避けては通れない問題である。

 本来なら、そこをまずは確認することから諸々の自然研究が始まるのであるが、それが当然の道筋と言うものである。

しかし、いくら調べてもそのような形跡は無い、恐らくは誰もそこまで考えが及ぶ者はいなかったのである。
 要するに、今まで多くの科学者達が自然は難しい、解明困難であると頭を悩ませて来たのもそこに原因があったのである。それはすなわち、人間の計算法は自然にはまったく通じないものであり、ただただ混乱と不整合を招くだけに過ぎないものである。

しかし、今まで誰一人として、それに言及する者はいない、考えることもしなかったのである。
ただただ、この数千年間、誰も疑うこともせずに営々と現代数学の構築に精を出して来たのである。誰も疑わず、誰も疑問も持たずにである。  特に日本人はその傾向が強いような気がする、なぜならば、ただただ西洋の学の後を懸命に追いかけるだけであり、ただただ西洋の学を尊び伏して、そのコピ−を有難く拝領して学ぶだけの姿が目立っているからである。それが、すなわち、自己満足の骨頂であり、文化度の高揚につながるものと感じて頑張って来たのである。それが、コピ−文化の国と揶揄され、軽蔑されて来た一昔前の姿であり、この明治以来の日本の100年の姿である。

 

要するに、これが今までの100年の日本文明の普遍的な姿であり、その偽らぬ文明知の内容と言っても差しつかいないものであろう。

ところが、どう言う訳か、この西暦2000年あたりを境にして、事態は一変する方向に動き出して来ているように思われるのである。
 何となくであるが、少しづつ日本が世界のイニシァテ−ブを取り始めているような気がするのであり、何となく世界の目は日本に向けられ、日本に興味を持ちながら、近づきつつあるような気がするのである。とみに最近そのようなことを強く感じるのであるが…!!。 如何であろうか…!!。

今まで、日本は世界に追い付け、世界に後れを取るなと言う言葉をスロ−ガンにしゃにむに頑張って来たのであるが、ここに来てホット一息ついたら、何のこと、いつの間にか事態は一変して世界が日本を頼りにしながら懸命に後をついて来ている状態に変わっているのである。

何となく、どことなくそのように感じるのであるが、それは私一人だけなのであろうか…!?。

 

昔から、山や野原で道に迷った時には、原点に戻って改めて出直すことが肝心と言われている。それと同じように人類の知が自然とは異なる方向に向かいつつあることが判った現在、それを糺すために一旦、文明発祥の時点まで戻って考えることが必要であり、肝心なことである。
 そのように考えを持ち始めた先端的な学者達は現在、神話、口伝、超古代文献あたりにそのための糸口(ヒント)を求めて懸命に探しているようであるが、恐らくその答となるものを見つけることは出来ないであろう。要するに、現代知を基にしていくら考えても答は見つかることはないのである。

もし、その可能性を求めるならば、その場を日本に求めるべきである。なぜなら、そこには夥しい超古代文書の群が存在し、それらは現代常識ではとても御すことが出来ないものばかりだからである。 それらのすべては、ただ打ち捨てられたままであり、御用立てする者もいないのである。

今まで、西洋知の持ち主達は荒唐無稽な作り話であるとか、意味のない愚な物語であるとか埒のあかないことを言ってただただ馬鹿にするだけであり、否定あるいは無視することで世間体をつくろうだけで、決して近寄ろうとはしなかったのである。

見るがよい、現在は科学、哲学などの人間知はもとより、政治、思想、あるいは経済等の人間知に由来するもの全てが完全に閉塞状態に陥って入るでは無いか…、まさに混乱の真最中と言ってもいい有様なのである…。 ここで誰かが人間知に対して何らかの不審を感じ、何処かに間違いがあるあるのではないかと疑問を持っても、それは一向に不思議はなことではない。

何故なら、あれほど強固で絶対と思われていた現代物理学でさえ、量子力学の出現により、今では古典物理と名を変え窓際に置かれている状態である。そこから慮れば「現代数学」も何時までも安閑としてはいられないはずである。今はまだ現代知の優勢度に押され告発する者もいない。
 しかし、そう遠くはない時に誰かが言い出すのは間違いないことであろう。

 

  さあ、何時もの通りの減らず口をたたいたので、そろそろ今回の本題に入ることにしょう。

今回のテ−マ−は「10進法」の不完全性をえぐり出し、自然算法、すなわち、「神の数学」の確かさを諸氏に説明することである。これはまさに現代文明始まって以来の伝統を持つ現代知の基盤を根本から揺るがすような大仕事であり、恐らくは全世界からの轟々たる非難を受け、軽侮の声が満ち溢れるであろう。それは重々承知はしている、また覚悟もしていることでもある。

考えて見ると、過去数千年間、数計算の仕組みに対して正面きって疑論をぶっつけたり、あるいは反証を掲げた者は誰一人としていない。
 恐らく、私が最初の数学知に対しての反逆者、あるいは謀反者と言われ、身の置きどころも無くなるであろう。 すべては承知の上のことである。

 

確かに、「現代数学」における数の概念はそれほど強固で揺るぎないものと思われて来たものであり、それ故に、今になって「現代数学」は真実を語るものではないなどと否定すれば、恐らくは、身の程知らずと罵倒され、誰にも相手にされ無いことは火を見るより明らかである。
 ひょっとすると、世間からつまはじきを受けて明日からの口糊さえもままならぬような状態にも陥るかもしれない。しかし、それも止むを得ない。

しかし、私は敢えてやらなければならない、何故なら、さかしいようであるが、人類の未来のために、人々の心をユ−トピァに導くためのここ一番の切り札を私は持っているからである…!!。 これが大義名分の御旗であり、「神の数学」の真髄のほとばしりの一切の仔細と言うものである。 
 あなた方がいくら頑張っても「10進法」と言う計算法を用いている限りは、自然の秘密は決して解くことは叶わず、永遠に時を無駄にし続けるだけである。また、それを用いている限り、いくら頑張っても自然の秘密のヴェ−ルの内側を覗くことなどは決して出来ないと言うことである。

その意味で、今回からは人間の作った「10進法」の誤りを徹底的に追及して見たいと思う。せめて直感的な確かな目を持った方々にでも巡り合うことが出来ればまことに幸甚であり、私の心も高なって、希望を持ちながら容易にそれらを楽々と解き放つことが出来るであろうし、また、心も休まるはずである。 しかし、逆に無関心と白眼視が目につけば心は私の心は萎え、しどろもどろになって手を休めてしまい、講義も休むことにもなるであろう。要は「現代数学」と「自然の象」の間には何らかの関係が見られるかと言う7ことである。それが問題なのである。

 

要するに、今回の「神の数学」は今までのように数の計算を経て答を出して、その検証に走るものではない。ただ、自然数の計算を経て答を出し、それを確かな目と純な心で眺めるだけでいいのであり、その姿を追い、見つめればいいだけなのである。
 要するに、そこに現われた計算答の「神の数学の数の作られ方」と「10進法による答」の姿を見比べるだけであり、ただ眺めるだけでいいのである。 それがすべてであり、それで終わりなのである。,

ここで最も必要なのは、数学的な知ではなく、緻密な目と真実に対する審美眼、そして素直な心と冴えたる直感的な能力なのである。

要するに、自然の中に存在する秩序や調和を見通すだけの大胆で繊細な目が必要であり、それを直感的に感じられるかどうかと言うことである。

すなわち、人間の知などの曖昧なものはいらない、必要なのは自然一般の真実を見通すための素直な目であり、直な心が必要と言うことである。
 そのあたりの事情は答を見比べている中に追々判って来るはずである。ただただ、素直に考えるだけであり、素直に見るだけでいいのである。

 

さあ、まずは「神の法陣表」を掲げておくので指示に従って計算を進め、全体の構成仕組みを見てほしい。すべては隣の次元との差異の計算であり、対比計算の答を見るだけである。 心してその計算結果を見て感嘆の声を上げて、出来れば「神の数学」を祝福して貰えれば十分である。

 

計算方法は右隣の大きな次元体の該当数列から左側の同一該当次元の数列を引き算するのである。その場合、10進法の場合には計算機を用いて計算し、「神の数学」の場合は「神算法」を用いて答を出すのである。まことに、至極簡単で、単純な計算である、しかし、その答はまったく異なる結果が現われてあなた方を驚かせるであろう。一体、どちらが正しいものなのか素直な目と直な心で判断してもらいたいとと言うことである。

果たして、あなたの目にはどちらが端整であり、整合性を持つものと映るのであろうか…!!?。 どちらが存在性が高いのであろうか…!!?。

「神の数学」の演算法は「神算法」を用いる。それは「数」はプラスの数のみで。マイナスの数は無いと言う計算法である。要するに、マイナスの数が出た場合には、それをプラス数に変えて計算を行うのである。この計算法が「神の数学」の基本中の基本と言うことであり、大切なものである。

 

ある宗教では御本尊の神の名前を「スの神」して祭っているようであるが、本来は「数(ス)の神」が正しい名前である。「数(ス)」を神になぞらえているところは、まさにほんまものと言うべきであろう。その内容仔細はあまり知らないが本当の神道の心を知っている人々なのかもしれない…!?。 
 また、私も同様に「数」とは神であり、我々に色々と諭してくれる偉大な存在であると思っているのは確かである。それは誰も否むことは出来ない。

  
  



 同じ直線上にある数列、すなわち、一つ上の次元表の数列から、一つ下の次元表の数列を引き算したもの、それが下の@AB…であり、
その答えが、=の右側にある数列の姿である。 ここには十進法の答(左側)と神の数学の答(右側)の二つが並べてあるので比較するがよい  

 要するに、同じ問題を「10進法」で解いたものと、更には「神の数学」で解いたものを並列して掲げてあるものである。一つ自分なりの審美眼と洞察力を用いて出来る限りその真実に迫って見てほしい。すべからくは自然の理であり、神の謀(はかりごと)の現われなのである。

これは「神の法陣」を用いて行う一つの「マトリック計算法」と言ってもいいものである。なぜなら、ハッキリした数の流れを利用してヴェ-ルの奥にある見えない真実に迫ろうとするものであるからである。



 「数」が囁く「真実の数計算の在り方」とは…??、 その真実を求めて見ようではないか…!!。

 さあ、じっくりと次に掲げる計算表を見てほしい、必要なのは素直な審美眼と鋭い洞察力である。



左側の図が「10進法」の計算次第であり、右側が「神の数学」の計算の姿であるが、ここには何らの差異は認められない。まったく同一な姿を見せている。しかし、現れた計算答の数列をよく眺めることである、そこには凛とした秩序、あるいは驚くべき調和を持つ数列が綺羅星のように並び、あなたに何事かを囁こうとしている。その本舞台が次から始まる一連の数の囁きなのである。 しっかり、よき目とよき心を持って観賞してもらいたい。これは一つの「神の手になる永遠の絵画」であり、数の織りなす無窮の金字塔なのである。

 



ここにある「10進法」の数の並びを見るがよい。そこには数々の数の不整合やバランスの悪さ、あるいは意味の無い不整然数が並んでいて、見ているだけで不愉快になるような数の並びである。一体、この整合性の無さは何に起因するのであろうか、調べれば簡単に判るはずである。
 それが自然との調和を異にする原因であり、自然の計算とそりが合わない大きな理由なのである。

それに比べると右側の「神の数学」の数列は整然たるものがあり、一見するだけで心に調和が生まれ、何となく心が和んでくる。要するに、この事実こそ「10進法」は自然の轍と異にする異形の計算方式であり、自然の心とはかけ離れた不整合性を持つていることを物語っているものである。



どうであろう、「10進法」の不整然たる数の並びはますます目立って増えて来ている。それに比べて「神の数学」の整然性はますます冴え渡っている、その姿をシッカリと見据えてほしい。確かに、何処まで行っても「10進法」の不整然とした数の並びはそのままであり、対する「神の数学」の数の並びは何処まで行っても見事に整って何かを囁いているようである。
 それは一見しただけで判るはずである。確か、アインシタインだと思うが言ったではないか、「宇宙自然の真理は単純で、美しく、そしてスマ−トである」と…。 その意味はこの「10進法」と「神の数学」の計算結果を対比した表を見ればよく判るはずである。



 まあ、キリがないのでこのあたりでストップしよう。後は審美眼(?)と洞察力を用いてここに現れた答となる数列をシッカリ見据えて、その上で是非を判断する、それが今回の目的である。 まさにこの数の並びは奇蹟であり、未来永劫にわたって語り継がれていくことになるであろう…!!。

 正しい目、飽くなき洞察心を持っている方は一覧するだけで現代数学の計算法は何かおかしいと気づくはずである。
 要するに、目を凝らせば、10進法とは秩序、調和の無い計算法であり、自然的な流れには沿わない不完全なものであることが解るはずである。


 いかがであろう、この後、この計算は無限に続き、無限に繰り返されるのであるが…!!。

 もし、疑いを持った方は是非この続きを行ってその正しさを証明してもらえればまことに結構な事であり、ただ感謝する次第である。

 

 問題となるところは次の諸点である、考えて戴こう。

 

@   ここに並ぶ同一数の姿を順に見てほしい。そこには紛れもない自然数が正しい秩序を持って次々と並んでいる。その純正な姿を見て感激しない御仁はいないであろう。 すべては数が数を紡ぎ、数が数を生んで成長しているのである。

その姿は順にして、序があり、また、是にして、妙を得ているものばかりである。

まずはその姿から見始めることにより、現代知に冒されているあなたの頑(かたく)な気持ちを少しづつほぐして行ってもらいたい。

 

A   なぜか「10進法」には数字の乱れが多発している、しかもその箇所は数が不足した場合に隣から借りる場所で、マイナス数の出る場である。それ故に「10進法」には滑らかさや、整然とした配置が失われてしまい、すべてにわたり無秩序な突起した数が発生し、なめらかさを失うのである。要するに、自然にはマイナス数は無いのであり、ゆえにマイナス数を用いる「10進法」には整然とした流れ、自然的な素直な流れはまったく見られないと言うことである。

一方、「神の数学」はマイナス数は無い、故に、現われた全ての数は滑らかに流れているのである。しかもそれは「ひふみ…天地の数歌」を口ずさみながら流れているのである。その荘厳極まりない姿をシッカリと見届けることが肝要である。 そこにはただただ驚きと畏れがあるだけである。

 

B   「神の数学」の答の部の縦に並ぶ最初の数列(□で囲んである)を見てほしい、そこに流れているもの、そのすべては「ひふみ…天地の数歌」であり、たゆまぬ自然の流れのままに秩序と調和を持ちながら9次元を分節にして果てしない循環を繰り返しているのである。

 

C   最初の数を除いた2番目以降の数を見るがよい、すべては同一数の流れの姿である。しかも、それを加算(Σ)した数の流れにも答がある。
     すべてはまたもや、「ひふみ…天地の数歌」の流れそのものである。何と言う奇蹟であり、驚くべき天啓の数の出現なのであろうか…!!。 

 
 D この図をしっかり調べるがよい、 すべては8の次は0であることを謳っているではないか、これこそまさに9=0の自然証明である。
    この9=0の証明こそが自然は循環世界の理であり、自然数もそれに従って整然と動いていると言うことである。




 果たしてこれは偶然なのであろうか、いや、これだけ多数の秩序ある出現は決して偶然などではない、すべては必然の流れであり、大いなる神の意志の現われと言ってもいいものである。 
                                         <これらの資料は「神の数学」上級講座bUより部分転載>。



 これらの「神の方陣」の描く驚異の「数物語」を見る度にただただ感じ入るだけであり、恐れ入るだけである。それにしても、一体誰がこのような寸分狂いの無い宇宙知の情報構図を作り上げたのであろうか、また、一体誰にこの聖なるメッセ−ジを伝えようとしているのであろうか…!?。

 我々に判るのは、そこには何らかの「大いなる意思」が働いていると言うことである。その「大いなる意思」は「数」と言う言葉に託して聖なる宇宙の叡知の存在を何者かに伝えようとしているのである。その対象とするのは恐らく、大宇宙の中の迷える知的な種族達であろう。それは我々人間種かもしれないし、または別の成り上がりの知的な種族達かもしれない。

 

我々はもっと大きく目を開いて真実の囁きを感じ取らなければならない、井の中の蛙のように自分達の領分に固執して他の世界のことを知ろうとしない限り、何時までも羽ばたくことが出来ず、ついには全員が憤死すような羽目に陥ることになるであろう。せめて、僅かな人々でもいい、目を開けて闊達な法則の存在とあるべき秩序立った外部世界の姿を是非かいま見てほしい、すべては真実なのである。

要するに、新しい意識を持った種として人々を啓蒙し、人々の心を目覚めさせことが必要なのである。そうすることにより、人類は眠りから覚めて本来のあるべき真実を知ることになり、自然と共鳴しながら歩むことの大切さを知ることになるのである。要するに、人々の目覚めには未来は懸かっているのであり、その目覚めにより人類は更なる未来に向かって歩を大きく進めることが出来るのである。

まさに、今や人類は新しい種、大いなる宇宙の意識とコンタクト可能な新人類種の誕生が必要な時にさしかかっている、そのための一つのガイダンスとなるものがこの「神の数学」であり、古神道から現われた「数の語り」と言うものなのである。

要するに、その先駆けとなる手引きの書として現代数学体系の誤謬点、すなわち現在の数学体系の矛盾を確かめて、自然と共通する新しい数学手法を確立しなければならない時期に来ているのであり、それらすべては日本から始まろうとしているものである。

 

ゲ−デルの不完全性定理は一般的には大変難解である。しかし、その内容を簡単に言えば、現在の数学体系は自己の無矛盾性を証明することは出来ない、不可能であると言っていることと同じである。

しかし、それは甚だ当たり前のことである。自分の作り上げたものを自分で批判する、それは出来ない、不可能と言っているだけである。しかし、それは「現代数学」の中においてのみと限定されるべきである。何故なら、「現代数学」は自然的には不完全なものだからである。

たしかに「現代数学」における自己的な矛盾の存在は誰にも判らない、何故なら、それを作り上げたのは我々だからであり、ゆえにその矛盾を見出すには当然第三者的な目が必要と言うことなのである。

 しかし、「神の数学」の出現により、ゲ−デルの第1不完全性原理 第2不完全性原理はもろくも破られたのである。
 それを知りたくば、ここに述べた計算の姿をよく調べることであり、それによりすべては明白になって来るはずである。
 
 要するに、「神の数学」では、ある程度の計算を重ねるとそれ以上の計算は不要なのである、なぜならば、ここに並んだ数は自分で自己増殖して正しい答をどんどん自分で出していくからである。 それは現代数学の計算法などではとても無理な事であり、想像も出来なかったことである。

  
これらはすべて古神道の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」の示す「天地の大はかりごと」であり、 それを「数」に託したものである。

 

 しかし、悲しいことに古神道の護り人である日本民族はこれを信じようとはしない、ただ、無視するだけであり、顧みることさえもしないのである。

 我々日本人でさえ信じられないものが、何で世界の人々に理解され、人々がこぞって語りあうことが出来るであろうか…!!?。
 今、世界中は新しい叡知の出現を待っている時であり、それが現われない限りこれ以上文明を維持することは叶わない瀬戸際であるが…!!。
  それはどの国も問わず、全ての民族に理解可能な「数」で描かれているものであり、最も望ましい形を持っているものである。しかし、それさえも信じられないとうそぶいているのである…!!。何てことであろうか…!!。
  かくして「古神道」はまたもや長い眠りにつくことになるのである。
 
   
  
  さて、さて、次に古神道が目覚め、再び甦りを果たそうとするのは100年後であろうか、または200年後あたりであろうか…!!。
  ただし、それまで人類が生き永らえ、日本民族が健在であるならばの話である。、
                                                                    2013年11月の記 完 




        数のささやき(2)

自然の持つ本当の数の調べを考えよう<2>
         < その計算法は人間の知とはまったく相容れないものであった…!!>   平成25年12

       
 「神の数学」、それははからずも、20世紀末に古神道から這いだして産声を上げたものであり、21世紀の初頭に現代の世に甦りを果たそうと名乗りを上げ、その存在を懸命に主張して止まないものである。それが奥儀祝詞から現れ出た「数の語り」であり、宇宙自然の「永遠な真理」、「永遠な法則」の変わりない存在を語り上げているものである。 我々は民族として決して、おろそかに扱い、または、軽んじたりすべきではない…!!。  

そもそも、古神道の奥儀祝詞から現れ出た「数の語り」とは誰でも知っているものであり、また誰も知らないものでもある。

それは、余りにも平平凡凡の言葉の故に学者達からは見限られ、とうに決別を言い渡されているものである。今では神道の護り主である神官からも引導を言い渡され、今ではそれを唱え奉る神官も疎らな状態である。まさに哀れな神道祝詞であり、今や風前の灯と言う状態である。何ともはや…!!。今や日本人は完全に神道を見限り、西洋科学知に鞍替えして持てる全能全知のすべてを預けてしまっているのである。

 

 恐らく、今唯一残っているのが宮中の行事の際に奏上されるものであり、しかも今も変わらず古式にのっとって執り行われているものと聞いている。 要するに、宮中の聖なる場である八神殿に祀られているそれぞれの八柱の神々に「天地の数歌」を唱える奉ると言う一つの宮中行事である。

それは一つずつ数を唱える度に一神づつの神に詣でる、それによりそれぞれの神の境地に達し、同時に、それらの宇宙原理と一体になることが出来ると言われているものである。

しかし、ここに不思議なことがある、祀られている神々は八柱(八体)であるのに、なぜか1から10までの数を奏上するのである…!?。
 それが誰にも解らない謎であり、まことに不思議なことでもある。しかし、その謂れや意味などは誰も知らないのである。。

つまり、1〜8までは当てはまる神(宇宙原理)が存在するのであるが、ここの(9)と、たり(10)には該当する神が無いのである。ただ、この点については代々、秘すべしことであると言われているだけであり、その理由は誰も知らない。それは宮中の一つの謎とされているものである。

 

しかもそれは古式ゆかしき口調言葉で奏上されて初めて「自然の魂」を鎮めることが出来ると言われている最重要祝詞である。要するに、同じ言葉を重々しく、かつ重厚に三回奏上されて、それで終わりを告げるものである。

 

    ひと、ふた、み、よ、いつ。むゆ、なな、や、ここの、たり…。

    ひと、ふた、み、よ、いつ。むゆ、なな、や、ここの、たり…。

    ひと、ふた、み、よ、いつ。むゆ、なな、や、ここの、たり…。

                    このように厳かな口調で3回繰り返すのである。



 あなた方にはもはやお解りであろう、ここのとは9(0)であり、たりはそこまでとの終止符、すなわち、「足り」である。要するに、状態が満ち整って完了したことを意味する言葉なのである。たしか、当地方に伝わる三番叟と言う古代の郷土舞い踊りの言葉には「とうとう、たらり、とうたらり」と言う言い回し言葉があるが、これなどはまさに「10は足りを意味する言葉であるぞ」を暗に囁いているものである。

 

また3回繰り返すと言うことは自然とはすべて循環体であることを暗に教え、その仕組みをサジエスとしているものである。
 それは古代の自然知をそのまま受け継いできた一つの伝承的な暗黙知であり、3千年の時を紡ぎながら古神道と言う隠れ蓑の中で語り継がれて来たものである。しかしである、それはまさに驚くべき内容を伝え持つ呪文言葉であり、とても信じられないような古代からの大いなるメッセ−ジである。


 繰り返し、何回も言うようであるが、この奥儀祝詞の「ひふみ…の天地の数歌」は単なる呼び名であり、ただの名称に過ぎずそれ自体が何ら効力を持つものではない。 要するに、それはその後に続く本体の最初の言葉を取って呼び名としたものであり、一般に通用している呼び名、すなわち、通称と言うものである。しかし、余りにも長きにわたる伝承ゆえに本体はすっかり忘れ去られたのである。

本来の宇宙原理的な要素を持ち、暗黙知的な内容を持つものはその「ひふみ…の天地の数歌」の本体である「ひふみ九九算」なのである。要するに、「ひふみ九九算」こそが奥儀祝詞である「天地の数歌」の本体そのものであり、その本髄とも言うべき「天の理」が秘隠されている天与の図なのである。

例えば、国歌「君が代」では歌の最初の出だし部分をとってその歌の名称としていることはお解りであろう。その次に本体が続いて存在し、それが「君が代」と言う歌の本髄部分であり、深い意味と現代知を凌ぐばかりの内容を持つものとして引き続き存在しているのである。

まさに同じ事をここでも行っているのであり、それが名前の「ひふみ天地の数歌」であり、その真髄本体、すなわち、「神の秘密(天の
理)」と言うものは本体である「ひふみ九九算表」の中にしっかり鎮座し、あたりを睥睨しているものなのである。

知るがいい、「ひふみ九九算表」の最初の言葉は「ひふみ…」と言う言葉から始まっていることを…!!。そして知るがよい、2番目も3番め4番目…などのすべての「ひふみ九九算数列」とはその中に必ず「ひふみ天地の言葉」が等しく埋め込まれていることを…!!!。

 

要するに、神道の発生以来3千年と言う長い年月の経過の中で何か国を左右するような重大事が突然起り、それ以来、肝心の本体の部分は行方知れずとなり、ただ名称だけの存在になってしまったのである。大胆に察すると、恐らくはあの行方不明となっていると言われている「カムナガラの道」もこの「ひふみ九九算表」を指しているものと思われる。

 

考えて見るがよい、「カムナガラの道」とは、すなわち、「神代(遥かな先史文明)」から伝わって来ている神の御心のままで、一切人為を加えていない日本固有の道」であり、神道とも解されているものである。 そして、その内容本体は失われたままであると伝えられている… (広辞苑より)

要するに、神代(先史時代)から日本だけに伝わっている神のままの心、すなわち「天の摂理」、「自然の法則」であり、人間の醜い欲心などには一切汚されてはいない、自在闊達な宇宙自然の法則の存在を述べているものである。それがすなわち、「カムナガラの道」と呼ばれていた失われた古神道の真髄であり、本来の日本民族の心と言われているものである。


 それらは現代西洋科学知とは基本軸がまったく異なるものであり、現代の常識知とは一切噛み合わないものである。それ故に、学者達は理解することが出来ず、ただただ邪魔もの扱いにし、長い間完全無視を決め込んでいるのである。

 

我々の「現代数学」には欠陥は微塵も無いという、極めて傲慢な見識と高飛車な思いが目と心を曇らせ、常に発信されている自然からの数学的メッセージを誰も読むことが出来ないのである。 しかし、そのことさえも知らない学者達が大勢いるのは大変淋しい限りであり、心が痛むことである。
 彼らは間違った基礎の上に現代西洋科学と言う仮空の楼閣を建て、自然の探索に懸命になっている。しかし、彼等は決して登ることが出来なく、ただ眺めて騒いでいるだけである。そして行きついたのは自然は複雑であり、カオス(混沌)が支配していると言う理解不能な言葉である。

 

今ここに「神の数学」と言う古神道に封印されていた古代の数体系が目を覚まし、這い出そうとしている。それは人間の知のみで作り上げられた西洋科学とはまったく異なるもの、まさに正反対のものなので西洋科学知を奉じている学者達にはまったく解くことが出来ないものなのである。

恐らくは、現代の学者達の99%はそんなものがあるはずが無い、あったらお目にかかりたいと言うであろう。 しかし、彼等は偽善者であり、気がついても気がつかない振りをしているだけである。よしんば気がついてもただただ無視を決め込み、口には出さないだけなのである。

なぜならば、日本には100%それに合致する素晴らしい叡知が目の前に存在しているが、誰もそれには気がつかない有様であるからである。
 まさに、それは猫に小判の諺の通りのものと言ってもいいであろう。 いや、気がつかない振りをして西洋科学知にすり寄っているのかもしれない。 それがあの古神道の奥儀祝詞である「ひふみ天地の数歌」であり、それに続く本体の「ひふみ九九算」と言う古今無双の「宇宙の叡知」を語る「神々の数図」の姿である。

それこそまさに、一切の人間の知が入ることを厳として拒んでいるものであり、宇宙自然の心のみで創られ一切人間知が関わってはいない自然の超叡知の群なのである。まさにそれは古代に存在したが今では行方知れずとなっている大いなる古代言葉「カムナガラの道」の姿であり、その再発見の姿なのである。

「ひふみ天地の数歌」である「ひふみ九九算」はまさに「大自然の心」を歌っているものであり、日本にだけ残されている日本固有の自然の学と言うものである。 それはまさに八百万の神々の心の存在証とも言ってもいいものであり、自然の天律の存在を厳かに歌い上げているものである。
 
 

 そこ、すなわち、「ひふみ九九算」には大勢の神々(九神)が存在し、思い思いに真理の歌を歌い、話しかけているのである。しかもすべての神々は兄弟神としての存在であり、それぞれはそれぞれの分身と言ってもいいものなのである。 何故なら、もともと一つの神が二つになり、三つになり、四つにとその姿を変えているに過ぎないものだからである。 しっかり「ひふみ九九算」を読めばその道理は誰にでも判る簡単なものであるが、誰もそこまで追求しようとはしない。(計算をすれば誰にでも判ることである)
 その証拠に、すべての神々の背骨を見ると元の神の姿写しが丸々見えるのである。そのあたりを心して、もう一度よく確かめて見てほしい。
 また、日本神道の唱える自然との共生や循環などの言葉ははまさに自然と通じる大道と言うものであり、すべては「ひふみ九九算」の中ににある。
 要するに、これらの主張のすべては、ここ、すなわち、「ひふみ天地の数歌」の本体に由来しているものでありそこに歌われているものであると言うことである。
 


 また、「ひふみ九九算」に並ぶ神々の姿を見るがよい、まさに、それらの姿はすべて柱の形であり、柱の恰好である。それにより祖先たちは神々の尊称を「柱」と命名したのであろう。見て見るがよい、その神々は横から見ても、縦から見てもまさに「柱」と呼ぶにふさわしい姿を持っている。 
 これらすべては、「ひふみ九九算表」の中にゆくりなく鎮座しているものである。時間のある方、ほとばしる知にを持て余している方は調べて見るがいい、この「ひふみ天地の数歌」こそは日本の神々の考察にはもってこいの図と言うものである。今の日本の宗教家を総ざらいしても、これらのことが語れる者は誰一人いないはずである。人々に「神の道」をを教えようとするなら少しは勉強し、熱い心で「ひふみ天地の数歌」を語りあうことである。せめてこれからは「ひふみ天地の数歌」をないがしろにし、嘲ることだけは止めるべきである。なぜならば、「ひふみ天地の数歌」だけがこの混迷の世の中を明るくして人々の心を癒し、明日への活力を生みだす最も強い力を持っている唯一のものだからである。

 まずはその前に、「ひふみ天地の数歌」にある天の律をしっかり見出して学び、その始末始終を何回でも検証すべきである。

 この「ひふみ天地の数歌」、それは何千年、何万年経とうが決して古くはならず、何時までも新しいままで常に息を吐き万感の思いをこらし続けているものである。、 また、それは決して新鮮味を失わず、常に新しいままの姿であり、 常に真実を語りながら、永遠に生き続けているものである。

 

先月から誰も知らない、自然の計算法、すなわち、「神の数学」の持つ独特の自然数の計算法を紹介しているのであるが、お解りであろうか。そのすべては現代数学の計算法には無い計算法であり、自然数による独特の計算法と言うものである。要するに、現代数学の計算法を用いている限り、「数」は決して口を開かず、何も語ろうとはしない。どうしても「数」と会話したいと思うならば、「神の数学」の持つ自然の持つ特殊な計算法を学ぶことが必要であり、それを見出すことにより大自然宇宙の本当の姿とそのこ言葉を垣間見ることが出来ると言うものである。

そのような意味で、先月(11月)においては神の秘密の自然算法、すなわち、「神算法」を用いて自然数を計算し、現代数学算法と対比するために並列的に掲げて置いてその是非をあなた方に問うているのであるが、さて如何であろう、少しはお気に召したであろうか…!!。

まあ当分の間は現代数学との葛藤があるであろうが、まあ、それもそのうち納まることであろう。まずは自分の心を信じることである。

さあ、今回はもう一つの自然算法である「みそぎ算」と言う「神」の計算法をあなた方にご紹介申し上げることにしよう。

「みそぎ」と言う言葉は古代からの伝え言葉の一つであるが、今ではすっかり内容が陳腐化してしまい、単に神の前に出るために体を洗い身を清めることなどの日常的な行為に矮小化されてしまっている。しかし、本当はそうではない、それは本来神の前に出るには洗心無垢な状態が必要であり、汚れた心や、嘘で固まった心を持って神にお目見えすることは罷りならぬと言っているのである。本来、「みそぎ」の意味は身を清めるのではなく、心や魂を清めて本当の穢れを払って神の前に膝まずくことである。そうすることにより初めて神とのご対面が叶うと言われているものである。

今では「禊(みそぎ)」と言う言葉も殆ど聞かれなくなり、ただ政治などの舞台で面白く、おかしく利用されて人々の顰蹙(ひんしゅく)をかっているだけである。まさにに失敬で間抜けな限りであり、「神」を愚弄するばかりの罰当りな言動と言えよう。一体、「神」を何と心得ているのであろうか…!?。

そこで改めてここで本来の神事である「みそぎ」と言う言葉の意味を復活させる必要が生じて来たのである。それも私の今回の仕事の一つであり、定められている今生の定めと言うものであろう。まあ、おかしければ笑うことである、遠慮はいらない、可々大笑、かんらかんらとお笑い下され。

さて、本来の古来言葉である「みそぎ」の意味を申し上げたい。一言でいえば、それは自然との「心の語り」を交わす際に嘘偽りのまったく無い「洗心」の状態になるための一つの心得であり、その作法を意味する言葉である。それはいわば、人間の欲望をかなぐり捨て、魂の本質をさらけ出した状態を指すものであると言えよう。

要するに、我々は知らず知らずの中に身と心は金銭欲、名誉欲などのしからみに引っ張り回され、雁字搦めになっているのである。それらの全て取り払って素直な心に還って自然の状態に身を置く、それが「みそぎ」を済ました状態なのである。要するに、それは生まれた時の心、すなわち、あの世とこの世の狭間に身を置いた無垢無心の状態であり、いわば幼子の心である。それが「禊(みそぎ)」のあるべき本当の意味なのである。

古代においては「禊(みそぎ)」の字は単体では使わず「禊(みそぎ)」と「祓(はらう)」が一緒になった言葉、すなわち、「禊祓(みそぎばらい)」と言はれるものであり、古くは古神道の大切な修行道の一つとして盛んに用いられて来たものである。

その意味とは「みそぎ」状態になることにより一切の禍々しい凶の穢れの一切を心から払い落として、清浄無垢な状態になる、その作法がいわゆる「みそぎばらい」と言う作法行事であり、それを無事に終えてはじめて「神」との正式な御対面が叶うということである。もっとハッキリした「禊」の意味を知りたくば、習うより慣れろの言葉通りのものであり、禊算を何回も行っていると自然々に神道のあるべき心も解って来るようになるのである。要するに、それと同じように、神の数学」も神の心を戴くための一つの修行道と考えてほしい。

それは「神道」も「数の道」もまったく同じである、やはり天と地のみそぎを受けてはじめて本質と言うものは出て来るのであり、更には自然の本当の心が解って来るのである。それは恐らく、これらの二つは自然の道をまさぐるためのかけがいの無い「自然の理法」と言うものであり、「神の道」の定法と言ってもいいものであろう。
 それは何回も、何回も「みそぎ算」を行なうことにより初めてそこにある本質やその心が見えて来るのであり、それと同時に、あるべき自然の本当の姿と言うものもがだんだんに解って来るのである。おそらく、今の現代西洋知にまみれているあなたには「猫の耳に念仏」と言った状態であろう。

さあ、余分なことを言い過ぎたようである、今月の本題を急いでまとめて置かなければならない。


 「神の数学」には一種独特な計算法、すなわち、「禊算」と言うものがある。要するに、一つの数を陰(天)と陽(地)の作用をはじき出すための算出法であり、あるべき「数の本質」を探り当てるための一つの計算法と言うものである。そこから明らかになるのは現代数学が用いている(+)と(−)の本当の姿とその意味である。この(+)と(−)の実相、すなわち、その本当の意味は誰も知らないと言ってもいい。我々はただこの言葉を用いて虚ろな説明を繰り返しているだけであり、さもあらんと感じさせて、人々を煙に巻いているだけなのである。

要するに、(+)と(−)とは自然には無い「虚」の言葉であり、人間知が作り上げたバ-チャル(仮想)的な言葉なのである。今や、それは日常的にあらゆる場合に使われ、真の意味も知らずに猫もひゃくしも使っているものである。しかし、誰も気にも留めようとはしない、当たり前に使っている。

 (+)の本質は…?、(−)の本性は何なのであろうか…??、いくら問うても誰も答えられはしない。


 ただ、観念的、概念的な言葉を用いて、さも得意げに語ってはいるが、如何なる学者でも完全な説明は出来ないはずである。第一、自然には(−)なんと言う姿はまったく無い、それは果たして、どのような意味を持つものなのであろう…??。そのあたりを是非伺いたいものである。
それはまさに究極の概念言葉であり、人間が作り上げた最大の「虚の言葉」の一つなのである。

さあ、これから「みそぎ算」のこと始めを講義申し上げることにする。それは行うには易いが、考えるに至っては大変難しいものである。
 何故なら、現代人にとっては初見の計算法であり、今までの現代数学概念には全く無いものだからである。確かに、西洋科学知は「見えるもの」の表面だけを探索してそれですべては終わりであり、その裏にある本当の真実を見ようとはしない。例えば、人間を例に取ると、ルックスが良いからとか、素晴らしい邸宅を持ち、高価な車を持っているとかのコンテンポラリ的な判断で人間を見るのが一般的であり、その人の人格とかその心とかは余り追及をすることは無い。しかし、本当に大切なのはその内面性であり、心、その本質であり、それが長い人生に大きく関わって来るものである。

もう少し、精神文明が発達すれば追々そちらの方が大切であると言う概念が一般化するであろうが、今のところまだその兆しは見えては来ない。 今は物質文明が精神文明に変わる狭間時であり、人々の意識もこれからは大きく変わるはずである。でもまだ50〜60年くらい先になるであろう。

数字もまったく同じなのである。数の持つ本質を見てこそ初めて自然の真実的な存在が解るのであり、数の語り上げる自然の知こそが本当の自然の道を語るものである。だから私は現代数学は「見えるもの(この世)」、すなわち物質世界を調べる数学であり、「神の数学」は「見えないもの(あの世)」、すなわち、意識世界を探索するための数学であると言ってはばからないのである。


 「神の数学」は人間の数学、すなわち、現代数学のように難しくは無い、極めて易しい数で示されている普遍的な自然の数学なのである。また、それらは小学生でも簡単に計算出来るものである。

 その前に「みそぎ算」について言って置きたい事がある。この「みそぎ算」は「数の本質、「数列の本質」を見極めるためには大変大切なものである。当初、その計算手法は私が見出したものと思っていたのであるが、何たること、その始末は超古代史の中にちゃんと封じられていたのである。必要な方は『物部秘史』の中の太祝詞(ふとのりと)を開いて見るがいい。
 そこには紛れも無く同一表現が見られるが、ただそこにある意味や意義については誰も知らないと記されている。なぜなら余りにも遠い昔のことで、また神代文字で書かれているが故に、その読み方や仕組みだけは判っても、その本当の意味は一切不明という代物である。

これも私が「神の数学」というものは古代に存在したと主張している証拠の一つでもあり、「古神道」から現れた「数の原理」と相俟(あいま)って「神の数学」の計算手法の主幹をなすものである。


 この「みそぎ算」には加算と減算があるが、それらについて披露申し上げよう。 ここで用いる手法は主に減算法である。減算法を行うことによって「数」は本質をさらけ出すことになるのである。

 

では先月の講義の中で用いた各次元表の最初の数列を借りてご案内申し上げることにしょう。


  すなわち、1次元表の1、2次元表の12、3次元表の123、4次元表の1234、5次元表の12345、を借りて「禊算」を行って見る。果たしてどのような結果が生まれて来るのであろうか。要は、その用いる数からその数の逆数を減算するだけである。すると面白い結果が現われて我々の心を揺すぶり、現代数学に対するそこはかとない心の揺らぎが生まれて来るものである。さあ、試みて戴こう。


例えば、「神の法陣」の5次元表の最初の数列、12345の数列を借りて「みそぎ算」を行って見ると次のようになる。

 

〔1〕現代数学の「みそぎ算」では…

 
 12345−54321=−41976 (小さい数から大きい数を引くとマイナス(−)が現われる。)
  
54321−12345=+41976 (大きい数から小さい数を引くとプラス(+)が現われる。)

 〔2〕神の数学の「みそぎ算」では…

  
12345−54321=57024 ……数の流れの方向 → 
  54321−12345=42075 ……数の流れの方向 ← 
(いわゆる数の並びが逆になるのである)

 少々内容を調べて見よう、

     現代数学              神の数学

                            
    −41976                  57024
  + +41976               +42075
 ――――――=0           ――――――
                             99099 → 0

 
 <それは当たり前である、見るがいい、進んだ道をそのまま戻るのであるから位置は元のまま、原点であるに還るだけである…!!。
 要するに、宇宙意識にとっては進んだ距離などは問題ではないのである。ただ必要なのはその方向性と空間位置におけるポテンシャル・エネルギ−であり、そのベクトル、すなわち、すの方向位置と何処に存在しているかが問題なのである。>

 

例えばである、自分の部屋の中の猫について考えて見よう。我々は一目見ただけで何処にいるかが判断できる。果たして、現在の自分の位置から何メ−トルと何十センチ、何ミリ離れているとか、いちいち詮索するであろうか、そんなことはしない、なぜならば、部屋も猫も自分のものであり、一切は自分の手中にあるからである。要するに、無限の宇宙にとっては宇宙の広さは完全に自分の領分であり、ポテンシャル・エネルギ−も自分のモチベーションの一つなのである。その距離であるとか、その大きさなどは問題外なのである。 なんせ、すべては自分のものであり、欲望なんて言うものはこれぼっちもないからである。

   そんなものを気にするのは有限的な存在、すなわち、時間に縛られている我々のようなみみっちい存在だけなのである…!!。

 

要するに、現代数学の示す正(−)と反(+)と言うものはお互いが正反対の性質を表わし、その後ろの数字は距離、大きさ、強さを示すものであり、まさにこれらは有限性を示すものである。

ところが「神の数学」では「陰」と「陽」の流れの方向が完全に逆向きであり、見ただけで正反と言う完全反対の方向性を数列は示しているのである。要するに、「陰」「陽」の本当の意味とは流れが完全に逆相を示すものであり、その二つを相加算することにより完全なる中和、すなわち、0と言う本質が現われるものなのである。それが本来の正しい(+)と(−)の関係であり、「陰」「陽」の本当の姿と言うものである。

またその「陰」と「陽」、すなわち、「裏(あの世)」と「表(この世)」と言う相対世界を重ねて相互操作(禊算)することによりそこには本質が現われて真実ありかたを示してくれるのである。そのあたりのことは「禊算」を何回も行い重ねることによりだんだん解って来ることになるはずである。

 

果たしてどちらが自然的な姿を持つ計算法なのであろうか…、じっくり考えて見てほしい。

 

要するに、「禊算」とは数の姿を借りて、「自然の本質」を見出し、それを次々と重ねることにより全体的な本当の姿を見て取れる窮極の計算法なのである。そのあたりの内容を言葉や文章で説明するのは甚だ難であり、現代数学に慣れたあなた方には中々合点がいかないものであろう。

 そのあたりの詳細については「ひふみ数」と「法陣表」を併せながら「禊算」を行い、その仔細をご説明を申し上げることにする。

 その恰好なサンプル・テ−ブルがここにある。題して「自然数による三角形テ−ブル」であり、通称、「ひふみ三角数表」と呼ばれるものであり、別名「ピラミット三角形」と呼んでいるものである。

  


 この、「ひふみ三角数表」は私にとっては大変重宝なものであり、「宝の山」である。それらをこれからご紹介申し上げることにする。

 この、「ひふみ三角数表」を用いて以下の計算を行い、「答に至るまでの経過」、「数の流れ」、「数の表れ」、「最終答の数字の顔」をとくと見て、全体的な表情、そこにある数の意思の語る意味等をしっかり考え、常にそれを心に留めながら考えて見てほしい。

 
 今回は初めにを組み入れた正自然数を用いて、「ひふみ三角数表」に挑んで見よう。要するに、正しい自然数、すなわち、「012345…」を用いて正しいあるべき自然の姿を垣間見ようと言うことである。それが上に示した数図である。

 心ある方は現代数学の定義通りの0の無い自然数、「012345…」を用いてまったく同じ計算を試みてほしい。0の無い「現代数学」には果たして何処に欠陥があるのであろうか、そのあたりをしっかり見出してほしい。

 

 これは心のある人が見ればまさに驚天動地の数の語り≠ナあり、「数は意識を持ち、真理を知っている」ことの確たる証拠と言うものである。


 この自然数による、「ひふみ三角数表」、すなわち「ピラミット数表」は甚だ簡単なものであるが、誰も今までに問題にした学者はいない。確か、世の中には「パスカルの三角形」と言うものがあるが、正自然数を用いてはいないので、あまり自然の奥の深い部分にはタッチしてはいないようである。

 ところがこの日本発の「ひふみ三角数表」における<0>の在り方は自然数の奥の真髄、すなわち、「数」の基盤とも言うべき「数の本質」をまさぐるものであり、かつ自然数学の本髄を語るものなのである。まさに、史上初公開であり、これから世界中の学者達の論争が始まり、大騒ぎになるのは間違いないことであろう。要するに、これからは猫に小判が変じて、今度は猫に鰹節になると言っているのである。 まったく人間と言うのは下らない見識を持った生き物であり、どうしょうもない恥ずべき根性を持った生物と言うものである。 それで宇宙自然の覇者であるとか、高等生物の代表であると言っているのを聞くとまことに片腹の痛い限りであり、ただ恥ずかしい限りでもある。 
 ハハハ…、何と、何と…!!!。人間の悪口で御座る、己の馬鹿さ加減も知らずにである。しかし、別に天狗になっている訳でもない、本当のことを言ったまでで御座るよ。

 まずはその声、天の声と言うものを聞いて見よう。 すなわち、この「ひふみ三角数表(ピラミット数表)」を禊算で処理してその声を聞いて見るのである。


   〔1〕       禊算(+)を行う。

@   0+0=00  → 0

A   01+10=11  →   

B   012+210=222   →  

C   0123+3210=3333 →12→

D   01234+43210=44444 →20→

E   012345+543210=555555 →30→ 

F   0123456+6543210=6666666 →42→

G   01234567+76543210=77777777 →56→

H   012345678+876543210=888888888 →72→

I   0123456780+0876543210=0999999990 →72→

J   01234567801+10876543210=11111111111 →11  →   2



  上の最終数字を並べると次のようになる、 0263236200、 これは鏡面数列の姿ではない、頭の0が一つ欠けているからである…!!。

 よく見るがいい、頭部と後部にそれぞれ0が二つずつ無ければ「ひふみ九九表(2の段)」は完成されてはいないことを…。 要するに、一つだけの0では「ひふみ九九表(2の段)」は自然的な完成体とはならず、不完全な姿をさらすだけである。 人間と違い自然はそのような無様をさらすようなことはしない。

 

0  0  2  6  3  2  3  6  2  0  0  …  〈本来のあるべき鏡面対称数列〉
              ∨    ∨  ∨   ∨   ∨   ∨   ∨   ∨   ∨  ∨
             
 0   2  4   6   8   1    3   5   7  0  ……  「ひふみ九九表(2の段)」が完成されている。→ 自己完結完全体

さあ、0の前にもう一つ0を置くことにより見事な「ひふみ九九表(2の段)」である02468…の完全数列、すなわち 自己完結完全体が現われてくるのである…!!。、


 すると、ここに現われた「ひふみ九九表」、の2468…の前に0を置くためには当然、その母体数である02632…の前にはもう一つ0がどうしても必要なのである。しかし、この「ひふみ三角数表(2の段)」は2468…で始まりその前にあるべきは見当たらないのである。何か矛盾がある…!?。 何か変である…!?。一体どのようなものであればいいのであろうか…!??。 それを突き留めない限り本当の自然の真実は永久に不明のままであり、人類の知はただ足踏みするだけである。

この問題は数学のみでは解けない、そこに強固な哲学的、神学的な考察を入れない限り、決して問題解決とはならないものである。
 要するに、人間の知がまだまだ全般的に大分向上しない限り解けないと言うことである。数学のみならず、哲学、神学などの全体的なレベルがすべて一致方向に向かって進展しない限り解決は到底無理と言うことである。本来、問題は易しいものである、しかし、それを難しくしているのはあなた方の常識であり、「神」などは無いと「神」を否定している現代西洋科学知なのである。一つ皆さんの感じる大いなる参考意見、あるいは思慮のあるご意見を聞かせてもらいたい。

出来れば、その考察による仔細と結果の相対的なあらましを聞かせて戴ければまことに幸甚な所存と考えている。まあ、頭脳を全開にして次の計算の次第を考え、十分な考察を尽くして見ることである。それにより問題の所在が少しづつ明らかになり、心も弾むことになるであろう。

〔2〕       禊算(−)を行う。

@   0−0=0 → 0(9) (陰) (0=9)

A   10−01=18Σ  → 9(陽)→0

B   210−012=207Σ →18Σ(陰)→0 (0=9)

C   3210−0123=3186Σ →18(陽)→0

D     43210−01234=42075Σ →27(陰)→0 (0=9)

E   543210−012345=531864Σ →27(陽)→0

F   6543210−0123456=6420753Σ →36(陰)→0 (0=9)

G   76543210−01234567=75318642Σ →36(陽)→0

H   876543210−012345678=864207531Σ →45(陰)→0 (0=9)

 I  9876543210−0123456789=9753186420Σ →45(陽)→0

       J 19876543210−01234567891=18642075318Σ  →54(陰) →0(0=9)
       
       K  219876543210−012345678912=207531864207Σ →
54(陽)→0

  L  3219876543210−0123456789123=3186420753186Σ→63(陰)→0(0=9)

  M  43219876543210−01234567891234=42975318642075Σ→63(陽)→0



  
  〔1〕 結局、各計算の最終数字は、9から始まる対となる陰陽の数、すなわち、9の倍数の形の数字、すなわち、,)、(18,18)、(27,27)、      (36,36)、(45,45)、(54,54)、(6363) …となるの対の数字である。それらの数の本質を見ると、すべてはであり、並列すると      0000000000となる。それらはまさに、「ひふみ天地の数」の最初の数列の姿そのものであることに気がつくであろう。


  〔2〕 それらは、すべてにわたり、「陰」と「陽」の双対となる自然の二元構造をもって完成されているものである。

  
  〔3〕 一桁化される前の答の数列を見るがよい、、中心から半分の前半と後半の関係とはすべて「陰」と「陽」の関係になっている。

   例えば、Cの数列は3186である。 見るがいい、前半の31は一桁化すると4である。後半の86は一桁化すると5である。
         
すなわち、4+5=9→0 となるものである。
        
        Dの数列は42075、 前半は42→6、後半は75→3であり、6+3=9→0となり、「陰」と「陽」の関係であることが解る。

        Eの数列は531864、前半は531→0、後半は864→18→9であり、0+9=9→0となり、「陰」と「陽」の関係である。

           
  要するに、 @〜無限大までのすべてのものは同じ陰陽構造内容を持っものであり、すべてが「宇宙人の数学」で成りたっていることが判る。

 
  〔4〕 面白いことに、これらの数列の中心から対極にある2数を加算するとすべてが0になり、何ことかを囁いていることが判るのである。

     例えばGの答である75318642の数列を見て見よう。そこにある対極数を加算すると次のようになり、0になるのである。

 

7+2=9→0、5+4=9→0、3+6=9→0、1+8=9→0

 

 何と言うことであろうか、またもや例の宇宙人の数学が現われてすべてを締め括っていることが解るであろう。
  しかもそれらは「ひふみ三角数表(ピラミット数表)」のすべてに渡って現われているのである。 これらを見ると「宇宙人の数学」は我々の持つ「現代数学」よりも次元のグレイドが一つ上の数学であることが解ろうと言うものである。
 要するに、我々の持つ現代数学は無機質的な数学であるが、宇宙人の持つ数学はグレイドが高い有機質な数学と言うことである。
                                <「宇宙人の数学」とはアメリカで墜落したUFOの中から発見された謎の数学式をさすものである。>


 しかし、残念ながら、この「禊算」と言う算法を現代人類はまったく知らなかったのであり、それ故に数の持つ超理性や意識性に気がつかなかったのである。 よく見るがいい、ここにも禊算(+)と同じように最初の「ひふみ三角数表」に乱れが生じ不確かさが浮き彫りにされているではないか…!?。まさに不完全性が存在する証拠と言うものである。

要するに、この012345…の正自然数列でも自然の真実を表すものでありながら、まだ完全なものではないと言うことである。要するに、まだ窮極の真実までは表すことが出来ないと言うことである。要するに、何かが足りないと言うことである。

では、どのような正自然数列であれば、神の意に沿うものであろうか…???。

その正体とは世界中の学者が束になって想像してとても想像しきれない驚くべき姿であり、ただただ呆気(あっけ)にとられるものである。

どうしても知りたい方は「ひふみ九九算」の0の仕組みを見ることである。それをなぞって考えを巡らせばあるいは判るかもしれない。まさに驚天動地の「神の業」、「自然の仕組み」がここには存在するとだけは言って置きたい。また、今の「神」の無い現在の西洋人間知では到底解くことは出来ないことと知るべしである。

さあ、残されている紙数はもう少ない、先を急ごう…!!。

<1>    今回、問題にしたいのは禊算(+)における0の出現である。


 それは 0 2 6 3 2 3 6 2 0 0 の形であり、本来のあるべき鏡面数列の形は 0026336200 なのであるが、残念なことに0が一つ 不足の状態である。おそらく、それは冒頭における私の探索力、洞察力の不備の為せることであろう。陳謝する。


 何回も言うが、この頭部の部分は鏡面数列の性質上002632…とならなければならないのであるが、しかし、頭に0が一つ足りないのである。 多分、今の我々の常識知で眺めるならば、ここにおける鏡面対称数列とは、026323620 であると考え、それですべてを押し切り計算を進めて行くであろう。なぜならば、それはハッキリとした鏡面対称の姿であり、何ら文句も付けようのない鏡面対称数列の姿であるからである。
 しかし、神(自然意識)は言う、それでは駄目であり、自然の持つ鏡面対称数列の姿ではないと…!!。しかも明らかな証拠を突きつけてのたまうのであるからわれわれは反証も出来ず、グ−の音も出ないと言うことである。まさに我々の科学常識知、現代数学知の完全なる敗北なのである。
 その確たる証拠と言うものが「ひふみ九九表」の完全完結体であり、そこに並ぶ神の数列の欠けの無い完全な姿である。 これには我々はどうしても逆らえないのである。なぜならば、それは「宇宙の法則」の姿であり、宇宙をしろしめす「神」の言葉であるからである。それが前にも述べた次の計算表である。
 あなた方ももう一度これらの数の持つ数の仕組み、そしてその意味を心で確かめて見るべきである。それが本当の知の狩人と言うものである。

        0 0 2 6 3 2 3 6 2 0 0  …  〈本来のあるべき鏡面対称数列〉
             ∨  ∨  ∨  ∨  ∨   ∨  ∨  ∨  ∨  ∨
             0  2  4  6  8    1  3  5  7  0  ……  「ひふみ九九表(2の段)」
の完全完結体


 要するに、真実の鏡面対称数列ならば  0 0 2 6 3  3 6 2 0 0 となるのであり、2の前には0が二つ並ぶはずである。これが本当の宇宙自然の鏡面対称数列と言うものである。何故なら、そこには正しい完結した「ひふみ九九算」の2の段が現われてすべてを締め括っているからである。 しかるにこの「ひふみ三角数表」をどう見てもそのような0を二つ持つ構造体では無い、何かが違う、何かが不足しているのである。
 
 ここに人間の観念知と宇宙の真実とのギャップ(段差)があるのである。そのあたりの仔細をあなた方は考えて見るべきである。それによりあなた方の心、意識は大飛躍を遂げることになり、つまらない人間知の束縛と言うしがらみから逃れて自由になることが出来るのである。

 ここにある二つの0の最初の0は「あの世」の根っ子であり、「この世」の始原の神である0とつながっていることを示しているものである。そして、数列の最後にある0は「この世」の根っ子であり、また「あの世」の始原の神0とにつながっているものである。要するに、それらの根っ子があり、次の根っ子と結び附いて情報を交換しているから自然は次々と変わりのない循環を繰り返すことが可能なのである。生意気な事を言えば、人類史最大の知覚者と言われた仏陀、すなわちお釈迦さまでも手に入れることが出来ず無かった「悟り」がここにあるのである。また、これらは生命のリンクの存在さえも明らかにしているものである。それがすなわち、古代から噂されている輪廻転生と言うものの真実である。

 さあ、仏陀の求めていた「悟り」、すなわち、「命の道」を知りたくば、心に納得がいくまでしっかりこの数列の意味を考え、何回でも思索を繰り返すことである。すべての仕組みははここにあるのであり、その答と言うものはこの鏡面対称数列が持っているのである。それが宇宙自然の聖なる仕組みであり、万物の辿る自然の道と言うものである。それがすなわち、人間の言う「さとり」と言うものでもあり、人類の発祥以来ひたすら求めていたものである。

この「鏡面対称数列」は正しいものであり、「神の心の数列」と言うものである。要するにその欠陥は人間サイドの誤った知にあると言うことである。さあ、思い切り頭をひねるがよい、何故なら、頭をひねる度に古い知の皮が一枚ずつ離れ落ちて新しい知と入れ替わり、リニュ−アルされるからである。

    
    <2>  やはり禊算(−)の最初の部分にも同じような不都合が見られるのであるが、お解りであろうか…??。


 本来、あるべきもの、すなわち、最後に答として並ぶ数は<00>、<99>、<18,18>、<27,27>、<36,36>、<45,45>、<54,54>……であり、ご覧のように「陰」「陽」の対の形を持ちながら何処までも延びて行くものである。しかるに、最初にあるべき<00>の姿はここには無い。
 さて、はて、一体全体どうした訳なのであろうか…??。要するに、あるべき始原の元型である「神の姿(0)」がまったく無いのである。

 そもそも自然の万象とは最初に「神」が介在して物象が始まるのであり、最後にはまた「神」に伴われて締め括りが行われるのであるが、その最初の「神」がここには無いのである。我々人間でさえも、最初はが起点であり、また最後は9の姿を持つ0に還って行くのである。これが天の定めであり、森羅万象のけじめの姿と言うものである。

 例えて言えば、<00>の二つの0(神)の最初の(0)が老いさらばえてあの世に入りつつある老鶏(9)であり、9の姿をもついわば祖先である。 → <90>
 しかし、9でありながらもはやに還っているものと言ってもいいものである。また、次のは卵であり、9の姿に支えられた始原の姿と言うものである。これからまたすべてが新しく始まると言う姿である。 それらは完全に同一次系にあると見なしていいと数は言っているのである。それが9=0 の意味であり、その姿なのである。

 世の中の例えに、鶏が先か、それとも卵が先なのか が話題になるようであるが、その答えがここにあるのである。それが最初の<00>である。<00>の初めの0を祖先とすれば後の<00>の後ろの0は卵であり、最初の0を鶏とするとそこから生まれた卵(0)と言うことである。  
 要するに、どちらも真理と言うことであり、論争はどうどう廻りであり、いつまで経っても尽きないmぽのであり、無駄なことと言うことである。
 お判りであろうか、少々例が陳腐過ぎる、出来れば、もっといい例をあなた方が考えてくれることを望みたい。

全ての自然象、すなわち、自然万象はまったく同じ形、同じ構造を持っているのものである。せめて、そのくらいは気がついて貰いたいものである。

 

要するに、この正自然数の「ひふみ三角数表」はやはり全体的に見ると不完全体であり、完全体ではないと言うことである。

では本来のあるべき真実の「ひふみ三角数表」とはどのようなものなのであろうか、出来ればこの不可解な調査に精を出し、この未完の図を完成させてもらいたい。それにより本来のあるべき自然の姿も手中に納めることが出来ようと言うものである。

要望が数多あり、私も気が向いたならば改めて不日、すべての答をご披露申し上げることにする積りではいるが、すべては気分次第である。

ただそれはあなた方現代人にとっては驚天動地の自然の姿であり、理解に苦しむことは確かである。しかし、何時かは現実を知らなければならない時を迎えるのも、これまた確かである。何時までも複雑系が自然の仕組みであるとか、最後は混沌となって渾然一体ですべてが終えるなどと言っているだけでは何も進展は生まれない、ただ時間を無駄にしているだけなのである。

 
 さて、ここに紹介した「ひふみ三角数表」(ピラミット数表)にはまだまだ驚くべき色々「天の超知」が一杯詰まっている。それはいわば「地の宝石箱」と言ってもいいものである。 知に疼(うず)いている方、我こそは知者なりとうそぶいている方、出来る限り考えて見てほしい。まずはこの「ひふみ三角数表(ピラミット数表)」の上述された語りを解いて見ることである。その上で迷いが無ければ、自らの手で「ひふみ三角数表」の解析に挑んでほしい。恐らく、そこにはあなた方の手には余るほどの「自然の叡知(数知)」が数多秘隠され、あなた方の訪れを首を長くして待っているのである。

  要するに、宇宙自然の初源、根源にまで立ち入らない限り、あるいは時間の始まりまで考えない限りならば、この「ひふみ三角数表」で十分であり、有限な天地万象を解き明かすだけと言うならこれで十分に足りると言うことである。


                                                                  <今12月完了>



        数のささやき(2)

自然の持つ本当の数の調べを考えよう<3>
         < その計算法は人間の知とはまったく相容れないものであった…!!>   平成25年1月


 昨年の暮れ、すなわち2013年の11月と12月にわたって「神の数学」の計算法の秘録中の秘録である「神算法」「禊算法」を御披露申し上げたのであるが、あまり共感を感じられた方はいないようである。しかし、それも無理は無い、何せ、すべては現代人初見のものであり、まったく勝手の違う異様な算術算法なので…!?。それにしても余りの戸惑いようであり、ショックを隠しきれないようでもある。私は今のところの日本人相手、その中でも古神道の道を究めたいと願っている研究者達のための道しるべの一助になればと思い忌憚の無い「数の真実物語」を述べてその手助けしている積りでもある。

しかし、まだ、これと言った深い反応は無い、いや、それどころか肝心なところ、あるいは説明が明細を究めれば極めるほど肝心の日本人の心は浮足立って逃げて行くような気がする。 何かおかしい、何か変である、一体この不整合感、場違いな感じは何を物語るものなのであろうか…??。

最早、本当の日本古代文明の縄文人の血筋である純なDNAを引き摺っている純日本人はいないのであろうか…!??、

日本人の中にはまだ結構存在していると思っていたのであるが。それは私の大いなる思い込みであり、一つの誤算なのであろうか…!?。
 いや、そんなことはない、今でも十分過ぎるほどの聡明な御仁が大勢いるはずとの思いで心は一杯である。さて、頑張らなければ…!!。

今の若者の中には打てば則、響くような心の真実を持っている方々も大勢いるのは確かである。彼等は私なんかよりも余程優秀な直感的な頭脳を持っている方々であり、大変頼もしい方々である。大いなる才能を持っているが、惜しむらくは、初心故にまだ学びが効を奏さず、「神」の御加護が得られてはいないのであろう。恐らくは現在の心の整理がつかない故に、深い洞察力が身につかず、ただただ「数の海」の中を五里夢中でもがいているように見える。

 面白いことに、「神の数学」に興味を持っている方々、すなわち、熱い思いを届けて下さる方々はなぜか、大変狭いエリアに分布していることが判ってきている。それは日本国内の大変狭範囲な場所であり、広島、岡山、神戸、大阪の一部分と言う非常に限られた場所を示すものである。
 それは要するに、書簡を下さった方の70%以上はそれらの場所に居住する方々が占めていると言う面白い事実である。それの意味するところは純古代日本人の居場所はそのあたりと特定してもいいと言うことであろう。 要するに、その事実は今でも純日本人の血(DNA)は連綿と息づいていて、それが今、姿を現し始めた「神の数学」と共鳴して序序に浮き上がって来ていることを示していと言うことであろう。

確かに、興味はあるけれど今までの知が邪魔して頭はついては行けない、要するに、迷っているので気力もまだまだ不十分と言う方々もいるであろう。  しかし、時間をかけて年季を積めば私なんぞは足元にも及ばないことになるはずである。とにかく、凄い直感力と洞察力の優れた方々も往々見受けられ、私もたじたじの感もあるのである。まことに将来が楽しみである。これらの事実は、まだ天は日本民族を見捨ててはいない証拠と言うものであろう。  まことに有難いことであり、大変喜ばしいこととしてただ神に感謝を捧げるだけである。

 

しかし、肝心の神道を生業(なりわい)にしている「神道家」達の姿はまったく皆無である。本来は最も打てば響く神心と言うものを持っているはずなのであるが…??。やはり、もはや見せかけだけの神官姿であり、もはやとうに諦め果てて、世の中の流れに逆らう気力さえも失ってしまっている、すなわち、真の神道家としての捲土重来、神道再建の心はまったく無く、どう見ても、その姿はただ世間に甘え、世間にすがって生きている哀れな姿としか目には映らないのである。
 せめて2,3人でもいい、日本神道の土台を立て直さんとするしっかりした未来志向の心を持っている若い神道家はいないものであろうか…!!。

確か、天明さんの「ひふみ神示」には「人類のめぐりは人類の誰かが負わねばならん。一家のめぐりは一家の誰かが負わねばならん、果たさねばならん」とある、すると今のように人類文明存続の危機、国家間のいざこざによる危機の責任は何処かの国が負わねばならんと言っているようにも聞こえる。

つらつら考えて見るに、遥かな過去に人類を導くための大いなる自然の叡知を古代日本民族は持ってはいたが、それをはからずも失ったことにより人類全体が指針を失い、それが現代西洋科学知を蔓延(はびこ)らした原因となり、破滅の道へまっしぐらに突き進んでいるのである。
 だから、この場合には責任は日本民族が取らなければならないと言っているのであろうか、どうも、そのように聞こえるのであるが…!!??。
 それともそれは年寄りのひが目なのであろうか!?。 いや、世界的な諸般の情勢を考えて見ると、どうもこれからの世界を牽引し、面倒見て行くのは日本なのではないかと言う気もするのである。
 何か今、すべての国の視線が日本に集まって来ている、それは世界の若者達の視線の先を見ればよく解ろうと言うものである。
 世界の若者の目は今や、日本に釘付けになっている、日本文化の一挙手一動足に対して非常に敏感になっているように思える。それは今後ますます顕著になって来るはずである。すると、20〜30年後には面白い結果が生まれて来るのは確かである。 さて、さて、それは一体…!!?。

 要するに、それは今まで西洋風のメガネでものを見て考えると言うことが世界一般の常識であったが、これからは日本風のメガネに掛け替えて物事をハッキリ見る、そして深く考えると言うのが風潮になって来ると言うことである。 もう大分前からすでにそれは始まっているのであるが…!!。

まあ、それは勘ぐり過ぎと言う人もいるではあろう。しかし、今になって現われて来た「神道」の持つ意義内容やその由緒のあり方をつらつら慮ると大いにあり得る話であり、その懸念は大と言うものである。いやいや、落ち着いてよく考えて見ると、それは誇大妄想の極みであり、ゲスの勘ぐりと言うものかも知れない。天明さんはそのつもりで言っていたのではないかもしれないが…?。 しかし、近い未来には間違いなくそうなるのである。

ワッハッハ―、まさに気宇壮大、意気衝天とも言うべき脳天気な気分に冒されているようであり大変気分がハイである。どうも、天明さんの影響を大っぴらに受けてしまったようでもある。  おう、南無観音、桑原、桑原…、何たることか…!?。

 

さて、これからはなるべく簡単な計算だけを示す積りである。あまり混み入り過ぎたことを講義すると、そっぽを向かれるのがおちと思われるからである…!!。 本来ならば、先を聞かんと群をなしてもいいはずの史上初の超数学講義のはずなのであるが…!!。
 何となく今の若いものは覇気が無い、意思が弱いような気がするのであるが、如何でござろう。物事にとことん喰らいつくなどの心意気が見られない、はて、熱気、情熱が無いのであろうか。それともはなから関心が無いのであろうか…!!。それでは国の将来が思いゃられると言うものである…!!。   ほら、元気を出さんかい。未来を強く生きなんとするならば…!!!。

 


 これは先月紹介申し上げた「ひふみ三角数表」である。要するに、各「神の法陣」表の一段目の数列を借りてきて順に並べたものであり、別に得体の知れないものと言う訳ではない。要するに、先月紹介申し上げた由緒ある「ひふみ三角数表」の持つ更なる奥の自然真実を探るためにはどうしても必要なものなのである。ここには驚くべき「神の秘密」がまだまだ潜んでいるのである、一つ興が湧いたならばあなたも挑戦して見てほしい。

 この「ひふみ三角表」を用いて以下の計算を行い、「答に至るまでの経過」をとくと見て、全体的な表情、そこにある数の意思や語りをしっかり心に留めておいてほしい。これは、まさに知る人が見れば驚天動地の数の語り≠ナあり、現代人の知らない「数の持つ知心」を解き明かしたものである。

しかし、何も知らぬ凡人から見れば単なる数列の羅列と言うものにしか見えない。それが凡人の目、素人の目であり、現代数学の目と言うものである。要するに、真実を見えない目、聞こえない耳を持って懸命に察知しょうとしている哀れな姿なのである。

しかし、これこそが「数」は意識を持ち、真理を語るものであることの確たる証拠と言うべきものであり、神の名代の姿であるの存在があればこそ、すべては廻り、廻って秩序と調和の中で大いなる循環を果たして行くことが出来るのである。

 
 次の表は「ひふみ三角数表」の数を「神算法」の一つである加算式で処理したものであり、優しい顔はしているがあなた方の手には余るもの、あなた方の知では扱い兼ねるものなのかも知れない。 まあ、一つ挑戦して、自分の知の程度をしっかり見ることである。

とくとご覧じてもらいたい、そこには明らかな「神の語り」、「神の心」と言うものが存在し、息づいていることが解るはずである。

 


 諸氏にあっては最早詳細な説明なんかは不用であろう。ただ、数の顔を見ながら自分の頭で色々と推察を重ねて行けばいいのである。
 程度としては小学の上級生か中学に入りたての子供のメンタルテスト的な算術計算と言うものであろう。でも頭でっかちの現代人には中々理解ができないと言う不思議がそこには有るのである。要するに、それはなかなか脳の中身が振り向かず、ただ拒否の方向に走りたがると言うことである。

 [1] 問題はIのXYZと○と□である。それからもう一つ最後に出て来た071044017□鏡面対称数列の姿である。鏡面的な姿から判断      するとであることが判る、するとであろう。するとは…??、数の走りから判断して貰いたい。


 [2] もう一つこの最後に現われた鏡面対称数列は次のように見るのである。 

      0  7  1  0  4  4  0  1  7  0 
        ∨  ∨  ∨  ∨  ∨  ∨ ∨ ∨  ∨
       
 7  3  8  4  0  5  1  6  2    ……  「ひふみ九九算」の6番目の数列の完成体の出現あり

このようにきれいな完成された「ひふみ九九算」の6番目の数列が現われて完全完成と言う最後の幕を引いていることがお判りであろう。
 それが何だと文句をいってはいけない、この意味を解き、次第を明かにすることがこれからのあなた方の務めであり、今後の学者達が考え無ければならない宿題なのである。

   
     「神の数学」では数の現われそのものが証明なのである。


 

   これは「神算法」の引き算による答の次第である。じっくりと見て考えることである。

今度は【A】の表とまったく同じ手順で減算して解き放ったものである。そこには見事な「ひふみ九九算」の三の段が現われて完全完成の幕を下ろしている。 何と言う絶妙な「神」の手さばきであり、何と言う素晴らしい自然の語りの存在なのでであろうか。ただ涙がこぼれるだけである。

 

 [1] IのZは0である、 よって最後の縦の数列は0246813570となり、「ひふみ九九算」の完成体が姿を見せ完全完成を歌っている。すなわち、「ひふみ九九表」の三番目の数列の出現、御降臨と言うものである。ただし、XとYについての数字の考察はあなた方の手にゆだねて見たい。

なんせ、これらは数字で描かれている「神の言葉」の一端であるが、今の現代人にはまったくなじみの無いものである。恐らくは一顧もしないであろう。今の数学者なら一瞥するだけでゴミ箱に捨て去るだけであろう。要するに心の持ち場がまったく違うのである。
 しかし、これらの「数の語り」は現代知のようにいくら考えても判らないと言うものでもない、考えて推察を図ろうとすれば誰にでも容易に判るものである。しかもこれらは「神の知」であり、挑戦しても決して損はない。何故なら、すべては理路整然とした姿を持ち、その答は常に永遠性を持って存在するからである。

 [2]  さて、ここに並んで勢揃いしたの大軍を見るがよい、それは大次元(0から無限までが一つの塊)は常に共鳴状態にあると言うことであり、常に一心同体であることを示しているのである。その調和数こそが全体に通じるであり、9(0)の前にある最大数なのである。

 まあ、これらの「数の現われ方」を見るとどうしても「数」は意識を持ち、何ごとかを囁いていることが貴方がたも解るであろう。それには直感を鋭くして、自然体で、しかも心をオ−プンにして考えることが肝心である。それらを最初から怠って己の思うままに意識を走らせて作り上げたもの、それが現代数学知と言う自然を無視した数学であり、自然とは噛み合わない人間御都合主義の数学と言うものである。

 数∞数列≠ニは、自然の知≠フ現れであり、数的にもまさに純な結晶と言うものである。

それ故に、そこには「不自然」「不整合」「あいまい」「無理」などはあってはならず、すべては自然的な流れの作法≠キなわち、自然の流れに沿ったもの≠ノ徹しているので不整合性と言うものはまったくない。

 「自然とは、単純で、美しいもの、心がひかれるものである…」と、相対性理論で知られるアインシュタインがつぶやいたそうであるが、まさにその通りである。最近の宇宙論でさえひと頃の複雑な形は影をひそめ、単純さを改めて論じ始めているようである。まことにいい傾向と言うものである。


 さあ、急いで次に行こう、それは要するに、この「ひふみ三角数表」の本当のあるべき姿をあなた方に教えて置かなければならないと言うことである。何故なら、これらの「神(0)」の存在「神」の関与と言うものを知らなければ人類の知の発展は100年以上遅くなるのであり、その長い間、科学は自然と対決状態、すなわち、お互いに話し合うことが無い状態が続き、人間の独りよがりの状態と言うものが続くからである。

 西洋知の信者であるあなた方は「神」の存在を否定している。しかし、どうしても「神」の存在をしっかり知って次の世代に伝えてもらわなければならないのである。さもなければいくら科学が進んでもそれが千慮の一失となって文明の滅亡に拍車をかけることになるのである。

 なぜならば、現代西洋科学知には「神」の概念はまったく無く、従って「神」の存在とその働き等の真実のシナリオをまったく知らない、考えたことも無いからである。それは自然的には一つの片輪な現象であり、自然の真実とはまったく相容れないものなのである。


 それはすなわち、この最初と最後に0(神)を持たない限り自然万象は顕在することは叶わない、それが本当の自然の本来の姿であり、万象顕在の現実の姿なのである。それは、物事の初めには0(神)があって顕在化し、また最後には0(神)に伴われて潜在化へと向かうのであるそれが万象の自然的な発生のシナリオであり、自然的な完了のシナリオと言うものである。要するに「神」の誘いがあってこの世に誕生し、「神」のお迎いがあってこそまた無事にあの世に辿りつくのである。要するに、それが本当の自然の姿であり、それによりすべてが丸く納まると言うものである。

それらは巷間に語られている仏教寓話、あるいは輪廻転生の物語とまったく同じものであるが現代科学では否定されているものである。科学者達はこぞって否定しているが、その否定は科学的な証明や論証の結果を踏まえてのものではない。要するに、自分達の想像を超えたものなので何も解らない、だから否定していると言う大変他愛がないものであり、論理性や証拠と言うものにはまったく欠けているものである。

要するに、科学者達は真実を知らないと言うことであり、考える術(すべ)すらもまったく無いと言うことである。

 

知に鋭い御仁は考えるがいい、そして大いに悩むがいい、何故なら、その苦労は何時かは実を結び、花を咲かせる、すなわち、やがてはその苦労は陽の目を見ると言うことになるからである。それも大変近い未来においてであることを断言して置きたい。

それは要するに、現代科学知は未だ自然の本質、自然の仕組みを解き明かすことが出来ないでいるのである。それは、すなわち現代科学知は本当の宇宙自然の真実を未だ知らないと言うことであり、本当の真実はこれからじょじょに明らかになっていくと言うことである。

それを言葉を変えて言えば、現代科学知は宇宙自然の持つ本当の知では無いということになるのであるが…!!。

 

このように子供でも知っている他愛も無い「ひふみ…」の数を用いて語っている他愛のない数図表に見えるが、一皮むけばそこには人知では解き明かす事の出来なかった大いなる「神」の心が数多秘蔵され、永遠な眠りをむさぼっているのである。

またそれを見出し、解き放つことにより無限の喜び、無上の至福感がふつふつと湧きあがり我々の心を満足させてくれることになるのである。

その心の喜び、心の底からほとばしる歓喜、それは何ものにも代えがたい宇宙意識(神)との共振共鳴のなせる業であり、それにより我々の心は次第に浄化され、純な自然の心に立ち返へって行くのである。

歓喜、心の喜び、それは恐らく、宇宙意識(神)の波動とつながる一種の意識のチャンネル帯であり、知らず知らずにそれと交叉状態になった時に共鳴状態が初めて生まれてくるものであろう。それが「神の懐に入る」とか「神が附く」などの言葉である。

 

 

 これが本当の「神の数学」が描く神の「ひふみピラミット数表」の姿であり、自然の真実の姿をゆくりなく語っているものである。また、これらの数列はすべて初めと終わりには0を持っていることに注目してほしい。要するに、すべては常に0(神)に守られ、いつも神の手の中にあると言うことである

 
 要するに、「現代数学」が数の表面を見るだけではなく、もう一歩踏み出し、数の内面や数の本質まで見究め尽くし、正しい自然の姿を見出さなければならないのである。そうすることにより我々人類の科学文明も別な違った道を歩んでいくことになるであろう。恐らく、それは自然的な正しい方向へと向かう道であり、宇宙普遍の自然的な文明構築を持った永遠性のあるものと考えてもいいものであろう。


 次の図でその証座を紹介する、そこにある数の語りを見ながら純な心で考えながら見比べて貰いたい。

さて、ここで大いなる「神の秘儀」の存在を見て見よう、それは一つの数の描く絵であり、数の語る真実の語りと言うものである。またそれは見ようとしない人には見えないが、見ようと言う心を持っている人々には親しく話しかけ、いろいろと教えてくれるものである。 是非、試みるがよい。


 

 まことにすべては単純で美しい、その上整然とした姿を持っている。まるで数の描く端麗な絵画を見ているようで甚だ心が魅かれるものである。 
 これはまさに数の描く一幅の芸術的な図であり、数の描くほのぼのとしたファンタージを感じさせるような完全絵図の姿である。

そこにある易しい数の姿、秩序と調和を持って連なる一連の数の姿、それはまさに神の語りの件(くだり)と言ってもいいものであり、何となく心をほのぼのとさせ、現代数学で打ちひしがれた魂を優しく癒してくれるものである。

心の耳を澄ませば何事かを囁き、教えているような声が聞こえて来るような気がするものであるが…、あなたには如何であるかな…!?。

何と美しい姿であり、何と素直で素朴な数の姿なのであろうか…!!!。 その素朴と素直な数が天下御免の「神の秘密」を描き、我々を手招いているのである。 よく見るがいい、その姿は複雑な数式と誰にも解らない数学用語を用いて大衆の目を欺いて来た現代数学とは大違いのものであろ。

 そのあたりをこれから諸氏と共に考えて見よう。一つハチマキを締め直して心静かに挑んでもらいたい。今まで人類の探し求めてやまなかった自然の大哲数理と言うものがここにしっかり鎮座ましましているのである、我々が考えなくて誰が考えると言うのであろうか…!!。

世界で一番柔軟で、繊細な脳を持つと言われている我々日本民族、最も自然の声を聞き分けることの出来ると言われている。それを我々日本人が考えずして、誰が考えようとするのか…!!。是非、そのぐらいの熱い意気込みを持って取り組んでもらいたい、それによりすべては型通りに成就し、世界に冠たる大いなる知の国として永遠にその名を歴史上にとどめることが出来ようと言うものである。

ハッキリ解るのはこの図の最後に現われた数列はすべてが鏡面対称数列の姿であり、「神」の姿を模(かたど)ったものであると言うことである。それは日本の古代の神々が持っていた名前を見ればよく解るはずである。例えば、「天の御中主」、「天常立神」、「国常立神」、「大国の主」等、数えても10指に余るほどである。それぞれの文字をよく見るがよい、すべて左右対称文字、すなわち「鏡文字」を用いて名乗りを上げているのである。
 その傾向は古代に戻れば戻るほどますます顕著になっているのである。一体、彼等古代人は何を知り、何を示そうと図っていたのであろうか…?!。

 しかもこれらの鏡面対称数列は何処かで見たような気がするものであるが…??。さあ、はて、一体全体何処で見たのであろうか…??。

 ただし、何回も「ひふみ九九算表」を見つめ直した御仁でなければ気がつかないであろう。

 要するに「ひふみ九九算表」の斜めの数列に常に着目していない限りそれを語るのは所詮無理というものである。よく見るがいい、「ひふみ九九算表」の斜めの数列はすべて「鏡面対称数列」の集合体から成っているのである。 「鏡面対称数列」、それは一体何なのであろうか…!!?。

 
 そう、それはまさに「ひふみ九九算表」の中に威厳をもって鎮座ましますものであり、そこに斜めの空間に等しく横たわっているものである。
 まさに、ここに存在するそれぞれの二つの対角線数列を挟むようにして上下に存在する二つの数列は瓜二つのものであり、しかも「鏡面対称数列」的な姿を持っているものである。 恐らくは何か重大な事を叫んでいるのであるが、しかし、残念なことに現代人は誰一人としてその存在には気がつかない。ただ眺めて無視するだけである。
 

私は常々言っている、天(横)と地(縦)の存在は我々にでも等しく解るものであるが、天(横)と地(縦)の境に横たわる「神の領域(斜め)」についてはまだ誰も知らず、考えたことも無いと…。恐らくそこに横たわる「鏡面対称数列」の群については 現代の学者では何もコメントは出来ないものであり、恐らくは、無視してただただ放り出すだけであろう。

そこには神の姿を模(かたど)った鏡面対称数列が碕羅星のように鎮座して天と地を睥睨しているのである要するに斜めの場、すなわち、天と地の間こそ「神」のたむろする場であり、天と地を司る神聖な「神」の御座と言うものなのである。 あなた方は笑うであろう、しかし、この鏡面対称数列を極めない限り「神」にアプロ−チを図り、その寵を得ようとしても無駄なことである。

 

例えば、我々が思索に詰まった時、あるいは忘れた知を引っ張り出そうとする時などは知らず知らずに視線を斜めに走らせて一瞬考えに耽る。あれは「神」に助けを求めるサインであり、無意識の中で神の助けを乞うための一つの無意識のゼスチヤ−なのである。そうすることにより、多くの人々の心には思いもよらぬような知が自然に湧き起り、すべてを円満に解決しくれることをあなたの無意識の心は知っていると言うことである。

 さあ、余分な話はいい加減にして、本題に戻ろう。これ以上語ると馬鹿にされることは必定だからである。本当のことを言っても少しも通じない、
ただ虚ろな響きのこだまが返るだけである。

 

これらの鏡面対称数列の数字の並びをもう一度、しっかり検証してほしい。確かに「ひふみ九九算表」の並びとまったく同じものであろう。いくら、諸氏がそんな馬鹿なと目を剥いてもどうにもならんものである。すべてはとうに決まっているものであり、「神」が等しく宇宙の誕生とともに定めたものだかたである。今更我々人間風情(ふぜい)が文句言ってもどうにもなるものではない。ただただ従うのみである。

一つ、不可解な事が起っている、「ひふみ九九算表」の中では対角線軸の数列は0850220580であり、その対角線一つ前の斜めの数列は073676370である。しかるに、この「ひふみ三角数表」の対角線を越えてその向こうにある世界の数列は09736763790と言う0の多い姿で現われているのである。その意味とは…!??。

では一つ、9=0と置いて見よう、すると00736763700となって同じ数の並びになるのである。ただ、両端に0が一つづつ多くなった姿、すなわちそれは「別な世界」に関わり出したものと言うことである。要するに「陽」から「陰」に転移すると絶対値は同じであるが0が増えていると言うことである。

そのあたりに潜んでいるのが一段上のネクスト・ステ−ジの「数の語り」である。そこにある結末的な結果の一切を見出すことからまた、完全な新しいステ−ジ、人類の未だ手の届かなかった次の宇宙自然の数物語が始まるのである。

 

これらの自然の語る新しい数のステ−ジを解明し、明らかにすることが我々には大切であり、自然との会話の道を開くキ−・ポインとなるものである。それを知らない限り、我々の知は閉塞状態が続くだけであり、何時まで経っても現代知は堂々巡りするだけである。

時間と知に余裕がある方は是非次の新しいステ−ジの花道を駆けあがってもらいたい、この「ひふみ三角数表」の11,12段目…と続けて計算を完成させることにより、すべては明らかになるのであり、本当の「数の道」が現われて本当の「数の真実」をあなたに告げてくれるものである。

それがすなわち、日本の古神道の偉大な「数の道」であり、宇宙自然と共に歩む「カムナガラの道」と言うものなのである。

要するに、すべては神の采配による自然の「数の道」であり、何時かは人類が知らなければならない本当の「自然の大道」と言うものなのである。

 

我々の現代文明は「神」、そんなものは無いと否定し、強引極まりない手法をもって自らの手で耕し知を推し進め人類知として発展して来たのであるが、なぜか、ここに来て歩みを止め、改めて「神」の所在を確かめようとしている。ひょっとして「神」の存在に気がついたのであろうか…??。

確かに最近一部の先端学者達は「神が無ければ何事も起らないし、始まらない」と主張し始めている。やっと今、神の存在と言うものに気がついたような気配がある。考えて見ればまことに目出度いことである。彼等は宇宙は神の一撃から始まった。すなわち「神」の関与が有ればこそ存在に至ったと言っている。すると言わずもがな、終わりもそうである。「神」の意思が働いてはじめて終焉がある、そのように考えるべきであろう。

しかし、彼等、科学者達は「神」と言う言葉は使わない、「宇宙の大知性」、「大いなる存在」、「自然意識」、「最高の存在であり、最高の知性」、等と勝手に自分で命名して用いているのである。考えて見ればまことにおかしな話であり、考えられないことである。


 それらは宗教界の「神」と同じものであるが、「神」とは呼ぶことにはばかりを持っているからである。恐らくは宗教界に対する反感、もしくは連綿と続いて来た競争意識による対抗感があるのであろう。

私は敢えて言いたい、自然数学を学べば。それは即、物理や哲学に通じることになり、それらを総合的にあるいは俯瞰的に大きな目で見れば、それは神学的な内容を示すものであることに気がつく筈なのであるが…!!!。

 

 せめてここにある内容を隅から隅まで探索、あるいは奇しき計算を進めてこの外に広がる大きな「見えない世界」を覗いて見て貰いたい。すると「この世」は「あの世」と連続的に繋がっている相対的なものであることが解るはずである。要するに、「あの世」が無ければ「この世」も無いと言うことなのであり、「あの世」と言う存在を否定することは自らの存在、すなわちここにある自分の存在自体をまったく否定していると言うことになるのである。 まさに矛盾中の矛盾と言うものである。

そのあたりをあなた方はどのように考えているのであろうか、一つ、聞かせてほしい…!!!。

                                                                     今月の語り 完

 

   数のささやき(2)

自然の持つ本当の数の調べを考えよう<4>
         < その計算法は人間の知とはまったく相容れないものであった…!!>   平成26年2月の



 先日、天明さんの「ひふみ神示」を久しぶりに開いて見た。何となく気になった項目があったことを思い出したので…!!?。

それは、最も難解と言われている「アレの巻」であり、そこにある次のような言葉である。

 
 
 「百霊継ぐ文字の道。基の極みたり、面白に秘解く成答、文道とどめたり。数の始めの絶対の理ざぞ。字、絶対の理。誠母(親の古字)の秘文(ひふみ)。霊気世に満ちみなぎり、国々晴れ渡るぞ」。   百霊→(百霊とは「ひふみ九九算表」の枠(物理空間)であり、100ヶある不可思議な超空間である)  継ぐ→(基本の理としている)

 

「言答開き成り成るぞ。まことの言答は永遠ぞ。瞳ぞ。御位継ぐ理の始まりぞ。」

言答開き成り成るぞ真理は開かれいよいよ世に現われるぞ ()()=火と水=陰と陽→。(本文上では1と3ででヒトミと読ませている。)


「字の言座、名(言波)の極みぞ。意思の極み成るぞ。道は道理であるぞ。字開き、無(0)に結び、咲く花の結び秘文ぞ。」  

 
字の言座(アイウエオ50音図)、または(ひふみ九九表)、 名(言波)の極み(最高の知の言葉) 

 

「九の花の、一時にどっと咲くところ、玉の御代とて神代より 生きし生き神引き合うぞ」。
玉の御代輝かしい先史時代文明。 生きし生き神引き合うぞ代々継がれてきた遺伝子のDNAが呼び合うぞ。

 

「神国の、まことの鏡(完神)のとどろきも皆御文字世の始めかし、今、始まる世の基い」。

   鏡(完神)のとどろき 鏡面対称数列の示す素晴らしい自然仕組み

 

E  「はじめの光り、今 輝きて答神(真理)覚め覚め捧ぐもの、百取りしろ(網母十理詞露)に充ち満ちて弥栄御座湧きに湧き天晴れ継ぐ 神の答は字にあり。」  
             
 百取りしろ(網母十理詞露) 「ひふみ九九算表」を指す。姿を見るがいい、まさにそのものである。…。

 

 これらについて余りにも難解であり、誰も詳しい解釈は叶わずただ放り出しているだけである。しかし、それも止むを得ないであろう。

 なぜならば、これはまだ現代人の知らない「未来の学」についての内容だからである。

要するに、それが未だ世には出ていなかった大いなる学、すなわち「数」の語る「神の数学」の内容を述べているものなのである。

それは今やっと古神道の中から産声を挙げたばかりのものであり、これから世界に向かって名乗りを上げるものである。要するに、それは現代人の未だ知らない「未来の学」であり、同時に遠い過去の日本民族の祖たちが持っていた「過去の学」でもあるのである。

 それを知った天明さんはその大要を「ひふみ神示」の中に「数」で納め、で語っているのである。

 しかもそのすべては「数」「記号」のみで語られているので、それらを言葉に変換して意味を完全に解き放つことは甚だ困難なのである。しかし本来、「数」の言葉と言うものは「数」を用いて解かなければ意味がハッキリしないのであり、紛らわしい言葉などでは到底駄目なもののである。 
 何と言っても、「数」こそが不可解な言葉をより鮮明に浮き出させ、明らかにしてくれる最適なものであり、無駄なところは無いものなのである。

 

確かに、今回の講座は不可解な言葉の端々から判断しなければならず、なかなか要領を得ないものである。未だ誰も手を付けてはいないものなので、今回は私的な知、すなわち、「神の数学」的な流儀をもって調査し、これらの難解極まりない言葉を解明する積りである。
 その上でこの「アレの巻」の各フレーズに宿る大いなる言葉の意味を出来る限りくみ取り、それに沿いながら解明していく、それが最も天明さんの心に沿うような気がするのである。なぜならば、読んでゆくに従ってますます「ひふみ神示」は「神の数学」とオ−バ−ラップし、何となく同じライン上に並んでいるような気がして、ますます心が弾んで共鳴音を奏でて止まないからである。

 

まあ、あんまり堅苦しくは深く考えずに軽い気持ちで読み流して貰いたい。すべては大胆、かつ我流の解釈であり、思い切った名(迷)訳を行っていると考えて貰っても結構である。まあ、専門的な研究をされている方の中にはまことに不届き千万と嘆く御仁もいると思うが、これは「解釈の一の矢」、すなわち解釈のための一つの嚆矢と思って大目に見てもらえれば大変有難いと思う次第である。

  
 
  【意訳】…我流による

@   「ひふみ九九表」の数文字の語る宇宙の法則、面白いように解けて行くそれらの答を一つの文章にまとめて見ることである。それは数の始まりである0は絶対の力を持つと言う理(ことわり)であり、また、字(数字)と言うものは絶対的な理を説いていることを知らなければならない。それを語るものがすなわち、今まで誰も知らなかった祖達の古文字(神代の古文字)にある秘文(ひふみ…天地の数歌)と言うものである。それが世に出る今を迎えて、すべての真実がはっきりと明らかになって来るのである。それは同時に嘘偽りの無い本当の「神の神気」が日本の国全体に及んで、燦々と輝きわたる時でもある。

 

A   本当の言霊の真実がハッキリと明らかにされるぞ。言霊の語る真実とは永遠に続き変わることはない。それは火と水の関係。すなわち、「陰」と「陽」と言う自然の2元の理を表すものであり、現代知にとって代わる 新しい知の始めであり、その誕生となるものである。

 

B   字(数)による「アイウエオ五十音図」は言霊としては最高のものであることを知るべし。 それは「神」の言葉であり、神の意思が籠っているものであるぞ。またそれは「道」でもあり、「道理」でもある。 また、数は教える、すべては0に結ばれ、9になるものであると…。 それがすなわち、「神」の秘密と言うものである。

 

  「神の数学」の知がここに来て一気に甦った地域とは、あの知的な栄華を極めた太古の御世に存在していた知者達の住んでいた場でありその土地である。そこに今、改めてこれら祖達のDNAがこの世に甦りを果たして互いに呼び合っているのである。

 

D   日本の国の鏡文字(鏡面対称数列、及びそこにある「ひふみ天地の数歌」の完全体)の素晴らしい真実はすべて古代の世に代々と伝わり存在したものである。またそれがここに来て改めて世の中の真実の基盤としての役割を果たすことになるのである。

 

E   はじめの光、すなわち祝詞「ひふみ天地の数歌」 は 今の世になってまたもや光を放ちはじめた、そして神の答、すなわち自然真理の数々は「ひふみ九九算表」に充ち満ちて、無上の光として輝いている。要するに、すべての自然の答、すなわち真理の真実は「数」が知って歌っているのである。

 

天明さんの「ひふみ神示」の「アレの巻き」の部はまさに「神の数学」の内容を彷彿させるような言葉が多く、その内容のすべては「数」で書き出され、「数」の調べの序になっているものである。
 しかるに、今まで「数」に心を寄せて調べる者などはまったく皆無の状態であり、従ってこの内容を解き明かし、世に出すことが出来なかった。それが歴史上の真実と言うものであろう。

 

何故なら、今の今まで、すなわち、最近までは「神の数学」はこの世に姿を見せてはいなかったからであり、従って「数」と対話するなどの人間はまったく存在しなかったからである。要するに、最近やっと世の中に顔を出したばかりの新しい「自然の知」であり、新参者なのである。従って、天明さんの頃、すなわち、1950年頃にはまだ影も形も無かったので、名前を付ける際に直感的に「アレ」と名付けたものであると考えてもいいであろう。

故に、今まで「ひふみ神示」の「アレの巻」は今まで意味不明、解釈不能のレッテルを貼られて来たのであり、誰も挑もうともせず半世紀の間ただ放りだされたままであったのである。   

すると「アレの巻」のアレとはそもそも一体何を指すものなのであり、一体全体、何を意味するものなのであろうか…!?。まあ、不可解の限りと言えばまさに不可解であり、いくら考えても答に行きつくことは難しい限りなのである。
 要するに、今になって判明したことは「アレ」とは古神道に端を発した古くて新しい日本初発の学を指すものであり、「神の数学」の説く古神道の双対の祝詞を指しているものと推測されるものである。

 では古神道の双対の祝詞の「アレ」とは一体全体何を指す言葉なのであろうか…??。

一般的な庶民言葉では「アレ」とは口には出せない言葉の代用言葉、すなわち、「悪い言葉」かそれとも尊すぎて「口に出すには憚るもの」などを密かに名指す一般的に使われている隠語言葉である。恐らくは、ここではそれを含めてのダブル的な意味で使われているものであろう。

そのあたりをこれから申し上げよう。

そもそも、「ア」とは祝詞「アイウエオ」の最初の言葉のアであり、「レ」とは祝詞「ひふみ天地の数歌」の本体の「ひふみ九九算」にある最初の言葉、すなわち、01234……の最初の数の0(レ)を指すものである。確か他の巻にもあるはずである、「レ(0)であるぞ、ケ(9)であるぞ」と…。

要するに、天明さんは「アレ」と言う言葉を用いて古神道の双対の祝詞であった「アイウエオ」と「ひふみ天地の数歌」の二つを指し、そこに有る重大な秘密を語ろうとしていたのであろう。

恐らく、それは天明さんの脳に響いた「天の声」であり、それを思わず記したと言う次第であろう。

 

告白すれば、私も今、初めて「ひふみ神示」の「アレの巻」を開いて見たばかりであり、余り大口は叩けない。これから少しづつぺ−ジの内容を確かめながら再三再四解釈を試みていく積りでもある。

まあ、それにしても難しい限りであり、何となく舌足らずな不可思議、不可解な言葉内容でもある。

 何しろ本文はすべては「数」で書かれているので、それもまったく止むを得ないことでもあろう。

諸氏は知らないであろうが、ここにある文字はすべて「ひふみ神示」の研究者達が苦労しながら数字から推察して練り起こし現代言葉であり、天明さんが自ら綴った文字そのものでは無いのである。

要するに、天明さんが残した数字のみで書かれているものを心得ある有識者達が考えながら現代の言葉に置き換えたものであり、それがすなわち、現在の「ひふみ神示」と呼ばれる書なのである。

恐らく、これからの私の解釈は「神の数学」に偏った面が多分にあるのは明らかであり、それは否定はしない。しかし、いいではないか、それにより少しでも解釈度に勢いが増し、大勢の人々が口を挟みながら近寄って来て慣れ親しむことになるならば…!!。

そのような事情を踏まえながら、少しでも歩を進めるために気になる関連語があればそれを引っ張り出してまな板に載せて見よう。つれづれのまま、紛れ心でもいい、興を持った御仁があらば共に考え、共に講釈のために言葉を交わす、それが解明のための第一歩と言うものであろう。

 

 ◎読む開き、字(数)出づ理に成り、結ぶ魂に弥栄開く大和心の道ぞ。道開く永久の極みぞ。

 ◎ 根っ子理ぞ。 ◎ 九で成る識道  ◎ 九九の理、字の絶対出づ。  ◎数と字の絶対九の道。 ◎ 九の経綸 四十八音となるぞ。  ◎ 天の九九の0の理。

   ◎  字に成り成りませる九の神には 何事も弥栄弥栄ざぞ。◎ 祝詞の心 始めの開き字に現われるぞ。 ◎ 数の極み神ぞ   ◎ 読みの岩戸 開く成り。

 ◎  秘文(ひふみ)の国ぞ、言玉(言霊)の弥栄光る国なるぞ。◎ 秘継ぐ数字大神 絶対開く元神は九と0の理 四十七音(ひふみ) 四十八音   ◎ 弥栄成答は九の御座の問いに開くぞ。

  ◎  実空字 大き理知()せることの印しなり。  (実空字=「実」とは「ひふみ九九算表」の数字であり、「空」とはその枠(セル)を指すものである。 要するに、その二つの関係こそが大きな天の理(法則)を囁いているものである。   また、とはセルの中の数字(エネルギ−)を示し、とはその場でもある。 これはすなわち、エネルギ−と場との間には大きな関係があることを言っているのである。


 このように思いがけない「神の数学」と完全に共通するばかりの数々の言葉と内容が示されているのである。確かに現代西洋常識などでは歯が立たず解くことなどは無理である。要するに、この足元にも及ばないと言うことである。

しかし、考えて見るとそら恐ろしいことでもある、何故ならこの二十一世紀の先端物理学がようやく掴みかけている「エネルギ−」と「場」の関係までしっかりお見通しだからである。もちろん、このエネルギ−と場との間には密接な相関関係、秩序ある相関関係が間違いなく存在することを「神の数学」はハッキリと「数」で証明済みであり、その資料もすべて備え揃えて万全を期しているものである。

 

さあ、大分本来の数学の本題と離れたものになったので筋を本題に戻すことにしょう。

 

今回は先月の講座である「ひふみ三角数表(ひふみピラミット数表)」の残りの部分を講義したい。


 先月は余りにも長くなったのでつい講座からカットしてしまった。しかし、これを講義しない限り完成には至らず、すべては中途半端な形となって全体を見通すことが出来ないことになるのである。 出来るだけ完全なもの、欠落のないものとして残しておきたい。


    まずはこの「ひふみ3角数表」の斜めの数を10段目まで取り出して見る。


〔A〕斜めの数《1》

 

 00000000000() =

 0111111111() =9→ 

 022222222()=16→

 03333333()=21→

 0444444()=24→

 055555()=25→

 06666()=24→

 0777()=21→

 088()=16→

 09()=09→00=0

 0 ()= 0

何と、ここには次のような見事な鏡面対称数列が鎮座ましましているのである。

       0 0 7 3 6 7 6 3 7 0 0

  ∨  ∨  ∨  ∨ ∨ ∨  ∨  ∨ ∨  ∨

  0  7  5  3 1 8 6  4 2  0 …「ひふみ天地の数歌」の2の段の逆、すなわち8の段である。


 その鏡面対称数列の数を引き算する、すなわち、右の数から左の数を減算するのである。

するとそこには見事な「ひふみ天地の数歌」の上から8番めの数列が現われて完全完結の姿を取っている。

すなわちここには逆廻りの「裏の数列」の完全式が現われて完全に幕を引き、すべては正しいと数の言葉で語り上げているのである。

 
〔B〕斜めの数《2》

00000000000()=0→

0123456789()=45→

012345678()=36→

01234567()=28→

0123456()=21→

012345()=15→

01234()=10→

0123()=

012()=

01()=

0()=

すなわち、そこには次のような秩序ある「鏡面対称数列」が現われて何かを囁いているのである。

 

0 0 0 1 3 6 1 6 3 1 0

∨   ∨   ∨  ∨  ∨  ∨  ∨  ∨  ∨  ∨

0  0   1   2  3  4   5  6  7  8 …「ひふみ天地の数歌」の2の段

 

するとこの《2》に「ひふみ九九算表」の一の段の表廻りの数列、すなわち表のA番の数列が現われて完成を告げているのである。
 あなたにはすでにお解りのことであろうが…!!。すべては秩序と調和を持った完全数列の出現である。何を語ろうと言うのか…!?。

斜めの数列《1》から現われたものは「ひふみ天地の数歌」の数列であり、しかも裏の数列、すなわち、「ひふみ天地の数歌」の8の段である 同じように、斜めの数列《2》から現われた「ひふみ天地の数歌」は表の数列であり、その2段目の数列である。

 このように本当の自然の現われ、すなわち、自然の示し(学)であるか、またはそうではないかは「数の表れ」を見るとよく判るのである。要するにそれが正しいものであれば、そこには必ず「ひふみ天地の数歌」の数列がお目見えして幕を引いているのである。  まさにそこには古神道の奥儀祝詞である「ひふみ天地の数歌」の数列の素晴らしさ、そして人知にはない面目躍如と言うものが現われて完全なる幕引きを歌っているのである。
 「ひふみ天地の数歌」、それは日本の誇りであり、日本の知宝、世界の神宝(カンダカラ)と言うものである。

あなた方には「表の数列」とか「裏の数列」とか言ってもその区別が判らないであろう。出来れば次の「ひふみ九九算表(宇宙次元原理表)」を見ながらそれらを指先で何回でもなぞって貰いたい。


 この上の「ひふみ九九算表(宇宙次元原理表)」の真ん中から上の部は「表の世界」であり、その下の部は「裏の世界」を示す構図になっているものである。要するに、「表の世界」では数は012345……と流れ、「裏の世界」では逆の流れ、すなわち、……543210との流れになっていることが判るであろう。

要するに、このように発生するエントロピ−の形が相対的に対逆になっている、それが「裏(あの世)」「表(この世)」の象の違いなのである。
 それ故にお互いに「見えない」、「感じ無い」と言う究極の逆世界を作り上げながらそれぞれ安定化の状態になって納まっているのである。、

 

この対になっている対逆の流れの存在こそが相対世界で発生したエントロピ−をお互いに打ち消してすべては0に還ると言う「自然の理」の仕組みを持って永劫盤石な存在になっているのである。今の学者達はこのままエントロピ−が大きくなって行けば、やがて世界は崩壊すると騒いでいるようであるが、そんなことは決してない。
 なぜならば、「表の世界」で発生したプラスのエントロピ−価と同価のマイナス・エントロピ−が「裏の世界」で自然的、必然的に、そして同時発生的に対発生して互いに打ち消し合うような仕組みが自然的に出来上がっているからである。ゆえに、我々の自然世界は発生以来、常にエントロピ−0の状態を保っている状態であり、破滅を迎えたことなどは一度もないのである。 まさに有難い自然の仕組みがそこにはあるのである。ご安心召され…!!。

 

要するに、「ひふみピラミット数表」にある二つの斜めの数列は片や「陰」、他方は「陽」と言う相逆関係にあるのである
 これらの数字を辿って行くと知らず知らずの中に「陰」と「陽」と言う存在に辿りつくことになり、改めて自然の仕組みの偉大さ、その素晴らしい仕組みに驚かされるのである。

それにしても、現代人は余りにも自然の「真実の世界」についての認識が不足しているのであり、余りにも知らな過ぎると言いたい。
「陰」とか「陽」とかの言葉はあってもそんなものは科学には無いと上げ足を取って科学の領域から放り出してしまうのである。そして彼等は自然の真実に目をそむけて自分達のつくり上げた虚偽もどきの学に磨きをかけて満足しているのである。  

 

そもそも、大自然はシッカリした大律理、すなわち鉄壁の理を持っていて、その理は決して曲げることが出来ないものである。何故なら、それらの理は自然が試行錯誤しながら何十億年、何百億年もかけてつくり上げたものであり、すでに完全に完璧の域に達しているものであるからである。

それらの一切合切を知っているのが「数」なのである。「数」こそが「神」の言葉であり、よきパ−トナ−として宇宙の創成に関与して来た唯一の「神」の相棒を務めて来たものである。

だから、何でも知っているのであり、何でも真実を語れる存在なのである。

 

それを知っていたのが古の賢聖ピタゴラスであり、彼は次の言葉、すなわち「宇宙の根源は数である」と言う有名な文句を残している。

もっと詳しく言葉を説明するとピタゴラスは次のように述べていたのである。

 「万物は形を持つ、万物は形である。そして、すべての形は数によって規定される。ゆえに万物とはまさに「数」であると…。

 何とそれは「神の数学」の内容そのものであり、少しも違(たが)わないものである。

まさに古代の叡知とは現代の知より遥かに秀でていて、我々の「現代知」等は及びもつかないものと言っても誰も非難出来ないであろう。
 現代の知のアキレス腱、それはまさに「数」なのである。

 

また、最近ではイギリスの有名な数理物理学者であるR・ぺンロ−ズは「自然の法則を深く研究すればするほど物質的な世界が消え、最後には数学しか残らない」、「物理法則を深く理解すればするほど、ますます私達は数学と数学概念の世界へと追いやられてしまう」と言っているのもこれまた面白い。

 まさに数学こそがすべての学の王者であり、物理学や哲学などはその僕(しもべ)と言ってもいい存在である。何故なら、「数」は宇宙自然のすべてのことを知り尽くしているからであり、すべてのことを語れるものだからである。 ただそのことを我々人間が知らないだけなのである。

まあ、人類がそれを知り、「数」を調べ始めるのは何十年後であろうか、そこで初めて宇宙自然の物象の真実に迫り、それを知ることになるのである。

                            《2月の講座これにて完》



  数のささやき(2)

自然の持つ本当の数の調べを考えよう<5>
         < その計算法は人間の知とはまったく相容れないものであった…!!>   平成26年3月の




 さあ、今回も一つ頭を絞って考えて戴きたい。何しろ、脳は使えば使うほどシャ−プになり、次元的な進歩を遂げることさえも可能となる、すなわち、すべては脳の働き如何にかかっているのである。

 要するに。それは人間の考え出した凡庸な思考などではなく、もっと深いところに存在する隠された「神の秘密」、「神のメッセ―ジ」を探り出すことにより知の更なる次元的なジャンプが可能になると言うことである。今、その瀬戸際にさしかかっているのである。

それはすなわち、別な切り口を持つ未知の自然学問の姿を見出すことにより、知は更に拡大して新たな形の秩序世界を見出すことになると言うことである。今までの自然探索は主に物質的な面からの探究であり、意識的な面での手掛かりと言うものはまったくであったのである。
 たが、今回は意識的な要素が強い「数の学」が見出されて、様々な形で自然意識の存在と言うものがクロズアップされて来るようになるはずである。  恐らく、これからますます人間知と混ざり合ってその存在感を高めていき、やがては21世紀の人間知学の主流となって来るものであろう。
 また、そこまで到達することにより初めて人間の意識と自然との間に会話が成り立って、新たな自然マトリックスの世界に旅立つことが出来ることになるのであり、大自然の本当の姿も次々と開かれることになるであろう。恐らくは、量子力学論あたりがその嚆矢となるものであると考えている。

 

要するに、科学者達が現代物理と言う武器を使って自然の秘密を解き明かそうとするならば、我々は自然数学(意識数学)と言う未だ現代知の向こうにある自然の理を用いて大自然(神)と会話を交わそうと言うのである。まあ、それは大変困難なことではあろう、しかし、与えられている「数の道」を頼りに少しずつ切り開いてゆけば、何時かは大きな「自然の道」、すなわち「自然の真実」と言うものに合流が出来ることになるのである。

 

 今回も「神の数学」の視点から見出された新しい問題を紹介したいと思う、別に難しいものではない、ただ目新しいものなので難しく見えるだけである。そこには難しい用語とか数学計算などは一切ない。あるのは足し算と引き算、それに比と置き換えくらいである。要するに、それと同じ事をあのイギリスの大物の物理学者のペン・ロ−ズが言っているのである…!!。彼は自然と言うものは整数のみから、その組み合わせの作用だけを用いて創造されている。すなわち、「神」は比、足し算、引き算、置き換えなどの単純な算術演算だけで宇宙を創造していると言っているのである。

確かに、「神の数学」の計算法は現代数学とは少し異なるものであるが、何回も計算を繰り返している中に非常に簡単なものであることがだんだん判って来るのである。 要するに必要なのは少しばかりの直感と僅かな洞察力、そして中学生並の計算力があればそれで十分なのである。

 

とにかく、少しづつ自然の砦を崩して行くことである。それにより、どのようにして自然の仕組みが成り立っているのかが、「数」を操ることにより面白いように解ってくるのである。

まずはその「数の図」や「数列の仕組み」の意味を知り、それを突きとめて行くことからすべては始まるのであり、更にそれは全体像へと広がって行くのである。

その上で、それを噛み砕きながら、そして反芻しながら人知の中に取り入れていくことが大切なのである。もし、それが不能と言うのならこれ以上の人類の発展はもはや望み薄しと考えていいであろう。

現在のように自然とまったく会話が交わせないような知をいくら積み重ねても意味がない。本来は、科学とは大自然を解明し、それと語り合うためにつくり上げた学なのであるが、いつの間にか自然と乖離するようになって独自の道を歩み始めたのである。しかも科学が発展すればするほどその距離はだんだん離れていくばかりなのである。


 それでは何時まで経っても自然との会話は始まることは無く、ますます遠ざかって行くだけである。

せめて我々だけでもいい、あるべき「自然の真実」を学び取ってその本質の如何を知ろうではないか。

 上に掲げたのは御馴染の『ひふみ九九算表』であり、古神道の祝詞である「ひふみ天地の数歌」の本体である。今までこの「聖なる数座」に秘められている「神の秘密」を数多にわたって解き明かして来たのであるが、今回、更に深い「神の秘密」、すなわち、天地の開闢の原理となる大きな秘密の存在を紹介して見よう。ただし、あなた方に理解する力が無ければすべてはそれまでと覚悟をしてもらわなければならない。要するに、あなた方が人類の未来を握っていると言っても決して言い過ぎではない。

これはまさに、宇宙大自然の「天」と「地」のそもそもの由来を明かすものであり、古神道の中では隠されたままで未だ明かされていないものである。それは「天」と「地」の本質、すなわち、宇宙大自然の最も基本となる二元の理の存在をしかと語っているものなのである。

 確かに、我々がこの『ひふみ九九算表』を見ても何も感じはしない。そこにはただ単なる数のランダムな羅列があるだけであり、意味の無い無機的な数の姿が並んでいるだけにしか見えない。

 それはすなわち、我々の脳はすでに西洋科学知に完全に冒され、本来のあるべき理知的な数の姿形の一切は見えなくなっていることが原因である。ただそれは純なる心を持った我々の古代の祖達には見えたものであり、その余りの真理の大きさゆえに、驚き怖れながら彼等はその数の姿の一切を神道の中に封じ込め、守って来たものなのである。それがすなわち「神道」と言う名の自然の伝承道であり、代々守り伝えてきたの日本固有の「自然の道(カムナガラの道)」と言うものである。

 

 そのあたりのことについては次の古代の書に記されているとおりであり、そこにある「数の理」が盤石の重みを持って一切を語っている。
しかし、誰もその書の名前も知らなければ、その存在さえも知られず、ただ長い間打ち捨てられたままであったのである。なぜならば、学者達はそこにある内容がまったく理解が出来ず、ただ古代人の戯言であるとして長い間、無視を決め込んでいたからである。

その書は『神文傳かみつふみのこととぎ) であり、そこにある次のような言葉である。

「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その 理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり。 <先天→先史文明時代→2〜3万年以前の日本に栄えた超文明、大体、カタカムナ文明期と同時代か>

 

上に掲げた「聖なる数座」、すなわち、「ひふみ九九算表』の持つ「神の秘密」の一つをここで改めてあなた方に明かし申そう。

果たして、諸氏には理解出来るかどうかは今は甚だ疑問であるが、何回も繰り返して数字をなぞればその中には必ず解る時が来るはずである。根気よくなぞっていってもらいたい。熱意と根気、そして時間、それがあれば誰でも自然の真実に近づくことが出来るのである。

これは一つの「陰」と「陽」の存在性の確かさを自然数学的に明らかにしているものであり、「数」がその口上を務めて教えてくれるものである。。

この数千年来「陰陽論」があっても一向に際立った進展は見せず、現実的な「本当の陰陽の仕組み」と言うものがが少しも浮上して来なかったのは哲学的な論点に終始するあまり、数学的な観点からの追求が一切なされなかったからである。それを行わない限り、「陰陽論」はあくまでも机上の論争に終始するだけで、決して陽の目を見ることは無いものである。

 

ここにある『ひふみ九九算表』は二つの対角線を持っていることはあなた方にもお判りであろう。

確か、大分以前にこの二つの対角線は「天」と「地」の関係、すなわち、「陰」と「陽」の関係にあると申し上げたが余り理解は得られないようであった。それ故に、ここで更なる新しい自然数学的な手法、すなわち、『ひふみ九九算表』を用いてもう一度それを証明して見たいと思うのである。

それがここにある二つの対角線の窮極の関係であり、そこにある「数の仕組み」を利用しながら大自然の「陰」、「陽」と言う二元の理の存在の確かさを改めて「数」に語らせようと言うのである。「数」の仕組みを知っている限り、我々は数の言葉を読み取ることが可能であり、その大要、意味さえも掴むことが出来るのである。しかるに、「現代数学」はそれを持たない、だから、いつかは袋小路に入り方角を失い発展性を失うことにことになるのである。

 

ここには驚くべき自然宇宙の真実が顔を出し我々を手招いているのである。でもあなた方は呆れ果てそんなことまで数は知っているとはまさにクレジ−であり。信じられないとクレ−ムをつけるであろう。しかし、そのためには科学常識に合った反証を出さなければならない。なんせ、ここにある「陰陽の理の形」は物理学にある正反偶構造にピッタリと沿ったものなのであるから…。要するに、反証することはは完全に不可能と言うことである。

これが本当の自然数学の姿である。現代数学とは基本軸において完全に異なるものであり、まさに真理の結晶体、真理の真髄と言ってもいいものである。これからそれを解き明かそうと言うのである。それは「現代数学」では無理でも「神の数学」では十分に可能なのである。

 

科学者や数学者は疑問の声を挙げ、頑なに拒否の態度を取るであろう。しかし、先端の物理学者達は現代数学的な手法では量子世界や超ひも理論の解明には矛盾が生じていると言っている。それはすなわち、現代物理学は「一般相対性理論」「量子理論」の上に構築されているのであるが、この二つは調和を拒み、結び付けようとしてもどうしても結びつかないと言う大変重大な局面が生じて来ていることである。
 この半世紀、世界の一流の物理学者達は懸命に結びつけようと頑張ったが、すべては不成功の中に終わっているのである。この二つはお互いに調和を拒み、それぞれ矛盾した形を取りながら共存しているのである。要するに現代数学的な手法を用いている限り、この二つは決してでは結びつくことはないと言うことである。

 

この「ひふみ九九算表』の二つの対角線数列とは次のものである。

 

(A)  0140770410 … 前半01407(Σ)→3、後半70410(Σ)→3、全体(Σ)→6

(B) 0850220580 … 前半08502(Σ)→6、後半20580(Σ)→6、全体(Σ)→3

 

これら二つの数列は見事な鏡面対称数列の姿を見せているものであり、見ただけでタダならぬ気配を持っていることが伺われる。そこにある真実をこれからじっくり探り出して見ようというのである。

この姿はまことに面妖極まりないものと言ってもいいものであり、あなた方の持つ現代数学知ではどうにもならないのである。如何にせん、現代数学はそこにある真実の影の一部さえもまだ掴まえることが出来ないのである。なぜならば、あなた方の持つ知的観念と自然の知には大きな差異がありまったく受け付けない状態にあるからである。しかし、貴方がたはその事実さえもまったく知らず、考えてもいないのである。何と言うこと…!!、

 

今回はその次元的な計算の差異をしっかり見て貰いたい。それを知り、理解しない限りはこれ以上の人間知の進化は進むことはなく、また、意識の発展もままならないのである。そのことだけはしっかりと知っていて欲しい。

宇宙意識(神)は「数と言う言語」を解する者にはその持てる知を喜んで明かしたがっているのである。また、その「数の言語」と言うものは知的な展開を遂げるに従ってだんだん解るようにもなるものである。

現代人が「数と言う言語」をまったく知らないのは宇宙的に見て未だ知的なレベルが水準には達してはいない、まだ水準以下であると言うことになるのである。少しづつでもいい、「数」に親しみそこにある「神の意思」を出来るだけ汲みあげて自然の面影の中にその象証を見出して欲しい。

 

まずはしっかり目を凝らして二つの対角線数列A(B)を見た上で、しっかり考えるることである。それによりそこにある「数の素晴らしい仕組み」、「宇宙自然の真理の仕組み」の真実がだんだん判ってくるはずである…!!!。

 

しかしである、いくらじっくり考えても、あなた方の持つ現代数学の視線では何も見えず、どうあっても解き放つことは出来ないものである。なぜならば、あなた方の持っている現代数学は自然の持つ数の姿とはまったく異なるのであり、従って計算の手口がまったく別なるものだからである。

やはり、自然の数は自然の目を持って考えなければ正しい答は出て来ないのである。それを今回の講義で学んで欲しい。

 

では「ひふみ九九算表」の持つ対角線数列の正しい解き方をここでご講義申し上げることにしよう、そこには非常に大きな知の源泉が湧きでていて四方八方に流れが流れていることを知って欲しい。恐らく、この解法はその中の一つに過ぎないものであり、別な解法もまたあるはずである。考えて貰いたい。


この最後に出て来た答の数を拾って並べると確かに「宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)」の対角線数列とまったくと同じ姿の鏡面対称数列が現われている。それは 0140770410すなわち、これは対角線数列(Aであり、まさにそれは自然数の二乗数の姿である。

何とそれはa×aaと言う形、すなわち、次元表のセルの数を示しているものであり、まさに次元表の存在を物語っているものなのである。

 

次に更なるもう一つの対角線数列(B) 0850220580 を見てみることにしょう。


【2】「ひふみ九九算表」の持つ対角線数列Bの秘め事

      0 8 5 0 2 2 0 5 8 0

 

さあ、これをどのように攻略すれば正しいあるべき答が求められるのであろうか…。今まで多くの方に一つのテスト・ピ−スとして考えて貰ったのであるが誰も成功した者はいなかった。やはり、現代数学の脳ではどうあっても歯がたたないのであろうか。

要するにこれも現代数学的な考察では到底無理と言うものであろう。残念ながら…!!?。

これは素直に考えて次のような式で答を探し出せばいいのである。





要するに、この二つの対角線数列の一つは絶対(0)に対して+の位置に有る姿であり、他方は絶対(0)に対して−の位置の姿、すなわち、0を挟んで相対的な対逆の関係にあることを示しているのである。よく考えて見ると、これら二つの対角線数列こそは対逆的な関係にある「陰」と「陽」と言う宇宙二元の存在の確かさを語っているものであり、まさに「二元世界の仕組みの真実」を語って止まないものである。

そのあたりのことは中学でおそわった「デカルトの座標軸」をみればよく判るはずである。それは0を挟んで必ず+と−が対峙していることである。

 

それはすなわち、古神道の言葉で言う「裏」と「表」の関係であり、「易」の言う「陰」と「陽」の関係でもある。古神道の言葉には「表裏一体」、あるいは易では「陰陽相和する」等の言葉が見られるが、その結果結末についてはどうなるのかは何も述べられてはいない。
 果たして、その結果結末とは一体どうなると言うのであろうか…!??。そのあたりをこれから少し覗いて見ることにしよう。

 

問題は最初にあるである、これはあるべき原点を表すものであり、自然の理では「神」または「創造主」または「宇宙的な絶対的な存在」を意味するものと考えるべきものである。要するに、それが「原点(0)」であり、大宇宙の中に最初に存在したものと考えてもいいものであろう。すべての母体となるものは「原点」であり、その「原点」が広がってつくり上げたものが万物であり、宇宙の森羅万象の姿なのである。

また、「数」で言えばでありこそ自然数12345…を生みだした「数の母体」となるものである。

 

現代数学では軽々しくマイナス(−)とかプラス(+)と言う記号を使っている.しかし、本来の自然の理では +1は<0+1>+2は<0+2>と置かなければならないものである。

同じように−1は<0−1>であり、−2は<0−2>と置くのが自然的には正しいのであり、自然の理に叶っているものである。

 しかし、考えて見ると我々は『原点』、すなわち基準点は必ずあるものであるとの想定の下に数字を操っているのである。だから、0を省いた形で+1や−1と数字を置いて計算しているのである。要するに、これは人間の考え出した省いた数字の置き方であり、我々だけに通じる一つの符号的なものである。

しかしである、自然意識(神)は決して省かず、ありのままの形で原点もろとも<0+1>、<0−1>と言う形で用いているのである。自然とはそれだけ正直な存在であり、几帳面な存在なのである。

以上は予備知識としてしっかり覚えていて貰いたい。

 

さあ、これで「ひふみ九九算表」の二つの対角線数列の成り立ちの解明は一応終了したのであるが、次の疑問が持ち上がる、それはこれらの二つの対角線数列は一体何を意味するものであり、果たしてこれらは正しい計算答であるかと言うことである…!??。

 しかしここまで共に来た諸氏はもう私の手をわずらわすこともなく正解へと一直線に行き着くことが出来るであろう。出来る限り自分で考え、自分の手でこの先を辿ることにより正しい答に行き着き、そこにはまさに魂を揺さぶるような無上の喜びと言うものがあるのである。

 

さあ、この対角線数列を一つ解いてみよう。何時ものことではあるが次のように解くのである。まあ。何時もの定番なのでご承知の方も多いであろうが…!!


 【1】

0  1  4  0  7  7  0  4  1  0

∨   ∨   ∨   ∨   ∨   ∨   ∨   ∨   ∨

1   3   5   7   0   2    4   6   8 …「ひふみ九九算の完全完結体のあらわれ。


 さあ、見事な「ひふみ九九算表」の2の段が現われて幕を引いているのである。要するに、この「ひふみ九九算表」の現われこそがすべては正しい道筋を歩んでいると言うことの最大の証明と言うものである。

 

ではもう一つの対角線数列【2】の語る意味を解いて見ょう。

【2】

 

0  8  5  0  2  2  0  5  8  0

∨   ∨   ∨   ∨   ∨   ∨   ∨   ∨   ∨

8   6   4   2   0    7   5   3   1 …「ひふみ九九算」の2の段ののあらわれであり、完全完結体である

 

さあ、よく見てほしい、ここに現われたのは【1】の逆数の姿の【2】である。それはすなわち、【1】【2】「陰」と「陽」の姿を持つと言う相対的な関係にあるものと言うことである。それは何回も今までに述べているので判りになるであろう。この「陰」と「陽」、それは天地宇宙はすべて二元の理で創り上げられていることを語っているものである。

要するに【1】【2】の対角線数列は完全に対逆関係、すなわち、「陰」と「陽」の関係にあることを「数」はハッキリ語っているのである。

 

 あなた方は「数」が口をきくとか。「数」が語ると言ってもなかなか信用しない、逆に高学歴と言う肩書きを持っている知識人たちは「そんな馬鹿な事を言うではない」とたしなめてくれる有様である。まことに困ったものである。

ましてや、「古神道の中には現代人には思いもよらない叡知が眠っている」などと言おうものなら、それこそ気狂い扱いされて村八分されるだけである。今までどれだけ多くの意識に優れた人々が無下にあしらわれ、軽んじられて来たことか…!!。何と悲しい日本の現実なのであろうか…!!。

 

さあ、この二つの対角線数列の本質関係を見ると、二つはまさに「陰陽の関係」にあることが判るであろう。何と、古神道で言う「表世界」と「裏世界」の関係についての新たな神仕組みの真実がここに現われて来たのである。そのあたりから判断しても日本民族の持っている古い言葉の偉大さ、その素晴らし内容が判ろうというものである。まさにすべての現われは世界最古の天孫民族の言葉通りのものである。

 

ではそのあたりをもう少し詳しく見てみよう。

  

あなた方はこのような洗練され、研ぎ澄まされた驚くべき「数」の姿を見て嘆息を洩らすであろう。そして、あなたが真実を追う数学者であるならば、このように自然の数の秩序と調和と言うものを兼ね揃えたこれらの美しい数の流れを見て感激の涙を流すことでもあろう。

 

「数」、それは意識を持つものであり、天地の一切、森羅万象の全てをつつがなく語ることが出来るものであると言うことを改めて承認いただけたことであろう。要するに、現代数学の「数」に対する認識不足こそが全ての人間知の生育を妨げている最大の根源であり、その元凶なのである。

そのことを知らない現代数学者達はは今でも懸命に構えてあらぬ方向へと人知を誘導しょうとしているのである。その結果あるのは、自然は複雑であり、混沌そのものであり、解明不能と言う意味不明の言葉であり、すっかりやる気をなくした数学者達の虚ろな群である。

 

御免、予定のぺ-ジを過ぎてしまった。この続きは来月に持ち越されることなる。来月はもっと基本的な数の仕組みから始めて見ることにしょう。

 

「神の数学」、それは何処まで行っても矛盾の無いものであり、「神の知」の確かさを「数」がしっりと教えてくれるものである。

しかし、その事実を誰も知らない、ただ我々は「数」を奴隷化して数千年間手足のように使って満足しているだけである。その様はまるで価値の知らない子供である、彼等にダイヤモンドを与えても透かして見たり、投げて遊んだリして戯れているだけである。決して価値を知ることは無い、ただ騒いで遊ぶだけである。

                         《今月の講座これにて完》

 

    

    数のささやき(2)

自然の持つ本当の数の調べを考えよう<6>
         < その計算法は人間の知とはまったく相容れないものであった…!!>   平成26年4月の



 
「数」と「図形」、それらはお互いに相俟(あいま)って「宇宙意識」の持つ完全情報(叡知)を発信している。それはすなわち「神」の言葉を代弁しているものと考えてもいいものである。

要するに、「図形」は入れもの、容器であり、そこの納まるものが「数」なのである。要するに、「数」の真実と言うものは容器、すなわち「セル」に入っている限り情報は永遠に失われることもなければ、変化することもない。それがすなわち、「宇宙次元原理表(ひふみ…九九算表)」と言う永遠不動の姿なのである。

一つ例を示そう、我々の身体の全ての細胞の中には必ず遺伝子がある、面白いことに細胞自体は大体3ヶ月くらいで新しい細胞に生まれ変わるそうである。それはすなわち、三ヶ月前の私と現在の私はまったくの別人であり、あるほんの一部を除いてその身体の内容は完全に変わってしまっていると言うことである。 しかし、そんなことは誰も知らない、死ぬまでまったく同じ身体との認識があるだけである。

このような大変化が一生のうちに150回から200回くらい繰り返されているそうである。

しかし、細胞の中の司令塔である遺伝子、すなわち、DNAだけはそのままの状態を維持し続けて一切の変化と言うものは無い。だから、身体全部の細胞が入れ替わっても私はあくまで私と言う変わらない固有の存在を保持していられるのである。 

しかも遺伝子はそのままの形を維持して五〇億年以上も存在可能と言われている。

遺伝子(DNA)に不能と言う限界があるとすれば、それはDNAを次代に渡すことが出来なくなって、中断する時くらいであろう。要するにそれ以外では、いかなる状況下でも永遠に変化無しで生存できるように創られているのである。

それと言うのもDNAは染色体の中にあって核酸と言う物質で守られて、常に新しいままで古くなることは無い、年を取ること(老化)は無いのである。要するに、我々のDNAは精密極まりない神の構造を持ちながら遥か50億年と言う広大な時の海を渡ろうとしているのである。

学者達は言う、我々の身体は単なる遺伝子の乗り物に過ぎず、身体が古くなるとどんどん乗り捨てながら膨大な時の海を渡ろうとしているのであると…、そして主人公は私ではなくDNAそのものが本当の主であると…!!。何と、広大な無限の時をまたごうとしている主人公はあの小さな小さなDNAなのである。 すると我々と言う存在は単なる消耗品であり、長旅の間の一時の慰み、あるいはつかの間のあだ花なのかも知れない…!!。 すなわち我々の一生は単なる退屈凌ぎの幻影のような存在であり、一時的な慰めのためのイリュ-ウジョンなのであろうか…??!!。。。

この核酸と言う物質は不老長寿と大いに関係があると言うことなのであろうか…!!。

50億年などは要らないが、我々はせめて100年くらいの寿命がほしいものである…!!。

今の科学の力で核酸と言う物質を少しでも長寿のために利用することは出来ないものなのだろうか…!!。核酸が不足すると老化が始まると言われてからもう大分久しいのであるが…!!。それからは何も聞かない、何の報告も無い、科学はただ無言のままである…!!。..

さて、さて、それにしても一体、誰が何のためにそのような並はずれな計画を練り、そのような途方も無い使命を与えて永遠と言う時の海を渡ろうとしているのであろうか…!!!。

それと同じような永遠の使命と言うものを「数」は持っているのではないかと思える時が多々あるのであり、感じられもするのである。

「数」は保身のためにセルの中に身を置いて遥かな未来、すなわち、DNAが50億年と言う時の海を渡ろうとしているなら、恐らくは「数」はその数倍、あるいは数10倍と言う無限の時を越えて、遥かな無限の未来に「宇宙の叡知」を届けようとしているような気がするのであるが…!!!.

もしそうであれば一体何のため、一体誰に命じられてのことなのであろうか…!!!。

 

我々は今や知らなければならない、意識の持ち方次第で自由自在に無限宇宙を駆け巡り、思う存分、好きなように、そして時間を忘れて自由自在に飛びまわることが出来ると言うことを…!!。

その事実を今「神の数学」は明らかにし、我々に教えようとしているのである。

ただ、今のところはそんなことは出来ない、あり得ないと言う潜在意識のコントロ−ル下にあるので出来ないだけである。考えて見て欲しい…、我々の脳はわずか3%しか目覚めてはいないのであり、残りの97%は待機中の状態と言われている。将来、それらが目覚めれば一体どのような事が起きるのであろうか…!!。 それらのスイッチがすべてオンになった時には人間は神と同じレベルに達することが出来るのであろうか…!!。

何のため…!!、それはこれから始まる「神」との対話のためであり、大宇宙に心を飛ばしすべての叡知を探り、明らかにするためにであろう。
 それは恐らく、これから数百年後、あるいは数千年後に起る驚くべき大きな宇宙的な大変化に対応するための予備的な頭脳であり、どうしても生き残るために必要なものとして残されているのかも知れない。 

要するに、現存する「絶対的な自然知の存在証拠」と言うものを見出すことが出来れば、それを頼りに我々は意識を無限なる宇宙意識の心の果てまで飛ばすことが出来、真実を探り当てることさえも可能なのである。ただ、今はまだそれを見つけることが叶わないので、しがない人間知の積み重ねを続けてまごまごしているだけであろう。

ここで述べたようにミクロ的な「DNA」、あるいはマクロ的な「数」の窮極の姿を追い求めることにより、宇宙意識のあるべき心も十分に伺うことが出来るものである。また、更にはそれを追いかけることにより、これから起ることのすべてを知ることさえも出来るかも知れないのである。
 今の人間の知は余りにも偏ったものであり、自然の知とはまったく相容れないものである。

 古代ギリシャ人は言っていた、地球上で適用される法則と天空宇宙で適用される別の法則が厳然として存在すると…!!。これを称して、イギリスの物理学の大家であるロジャ−・ペンロ−ズは量子レベルで当てはめられる法則と古典レベルで当てはまる別な法則のことと言っているが、本当はそうではなく、人知レベルの法則(直線則)自然知レベルの法則(循環則)と言う二つのの存在を指しているものかも知れない。それはその中に解ってくるはずである。

 

さて、そろそろ「ひふみ九九算表」に隠されている最後の「神の秘儀」をあなた方に伝えなければならない時が来たようである。恐らく、あなた方はそれを見ただけで唖然とする状態に陥り、言葉も無くただ眺めるだけが精一杯であろう。なぜならば、それらすべては「鏡面対称数列」をめぐる史上初の驚くべき計算手法であり、とんでもない結果をもたらす「神の計算の仕組み」を持つ絶対的な自然知の存在証拠と言うものだからである
 恐らく、考えて理解するためにはいくばくかの時間が必要であり、またこれを人間知の中にに組み入れるには更に大きな時が必要であろう。

これらの事実関係を明らかにすることにより、人々は古神道の奥儀祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本当の姿を見出し、そこで改めて真剣に見つめ直すことになるはずである。 そこには間違いなく「宇宙自然の叡知」、「宇宙自然の大律」の姿があり訪れる者を待っているのである。

要するに、単なる言葉だけでは駄目であり、自然的な確たる傍証、確証があってこそ初めて人々は真実に目覚め、改めてすべての見直しを始めることになるのである。 今まではそれが何もなく、ただ闇雲に「知もどきもの」を追いかけてただただ時間の浪費を繰り返していただけなのである。

さあ、今回は「宇宙次元原理表(ひふみ…九九算表)」の最後の講座であり、その最後の大舞台となるものである。出来ればあなたの全知全能を傾けてそこにある「神」の語る「天地の法則」の存在を心で確かめ、出来るならば、それを貴方のこれからの人生に有意義に生かして欲しい。

 

ここまで共に学んで来た栄えある民族の直系の子孫である諸兄のために、最後となる大いなる「神の秘密」を書き記して置くことにする。
 理解が出来なければ一切の仔細をそのまま後世に伝えて貰うだけでいい。 また、理解が出来たならばより詳細な内容を更に解りやすい形にまとめ上げて全世界の人々に教えてやって欲しい。すべては日本発の叡知であり、日本古来の伝承された宝知であることを共に伝えながら…!!。
 
 いや、ひょっとしてそれより前に機を見ること敏な隣の国にごっそりとすべては持ち去られ、彼の国の産物として世界に流布されることになるかもしれない。それはすなわち、遥か超古代の「易」、すなわち、日本起源の「神の易」に起った持ち去り事件の再来であり、その繰り返しと言うべきものである。 要するに、今から、4500年前に起きた中国からの留学生であった「伏儀」、「神農」による「易」と「薬学」の持ち出し事件と同じ事がまた起ると言うことである。   (詳細は「竹内古代文献」参照)

 恐らく、同じ事が起るであろう、いや、必ず起るはずである。それは一つの時のタイム・スリップ、すなわち時のシンクロニシテイによるものと考えていいものであるからである。 それが「神の数学」で言う「循環性の現れ」と言うものであり、すべての象は時計のように廻り廻って発現を繰り返していると言う事実があるからである。宇宙のすべてはシンクロニシテイにより時をおいて再現を繰り返していることを忘れてはならない。
 あなた方がどうしてもそのようなアホ臭い話は信じられないと言うのなら、「歴史は繰り返す」ではどうかな…!!。それなら信じられるであろう。

ホイ、口が滑って余分な話になった、堪忍…!!、堪忍…!!
 今回が「神の数学」の基本編の最終章であり、次回からは次の講座、「神の法陣」に舞台を移す積りである。

 

本来、この「宇宙次元原理表(ひふみ…九九算表)」は「神の方陣」を解くための練習台であり、そのための指南案内の図と言うものである。万が一ここで間誤付くようなことがあればすべては無に帰し、永遠に「数」の真実を掴むことは無いであろう。すべてはここで終わりになるのである。

しかし、すべてを明白な形、しっかりした形で内容を把握出来たならば、次の「神の方陣」のすべてはあなたの前にかしこまって座し、これら「神の叡知」の一切を忌憚なく垣間見せてくれることになるであろう。要するに、すべてはあなた方の心次第であり、あなた方のアプロ−チ次第と言うことである。そのことは次回から始まる「神の方陣」講座を開けば直ちに解って来るであろう。

 

付け加えて言えば、この「宇宙次元原理表(ひふみ…九九算表)」には宇宙意識の心の真髄、すなわち「大きな宇宙の意思」が籠っているものであり、それを順次解き放つことにより宇宙の意思がだんだん解って来るのであり、また、それに沿いながら生きて行くことによりすべては恙(つつが)無く無事に人生を乗り切れるのである。すべては「神の采配」が仕切っているのであり、それが運命と言うものである。しかし、誰もそれを知ることはない…!!。 要するに、それを知ったからと言ってもどうすることも出来ないが、ある程度はコントロ−ルは可能になり、極端は避けられるかもしれない。

それはすなわち、宇宙の意思を少しでも掴むことによりあなたの人生はスム−スに次から次へとそつなく回転し、一生を安泰の中につつがなく送れると言うことである。それを称して「神の恩寵を受ける」、「神の衣の下に入る」と人々は言っているのである。

 

そのための指針がこの「宇宙次元原理表(ひふみ…九九算表)」である。そこには不調和や不整合などの類は一切無く、すべては秩序と調和を奏でながら永遠の果てまで向かおうとするものである。そこにあるすべての仕組みはまさに「神業」であり、人間知ではどうあっても製作は不可能なものである。例え、人類のつくり上げた最高性能のス−パ−コンピュ−タ−を何千、何万ヶつないでも到底足元にも及ばないものである。

 

あなた方は「神業」と言う言葉を知っているであろう、しかし、実際は誰もその実際を知らないし、また見たことも無いものである。
 恐らく、言葉だけはあるが、その仔細を知っている者は誰もいない。しかるに何と、これからあなた方はそれを知る最初の人となると言うのである。
 それはすなわち「宇宙次元原理表(ひふみ…九九算表)」に内蔵されている「数の語り」のすべては「神業」であり、我々人間風情などには中々見出すことは難しく、その内容を覗き見することなどは一切叶わぬことなのである。
 それを敢えて私はあなた方に覗かせようと言うのであり、はっきり見せようと言うのである…!!。


 これからその窮極の「神業」の存在と言うものをあなた方に見せようと言うのであり、その「神業」を見事解き放ってそこにある答の如何を見てみようと言っているのである。そこにあるものは言ってみれば「鏡面的な調和の姿」を持っているものであり、まさに「鏡の世界」の事象を思わせるものである。
 出来れば、貴方がたも個々の目でしっかりと見届けて貰いたい。そこに感動があればそれはあなたが理解したと言う確かな証と考えてもいい。

要するに、宇宙の意思に沿った形で行動すればすべては思い通りになる、それが宇宙大自然のセオリ−と言うものである。そしてここにある「宇宙次元原理表(ひふみ…九九算表)」こそがその宇宙の意思のあるべき姿を秘め備えている唯一無二のものなのである。
 ここには宇宙の意思が何事かを囁き、何かを告げようとしているものがある、それらをあなた方に是非感じ取り、聞き取って貰いたい。
 それが今回の「神の数学」の主眼点であり、これから始まる「神の法陣」のバックボ−ンとなるものである。 恐らくそれは今後、あなた方が生きていくための大いなる指針ともなるものであろう。 それを出来る限り探し出してしっかり心に刻み込んでもらう、それが肝心なことである。、
 何時かは人生の何処かで幸運の神に巡り合うはずである。その時必ず言わず語らずにあっても以心伝心で心を通わすことになることを知って欲しい。 要するに、それを転機に人生の歯車がうまく噛み合うことになり、あなたは一生を幸せの中に送ることが出来ると言うことである。

また、何をやってもが噛み合わずうまくいかないのは「宇宙の意思」と「自我(自分の意思)」が重ならず、それぞれが別々の方向を向いていて少しの一致も無いからである。まずは不運であると嘆く前に己の生き方、越し方を一度くらいは顧みることも必要であろう。

一般に言われているではないか、自我の強い人ほどその人生は「神」の手に翻弄されると…!!。

 

 
さあ、少々手がかかるが、この「ひふみ九九算表」からもう少し高等な「神の情報」を引き出して見よう。あなた方には直感的には納得行くではあろうが、常識で理解するには少々骨が折れるものであろう。しかし、これは乗り越えなければならない自然に通じる「叡知への道」であり、人間の意識の向上と発展には絶対に欠かせないものである。
 
 
  ご覧のように「ひふみ九九算表」には対角線が2ヶある、それらはお互いに「陰」と「陽」と言う正反対の本質を持っていることはご存じであろう。
 しかし、それだけではない、これらの対角線もまた一つでありながらそれぞれ二つの性質、すなわち、「陰」と「陽」の本質を相備えて一つの象として顕在しているのである。しかし、そのことはまだ今の人間知では解らない、その事実を知るには今の人間知では若すぎる、完全を知るには至ってはいないと言うことである。 要するに、人間の意識知はまだそこまで到達してはいないと言うことであり、まだは少々時期が早過ぎると言うことである。
 我々人間の一人々を見るがよい、外見は一ッであるが実際は身体(陽)意識(陰)の二つから成り立って一つの存在となっている事実を…!!。
 そのあたりについては【3】誰も知らない「不可思議計算その3」で詳しく語り申そう。 とにかく、信じて何回も計算を確かめることが肝要である。

 

これらすべては宇宙の誕生と共に発生した「宇宙意識の叡知」であり、これはまさに「神の心」の籠った「叡知の秘宝」でとも言うべきものである。
 なぜならば、宇宙自然の諸現象を数で表して行くとどういうわけjか、すべては「ひふみ…天地の歌」に繋がってくることになるからである。
 だから私は「ひふみ…天地の歌」が現われた場合にはすべてが真実であるこよない証拠であると言っているのである。まさに「ひふみ…天地の数歌」こそは宇宙自然をどよめかす万々歳の言葉であり、神々のシュプレヒコールと言ってもいいものなのである。
 是が非でも理解してもらいたいものである。ここにある「天地の姿」と言うものを理解する度にあなたの心は次第次第に大きくなっていくのである。

また面白いことに、この「ひふみ九九算表」を紐解けば解くほど内部にある更なる「神の秘密」が次々と顔を覗かせるのであり、それと同時にいろいろと語りかけ、驚くべき内容をもたらしてくれるのである。 ただし、一心不乱に解いた人にのみ、内容を理解した人にだけと言う厳しい条件がそこにはあることを忘れないで欲しい。

今までは、これは触れてはならない古神道の奥儀祝詞として誰にも知られず3000年と言う長い間ただただ無造作に唱えられるだけであり、習慣としての単なる行事であったのである。 それ故に、この二十世紀末になるまでその内容を吟味査証したり、疑問を抱いたりするく者などは誰もいなかったのである。それがなぜか今になって自ら姿を表そうとしているのである。一体何ゆえであろうか…!!。 


 

  これはまさに、自然の語る真実の中でも最高位に属する「数」の語るドキュメンタリ−ストリ−と言うものである。今まで「数」がこのような意味ある表現、自助意識的とも言うべき事実表現力を持っていることなどは誰一人として知る者はいなかった。まさに現代人の意表をつくものであり、度肝を抜くものである。そのあたりのことをしっかり尋ねることにより、あなた方は現代数学のくび木から容易に逃れることが出来るはずである。
 ひょっとするとこの対角線数列〔A1〕と〔B1〕は現代物理の「一般相対性理論」「量子理論」の2大理論を表しているものかも知れない。
 確か、何処かに「2乗がつくる“神の数式”の世界」と言う言葉があったのを今思いだした。何か、本のタイトルだったような気もするのであるが…!?。とにかくこの「陰」、「陽」の2乗式の現われは当分の間、世の中を騒がせ人々を困惑させることであろう。


 

 
 何と言うこと…!!、完全に異なる数列ではあるが二つの対角線数列における同一的な位置にあるもの同士を加算すればすべての数列は本質が0になることを示しているのである。何と稀有(けう)な数仕組みなのであろうか…!!。とても信じられない…!!。

  あとは推して知るべしである。  疑念のある方は更に計算を納得するまで続けて欲しい。 計算だけがすべてを明らかにすることをお忘れなく…!!。

 

要するに、ここでは対応する二つの斜めの鏡面対称数列は加算するとすべてが0(無)になることを「数」(計算式)は語っているのである。 お々、何と…!!、何と…!!、何と言うことであろうか…!!。 まさに「神の奇蹟」であり、本来ならとてもあり得ぬことである…!!。

こうなれば、最早偶然であるとか、たまたまであるとかの戯れ言などは一切通じなく、すべては真実の現われであることが判るであろう。それらは決して偶然などでは無く、すべては必然と言うことであり、それはまさに「神」の手になるものであることがハッキリお判りになるであろう。

要するにすべてはなるようにしてなっている必然的な姿であり、まさに「神の手」が働いている恰好の図と言うものである。何故なら、学べば学ぶほど一層強く心の琴線に触れてただただ喜びが倍加し、同時に心に安らぎを覚えるからである。出来れば、何回でも.検証計算を行って見て欲しい。

さあ、もう一つ最後に伝えて置きたいことがある、これはまさに秘中の秘であり、いくら説明しても今の学者先生達には解らないかも知れない。そのことは十分に予期はしているが、そうだからと言って黙って打ち捨てて置くことも出来ない。せめて、一応の説明だけはして置くことにする。

しかし、心を落ち着かせて聞いて欲しい、真実はあくまで真実であり、疑っても無駄なものであることを知って欲しい。真実があればそれを認め、追求するのが学者魂と言うものではないのか…!!。そうすることにより新しい発見があり、それが大きな発展につながっていくのである。

 

思いだして欲しい、1900年代の初頭、量子理論が初めて登場して科学と言う概念を根本からひっくり返したことを…!!。

多くの科学者達は戸惑いの激しさのあまり、あり得ないものとして排斥運動に走ったのである。しかし、現実の前には最後には敗れ去り、当時の物理学と言うものはとうとう古典物理と名を変えて窓際に追いやられたのである。残念ながら、あなた方の常識としての物理学は未だこの古典物理学の名残りであり、その範疇からは一歩も出てはいないものである。そのことを是非知ってほしい。要するに、あなた方も旧態依然とした物理学を引っ提げて得意然としていると言うことである。


 

 【3】誰も知らない「不可思議計算その3」

 
 次はこれら二つの対角線数列を見てほしい、そこにはそれぞれの対角線数列を挟んで上下に流れるまったく同じ姿の鏡面対称数列が鎮座しているのがお判りであろう。  一体これは何を意味するものなのであろうか…!!。 そこにはまさに「神の謀」が潜んでいるのであるが、それがお判りであろうか…!!?。そこにあるのはまさに奇想天外な「数仕組み」、人知未踏の「神の計算仕組み」とも言うべきものなのである。 易しいけれども難しい、難しそうで易しい、まさに「神の息吹」がありありと感じられる窮極の計算仕組みと言うものである。、

一見するだでもあまりにも強烈な意味を持つような姿であり、まさに不可思議な感じを与えて止まないものである。恐らく、それは現在の「現代数学」の目を持って考えてもどうにもならないものであり、ただただ奇妙な感じに打たれるだけであろう。要するに、現代数学では打つ手は無いと言うことであり、最早矢弾は完全に尽き果てていると言うことである。「現代数学」、それはもう50年以上の間黙りこくったままであり、何の成果も無いままである。恐らく、それは終焉の予兆であり、最早、進展の可能性は無いことを示しているのであろう。

恐らく現代数学の学者達はこのような鏡面対称数列と言う不可思議な数の集合体を目にするのは初めてであり、ただただ目を剥いてキョトンとするだけであろう。 要するに、数学者達は自然の奏でる鏡面対称数列の姿には初見参であり、ゆえにその意味することなどはまったく知ることが出来ないと言うことである。 鏡面対称数列」、それは可逆的な性質を有する大いなる「神の数列」である。要するに、一般の数列は一方的な流れを持つものであるが、この鏡面対称数列」は双方的な流れ、すなわち、可逆的な流れ、右にも流れるが左にも流れると言う特殊な性質をもつものなのである。生き物で言えば雌雄同体、すなわち、メス的でありながら、同時にオス的なジエンダ−を持っていると言うことである。

我々にとっては初見参とも言うべき「鏡面対称数列」、それはまさに「神の数列」と言うべきものである。


 さあ、これからそれらをじっくりと解き放って見ることにしよう…!!!。 まさにこれは歴史的な瞬間なのである…!!。

 是非とも立ち会って、共に検証を願いたい。この知が今まで現代知には欠けていたものであり、それが夥しい過ちと誤解を生んでいたのである。
 
 それは要するに、宇宙大自然には単体、1ヶと言うものは存在しないと言うことであり、すべては双立(2極)と言う象により成り立っていると言うことである。それが「陰」と「陽」とか、(+)(−)、あるいは現代的な物理用語でば偶構造と言われているものであり、宇宙自然の構造基盤なのである。現在、物理学者達は単構造、すなわちモノポ−ルと言う単一現象を探して久しいが中々見つからない。もし、将来、単構造体が見つかればそれは必ず一つでありながら2極と言う偶構造を持っているはずである。  例えば、それは次の対角線数列のようにである。これは学んでおいても決して損はしない「神の学」、すなわち「未来の学」である。

 

まずは対角線数列〔A1〕…0140770410の計算から始めよう、後は同じような手口でもう一つの対角線数列〔B1〕…0850220580に関するその他の数列を処理して正しい答を見出して欲しい。すべては真実を明らかにするためである

  
 

 

 
 
 

 
あなた方はすでにお判りであろう、この「宇宙次元原理表(ひふみ…九九算表)」の中には「宇宙の意思」、「宇宙の心」がギッチリと隙間なく内蔵されているものであることが……!!。それを開くとすべては陰陽の二元原理で成りたっていることが明らかになり、その二元原理こそが宇宙自然の構造基盤をなしていることが誰にでもハッキリと解るのである。

 まず、それを解くカギは  @ 該当する数列を「ひふみ…九九算表」の中から見出すことである。 A 見出した数列の位置関係を調べる。
 B その位置関係を定規にして次に来る数列を次々に拾い上げて同じような計算をする。それが正しければすべてがになりあなたも面目を施すのである。また、それらの位置関係を糺せばすべては「陰」と「陽」の位置にあることが判って二元原理の法則の確かな存在が浮かび上るのである。まあ、やる気と熱意、そして根気があれば誰にでも出来るものである。何も難しいことなどはない。数列構造とその方向性が何かを示しているのである。時間をかけてでもいい、少しづつこつこつと解いてみて貰いたい。すべては簡単な「数の真実物語」であり、「自然知との対話物語」である。

これを読み解き、その心を捉える事が出来た暁には時間というものを超越し、生死の狭間も乗り越えて無碍無量の世界に立ち入ることも出来ることにもなるであろう。それは恐らく仏教で言う「悟り」と言われるものかも知れない。

 

最後に大変簡単な小学生にでも解ける常識問題を差し上げて最後の締め括りとしたい。ここにあるいろいろな数字を見ながら自在に考えを推し進めて貰いたい。すべては易しくて甚だ簡単な算術問題である。あなた方にはお茶の子菜々ではあろうが、まあ、一つの手慰みの積りで遊んでもらいたい。


 

 
これは〔A〕〔B〕の数表を「陰」と「陽」に見立ててピタリと重ね合わし、その重なった数を加算すれば、すべてはになるのであるが、それはお判りであろう。早く言えば、〔A〕〔B〕を加算すると言うことであり、すべては0に化し、になると言うことである。すると当然、帰納法的に言っても最後にある答である=0が成り立つはずである。(例…=0、=0,=0、)。 何とここではこの組み合わせだけに尽きるのである。

 

 また、最後にある答の数を見て貰いたい、そこに現われたランダムに見える数列にもハッキリした調和があり、しかもそれらはお互いに「陰」「陽」の関係であることがお判りになるはずである。 例えば、このランダムに見える数列の一ヶが狂ってもすべて瓦解することになり、自然の象のすべては成り立たず、ただ消滅あるのみである。自然とはそれほど厳しいつながりを持ち調和と秩序を重んじているものである。
 また、驚いたことに、それらは神の数列である「鏡面対称数列」と言う不可思議な数の集まりなのである。一体それらはこぞって何事を囁いているのであろうか…!!。一体、何を語ろうとしているのであろうか…?!。私は是非ともその声とその答を聞きたい…!!。

 
 何故なら、すべてはこの「宇宙人の数学」の通りに数は動き、完結しているからである。
 

 一体、これらの数列は何を囁いているのであろうか…!、すべては計算が合い、理屈に合うものではあるが「現代数学」では完全に排斥されてしまうものである。「現代数学」とは一体何なのであろうか…!!。 自然の道理に合わない「現代数学」には何の意味があるのであろうか…!!?。
 
 


 あなた方学者先生達は私達下々の者には目もくらむような高等数学と難解な数式を駆使していろいろな方程式を立ち上げて見せて満足しているようであるが、その割には数学や物理学は少しも進歩の兆しは見えてはこない。恐らく、全世界では何万、何十万の数学や物理関係者が我こそはと毎日数学的な計算と言うものと格闘しているはずである。しかし、何十年間も何も見えては来ない、何も成果は上がらないのである。

それは一体どういうことなのであろうか。いくら計算式立てて自然に挑んでも何も見えては来ないのである。さて、はて…!!。

恐らく、何かが間違っているのであり、だから正しい答は出て来ないのである…!!。

一つそのことをしっかり考えて貰いたいものである。                            《今月の講座

 

         さて、次回からは最後の「神の砦」である「神の法陣」の講座に突入したい。要するに、ますます佳境に入るということである。

             
 5月は予定が立て込んでいるのでサイトへの講義掲載は休むことにする。 宜しく…!!。
           
               
(次回からは恐らく、衣替えして次のメニュウ欄へと移行することになるであろう。…!!。。。。)

 



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