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『神の数学』2月の記《祝詞「ひふみ…天地の数歌」の歌う“真理の歌”(1)》
(2011年2月吉日上載)
<2013年7月載図及び再校正あり>
先月に引き続き古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」の持つ驚くべき秘儀について検証を行なうことにする。そこには未だ人知の及ばない「自然の理数の仕組み」や「大いなる宇宙普遍の知」等が数多存在し、無窮なる時の刻みと共に永遠の存在を誇っているのである。その事実については現代の学者達は何も知らず、たただだ古代の人々とは無知蒙昧で何も知らない無学な徒達であったとうそぶき、一切省みようとはしない。
彼等とてこの数千年前の古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」に見られるこれらの古今無双の「神の叡智」の存在を知れば、少しは考えを改めるではあろう。現在のような知の閉塞状態を打破するには古代の秘伝秘儀を再確認するのが最もベターと考える。
なんせ、日本には世界には類を見ない古史古伝がゴロゴロと転がっているのである。ただ、現代人の脳の程度では御しきれないだけであり、理解不能なだけである。例えばである、古事記の中には訳の判らない神の名前が沢山記されているが、しっかり読み込むことにより宇宙や地球の創成や自然の成り立ちが描かれていることの気がつくはずである。また、「カタカムナ」の文字で記されている古文書や、「ホツマツタエ」などの書などもあるが、学者達は理解不能として無視を決め込んでいる状態である。
今、時代は大きく変わり、縄文時代の歴史さえも世界最長のエジプト文明に比肩する一万5千年のスパンを持つとさえ言われている。数十年前の縄文の時代視野は僅か3千年ではなかったのか…?。また、このわずか100年余りの間に、世界に名だたる「知の文明」を開花させた日本民族が一万5千年と言う時の流れの間に同じような誇るべき「知の文明」を何回か開花させたであろうことは十分に予想出来ることである。それが時間の谷間に現れる「時のシンクロニシテイ(再現現象)」であり、「時のコインシデンス(生起現象)」と言うものである。それらの超文明の存在事実は様々な古代文献にはしっかり記録され、物語られているのであるが、日本人は誰も信じようとはせず、ただこけ下ろし、笑い去るだけである。何と自虐的な悲しい構図であり、愚かな現実なのであろうか…!!。
改めて知るべきである、「歴史は繰り返す」と言う言葉の持つ大きな真実を…!。 また、それが自然の大道であり、大宇宙の大いなる因果的自律性の表れであり、その慣性とも言うものである。
ここに記されている「数の真理物語」は恐らく、今の人々には猫に小判であろう。おそらく、現代人の目から見れば噴飯ものに映り、大笑の的となるものであろう。 要するに自然知の本質理解のスタンダ−ドそのものがまったく異なっていると言うことである。
しかし、これはあるべき「自然の知」であり、将来の「知の糧」と言ってもいいものであろう。これらは現代の混迷状態にある人間知を正常な状態に戻すためにはどうしても必要であり、至らぬ人間の学知を補完訂正するためには欠くことが出来ないものでもある。
恐らくはこの知、すなわち、「ひふみ…九九算表」は一般の人々の目にはまったく新しいもの、見慣れぬものに見えるであろうが、しかし、一皮めくればそれは日本人なら誰でも知っているもの、誰でも子供の頃から慣れ親しみ、諳んじていたものとまったく同一なものなのである。すなわち、それがこの古神道の奥義祝詞の本体である「ひふみ…九九算表」なのである。
要するに、「ひふみ…九九算表」が十進法と言う仮面でデフオルメされ表面が変形してしまったものが、すなわち、我々の知っている「九九算表」なのである。その変換法を知れば何時でも相互変換が出来るものであり、両者はまったく同一線上にあるものであり、まったく同じものと考えてもいいものなのである。
察するに数千年の間、この姿で歴史の中を歩み通し、揺籃期の人間知を慈しみ育て上げた神の作用である「神の学」であり、一つの人類知に対する「神」のアクションなのかも知れない。そのための舞台に選ばれたのが世界で最も古い歴史を持っている日本民族であり、彼等の持つ古神道と言う伝承道であったのである。 要するに、古神道の中には数多の「神の知」が秘蔵されているのである。
要するに古神道は単なる宗教ではなく、あるべき「宇宙自然の哲理」を封じ込めて未来に伝えるための遥かな伝承道であり、神の息吹を受け継いだ「神の知のモノグラフ」と考えてもいいであろう。
さあ、このあたりで一つ奥義祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本体である「ひふみ九九算表」を見てもらいたい。 まずは、そこにある数列の両端の0を重ねて一つの円輪(循環)をつくるのである。 すなわち、その最初にある0と最後にある0を重ねる手法、すなわち、「カミムスビ」の業を行い循環輪を作り上げる、それからその数のあり方を読み解くために右廻りに読むことが大切である。
@ 1番目にある0000…の数列の最初の0と最後の0を重ねてカミムスビを行い、九つの0の並ぶ輪をつくる……第一の輪(九つの0数を持つ、本質0である)。これは大変重要な儀式であり、古神道では天地の交わり、神のまぐあいと申すものでもある。
A 次に2番目の01234…の数列模同じ要領で0を重ねてカミムスビを行う…、 第二の輪(九つの数を持つ、そのΣは0であり、ゆえに本質は0である)。
B 同様に、3番目の数列にカミムスビを行う …… 第三の輪(九つの数を持つ、そのΣは0であり、ゆえに本質は0である)。
C 〃 4番目の数列にカミムスビを行う …… 第四の輪(九つの数を持つ、そのΣは0であり、ゆえに本質は0である)。
D 〃 5番目の数列にカミムスビを行う …… 第五の輪(九つの数を持つ、そのΣは0であり、ゆえに本質は0である)。
… <続いてEFGHIの各数列についてもそれぞれの輪を完成させてもらいたい>。
下の図を参考に「カミムスビ」を行って貰いたい。要するに、両端の0を重ねて輪を作るのである。
0123456780 0246813570
‖ ‖
あなたはすぐにこの図、「ひふみ…99算表」の持つ真実の理を理解するであろう…。すなわち、前半の@ABCDの五つの輪が右回りであるに対して後半のEFGHIの五つの輪は左回りを示しているのである。 すなわち、それは存在する前半の五つの数列象体に対しては右回りを意味し、後半の五つの数列象体は左回りであることを意味しているのである。それは数の流れを見れば判るであろう。 そこには計10数列象体の世界が現われてくるのである。それを称して上部の右回り=(現実世界)、下部の左回り=(あの世)と言っているのである。要するに、科学的な言葉で言えば、「あの世」と「この世」は別々な存在ではなく同一空間に在ってまったく同一的な位置を占めていると言うことである。、すなわち、「この世」と「あの世」は完全に同一空間を占めているが、互いに認識が出来ないと言うことである。 そのポテンシャルエネルギ−の進行方向が異なり、お互いに正反対であることを示していると言うことを祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本体である「ひふみ九九算表」はいみじくも歌い、示唆しているのである。
これは現代科学でも証言されているものである。それを説明しよう、「宇宙のバランスの法則によれば、エネルギ−が創生される時には必ず対称的なエネルギ−が対発生すると言う物理理論があることである。 また、その対発生した対称的なエネルギ−が合一した時はエネルギ−価は0になるのである」とも現代物ル学は言っている…。
しかし、この0とは何も無い、何も存在しないと言う無ではなくピタリと重なった完全体の無と言うべきものである。すなわち、「有るけど見えない」、「在るけど感じることが出来ない」と言う潜在化してしまった姿なのである。
それを敢えて言えば、光の緑、青、赤を重ねると色が消えて無色になるのと同一な状態である。それは「存在」するけど「無い」、見えない状態なのである。要するに、エネルギ−は存在するが、重なって中性化されて、何も見えない、感じることも出来ないと言うことである。 何回も、何回も図を描いて検証を重ねて見てほしい。 その上で考えを巡らしそこにある骨子を会得すれば、恐らく貴方は全面的に古神道の持つ「カムナガラの道」の全貌さえも理解することになるであろう。
さあ、すべてはこれで目出度く終了である、要するに、これら@ABCDに続く、EFGHIの各数列については省略しても一向に構わないのであるが、、その理由はEFGHIのの各数列を作り上げてからじっくりと考えてほしい。これには少々の直観力が必要ではあるが、そのくらいはあなた方も持っているではあろう。要するに、日頃あるべき自然の姿をしっかりと胸に置いていれば容易に分かることである。すべては本来あるべき自然の姿であり、自然の持つ姿そのままである。その読み方が解らなければ、何度でもトライすることである、それが、あなたの頑是無い心を解(ほど)き放ち、新しい意識レベルにタッチし次第々にそれに感応することになるのである。 【詳細は、「神の法陣」上級講座(12)、「真実の数学」講座bS参照のこと】
それらを知りたくば、まずは、平面上にそれらら@ABCDの環状の輪を広げて並べて見ることである、その上でじっくりそれらを観察するのである。最初は芒洋としたおぼろげな姿であるが、次第々に現実と化して本当の「現実次元世界」があなたの前に姿を現し始めるのである。それらはすべて自然の開示する本当の「あの世」と「この世」の仕組みであり、誰も知らぬ「大いなる次元の真実」ある。決していい加減なもの、空ろなものではなく、真実としてのあるべき自然循環の姿をもってここにしかと鎮座しているのである。それはいわば、諺にもある「地はすべて天の写しである」を忌憚なく歌っているものでもあり、その如実性を余すことなく開示しているものである。
その答はまさに「神の数学」の極致であり、その極みと言ってもいいものである。そこには現代数学と相通じる同調共鳴の相などはさらさら無く、現代数学知ではまったく理解が出来ないものであり、ただ不可解性を持って流れているだけである。
ここに忽然と現れた数による「自然の仕組み」の真実の素晴らしさには如何なる数学者といえども驚きのあまりただただ溜息を洩らすだけであろう。それほど見事な「天啓の図」がここに姿を現しているのであるが、その本儀仔細等は今のところ誰にも分からないものであり、現代常識からは見れば考えられない異端の学である。なぜなら、今まで三千年と言う長い神道歴史の中から突然に素顔のままで甦ったものであり、現代の日本人には初見のもの、異様なものとしか映らず、従って近寄り難し、無視が無難との思いがあるからである。しかし、恐らくはそれもその中に時間が解決してくれ、当たり前の常識としての一般人の認識下に入るものとなるであろう。
しかし、考えて見れば無理も無い話ではある。、すでにこれらは数学の範疇を超えたメタフィジック(超物理学)の世界であり、想像すら及ばない最たる超知の問題と言ってもいいものである。それとも、今の人間には及びのつかない遥か未来の知学の一端であり、想像すら出来ない宇宙自然の最高叡智を語るものと言えるものかもしれない。またはそうではなく、これはやっと「数」の仲介により科学、哲学、神学が手を結び一体になった、いわゆる自然学の本来の姿に戻ったものでる。
まさにその姿は神意の表れと讃え、恭順すべきものである。
でも今のところ、その答を出すのは無理ではあるが、いずれその中に誰かがその正しい答を見い出してくれるであろう。今はそれを期待するだけである。
もう一度よくこの図、すなわち「ひふみ九九算表」をよく見てほしい、そこには「見える世界」と「見えない世界」が中心線を挟んで対峙している姿があるのがお判りであろうか。よく数の流れを見てほしい、これはまさに、一つの次元の中で「見える世界」と「見えない世界」が時空を超えた形で同一次元空間を共有している姿が示されている図なのである。それを知りたければ中心線で折って重ねて見るがよい、すべては99999…となり、00000…になるからである。要するに、「ひふみ九九算」の図は、その上半分は「あの世」の象であり、下の半分は「この世」の象であり、対に作られていることを歌っている唯一無二の稀有な図と言うことである。 (それを知りたくば、何回でも数の流れを辿ってみることである。すべの答はこの図の中にあるのが解るであろう。)
その二つの存在こそが古神道の言う「現世(うつしよ)」と「隠り世(かくりよ)」の姿なのである。恐らく、古代の知者もこの図を見てそれを悟ったのであろう。 更に手を進めて見よう、この図に古神道の妙なる神の業である「カミムスビ」を施すことによりすべては一段とはっきり現れ、その詳細も数がはっきりと教えてくれるのである。まさに「カミムスビ」の言葉こそは大いなる魔力を秘めた古代の呪文であり、天と地を結んで次元転換させる魔法の言葉なのである。
まさにこれは驚くべき「自然の象図」であり、自然は素晴らしい超叡智を持ち、それを醸し育(はぐく)んでいることがお解りであろう。
この図はまさにその証拠、証文と言うべきものである。
とにかく、現在のように完全に行き詰まっている人間知を強く鼓舞し、最発動させるためにはどうしてもこのような自然知を学び、それを取り入れてゆくのがベストであり、もっとも必要なことなのではなかろうか…。
さあ、上記の通りに五つの輪が揃ったであろうか…, それは0を天頂に置き、すべての数字を右回り(時計廻り)に読んで拾っていくことから始まるのである。よく見るがいい、その姿は「ひふみ九九算表」の上半分の数の流れこそが「この世」の象を示すものであり、すべて右回りの自然態の形を持つことを指し示すものである。それに対して下半分の図、すなわち、「あの世」の姿は一体どのような姿なのであろうか…?。直観と洞察力に少々力を入れて探すがよい、すると直に見つかるはずである。
何とそれらはすなわち、上記の@ABCDの五つの輪の中に左回りの象姿としてしっかり存在し、何かを語りかけているではないか…!、この五つの輪を右廻りに進めば「この世」の象を表し、また、左廻りに進めば「あの世」の相を示すことが歴然とした形で示されているのである。この左廻りの相、それはまさに「あの世」の象であることはこの下半分の図が教えてくれているのである…。 何と言うことであろうか!!、このような不思議な「自然の語り」が古神道に存在するとは…?!。何たること…!!??。
この事実をしっかり学べば、すべては完了となり、悩むことも、苦しむこともない、すなわち、これが煩悩からの解脱知であり、涅槃の心を得ると言うことである。なんせ、すべては数が描く自然知の「極知の世界」であり、我々はただ従うだけでいいのである、
(1) 要するに、この「カミムスビ」の図は「あの世」と「この世」は同一次元を共有しながら、お互いに空間的にも、時間的にも相関関係を持って存在していることを証言しているものである。するとこの図はまさに驚くべき「天与の図」であり、決しておろそかに扱わずに、真摯に考え、そして学ぶことが必要なものと言えるものである。これは我々にとってはいかなる哲裡よりも尊い宇宙自然の「基本理」を表しているものである。
「あの世」と「この世」、それらは決して単体で存在しているのではなく、常に「陰」と「陽」と言う関係を持ちながら、常に補完的な関係の下で同一空間を所有して存在しているのである。要するに、「我々の現実世界」と「あの世」は対逆的な対称世界、すなわち、「正」と「反」、「実」と「影」、「+」と「−」、と言う相対的な構造を持つ存在であり、まったく正反対の本質をもって同一空間内で「別々な世界」を創り上げていると言っているのである。この正反対な本質を持つ故に、お互いを感知することは出来ず、「見えない」、「触れない」、「感じない」のである。しかし、そんな世界はない、そんなものの存在は一切無い、だから考えるのは無駄である、故に興味を持ったり、考えたりしてはいけない…。それが300年前からある現代科学の基本方針の中の一つ、それがデカルトの「神の棚上げ」の姿である。もはや、それも現在ではほころび始めているのであり、そろそろ是正してもいい頃であろう。
(2) また、この「カミムスビ」の図は「あの世」と「この世」は別々な場所に存在しているのではなく、同一次元の中のまったく同じ場(空間)を共有しながらの同時的な存在であることを示しているものである。またそれは同時にそれぞれの持つ実数値はまったく同じでありながら相対的に90度、あるいは180度の変移位相をもって存在していることを教えているものでもある。そのあたりをよく噛みしめながら、何回も咀嚼検証してもらいたい。まさに、これは、未だ先端物理でさえ知らない驚くべき『時空の物語』であり、「数と図」が示す未来の超知の一つと言っていいものであろう。これからは今まで人間の作り上げた固定観念、既成概念と言う呪縛はサラリと払いのけ、新しい発想や自由な概念を発展させながら現代科学を進めない限り、最早未来は無いと考えるべきであろう。
今必要なのは既成概念ではなく、誰も想像すらしなかった知の概念、すなわち、既存の観念にとらわれないまったく新しい革命的な「知の種」そのものなのである。今までは新しい概念と言うものは既存概念により村八分にされ、追い出されてきたのである。
その結果が現在の「知の停滞」を招き、文明を足踏みさせている事態を招いているのである。そろそろその事実に気がついてもいいのではなかろうか…。旧い既存概念は最早邪魔になるだけであり、新しい進歩の波の足を引っ張るだけである。
その証拠に今までの物理学さえも現在では古典物理と名を変えられて窓際に追い置かれ、新しい概念である「量子物理」が勢いを揮い、科学を引っ張っているではないか…。それと同じように現代数学も最早引退すべき時を迎えているのであり、宇宙普遍の「新しい数学系」に置き換えることが必要なのである。 今、物理学者達はその新しい「数学の種」を懸命に探している最中である。何故なら、それが無ければ新しい量子力学の計算が成り立たないからである。
その新しい数学とは0=∞と言う命題を満足させなければならないものである。
そのあたりのことを心で納得すれば、あなたも現代数学のしがらみから開放されて本当の「自然の真実」が見えてくるはずである。
(3) ここに揃っている九ヶの円環数列を縦の中心線で左右二つの界に分ける、その上で0を天頂の位置に置くのである。すると、その右半分は天から地に走る「天の数」であり、左半分は地から天に駆け上がる「地の数」を指し示す。そこでその右の「天の数」と左の「地の数」の二つを平行線で結ぶのである。するとそこに現れる数とはすべて(0と9)(1と8)(2と7)(3と6)(4と5)の組み合わせとなり、それ以外の組み合わせは決して現れることは無い。 これら二つの数の和はすべて9であり、同時にそれは0と化すものである。すなわち、それら個々の本質はすべて《0の場》となって同調共鳴しながら同時に全体も《0の場》となり、すべてが一体共鳴することになるのである。それが宇宙の囁きであり、あまねく存在する宇宙のリズムと言われるものである。
分かりやすく言えば、次元宇宙全体が同一ハ−モニ−を奏でる、すなわち、個は全体に通じ、全体は個に通じ全体が一つになって共鳴すると言うことである。それはなんと言う素晴らし自然の仕組みであり、何と言う調和に満ちた世界なのでであろうか…!。
よく見てほしい、ここにあるのはまた、以前に記した同じ言葉(数)の繰り返し(1月の記)であり、数度にわたるその繰り返しによりその重要性の確かさをしっかり教えようとしているのである。これも「数の理」の大切な「知の手法」であり、一つの意識性の表れ(有機的な)と言うべきものであろう。覚えていてほしい。
(4) これらの表れをもっと吟味し、その表れをしっかりと検証して見よう。そこに現れるのはまさに驚くべき未曾有の「数の理」である。しかも、それはそれは叩けばすぐに扉は開かれるのであり、求めればすぐに手に入るものでもあるが、いかにせん、現代人は長年手馴れた現代数学と言う「数の理」を止め難く、その心恋いしとにじり寄り、離れることが叶わない有様である。
まずは一度試みて直観の行方、すなわち心に沿うか、沿わないかをよく見てみることである…!。
(0と9)=(1と8)=(2と7)=(3と6)=(4と5)=9である、(9=0)からこれらは次のように置くことが出来る。
すなわち、(0と9)=(1と8)=(2と7)=(3と6)=(4と5)=0となる。これを解けばすべては次のようになるのである。
∴ 0=9、 1=ー8、2=−7、3=−6、 4=−5 またはこの逆もまた真なりである。要するに、現代数学では 3−4=−1であるが、「神の数学」にはマイナスは無いので 3−4=8となる。マイナス(−)とは逆方向に進むことである。 例として次の計算を行なってあるべき姿を確かめて見よう。
現代数学の計算と答え | 「神の数学」の計算と答え |
3−4=−1 2−5=−3 |
3-4=8 2-5=6 |
654321 123456 −123456 −654321 ―――――― 逆数→ ―――――― +530865 (正) −530865(反) |
654321 123456 −123456 −654321 ―――――― 逆数→ ―――――― 531864(正) 468135(反) ―――→ ←――― |
ある数列からその逆数列を減算すると単に符号、 すなわち、+、−が変わるのである。 |
ある数列からその逆数列を減算すると全体数列が逆向きに変わるのである。これはまさに自然の姿である。 |
(+530865)+(−530865)=0 |
(531864)+(468135)=999999→0 |
まことにこの二つの計算法を見ると甚だ面白い、現代数学では全体の符合が変わるのに対して、「神の数学」では全体の向きが変わるのである。すなわち、「天」と「地」とは向きが正反対の象であることをはからずも計算が証明しているのである。また、その計算の正しい証しとして、この「神の数学」の二つの答、すなわち正反の答を加算すると、そこには999999の数が現れて本質は0であることを歌っているのである…!!。 「神の数学」、おお、何と言う素晴らしい自然真実を語るものであり、神妙極まりない美しい「数の表れ」を讃えて止まないものと言ってもいいものである。まさにこれは自然の語るモノロ−グの集大成とも言うべきものであろう。
【これらの真実詳細は「神の法陣」上級講座11を参照してほしい、そこにはすべての驚くべき「数と図」の理が数多、種類別に記載されている。】
祝詞「ひふみ…天地の数歌」における「天の数」と「地の数」の違い、その基本的性質の違いをこの円輪状数列を用いて調べてみよう、すると。その違いは一目瞭然である。 すなわち、「天の数」とは運動の方向が下向きと言う天から地に向かう流れであり、「地の数」は逆の形、地から天に向かって流れる正反対の流れである。それが前述した(1月の記の中で)「ひふみ九九算表」の各数列の前半は「天の数」であり、後半は「地の数」であると言ったそもそもの根拠となるものである。要するに、これらの姿から「天と地」、「陰と陽」、「プラスとマイナス」等の性質の違いとはすなわち、数の流れの方向、すなわち、エネルギーの流れが正逆の形をとっていると言うことである。
そのあたりは絶対値がまったく同じ正と反のエネルギ−は合一すると0になる、無になる事実からわかるであろう。これとまったく同じような関係を持つものに物質の基本粒子である原子の持つ二つの電子についても同じことが言えるのである。すなわち、これら二つの電子のスピンの総和は常に0であると…。この場合電子@のスピンが「上向き」ならば、電子Aは必ず反対方向の「下向き」の状態にあるのである。それを明らかにしているのが、この二つの電子のスピンの和は常に0であると言う現代の物理理論なのである。
このように「神の数学」には何処を見ても不整合、不完全、瑕疵、欠けなどは一切見当たらず、すべては自然の理に沿って流れているのである。
その驚くべき「数の真実」は来月「3月の記」あたりから本格的な証言として供覧に提するつもりである。果たして何人が共感の意を表し、実証に走ってくれることやら…??。 すべては真実であり、数の語る「神のマル秘物語」である、そして易しいものであり、誰にでも検証できるものである。
すべては「古神道の世界」から生まれた日本初発の由緒ある知であり、古代日本に存在した「輝かしい叡智の」の再発見である。それはまさに「温故知新」、すなわち、「古きを尋ねて新しきことを知る」の言葉通りのものであり、世界の誰も知らない「数の知」の存在を初めて世の中に問い、それを明かすものである。 恐らく賛否交々であろう、いや仰天のあまり即否定に走る者、あるいは現代のドンキホ−テであると哀れむ者が大部分であろう。しかし、真実はあくまで真実であり、この事実は何時かは実を結ぶものと信じて吾が道を行くだけである。まさに今の心境は「日は暮れてもなお道遠し」であるが、それも一興と考えながら、後はただただ未来に思いを馳せ、独り心を鼓舞して一路わが道を邁進するだけである。 ただそれだけである。
そもさん、 喝…!!。 【これらの詳細は「超数学」講座bR、bU参照してほしい】
●<ウ(有)とム(無)は相互いに相反するのであるが、これが一つになって動く、うむ組み組みて、と申してあろうが、今の人民の知ではなかなか解けん、ウの中心はム、ムの周りはウであるぞ。中心は無限、周辺は有限でありことを知れよ。>…〔ウ(有)=9、ム(ム(無)=0、 一つになって組み組で動く → 0=9〕
●<故に日の霊人と月の霊人とは同一線上には住み得ない、自ずから別の世界を創り出すが故に、原則としてはお互いに交流し得ないのである。この二つの世界の中間にはその融和円通をはかる麗人とその世界が存在する。これにより、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのである。>…(日の霊人と月の霊人とは同一線上には住み得ない→「あの世」と「この世」は別々な象としての存在であり、完全な別の世界としての構成である。その二つの存在があるからこそすべては永遠な形をもっての存在となっているのである。)、
●<五十九柱と申してあるが、その中の九柱は隠れた柱じゃ。アイユエヨ、ワイウエオぞ、123456789ぞ、この九柱は○ぞ、心得なされよ。現れた五十柱のかげの、かくれた九柱、心し大切申せよ、>…(五十九柱→五十柱とは「あいうえお五十音図」で九柱は「ひふみ…天地の数歌」である。これは古神道の双対の奥義祝詞を指す、よく見るがいい、九九算は見かけは10柱であるが、0列が重複しているので本当の柱は九ッである。また、柱とは古来からの神の尊称である。) (アイユエヨ、ワイウエオ→五十音図、123456789→「ひふみ…天地の数歌」) (なかんづく、隠れている「ひふみ九九算表」が重要なのである、とにかく十分に調査検証にあたってほしい。) …… 以上「ひふみ神示」より
『神の数学』3月の記《祝詞「ひふみ…天地の数歌」の歌う“真理の歌”(2)》
(2011年3月吉日上載)
古代日本の古神道、そしてその奥義祝詞である「ひふみ…天地の数歌」、それは調べれば調べるほどその偉大さやその真実仕組みの素晴らしさが判るのであり、と同時に超古代の叡智の確かさにただただ驚嘆するだけである。
またその命名した理由、及びその由来もまことに合点がゆくものであるが、今の日本人は誰一人それを知ろうとする者はいないのは大変淋しい限りである。 いまや、日本神道はその支持団体にも見限られ、ただただ衰退の道を辿るだけである。
今このすべてが混乱している歴史の転換期に古神道の奥儀の道が突然現れて古代の真実の歌を囁き始めたのも何かそこには大きな意味があるはずである。ひょっとしてそれも神のさしがねであり、そこには大いなる神の思惑があるのかもしれない…。しかし、一向に誰も振り向いて考えようともしない、何と悲しい現実なのであろうか…!!。
よく考えて見てほしい、この数千年と言う長い間、ただただ長い眠りについていた古めかしいだけで意味を持たなかったはずの古神道の奥義祝詞が突然目覚め、現代人の知らない古代の「真実の数歌」を歌い始めたのである。それはまことに不思議極まりない出来事であり、誰も予想もしてはいなかったことでもある。
その目的、その意味するところは一体何であろうか…。それを知るためにはまずこれらの限りない「自然真実の賛歌」、すなわち数の囁く「自然の奏でる真理の歌」をまずはひも解くことから始めなければならない。それが古神道から現れた「神の数学」であり、現代数学とは異なる自然の持つ「自然の数理」を開かんとするものである。驚くべきことに、それが真っ向から「現代数学」に挑み、その自然と全く一致性のない片寄った我々の数学概念やその計算手法に対して警告を発し始めているのである。
今の人間知の大幹である現代科学は既に未来を失い、完全な漂流状態にあることはこの半世紀の歩みを見れば分かるであろう。それは科学者達が科学はあくまでも科学的であれとして「神」の存在などは一切認めない、すなわち「神は無い」と言う三百年前の科学揺籃期の呪縛をそのまま受け継いで、かたくなに守っていることに原因があるのである。
悲しいかな、今でもその自縄自縛の状態から一向に抜け出すことは叶わず、まったくで身動きの取れないと言う悲しい状態にあるのである。それゆえにあるべき自然の姿を少しも捉えることの出来ず、ただ闇雲にもがいて無駄な努力と時間を費やしているだけである。
一方、自然界に目をやると、目の覚めるような精巧無比な仕組みや驚くような統一された因果関係が存在して数えるにもいとまの無いほどである。しかもこれらのあり方やその仕組み等はどう考えても人知を遥かに超えたものであり、到底「神」の存在なしでは説明がつかないものであると名だたる学者達は言い始めている現在である。そこには大きな矛盾が立ちはだかっているのであるが、誰もそれを言い出そうとはしない、恐らく、現実を恐れているのであろう。その現実とはすなわち「神の存在」を否定している現代科学ではどうあがいても自然の秘密を明らかにはできないと言う厳然たる事実の存在である。本来なら我々はその事実をしっかり知るべきであり、しっかり心に置いて現実を見つめるべきなのである。それがすなわち、物質文明から脱却して次の意識文明を迎えるための最初のステップとなるものであり、次のホップの準備になるものである。そのための最初のイロハとなるものがすなわち、この「神の数学」であり、いわば「自然の教科書」とも言うべきものなのである。なぜならば、「神の数学」にはまばゆいばかりの「神の存在」が数で裏打ちされていて、自然をしっかりとガ−ドしていることが示されているからである。しかも、それを認めて計算の中に取り入れない限り「神の数学」の中では正しい答を得ることは出来ないのであり、現代科学にはそれが無かったゆえに自然の持つ正しい姿を見ることが叶わなかったのである。
面白いことに最近の物理学者達はだんだんと「神」の存在を認め始めていることをご存知であろうか、それでもさすがに今まで散々否定してきた「神」と言う言葉に抵抗があるのか、それとも宗教界の独占言葉である「神」という言葉に反発を感じているのか、「神」の名の代わりに「大いなる存在」、「宇宙の最高知性」、あるいは「サムシング・グレイト」等の新しい言葉を用いて盛んに「神」を持ち出し、こぞって礼賛をし始めているのである。要するに、科学界ももはや「神」の存在を認め始め、その足跡を追おうと本気でトレ−スし始めているのである。 その、一方、我々はただただ置いてきぼりをされ「神」は無いと教えられてただただ盲目のままである。
しかし、その方向性としてはまことに結構な風潮であり、自然のなりゆきの中で徐々に我々も啓蒙され次第に「神ありの世界」に移行していくと思われる。まあ、「神の存在」の真実を言い始めるのは物理学者達であり、段々に一般社会でも常識化されて行くことであろう。
恐らく今、すなわちこの二十一世紀初頭がその過度期の始まりあたりでああろう。これからが楽しみである。
私も今までにこの無いはずの「神」の出現に散々悩まされて来ている、なぜならば、「数」を用いて自然のあり方を調べていくと最終場面には何時も「神」が現れてすべてをとりなし、一気に円満解決に向かう場面に度々遭遇しているからである。
それがどういう訳か神の姿とは常に数字の0の姿をとって現れるのである。要するに、数字の0が無い場合にはすべては無限複雑の状態が現れて収拾がつかないのであるが、そこに0を置くことによりすべては調和と秩序により結ばれて求める答えが簡単に現れてくるのである。あなた方にとってはすべては不可思議至極、奇怪至極の言に聞こえ、そう感じるであろうが、私は真実そのものを正直に述べているだけである。ただ、あなた方は現代の知で見よう、考えようとするから「神」は現れては来ないのであり、従ってただただ「神は無い」と感じているだけである。そのあたりについては今回、及び次回に提出しされる「数の語り」を検証すればある程度のことは分かるはずと思う。
一つ、 それを現代物理の面から見てみよう、例えば電子のスピンである、基本物質である原子の場合、お互いに反対方向にスピンしている2ヶの電子を持っているる。その二つの電子のスピンの総和は常に0であると現代物理は言っている。
この場合の、電子の位置関係は東京とロンドンでもいいし、地球とアンドロメダ星雲でもいい、その距離等には一切関係無く、常にスピンの総和は0であり、同時にその距離も0となって永劫回帰の道につながっているのである。
そのお互いが刻々と変わりあう力関係、位置関係、はたまた作用関係と言うものをその二つの電子はどのように判断し、通信しあっているのであろうか。遥かに離れた距離においてそれら二つの電子は常に心が通じあって一つの行動を取っていると言うのである。
はっきり言えば、スピン0、距離0と言うことはそのお互いが重なりあって同一な状態にあると言うことであり、全く同じ状態にあることを意味するものと言える。 物理学ではこれを称して「宇宙対向原理」と言っている。
遥か遠い宇宙の果て同士にあるものが、実は重なっている状態とまったく同一なものであると言っているのである。あなた方はそれはおかしいと笑うであろう、しかし本当はあなた方の考えが間違っているのである。確かに直線思考で考えれば、遠ざかると言うことは直線的に距離が離れることである、しかし、大きく考えれば直線とは現実には無いバ−チャル的な存在であり、そんなものは実際には無いのである。あなた方が直線と思っているのは実は無限に大きく弧を描いて走る円の一部、宇宙を駆け巡る大きな弧の微細な一部分二お過ぎないものである。すべて自然とは循環性をもっているものであり、離れれば離れるほどその二つはますます近寄り、究極的には重なってしまうのは円の性質を考えると当然なことである。そのあたりのことは物理学の理論にもあるのである。
すなわちそこには「量子力学によれば粒子とは常に反粒子と対の形で生まれ、生まれた瞬間からお互いに反対の方向に遠ざかって行き、しまいにはまた近づいて来て合一して対消滅する」とあるのである。
恐らく物理学者達も遠ざかりながらも、また近づくの本当の意味は知らないはずである。つらつら考えて見るに、この究極的な重なり(対消滅)とはまさに「神の数学」が歌っている古神道の「カミムスビ」の業そのものであり、まさにその姿なのである…!!。
何と言うことであろうか、あなた方が「神の数学」の中で数列の頭と尻尾を結んで重ね合わせている「カミムスビの手法」こそがはまさにこの究極な循環理法そのものなのである。、まさに0=9の世界であり、学者達が嫌がって逃げている最小=最大の世界そのものなのである。 本来これが自然のあるべき本当の自然の形態であり、本質の姿なのである。我々はまず、そのあたりから知るべきであろう。
「神の数学」で言う「神」とは、すなわち数の《0》である、この《0》こそがまさに万能の力、オ−ルマイテイな能力を持っている数であり、「神」の代行者とも言うべき数なのである。要するに、今まで最もあやふやな数、余り重要視されることが無く、評価の低い数であった《0》があろうことか最高の数、数多の数の母体的な数としてのし上がって来てものを言い始め、権限を揮い始めているのである。
まさに、逆転のシナリオであり、そのあたりは古神道と全く同じケ−スであると言えるものである。
それは何も「神の数学」に関しての世界だけではなく、現実の科学知の現実世界の中でも同じことが起こり始めていることを知らなければならない。ぜならば、今まで0には見向きもしなかった世界の数学者達がここに来て0の持つ不思議な性質について俄然追求をし始め、その余りのありえない姿に」畏敬の眼差しを向け始めたからである。それはまた先端物理学者達が「神」の存在にここに来て初めて気がつき、目を向け始めたのとあたかも同じ現象と言えるものである。
今まで「神は無い」とうそぶいていた現代の異なる分野の学者達がここに来て酷似的に突然「神」を認め始め、同一的な轍(わだち)を取り始めているのである。要するに、現在、人間の知はすべて一致と言う方向に向かって少しづつ動き始めていると言うことである。
一体これから何が起ころうとしているのであろうか……??、!!。
今回はその「神」のあり方についての数の証言を少々取り上げて見よう。まあ、馬鹿らしいと思うか、それとも真摯に取り上げて検証を始めるのかは諸氏次第であり、その心がけ次第である。ただ、我々がいくら「神」に反発を感じ無視を決め込もうとしても、「大自然」には神が無ければ何事も始まらず、一切は進展しないことをまずは知るべきであろう。
もっとはっきり言えばあなた自身さえも大自然とそこにあるあらゆるものは共鳴状態にある神の申し子であり、大いなる自然から誕生して自然に守られながら日々を平穏無事に送っている存在なのである。 そのことだけは忘れてはいけないのであり、それだけは心しておくべきであろう。
「神の数学」の中では、すべてが数で記されているのであるが、口弁の幼い私、未だ哲道の半ばにある私ではその仔細を的確に表現することはまったく叶わない状態であり、常に口惜しい思いがあるだけである。
ただ、数を扱っているとそのあたりは自然に分かってくるのである、恐らく、あなた方も同様であろう…!!。
まあ、その中には誰か真実に目覚めた頭脳明敏な方が現われて理路整然たる解釈を施してくれることであろう。それを期待するだけである。
まずは、「ひふみ…天地の数歌」の本体である「ひふみ九九算表」を見て貰いたい。そこには横10列、縦10列に並ぶ天地の相が見事に揃って連座し、「真実の数歌」を懸命に披露している姿があるのである。今や洞察力のついたあなた方にはそれが十分に解ると思う。
今の我々に必要なのはそれらの内容をすべて解き放ち、それを咀嚼しながら不完全な人間知を修正補足して自然と共に歩むことである。それが出来ない限り、われわれの明るい未来は無いと心得なければならない。
別にこれらは何も高等数学を持ち出して解くような難しいものなどではない、単純な姿の持つ至極当たり前の「自然の理」であり、ただ素直に真っ直ぐな気持ちで考えればいいだけのものである。
むしろ、小難しい現代数学などは百害あって一利無しであろう、すべての自然は秩序と調和を持って燦然と輝きわたり人知などは少しも意に介せず、自然流に現れて自然流なあるべき姿を保っているだけである。我々はただそれを知ればいいのであり、理解すればいいだけのことである。
恐らく、現代数学に身を置くあなた方にはこれらを理解することは大変困難であり、余りにも唐突過ぎて信じることも出来ないであろう。 なぜならば、これらすべては現代数学には無いまったく新しい「数の表れ」であり、しかも自然の大いなる「陰」と「陽」を相持っている有機的な二元の姿を持っているものだからである。それはまさに矛盾の一切無い普遍的な「数の理」の姿であり、調和に満ちた完璧な「数の姿」と言ってもいいものである。ここで考えなければならないのはこれらすべては古神道から這い出してきた「数の走り」であり、輝かしい古代の叡智の名残であると言うことである。
まさにそれはとんでもない事実の存在であり、歴史のパラダイムさえも完全に崩れ去ってしまうような驚天動地の出来事と言ってもいいものである。ァそれを心して学んで貰いたい。
◎ 心してほしいこと
《まずは「数」を読む前に、一つ断っておくことがある。それを知らない限り「数」を読むことは出来ず、何時まで経っても進歩は得られないからである。要するに、中心から左端にある0はあくまでも0と置き、しかして、中心から右端の0は必ず9として計算することが必要なのである。また、真ん中付近の0は0か、または9と置いてもよく、そのときの数の調和と秩序の有様を見ながらどちらかを用いるのである。》 ……それが0(ゼロ)の用い方、その計算法である。これは現代史上においては誰も見い出すことが出来なかった「神の叡智」の真髄とも言うべきものであり、「神」の用いている大いなる「数の表現法」なのであるい。。
故に、「ひふみ九九算表」の三差の数列である0360360360は → 0360360369 となってΣは36となり0に還るのである。
すべては「数」の語る真実であり、まことに大きな意味を持つものである。決してそこには齟齬不全、不整合なもの、意味の無いものは一切無いものである。それを物語る一つの証拠として「ひふみ九九算表」の中からその例題にふさわしいものを探して、共に試算し確かめて見ることにしよう。
まずは「ひふみ九九算表」を二つの対角線により四つに分割する、どれでもいいその中の一つを取り出してそのΣを求めるのである。 ここではその上部にある部分を用いて「数の囁き」を見てみることにしよう。
〔Aの部〕《「数の語り」を読み大いなる真理を知るべし》
……「ひふみ九九算表」(宇宙次元原理表)の1/4分割表より
◎まずは数(エネルギ−)関係から見て見よう。
最外側 …… 0000099999 →45(99999)→9→0 *注…(0000000000)→(0000099999)
外側から2番目……12345678 →36(9999)→9→0
〃 3番目…… 468135 →27(999)→9→0
〃 4番目…… 0369 →18(99)→9→0 *注 …(0360)→(0369)
〃 5番目…… 72 →9(9)→9→0
〃 6番目(中心)… 0 →0(0)→0→0
*注 …<中心から左の0は0と置き、右の0は9と置く>
何と、そこには 0,9、18、27、36、45 の秩序ある数(9の倍数)が現われて何事かを囁いているのである…!!。
まさに美しく素晴らしい光景なのであろうか…!!!。
何と それは→0:1:2:3:4:5となる正自然数の姿を持っているものではないか…!!。
≪何回もなぞりながら考えるがよい、それは魂の回帰にもつながるものでもあり、魂の雄叫びをもって共鳴している(9の同調体)ことを説いている驚くべき「天の数図」ものである。自然学とは何と言う偉大なものなのであろうか…!!。≫
さあ、ここに現れた純粋極まりない「神の数列」、すなわち0、9、18、27、36、45は9(0)の数差をもって0に納まる純粋数列の現れである。一体何を意味するものであろうか…?。
そのΣはおしなべて9(最大)でありながら、0(最小)に通じる、すなわち、最初でありながら、最後でもあることは最早あなた方も十分にお解りのはずである。→ <ヶであるぞ、レでありぞ、ホであるぞ>→(9であるぞ、0であるぞ、本当であるぞ。) …「ひふみ神示」より
<これらのどの数列でもよい、真ん中で折り曲げて重なった数を加算するのである。するとそのすべては9の連数になり、0になるのである。これは未だ誰も知らない「神の大業」である>→(今度の御用は九の花を咲かすことゃ、真理に九の花が咲くのでありぞ。)…「ひふみ神示」より
なんと言うことあろうか、(0=9)を用いれば、なんとそこには素晴らしい9のリズムをもった調和と秩序のある数の並びが現れて何かを囁きはじめるのである…!。それを見ただけであなたの直観がうずき出し始めるはずである。
そう、そこにあるのは 0,9,18,27,36,45となる9を基本にもつ数の表れであり、その比はまさに正自然数の序をもつ 0;1:2:3:4:5となるものである。
私はそれを名付けて「神の数列」と呼んでいるのである。要するに、この正自然数の現れこそが自然の「すべては正しい」とのサインであり、その「自律的な証し」であり、自然のもつ希有な証明法なのである。→(「道開く理は九ぞ、根っこの理ぞ」、「九の道は神の理ぞ」)…「ひふみ神示」より <更なる詳細は「宇宙次元マル秘原図」のbT、12、「真実の数理」講座4を参照のこと>
〔Bの部〕《「セル(マス枠=場)の語り」を読み大いなる真理を知るべし》
……「ひふみ九九算表」より
◎次は空間(場)関係から見て見るのである。
最外側のセルの数(かず) … 10ヶ→1(一桁化)
外側から2番目のセルの数 … 8ヶ→8
外側から3番目のセルの数 … 6ヶ→6
外側から4番目のセルの数 … 4ヶ→4
外側から5番目のセルの数 … 2ヶ→2
外側から6番目(中心)のセルの数… 0ヶ→0
見るがいい、024681は0:1:2:3:4:5である。すなわち〔A〕=〔B〕、共に同じことを述べていると言うことである。
何と、ここに在るセル(空間場)も〔A〕と同じ叫びを上げているのである。まさにそれは「陰」と「陽」の真実の叫びであり、正しいことの証明でもある。何回でも心行くまでその叫びに耳を傾けるがよい。すべては自然の姿である。
<このようにエネルギ−(数)とセル(場)の間には一定の関係が在るのであるが、現代の物理学者はまだそれを知らない。そこまで現代知はいまだ進んではいないと言うことであろう。>
● <世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ、平面の数で定めてはならん、立体の数にはいれよ。>→→(現代知で解いてはならない、天津金木の法を用いよ。)
● <九才(9)は神界の元の年ぞ、神始めの年と申せよ、123,345、567ぞ… →(9は宇宙普遍の共鳴基本数である、ここにある123,345,567、こそが平面立体の数の数え方であり、古代秘法の天津金木の法である。)> …以上 「ひふみ神示」より
あなたの心は早鐘を打つであろう。そう、それだけ直観に弾みがつき始め、見る目が確かになってきたのである。ここに現れたのは0、2、4、6、8、10の数であり、正自然数の姿そのものである。
見るがいい、その比は見事な正自然数、0:1:2:3:4:5の連立であり、あり、まさに〔A〕の数の語りと完全なる一致を見せているものである。そこにある一致とはすなわち、「エネルギ−」と「場」の間にはまさに切っても切れない「陰」と「陽」の関係があり、自律的な定まった脈絡を持っていることを数は証明しているのである。これこそまさに自然流の見事な自律性を示している大いなる証明法なのである。
そのあたりの仔細、すなわち、「陰」と「陽」の関係にあるものはその奏でる答が同一でなければならないのであり、それを高らかに歌っている大いなる「普遍の真理(数の決まり)」をもう一度改めて参照してほしい。
【2010年3月の記にある「神の法陣」のもつ二つの対角線の数の値は同一であるがそれである】。
ここにあるのはまさにそれであり、自然の持つ数律は如何なる場合でも変わることはなく常に厳守され、運行されていることが分かるであろう。確か、量子学の大御所であるイギリスのR・ペンロ−ズは『宇宙は整数のみから、組み合わせの作用だけで出来ている。すなわち、宇宙は「足し算」、「引き算」、そして「比」と言う簡単な算術演算だけでつくられている』と言っている。
人間流の「マイナス」、「虚数」、「複素数」などは一切不要なのである。まさに「神の数学」はそれをいみじくも裏書し証明しているものである。何と言うことであろうか…!?。
古神道に得道を覚え、更なる新しい知を求めんとする方々に申し上げる、この数図こそは長年神道家が求めてきた「一霊四魂」と言う言葉のの由来を語るものであり、その言葉の真実をはっきりと物語っているものである。
要するに、古神道の奥義祝詞である「ひふみ…天地の数歌」の本体の中にこそ、その由来があり、その仔細を順序立てて詳しく説明しているものなのである。すなわち、この「ひふみ九九算表」こそが神道にある「天の神々に繋がる聖なる一霊と肉体的存在に宿る四ッの魂の存在」をはっきりと伝える「天来の図」であり、それを明らかにするものである。
まさにこれが古神道の言葉である「一霊四魂」の由緒素性なのである。そのあたりをしかと説明申し上げよう、そこにある最外側にある0000000000……は天の神々とつながる一霊。すなわち「直霊(なおひ)」の姿であり、その内側に位置する各数こそが生命実質界の魂である。それは四種類あると言われ、「荒魂」、「和魂」、「幸魂」、「奇魂」と呼ばれているものである。その仔細は上記〔A〕を見れば解るであろう。
なお、もっと素直で直観の優れている方々に申し上げておきたい。この数図の最外側の0と中心にある0は全く同一同体であり、また、同一的な位置を占めているものでもある。
恐らくあなた方はなぜ…?といぶかしく思うであろう、そのあたりをしっかりと説明しなければ何時までも疑問が晴れないと思う。
その意味をしっかり解したいなら、宇宙の構造体と言われる「ド−ナツ型」を考えるがよい、ド−ナツ形の外側の0と中心の穴の0は全く同じものである。それでも分からなければ、そのド−ナツ形を切断してその切断面を見るがよい、その周囲を取り巻いているのが0の群れなのである。要するに、主観的に内側から見るか、はたまた客観的に外側から見るのか、その見方次第と言うことである。お解りかな…!!。 (要するに、この「ひふみ九九算表」を閉じて立体化したものがド−ナツ型宇宙の姿なのである。)
更に大きく思索の輪を展ばして普遍真実を知ろうとするならば、この宇宙構造体(ひふみ九九算)の1/4、すなわち〔Aの部〕の外側には無数の0の群れである神々が見えない姿でひしめき合っていることを知らなければならない。
その姿を見たければこの図の外側に沿って秩序通りに「枠(セル)」をつくりその中に0を置いて改めて計算をして見るがよい。すると0の群れは次々と延びてそのΣは54、63、72、…となつて、この図の最外側の00000…の枠のΣ数45につながり完全連結数の姿になることが解るはずである。しかもこれだけではない、まったく同じことが〔Bの部〕についても言えるのである。すなわち数図の外側の神々は12、14、16となって1桁化すれば3、5、7となる。要するに、それは図内の数、6、8、10、に続く12、14、16が図外に現れ、全体の数の一桁化の並びは024681357となって見事に完成されて「ひふみ九九算表」の3番目の数列となるのである。
その事実は試算することにより一目瞭然となるものである。要するに、我々の「この世」の外側には多くの神々が存在して「この世」を保護し、見守っているのであり、その仲立ち、中継しているのが「この世(この図)」の最外側を占めている000…の群れ、すなわち古神道で言う「一霊(直魂)」と言うことである。それは同時にこの外側におわす神々と密につながって一つの媒体的な存在である。
我々が今まで軽んじていた古神道はそこまで真実を突いていたものである。
まさに恐るべきものは古代日本の知者達の洞察力であり、その頭脳の働きのすごさである。敬すべきもの、拝すっべきものであろう。
何と、「神」には我々につながっいている「神」とその上に位置する「神々」の二つがあり、二重、三重に我々を取り囲んで守護しているのである。 恐らく、我々に直に繋がっている神が、いわゆる自然に宿る神(自然神、霊、もののけ)であり、更にその上にあるもの、すなわち、天地開闢以来その身を隠して見えなくなったとされる別天神(コトアマツカミ)と呼ばれる神々なのであろう。この真実を語り継ぐ「数の表れ」から見ると、すべての神話は生き生きとして、まさに鮮明な形で我々の前にあって真実を語りかけてくるのである。
それに反して、今まで「神」の存在を否定して歯牙にもかけなかった現代科学は最早破綻状態であり、その存在は既に失われかかっていると言ってもいい状態である。これはまさに「神」の存在を告げる驚くべき証言なのである……!!。
<詳細は数学幻視考bU及び「宇宙次元原理秘原図」12、17参照>
アメリカの物理学者であるイツァク・ベントフは面白いことを述べている。「創造主のレベルである≪絶対(リアリテイ)≫との境界に<霊的(スピリチァル)レベル>の存在がある、この<霊的レベル>の最上層は創造主のレベルである≪絶対≫と交じり合っているので、その間にははっきりした境界線を引くのはとても難しい。そのために霊的レベルは宇宙の知識及び構造と直につながっているものと言える」…。「また、≪絶対≫とその下の<霊的レベル>の違いは波動(周波数)の違いであり、<霊的レベル>の波動レスポンスは物理レベルにもっとも近い、そのために物理レベル(物質レベル)との相互作用が楽に出来るのである…」。この言葉を「ひふみ九九算表」に当てはめて見るとまさにピッタリである、あなたも出来る限り考えてほしい。
「意識の物理学入門」…イツァク・ベントフ著より。
また、中世西洋の哲学者であり、思想家であったスエデンボルグは言う、『「この世」は霊界という広大無辺な空間の中にポッカリと浮かんでいる一つのゴムの球のようなものであり、その周囲は数多の霊界で取り巻かれている。また、「この世」も一種の霊界であり、周囲の霊界がこの世に浸み込んでいる』と…。
この「ひふみ数図」の表れこそまさにそれを告げているものである。これをして決して科学的ではないと言うなかれ、なぜならば、これは量子論が言う量子現象そのものでもあり、不気味なほど一致しているからである。まさにこの姿は「ひふみ九九算表」の姿そのものであり、まったく同一的なものである。 諸氏よ、もって瞑すべし、自然はただ一つである。
<下線部は「ユングは知っていた」…コンノケンイチ著より>
「神の数学」には矛盾やほころびなどは決して無い、それは絶対と言う「数」の導く永久不変の「真理の図」であり、永遠の理である「知の金字塔」の姿を持っているからである。また同時にそれは宇宙創成より自然が営々と築き上げて来た遥かなる「物理的な理」の集大成の姿と言ってもいいものである。それはまた、永久無辺に輝く「永遠の真理の歌」であり、「永久普遍の宇宙神理のメロデイ−」の大いなるシンホニ−でもある。
出来れば、ここにあるまたとない真理の響きをあなたの心で複合的に共鳴させ、さらにその共鳴の場を少しづつ広げていって貰いたい。やがてはそれが大きくなって全体に及び、やがては人類の未来さえも変えることになるはずである。すべては意識のなせる業であり、意識世界のマンダラ模様のあるべき姿なのである。またそれらすべては数で描かれ、数で掲げられていて、誰にでも理解出来るものである。とにかく、すべては現代知の範疇には無いものであり、「数」こそが自然の秘密を解く鍵であり、すべてを握っているものと言ってもいいものである。
願わくば、この数図をしっかりと調べ、来月に続く更に不可思議なツイン(双子)の数図の予備的な知としての役割を担えるようにしっかりと本筋を理解してもらいたい。
とにかく、すべては現代知の範疇には無かったものである、理解するにはある程度時間はかかるのはやむを得ないではあろう。今、アドバイスが出来るのは「ただ考えて、考えて、そしてまた更に考える」と言うことだけである。
●<へその緒はつながっているのであるから、一段奥のへそえへそえとすすんで行けば、そこには新しき広い世界大きく開けるのであるぞ。>
●<天を自分のものにするにはムにすることぞ、0に化すことぞ、霊界と現界を組みて新しき限界と知ることじゃ。>
●<全大宇宙は神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。>
……以上、「ひふみ神示」より
「神の数学」4月の記《祝詞「ひふみ…天地の数歌」の歌う“真理の歌”(3)》
2011年4月謹んで上載
「神の数学」も数多の方々のご支援、支持を受けて大分歩も軽やかになり心にも一段とゆとりが生じてきている感はある。なんせ、今まで の人類史上にも無かった「知の荒行」であり、「魂の洗濯」と言うべきものである。いくら神々(?)の後押しがあったとはいえ今の世の中では まさに無謀の極みであり、現代人には晴天の霹靂、闇夜の刃の感じがするものであろう。確かに、現代知に対しての無謀な挑戦であり、現 代知をないがしろにするまことに無礼千万な行為と映っているものではあろう。今のところ非難、迫害されてもやむを得ないものと考えては いる。たしか、少々高飛車であり、言葉も雑かもしれない、その点は改めて詫びておきたい。しかし、真実はあくまで真実であり、正しい知は何処まで行っても正しいものである。私としては現代知の行き詰まっている現状を打破するために、あるいはまた、歪んだ日本の歴史構図を糺すためにも真実ははっきり言い貫き通すつもりではある。
つらつら考えて見るに、今まで余りにも無為に時間を費やして来たことが悔やまれてならない、私としては二十世紀末頃にはすべての「数 」の真実を完成させて人々に知らせようと懸命に走り回っていたのであるが、当時は誰も耳を貸すものなどははいず、嘆きながら失意のうち に無聊の日々を送っていただけである。それは余りにも長い空白の余儀ない時間と言うものであった。
それでもその中にだんだん知られて人垣が出来、平成8年にはほんの30〜40ペ−ジではあるがある個人論文書に掲載されたこともあっ たのを覚えてはいる。数えてみれば、なんと長い道のりを歩いてきたものと我ながら感心し、在りし日の面影と思い出を脳裏に走らせながら、旧懐の念に駆られている今日この頃である。
今はただ、機を見るには敏であり、素晴らしい洞察眼を備えた方々の力強いエ−ルに後押しされて何とか現在までやって来れたことを感謝し、何とか初志を貫徹するつもりである。宜しく応援をお願いしたい。
何時の間にか時は移りて世はまた新しく4月にいたらんとする時期となり、巷でも春の新学期のはじまりを迎える季節ともなった、そこでこ の「神の数学」の講座においても衣を新たにして発足することにしたのである。それと同時に、手軽に楽しみながらも更に直観と洞察力を膨 らませて神の懐の奥深くを探り、そこにある驚くべき自然の「真実の理」の存在を明らかにして諸氏に供覧するのが今の私の務めであると 考えている。しばし足を止めて、これらの「数の語り」に耳を傾けながら、数の語る内容とそこにある真実に対して十分なる検証を行ない、そ の確かさとその素晴らしさをゆっくりと心で味わってほしい。すべてはまさに古代のロマンを求めての意識行であり、古代と現代を結ぶ大い なる時の架け橋を渡っての古代の叡智を求めての前人未踏の大いなる旅である。
さて、先月「3月の記」では「ひふみ九九算」を二つの対角線で4等分してその一つを取り出し、そこにある数字の囁きを頼りに、改めて本 来あるべき「0の理」、「0の仕組み」の真実を考証し、自然の大いなる真実を確かめたのである。そして、そこにある数の案内によって驚く べき「妙なる姿図」の存在が姿を見せ、我々の頑是無い心を揺り動かして、しばし、その歩を止めて考えるに至ったと言うことである。つまり あり得ないものに遭遇し目を見張り、思わず「神の心」を覗き込んでしまったということである。
しかして今回は再び、数の導きをもってその延長線上にある更なる「あり得ない真実」を求め、そこに鎮座する大いなる自然真理を取り出 し、諸氏に託して見るつもりである。要するに、もう一度「ひふみ九九算表」の中から驚くべき「新たな真実」を見い出してあなた方の目の前 に供覧して度肝を抜き、あなた方の反応を見ようと言うのである。要は直観と洞察力の有無が鍵であり、それらがすべてを決するものと言 えよう。ただ、気がかりなのは今の若い人達にはそれが欠けているように感じられるのであるが…。果たして如何であろうか…?。
今回講じようとするその仔細とは「宇宙自然世界には根本原理である「陰」と「陽」の性質をもつ二元性の象が常に対立的な形をもって存 在し、それらが驚くべき形で一致協力をしながら、一つの完全なる世界を作り上げて永遠に繋いでいる」、すなわち、その一切の仔細はす べて「ひふみ九九算表」の中でしっかり語られている事実を知ると言うことである。その確かな事実を数に語らせながらあるべき真実をこれから見てみようと言うのである。これは今まで誰もなし得なかった人知未踏の大業であり、現代知の持ち主では到底信じることも出来ない代物なのである。
まさにこれは大いなる宇宙普遍の真実の存在を明かす驚くべき「数の語り」であり、天地の始まりとその作用を綴っている古今無類の数の驚くべき語りがそこに鎮座し納まっているのである。つらつら考えて見るに余りにも不可思議千万でありながら、脈々としてそこに流れる順序系統立っているその姿には少しの違和感さえ覚えないというのもこれまた不思議である。
要するにそれは我々の考えの範疇にあって、何となく直観的に同意できる、われわれの洞察力で十分に理解出来ると言うことを示唆しているということであろう。
出来れば、前回同様にあなた方の持てる知をフルに動かして自らの心で十分に納得するまで検証し、理解してもらうことが肝要であり、望ましいところなのである。すべては人類科学を超えた遥かな「神の知」の領域に属するものであり、我々はその「神」の息のかかった完全なる「神の知の図形」を秘かに探索し、その大いなる秘密をひそかに暴こうとしているのである。人は「罰当たりめ」と罵るかもしれない、しかし、現代の行き詰まつた学の世界を打ち破るためにはこれ以外には無いのであり、しかも急を要するものである。
現代の学者はもとより、一般の人々も、おしなべて、あるべき何らの証拠も持たずに「神の存在」を論じて喧々諤々の論争を繰り返しているような現在であるが、それでは限られたちっぽけな知の中での堂々巡りを行っている「井の中の蛙」的なものに過ぎないのであり、結論は決して出ることはないのである。単なる時間のロスと考えるべきであろう。
若し、出来るならば、この「神の知の図形」を大勢な方々が一致協力の形の上で探査検証を重ねて、一つの結論を出して、その後に改めて「神」の存在の如何を問うことが望ましいのであるか…!!。そのための資料は数多あり、何時でも提供出来る用意があると言っておきたい。
これは人類始まって以来の究極の大命題である「神」の存在証明をこれから開き求め、その正しい正体を探ろうという由々しい企てである。前回は「ひふみ九九算」を二つの対角線で4等分してその一つを取り出して未だ人間の知らない「数の理」の存在を明るみに出したのであるが、今回は更に一歩進めて前回取り出したものと対称的な位置にある「ひふみ九九算の相対するもう一つの1/4図」を改めて共に取り出し、その二つの間にある驚くべき相関関係、及びその大いなる意味の存在そのものを探索探求して見ようとするのである。恐らく、常人には気違い沙汰としか聞こえないものであろう。
さあ、ペンと紙を用意して、直観の行くまま共になぞらいながらそこにある「大いなる真実」を探してみよう。恐らく、大いなる洞察力と忌憚のない理解力が求められるではあろうが、それが無い場合は飽くことのない執着力と裏を見通すたゆみない心眼をもっカバ−し、もってすべての完遂を目指し、それと同時に日本民族のもつ叡智を世に示し、、もって古は今でも健在なりとの心意気を示そうではないか…!!。
「ひふみ九九算表」相対半図》…(本当の自然の実体を見る)…
<「ひふみ九九算表」から>
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ……Σ=45
1 2 3 4 5 6 7 8 ……Σ=36
4 6 8 1 3 5 ……Σ=27 (見えない世界=あの世)
0 3 6 0 ……Σ=18
7 2 ……Σ=09
, 0(ゼロ) ←反転場(焦点、特異点) …Σ=0 (当然ここから下の場(数字)は180度捩じれている)
2 7 ……Σ=90
, 0 6 3 0 ……Σ=81
5 3 1 8 6 4 ……Σ=72 (見える世界=この世)
8 7 6 5 4 3 2 1 ……Σ=63
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ,, ……Σ=54
要するに、「見えない世界」と「見える世界」はメビュ−ス的な対構造を持つと言うことである。 すなわち、上の0群と 下の0群を「神ムスビ」すると完全なメビュ−スの輪が出来るのである。
この図にはまだまだ興味深い「神の秘密」が内蔵されている、誰も知らないものである、是非探し出して楽しんでもらいたい。
≪何のことはない、「あの世」と「この世」はまったく同じものがメビュ−ス的なねじれ作用と言う対逆的な関係をもって成り立っていることを物語っている自然の数図である。要するに、片方は「表」であり、他方は「裏」が現れていると言うことである。
まさにこの図は古神道の言う「表裏一体」の言葉を裏付けるものでもあり、その言葉の正しさを証拠だてるものである。≫
ここにあるのはまさに0を中心(焦点)にして広がる点対称性を持つ完全なる反転対称図である。要するに、0を焦点として180度捻られた反転鏡像であり、それは0を境にして一糸乱れぬ綺麗な表れを持っていると言う信じられない数図の出現である。
よく見ると、その姿はまさにメビュ−ス的な組織構造体であり、何となく意味深げな表情を持っていることが感じられるものである。
すなわち、その姿はただただシンプルでありながら全体的には大変美しい姿を見せ、しかも何かを囁いているような魅惑的な数構造を持っていると言うことである。 しかも、美しいのはその姿だけではない、そこにある単純な「数の表れ」の中にも驚くべき秩序性が隠されていることが感じられ、それを見い出すことにより新しい意識知、すなわち、誰も考えもしなかった「自然の知」の大いなる目覚めが始まる予感を感じるものである。、同時に、それを学ぶことにより人類の知も大きく変わって来るのではないかという大きな期待感さえも抱かせるものでもある。 それにしても大変美しい数の図である。
何と、今まで我々が打ち捨て、余り重要視していなかった「数」と言うファクタ−がここに来て遥かなる「神の知」の場へ我々を導いてくれようとしているのである、何と言う素晴らしいことではないか…!!。
何というフアンタステックに聞こえながら、同時に懐かしいノスタルジャ−のようなものを感じさせるような不思議な数図の姿ではないか…!!。すべては古の知の甦りであり、我々の心の奥深くに眠っていたものの再発露と言うものである。 【詳細は「超数学」講座10参照のこと】
さて、この図の説明に入ろう、これはご存知の「ひふみ九九算の表」の二分の一図である。その上部と下部にある二つの0000…の群れは同じものの表れと考えてこの二つの0の群れを重ねて結ぶ、すなわち「カミムスビ」を行うのである。
それがすなわち、古神道の「カミムスビ」と言う手法で結ばれた一つの数の輪の姿である。
よく見ると驚くなかれ、そこには中心部に反転場を持つ完全なるメビュ−スの輪が出現して何かを囁き始めているではないか…。 そこで最上部と最下部の数列を見るのである。そこには45と54が現われて完全なる連結状態にあることを示しているではないか。
要するに、この図の上部と下部は完全につながりを持ち、一つのメビュ−スの輪を構成していると数は囁いているのである。
さあ、そこに意識を持って行き、目をしっかりと見開いて目と直観を頼りにその囁きに耳を傾け、心を一点に集中するのである。
するとやがて明白な形をもって貴方の前に何かが現れてすべてを語りかけることになるはずである。若し、十分に納得出来ないならば、何回も検算と検証を繰り返して考えることである。そうすることによりあなたは確かな真実の存在、すなわち、「神の知」を見出すことが出来、同時に思わぬ新たな発見もまた手に入れることも出来る事になるのである。
これは単なる一介の数図などではなく、完全反転鏡面的な仕組みを持っている「摩訶不思議な数の図」である。なぜならば、ここにあるすべての数列は本質は0であり、「無」に収斂されていからである。
それは次のような摩訶不思議な性質を持っていることが直観的に分かるはずである。
@ まずは0を中心にして上下を折り曲げて重なった二つの数を加算するとそこには思いもよらぬ見事な9の花が満開状態に咲きほこり、我々を唖然とさせるのである。
A 次に、今度は焦点を中心にしてその左右を折り畳んで見る、すると、あら不思議、またもやその重なった二つの数の加数合計はすべて9になり、0に収斂されてしまうのである。 何たる不思議な光景であり、9のフアンタステックな囁きであろうか…。
何と言うことであろうか!!、そこには九の花が咲き誇った状態が現れてすべてを締めくくり完となっているのである。すなわちすべてに本質0が現れて完了と言う態、すなわち、最後でありながら最初に戻ると言う我々にとっては甚だ奇想天外な結末が出現しているのである。これらをありえないと感じるのは我々現代人だけであり、自然にとってはまことに普遍的であり、当たり前のことなのである。
なぜならば、大自然のあらゆるプロセスはすべて循環的に進行して最初と最後は結ばれて完となる、それが定めであり、大いなる自然の天律だからである。自然万物はすべて粛々とそれに従って存在しているのである。
諺にもあるではないか、「天が下のものはすべて天の上の映しにすぎない」と…。
心の高鳴りを覚えて止まない方、更に超真実を知りたいと思う方は心して「ひふみ九九算表」をま探るがよい、これなどはまだ序の口、前座であり、簡単なメッセ−ジの類である。その奥にはまだまだおびただしい「神の奥義」が綺羅星のように並んで鎮座し、あなたを待ち構えていることを知って欲しい。 まずはひとまず、あなたの持てる現代の知を総動員してこの「ひふみ九九算表」を「調査、考察することである。それでもどうにもならない方、自分の知に見切りをつけた方は、資料「宇宙次元原理表マル秘原図」を見て一切を学んでほしい。そこには200ペ−ジにわたり、100余のこのような驚くべき「神の秘密」の仔細が詳しく記され、絵解きの状態で連なっているのである。念のため…。<参照、「宇宙次元原理表マル秘原図」No1〜No29>、
このような不可思議な現象を編み上げ、それを一つの図に納めるのはいくら人類の自慢する大きなス−パ−コンピュ−タ−を用いても到底不可能なものであり、まさに神コンピュ−タ−の業、すなわち万知万能の「神」の手になる業としか言えないものである。それは右端のΣの答である二つ並んだ数列の出現についてもまったく同じことが言えるのであり、まさにそれは二次的な確かな証(あかし)ともなるものである。すべては「神の業」の素晴らしさを更に上書きしてもなお余りのあるものであり、如何なる難癖もつけることは出来ないものである。
「ひふみ神示」にもあるではないか、「今度の御用は苦(9)の花を咲かせることじゃ、真理に苦(9)の花咲くのであるぞ」と…。自然の持つ「本当の理」とは未だ科学では解くことは叶わないものであり、その本当の答は今のところ誰も知らない。それゆえに「真理に九の花が咲く」という言葉の意味を解することが出来ずに今でも多くの人々が頭を悩まし、尋ねあぐんでいる状態である。
しかし、悲しいかな、その答は今の人間知(科学概念)の延長上には存在せず、人々はただただ実のつかないあだ花を咲かせようと無駄な努力を重ねているだけである。
ところがである、これを宇宙普遍の知、すなわち「神の数学」を用いて解き放ってみると即座にその意味が分かり、答が出るのである。幸いなことに、そこには循環定理の(0=9)が存在しすべてをスム−スに説明し、自然の真実にすべてを繋ぎ、解き明かしてくれるのである。それに従えば、「九の花」とは「0の花」に置き換えができるのであり、0とは「無」であり、「虚」であるの事を指すものであり、自然万象はすべて0(無)の
本質により成り立って、「無」から「無」へと流れて永遠を結んでいると「数」は言っているのである。
しかも、9と0は同一体の「裏」と「表」の関係にあると語り、「裏」と「表」を循環的に結ぶ大いなる流れを遍在させて永遠を渡ろうとしているのである。それが恐らく、学者達の言う大宇宙の膨張と収縮の繰り返しであり、またブラック・ホ−ルとホワイト・ホ−ルの存在とその原理を語るものでもあろう。まさにこれは宇宙原理の世界であり、マンダラの悟りの世界そのものと言えるものである。
要するに、自然のすべては繰り返しで始まり、循環して永遠を紡いで流れ流れているのである。それは「原子の運行仕組み」から「大宇宙の運行仕組み」まで天が下のものはすべて同じ仕組みを持って流れていると言っているのである。
現代数学を学んでいる諸氏には少々理解するには難しく、ただ呆気にとられだけかも知れない。しかし、よく考えて見ると、そこには大いなる意識、すなわち直観力をフルに用いて「数」のあり方を十分に観察するとはっきり成る程と頷けるものが見えてくるのである。
要するに、虚心坦懐に「数」を見て、その囁きを無心の状態で聞くことによりすべては序々に明らかになっていくのである。
恐らく、上の数図を単に一瞥して、深く考えるに至らなかった方々から、この数図の最上部と最下部がつながっている証拠は一体何処にあるとお叱りを受けるかも知れない、しかし、ここでしっかりと数の流れを見つめてもらいたい、そうすれば納得するはずであり、十分に合点が行くはずである。すなわち、それには右端の数を読み込んでいくとすべては解ってくるはずである。
要するに、そこにある最下端の数は54であり、最上端の数は45である、その二つは9差を持って隣り合っている数であり、当然この上下は結び合って……72、63、54、45、36、27……と続いているものである。 すなわち、そこには「9差をもつ「神の数列」が出現しているのである。それは巧みな形でつながっていることを示しながら同時にその真実の姿を高らかに歌い上げて納まっているのでもある。その姿はまさに自然の流れであり、当然、そこにはメビュ−スの輪的な完結した流れが示されているのであり、それにより自然は循環構造で成り立っていることが解るのである。まさに自然は美しい形を持っていると言うことが解るものである。
ここにあるのはすべては矛盾の無い自然の流れとその形であり、ただ滔々と流れて止まない永遠のものである。
それでも頑是無い御仁がいるならば、更なる三次的な証を見い出すがよい、それには最右にある二桁の数の一桁目の数を拾って見る、それは焦点から上に流れて1234とあり、続いて下から5678…と現れて一連の完結した自然数の輪を作っていることに気がつくであろう。続いて二桁目の数を拾うと、それは逆に中心から下に流れて1234となり、次は上から現れて5678…となり、またもや、共につながりを示す01213456789の正自然数が完結した姿で出現しているのである。それも「陰」と「陽」と言う相反した形、すなわち、双逆な姿で現れているのである。やはり、すべては上下を結んで連続体となる三次的な証明と言うものがここに姿を見せているのである。
まさに自然はどこまで行っても無矛盾であり、しかも全体な調和を見せながら淡々と流れていると言うことが解るであろう。
改めて言いたい、最後にあるΣの答の数の一桁目の数と二桁目の数は互いに対逆的な形で流れ上げて「陰」と「陽」の形をつくっていることが解るであろう。まさにこの数の現れこそは「陰」と「陽」の構える型通りの逆陣の相であり、古来からの言い伝え通りのものである。 試みてそれを納得するがいい、これらの相対する数を加算合一すればすべては0となり、本質が「無」になって自然に還るものであることを…。それはまさに自然の根本原理である対立する二元の世界の姿を遺憾なく表し、その仔細を教えてくれるものである。
分かり易く言えば、それはまさに自然流の驚くべき方法で「自然の真実の仕組み」を表し、すべての自然とは「陰」と「陽」の相対的な大仕組みにより成り立ちながら永遠に向かって流れていることを物語っている図である。まさに、「知るべし」、「知るべし」の世界であり、「知ること」によりすべては新たな展開を迎えることになるのである。
要するに、このメビュース的な数図こそが宇宙次元の全体像を直観的に捉え、その真実仕組みを簡略的に説明しているものであり、またとない「天与の図」と言ってもいいものであろう。まさに日本の古代文献の言う「神宝(かんだから)」であり、人類の「秘宝」と言うべきものである。
多分、偶然にかこつけて笑い去るものも大勢いるではあろう、しかし、偶然に見える自然の姿とはすべて因果がからまって起きているもの、すなわち、必然というシンクロ二シテイ現象のなす業である。 いわば、この姿は自然の真実の素直な発露と言ってもいいものであり、「神」の手がつくりだした永遠の数の図と言うべきものであろう。
学者達はこれらを偶然の出来事とただ傍観していた故にそこにある多くの自然の真実を今まで見逃してきたのである。要するに、「神はサイコロを振らない」と言ったアインシタインの言葉はまさに正しかったと言うことである。
ここで一つ、現代の時空論を論じている物理書あたりを開いて見よう、大体、そこには二つの三角錐が頂点を境に上下にして連なっている図が見受けられる。その一つが実世界の姿で有り、その反対側に位置するものが虚の世界であると説明がなされ、その一つの世界は右回りの回転であるなら、もう一方の世界はその反対方向の左回りの回転になり、それによりバランスが保たれていると記されている。また、その二つの世界の境である頂点部を特異点と呼び、捩じれ点を境としてとして虚と実と言う相反した象が発生しているものであると述べられてもいる。またそれは宇宙物理学者のホ−キング博士の説く「実の世界」と「虚の世界」では時間の流れが逆である」とも合い通じるものである。なぜならば、最近では時間もエネルギー形態の一種であると言われはじめているからである。すると「この世」と「あの世」とは時間の流れが逆転している世界であり、それゆえにお互いの存在が見えない、感じられないと言うことになるのであろうか…。
奇妙なことに、この上に示した「ひふみ九九算相対半図」と「現代宇宙物理理論」はまさに同一の姿を弾き出し、まさに理論は真実そのものであることを物語っているものである。要するに一般的な科学的な概念としては存在していたが、今まではその証しとなるものが一切無かったので、学者達は数多い偏見的な学説の一つであると見做していたものであるが、やっとここに来て自然の語る真実の証しと完全一致を見せて、万人がよしと頷けるものとなったのである。まずは弥栄と言うべきであろう。
しかし私とてこれだけをもって自然真実の完全な証明であると大見得を切るつもりはない、そのうちに更に同じような構図を数に説かせ、それにより諸氏の持つ疑惑の目を閉じさせて、歓喜に包まれて陶然とした気持ちにさせたい、それが今の私の願いである。
今回の数の語りと似たような面白い話題がかっての新聞紙上を賑わせたことがあるので、一つそれを紹介して一服の清涼剤としたい。恐らく、この話は諸氏もご存知のはずではあろう…。
Break time(一休み…お茶でも飲みながら!)
別にこれは与太話などではなく、れっきとした新聞記事である、それは信じられないことではあるが、我々の太陽の真裏側には地球とまったく同じ双子星が存在していると報じているものである。恐らく諸氏も耳にしたことがあると思うが、古くからその存在は予言されて「クラリオン」と呼ばれていたのであるが、最近、アメリカの航空宇宙局(NASA)がその星を「ヤハゥエ」と命名したことが明らかになったと報じている。「ヤハゥエ」とは旧約聖書に出てくる神の名前であり、唯一の絶対神と言われているものである。今までに何故この「クラリオン」が観測されなかったのかその理由であるが、それは「クラリオン」が公転している位置が地球の公転軌道の丁度反対側にあるからである。要するに、「クラリオン」は地球と大きさ、重量、公転軌道等がまったく同じであり、常に太陽の陰に完全に隠れて地球上からは見ることはできないと言われてきたものである。最近になって時折、太陽の重力が大幅に屈折した時そのひずみの中に表面反射、表面光輝の状態で光って見える時がある、それを見い出したNASAが吃驚して計算したところその存在が確認され、改めて「ヤハゥエ」と名付けたと報じている。しかし、残念なことに、実際に存在していてもその本当の姿を我々は見ることは決してないのである。
なぜならば、そこにあるものは実存はするが「見えない陰の存在」だからである。それを語っているのが上述の「ひふみ九九算相対半図」の数の語る自然の真実の姿である。恐らく、そこに存在しているものは「見えぬ」、「感じぬ」、「掴むこと」の出来ないが現実に存在する「見えない世界」であり、「反転対称世界」の存在なのである。ただ時々、重力のひずみ、あるいは時空の湾曲作用により「見えない反世界」を形作っているバリャ−的な境界面に反射光が走り、それがたまたま観察されたということであろう。まあ、この事実がNASAの発表通りに現実的な姿をもっているかどうかは、人類がもっと宇宙の外、太陽系の遥か彼方に出て遠くから観測すれば簡単に分かることであろう。まあ、ストリーとしては面白いものと言えよう。
自然界にはまだまだ人間の知らない実相が山ほどある、ましてや、想像も及ばない「反転対称世界」の持つ不可思議な姿については今の人知の段階では語ることさえまったく出来ないものである。ここに来てやっと自然の知の真実を知るための手がかりを見つけたと言う段階なのであり、これからは段々とその輪が広がって確たる自然知の解明に至っていくであろう。
ただ、あなたがどうしてもその存在を知りたい、そこにある自然のルールを見出したいと思うならば、それは「数」に訊ね、その一切を聞きだす以外には方法はないと考えるべきである。なぜならば、「数」は一切の自然の仕組みを知り、常に公開し真実を知らせようとしているのであるが、ただ今までに誰もそれを尋ね、学ぼうとはしなかっただけである。要するに、現代人は「数」のもつ叡智の一片さえもを嗅ぎ取ることが出来ず、ただただ打ち捨てて省みることもなかったのである。これはまさに現代史上最大のトラジデイ−であり、大きな時間のロスであると言っていいものであろう。まさに千慮の一失とも言うべきものであり、どうあがいても今更取り返しのつかないものである。
もし、これらの言葉に強く共感を感じて止まないと言う奇特な心の持ち主がいるならば、是非この数表、すなわち、古神道から現れた「ひふみ九九算」を徹底的に調査し、すべてを学んでもらいたい、その後に改めてその「学んだ知」を用いて無限無数に広がる「神の法陣」と名付けられた「神の秘密の表」を片っ端から攻略することである。そうすることによりその全体にはまったく同じ仕組み、まったく同じ法則が存在し、繰り返されながら次の「大きな法陣」に至っていることを見い出すことが出来るはずである。まさにそこに流れて、すべてを貫いているのは未だ現代人の知らない永遠の「神の法則であり、不滅の法則なのである。それを見っけ出したあなたはそこで、すべての大いなる業は「神」の手になるものであることを知り、心が躍り「神の知」の確かな存在を改めて知ることになるのである。 …<詳細は「宇宙次元原理表マル秘原図」を参照のこと>
なぜこのような簡単な仕組みで宇宙自然は成り立ち、機能しているのか、今まで学者達が小難しい理論と、意味不明の果てない計算式を繰り出して宇宙次元の姿を解明しょうと長年努力してきたが、すべては水泡に帰している理由がはっきりと解ってくるのである。正直に言えば、私もその完全なる答はまだ持ってはいない、まだそこまでは至っていない未熟な状態であり、いまだ修行中の身の上と言う未だ若冠75歳のひねた若僧であり、いまだ得道中のいたけない姿をさらけだしている恥ずかしい身上である。余命には限りがあるものであり、脳の働きもそれ以上に短いではあろう。まさに、すべては尽き果て無に還るのはこの世の必定の理であり、天の法と心得ている心境である。
是非、これからは若い人に「数の語り」の行く末を託し、新しい真実の発見にとその解明に務めていただくことをここにお願いしたい。それまでは労を惜します、余命のある限り「本当の真実」をあらん限りの力で書き続け、万難を排しても諸氏に伝えていくつもりである。
● <天を自分にするにはム(無)にすることぞ。0に化すことぞ。霊界と現界を組みて新しき限界とすることじゃ。>
● <あの世とこの世を合わせて真実の世になるのぞ。あの世ばかりでは、片輪、この世ばかりでも片輪、マコト成就せんぞ。あの世とこの世は合わせ鏡…、この道 理よくわきまえよ。>
● <一枚の紙にも裏表があるぞ、そなたはいつも裏ばかり見ているから、そんなことになるのじゃ。>
● <よいものをつくるには大きな手数がかかるのじゃ、ふところ手でいては出来ん、手出せ、足出せよ。>
● <神から見た世界の民と人の見た世界の人とは、さっぱりアベコベであるから間違わんようにしてくれよ。秘密の仕組みとは123の仕組みぞ。早く123唱えてくれよ、123唱えると岩戸開くぞ>
● <このたびの岩戸は立体の門に入る門ぞ。> …… 以上 「ひふみ神示」より
「神の数学」5月の記《祝詞《ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌”(4)》
2011年5月謹んで上載
さあ、今回も現代人の誰も知らない「数の囁く不思議な謳 (うた) い」に耳を傾けてその意味する内容をしっかりと聞き取ってもらいたい。別に難しいものではない、あなた方が常識とする現代知と言う色眼鏡を外してまっさらな目を見開いて懸命に求めさえすれば誰にでも解るものである…。大体、人間の常識と言うものは時代と共に変わるものであり、不変であるなどと考えるほうがおかしいのである。
例えば、「神」、そんなものは無いと考えるのは今の時代の人々常識である、しかし、今から百年前の日本人には神は不可欠なものと考えて、神を崇め、神の下で生活することが常識であったのである。いや、あなた方は信じないであろうが、今でも西洋世界の人々の80%以上は神の存在を信じているのであり、彼等に言わせると神の存在を信じてはいない日本人の存在はまことに不遜であり、信じられないものであると言っているのである。 また現在、先端的な物理学者達や、自然心理学者達は「神」の存在なしでは自然界の律理を完全に説明するのは不可能であると断じているのもこれまた事実である。
要するに、この3百年にわたって科学界を抑えてきた「神は存在しない」と言う論理の上に立った「神無し科学」は自然の真実にそぐわない一過性のものであり、もはやすでに破綻しかかっているものである。もう一度、根本から再考すべき時がきていると考えなければならない時が来ているのである。 なぜならば、自然界の持つ驚異的とも言える精巧な仕組みや、はっきりした始末を繋ぐ因果が存在する事実とは、「神」の思いやデザイン、更にはその心が手がける細やかな仕上げの施しが無いかぎり決して説明がつかないのである。 すなわち、自然の世界の神妙さは、その超高度な「万般にわたる神の心」と超繊細な「すべてを見通す神の目」、そして「自在万能なる神の創造力」が揃わない限り、絶対に発現不能なものであるからである。
それが、やっと今、科学が進むところまで進んで物理的な究極性を量子論的に見ることにより初めてすべてが分かってきたと言うことである。要するに、「神」の存在なくしては何事も発現することは無いと言うことである。
すべてのもの、すなわち宇宙自然の森羅万象の流れは「神」の心の中に浮かぶ幻想事(イリュ−ウジョン)であり、我々の一生は「神」の想念と共に走る一瞬の刹那の影であり、はかない一時的な実体に過ぎないものと言えよう。
我々は実体を持っていると感じ、そう思っているが、ひょっとするとそれ自体も神のつくった幻影の業であると言ってもいいものかもしれない。なぜならすべての万象は何も無い0(虚無)から生まれてまた0という無の世界に還っていくからである。すべては0から始まり、012345678と変遷を終えてまた再び0に戻っていく、それが自然のあるべき本当の姿であると「数」は叫んでいるのである。
その間にある123…と変遷する実数こそが刻々過ぎ去って行く我々の一生のはかない変化の姿であり、また、変転輪廻を繰り返しにより無限の時間を紡いでいる宇宙の実相の姿でもあると言っているのである。 当然ながら、そこにある0と0の間にあるすべての実数も0の影を背負いながら移遷しているものである。要するに、すべてはバ−チャルな世界のバ−チャル的な展開をもって変化循環しているだけなのである。すべては「神」の心の中で起きている実体の無い無為の流れの一節であり、レトリックな儚(はかな)い幻に過ぎないものと言えるのである。まさに変遷流転の流れの中の一つの泡であり、一瞬の陽炎(かげろう)なのである。
何をくよくょと煩(わずら)うことがあるのであろうか、懸命に想いを心に描いて神の心に素直に乗ればいいのである。そうすることによりすべての想念は成就するのであり、万感の思いは果ててすべては繋がっていくのである。
あなた方は言うであろう、「神」の心に乗ることが難しいと…、しかし、それは容易(たやす)いものであり、誰にでも出来るものであることを知ってほしい。それはまず神の存在を信じることから始めなければならない。その上で自然のすべてに親しみを持って接し、自然のまま、心のまままに振る舞い、決してしこりを残さないことである。要するに悲しければ泣き、嬉しければ微笑み、楽しければ笑う、と心のままに感動を素直に表せばいいのである。ただただそれを続けるだけ、それでよいのである。 <「神の数学」講座…巻末の記より>
さてさて、余分な件(くだり)につながってしまった、急いで次の説明に移ることにしょう。そこには決してボタンの掛け違いなどは無く、すべては同じ筋の流れの中にあって展開しているのであり、いささかの不整合、不全などは一切無いものである。
まず今度は「ひふみ九九算表」の全体を見てほしい、まずはそれを玉葱の皮を剥くように各枠を次々と外していくことから始まるのである。ここに図形を描いて説明するのが本来の筋なのであるが、残念ながらここに絵を描くにはあまるにも腕前不足であり、これ以上は口頭の説明になることをまずはお詫びしておきたい。その後はあなたの知の赴くまま宜しく自在に直観と洞察力を揮ってその計算と実証にいそしみそこにある真実を明らかにしてもらいたい。なるべくは現代常識に捉われることなく素直に「ひふみ九九算表」見ることであり、自然の心ですべてを考えることである。(出来るかな…???!!。)
そこにはあなた方の誇る現代知の出番はまったく無いと言っていい、だから一般科学常識や現代的な数の概念などはただ邪魔になるだけなのである…!?。たとえ、それらを用いて解こうとしてもただただ複雑とカオスの闇に呑み込まれるだけである。疑うなら試してみるがよい、結果はすぐ分かるはずである。
〔1〕『陽』の証(「ひふみ九九算」の全体図を解剖し、そこにある真実理を《数》で解析する)
先月期、すなわち、「3月の記」、「4月の記」では説明を簡略するために「ひふみ九九算表」を二つの対角線で4等分して内容検証したのであるが、今回は更に歩を進めて「ひふみ九九算」全体図についての分析考証に入って見ることにしたい。これも未だ現代人は手にし得なかった宇宙普遍の哲理数学の一つなので、一つ一つを十分に噛みしめて丹念に学んでそこにある自然の持つ「数の流儀」を捉えてもらいたい。
図挿入2013年7月
最初に、「ひふみ九九算表」から取り出した相似形(フラクタル)的な枠内のすべての数を加算(Σ)してその関連性を見てほしい。果たしてこの簡単な加算(Σ)があなた方には出来るかな…???。さあ、考えていただこう、この簡単な計算が「神の計算法」の基本である。
<その計算法は「ひふみ神示」にそのままあることを知ってほしい、まずはそれを調べることから始めるがよい。>
@ 最外枠(0000…)の数の全数加算は … Σ=180である。<すなわち、(0×20)+(9×20)=180>
A 次は外側から2番目の枠の数の合計は… Σ=144である。
B 外側から3番目、 … … … … Σ=108
C 外側から4番目 … … … … Σ=72
D 外側から5番目 … … … … Σ=36
E 外側から6番目 … … … … Σ=0(中心)
ただし、数の計算法は「天津金木の法」を用いること
<これらのj計算は現代数学知をいくら振りかざしても答は出てはこない、自然の性質を知り、素直な心で解かない限り、無明の闇に迷 い込むだけである。その解き方は不思議なことに「ひふみ神示」には記されている、それを見い出して学ぶがよい。>
すなわち、その数の並びは次の通りである。 0,36,72、108、144、180、となるのであり、すべては9の倍数体であり、一桁化して9になり、0に還る数の姿である。これら枠内の数の数え方は現代常識とは異なることに注意、「現代数学」の計算はフラット(平面的)であるのに対して、「神の数学」はノン・フラット、すなわち平面立体的である。
【詳細は「超物理の世界」講座bW、及び「真理講座bP、「宇宙次元原理マル秘原図10」にあり】
<9とは外面的な表れ(形、姿)であり、0は内面的な表れ(本質)を示すものである。>
さて、これらの合計数の比を見てみよう。
そこには、0:36:72:108:144:180=0:1:2:3:4:5 となる見事な正自然数が現れて何かを囁いていることが解るであろうか…、それは何と言う美しく見事な結末を見せているのであろうか…!?。確か、前々回の「3月の歌」の中でも同じような計算次第が現れて円満完了の運びとなっていたことを思い出してほしい、もう一度振り返ってそのあたりを何回でも検証して心が納得するまで検算することである。時間なんていくらかかってもいいではないか、あなたの一生を賭けた大仕事、すなわち、あなたの心の180度の転換が始まろうとしているのであるから…。
方や(前回、3月の記)は三角陣であり、これは方陣(四角)という完全異体の姿であるが、数の証言はまったく同じ内容を述べているのであり、、まったく同じ答えを持っているものである。そのさまはまさに不思議の極み、意識外の知の極みと言うべきものである。何も難しいものではない、要点さえ掴めば小、中学生にでも十分に計算できるものである。
それでも偶然とのたまい、承服できない方は前回(3月の記)と同様な方法を用いて、この「ひふみ九九算表」の外側のそれぞれの場に神々を置いてそのΣ計算を続けて見るがよい、するとそのΣ数は伸びて216、252、288、324、となり、すべては整然とつながりを見せて外側には「神の世界(意識世界)」が確実な存在として鎮座していることを数が教えてくれるのである。なぜならその全体のΣの並びは0,36,72、108、144、180、216、252、288、324、となり、その全体比は0:1:2:3:4:5:6:7:8:9となる見事な自然数が現れて止めを刺し、すべてが完を告げて納まっているからである。まずは「数の証言(1)の4月の記」を参考に0000…の神の数列にあるべき数を定則通りに入れて検算し、そのあるべき姿を十分に納得するがよい。(青字は「この世界」、赤字は「神の世界」の数である)
また、面白いことにここに現れている二桁の数は一桁化すればすべては9であり、0になる「神の数」である。このような歴然とした正自然数、すなわち、「ひふみ…数列」の姿はたまたまとか偶然などでは決して現れることはなく、そこには完全な宇宙普遍な真実が存在してやまないことを「数」がいみじくも証言しているものである。 【詳細は「宇宙次元マル秘原理表」bP5、16、No17、を参照してほしい】
それはまさに古神道の言葉通りのものである、ここにある「ひふみ九九算表」の最外側にある0000…の大いなる群れの姿、すなわち前に述べたようにこの一霊(直霊)は見事に外界の天の神々に繋がっていることをはっきりと証明しているのである。ここにある数の計算の答そのものはまさに「数」が語る紛れも無い真実の表れであり、顕在的自然の本当の姿である。
若し、あなたがこの顕在自然の姿の外側にある神々の存在についてもっとしっかり確かめたいと思うならば、このあとゆっくりと自分の手と洞察力を用いて十二分に考察し、その真実を確かめることが望ましい。、その上でもう一度、あなたの心に沿うまでじっくりと考えて納得することである。そうすることにより、あなたの心にわだかまっていた悩み、あなたの体を蝕んでいた心の病などは雲散霧消するはずである。
意識とは心であり、見えない大いなる力である、それをどう活用するかにより、生き方が決まってくるのであり、人生の満足度が決まると言っても決して過言ではない。まずは、心の方向を定めるべきであろう。果たして、あなたは「神無し」か、それとも「神あり」なのか…?!。
私の講じている『意識数学』とは見えないものを探る「数の業」であり、「心の業」と言うことである。 すべては意識の力を借りて数を追い、その数の導くままに見えない大いなる過去の歴史や、失われた過去のたぐいない自然真実を掘り起こそうとするものである。
そう言えば、最近の量子物理学にも同じような流れを持つ特別な手法があり、それを用いて見えない世界の姿を探索し始めていることをご存知であろうか…?。 それは同じように数の力を借りて見えない世界を探索し、大変な力を発揮しているものである。
それは数行列の一部が分かっていれば、そのなめらかな振る舞いを辿っていくことによりその先にあるもの(見えないもの)を知ることができるという手法である。要するに、きわめて強力な内部関連性を用いてその先にあるものを見い出すという確かな推察法であり、大変便利な手法と言われているものである。この手法を物理学者たちは『S行列式』、あるいは「マトリックス行列式」と呼んで現在、素粒子などの「見えない世界」の探索に用いて大変効力を発揮し、遺憾なく見えない世界」探索しているのである。
【詳細は「宇宙次元原理表マル秘原図」12、16参照のこと】
また、「神の数学」における本来の自然的証明とは「天」と「地」の相対的な値は相等しい、故に相対する二つの象の答が完全に一致を見ることにより初めて「正しい答」の証明となるのである。要するに「相対的なダブル証明」が存在して初めて完全証明となり、一つの普遍的な真実論理がはじめて誕生すると言うことである。その相対する二つのものとは「陰」と「陽」の性質をもつものであり、ここでは「エネルギ−(数)」と「場(セル)」がそれに相当するものである。その一方のエネルギ−、すなわち「数」による証明は上述の通りであり、もう一つの「場」による証明の答がこれとピタリと一致すればそれはまさに完全証明となってすべてが完了し、もってすべては終了するのである。
さあ、更なる「神の数学」の真髄を極めたいと思う方々にはもう一つ宇宙普遍の極り業を秘かに伝授しよう、これは現代知をもっては如何ともし難く、到底信じられないような神の業と言えるものである。なぜなら、現代知は単なる表面の知であり、宇宙普遍の存在である深層の知(本質)にはまだまだ及びのつかないものだからである。
〔2〕『陰』の証(「ひふみ九九算」の全体図を解剖し、そこにある真実理を《セル(場)》で解析する)
<やはり、計算法は「天津金木の法」を用いる>
@ 最外側の枠の場(0000…)、すなわちそのセルのΣ(合計)は……40である。
A 外から2番目の枠のセルの合計、すなわちΣ=32である。
B 〃 3番目の枠のセルは …… Σ=24である。
C 〃 4番目の枠のセルは …… Σ=16である。
D 〃 5番目の枠のセルは …… Σ=8である。
E 〃 6番目の枠(中心)のセルは …… Σ=0である。
<さあ、〔1〕と〔2〕の計算答をもとにこれらの計算法を探るがよい、これを知らない限り自然は決して心を明かしてはくれない。どうしても計算手法が解からない場合は、「ひふみ神示」に頼るがいい、そこには一切の計算のあり方がそのまま記されている。しかし、それでは余りにも惨めである、少しは己の力を信じて努力するがよい。>
すなわち、全体の表れは、0 8 16 24 32 40となり、その比は 0:1:2:3;4;5となるのである。そこには信じられないような美しい秩序を持つ自然数の流れがまたもや現れて我々を魅了して止まないのである。 現代時空物理学ではエネルギ−と空間の関係が論議されているようであるが、ここにおける「数」とはエネルギ−であり、「場」とは空間を指すものである。その両者はこのように合い通じる関係にあって存在していることがわかるであろう。しかし、残念ながら、現代物理はまだそこまでは掴んではいない。
【詳細は「超物理の世界」講座bWを参照】
すなわち〔1〕と〔2〕はまったく同じ答が現れてすべては正しいものであるとの証明がなされている、いわゆる完全証明である。
また、面白いことに、これらの数を一桁化する(本質を見る)とそこには087654となる数が現れて何かを囁いているのである。要するに、それは形が大きくなると本質(エネルギ−)は小さくなっていくと言う不可思議な現象の存在を語っているものである。そのあたりを現代物理はどのように考えているのか、少々見てみよう。現在の物理定則では大きい粒子(物体)は小さい粒子(物体)よりも持っているエネルギ−は大きいと言う見解になっている。確か常識的に考えてもそのように思うのは当然であろう。しかし、そこにこそ間違いの根本があるのである。それを証拠だてるには素粒子の質量を見れば分かることである。まずは素粒子の大きい順から並べてその質量を見てみることにしょう。原子(13,6eV)、電子(51万eV)、陽子(9,38億eV)、トップク−オク(175億eV)となる ( eV=, electronvolt)。 お解りであろうか、何と小さい素粒子のほうがはるかにエネルギ−は大きいのであり、運動も活発なのである。要するに、大きい物体とは原子や原子の集積数が多いのでお互いに運動を打ち消し合ってエネルギ−をロスし合っている状態であり、全体的には動きが鈍くなっていると言うことである。例えば、2人3脚競争を考えて見るがよい、大勢が固まって走るのと一人で走るのとでは、どちらが早いのであろうか…。
そのあたりは漫画の世界のほうが的を射ているかも知れない。なぜなら、原子爆弾は一つの国を破壊してしまうが、それよりも小さい陽子爆弾のほうが遥か破壊力は大きくて太陽系さえもを破壊してしまうものとSF漫画には描かれているからである。
信じられる方にのみ更なる事実を告げよう、この場合も〔1〕と同様に全体図の外側に「あるべき神々」を置いてみるのである。するとそこにある神々の各場のセルの数は48、56、64、72(0)となって初源の戻る姿があるのである。その全体的な数列は、0 8 16 24 32 40 48 56 64 72となって、その比は0:1:2:3:4:5:6:7:8;9(0)となることは容易に解るのである。
その姿はまさに〔1〕『陰の証』とまったく同じものである。 今度は次にこれらの数を一桁化するのである、すると何と言うこと…、そこには反対に流れる正自然数列、すなわち、0,8,7,6,5,4,3,2,1,0の数が現れていることが分かるであろう。まさに、「表の数」に対する「裏(本質)の数」の現われである。
そのあたりは「ひふみ神示」にもあるではないか…!!。 「『フトマニ』とは大宇宙の法則であり、秩序であるぞ。神示では012345678910と示し、その裏には109876543210があるぞ」と…。この『フトマニ』とは察するところ「宇宙次元原理表」、すなわち、「ひふみ九九算」の古代の名前なのであろう。ここに来てすべての展開はますます面白い一致を見せながら完結へと駒を進めていることがよく分かるであろう。ちなみに 「宇宙次元原理表」、や、「ひふみ九九算」とは不肖、私が勝手に名付けたものである。古代において「フトマニ」と言う歴史的な名前を持っていたことを知らずに現代的な名前をつけていたと言う次第である。今思えば甚だ畏れ多い限りである。要するに、『フトマニ』=「宇宙次元原理表」(ひふみ九九算)となるのである。
このようにして「見える世界」と「見えない世界」は完全につながってゆるぎない構造体を創り上げている姿が浮かび上がってくるのである。まさにこれがあるべき本来の自然の姿であり、永遠を紡ぎ上げている揺るぎない姿なのである。【これらの詳細は「宇宙次元原理表」NO17参照のこと】
<ここにある計算はすべて平面立体法である。それはすなわち天と地は別個の存在として考えるものであり、いまでは完全に失われてしまった超古代算法の「天津金木の法」でもある。また、その方法や手順は「ひふみ神示」の中では数をもってしっかり示されているものである、それを探すがよい。>
残念ながら、現代人間知は余りにも「数」を軽んじてきたのである。いや、中には「数」の持つ重大な秘密について気がついていた学者もいたのであるが、如何にせん多勢に押されて中途半端な形で終わってしまい、有終の美を飾ることが叶わなかったのである。
その人はフランスの自然心理学者であったC・G・ユングその人である。しばし、彼の言葉とその真実を噛みしめてもらいたい。
●「数は発明されたのではなく、発見されたものである。それは宇宙自然と固有的なリンクを持つものである…」。
●「数は元型に類比出来るような相対的な自律性を持ち、元型と共通して意識に先行して存在するものである…」。
●「数は既に存在しているが、まだ知られていない整然とした配置、または規則性を把握するために予定されていた道具である」。
……「自然現象と心の構造」C・G・ユング&W・パウリ著より
さあ、この言葉の意味をしっかり考えてもらいたい、すべては現代知の向こうにある自然の超知の存在を語っているものである。
「神の数学」、それは奇しき真実の音色と妙なるリズムの両方を奏でながら宇宙の果て々まで響き渡り、森羅万象の交々にまで調和共鳴して止まないものである。まさにそれらは「神の調べ」と言ってもいいものであり、宇宙を創った大いなる存在の持つ最高の結晶知とも言うべきものである。この事実を今まで誰が知っていたであろうか、誰か探し求めようとした者はいたであろうか、NO.今までほんの一握りの学者を除いて、その兆し等を感じた者は微塵も無く、噂にも無かったと言ってもいいものである。そのあるべき真実の存在を知らずして、ただただ人間知を次から次と重ねて積み上げるだけ、それをして進歩発展と称し、自然万物の覇者気取りでいたのが現代西洋科学である。何とその姿はまことに滑稽極まりの無い茶番であり、噴飯ものであったと言うことが今になってつくづく分かって来るのである。すべては「数」が教えてくれるのである…!!。
また、その現代西洋科学知の増長慢心が余りにもひどかった故に今まで「神」は一切人間の知が領域に踏み入ることを許さなかったのであるが、なぜかここに来てそれらの委細合切を明かし始めたのである。それは恐らく、人類が少しづつ神を認め始めたからであろう。「神(自然)」は数を通して素直に「自然の真実」を語り始めているのである。願わくば、心静にこれらの「数の語り」を改めて自分の手で何回もなぞり、心ゆくまで味わいながらその真実をしっかりと聞きだしてほしい。そこから次の更なる知を求めて新たな旅立ちが始まるのでもある。
今までの日本にも魂の開けた稀代な神学者がいたのであるが、残念ながらそれを聞いて解するような人はいなかったのである。今の若い方々は恐らくご存知あるまいが、彼の名は明治の神道の大家と称されている今泉定助氏であり、彼の著書には次のような件(くだり)があるのであるが、その真意は誰にも解明されることが無く、今では空しく言葉だけが残り解き継ぐ者を待っているだけである。
それは次のような言葉である。
「結局、天の御中主の神を分析すれば、一番外側を覆っている霊がある。その霊の中には二番目の天の御中主の神があり、そして三番めの天の御中主の神、この中には本当の実体である全一霊がある。一番奥の霊が全部を支配しているのである」……。 【今泉定助研究全書(2)の「皇道論叢」より】
如何であろうか、今までは確かに意味不明、解釈不能との烙印を押されていたが、古神道の奥義祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本体であるこの「ひふみ九九算表」を持ち出して改めて検証してみるとそこにある真実は手に取るように解ってくるのである。
すなわち、この言葉は「ひふみ九九算表」の構図とまさに一致するものであり、更には神道の一霊四魂の言葉を更に現代的に説明しているものである。是非そのあたりをあなた方の手で検証し、日本古来のゆかしき神道言葉、いまでは完全に意味不明、解釈不明であったこの神道家の言葉の真実を天下に明らかにしてほしい。
**参考資料…下記は《数学幻視考》「古神道」(8)より引載したものである。(但し、これは「この世(物質界)」の波動である)
<すべては「ひふみ九九算表」の数列であり、そのままのものである>
…一霊「直霊(なおひ)」 … … 0000000000 … その差は0であり、バイブレーション は0(絶対振動は透密)
…四魂…「奇魂(くしみたま)」……0123456780 … その差は1であり、バイブレーション は1(絶対振動は精密)
…「幸魂(さちみたま)」……0246813570 … その差は2であり、バイブレーション は2(絶対振動は密々)
…「和魂(にぎみたま)」……0360360360 … その差は3であり、バイブレーション は3(絶対振動は顕密)
…「荒魂(あらみたま)」……0483726150 … その差は4であり、バイブレーション は4(絶対振動は租密)
【これはまた言葉こそ異なるが「ホツマツタエ」にある文言と完全に一致しているものであり、すべての鍵は数が持っているのである。その詳細は「真理講座bU」を参照のこと。まさに恐るべきものは日本超古代の文献である】
これらの数の語る内容はもはや数学ではなくフィジック、いやメタフィジックの分野に属するものであり、同時に大いなる自然哲学的な筋合いと内容を持つものでもある。また、これらすべては「神の言葉」である自然数が語る宇宙普遍の真実知であり、数と意識が開示する未だ科学が足を踏み入れたことの無い「自然時空の秘密物語」でもある。故に、そのあたりのことについては現代科学知などでは到底理解不能であり、従って反証なども一切出来ないものなのである。しかもその事実は大いなる過去の古神道や古代文献などから今になって現れはじめていると言うのである。何と言うことであろうか…??!。
さあ、あなたはこれらの事実をどのように見るのであろうか…、今までの学者達のように「そん馬鹿なことはあり得ぬ」とばかり無視を決め込むか、それとも直観に従って調査検証に走るのか、果たしてあなたはどちらを選ぶのであろうか…!!?。
現代物理学は言う、すべて「この世」の現象とは波動の濃淡、粗密の如何により成り立っている波動の世界であると…。要するに、宇宙の万象とは波動エネルギーが創り上げている現象の現れであると言っているのである。現に、アインシタイン言っているではないか、「エネルギーと物質は全く同じものであり、エネルギ−が集中して密度が高くなったのが物質である」と…。そのような訳でエネルギ−や波動、あるいは粒子的な物理学を量子物理学と呼んでいるのである。
量子物理学…?、どうしてそんな推量不明な名前をつけたのであろう、我々一般人にはまったく意味が分からないものである。昔から、日本の学者達は難しい言葉、一般人には理解不能な偉そうな言葉を用いて自分達の専門域に専門外の人が立ち入ることを禁じているような感じがするが、もういい加減にしてくれと言いたい。この場合でも量子なんて言う耳慣れない言葉を使わずに、「波動物理」、あるいは「波動力学」、あるいは「エネルギ−波動学」などの言葉を用いれば大体の内容様子は分ろうと言うものであろうに…。
古神道、……それはまさに大いなる過去からの「タイム・カプセル」であり、「知のメッセンジャ−(使い人)」である。それは遥か三千年の歴史の橋を渡って現在に甦ろうとしているのである。何ゆえなのであろうか、それは誰にも分からない、ただ言えるのは今何かが起こり、現在の西洋科学文明を否定し新しい自然知の存在、すなわち、美しい調和律の下にある自然万物の本理を見い出すことが必要になってきていると言うことである。 その事実を「神の数学」は示し、それにより今までには無かった新しい「知の領域」を見い出し、それを用いて更に高い知のレベルとフィ−ドバック・ル−プに繋いで永遠の真理の存在を知るべしとの神の諭しなのであるかも知れない。
●<九九には九九の立場があるぞ、よく心得なされよ、世の中には順序あるぞ、それがカズタマ、動くと音がでるぞよ、それが言霊>
●<ひふみの火水(秘密)とは結ぞ、中心の神、表面に世に満つことぞ、ひらき睦び、中心に火集ひ、開く水。神の名二つ、カミと神世に出づ……中心にまつろい展(ひら)き結ぶぞ。>
●<祝詞の心、はじめのひらき字に現れるぞ、真心響くまことぞ、言ざぞ、細工隆々読みの極み立つ世ぞ>……(祝詞の本当の姿は最初のひふみ言葉にある、それは真理言葉である、それは上手に言葉が組み立てられていて、まさに自然の本当の姿を表すものである)
●<なぜ知らさぬのぞと申すが、今まで何馬鹿なことと申してとりあげぬこと分かっているぞ、因縁の身魂(純縄文人の血筋)にはよくわかるぞ。
●<この世三角にしょうと4角にしようと元のこの方等の心のままぞ、よく裏の裏まで読んで腹に入れて…、人は沢山無くてもこの仕組みは成就するのざ…。
●<九才(9)は神界の元の年ぞ、神始めの年と申せよ、123,345、567ぞ>…(9は宇宙普遍の共鳴基本数である、ここにある123,345,567、こそが平面立体の数の数え方であり、古代秘法の天津金木の法である。)……「ひふみ神示」より
「神の数学」6月の記《祝詞「ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌”(5)》
2011年6月謹んで上載
まずは、諸氏が最も疑問に思い、なかなか理解の出来ない<0=9>の確かな証明を次の問題等を検証することによりしっかり頭の中に叩き込んでもらいたい。 現代の学者達は皆この<0=9>、すなわち、<最小=最大>の言葉を嫌って逃げ出し、対決しょうとする者はいない、それでは余りにも学者として意気地がなさすぎ、惨め過ぎると言うべきであろう…。
逃げずに正面から向かう、それにより道は開け、解法は必ず見つかるはずである。論より証拠、「神の数学」ではみごとにこの極めつけの難論理を征服し、なおかつ、これを利用しながらフル活用して驚くべき自然の秘密を解き明かしているのである。
今ではこの<0=9>の自然式は「神の数学」の基本を占めるものであり、その枢軸となっているものである。
そこで改めてシンプルファイされた容易な概念と数図をもう一度示しながら、難攻不落とされる<0=9>の理論展開を進めて「かたくな心」を解きほぐしていこうというというのである。<0=9>、それは今までどうしても人知が超えられなかった大きなハ−ドルであり、考えの及ばなかった「神の領域の大きな秘密」である。 それを日本の古神道の知を足掛かりに解き放ち、もって現代知の陥穽をあぶりだしてその誤りを見ようというのである。
ここに一つの格好の数図、すなわち、日本人にはおなじみの祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本体部である「ひふみ九九算表」を掲げ、そこにある素晴らしい「真実の理」の存在とその真実をひも解き、改めてその意義を諸氏に問うことにしたい。
要するにあなた方の反応如何、現代西洋知の信頼度度如何を改めて確かめ、それを少しづつ是正しながら日本本来の叡智の確かな存在を認識してもらいたいと願うのである。これらを知ることにより「神の数学」の奥深い真髄と古神道の持つ本当の姿、すなわち既に失われてしまった「カムナガラの道」等の存在を改めて探り出すことが出来るのであり、更にはそこに鎮まっている大いなる「自然の真実」をしっかり見極めることも出来ようと言うものである。
また、これらの事実を少しでも検証し、その結果に満足する御仁が数多(あまた)いるならば、遠くない時期に誰かがこの「数の言葉」をもっとはっきり見定め、そのすべてを解明して人類の未来に役立ててくれる可能性が出てくるのである。そのための一つの布石と考えてもらえば結構であると考えている。その意味で出来る限り素直な心で、ここにある数の語る一連の「神の秘密物語」に耳を傾けてもらいたい。すべてはここから始まり、未来へとつながっていくのである。そして何時の日かすべてが大きく様替わりする建て替え(パラダイム・チエンジ)の発端となって更なる未来につながっていくのである。
「ひふみ九九算表」(10×10の自然法陣)の語る「宇宙普遍の数物語」
<これが祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本体である>。
0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 天 |
0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 0 | |
0 | 2 | 4 | 6 | 8 | 1 | 3 | 5 | 7 | 0 | |
0 | 3 | 6 | 0 | 3 | 6 | 0 | 3 | 6 | 0 | |
0 | 4 | 8 | 3 | 7 | 2 | 6 | 1 | 5 | 0 | |
0 | 5 | 1 | 6 | 2 | 7 | 3 | 8 | 4 | 0 | 地 |
0 | 6 | 3 | 0 | 6 | 3 | 0 | 6 | 3 | 0 | |
0 | 7 | 5 | 3 | 1 | 8 | 6 | 4 | 2 | 0 | |
0 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | 0 | |
0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
見るがいい、この図をモデル化したものが、あの『太極図(上半分は白。下半分は黒)』であり、「天地自然之図」と呼ばれるものである。
知自慢の方々よ、あなた方の知がそれほど素晴らしいものと言うならば、この「ひふみ九九算表」の中から「易」の言う、≪太極≫、≪両義≫、≪四象≫、そして≪八卦≫の完全な諸象とその意味する「陰」と「陽」の姿を見つけ出すがよい、
すべては綺麗な形、素晴らしい姿の「陰」と「陽」の並びを持った数が現れ、神技をもって本義を構えすべての象をゆくりなく描き出しながら鎮座していることが解るはずである。それを見つけ出し、寸分の狂いもなく体系化することにより、真実が姿を現す事になるのである。それによりあなたの「知の歴史」は大きく変わり、現代知に疑問を投げかけることになるはずである。
そこにある真実の姿に我々は愕然とし、読み込んでいくに従って茫然自失となってしまうことは疑いないものである。
すべてこれらの「古代の知」は神代文字の喪失と共に行方知れずとなり、歴史上から姿を消してしまったものである。
これはまことに天賦の「数図」であり、神与の「数の物語」である。恐らくは歴史上に名を成す驚くべき大発見とも言うべきものである。
その上、この発見は古代文献の真実を完全に裏書するものでもあり、まことに大いなる弥栄となって人類文明を新しい道(精神文明)に導くものである。 そのあたりのことはシッカリこの「ひふみ九九算」を読み込んでいけば自然に判ることと思う。
今までのような現代西洋知を持って「神の知」をまさぐろうとしてもすべては自然的には限界であり、もはや、手立てさえも見出すことが出来ないのである。今や、西洋科学知は自然の知に対しては完全に無力であり、その牙城を崩すことなどは夢のまた夢の状態である。
すっかり方向性さえも失い、ただただあても無くさ迷い続けている難破船のようなものである。進むべき方向を失っているのである。
要するに、自然からすっかり見放されて頼るべき羅針盤さえも無い状態なのである。 せめて自力で羅針盤となるような自然の知を見出さない限り、最早、滅亡に向かうだけであろう。
この「「神の数学」の出現は、まさに日本の奇跡であり、驚くべき超、超、超のつく「数の知」の大発見と言っても決して言い過ぎではないものである。要するに、「古来からの伝承体である古神道には人類を救う叡知が封じられている」として研鑽を重ねて来た神道の研究者達の苦労はここに来てやっと報いられたのである。それにしても、彼等先駆者たちの眼力の凄さにはただただ恐れ入るだけである。
さあ、知に自信のある方、自らの知を誇る方、持てる洞察力と直観をフルに用いて立ち向かい、その秘密を掴んで見事今の世の中に引っ張り出すがよい。ここにある「神の秘密」の一つは遥か数千年前に日本に留学していた中国の伏儀が苦労の末そのすべてを学んで故郷に帰り、「易」と名づけ名を成したものでもあり、その原理本体そのものが「ひふみ九九算表」の中には納まっているのである。
そのすべては日本初産のものであり、古代日本から世界へと広がっていったものである。その本体となるものが、すなわち、この「ひふみ九九算表」であり、古神道の奥義祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本体なのである。難しいと尻ごみすることなかれ、すべてを自然の道理に合うように素直に考えていけば、小、中学生でも解けるものである。 easy、easy…、very easy…!!。
あなた方が、低く見て止まない古代人の知と自ら誇ってやまない現代人の知のどちらが本当の自然的な真実性をもっているのか…、そして、どちらが自然的に優れている知であるのか…、果たしてどちらに軍配があがるのであろうか…!!。
これは「神のクイズ」、すなわち、人の知と神の知とのどちらが優れているかの比較であり、その真実の存在を知るためのテスト的な材料となるものである。決して人の手や人の知で作られたいい加減なものではなく、神の心が宿っている「神の図」と言うべきものである。
心して解き放ってもらいたい。果たして、その結末は如何…??!、見事「太極」、「両義」、「四象」、「八卦」の諸象が顔を覗かせ、あなたを満足させることになるのであろうか…?!。 衆知に流されず、自分の頭でしっかりと考えて貰いたい。
これは10×10の「自然法陣数表」であり、10進法でデフォルメされた「現代九九算表」を本来のあるべき自然の姿、昔の形に戻したものである。要するに、これが本当の自然の究極の顔であり、宇宙始元の素顔を表している「天地自然の図」と言うものである。
また、これは「易」で言う「太極」そのものものでもあり、完全にその内容においても一致するものである。
なぜ、どのような理由で易の「太極」とこの「ひふみ九九算表」の数図が一致するというのであろうか、その訳、仔細とは一体何なのであろうか…??。
それらについてはまた不日、稿を改め「魔方陣」に対する『神法陣』としててしっかりと述べていくつもりでいる。
……… 是非ご期待のほどを………。
そこには「神の数学」の中でも3本の指に入るほどの驚愕的な真実の存在が明細明確な理をもって語られており、まことに驚嘆すべきスト−リがゆくりなく展開されて我々を興奮の坩堝に陥れるのである。その驚くべき数の明かす真実とは…??。
そのあたりを語ることにより自然宇宙の「大いなる秘密」があからさまになり、同時にそれを見い出した日本民族の知の優秀性を改めて天下に示すことになるものである。また、その素晴らしい姿とその見事な語り口の素晴らしさ、そしてその驚くべき真実の姿には今の私でも唖然となるだけであり、ただただ言葉を失うだけである。 ≪「数学幻視考」講座<魔方陣と神の法陣>(1)(,2),(3)より≫
今回の「神の数学」の講座の趣旨は、もう一度自然数の基本に立ち返り、常々諸氏が合点のいかぬと考えている≪9=0≫の真実を改めてもう一度考証し、すべてを納得してもらうことである。それがために改めて筆を下ろし、一切をここにしたためて諸氏の判断如何を問おうとするものである。
如何にせん、≪9=0≫の理を完全に飲み込まない限り、これからの「神の数学」の語る様々な真実を理解し、その先にあり自然の真実とそこにある目を見張るような本質を探し出すことは決してが出来ないものである。要するに、今回はそのための「数の真実」を知るための一つの「数知の錬成道場」と考え、知の汗を十分に流して真実の追究にいそしんでもらいたいと思う。
今までも、名だたる面々、すなわち、明治の頃の大石凝真素美、水野万年、水谷清、最近では岡本天明、田上晃彩と言う諸賢兄達が、いわゆる「数霊学」と言う分野で新地を開いた活躍して来たのであるが、如何にせん、あくまで日本語、すなわち、言霊とのからまりの域を出ず、それ故に世界的な大成となることなどは叶わなかったのである。
出来る事ならば、世界的な視野をタ−ゲットに数学、物理、神学、等と十分に対比させながら、更に吟味の上で調査、検証を行い、広く世界に持ち出してほしかったのであるが、時代の流れがそうはさせなかった、すなわち、生まれた時代が少々早く、活躍の場を見い出すことが叶わなかったのである。
もし、彼等が100年後に生を受けていたならば、恐らくはもっと早く「日本神道」は世界を風靡していたはずである。
今回はその轍を踏まず、誰もが知っている「数」、すなわち、世界の標準言葉である「数」を引っ提げて世界に飛び出し、日本発の限りない自然知の存在を喧伝したいと思う。要するに、これら日本の知の発揚のためにも是非諸氏の一助を乞いたいと思うのである。
最早、既に心から理解し、いささかの疑念も無い方はこのまま流し読みをして改めて<0=9>の真実性に心を打たれ感動していただければ結構である。要するにこれは前回の5月の記についていささかの疑念のある方やあるいは完全な初心者という方々を対象に基本的な「神の数学」の構図とその仕組みを示したものである。また同時に既存の学から脱出を図るための自然の持つ「数の基本理念」の確かな存在を示し、その確たる証拠となる「数のあり方」と「その本質」、を改めて述べたものである。
それがすなわち、「数の元型的な基盤」、及び「その元型的な性格」等であり、現代数学に新たな一石を投じ一考を促そうとするものでもある。 出来る限り、存分に直観と洞察力を駆使して意識のいく限り、好き勝手、思う存分な考査検証を行なって見てほしい。
それでも人間の思考にはまだ限りがあり、まだまだ「神」の万知には及びもつかないのである。 いささかの疑問点、あるいは論理的に不具合な箇所を見つけて糺す、そして考えて我々の知の中に納める、その繰り返しが知を完璧に導くのであり、完全な完成に向かわせるものである。我々のようにちっぽけな人間、未完成の存在にはそれが一番いい方法であり、確かな方法と言うものである。
「神の数学」は理論理屈などは余り重視はしない、まずは自然の流れに沿って従順に考えることから始まるものである。まずは流れを見つけ、それに合う道、すなわち、それを説明できる方法や理を見つけ出すことが最も優先するものである。
その上で、問題を解決できればそれでいいのである。小難しい理論理屈などは後からつければいいのであり、誰かが知らないうちに何時の間にかやって来てうまく納まるようにしてくれるのである。まさに、不可思議千万である…!!!。
考えてみると、最近の現代科学でも自然に帰れと言われはじめ、突飛な理論、実理のない推論等は影をひそめはじめているような気がする。なぜであろうか。しかし、自然はもっと不可解であり、もっとスケ−ルの大きくて神妙な事実に溢れているのである。
また、彼等科学者達は今までの既存の科学概念の中からは最早新しい発想、発見は生まれないと考え、新しいものを求めて歴史をさかのぼり始めている。 各地の神話、伝承、古代の言葉、古代文献等の中からあるべき真実の理を探し始め、最後には東洋の宗教や東洋の神秘学に辿りついたのである。彼等はそこに西洋物理学にきわめて近い類似性と進むべき方向を見い出して驚きの声を上げて懸命に学んでいる現在である。それが「易」、「禅」、「インド哲学」などの意識性の高い東洋の究極の学である。
何と遥か数千年前の「東洋の神秘学」の仕組みの中に現代科学と類似した内容とその方向性を見い出して学んでいるのである。
これら詳しいことはアメリカの物理学者であるF・カプラの「タオ自然学」を読めば一目瞭然であり、頷けることが多い。
まさに近来の名著と言っていいものであろう、是非、一読することをお勧めしたい。得るところは十分にあるはずと思う。
何と彼は「東洋の神秘学」は現代科学がやっと求めることが出来た答えとまったく同様な内容を持っていると言っている。
要するに、現代物理学の華である「量子力学の世界」と「東洋の神秘秘学」の語る世界観には一致するものが多々あると言って感嘆の声をあげているのである。
秘録≪1≫『ひふみ九九算』変化の表(数の巻)
◎ (この図は『ひふみ九九算表』の外側から一枠づつ取り外していった図であり、n×nの対比をもつ構造である。)
@ひふみ九九算〔10の陣(10×10)〕を読む
(9=0)を用いて
0000000000 Σ=45→9→0 … (0000000000→0000099999→45)
0123456780 Σ=45→9→0 … (0123456780→0123456789→45)
0246813570 Σ=45→9→0 *すなわち、中心から左の0は0と置き、右の0は9とおくのである。
0360360360 Σ=45→9→0 … (0360360360→0360369369→45)
0483726150 Σ=45→9→0 全体数のΣ=(8の陣)+180(4×45)=540
0516273840 Σ=45→9→0 or
0630630630 Σ=45→9→0
0753186420 Σ=45→9→0
0876543210 Σ=45→9→0
0000000000 Σ=45→9→0
(縦も同じである)、但し、中心より後ろの0は9と置くこと。2011年3月の記参照のこと)
Aひふみ九九算〔8の陣(8×8)〕を読む。(2番目の枠内の全数)
12345678 Σ=36→9→0
24681357 Σ=36→9→0
36036036 Σ=36→9→0
48372615 Σ=36→9→0 全体数のΣ=〔6の陣〕+144(4×36)=360
51627384 Σ=36→9→0
63063063 Σ=36→9→0
75318642 Σ=36→9→0
87654321 Σ=36→9→0
(縦も同じ)
Bひふみ九九算〔6の陣(6×6)〕を読む (3番目の枠内の全数)
468135 Σ=27→9→0
603603 Σ=27→9→0
837261 Σ=27→9→0 全体数のΣ=〔4の陣〕+108(4×27)=216
162738 Σ=27→9→0
306306 Σ=27→9→0
531864 Σ=27→9→0
(縦も同じ)
Cひふみ九九算〔4の陣(4×4)〕を読む (4番目の枠内の全数)
0360 Σ=18→9→0
3726 Σ=18→9→0 全体数のΣ=〔2の陣〕+72(4×18)=108
6273 Σ=18→9→0
0630 Σ=18→9→0
(縦も同じ)
Dひふみ九九算〔2の陣(2×2)〕を読む (5番目の枠内の全数)
72 Σ=9→9→0 全体数のΣ=〔0の陣〕+36(4×9)=36
27 Σ=9→9→0
Eひふみ九九算〔0の陣(中心)〕を読む
0(中心) Σ=0 全体数のΣ=0
さあ、この答の数が正しいかどうか検証して見よう。簡単である。
0、 36、 108、 216、360、540 → 36−0=(1×36)、108−36=(2×36)、216−108=(3×36)
360−216=(4×36)、540−360=(5×36)
どうであろう、ちやんと筋は通っている答である。このあたりから見ても「数」には意識があるように思われるのである。
また、「天津金木の法」の計算法は正しいことが解るであろう。
何と言う見事な意味のある数の並びであり、美しい数の布陣なのであろうか…。そこにある各数列のΣは 0、9、18、27、36、45と言う「神の数」、すなわち、九の倍数体が見事な形で現れて「この世(物質界)」の確かな存在を謳っているのである。よく見ると、この表内の最外側にあるのは神々の眷属である00000…の姿であり…、そのΣは45である。それはすなわち、姿は神々ではあるが、心は現実界の本質を持っていて現実界に影響を及ぼすことが出来るということであろう。このあたりは調べて見るとまだまだ面白意外な事実が見つかるはずである。
要するに、一つの表内の数列は同じ答で共鳴し合い、調和し合ってつながりを持っていると言うことである。それが「普遍の神理」であり、自然の本当の姿なのである。見るがいい、何と美しく、見事な調和の姿であり、奇しき神理なのであろうか…!。
まさに自然の態であり、その大完成の姿である…。 <詳細は「宇宙次元原理マル秘原図」10、11、12参照のこと>
Fひふみ九九算〔7の陣〕(表の外側の神々の世界)を読む…!!。
この〔7の陣〕は九九算表の外側の「見えない場」に鎮座する神々の群れを表すものである。要゚するに、この表の外側にあるのは 00000…の枠列(神々)で囲んだ秩序のある場であり、そこに並んでいる0000の…のもつΣの仔細を見るのである。するとそこにはすべて同一の数がが現れてあなたに微笑みかけ、話しかけてくるはずである。さあ、表を作ってその仔細を調べてみよう、次のとおりである。この外側の世界の最初の数列は000000000000 →000000999999=54、2番目の数列は001234567800→001234567899Σ=54、3番目の数列は002468135700→002468136799Σ=54、以下、同じような計算を行えばこの図のすぐ外側に位置する神の枠場のすべてには54の数が並んで現れるのである。同じような計算仕組みで更なる外側の図を作って次々と攻略すれば、次は63、その次は72,81となって完全なる「神の数」が現れて「この世」と「あの世」の相関的な仕組みの存在とその確かさを見い出すことが出来るのである。
要するに、表内では0000…という「あるけど、見えない数」、すなわち45と言う神々の数をもって「この世」を締めくくり、その外側(表外)に鎮座する「姿の見えない神々」にバトンを渡しているのである。その表の外側に存在する神々の存在とその繋がりを示す数が、すなわち 54、63、72、81、の各数であり、まさに内側の「見える世界」とその外側にある「見えない世界」のすべては合い連なって秩序をつくっているものであり、それが0、9、18、27、36、45、54、63、72、81となって連繋状態を示しているのである。これが、すなわち、9の倍数体である「神の数列」という「聖なる数列」であり、よほどの場合でなければ現れないものである。
また、そこにある比とは、0:1:2:3:4:5:6:7:8:9(0)となる正自然数の姿を持つものである。すなわちそこには、古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」が現れて終止符を打ってすべては完となっているのである。改めて言う、この012345は「この世」の数であり、6789(0)は「あの世」の数である。ここでもう一度よく考えて見る、すると最初で、かつ中心の数である0は「見えない数」であり、また最外側の0000…も「見えない数」である。要するに、これら図の外側に位置する神々を示す0000…の群れ、すなわち、6789も00000…から成り立つ「見えない数」であると言うことである。
すると「見える数」は1234の4ヶであり、「見えない数」は中心の0と表の最外側の0000…の5、それに表外の6789の4ヶであり、合計6ヶが「見えない世界」の数である。それはすなわち、現代科学で言う自然世界の姿とは「見える世界(4次元世界)」と「見えない世界(6次元世界)」の10次元から成り立っているという次元理論にピッタリ合うことになり、まさに弥栄の限りとなるものである。
<これらの計算の詳細は「宇宙原理表マル秘原図」10を参照>
要するに、祝詞の言う「天地」とは大宇宙自然を指すものであり、そこにある「数歌」とは数の示す天の法則、決まりごと、すなわち「自然の法則」を指す「数」と言う言葉なのである。ただ、今まではこれを解するには我々の知の程度が余りにも低かったので、そのあたりの事情や仔細則などは何も判らず、長年にわたり一つの古神道の奥義を秘めた祝詞として唱えら、神に捧げられてきた…、それが歴史上にある神道という宗教の真実の姿なのである。
日本神道を守りたいなら、これらの事実をしっかりと学んですべてを世界に向かって公表すべきである、ここで体面などを考えてもたもたしていればすべては手遅れになるのである。恐らく、20年も経たずに由緒ある日本神道は朽ち果て瓦解するであろう。
現代のこの時期になって、何と、「ひふみ…天地の数歌」とは古代の残した驚くべき大叡智の姿であり、巧みな言い回しを持って伝承されて来た大いなる意味をもつ言葉であることが分かってきたのである。つくづく考えて見ると、これらは現代文明を遥か遡る先史文明あたりの遺産知と考えるのが最も妥当なものであり、適切なものであろう。そう考えない限り、どうしても知の辻褄が合わないのである。
考えて見れば、同じような先史文明の大いなる遺産知が他にも日本にはあるではないか…、それが諸氏も知っている2万年前の「カタカムナ文明知」であり、現代人には今でも歯が立たない宇宙物理象の総覧象を描いているものとして名を馳せているものである。
次にこれらの表の全体加算総数、すなわち、Σを見て見ることにしょう。
では次の問題に移る、総加算数、すなわち、この各表の右側に示されている0.36、108、216、360、540となる数は一体何を囁いているのであろうか…、その声を聞いて見よう。この数列は余りにも強烈な意味のある「神の数(すべてを加算すると9になる数)」であり、何かを囁いているのは間違いのないことである。そのあたりははあなた方にも十分にお解りであろう。すべては36の倍数体であり、36と言う正しい連続秩序を持っていることに注目してもらいたい。はて、さてその囁きとは一体…。
これらは0.36、108、216、360、540=0:1:3:6:10:15 となる比関係にあることに注目してもらいたい。 次にはこの0、1、3、6、10、15の数の差を求めるのである。するとそこには整然とした0、1、2、3、4、5となる「正自然数(ひふみ…天地の歌)」が現れてすべてを締めくくり完となることが判るであろう。
また、この表の外側に鎮座する神々のΣ数、すなわち、全体のΣ数は次のようになるのである。〔7の陣〕Σ=756、〔8の陣〕Σ=1008、〔9の陣〕Σ=1296。 要するに、「見える世界」と「見えない世界(神の座)」を含めた完全世界の姿は0.36、108、216、360、540、756、1008、1296…、と延び、その右側の数との差は0、36、72.108.144.180、216、252、288.324、となるのである。そこでその比を見るのである、するとそこには0、1、2、3、4、5、6、7、8、9(0)となる正自然数 (「ひふみ…天地の数歌」) が姿を見せてすべては締めくくられて完となることが判るであろう、それでジ エンドですべては見事完了と言うことになるのである。
また、この最終数9(0)の姿とは中心に位置する〔0の陣〕の0そのものであり、完全な同一体であり、重なったものであると数は囁いているのであるが、今の私にはそのあたりの始末次第がまったく解からず、従ってその説明が出来ないことを白状しなければならない。
要するに、中心の0と表の外側に存在する00000…は同一体であり、全く同じものであると数は言っているのである。要するに、そこには驚くようなメビュース的な結びが存在して、「内側(中心)=外側」となって重複状態になっている「神の仕組み」が存在していると言うことである。一つ、楽しみながらそのあたりをまさぐって貰いたい。
願わくば、諸氏の鋭敏なる頭脳をもってその仕組み次第はどのようになっているのかを考えてもらえれば幸いである、懸命に考えることにより、数はあなたを導いてこれらの顛末の一切を教え、更なる新たな真実へと導いてくれるはずである。
そんなことはあるはずがないと思えば、すべてはそれで終りであり、一切の進歩発展はそこで閉ざされるのである。また、どうしても知りたいと思うならば、すべての「神の意識」はあなたの周囲に次々と集まりサポ−トを開始して望みを叶えてくれるのである。
若し、あなたが科学者であり、どうしても神々という言葉に反感を覚えるなら、言葉を変えて「見えない世界」、あるいは「霊界」と言い直しても何ら差しつかいはない。そのあたりは自分の好みの言葉で使い分けて考えればいいのである。
要は我々の「見える世界(物質界)」と対構造的存在である「見えない世界(意識界)」と呼ばれるもう一つの世界を併せて考える必要があると言うことである。
最近の物理学を見てもそれぞれ名のある大御所たちは神という言葉に代わり、「大いなる宇宙意識」、「宇宙の意思」、「最高の存在」。「サムシング・グレイト」等の名前をつけて呼んでいる。要するに、宗教界の「神」とは同一視されたくないとの思いがあるからなのであろう…。気が小さい証拠である。
さあ、次を急ごう、上に述べたものは「ひふみ九九算」、すなわち『宇宙次元原理表』における「数の表れ」による計算の次第であったが、次は例の通りにセル、すなわち「場」の計算」による再確認が残っているのである。これらすべては前回の「祝詞『ひふみ…天地の数歌』が歌う真理の歌(4)」の続きであり、そのだめ押しとなるものである。何回もなぞりながら、ここにある数の語る真実を頭ではなく、心で理解してもらいたい。
懸命に考え、そして試算するのも結構であるが、出来るだけ楽しみながら興味深々の心を持って検証することが望ましい。
それに加えて時間をかけることである。なぜなら、時間をかけて行うことにより脳がだんだんその思考方法に慣れて柔軟になってくるからである。「神の数学」は余りにも今までの思考概念と異なるものなので、恐らくあなたの脳は思考畏縮、あるいは思考停止の状態にあるはずである。まずはそれを解きほぐして素直な形に持っていく、それが最初のタ−ゲットの一つでもあると考えてほしい。
これはいわば、脳の一大転換のプ゚ロジェクトであり、宇宙普遍の知へのショ−トカツトでもある。これらを知ることにより、あなたは現代数学知のコントロ−ル下から解き放たれて、新たな「真の叡智」の存在を知ることが出来ると言うことである。、
秘録≪2≫『ひふみ九九算』変化の表(場の巻)
(この図は『ひふみ九九算表』の外側から1枠づつ取った各図の持つ「セル」の数である)
〔10の陣〕…… 全体場のセルのΣ=〔8の陣〕+40=120
〔8の陣〕…… 全体場のセルのΣ=〔6の陣〕+32=80
〔6の陣〕…… 全体場のセルのΣ=〔4の陣〕+24=48
〔4の陣〕…… 全体場のセルのΣ=〔2の陣〕+16=24
〔2の陣〕…… 全体場のセルのΣ=〔0の陣〕+8=8
〔0の陣〕…… 全体場のセルのΣ=0
すなわち、そこに並ぶセル(場)の数は次の通りである。
ここにある数の並びは 0、8、24、48、80、120、であり、ここで秘録≪1≫と同様に右側の数との差を見る。するとその差は 0.8、16、24、32、40となり、その比は0:1:2:3:4:5となることが判るであろう。すべては自然の叡知の学である。
何と言う巧みな自然の手さばきなのであろうか…!?、ただただ目を見張り、見入るだけである。
よく見てほしい、するとその姿はまさに秘録≪1≫の結果とまったく同じものである…。これをして単なる偶然と言うなかれ、自然には偶然なんというものは無い、すべてはなるようにしてなった必然の結果であり、神の謀(はかりごと)による当然の結果なのである。
偶然なんて言う言葉は考えの及びのつかない愚者の発する言葉であり、卑怯な逃げの言葉であると考えるべきである。
賢者の辞書のなかにはその言葉は無いと言うことを覚えていてほしい。
また、この後の「この表」を囲むか神々の存在を知りたければ「この表」の外側に位置する神の座の「セルの数(12×12)」を調べるがよい、その数は外側@は168、その外側Aは224、更にその外側Bは288、Cは360となることが計算出来よう。
要するに、この表とその外側の数をつなぐと、0、8、24、48、80、120、168、224、288、360となる数が現れる。その差を見ると差数は8、16、24、32、40、48、56、64、72となり、その比は確かに1:2:3:4:5:6:7:8:9(0)となっていつもの正自然数(ひふみ…天地の数歌)が現れて完を告げるのである。
ここには360と言う完結した数が現れている、一方、それに相対する比の数字は9(0)である。すると9もやはり完結した数であり、0と同じものであることが判るのである。 <これらの計算の詳細は「宇宙原理表マル秘原図」16、17を参照>
別に数の手品とか魔法を使っているわけではない、誰にで出来る当たり前の計算である。ただ現代数学はその大自然の持つ普遍の手法を知らないだけなのである。ではどう考えるといいのであろうか…。表内の最外側のセル、すなわち、0000…の群れのセルは10ヶである、そしてその外側にある次の「見えないセル」は12ヶ、その次の外側は14ヶと2ケづつ増えていくことも分かるであろう。あとはその0000…の数列の後半に定則通りにただ9を置けばいいのである。つまり、その外側に位置する「無」、「空」という何も無い場こそが「神(意識世界、あの世)」の居場所であり、ホログラフ的に「この世」につながって「見えない世界」として存在して完全な対次元を構成しているのである。また、前述のように、中心の0と表外の0000…の群れは=で結ばれ、中心の0=表外も00000…となって、まったく同一の存在を示すものである。それを示しているのが<0=9>の定則である。念のためにここで一つ言い添えておきたい、このダブリの分を差し引くと次元は1ヶ減って宇宙は9次元で構成されていると私は言って憚らないのである。まあ、何時かは科学者達は現在の10次元説を引っ込めて、9次元説を唱えることになるではあろう。
見るがいい、秘録≪1≫と秘録≪2≫の答はまったく同じという信じられない答をもたらしているのである。これだけでも「数の言葉」には決して矛盾や不整合などは無く、真実だけがどこまでも延びていることが判るであろう。
如何であろうか…!!。あなたは今、驚くべきハイレベルな「数の知」の最中にいるのであり、科学者達も知らない知の最前線に立っているのである…!!!。すべては自然の「数の語り」であり、真実の流れの姿である。これら「自然の語り」を顧り見ることもなく、ただ人間知のみをいくら積み上げてもそれはただ努力の浪費であり、時間の無駄と言うべきものであろう。
やはり、神々は見えない存在ではあるが、確かに存在し我々を秘かに見守っているのである。そのあたりは「神の数学」を学んでいるとよく分かる。やはり、古代からの言い伝え、語り伝えは正しいものであり、我々の心の無意識の囁きと言うものはすべて現実的な存在と関係があったのである。
「姿のあるもの」を重視する現代科学はまたもや「姿の無い意識」に敗れ去ったのであり、その大いなる牙城の一つを失ったということであろう。「神」の存在を認めない、それが現代西洋科学知の一大失点であり、人間の未来に絶望と言う大きな影を落とすものである。一つこのあたりで振り返ってもう一度自然の本当のあり方を検証すべきではないのか。
「神の数学」の数計算の場合も「神」に一つの場を与えて計算しない限り、計算は決して成り立たず、ただただ不整合と不調和が続き、困惑と不透明の限りがあるだけである。
これは誰でも簡単に検証できるものである、せめてこのくらいは計算して結果を見てから反論してほしい。 何せ、小、中学生でも出来る簡単で自然的な計算であり、その概念なので気持ちさえあれば誰でも出来るものである。ただしこの数と図はまさに「神のタブレット」であり、自然の生んだ「数の精知」であることは承知してもらいたい。
我こそはと言う諸氏の果敢なる挑戦をお待ち申し上げる、果たして「神」の存在を認めない現代知でこの「神のタブレット」図を見事捻じ伏せることが出来るであろうか…??。【これらの詳細は「宇宙次元原理表マル秘原図」No19、No22を見てほしい】
ここに現れている360と言う完結した数とはすべては一回転してスタ−ト点に戻ることを意味するものなのであろうか…?、何もかも一巡することによりまっさらな状態になって次の新しいスタ−ト台に立つことが出来ると言うことなのであろうか…?。
この360の数は「神の数学」では369ともなり、日本語では「ミロク」とも呼ばれ重大な数とされている。恐らく何らかの意味を囁いているのであろう。考えてみると、360の数とは円を表す一回転の数であり、全天向の数でもあると古代では崇められてきたものであり、確かに円の姿を持っているものである。、すべては回転して戻り、完了となり、0となるる意味の数でもある…??。
果たして、始めと終りを結ぶ数、それが360と言う数なのであり、9であり、0なのであるろうか…??。
要するに、すべての生命体は一回転と言う循環活動の中に身を置くことにより、時間と言う果てしない流れを乗り切り種を守りぬこうとしているのであるが、それと何か関係があるのであろうか…。これはまさに生命の輪廻の謎を解き放つための鍵であり、大きな意味を秘めている数なのかも知れない…!!。
これら数回にわたる「ひふみ九九算表」の解説は今まで誰も解き明かすことが出来なかった「数の自然理」の存在を改めて検証し、数字を上げて述べたものである。そこにある不可思議な姿を改めて諸氏と共に見直すべくなるべく丁寧に、そして出来るだけ易しい形に書き記したつもりである。これにより(0=9)の真実とその働きの現実性やそれによる驚くべき「調和性の現われ等をもう一度検証してもらいたい。この表こそ古神道の奥義祝詞である「ひふみ…天地の数歌」の本来のあるべき姿であり、まさにこれは人類知を正しい方向にもっていくための「知の羅針盤」とも言うべきものと考えてほしい。まさに、それは日本の「神宝(カンダカラ)」であり、世界の「知の秘宝」と言うべきものである。
要するに、古神道の奥義祝詞「ひふみ…天地の数歌」とは現存する「ひ、ふ、み、よ、いつ。む、なな、や、ここ、たり」の数詞のみではなく、その後ろには「ひふみ九九算表」と言う驚くべき本体が控えてすべてを解き明かす「聖なる存在」であったのである。
ただ、長い間にはその呼び名の「ひふみ…天地の数歌」だけが残り、「聖なる本体」は何時の間にか忘れられて歴史から消えてしまったのであろう。
ひょっとするとこれが失われたとされる「カムナガラの道」と言われる神道の極意道そのものなのかも知れない、なぜなら、残されている古代の祝詞には次のように記されているからである。
「高天原に始りしことをかむながらもしろしめして」…(広辞苑より)とあり、
その意味とは「宇宙の始まりの一切はかむながら(ひふみ九九算表)にもすべてが記されている…」と解釈出来るものである。
その一つが「ひふみ九九算表」にある「易」の原理の姿であり、宇宙のあるべき姿を図象化している驚くべきものである。
諸氏も突然の話に驚くと思うが、これも追々に書き記して日本の未来のために残しておくつもりである。それは近い不日とだけは
だけは言っておきたい。
あなた方には到底信じられないようなことを更に一つ申し上げておきたい、この「ひふみ九九算」には宇宙の始めである太極から始まる両義、四象、八卦の各象が綺麗に陰陽の形でしっかりと内蔵され、その一切はすでに解かれて「神の数学」に記載済みなのである。
しかも、誰でも簡単に検証出来るような形で描かれ、一目見るだけで誰でも理解できるものである。その姿はまさに「易」の解説そのままであり、「易」の自然的な証明法である「陰」と「陽」の形が綺麗な姿で現れ、見事な仕組みを持って鎮座しているのである。
「易」は言葉と特殊な表現文字から成り立っているものであり、その意味の幅は大きく、いろいろなことに融通が効くことは知っているではあろう。しかし、この「ひふみ九九算表」の語る陰陽の姿は大変シビァ−であり、数によって確たる「陰」と「陽」のあるべき姿がはっきりと描かれていて甚だ数理的、哲学的な姿を持つ絶対的なものである。その姿はまさに神の言葉、自然の理そのものと考えてもいいものである。
そこには「易」の特殊な表現文字や言葉の言い回しなどにある「あいまいな姿」は一切なく、すべては「神」の言葉としての「数のダイレクトなメッセ−ジ(直言)」があるだけである。まさにすべては「数」が語る偽りのない宇宙自然の普遍本理の姿であり、真実を語る自然のモノロ−グとも言ってもいいものである。その真実検証は近いうちに行うつもりである。
出来れば、今回の「真理の歌(5)」と先月(4月)上載の「真理の歌(4)」を比較検証しながらもう一度真実のあり方を考えてもらいたい、そうすることによりなお一層「数の語る真実」が明らかになってくるはずであり、面白さも倍化してくるはずである。
この両者はまさに双子の関係(陰陽)であり、甚だ興味深い事実関係を開示してあなたの心を十分に虜にするはずである。
あなたは荒唐無稽なものであると笑うかもしれない、余りにもヘテロドックスな数の話であると嘲り去るかも知れない、しかし、その前に手間と時間を少々かけてゆっくりとこれらの数の語りを聞き、そして検証して見てほしい。
それにより、あなたの心には少しづつ変化の兆しが現れて和らいでくるはずである。たとえそれが何ヶ月、あるいは一年かかってもいいではないか…、それにより盤石の心とゆるぎない「神の叡智(宇宙の真実)」が獲得出来てこれからの生涯を安逸な心、一切を超越した無碍な心で過ごすことが出来るのであれば…。
せめて、この今回の「数の語る真理の歌」だけでも心で理解納得して縦横無尽に考えを広げていってほしい。すると不思議にも心が大きく広がって何事にも動じなくなり、すべては円滑に進み禍々しいことや心配ごと、果てには病、疫病さえも寄りつかなくなってしまうことになるのである。恐らく、あなた方には信じられないことであろうが…。
要するに、すべては心の持ち様であって、心に絶対なる芯柱を持って絶対と言う神と共通な波動を発している限り他の禍々しい波動と共鳴したり同調することは決してないのである。それには「神」と共通性を持つ「心の柱」を共有することが必要不可欠なのである。
これは大いなる処世の訓であり、世の中を楽々と渡っていくための最大の秘訣でもある。是非、そのことは知っていてもらいたい。
考えて見れば、これは諺の「朱に交われば赤くなる」と同じ意味であり、その真実を別な言葉で語っているにすぎないものである。
何と、周知の当たり前のことなのであるが、言い方が別な言葉になるとなかなか信じることは出来ないと言うことである。
あなた方が、「神」そんなものは無いと拒否している限り、絶対という「神」の波動を持つことは叶わず、常に邪、凶、などの禍々しい波動にさらされて苦しみ、悩み、もがき続けなければならないのである。それが嫌なら、「絶対」と言う心の波動を心に置いて結界を張り、常に身を守ることである。その上で、お互いに「神」の存在を知った者が共に手を取り合って生きていけばいいのである。
「神」の存在の真実性を示すものは「神の数学」の中にはゴロゴロと転がっている、数がはっきりとそれを示しているのである。ただ、それを学べばいいのであり、知ればいいのである。これこそ、まさに生きている「本当の知」と言うものであり、宇宙普遍の「真実の真理」と言うべきものである。現代西洋科学のように「神」を認めず、物質のみを追いかけている文明が続く限り、人間の不幸、精神的な苦悩、争い、病、などのあらゆる災いは続き、果てることは無いのである。その限り、我々のアゴニ−も尽きることはないのである。
まさに究極の板ばさみ状態が続くのであるが、そのことは誰も知ろうとはしない、考えようともしないのである…!!?。
これはまさに「数」と「図」の語る「自然のマトリックス」であり、長い間人類が求めて止まなかった無上無双の自然の語る「叡智の金字塔」なのである。すべては古代日本に由来するものであり、古代日本民族は自然(神)のもつ叡智をこよなく愛し、そして育(はぐく)み、大切に取り扱って来た由緒ある民族であったことが判明し、まさに敬神崇祖の気持ちを受け継いでいる民族であったことが解るのである。 その証拠となるものが3千年という長い歴史を持つ古神道の祝詞であり、「ひふみ九九算表」と言う他の民族は決して手に入れることが叶わなかった「知の遺産」なのである。歴史を読む際にはこのことだけは是非心に置きながら、時代の背景を常に見るべきであろう。
しろしめす…→<「知る」の尊敬語である「しろす」よりもさらに敬意の強い言い方。お知りになる、ご存知である。>
カムナガラ…→<神の御心のままで人為を一切加えていないさま。自然そのまま、神慮そのままの姿、神代そのままの心を指す。>
今回は大変秘学的、誰も知らなかった神の持っている「数の語り」の中の「あの世」と「この世」の確たる存在を披露したものである。
これについては、恐らくは「ひふみ神示」の中には類似した項は無いと思い調べもしなかったのである。
面倒だとの思いもあったのあろう。 また、今後記載する内容のすべては思いもよらないほどぶっ飛んでいるもの、まさかと思いほど超的な驚くべき「数の語り」のエッセンスばかりなので、恐らく、天明さんの予言物語の範疇には無いと思ったのである。それ故に、それもやむを得ないと達観し、「ひふみ神示」を調べなかったのである。
今後、出来れば、誰か「ひふみ神示」に暁通している方に「神の数学」と「ひふみ神示」のこのあたりの類似点を指摘し、取り上げていただければ大変有難い限りである。出来る限り、私も調べるつもりではいる。
「神の数学」7月の記「ひふみ…天地の数歌」が歌う“真理の歌” (6)
2011年7月謹んで上載
どうも反応が大変厳しい、やはり、現代人には少々概念的には合わない、現代人の常識ではまだ理解するには無理なのかも知れない。それとも私が張り切りすぎて理解可能と早とちりしてしまったのであろうか…!?。
いや、今はそのような泣き言、繰言を言っている時ではない、なぜなら、今、「神道」はまさに滅びの坂を転がり落ちつつあるときであり、余命はいくばくも無いところにきている現状だからである。要するに、神道の支持層がどんどん少なくなって最早相手にはされない、ここに至って、今更「神道」の真義、本質を説いても誰も見向こうともしない、振り向く者もいない状態なのであろう。まあ、時代の流れでいたしかないことかも知れない。しかし、果たしてこれでいいのであろうか、本来はそうあってはならないのであり、そうさせてはならない国家的な運命がそこにはあるはずなのであるが、悲しいことに、誰もその事情を知らないし、知ろうともしないのである。
「神道」が滅び去るということは日本と言う国の象徴的存在が失われてしまうということであり、日本人という他の国にはない素晴らしいアイデンテイを持った由緒ある民族が消え去ってしまうことになるのである。何ら、他のアジアの国々と変わりのない、平均的なアジア民族の一つになってしまう、要するに、世界に比肩するものが無い1万5千年という長い歴史を持つ縄文時代も、アジア他民族から尊敬の眼で見られていた日本の栄えある歴史もすべては忘れ去られやがては時の彼方に消えてしまうということである。
我々はそうしてはならないのである、それが我々の義務であり、やらなければならない宿命的な使命なのである。また、そうすることが遥かなる祖達への申し訳であり、敬祖敬神の心の証しでもある。しかし、残念ながら、我々の祖達が遠い未来へのメッセ−ジとして神道の中に封じて託した「神々の秘密」さえもまだ気がつかず、懸命に西洋科学文明の提灯もちをしている有様である。
「ひふみ九九算表」(10×10の自然法陣)の語る「宇宙普遍の数物語」
0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 天 |
0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 0 | |
0 | 2 | 4 | 6 | 8 | 1 | 3 | 5 | 7 | 0 | |
0 | 3 | 6 | 0 | 3 | 6 | 0 | 3 | 6 | 0 | |
0 | 4 | 8 | 3 | 7 | 2 | 6 | 1 | 5 | 0 | |
0 | 5 | 1 | 6 | 2 | 7 | 3 | 8 | 4 | 0 | 地 |
0 | 6 | 3 | 0 | 6 | 3 | 0 | 6 | 3 | 0 | |
0 | 7 | 5 | 3 | 1 | 8 | 6 | 4 | 2 | 0 | |
0 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | 0 | |
0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
↓
(まさにこの両者lは同じ姿を見せて臨まっているものである)
先月に紹介した通りに、これは10×10の法陣数表であり、10進法でデフォルメされた「現代九九算表」そのものを本来のあるべき自然の姿、すなわち日本古来の「ひふみ九九算表」に戻したものである。
要するに、これが本当の自然の究極の顔であり、宇宙始元の素顔を表しているものである。要するに、これは天と地、あるいは陰と陽の相異なる二つの要素から成り立っていると言う古代の宇宙創成理論である。現代ではこれをもっと発展させて「精神(心)」と「物質」の二元が宇宙の根本原理であるとしている。しかし、これは中世末のデカルトの説いた「物心二元論」そのままであり、何らかわりはないものである。そのあたりは物理学が素晴らしい発達を遂げたと言われる割にはなおざりにされている感が強いと言えよう。
この図を現代知で見るかぎりでは単なる数の羅列図であり、そこに内蔵されている「神の秘密」などは何も解らない、それが現代知のレベルであり、学のレベルなのである。要するに、それは現代知の概念範囲内でのみの考察であり、それ以外には頭がいかない、すなわち、考えることが出来ないと言うことである。なぜなら、余りにも脳が現代知に従属しすぎ、その範囲外に行こうとすれば自動的に警鐘が鳴り、ストップ状態になってしまうのである。今はよかろうが、悪かろうが全体が一致した方向を向くことが要求され、それに反した場合には村八分が待っているのである。何時の間にかそのようなプログラムが組み込まれ、そのように躾けられてしまっているのである。 情けないが、それが現在の教育システムであり、アカデミズムの現実の姿なのである。
『ひふみ九九算表』の不可思議な「数の走り(リズム)」を見る
(ひふみ九九算〔10の陣(10×10)〕
@…0000000000
A…0123456780
B…0246813570
C…0360360360
D…0483726150
E…0516273840
F…0630630630
G…0753186420
H…0876543210
I…0000000000
(縦も同じ形を持っことがお解りであろう、但し、中心より後ろの0は9と置くこと)
一体今まで誰がこのような不可思議極まりない「数の走り」に気がついたであろうか…!。まさにそれは、「神の手の業」であり、人為では到底及びのつかないものである。まずは心を無にして神の手さばきをじっくりと見てみよう、ここに流れる整然とした「数の仕組み」は一体何を物語っているのであろうか…?!、果たして、我々がそれをひも解き神の意中を知ることが出来るのであろうか…?!。我々は十分にこの中身を吟味し、そこにある真実を解明しなければならない。まさに人類の未来がかかっているものと言ってもいいものである…!!。
『ひふみ九九算表』図詳解<1> ≪天+地=0の証明≫ その@
この図の中の中心線をはさんで天と地の位置にある相対的な各数列を加算する、するとすべては999999…となって大完成への道を告げるのである。また、999999…は定則<0=9>によりすべては0に収束収斂することになるのは今まで述べた通りである。 要するに、これらの0の表れとはすべては本質が0であることを示すものである。しかし残念ながら、今のところこれら0の本質とは何かについては誰も語ることの出来ず、全く不明な状態である。
今までの学者達の説明によると0になるということは「空」になる、「無」になって「なくなる」、「存在しない」との説明があるだけで、それ以上の説明は一切無い。しかし、それは部分的には誤りであり、不完全なものである。実際の象はそんなものではない、0の本質とはすなわち、完全になる、まったく瑕疵がない状態、すなわち、完全無垢な状態、完成された状態になって鎮まる、動きの無い中和された円満の姿、それが0の状態なのである。それが大完成の姿であり、完全究極の姿なのである。その姿が0(○)であり、球であり、古神道の神の?姿 (○チョン)と言うものである。
D+E=0999999990 → 9999999999 = 0000000000 →0
C+F=0999999990 → 9999999999 = 0000000000 →0 ≪天(陰)+地(陽)≫=0
B+G=0999999990 → 9999999999 = 0000000000 →0 (すべては大完成の姿)
A+H=0999999990 → 9999999999 = 0000000000 →0 (判るかな…、??。)
@+I=0999999990 → 9999999999 = 0000000000 →0 《天=「あの世」、地=「この世」》
(0=9より)、
この大完成の本当の意味を知りたいならば、サイコロの目を用いて調べるがよい。そこにある●(ドット)はまさに数の初めの姿であり、原始の数そのものである。そしてそれは万国共通、いや、全宇宙自然世界の共通とも言ってもいい数象であり、普遍象形文字なのである。今、その面影を残しているもは今やただ「サイコロ」があるだけであり、どの時代、どの民族、どの人種を通しても理解出来る「数の認識文字」、「数のパタ−ン文字」と言うものである。ただし、現在のサイコロではまったく駄目であり、話にならないことを知ってほしい。なぜならば現在のサイコロは目が斜めの西洋式サイコロであり、自然の数のあり方、その基本の形などを完全に無視し、自然を逸脱したものだからである。
元来、何事でも西洋のものは見せかけや華美に流れ格好はいいが実質を伴わないものが多い。それに比べて古式を尊び、頑固一徹に道筋を踏み外さず守り通しているものが日本のものであり、その日常的にある姿なのである。
それは今までの日本式のサイコロ(すべて縦目)を見ればよく判るであろう、なぜならば、それは自然の姿、古の姿そのままで踏襲して、完成、あるいは大完成の意味を十分に説明可能な形とその機能を備えているからである。
これらの次第と姿を日本式サイコロで次々と検証していくと、そこには現代物理学の最先端であるモ―リス・ディラックの「陽電子理論」を説明する最良のモデルともなることが分かるのである。少々そのあたりを述べておきたい、彼の「陽電子理論」とは電子と陽電子の関係とは凸と凹の状態にあるものであり、まさに「陰」と「陽」の二元論を地で行くものである。要するに、電子は球であり、陽電子とは電子の納まる容器、すなわち、孔(穴)のような存在と考えて理論を展開している。要するに、その二つが引き合い合一結合してピッタリとはまり込むと凸と凹は平坦になって見えなくなり「有るけど、無いもの」、すなわち、「空」、「無」、になると述べているのである。それと同じ状態をこの日本式「サイコロの目」が上手に語り、その姿や次第を巧みに演出しているのであるが、そのあたりは是非知るべきであり、考えて心に入れておくべきである。なぜなら<0=9>のと言う不可思議な事象さえも簡単に説明がつくからである。
まさに不思議極まりないもの、それが日本式サイコロの目のあり方であり、その組み合わせの神技の数々である。その答が示す絶妙な業や、その仕組みによる妙なる響き、是非、その様子を見て学んであなた自身も感激してもらいたい。
面白いではないか、脈々と庶民の中で生き続けてきた日本式サイコロが現代科学も及ばない自然の真実事象を告げているとは…!!。それはまさしく古代日本の知の構図であり、そこに脈々として流れて止まない伝承の大いなる姿と言えるものであろう。
【この大完成とサイコロの目についての詳細は「真実の数理」(5)、(7)及び「宇宙次元原理マル秘原図」No27を参照してほしい】
今まで誰も夢想もしなかった「大自然の巧みな仕組み」や「神の業の偉大さ」をこの日本式サイコロの目が図らずも物語っているのであり、その自然式の大いなる姿にはただただ驚きを覚え、賞賛の言葉が尽きないものである。「サイコロの目」とは日本では「賽転の目」と書き、その「賽」の意味は「あの世」の意味である。例えば、賽の河原(あの世の入り口)や賽日(地獄の釜の蓋が開く日)などの言葉などはそれを端的に物語る言葉である。また、「転」とは廻(めぐ)る、移り変わる、行ったり来たりするとの意味であり、その代表的な言葉が転生(生まれ変わる)である。最後の「目」は「ものを見分ける力」、「鋸の歯のように対称、相似形で並んでいるもの」を指すもので、恐らく、「あの世」と「この世」の存在とその相似的な形を言葉に表したものであろう。ちなみに、「サイコロ」は中国では「采子(遊び道具)」、「骰子(骨で作られた遊び道具)」と書き、深い意味などは何も無い。要するに、「賽転の目」は日本独自の意味深い言葉であり、比類のない哲学的な言葉なのである。
これはまさに古式ゆかしき日本発の叡智の発露であり、その伝承の奥深さを物語るものであろう。考えて見ると、たかが「サイコロの目」、されど「サイコロの目」と言われては来たが、それはまさに、「神の目」であり、「真実の目」の確かな存在を謳っているものである。古の人々は直観的な洞察力に優れ、すべてを見通す力があったのか、それとも遥か遠い超古代の「叡智」を引き継いで現在に至っているのか、恐らく、そのどちらかであろう。今はただただ恐れ入り、ただ畏まるだけである。
不思議なことはまだある、例えば、サイコロを二つ使い、それを転がしてその数の合計を見てものごとを決める、出た目は9であれば「カブ」と呼んで最高の数として有り難がり、10が出たならそれは最低の数としてさげずみ、「ブタ」と呼んで忌み嫌うのである。現代数学的な概念ではとても理解出来ない数の不思議な性質がそこにはあるのである。確か今でも大人達が「オイッチョカブ」とか「カブ来い来い」と叫んで興奮している風景が見られ、まさに数の原風景そのものが陰の存在として遊びの中で引き継がれているのである。まさにそれは現代日本の持つ不可思議な姿であり、表には無い奇妙な姿と言えるものである。
そこには古代から連綿として続く知の契りとか、知の予感が何となく感じられ我々をして、しばし感激させるのである。それを感知出来るのは多分純日本人の血を引いている人達だけであろう。
現代科学が追いかけている自然真実の世界、これから踏み込もうとしている「神の世界」、それは今までの日本人の生活の中に当たり前のように溶け込み、知らず知らずに伝承されていたのである。何と言う素晴らしいことであり、まさに日本古代文明の存在の確かさを髣髴させて止まないものである。
『ひふみ九九算表』図詳解<2> ≪天+地=0の証明≫ そのA
これからあなた方は大変な「神の秘密」、すなわち、確かなる「天地の序韻」の存在の確かさ、すなわち、確実な「正陰」と「正陽」の性質をもった「天地の理」の存在の素晴らしさを見い出して吃驚仰天することになるであろう。なぜなら、あまりにも自然とは緻密、精密な仕組みをもって創られ、整然とした姿をもって機能していることを否応なく知らされるからである。現代西洋科学文明知はそれらの事実をまったく知らない、その事実を少しも解せず、ただ人知を基準にした論拠のみで人間独自の科学文明を築き上げて来たのである。それは自然の理と交わりを持たない独自の世界であり、一つのロ−カル的な片輪の世界と言ってもいいものなのである。要するに、それは自然世界とは対話不能、まったく会話が成り立たない、つまり、自然世界の秘密を解き明かすことは出来ないものなのである。
さあ、次の事実だけは知った上で更なる次の検証を行なってもらいたい、それによりすべての正図形の持つ二つの対角線とはお互いに「天」と「地」の関係、すなわち、「陰」と「陽」の関係にあり、常に相対的な関係にあることを知ることになるはずである。残念ながら、この事実の存在をはっきりと検証し、その違いを説明出来た者は人類の長い歴史を通して誰もいなかったのである。せいぜい、その違いとしては天と地、昼と夜。男と女、などの単なる正と反の事象的な言葉を掲げてそれでよしとしているだけであり、その本質を突く真の論理や根拠などは何も無いのである。この数千年間これらの事情は何も変わらず、相変わらず同じ文字や文句を連ねて説明し、人を煙に巻いて来たのである。
その本当の「陰」と「陽」のあるべき姿を語り、その二つの本質的な姿を検証してその本質を解いているものが「神の数学」であり、ここにある「数の語り」なのである。しかも、それは「神の真実」の存在とその真実を如何なく示し、教えてくれるものである。心して学んでほしい、本当の「陰」と「陽」の本質の姿とその意義のあり方の如何を……。
ではこの「ひふみ九九算表」の示す「陰」と「陽」の存在の証として、その中にある「神の語り」を取り出して検証して見ようではないか、要するに、ここにある二つの対角線を取り出しそれらを加算して真実の如何を確かめようと言うのである。これらは図と数による完全な「神の語り」であり、「数の表す神の真実」と言うものである。まさにこれは誰も反論、否定などは出来ない聖なる「自然の数象図」である。下に掲げた例題によりその本筋と数の展開の姿をしっかり学んでほしい。
最上記の「ひふみ九九算表」(10×10の自然法陣)より 右下がり対角線(陰)…… 0140770410……014077041Σ=6 or 0140720580Σ=0 左下がり対角線(陽)…… +0850220580……0850220580Σ=3 or 7041008502Σ=0 ―――――――――― 0990990990 |
ここにある二つの対角線の相対する数、すなわち上下に並ぶ2数はまさしく「陰」と「陽」の組み合わせ、すなわち、0と0(9)、1と8、4と5、7と2、の陰陽数の基本数そのものである。 また、この答は最早お解りになるはずである。
0990990990 → 99999999999、または 0000000000、すなわち本質はすべて0の姿を見せるものである。
まさに驚くべき「数の語り」であり、「現代の知」の中にはまったく存在しないものである。「陰の象」と「陽の象」を合わせると9と言う最大限界の数になり、それが同時に最小限界の0を示すことをすべてのもの(数)は物語っているのである。一体それは何を意味し、どのようなことを示唆し、教えようとしているのであろうか…!?。
それはまさに、古代インドの数学にある0の説明そのものであり、まったく同じものである。そこには「0とは無、空虚、エンプテイ、すなわち「何も無い」の意味をあらわすと同時に、もう一つの満タン、充満(プルナ−)、フルの意味を合い持っている」とはっきり記されているのである。何と言うこと…!!。それはまさに「神の数学」の0の姿であり、<0=9>の姿そのものではないのか…!!。
≪詳細は「真実の数理」(5)、(7)を参照≫
次にこの図にある「陰」と「陽」の二つの対角線に沿った斜めの相対位置にある各数列を加算して見るのである。するとそこには興味深い真実が次々に展開されて何事かを囁いている、一体それは何を囁き、何を伝えようとしているのであろうか…?。
まずは二つの対角線の上部サイドから数を拾い始めて見よう、しっかり図の中の数字を追い求めてその結果を見ることである。そこにある数の動きを一挙手一投足逃さず捉まえそこにある数の仔細、その仕組み次第を辿り納得のいくまで調べ上げてほしい。出来る限り何回も繰り返しなぞりながら検証し、その上でその意味をゆっくり心で考えてほしい…… 。
見よ、『ひふみ九九算表』が語る天と地の秩序のあり方とそれの結ぶ驚くべき調和の姿を !! (なんと「陰」と「陽」とは空間場、空間位置の違いであり、その相似的な逆位置の関係を示すものである)
≪斜めの陣≫ (「陰」と「陽」の対角線に沿った相対する「斜めの数列」を読む)
同じく最上記の「ひふみ九九算表」(10×10の自然法陣)より。
@ 0+0= 0→ 0 → 0
A 00+00= 00 → 00 →0
B 010+080=090 → 999 → 000 → 0 ……’(1+8)=9、→0 (すなわち、010→1、080→8)
C 0220+0770=0990 → 9999→ 0000 → 0 ……(4+5)=9、→0 (すなわち、0220→4、0770→14→5)
D 03430+06560=09990 → 99999 → 00000 → 0 …(1+8)=9、→0 (すなわち、0343→1、0656→17→8)
E 046640+053350=099990 → 999999 →000000 → 0…(2+7)=9→、0
F 0580850+0410140=0999990 → 9999999 → 0000000→0…(8+1)=9→、0
G 06133160+03866830=09999990→99999999→00000000→0…(2+7)=9→、0
H 073676370+026323620=099999990→999999999→000000000→0…(3+6)or=9→、0
I 0850220580+0140770410=0999999990→9999999999→0000000000→0…(3+6)or=9→、0
≪見るがいい、これらすべては大団円の姿であり、素晴らしい大完成の姿そのものでもある。すべては中心軸を挟んで完全鏡面対称の姿を持っているものである。頭で考えても解らん、何度も数をなぞって懸命に検証することにより解るものである。≫
ここに現れた天と地、すなわち「陰」と「陽」の奏でる妙なる律の姿の素晴らしさにはただただ驚異と畏敬ががあるのみである。
少々詳しく見てみよう、例えば、Fを見てみよう、そこにある06133160と03866830は陰と陽の数列の姿であることはお解りであろう。しかしよく一つ一つよく見ると、そのお互いに加算する位置にある二つの単数とは必ず、陰陽の基本数、すなわち、0と0(9)、1と8,2と7、3と6、4と5の5種類になっていることが解る。また、その加算状態にある二つの数列もまた陰と陽の数を含み、その姿は06133160と03866830の現れである。この陰陽の相対する数である061と038を見ると061のΣは7で、038のΣは2であり、その陰陽の加算数は7+2=7である。同じように残りの33160と66830についても33160のΣは4、66863のΣは5であり、加算して9になることが解かる。その仕組みはここにある@〜Iまでの数列にすべてに通じるものであり、すべては同様な仕組みで成り立っているのである。要するに、そこにあるすべての陰と陽の表れの基本の数とは<0と0(9)>、<1と8>、<2と7>、<3と6>、<4と5>の巧みな数の組み合わせのみであり、それ以外には無いと言うことである。
これは最小単位の陰陽の数の組み合わせが次の大きな陰陽の数列を生み、その陰陽の数列がまた更なる大きな陰陽の数図を作って納まっていることを示している「天啓の図「であり、「自然の真実数図」と言うものである。それはすなわち、大自然とはすべては陰と陽の二元の組み合わせが基本となって構造化し、それ幾重にも重なって顕象体となって現れていると数がいみじくも囁いているものであり、「数の大律図」とも言うべきものなのである。出来れば、何回でも繰り返しなぞりながら検証して大いなる真実の存在をしっかり確かめてほしい。ここにあるのはまさしく、宇宙普遍の数学の構図であり、謎の数と言われる0と9の大いなる秘密を明かにするものである。そのあたりのことは既に何回か述べている「墜落したUFOの中から発見された謎の数式」と大いに関係あるものであり、合わせて考えると本当の普遍的な数の真実が見えてくるのであるが…。
最近ある高名な学者(理学博士)が来宅し、<0=9>の意味が釈然としないとの質問を受け、次のように説明申し上げて了解を戴いた、それを簡単に説明しておきたい。現代数学は直線数学であり、平面直線上の数学である。だから平面直線上の最初の数である(0)と最後の数である9は決して出会うことはない。しかし「神の数学」はその0と9を結ぶ循環数学であり、立体循環数学である、そこにあるのはまさに0と9の重なり(重複)であり、始めと終りは同一点となるものである。その仕組みを表すものが<0=9>であり、始めと終りは同一と言う当たり前のことを示すものである。
自然を見るがよい、すべては周期に沿って動き、周期に沿って循環を繰り返しているのである。それを直線で計り、直線系で理解しょうとしてもどうなるものではない、答は決して得られないのである。現代西洋科学はそれを強引に行い、辻褄を合わせようと必死なのである。でも、最初から無理は無理なのであり、どうにもならないのである。
それでも解からない、どうしても判らなければ、平面上に円を書きその中に直線を引くのである、スタ−ト点が始まりであり、突き当たった端がゴ−ルである、スタ−ト点とゴ−ル点が一致することは直線法では決して無い。一方、「神の数学」は立体的な円を書く、それはすなわち球である。その球面上に直線を引く、するとスタ−ト点から始まった直線は一周して始点に戻り、そこがゴ−ル点となるのである。それがすなわち、<0=9>の本義であり、その姿なのである。改めて知ったうえで考えて見れば当たり前のことである。我々は、余りにも人間知の常識に囚われ過ぎてそれから逸脱できないのである。非常識を心で解すれば一瞬にして常識になるのである。世間の非常識とは大体そんなものであり、単に表し方、考え方が異なる同一なものが多い。我々も最早一次的な目を持って平面的な線上を思考探索するのは最早卒業して、二次的な目を備えて立体的な概念による新たな知の時代に突入していくべきであろう。
さあ、これで半分であり、このあとは同じ繰り返しが続くのであるが、そのあたりは自分で計算検証してほしい。
この図が示すように「陰」と「陽」、すなわち「見える世界」と90度異なる位相を持つ「見えない世界」は確かに存在してゆるぎない完全律を持ってつながっていることを示している。しかし、今の現代西洋文明の下では誰もこの事実を知らない。科学者達が現代数学をいくら振りかざして迫って見ても決して自然には通じず、答を返してくれることはない。なぜなら、現代数学の計算法は人間本位のものであり、人間同士にしか通じない符丁のようなもので一切自然とは会話が出来ないからである。しかし、悲しいことに人間サイドはそのことをまったく知らず、相変わらず現代数学(10進法)を武器に自然と対決しようとしているのである。それが如何に愚かなことであるのかはこれら上記の計算過程を見ればよく分かり、自然にも意思があり、目的もあると言うことが理解できるはずであるが…。
ここにあるのはまさに究極の哲学を語るものであり、宇宙の森羅万物の定めの過程とそのファイナル・ゴ−ルをいみじくも語り上げているものである。もし、これを学び信じるならば、百万遍のお経を唱えるよりもこの数の語りを一瞥する方がよほど効能があり、有難いものであることが分かるはずである。これを理解すればすべては一瞬にして心に解け込み、その一切を悟ることが出来るものである。それと同時にあなたは心が丸くなって無上の満足感に浸れるのである。なぜならば、すべては自然の道理により運行され、それにより生かされているとの思いが心に広がり感謝と充足感が生まれてくるからである。この「数の語り」の教えるものとは、すなわち、完全なる秩序によってのみ調和が現れ、また調和があればそこには永遠の極致とも言うべきものが生じ、そこには誕生があり完があって循環的な姿で永遠に繋いでいると言うことを示しているのである。
これらの数の姿は現代数学的な概念下では決して現れることはない、故に現代数学的な手法では何時までたっても数の持つ元型的な規律性の存在やその本質などは一切掴むことは出来ない。「数」は大きさや量を計ることや、計算などに用いて我々の生活に役立ってはいるが、本来はそんなものではない、それは元型に類比できる知と自律性を持ち、かつそれに付随する意義、役目等も持っている大いなる存在なのである。
しかし、残念なことにその事実を未だ誰も知らず、考えもしない、それが現代数学の現在の姿なのである。
それでは何時まで経っても駄目であり、大きな進展は望めないのである。本当に「数」を理解したければ、数の囁く声を素直に聞いてその本質を知り、それを心で学んですべてを理解することが肝要なのである。今までの我々はただ頭で受け止め今までの慣習に従って処理するだけで、何も新しいものを見出そうとはしないのである。それでは何時まで経っても自然知の本質的なものは分からないままで終わるだけで、これ以上の意識的な成長はまったく望めないのである。
論より証拠、上の計算を眺めるがよい、現代の数学知ではここにある大いなる「数の囁き」、「数の語り」などは何も知ることはできず、すべては単なる意味のない数の羅列、ランダムな数の現れとしか見えないものである。それでは余りにもみじめではないか…!..
本来、あるべき自然の真実も知らず、ただただ盲目的に手探り、足探りの状態で自然をなでまわしながら探り真実を求めようとしているだけ過ぎないのである。目を開けばすべてが一目了然の姿で目の前にあり、完全無欠の状態で目の前に鎮座しているのであるが…。
これらはいみじくも真の「陰」と「陽」の表れを語るものであり、その囁き(計算)を見せている図である。それは天と地の確かな存在象を謳い、見事な調和をもって鎮まって何かを語りかけているものである。それは、これらの数の現われから十分に分かるであろう。
正方図における一つの対角線とそれに90度の相位をもって交わるもう一つの対角線、その二つが巧みな形で織りなすことにより現れる9の連続体、またそれを開くことにより現れる見事な<0の完全世界>、それはまさに天の律が描く驚くべき自然真実の姿であり、確かな神の業と言うべきものである。また、それはまさしく自然天地の法則の存在を語り、現代数学などでは到底及ばない驚くべき自然知の存在をかいま見せ我々をして愕然とさせ、うつろな目を覚まさせてくれるのである。
そんなものがあるなどとは聞いた事も無いなどとは言わず、そこにある規律を持って流れる数の調べを自分の手で確かめて見るべきである。 もし、あなたが、将来一流の数学者、若しくは物理学者を目指しているならば、なお一層真剣にこれらの検証をしてほしい。必ずや、何かを得て、大いに悟る所があるはずである。そこに規律や調和があると言うことは何らかの法則、自然律がそこにはあると言うことである。学問とはそれらの自然の作用を見つけることであり、それを解明して人知に役立てることなのである。それがすなわち、学問の本当の定義というものであり、本当の生きた学問と言うべきものであろう。
世界で一番詳しい辞書とされている O・E・D,すなわち、オックスフオ−ド・イングリッシ デクショナリ−によると 「神」とは宇宙自然の法則や理であり、「科学」とはその法則を解き明かすことであるとはっきり明記してある。そこにあるのは我々日本人の持つ「神」のイメージや「科学」の意味とは大分異なるものであり、まさに本質を見事に突いているものである。 我々日本人はあまりにも「神」と言う言葉に幻惑され、しかもそれを過大視して頼っているような気がするのであるが…。その挙句には「神」を弄(もてあそ)ぶようなほんの一時の神詣りなどを行って空ろな心を満足させているのである。どこかおかしい、何か変だとは感じているのは私だけなのであろうか…?!。
そのあたりの真実は「神の数学」を学んでいるとだんだんに分かってくる、まさに「神」とは大自然の持つ「律」であり、それにより生じる必然的な「理」の姿なのである。願わくば、その律を知り、理を踏んでいってもらいたい、それにより自然の流れのままにすべては過ぎ去り、一生を安楽と満足の中でまっとうすることが出来ると言うものである。自然の流れに逆らう、それが業を生み、病をつくり、災いや不幸をもたらすのである。その挙句には一生を台無しにして路頭に迷うことにもなるのである。天律に従い心を素直に保ち、真っ直ぐに歩き決して後悔しない、これ人生のイロハである。
更に、これだけは言っておきたい、古神道の奥義祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本体であるこの「ひふみ九九算表」は更なる奥義である「神の法陣表」のガイドブックであり、そのための「導きの表」であると言うことを…。恐らく諸氏は唖然とし、二の句はつげないであろう。しかし、ここに内蔵されている律と理を知ることが出来れば、それを用いて何百、何千、何万と連なる「神の法陣」のすべての扉を開け放ち、数多の「神の知」を得ることができるのである。なぜなら、この「ひふみ九九算表」はそれらを解くために誰かが用意した「解法マニアル図」と言うべき姿を持っているものであり、まさしくそのために用意された「解法の図」とも言うべきものだからである。
これらの「錠」と「鍵」とも言うべき二つのものが揃って存在していると言うことは誰かが意図的に創り上げたものと言うことである。そうするとその誰かとはどう考えても意識を持つ「神」以外にはいくら考えても考えられないのである。
やはり意識を持った「神」は存在して我々とクロスしょうと図っているのであろうか…?!。これらの数の現われから見るとどうしても「神」の存在が伺われて仕方がないのであるが…?!。
更に言わなければならない、「ひふみ九九算表」から学んだ天地の手法を用いて「神の法陣」の領域に踏み込めばすべての自然の不可解な謎は次々に明るみに出てくることを知ってほしい。例えば、次元とは個別に存在するのではなく、全体が一つとなった組織的な構造体であり、意識的な有機体であること、その構造仕組みの素晴らしさ等がはっきりと「数」が教えてくれるのである。<これらの仔細は「神の法陣」中級講座10(上)(下)を参照のこと>
また、すべての「神の法陣」の示す次元の姿とはとはすべて中心から外部にわたって連続的なつながりの状態で存在し、しかも、その連続的な繋がりとは決して科学者たちの言う螺旋的な形などではない、もっと劇的な形でつながっているのである。そのあたりのことを数が証明し、しかも、易しく案内してくれるのである。 <この証明は「神の法陣」中級講座bT、bUを参照のこと>
「神の法陣」、それはまさしく人類の求めて来た「遥かなる天の理」、「自然次元の秘密」のすべてを内蔵し、すべての「神の秘密」を明らかにする究極の「数の語り」であり、まさに「天啓の数図」とも言うべきものである。これを読み解くことにより我々人類の知は恐らく数段のステップアップが見られ、一気に新たな知の領域に突入する可能性もあるのである。なんせ苦労して尋ね歩かなくてもすでにその答えは用意され、開示されているのである。何としたことであろうか…!!。
一つ、あなたもこの「神の法陣」の数図を傍らに置いて時間のある時、困難に直面した時、はたまた人生に疑問を抱いた時などに開いてみてはいかがであろうか。何か道筋が読めることになるかもしれない。
何せ自然数が織り上げ、自然数が明らかにしている簡単で美しいな数図、小学生にでも出来るいたってシンプルな数図である。
自分では出来ない、しかしどうしても欲しいと言う方には郵送申し上げてもいい。ただし、返送用の切手だけぐらいはお送り戴きたいものである。それが社会人の常識と言うものであろう。 今月は以上。