神の数学ホームページメニュー 
ホーム 超々科学 超々数学 超々哲学 
超々神道 ちょっと号外 ちょっと号外2 神の数学 旧証言部
神の数学本編    サイトマップ
1.序説 2.『9の秘密』 3.『中心の秘密』 4.『言霊の秘儀』
5.真理の歌1〜6 6.真理の歌7〜12 7.古代日本の真実 8.数が語る真実証明
9.数のささやき(1) 10.数のささやき(2) 11.神の法陣(1) 12.神の法陣(2)
13.神の法陣(3) 14.神の法陣(4) 15.神の法陣(5)
    
 






   
                               

  




















       「神の法陣」大精義講()


    「神の法陣」こと始め(その1)

                                                           2014年 6月上載

 
      現代数学的な知をもっては決して解くことは叶わないもの、それは「自然の知」である。

それを解き放つためにはどうしても日本の叡知「ひふみ九九算」の手を借りなければならない、
      
     しかし、その事実を古代の人々は知っていたが、現代人の誰も知らないと言うのである。何たることか…!!。
     
     まさにそれは歴史の滑稽な悲劇であり、歴史のはかなさと真実の知の疑惑を大いに感じさせる何かが潜んでいるようである。

 

  今回から題を改め、「神の法陣」としての新たな講義を申し上げることにする。

 恐らくはすでにお話申し上げた場面も再々登場するであろうが、もう一度おさらいのつもりで再び検証して戴きたい。もし、十分に承知済み、了解済みと考えるなら改めて「新しい意義」を見出すための更なる一考を案じ出して、この講義に新しい花を添えて戴ければまことに有難いこととして、ただただ感謝を申し上げる次第である。

 ここは無限の「神の花畑」であり、我々人間にとっては意表を突くばかりの「神の花」が咲き誇って永遠無窮の姿(空間)を開示しているものである。これから、それらを次々とご紹介することになるが、出来る限りそれら一つ一つを心に刷り込んで揺るぎない「自然の知」を満喫してもらいたい。 それがこの「神の法陣」講座の趣旨であり、「神の意思」とも言うべきものなのである。

 今になってつらつら思うに人間の文明開化はどうも我々人間の手により花が開き発展したのではなく、そこには大いなる「神の意思」、「宇宙意識」の誘導があったように思えるのである。  要するに、そこには明確な「神」の意思があり、それに操られ乗るような形で現代文明は開化し、進展して来たと言うことである。

 それが直線的文明系とも言うべき現代文明であり、現代まで続いて来た西洋文明形態の本当の素顔と言うものではないのか。

要するに、現代文明が始まってから20世紀末までが第一次文明期であり、無限を求める直線的な10進法計算が活躍してきた時代である。直線的に無限を求める、それは欲の文明、すなわち、物質文明と呼ばれる低文明形態と言ってもいいものであろう。

それは恐らく20世紀で頭打ちの状態となり、この21世紀は次の精神文明期に移るための過度期と言うものであり、これからは、少しづつ変化をして、数百年かけて徐々に開花して行くと思われるものである。。

要するに、目に見えるものしか信じないと言う生き方から、目に見えない世界を包含した世界の存在を考えると言う生き方に変わる一つの過度期、それが21世紀なのである。
 目に見えない世界を包含した世界、それは恐らく、精神(意識)文明と呼ばれるものであり、「10進法(直線法)」にとって代わる新しい計算法(循環法)が活躍する革新的な文明の誕生になるであろう。また、この新しい循環計算法とはいわゆる自然の持つ計算法と同一的なものであり、自然の秘密のすべてを解き明かしてくれる循環的な手法を持つ計算法、すなわち、「9進法(循環法)」なのである。

 

その計算仕組みやその道筋、すなわち、「神の意思」の道筋の現われと真義は「神」の御座である「正方形」とその言葉である「数」を用いて示されているのである。しかし、その存在については今まで誰も気がつかなかったものである。

すなわち、我々には思いもよらなかった「正方形」の中に思いもよらない「数」で語られているもの、すなわち、「正方形」とは空間であり、その中にある「数」とはエネルギ−である。要するに。すべては「空間」と「エネルギ−」の関係を描いているもの、それが「神の法陣」と言う神の秘密を秘めたホ−リイ・モノログ・スクエア(Holy Monologue  square)と言うものであり、遥かな昔から人知れず自然の中に佇みながら存在していたのである。

正方形、それは回転させても、裏返しにしてもまったく変わらず、中心を軸に対称形的存在として常に「神の心」に叶うものなのである。そのあたりから見ても「神」の好みと言うものが円が第一であり、次には正方形であることが伺えられて心がほのぼのとするものである。
 しかし、そんなことは今では、誰も知らない、考えようともしない。

 

そのあたりの事情をしっかり語り尽くし、明らかにする存在と言われていたものが歴史上に一つだけある。それはこの今の文明始まって以来の久しい存在である「魔方陣」であり、今を去ること約4500年前に中国で発生したものと歴史上では言われているものである。
 その解き方の手法こそが現代文明のあり方を決定したものであり、その後の文明のありかたをリ−ドして来たものである。なぜならば、そこにはすべては一直線に進んでこそ正しい答が見出されると言う直線法の始まりが見出されるからである。

それは現代文明の方向を決定づけた計算法、すなわち、「魔方陣」であり、反自然的な計算法である直線系数学の始まりとなるものである。そして、現代文明はそこから始まったのである。

要するに、歴史上、最初の直線的な計算法の姿がそこに見られ、それを発展させたものが10進法と言う現代数学の基本計算法の姿となるものである。もっと、ハッキリ言えば、「魔方陣」の存在こそが現代数学の進むべき方向性を決めたものである。
 ここで、シッカリ覚えていてもらいたい、自然の持つ数学態形は「循環法」であり、現代数学は「直線法」なのである。要するに、基本態が完全に異なるおのであり、これら両者は決して、手を結び合うことは出来ないものである。
 言葉を変えれば、それは現代数学を基調にしている現代西洋科学は決して大いなる「自然の持つ理律」などを解き放つことは出来ないと言うことなのである。

 

一つ、そのあたりを講義申し上げよう、それは未だ誰も述べたことは無く、思いもよらなかったものなので、頭脳明晰な諸氏にとってはまさに噴飯ものと聞こえるかも知れない。
 しかし、数学的な資料を次々と漁っていくとどうしてもそこに落ち着くのであり、それ以前のハッキリした数学的な計算形態を見出すことは今のところ出来ないのである。

 要するに「魔方陣」こそが歴史上にお目見えした最初の現代数学的な計算法であり、そこから直線的な計算法が大勢の人々の間に広がったと推察しても全然無理な事ではない。

 まずは「魔方陣」の姿とその計算法を示しておく必要があるであろう。まあ、大部分の御仁は十分にご承知とは思うが、まずは懐かしさを込めてもう一度その仕組みをご覧あれ…!!。

 昔々の話ではあるが、今でもそこに何らかの真実が隠されていると信じて懸命に研究している人々が大勢いる。しかし、残念ながらただの遊び、暇つぶしと化しただけの有名無実なものであり、とうに本体は朽ち果てているのであるが、誰もそれには気がつく者はいない。
 

 

その前に一言だけは言って置きたい。「魔方陣」は決して自然的なものではない、何故なら、それは数の持つ自然秩序と言うものを人の手で無理に変えたものであり、むしろ完全な反自然的な作品と言えるものである。要するに、それは自然を破壊し簒奪した現代文明と同一の轍(わだち)を持つものであり、本来の大自然の心などはすべて失われているものである。

「現代文明」と「魔方陣」、この二つは共に反自然的な本質同士が共鳴し合ってお互いの心を捉えて止まないものであり、大自然の道とはまったく異なる道を行くものである。
 要するに、現代文明の心と「魔方陣」の心は互いに肝胆相照らし合って離れ難いと言うことであり、同時進行的な形で次々と進んで来て現在に至っていると言えるものである。
 それはすなわち、現代文明が次の文明(精神文明)にその座を明け渡すと同時に「魔方陣」も自然的に姿を消して行く運命にあることを意味しているものである。

現在、中国では「魔方陣」は殆ど忘れ去られ、もはや興味の対象外となっている。 しかるに、これを検証し、研究している人々が最も多いのが何と日本人なそうである。
 しかし、残念ながら、すべては骨折り損のくたびれもうけで誰も新しい「神の秘密」を見出した者はいない。要するに、中は空っぽ、空虚であり、何も無かったと言うことである。

 

それは無理もない、「易」の法則、すなわち、太極、両義、四象、八卦等は3次の「魔方陣」から見出されたと言われているが、しかし、この数千年の間、何十万人、何百万の人々が競って検証したのであるが、誰一人としてもその事実を見出した者はいないのである。すべては単なる伝承物語であり、すべては風聞に過ぎなかったと言うことである。

考えて見るがいい、この「3次の方陣図」は馬の背中にあった図(洛書)であるとか、亀の背中に描かれていた図(河図)であるとかの甚だ伝説的なスト−リ−から生まれたものであり、どう考えても実際的にはあり得ないものである。恐らくは本当の出生を隠すため、そして大衆にアピ−ルする為の一種の方便物語としての必要性があったと言うことであろう。

 

 「現代文明」…自然の秩序をいたずらに破壊し、人間の心のままに自然を改造し簒奪した反自然的な文明であり、自然の心を知ること無く、いずれは自然と共鳴する新しい文明に押されて終焉を迎える運命にあるものである。

 

「魔方陣」…数のあるべき本来の秩序を破壊し、人知のままに数を入れ替えて全体を変容させて我良し(われよし)としているものである。第3者的な目(神の目)で全体を見ると、 辻褄が合わない、不合理極まりないことが散見される甚だ反自然的なものである。

 どうであろうか、これらをまざまざと見つめるとハッキリとその姿が見え、共に自然の真実に沿ったもので無いことが自ずと判ってくるはずである。

 

さあ、話はこれくらいにして本題に移ろう、「神の法陣」は「宇宙自然の叡知」の モノログ・ボックスであり、「神」の言葉である「数」により語られている唯一の自然の叡知の集大成でもある。

その片方は現代物質文明の姿を表す直線世界であり、他方は自然的な循環世界を意味する意識世界とも言うべきものである。要するに、前者は単純で一相的な平面世界である現代文明の姿であり、対して後者は陰と陽と言う二面性を持った平面立体的な自然世界を示していると言うことである。それを例えれば、平面世界では死んだらそれまでと言う一面的な概念であるが、平面立体世界では循環的思想、すなわち、輪廻転生により生と死がめぐり巡っていると言う二面的な概念が通常なのである。

 考えて見ると、現在の人々も徐々に輪廻転生の存在を信じるような風潮になりつつあるようであり、いろいろと噂は耳に入ってくる。
 何と、最近では学識豊富な学者達も輪廻転生を口にするようになり、様々な資料を集めて世間に報告し、それを皆が争って聞くような世の中になって来ていると言うことである。

それはまさに数十年前とは様変わりの社会が誕生していると言うことであり、少しずつ、少しずつ人々の心は変わり、新しいパラダイムが誕生しつつあると言うことであろう。


 


 なに、考えて見ると他愛のない話であり、当たり前の話である。ただ、深く考えずにただ簡単な方に目が行った結果それに乗ってしまった、それが現代数学手法なのである。

 

「神の法陣」、それは宇宙意識(神)からのメッセ−ジであり、「数」と言う言葉で書かれた知的生物に対する「神」と共存するためラブレタ−と言うべきものであろう。
 それはやっと今、神の言葉を解すことが可能になったと判断された時に初めて開くことが許されるのであり、読むことが可能になったものである。   

我々は出来る限りその内容を読み取り、なるべく早くそこに記されている「神の心」と言うものを学ばななければない。しかし、知の系統が完全に違い、また、知のランクが大巾に異なるのでその意味の解明と答は大変難儀なものとなるであろう。これらの「神のメッセ−ジ」は無限状態で連綿と続き終わりというものは無い。

しかし、ご安心あれ、それはある程度の段階で終了し、その繰り返しがあるだけである。 その姿はまさに自然の形態そのものである。

それ故にある程度まで学べばそれで終了なのであり、そこまでを徹底して攻めればいいだけである。そのあとのものはただその検証として時に応じて必要となるだけである。


 


   見るがいい、上の図の左は直線法(10進法)による正方図であり、右側は循環法(ひふみ算)による正方図、すなわち「神の数学」の中の「神の法陣」の姿である。

 上の図の右は古神道より見出された1〜9までの数の循環数から成り立つもので、それを古神道では「ひふみ…天地の数歌」と呼ばれ、第一祝詞として崇められて来たものである。

何のことは無い、数とは1〜9で完結するものでその後はその繰り返しであると言っているのであり、その繰り返しこそが「自然の道」であると言っているのである。

 要するに、それは一部では「日本式九進法」と呼ばれているもので、本来は古神道の中に真実の扉を開けるための≪秘密のキ−≫として遥かな古来から伝承されているものである。

それは、一つの鍵(キ−)ではあるが、その使い方により真実を閉める(隠す)キ−となり、また逆に使うと、今度は真実を開けるキ−として使うことが出来るものである。

 

しかし、その存在については一切歴史では語られてはいない、ただ、日本の古代物語ではかすかに「天の岩戸は閉ざされた」とだけ伝え。すべてはそれにより暗闇の世界(反自然的な世界)になったと伝えられている。また、その後開けられたと伝承は伝えているが、今でも世の中は依然として暗闇状態が続いて来ていることからそれは疑わしいと言わざるを得ない


 

 

                                                 【「神の法陣」中級講座より部分抜粋】


 
 上の図は『宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)』の上半分(右回り)下半分(左回り)の図である。 十分に納得いくまで何回もなぞって見てほしい。c


 自然をよく見るがいい。すべて自然は循環で始まり、循環で終わっている、すなわち、0で始まり、9で終わっているのである。循環とは最初と最後は全く同一なものである。

極小の電子の動きから大は宇宙の運動まですべては循環で始まり循環で終わり、すべては丸く納まっているのである。それにより自然のすべては永遠を保ち、永遠のエネルギ−を得ることが出来るのである。循環こそが自然の大律であり、本律と言うものなのである。
 大きい循環の中に身を寄せながら、また自らも循環しエネルギ−を紡いで遥かなる永遠に向かう、すべてはその繰り返しであり、その運動は無限反射的に何処までも限り無く続いているのである。

そのあたりのことを「数」が詳しく教えてくれることを是非とも知るべきである。

そのための手順指導書と言うものが「ひふみ九九算表」であり、それを明確な形でモデル化し実践しているものが「神の方陣」、すなわち、その真実を語る「神の筆」と言うものである。

すべては永遠の真理であり、決して変わることの無い自然真実のほとばしリである。

そして永遠に尽きぬ「神」のモノログ(独り言)であり、常に自然の真実を語って止まないものである。

その自然の事実と我々の知を重ね合わせて確認することが大切であり、本来は必要なことなのである。 ただただ、今のように漫然と今までの知を繰り返すだけでは何ら進歩は無く、やがては終焉が訪れてすべては終わることになることを知らなければならない。

 

 「神の数学」、それは自然の知の存在を明らかにしてくれる「神」の贈りものであり、これからの人類の進む道、すなわち、自然とコンビネ−ションを組んだホ−リステックな自然の道の存在を教えてくれるものである。それはひょっとすると失われたとされる古代の「カムナガラの道」と言うものかも知れない。
 すなわち、それは自然と共に歩む共生と循環の道であり、同時に自然も人間も大きな循環の輪の中にある同一的な存在であり、同じ轍を歩んでいることを教えているものである。

 

この20世紀末に日本に突如として現われた「神の数学」、それは単なる数学にあらずして一つの自然を巡る物理物性の開示であり、自然哲学の根本的な道を示してくれる羅針盤的なものである。それは言っている、あなた方の持つ現代知で自然を追跡すると言うことなどは絶対に出来ないと…!!。
 なぜならば、現代知は片チンバな学であり、不完全なロ−カル的(局所的)な知であるからである。しかし、そんなことは人類は知らず、営々と己の知を積み重ねて満足しているのである。

 あなた方は怒り心頭に発するであろう、しかし、よく振りかえって過去を見るがよい、 この数千年かけて自然と対話を計ろうと試みてきたが、未だに、それが叶わないのである。

 いや、人間が努力して新たな知を獲得し更なる対話を計ろうとすればするほど、人間と自然との差は益々大きくなるばかりであり、きしみは益々大きくなるだけである。

何故なのであろうか、誰か考えたことがあるのであろうか…!?。

 

さあ、余談はこのくらいにして本題の「神の数学」の講義に入ろう、準備はよろしいかな…!?

 まあ、今回は「神の法陣」物語の初陣の章と言うべきものであるので小、中学生でも解るような簡単な「数と構図」の物語の絵解きからまずは始めることにしょう。

 今回は例として、「神の法陣」の4次元表を用いて易しいけど不思議な物語を語ることにしよう。すべては自然の秩序と調和が醸し出す天(陰)と地(陽)のムスビの驚くべき真実の姿であり、「数」の語る古今未曾有の陰陽の理の現われである。疑問を持つ御仁は他の様々な「神の法陣」の次元表を用いて調べて見るがよい、必ず納得することになるはずである。

まさに、それは自然の持つ真実知の妙なる構図の素晴らしさであり、「正図」と「数」の奏でる妙なるシンホニ−の調べとその美しさを語るものである。

 
 あなた方現代人は「陰」「陽」の言葉は持ってはいるが、その本当の違いは誰も知らない。

我々は何千年もかけて「陰」と「陽」の正体とその正しい組み合わせを追っては来たが、人間知を誇っている今の時代になっても未だ数千年前と何ら変らず、少しの進歩もない。     
 相変わらず、同じ言葉の繰り返しが続き、本性を求めて呻吟を繰り返しているだけである。そこには何の進歩もなければ、何の進展もない、ただ時間の流れがあるだけである。

そこで私は考えた、誰も出来なかった「陰」「陽」の本当の意味を一つの「形」をもって諸氏に説明すれば、そこにある「本来の意味」がハッキリ解るのではないかと…!!。

あなた方は不快に感じるであろう、今まで4千年にわたり多くの人が求めて止まなかった「陰」「陽」の真実を一介の田舎学者が「形」をもって表すことが出来るとほざくのはまさに言語道断であり、場合によっては捨て置かんとばかり息巻くことであろう。

しかし、ご安心召され、「神の法陣」を用いて「陰」と「陽」を表すと、何と小、中学生にでも解るような簡単な形で表すことが出来るのであり、理解も簡単に出来るのである。

しかも、「陰」+「陽」=完全と言う論証まで現われ、すべては丸く納まり、決して不整合は無いものである。

 

それによると、「陰」の形と「陽」の形は完全な相似形であり、ただその現われ方は中心を軸に180度遷移(変位)している完全真逆な形を持っているものと言うことが解る。 要するに、「陰」と「陽」を正しく組み合わせると、それはピッタリと完合し、そこには不等形的な姿はなく、すべてにわたって完結な形が生まれ我々の心を満足で満たしてくれると言うのである。

 

では「神の法陣」を用いて「陰」と「陽」の姿「その形」を覗いてみることにしょう。

 

サンプルとして4次元の「神の法陣」を用いて「陰」と「陽」の姿とその仔細の一切を覗いて見ることにしょう。しかし、これで一切の象のすべてが明らかになり、完結完了した訳ではない。あとはあなた方の目と直感と洞察力を駆使して更なる説明を見出して、世の中に広めて貰いたい。
 要するに、「現代数学」は別名、直線数学と呼ばれるものであり、無限を求めてることにより自然真理を見出そうと試みているものである。しかし、結局最後に見出したものは複雑、カオスと言う不可解な世界であり、とてもとても人間の知などでは理解の出来ないとんでもない複雑不可知の世界であったのである。

 


 【1】 上記例の法陣表内に示した@〜Gの線図(色部分=バック地に着色した所)を見てほしい。そこに並ぶ二つの線図はそれぞれ「相対的反図」であり、中心点を軸に「陰」と「陽」の対称的な位置にある形である。それは図形を見ればそれぞれ中心点を軸に180度反転していることからも判る。要するに、「陰」と「陽」の違いとは完全に相似的で同一的なものが180度反転したもの、すなわちお互いが逆位相の関係になっているものと言うことである。
 逆に言えば、右欄の表に現れている美しい同一数の並びの出現をもたらしているものはまさに「正陰」と「正陽」の見事な合体による円満完結した数の現われなのである。 恐らく、心ある御仁ならそこにある完全な「造形の美」や「完全な神の秩序」の存在に気が付き感嘆の涙を流すであろう。まさに「神」の心意気とその息吹が感じられる「神」の作品である。

 

【2】 また、図における「正陰」「正陽」の形を組み合わせて合一すると、そこには欠けとか不対称形のような不完全性は一切無く、すべては対称性を持っている「円満な形」が出現することがお判りであろう。要するに、対称性を持っている円満な形とは、すなわち単純で、美しく、調和に満ちているものであり、素直に心に共鳴して永遠に響き渡るものと言うことである。

 

【3】 最後に現われた単純で美しい数列を加算して一桁化すると、どうであろう、そこには見事な「ひふみ天地の数歌」がである12345678の数が現われて最後のとどめをさしているではないか…!!。そのあたりから見ても古神道の祝詞とは偉大な力を持つ「神の真言」であり、それを所持していた日本民族の起源には間違いなく「神」が関係し、力を貸して来ていることが判るはずである。


【4】よく言われている哲学的な言葉に「対立する「陰」と「陽」は対立しながら相補的な関係にある」がある。恐らくその意味は中々判らないはずである。それをここで誰にでも解る方法で説明しょう。 すなわち、対立しているものとは相対的な位置にある二つの完全相似形のことである。そして相補的な関係で完全を示しているものが最後にある調和を見せている8の数群である。この8の数群の出現こそがその正しさの証明図そのものなのである。 これでその言葉の意味そのものがよくお判りであろう、すべてはこの言葉通りのものである。
 意味の判らない者は何回でも手で考えることである。何回でも手写しして行けばそのうちにヒラメキが走り、自ずと理解が出来るはずである。その後は各自で考えてそこにある更なる真実を引っ張り出し、まな板の上に載せて貰いたい。すべては「神の秘密」であり、天の采配の通りの法則が存在する証でもある。


 これはすべての「神の法陣表」に当てはまるものである。出来ればあなたの手で他の「神の法陣表」を検索検証して更なる真実を見出してもらいたい。それにより「神の法陣表」こそが、まがうことない自然の原理を秘めた由緒正しい「神のメッセ−ジ」であることがお判りになるはずである。


 このように「数」「図形」をからませることにより、そこには自然の蓋然的な真理の姿が現われるのであり、人間知では知ることの出来なかった「神」の叡知と言うものが浮かび上って来るのである。それはすなわち、欠けや歪みが無く、対称形的な「円満な相」であることを自然は教えてくれるのである。

それらは恐らくは現代物理学(フィジックス)では見出すことは不可能であり、これから始まる新しい物理体系、すなわち、哲学的な体系を伴った 超物理(メタ・フィジックス)にゆだねられることになるであろう。

フィジックスはもの(物質)の表面、見える所を探る学問であり、メタ・フィジックスは意識を含む哲学的内面サイド、あるいは側面サイドを包む大きな超物理学的な体系と言うものである。要するに、現代物理学では解明不能な「見えない世界(あの世)」「見える世界(この世)」をまたぐ包括的な物理学を指すものである。
 恐らく、その日本語版が「形而上」と言う言葉であり、最近ではほとんど見かけることもなくなった稀な日本語である。

 

さあ、今後にわたって「神の法陣」講座は益々興味の尽きない「不可思議さ」、現代知では解けない「不思議な哲学」が展開されるのであるが、果たして現代人の心を動かして理解に至らしめるものであろうか…!。しかし、これを越えない限り、新しい未知のエリアを獲得することなどは到底不可能であることを知って欲しい。

 

私はいぶかしむ…!!?。現代の人々が理解するのは少々難であり、受け入れられるには時機早尚ではなかったかと…!!。 果たしてどうなのであろうか…!!?。私の心は千々に乱れて休むこともない。

                                         (今月講座は完)



               「神の法陣」大精義講()


       「神の法陣」こと始め(その2)
                              
2014年 7月 上載



   『神の法陣』、それは正しい数序≠用いて表される大いなる宇宙摂理(宇宙原理)のタブレットである。
      
   それはすでに与えられているのであり、あとは正しく読み解く術(
すべ)を我々が会得しなければならないのである。


  
 「神の法陣」、それは人知の向こうにあるもの、すなわち、「現代科学知」では探索出来ない未知なる領域に属する自然象を現代知であぶり出すためのものである。

我々の人間知では大宇宙の持つ構造スケ−ルとの相互的な連絡網、すなわち相互的なフィ−ドバック・ル−プと言う存在を利用することはまったく叶わないことである。

なぜならば、我々の持つ現代知は一つのロ−カル的な知であり、宇宙全般に通じる「高いレベルの知」、すなわち、自然のネットワ−ク知とは一切相容れぬものだからである。

 

要するに、我々の現代知ではどうしても大自然は測れない、自然と会話をすることは出来ないと言うことである。また、それはすなわち、何時まで経っても自然とは相容れない、いくら頑張っても常に平行線を辿っているだけと言うことである。 それは大きな目で見るとまことに遺憾なことであり、また、人類にとっては大きな時間的なロスであり、取り返しのつかないものと言えよう。

 

考えて見るがよい、宇宙自然は何百億年から何千億年という長い時間をかけて出来上がったものであり、今では大完成、完全完成の域に至ったものである。その間には数え切れないほどのフィ−ドバックを繰り返しながら、未完成を完成に、完成を大完成にと循環を繰り返しながら今の完璧な自然宇宙を創り上げて来たのである。要するに、そこにあるのは最早不具合、不整合、不合理と言うものは一切無縁、すなわち欠陥は何も無く完全無欠であり、完全無上のものと言ってもいいものだけである。

 それに比べれば、我々の科学知は僅かに300年程度のものであり、まだ産毛の生えたばかりの揺籃状態にあるものである。そこにあるのは余りにも大きい時間の差であり、余りにも大きい永劫と瞬時の差があるのである。恐らく、その差とは「神」と「人間」の差であり、永遠と刹那の差と言ってもいいほどのものである。

 

しかし、あなた方には信じられないであろうが、宇宙を創った「神」は大変親切であり、愛情の心を持って自らのつくり上げた叡知というものを書き残し、「神の心」を探し求めようとする知的な生命体のために一連の知の道標を書き残していたのである。それが「神の法陣」と言う「神の叡知」のタブレットと言うものである。

   この「神の法陣」は「数」と言う神の文字で書かれた「宇宙の叡知」の集大成と言ってもいいものである。


 あなた方は「宇宙の叡知」そんなものはある筈がないとうそぶくであろう、しかし、それはあなた方下々の人だけであり、何も知らない無知な者の哀れな台詞と言ってもいいものである。

長年自然の研究にいそしんで来た有名な科学者達は異口同音に自然の成り立ちとその働きには我々人間には解せない神秘な作用と力があり、それには宇宙の意識が深く関わっていることは疑いはないと言っているのである。

要するに、宇宙の意識は言葉や形などではとても表現できない「宇宙の叡知」と言うものを「数」と「図」に託して書き残したもの、それがこの「神の法陣」なのである。

しかも、そのような由緒ある事実を我々の祖である古代日本人はしっかり知っていたのであり、恭しく奉っりながら当時から現代まで一切手も付けずに「古神道」として延々と伝承して来たのである。それを単なる宗教として扱って来たので、いろいろと無理と誤解が生じ、現代人にはそっぽ向かれているのが現実である。ここで本来の「あるべき姿」に戻そさなければならない…!!。

 

まずは、それらの事情をこれから探索し、明らかにしなければならない。とにかく、その証拠が反駁しょうもない真実と永遠な形をもって現実に現われているのであり、すでに這い出して話しかけているのである。それが3000年と言う長い閉ざされた歴史を持つ「古神道」の本性本髄であり、そこから現われた驚くべき「宇宙の叡知」を綴った「数の道」と言うものである。

 

今ではその重大なる歴史的な事実はすっかり忘れ去られてはいるが、恐らく、数万年前の出来事であろうと推測される。それでも今から5000年前あたりまでは最重要な知識として日本民族は伝承されて来た内容をしっかり知っていたことは間違いない。それを歴史伝承書の類が明らかにしているのであるが、誰も確かめ、明らかにしょうとする者などはいなかったのである。

その歴史的な伝承文献は言う、「BC2241年に伏義と神農は易と薬学を持ち帰った」と…!!。  何と今から4000年以上も前のこと、しかも歴史の曙の時代のことである。

要するに、留学生として来日していた伏義と神農は日本から密かに「易」のすべてを学んで持ち帰ったと言っているのである。しかし、残念ながら本当の「神の法陣」の奥儀までは知ることは叶わず、ただその風聞とまがいモノ(レプリカ)あたりを持ち帰ったと言うのが真相であろう。

要するに、本当の「神の法陣」の秘密は守られて永遠の眠りに就いたまま現在に至っているのである。

考えて見れば当たり前のことである、そう簡単に留学生が国家的に大切な伝承秘密を盗み取れる筈はないのである。その後恐らく伏義は故国に帰ってからは苦心惨憺して人々の心を満足させるような方陣を作り上げ、大衆向けのアピ−ル手段として馬の背中にあった模様、すなわち「河図」とか、亀の甲羅にあった模様図、すなわち、「洛書」として世の中に出したのであろう。

それが史上有名な3次の「魔方陣」であり、当時は史上最高の「神の語り」、「不思議な図」として持て囃されたものである。更には時代が経って漢時代の孔安国一派によってそれから「易」が生み出されたと伝えられている。それが中国易と言うものの本当の正体であり、その起源でもある。

 

これらは決して私の独断と偏見によるいい加減な白昼夢的な言葉などでは無い、確とした名のある歴史探索家達が過去に見出した真実の歴史のストリ−を調べ上げ、今回の新たに見出された検証図を元にした確実な再現を見たものである。 出来る限りここでもう一度取り上げて彼等先人達の御霊に捧げつつ改めて鎮魂の序とするつもりである。

それらの証言例と言うものをこれから綴り上げ、ことの次第の一切をあなた方に改めてお知らせしたいと思う。

 

@  20世紀末に古神道の祝詞が開かれ、そこから易の原本となる「ひふみ九九算表」が見つかり、そこには完全な易の本元である「太極」、「両義」、「四象」、「八卦」などの諸象が見事な形で鎮座していたのである。 何と、それらは古代日本に起源するものであったのであり、まさに歴史を覆す大発見と言うものである。その事実はすなわち、日本の超古代文献の記述は正しかったと言うことであり、改めてすべてを見直すことが必要になると言うことである。

 一方、中国易の初発元である3次の「魔方陣」からはこれらの諸像は一切見つかってはいない、その事実はただの風聞にすぎないものであったと言う確たる証拠である。考えて見るがよい、その後数千年間、何十万、何百万の人々が「3次魔方陣」から「易」の言葉を見出そうと苦労を重ねたのであるが、すべては無に帰しているのである。

 

A   中国の古史古伝である老子経は次のように述べている「上古の日本の地には高度な文明をもった人々がいて様々な生活技術を発達させていた、そして後代に中国に出現した哲学、易思想、医学などは神農氏によって日本から伝えられたものであり、その流れの中で展開されて来たものである」と…!!。  それはまさに日本の超古代文献の物語そのままではないか…!!。

 

    B   中国文明の根本教典である殷王室室から周王に伝えられた「洪範」、あるいは易図である「河図」、「洛書」は日本にその起源があると正気久会氏      は「古代史論考」の中で述べている。要するに、日本の古代文献の記述は正しいものであったと氏は確たる論拠をもって証言しているのである。

 

C   最近の例を見て見よう、これも人のいい日本人は完全に騙されて疑いも持たないことの実例であり、我々もこれからは考えを改める必要があることを示すものである。 少々遅きに失した感があるのであるがが…!!。                            

 最近、中国発の気功が日本人の心をくすぐっているようであるが騙されてはいけない。あれは大正末期から昭和にかけて多くの日本人霊道師達が大陸に赴き、人々に「気」の存在を教え、「気」を用いて多くの病人達を救ったり、不思議な事を行ったりしたのである。それまでは中国には「仙道」は噂としては有ったが、気功の類は何も無かったのが事実である。それがいつの間にか「気功」とは中国が発祥の地であり、数千年の歴史を持つなどと言いだして日本人の心を揺すぶっているのである。

まあ、半分は日本のマスコミがそうさせているのであろうが…!!。

今の日本人にはそのような歴史の真実を見通す目、すなわち歴史を見る達観した洞察力と言うものが甚だ欠けていると言う何よりの証拠であろう。

 

 歴史的な大きな目で見るがいい、今までに中国にそのような不可思議な力を持つ者が存在していたなら、何十回と言う王朝歴史の崩壊の際には危険分子として 真っ先に抹殺されていたはずであり、決して無事では済まされなかったはずである。

要するに、歴史的にもそのような不埒な者は存在することを決して権力者達は許されなかったのであり、それ故に「気功」と言うものは一切存在しなかったと断言してもいいのである。

それが中国の歴史のほんとうの歩みであり、歴史の真実と言うものである。とにかく日本人は歴史を正面から見据えるだけで、裏面や背景に隠れている事実を探ると言うことが大変不得手である。要するに、疑うと言う心がまったく無く表面のみを見て判断を下してよしといるのである。

 

ちなみに、当時の日本人霊道師達は世界にも広がって名を馳せていたことはご存知かな…?!!。

 その名残が今世界中で有名になっている「レイキ(霊気)」と呼ばれている身体の病を治す気の治療法である。日本では余り知られてはいないが、ヨーロッパやアメリカでは大変有名な存在である。あなた方も一度くらいは名前を聞いたことがあるであろう。

確かに今までは中国は偉大な文化文明をもった国であると我々日本人は少々崇拝の念を抱いて来たことは確かである。しかし、ここに来て何かおかしい、何か変であると疑いを持ち始めているのもこれまた事実である。彼らは余りにも世の中知らずであり、余りにも傍若無人の態度がひどすぎて会話が成り立たたないのである。要するに現実があればそれは代々伝わって来たものであるとうそぶいているのである。彼らにとっては現実がすべてであり、過去などはどうでもいいのである。

 例えば、日本の先端技術を次々と金で買い入れながら、5〜6年後にはすべては中国で開発したハイテクであると堂々と宣言して世界から失笑を買っている有様である。

そのような態度を見ていると遥かな過去においても同様なことが起っていることは十分に推察されることであり、疑いのないことであると言えよう。

まさにやることなすこと、すべては時代にさかのぼった旧態依然、時代錯誤の感があり、それでも言うことだけは威厳堂々として世界を煙にまいている実情である。しかし、今ではすべては完全に見透かされているのであるが、それさえも知らず、言いたい放題を尽くして世界中からうとまれている現状である。

 

要するにこれが中国と言うおかしなおかしな国の歴史と言うものであり、欺瞞が一杯の歴史の国の真実と言うものである。
 それも今始まったものではない、昔から伝統的に延々と続いている習慣性のある国である。古代の日本もこれらのなりふり構わぬ強引さにかき回されて有るべき歴史の事実を我田引水的に曲げられてきたのは間違いないことである。要するに、すべては日本で発祥した学問や文明を自分達がつくり上げたものとしてすべてを簒奪し、歴史を嘘で固めて書き上げ国の歴史として世に出して来たのである。、それが中国の歴史の事実であり、今までの歴史と言うものである。

その事実を日本の古代文書は明らかにしているのであるが、人のいい日本人はこれらの古代文書類の内容を否定するだけで信じようともせず、ただ捨て置いて来たのである。

 

さあ、今月も日本発の「神の法陣」の語る宇宙自然の真実を開いて見よう……!!。

 

信じられなければ、心の片隅にでも置くがよかろう、そして将来の何時かの時にそれを手繰りだして調べればいいのである。「神の数学」は決して古くはならず、常に輝いているものである。何十年経とうが、何百年過ぎようが常に新しいものとして輝いて存在しているものである。

ここに来て、ようやく彼等(科学者達)は、遅まきながら自分達の持っている数学手法と自然の所持している数学手法が噛み合わないことに気が付き、その原因をまさぐり始めた。例えば、次のような根本的な論点の発生事実を見ればそのことがよく判るはずである。

 

@  「10進法」を用いて、ある重要な値を計算すると、何時もそこには無限大が現れてすべてはご破算になり、必要な答の数字が現れないのである。

 

A   例えば、素粒子のエネルギ−と質量はきわめて小さいはずなのであるが、それをきちんと正確に計算しようとすれば、何時の間にかそこには無限大   が現れて、すべてがお終りになるのである。要するに彼等は無限大を制することが出来ず、ジレンマに陥って困り果てているのである。

 

B   また、この無限大の出現とその存在のために、一部の物理学者は「場の量子論の基礎には根本的な欠陥があるのではないか」と考えて、見直しを   進めている最中であるが、果たしてその解明は如何に…ということである。

そこで私は言いたい。欠陥があるのは量子論の基礎ではなく、そこに用いられている現代数学手法、すなわち「10進法」そのものに問題があるのであると…。

「神の数学」の基本理には「最大=最小」「9=0」という自然理が常に存在するのである、これが自然の振る舞いの正体であることをお忘れなく……!!!。

すなわち、この「最大=最小」「9=0」という自然理と言うものをはっきり理解しない限り、現代数学はもはや一歩も進めず、何も解くことが叶わないということである。

ところが、これは現代数学では決して解けない問題であり、それ故に数学者は極力これを避け、逃げ回っている状態である。要するに、現代数学は直線数学体系であり、そこにおいては端と端は決してつながることなく、進めば進むほどその間の距離は開き、決して「=」で結ばれることはないのである。

要するに9=0、すなわち無限大=無限小と言う自然法則の存在をまったく知らないのである。

 

今回はまずは「数」の小手調べ(基本)から始めることにする。まずはあなた方の最大の疑問である【定理9=0】についての説明を詳しく申し上げることにしょう。

 
 

 

 
   

  
    ここで次にもう一つの疑惑が出る、すなわち、「奇次元法陣」の場合、どうしても中心セルの数は常に単(ひとつ)であり、結びつく相手は何も無いと言う事実である。 要するに結びつく相手がない、完全に不足していると言うことである。さて、さて、貴方ならどうするのか…!!。

 

例として「神の法陣」の奇数次元である3次元図を見てみよう。

 

  
 自然に於いての「中心」とはまさに「神の座」であり、すべてはその中心の座を経ることにより、不可思議な力を発揮出来て全体がまとまると言うことである。

人間でも同じである、身体の中心を利用することにより、とんでもない力の業が生じてくることが多々ある。要するに、中心に生じる力はその場に応じて2倍、3倍、4倍と増やすことが可能なものである。この「3次元表」の場合は中心に相対する対極と言う二つの力なので中心は「5+5」となるのである。これが、今まで何回も何回も述べていた「神の数学」で言う「宇宙愛の仕組み」、すなわちダブル処理と言う数の処理法と言うものである。

 

 そのあたりの知については「現代数学」はまったく知らない。中心とは如何なる場合にも、如何なる時にでも1ヶと言う固定観念で諸象を処理しようとしているだけである。

 理詰めで考えればまことに簡単なことであり、当たり前なことと言うべきなのであるが…!!。

 

諸氏においてはまずこのような「現代数学」では未だ不定の「数の語り」と言うものを学び取り、そこに示されている自然の驚くべき「真実の証」を自分の手でしっかりと確かめることである。そのためには自然に対する畏敬と驚嘆、そしてたゆまぬ好奇心を常に感じ持ち続ける、それが自分の心と自然を結びつけるための唯一の手綱であり、その第一歩となるものである。

それがやがては生き生きとした知的向上心を生み出し、溌剌とした日常を送るようなきっかけとなることは間違いはないことである。

また、心が自然に溌剌となるといろいろな方向へと目が向き別な新しい世界を見えて来るのである。 同時にそこにまた新しい感動が生まれ、そしてまた心が大きく育っていくのである。

   

   ≪数の語る参考絵図≫


  

  
                                                          【以上の各図は「神の法陣」初級講座(10)より転載】 


  

お判りであろうが、これらの数の語りは「現代数学」の教科書には載ってはいない。なぜならば10進法にはまったくそぐわないからである。
 しかし、この図を知らない限り、数の素性(本性、属性)を明かすことは出来ず、あるべき「宇宙自然の叡知」を解明することなどは全く出来ないと言うことである。

 

要するに、現代数学は「多桁の数は属性を表すものであり、一桁の数こそが数の本質を表すものである」と言うことをまったく知らないと言うことである。

それを知ることにより今まで培ってきた固定的なものの見方は多面的な見方に変わり、あなたの脳は大きな知のパラダイムの変化を受けシヨック状態に陥るかもしれない。
 しかし、それは一つの知のリボリュションであり知の進歩の始まりであることを知って欲しい。

 

あなたが現代数学のような固定的な観念に固執する限り、変幻自在な自然の妙理を理解することは出来ず、ただ悩みに悩み、悶え苦しんですべてを否定する羽目になるのである。

要するに、そこには自然から見ると進歩発展などは一切無いのであり、ただあるのは複雑とカオスの世界だけである。それは現に現代物理学が証明しているではないか…!!。

すべては現代数学の蒙昧、無知が招いたことであり、自然の法則を無視して人知を積み重ねて満足していたことによるものである。
 そろそろ我々はその事実を知ってもいい頃であり、目覚める時でもあろう。  新しい世界を見つけて新たな挑戦を始めることが、今どうしても必要なのである。
 それがやがては実を結んで自然との会話が成立して共存並歩に入り、更には高いレベルからのフィ−ドバック・ル−プへと繋がって相互関係が成立していくことになるのである。

 とにかく、今のままでは現代科学知は自然壊死を免れなく、それと同時に、文明は否が応でも退化の歩を歩むことになるものである。

 どうであろう、残された時間はあと100年くらいであろうか…!!?。 とにかく、あまり時間は残されてはいないのは確かである…!!。
 
 あなた方の好きな予言者ノストラダムスも言っているではないか「別のモノが出て来なければ世界は世紀末までには破滅の道を歩むことになる」 …!!!

さあ、どうあっても今が大切な瀬戸際であり、今どう動くかにより人類の未来が定まって来ると言うことであり、人類の未来はあなた方の双肩にかかっているのである。 
 その意味でもあなた方の責任は甚だ重大であり、一人一人がこれからの人類の遭遇する正念場と言うものを想定し、それに対する自然に叶う答を用意しておかなければならないのである。
  なぜならば、その答こそがこの先、あなた方とあなた方の家族、大きく言えば日本民族を守る救世主となるはずであるからである。
  
  とにかく、これからの10年〜20年の間には世界的な大動乱が始まるであろう。それはまずは水や食料、あるいはエネルギ−を巡って起る大動乱であり、あるいは人種、宗教をめぐる国家的規模の大戦争と言うものかもしれない。
  今や、各国が生き残りを賭けての全面的な争いが始まろうとしているのであり、最早その火ぶたは切られているのである。それは日本をめぐる国際的なやり取りを見ればわかるであろ  
 

  ただ、あなた方日本人は裏面を見て深く考察はせず、表面の現象だけ見てよしとする傾向があるのである。要するに、太古から事上(ことあげ)げ好まない民族なのである。
 
   恐らく、、西暦2050年までには食料の大不足が起るのは確実であり、それを避けるためには人類の数を大幅に減らす必要があると世界の指導者達は考えているようである。
  考えて見るがよい、今に状態における適正な人口規模は30億人〜50億人と言われている。しかし、現在の世界人口は70億人であり、2050年までには100億人となる事を…!!。

  さあ、世界を支配している者達はこれからどのような手を使って人口削減に乗り出して来るであろうか…!!?、皆で考えようではないか…!!。
 折角、日本には世界で一番の巨大コンピュ−タが存在するのである、それらを使って未来を予想し、手を考えることが出来るはずである。使わない手は無い…!!。使わなかったらまさに 無用の長物であり、膨大な税金を投入している意味が無い。それもそれも今から始めなければ間に合わないのである。 さあ、さあ…!!。意を決しようではないか…!!。

さて今月は「神の法陣」の基本的な構図絵を掲げて説明したのであるが、出来る限り徹底的に検証研鑽して戴きたい。すべては「宇宙意識」、「神の心」の写しであり、すべては未来永劫決して変化などは無い「宇宙の叡知」が開示している永遠に通じるシナリオの一端と言ってもいいものである。
 とにかく、「数」をなぞりながら考える、それが「宇宙の心」に至る最短の道である。

                                                                                 (今月の講座完)



  「神の法陣」大精義講()


       「神の法陣」こと始め(その3)
                              
2014年 8月 上載


  
    「神の法陣」、それは人知のまだ届かない宇宙次元の成り立ちの由来やその構造知までもその中に内蔵し、
         更には人類の未だ想像すら出来ない自然宇宙のあるべき法則や調和状態の一切も数と言う言葉で教えている唯一の存在である。


 今の世の中、「現代数学こそが唯一無二の真理を究めるもの」と考えて、人類全体がそれに向かって足踏みを揃え、歩を進めている現状である。いや、そればかりか現代文明が始まって以来その体制は少しも変わることは無い。考えて見れば、約300年ほど前に現代科学が産声を挙げて以来現代まで、現代数学の陣は少しも揺るぐような事態はまったくなかったと言ってもいい。しかし、ここに来て深く自然を探っていくといろいろとそりの合わない部分が見つかって来ているのであり、計算的にも辻褄の合わない多くの事象が出て来ているのである。

  それはすなわち、現代科学文明は現代数学を信頼できる基本の柱として成りたっているものであり、その中でも特に現代物理は群を抜いて数学べったりの有り様であるのはこれまた疑いの無い事実である。その結果が今ある進歩のまったく無い物理学であり、自然を説明できない哲学の衰退である。また、自然とはある程度の共有点をもつ宗教界であるが、それもすべてにわたって科学と反目しあって孤立状態が続いていることは諸氏も御存じの通りである。

 

 「現代数学は理論の哲学的な背景、物理的な実証等を無視して、余りにも数学≠ノ頼り過ぎている」とデビット・ホ−ムはその書の中で嘆き、また「『現代数学』には根本的な指導原理である自然原理と言うものは無い」とも言っているのである。それはすなわち、自然界が基本としている自然の大律と言うものは数学の中には全く無く、すべては人間原理の優先が先になっている。 それが自然と会話が成り立っことが出来ない最大の理由であると言っているのである。

 

また現代物理の雄であるマイケル・グリ−ン(ケンブリッチ大学教授)は「先端物理学理論が戸惑い、真実にアプローチが出来ないのは、過度に現代数学に頼り過ぎていることが原因である」と述べ、もっと抽象数学(意識数学のことか…?)の発展を期すべきである」と論じているのも、これまた見逃せない言葉である。

これらのことから判じられることは「先端物理学(量子理論、超ひも理論)が更にステップ・アップすることにより自然の事実が次々と明かされ、さの結果必要になるのは、それを根底にして自然の事実に合う「新しい数学」、すなわち、まったく新し数学的な記述手法を構築していくことである」と言っているのである。

恐らくはそれが出現することにより「現代数学」ではまったく不可能な一般相対性原理と量子理論の間に横たわる溝は埋められるであろうし、二つの間の矛盾も解決出来るはずである。

この二つの間の矛盾を解消するために世界の一流の物理学者達は半世紀の間懸命に努力したにも関わらず、今でもこの二つの理論は互いに調和を頑強に拒み、矛盾した相容れない方法で共存しているのである。これらの矛盾は「現代数学」を用いている限り解消することは不可能であり、永遠に矛盾は続くと考えられる。

もっと詳しく言えば「量子理論」は連続性と大きさを持たない点の究極的な存在を否定しながら、それに反する連続性の数学、すなわち、現代数学の十進法を用い続けていると言う大変矛盾したものであり、それ故に本当の答に達することが出来なく、ただもがくだけと言う大きなジレンマを抱えて苦しんでいると言うことである。

 

先端物理学者達が最も望んでいるのは、この350年間珠玉のように思い続けて来た数学手法、数学的な言語を完全に変えてしまう新しい革命的な数学手法の出現である。

その直感的に感じているその出現とその到来を1970年以降の物理学者達はジリジリしながら待ち望んでいるのである。なぜなら、今のままでは物理学自体もこれ以上の発展は望めず、ただ混乱と矛盾の極みが続くだけであることを知っているからである。

例えば、量子論における素粒子を記述する枠組みの中で、現代数学手法で重要な値を計算しょうとしても、何時も無限大に悩まされるのである。そこにあるはずの素粒子のエネルギ−と質量は極めて小さいはずなのであるが、きちんと計算しょうとすると常に無限大と言う結果が生まれてしまうのである。    【『超ひも理論入門』…F・Dピ−ト著より】

 さあ、ここで感の鋭い御仁はハタと気がつくであろう、「神の数学」の定則である9=0を導入すれば一気にかたがつき、問題はスム−スに解けることを…!!。

要するに、極大=極小と言うことが自然の決まりであり、一つの自然宇宙の法則なのである。

そのことを知らないので数学者や物理学者達は≪極大=極小≫と言う問題に戸惑い、、ただただ逃げ廻っているだけである。

 

「神の数学」は人間の作ったものではなく、神与のマスタ−ピ−スとも言ってもいいものである。それは日本の古神道から現われた古代の「数の道」であり、未だかって現代の世の中には姿を見せたことが無かったものである。いや、存在はしたが学者達の目には愚言としか映らなかったと言うのが正しい言い方であろう。

それが古史古伝である『先代旧事本紀』の中に収録されている「神文傳(かみふみのこととぎ)」の中にある〔「数」にまつわる文言〕の存在であり、今まで学者達は何を寝言を言っているのかとばかり完全に無視し、見向きもしなかったものである。

 

一つ、それを紹介したい。

 ●「『数』は天、地、神、人、物の法(のり)を総()べ、しかして萬法(よろずのり)の根(おおね)となる。故にこの文、その 音は数によさす。これ先天の理なるのみ」
          (総べ=統治する)      (大根=物事の大元)      (よさす=支配される) ……大辞林辞典より

 

●「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その 理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。
    しかし、人はこれを知らじ。これ先天(
さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり。  (のたまい=含まれている内容)  (ことわり=天地自然の法則、仕組み)  (ふかき=奥深い万物の根源の道) ……大辞林    辞典より

 

意訳……「数」は宇宙自然の持っている大法則や理(ことわり)、すなわち、それらの仕組みのすべてを知っている。その中でも特に神の存在を説いていることには注意を払うべきである。要するに、自然法則の生みの親は「数」であり、それ故に、自然法則のすべて、その振る舞い、あるいは「神」の存在についてもは「数」が説明をしてくれるのである。 その「数」の働き、ふるまいは深い意味にまで及んでいる。 例えば日本の文字、あるいはその発音は本来「数」と密接な関係にあることであるが、今となってはその事実由来を知る者は誰も居ない。これらの知は現代文明に遥か先立つ先史文明の遺産とも言うべきものであり、神々の御代に在った大いなる自然文明の持っていた知であり、その伝承である。

 

意訳……我々の学ぶ「自然の道」と「数」は大いなる関係があり、密接に繋がっているのである。すなわち、そのすべての自然の法則の一切やそのあり方は「数」が知っているのである。 それらのすべては「数」の中に内蔵され、永遠なる刻印、鋳型と化して「数の道」を伝える存在となっているのである。その「数の道」 は「天地の理(ことわり)」のすべてを内蔵し、その内容の一切は時間、空間を超越して存在しながら絶対的な天地万物の根源となっているものでもある。しかし、今となっては誰もその内容は知る者はいない。これらすべては遥か昔に存在した先史文明(神代の世)からの伝承である。
                                          ≪ここにある「数の道」とは、おそらく祝詞「ひふみ…天地の数歌」であり、「ひふみ九九表」のことであろう≫

 

確かに何も知らない者達がが漠然と考えても、その意味を解することは決して出来ない。なぜならば現代知の基本そのものが正しくはなく、基本に誤ちのある「似非(えせ) 学」だからである。それを知らない限り、我々は正しい答は決して見つけることは出来ず、あるべき自然の理を解明することはまったく不可能なのである。

 

それにしても恐ろしいのは古代日本民族である。一体、全体、彼等はどのようにしてこれらの究極の「数の持つ自然の理」を知ったのであろうか。これらは現代数学でもまったく知らない「天上の知」であり、現代知でさえ一変させてしまうような驚くべき業を持つ「神の知」と言ってもいいものである。それがすなわち、古代の自然宇宙数学体系の存在を謳っている驚くべき日本の伝承知であり、それを伝えているこれらの古文書なのである。

 

では今月も一つの簡単な難問、すなわち私も未だ解けないような問題をこれから掲示するので、是非あなた方の知恵におすがリしたい。

要するに、それは古神道から現われた「ひふみ九九算」「神の法陣」の間にはとても深い関係があることを示している一つの大いなる証拠とも言うものである。以前には私はもっと端的に見て「ひふみ九九算」「神の法陣」は姿が似ているが完全な別なものであると考え、完全に別な存在であると思っていたので、「神の数学」の中では別項目として分類していた。
 しかし、実際にはこの二つは大きな関係下にあって何事かを囁き、何事かを伝えようとしているのである。今回はその事実を知ってもらい、そこに納まる答えを是非とも見出してもらいたい。

要するに、「ひふみ九九算」「神の法陣」を解くためのテストピ−スであり、入門マニアル数図であると言ってもいいものである。要するにこの二つは切っても切れない見えない糸で繋がって、相互依存しながら何事かを囁いているのである。 果たして我々はその囁きの意味を現代知でまさぐり、そこにある自然の大叡知と言うものを手にすることが出来るのであろうか…!!?。

 

そこにある見えない糸を今回あなた方に手繰って貰いたいと言うのが私の本音であり、あなた方の直感と鋭い洞察力で是非そのあたりの「神の秘密」を探って貰いたいのである。

 

次に「神の法陣表」を挙げて置く、法陣表(次元表)は一応1〜9次元までの表が載せてある。それ以降については諸氏の手で作成して貰いたい。

次元表とはすべて縦と横が同じa×aの形式を持つ正四角形である。しかし、ここにあるのは縦が一段長い、その一段長い縦の最下部には「縦の数の加算合計」の数(赤字)が入っているものである。念のため再計算をしてもらいたい。

    〔表1〕


  

これらの次元表の最下段にある「赤い数字」は、その上にある縦の数を全加算したものである。それたは決してランダムな数の並びではなく、すべては古神道にからまる不可思議な数の並びそのものであり、完全な自然秩序を持っている数列である。まことに、不思議な「数」の現われであり、「現代数学」に不信さえも抱かせるような不可思議な数の姿である。

なぜ不思議な「数」なのか、あなたにはそれがお判りであろうか…!!。それはここに記されている「赤い数字」の正体こそが古神道から現れ出た「ひふみ…天地の数歌」の「数」の語りそのものであり、前半で上述した「神文傳(かみふみのこととぎ)」の言葉そのものを明かすものと言ってもいいものである。

それがすなわち、≪「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その 理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり。≫ …と言う言葉であり、そこにある意味である。それらはまさに世界に類の無い「人知をえぐるばかりの言葉」である。
 しかし、今の今まで誰も見返ることもなく、ただただ捨て置かれただけである。 出来れば、 繰り返し繰り返し声を出して読んでほしい、微かながら次第にその意味が判ってくるはずである。

 

では次にその「ひふみ九九算表」の中にある数(赤い数字)の並びを見て見よう

 

  〔表2〕

  


 この図は「ひふみ九九算表(黄色い表)」の両端のを重ねて円筒を作り、それを横に転がしてプリントしたものである。そこに現われた数の走りは≪表1≫の下部に示されている「数の走り」と寸部も違わないものである。よく見て貰いたい、まったく同一であることが解るであろろ。一体そこに隠されている「数の語り」とは何を意味するものなのであろうか…!?。

  一つここにあるそれぞれの数列を見ながら考えて見てほしい。果たして意味があるものか、それともまったく意味が無いものか。それをこれから調べて見よう。


 

≪次元をつなぐ数≫〔その1〕

                        (右の数から左の数を引く)

0、1、 46、360、1504、16273、630630、1864207、76543210…(各数列の右の数から左の数を引く)

 v   vv   vvv   vvvv    vvvvv    vvvvvv    vvvvvv

0、 1、   2     33     444     5555      66666       777777      8888888 

                    

何と言うこと見事な「数の現われ」であり、そこには「類まれな数の秩序」を持った数が次々と並び何事かを囁いているではないか…!!。

一体これらは何を言おうとしているのであろうか…!!。誰かその「数の語り」を紐解く御仁はいないであろうか…!!。いや、いるはずである。

これらは決して偶然の仕業などではなく、何か必然性のある「数のふるまい」と言うものである。今は解けなくても未来の誰かが必ず解き明かしてくれるはずである。

出来れば、せめてあなた方の手で50年くらい先の未来に生きる直感と洞察力に優れた者達に伝えてもらえれば大変嬉しく思う次第である。

 

   ≪次元をつなぐ数≫〔その2〕

  
      1 46、 360、 1504、 16273、 630630、 1864207、 76543210 …

これらの数字は同一次元内での繋がりではないことは≪表2≫から判断出来る。故に特に繋がりは無いと思われ捨てられてしまうのもこれまた無理はないことである。

  しかしこれらを連続次元的な大きな目で見ると、そこにはきれいな繋がりが存在する。それは≪表2≫をよく見ればすぐに判ると思う。 
 さて、その繋がりとは一体どのようなものであろうか…!?。

その繋がり方の存在証を見つけ出すことが出来れば、それにより異次元間の相対的な関係の存在事実も次第に明らかになるはずである…!!!。
 
 

 あなた方は余りにも現代知的な常識にとらわれ過ぎている。それをブレ−クスル−しない限り、新しい知の獲得は望めないことを知ってほしい。すべてのしがらみを断ち切ってご破算にし、もっと自由になり、素直になって考えることが必要である…!!。 あなた方の持つ現代知の直線上には「神の叡知」、「自然の叡知」は無い、そのことを「数」は教えてくれているのである。

 

もっと詳しく言へば、我々はどうしても同一次元内でしか通じない目と、判断力しか持ち合わせていない。だから、それぞれの次元の隣にある高次元との関係、すなわち、各階層次元はどのような関係で結ばれているのかは一切理解することは出来ないのである。要するに、「この世」の出来事は理解出来るが「あの世」と言う「見えない世界」については一切理解が不能と言うことである。まずはその事実を知らなければならないのである。

 要するに、この際、何とかその関係を見出したいと言う思いで一杯なのである。何故なら、その関係が判れば隣接高次元との間の会話も次第に成り立ち、人類の知も一段とレベルアップして高いレベルの知とのコミユニケ−ションも可能になる可能性も出て来るからである。

 

では次に≪表2≫を見ながら、それを探して見ることにしょう。まずは関係ある相互的な接触数を≪表2≫から探し出して見ることである。それは次のような関係にある数を見ること、すなわち、各次元の最後の数と次の次元の最初の数を選んで処理することから始めなければならない。

 次の数は各次元の最後の数と次の次元の最初の数を選んで組み合わせた二つのペア−数であり、それを何時もの通りに処理したものである。

 

@ 00、 01、 14、 63、 01, 41、 36, 01、 77、 00 …  注意…(@ Aとも、二つ並んだ数の右側の数より左の数を引く)

 v     v    v     v    v    v    v     v    v     v

A  0     1    3     6    1    6    3     1    0     0 …     (鏡面対称数列の現れ…!!)

      v     v    v     v    v    v    v     v    v 

      1     2    3      4    5    6    7     8    0      (何と、そこに現れ出たのは「ひふみの数」である…!!!)

 

  要するに、1回目の処理で現われたのは紛れもない「鏡面対称数列」であり、もう一度それを処理することにより現われたのが祝詞「ひふみ天地の数歌」の姿なのである。

すなわち、それは「ひふみ九九算表」の最初の実数の姿であり、最初の顕在数と言うべき123456780 の姿である。要するに、この事実の現れこそは、それぞれの各次元は別個の存在などでは無く、やはり繋がっているものとの確たる証明なのである。まあ、気が向いた時でいい、考えて、考えて数をじっくりなぞり、それからまた再三再四考えて見ることである。


 

≪次元をつなぐ数〔その3〕(各数列を加算して。答を一桁化する)

    0, 1, 46, 360, 1504, 16273, 630630, 1864207, 76543210, 00000000 …

    ‖ ‖ ‖   ‖    ‖     ‖       ‖        ‖          ‖           ‖

    0 1 1  0   1    1     0      1      1        0  ……

 

すなわち、これらの各「神の法陣」表、及び、「ひふみ九九算表」の次元数を加算して、一桁化すると 011011011011  … と無限に繋がる循環数が現れて何事かを囁き始めるのである。 一体その正体とは…!??。
 


 あなた方は言うかも知れない、偶然で何ら意味は無いと…!!。しかし、ちょっと待ってほしい、これは縦に加算した数列であるが、今度は横に加算して見ることである。
 すると何と言うこと、そこにはまたもや秩序を持った「ひふみ九九算表」が再び現われて来るのである。それらを同じような処理を加えれば、またもや011011011011  …が現われて何事かを囁き始めるのである。 すなわち、「神の方陣」表の縦の加算数のΣ横の加算数のΣの数列を並べるとそこには厳然とした「ひふみ九九算表」の数列が現れてくるのであり、それを同様な処理を施すと、何と言うこと、またもや同じ数列である011011011011  …が現れて幕を引くのである。 何と言う絶妙な神技であり、まことに神妙な仕組みであろうか…!!!。
 そしてその意味するところは一体何だろうか…!!!。 ただただ頭を抱えるだけである。

 それはまるで人類のコンピュ−タのように0と1で繋がってすべてのものを表示可能になる数の仕組みとまったく同じような感じがするものであるが、如何であろう…!!?。

すなわち、0と1による「2進法の世界」を表しているように感じられるのであるが…!?。この答はまだ出ては来ない、残念ながら微力な私の力では如何にせんとも解くことが出来ないと言うことである。これもやはり未来へ先送りにしなければならないものなのであろうか…!!?。それでは余りにも口惜し過ぎる、誰か考えてみてほしい…!!?。
 これらの011011011011  …の数列は「神の法陣」の別な項目でも再三にわたって現れている。それをまた不日、改めて諸氏にご披露申し上げたいと思う。

 

これらの答は古神道の「数」が語る極限の「数の物語」であり、すべては「数」のフアミリ−(ひふみ九九算)に関係している奇妙な「数の物語」である。すべては「神」の作品であり、「神」の息のかかったものであり、解かない限り「神」との対話はまだ無理と言うことであろう。それはひょっとして私の脳の想像力が生み出した数によるバ−チャル的な「数の物語」と言うものかも知れない。 しかし、 これらの計算は「神」が与えてくれた何時もの方法であり、何時もの処理の仕方である。そのことはあなた方も納得しているはずである。 よって迷うことはない、一気に突っ込んで掘り出すことである…!!!。

 例えば、〔表2〕を信じて、この図を立体化する。するとそこには「ひふみ表」が奏でる「ひふみ…立体曼陀羅模様」が現われて我々を驚かせ、その結果結末を尋ねていくことにより全次元の組み立ての一切を知ることが出来るのである。それはまさに、驚くべき調和と秩序を持った見事な数世界の現れであり、まさに先端物理学で言うオ−ビフオルト理論の確かな存在を見せつけてくれるものである。ただし、これは口や文章では説明不能なものである。どうしても知りたいならば、立体模型を目の前にして説明をするしか方法はない。これは確かに究極の次元理論を歌っているものであり、まさに神与の「数物語」と言うものである。とにかく、「数」と「図」がそう語って止まないのであるから、我々はそれを信じて検証に走るだけである。
 ただし、なぜそうなるのかについては先端物理学者でさえも説明は出来ない、当然私もご同様である。しかし、幽霊があの世からこの世に出現する理屈理論が解明できれば、その限りでは無い。要するに、次元構造も同じ方法をもって次々と現れて来ると言うことである。どうしても、興味が尽きない、真実を追求したいと言う御仁がいるならば、材料代と送料、それに知恵代をふくめて切手500円〜600円くらいをお送り下されば「ひふみ…数の立体模型」とその説明書を郵送してもいい。ただし、しっかり考える方で、洞察力の鋭い方に限る、数には限定があるからである。

また、場合によってはあなた方の脳は別な「数の物語」を醸し出すことになるかも知れない。 まことに結構である、是非とも、あなた方の直感と洞察力で解き放ち目にものを見せて貰いたい。 私に出来るのはただ期待するだけであり、ただただお待ちするだけである。

それはすなわち、それだけ「数」には大きな包容力があり、更にいろいろな事を沢山知っていると言うことの更なる証言であり、大変結構なこととただただ感謝するのみである。

 それがすなわち、次のような伝承文であり、数千年前の祖達の叡知のエッセンスと言ってもいい言葉の群の存在である。まさに、これらは世界に冠たる大いなる言葉であり、現代文明を嘲るばかりの自然叡知の発露を秘めているものである…!!!。まさに、これは世界一の叡知を秘めた大いなる言葉であり、現代西洋科学知を完全にノックダウンさせるような内容を持つものである。

≪「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その 理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり。≫ …。

 

我々はもう一度この古くて新しい言葉を噛みしめて見ようではないか…!!。恐らく、それは現代人が思っても見なかった意表を突くような深い真理を持って佇んでいるはずである。

ただ、今までの日本の学者達にとっては余りにも思いもよらない言葉であり、理解するにも甚だ困難な言葉であったのである。 要するに、西洋的な常識とは相容れない余りにも突飛過ぎる言葉の群であり、ただただ無視するしかなかったということが真相であろう。でも100年前と今では考え、解釈力が完全に異なっているはずであり、新しい知が備わっているはずである。
 改めて、新しい目と新しい知を備えた現代人の知力をもって考えれば、真実は自ずから明らかになると思いたい。それが出来ないならば現代知もあまりあてにはならないものと言うことである。

今の我々は人類史上最高の頭脳を持っていると日頃から自画自賛している、ならば、その頭脳とやらを使ってこれらの「神の数物語」の検証に力を注ぎ、挑戦して貰いたい…!!。
 そこには何か新しい展開が必ずや見られ、息をつく間もなく新しい知が浮かび上ってくるはずである…!!。それを見事掴めば見えなかった「新たな世界」が視界に入ってくるはずである。
 ひょっとして、「空間には可能な最小距離の存在」や「物体間の距離には基本的な不確定性がある」、または、「時空には基本的な格子構造が見られる」、と言う前代未聞の物理理論が改めて見出され、実証されるかも知れない。これらすべては現代の先端物理学者が夢見ている理論であり、実証不可能な物理理論体系と言はれているものである。

「神の数学」を学ぶには、別に難しい計算や高等数学などの知識は不要であり、計算機なども一切いらず、紙と鉛筆があればこと足りるものである。

ただ、必要なのは鋭い直感深い洞察力だけであり、〔「神」の存在をないがしろにしない純な心〕があればいいのである、それがあれば誰にでも学ぶことが出来るのである。

 

本来、自然数学に通じれば、それは自ずと自然物理に至り、そこにある理(ことわり)、すなわち、自然哲学を悟り、すべてを学ぶことが自然のうちにに出来るのである。

それが、現代の学では完全に分離して、数学は数学、物理は物理、哲学は哲学となってお互いに干渉不可の世界をつくり上げているのである。

自然は一つだけの存在である。それがどうして完全に分離して、互いが合い通じない不可思議な学と言うものになってしまったのであろうか…!!?、
 まことに不可思議なものは「人間の学」であり、
人間の「自然を見る目」の幼稚さ、曖昧さである。すべてはそこに原因があるのであるが誰も知らない。

                                                                            (今月の数物語はこれで完とする)



     「神の法陣」大精義講()


      「神の法陣」こと始め(その4)
                              
2014年 9月 上載

「神の法陣」に示されている自然の真理、それは驚くべき「宇宙の叡知」であり、神の手で刻み込まれた永遠の「真理のタブレット」と言うものである。 その真理の驚くべき守護神こそがあの「数」であり、数に込められた「神の心」である。


 「数」…、それは永久無比の姿を持ち、その内容は決して変わることはない、そして永遠を紡ぎながら泰然として「宇宙叡知」を語ることの出来る「神の言葉」であり、「神の心」の代弁者でもある。

  いままで、確かに「数」をもって未来を計り、「数」をもって運命を知ろうとした者達の存在をいろいろと耳にする。それがオリエントの数秘術カバラの数占術、それにインドの数秘術であり、更には東洋の九星気学や四柱推命などである。また、中国の易の発端、その始原も「数字の表」から始まっているのは衆知の通りである。

  しかし、現代ではそれらの「数の語り」は現代数学に追われて細々と命脈を保っているだけであり、それも殆ど消えてしまわんばかりの微かな存在なのである。

確かに、「現代数学」は有るべき自然的な意味では正しいものとは言えず、未来とか、運命等と言った超自然的な事象については一切言及が出来ない存在である。
 本来は過去、現在、未来はつつがなく繋がっているので、本来はそれぞれの分野についても追跡可能のはずである。しかるに「現代数学」ではそれをトレ−スして検証することなどはまったく不可能と考え、試みようともしない。 そんな夢みたいなことは出来る筈がないとあなた方は異口同音にのたまうだけである。
 しかし、それはあなた方の思考不足、認識不足の為せる業である。その証拠に、先端物理学はすでにブ−ツストラップ理論を作りあげて全体と個の関係理論を確立させ、オ−ダ−の中に包み込まれた秩序を見出し、かつそこから意識の問題へと移行し始めているではないか…!!?。


 更に彼等はS行列式を完成させ、その手法を用いて滑らかな数の流れを利用して「見えない領域」、「内なる領域」までも手繰ろうとしているのである。私に言わせれば、それは「数学」でも十分に可能であり、自然数を用いてその先にある検証不能な「あるべき世界=見えない世界」」を見出すことも出来るはずと思われるものである。
 ただ残念ながら、今は「現代数学」は停滞期の真っ最中であり、人々の関心も薄れている状態である。 このように誰も見向きもしないような状態が続く限り、新しい発想が生まれることは間違っても無い。 もし、それが生まれるならば、それは「現代数学」が今の殻に包まれた状態から脱皮して新たな形態、すなわち一つの飛翅体として舞い上がった時であろう。

 

それらは本当の「数の語り」の存在と言うものを攻撃、あるいは批判するだけで己の姿の不完全さ、醜さなど、すなわち、審美的な形、美学的な姿の皆無にはまったく気づいてはいない。要するに、自然の美しさには感嘆の声を上げるが、「数」の美しい存在については誰も気がついてはいないと言うことである。
 それ故に、この200年以上「古い数学」を邪教扱い、あるいは邪魔者飽扱いにして追放、あるいは無視する形で閉めだそうとしているのである。

 
 本当の自然数学(意識数学)の姿は美しいものである、そしてそれを本能的に感じるのはそこには本当の真実、真理があるからである。

またその美しいと瞬間的に感じるのは、頭脳ではなく潜在意識、すなわち、魂の奥にある無意識的な深層意識のなせる業であり、その潜在的な意識は常に宇宙意識と共鳴同調しているので本当の真理とか美しいものとかを直感的に感じ、そして刹那的に判じることが出来るものである。

撥ね

 

ところが美しさとか整合性などと言う宇宙意識と共鳴同調するものは「現代数学」にはまったく見られない。要するに、整合性とか調和性、鏡面性などの美しく、かつ秩序のある数の姿などは「現代数学」に関しては絶無であり、数が醸し出す「完全性」、「美学性」と言うものはまったく見られないのである。

数には美学性がある…!?そんなことを感じた者は今までにいたであろうか…!!。いや、誰もいないはずいである…!!。

なぜなら、「数」とは言葉よりも無機質、冷酷無情なほど無変化なものと言う認識の下で人間の知学である「現代数学」や「物理学」をつくり上げて来た経過があり、「数」が自然知を秘めた存在であることは今の今まで誰も夢想もしなかったのである。それは確かに返す返すも残念な事であり、人間知と自然知の融合を阻んで来た最大の要因と言ってもいいものである。


          ≪数の走り≫3態

 

 

 

恐らく、「現代数学」的な知を持たない者、あるいは自然的な心を持つ者が見ると、恐らくはBの「神の九九算」図が最も直感的に脳に響き、躊躇せずに選ぶであろう。要するに、これが視覚的にも感覚的にも最も優れている「数の走り図」であり、構成要素も簡素で一目了然なものであり、心に響く素直なものであるからである。

 

  この事実についてハッキリしたコメントを述べているのが物理学者のW・パウリである。彼の言葉はまさに「神の数学」を学ぶ者にとっては極めて重要な意味を持つものである。

 彼、すなわちW・パウリの言葉とは次のようなものである。

 「形式的な数学を深く学んだ傑出した数学者によって自然は計測され、そして神秘のベ−ルは剥がされる。しかし、通俗的でいい加減な数学者にとっては自然は明らかにはされず隠されたままである。偽物は本質を計算する代わりに影しか計測出来ず、いい加減な見解で自分を装うしかない。一方、本物は影を拒否し、本質を把握し、真理を発見する喜びを得る」。

 

要するに、w・パウリは仲間であるC・G・ユング達と「数学のあるべき本質」を見極めようと懸命に努力をしたのであるが、残念ながら、意志を果たせなかった。

それ以来半約世紀以上空白を保ったままで現代に移行しているのであるが、残念ながら今でも「現代数学」はただ空しく空転を重ねているだけである。

 

要するに、自然界の中には「現代数学」が目を剥くような驚くべき数の本当の姿あるべき数の本質の存在がハッキリと示されているのであるが、誰もそれには気がつかないのである。 ましてや「現代数学」の信者にとってはそれらの事実は決してあってはならないことである。

ついでに自然学者であったC・G・ユングの含蓄のある言葉を添えて置くことにする。

  
  
 @   自然数の系列は意外にも同一単位の単なるより合せ以上のものであることが判明する。つまり、そこには数学の全体とこの分野でまだ発見されていない すべてがそこには含まれているのである。

 

A   数は何にもまして、諸現象の混沌に秩序をもたらすのに役に立つ。それは秩序を作ったり、あるいはすでに存在しているが、まだ知られていない整然とした配置や規則性を把握するために予定されている道具である。

 

B   数が元型的な基盤と自律性を持っていると言うことは、私ばかりではなく、数学者達の推測でもある。彼等はいずれ判るであろうと希望的観測を抱いているのである。

 

C   数は概念だけではなく、何かそれ以上のもの、つまり、どう言う訳か単なる量以上の何かを含んでいる自律的な実体なのである。「数」には未だ発見されていない諸性質を持っているのである。それは知的な観念であり、今の我々には言い表せない本質に基づいているものである。

 

D   数は発明されたものではなく、発見されたものであり、結果的には元型に類比出来るような相対的な自律性を持っているものである。

 

E   「数」は元型と共通して意識に先行して存在する。それは意識に条件づけられるよりもむしろ、意識を条件づける性質を持つものである。

 

F    自然数は元型的な性格を持っているように思われる。それはある種の数や数の組み合わせが元型に関係を持ち、影響を与えるだけではなく、その逆も真と言えるものである。       【原型とは宇宙意識、あるいは宇宙意識の鋳型】   引用…C・G・ユング著「自然の解明と精神」より

 

 これらの驚くべき言葉の意味にはまことに深いものがあると感じるのは私一人だけであろうか…!!?何故ならこれらの言葉の一つ一つはすべて古神道から現れた「神の数学」の概要の説明そのものであり、内容を補足補完しても十分に余り有るものであるからである。

  これらの言葉は今から半世紀前に述べられたものである、しかし、数学者達はあまり深く考えようとはせず、今では完全に忘れ去られて関心を持つ者などは誰もいない。

 彼等数学者達は10進法オンリ−の現代数学にのみ目が行き、その結果、果てしない矛盾に苛(さいな)まされ、最後に見出した答は複雑系と混沌(カオス)で締めくくられた逃げ言葉で終わっているのである。それ以来、現代数学は完全な仮死状態に陥って少しの進展も無いことは衆知の事実である。

  確かに、今までは「数の本質」について真剣に考えを巡らした者は少ない。要するに、それだけ「10進法」が絶対的な権威を誇り、他を寄せ付けなかったと言うことである。

「10進法」、それは数を限りあるまで延長し何処までも伸ばして行く計算法であり、大自然の持つ計算法則とはまったく基本形態が異なるものである。

 

物理学者達は言っているではないか…!!、大自然には直線と言うものは無い、直線に見えるのは宇宙を駆け巡る大きな円の一部、その円の弧のほんの一部を見て直線と思っているだけであり、限りある目の錯覚の一つに過ぎないであると…!。

いや、それは宇宙にとどまらず、地球上でも同じであった。今から数百年前まではこの地上は平面フラットであり何処までも平面直線的に延びていると考えられていた。

その考えを破ったのはあの大航海者マゼランであった。彼は海の果てを目指して航海を続け、とうとう地上は直線的に延びているのではなく、どんどん何処までも進めば再び元の場所に戻ってくることを最初に証明したのである。すなわち彼は地上は直線的な存在ではなく、円状の状態であることをはからずも証明したと言うことである。

 

考えて見るがよい、宇宙自然のすべては連鎖的な循環(円状)で繋がり、動いていることを…!!、すべては 自然の持つ動き、果てしない動脈なのである…!!。

すべてのものは繰り返し(循環)で始まり、繰り返し(循環)で終わる、それが自然の有るべき姿であり、大自然の持つ大きなリズムであり、その現れなのである…!!。

それは小さな原子から始まり、地上にあるものすべては巡り巡る回転的な属性を持って移り変わり、最初と最後の間を循環コ−スを描きながら回り回って転移転生を繰り返しているのである。 要するに、この大宇宙に発生したものはすべて、地球も月も惑星もまったく同じ形態を持って転移しながら同一コ−スを持って永遠なる循環を繰り返しているのである。

すべては循環で始まり、循環で終わって永遠を紡ぎ、大いなる未来に達しようとしているのである。
 すべては神の意思に従って運行され、神の定めの通りに動いていると言うことである。
 
 
 

 命あるものもまったく同じ循環態を持って存在しているのであり、生死の間を回帰しながら永遠に向かって転生移行し、何らかの重大な目的を果たそうと図っているのである。

 それに従わず勝手な尺度と手法を用いて無理やりに大自然を測ろうとしているのが現代数学であり、その基幹尺度である「10進法」と言うロ−カル的な計算法なのである。

それはまるで大きな球を直線のモノサシで測ろうとするようなものであり、初めから無理な行為、神の意思に反した計測法と言ってもいいものである。

 本来、そこにあるべき「数の姿」と言うものは自然体でなければならず、整然性、整合性、循環性、そして美しさを備えていなければならないのである。しかし、それらの姿は一切現代数学には無い、一切見られないのである。それはすなわち、現代数学には自然性がまったく無く、ただ人工的で虚無性と矛盾のある数の並びがあると言うことである。

 

その事実を見出すためにも「神の法陣」は最上、最良の教師であり、自然の数学の持つ様々なエッセンスを見せてくれるものである。何故なら、そこには数多な自然数の語りがあり、思いもよらない様々な数の変化変容、そして厳然とした決まりを順守しながら推移していく様子、次第がふんだんに見られるからである。

「神の法陣」はまことに自然体であり、誰でも簡単に作れるものである。そのあまりの簡単さゆえに今まで誰も目を向けて考えようとはしなかったのであろう。

そもそも自然とは単純で美しいものである。美しいものとは、均整がとれて心を打つものであり、それには完全対称形、自然的な秩序、調和的な均整などが含まれ、心と共鳴しながら大きな感動を与えてくれるのである。また、心に響き感動を与えるとは、すなわち、宇宙の波動と心のリズムが一致共鳴して完全な同調状態にあると言うことである。

 

これら宇宙の波動(リズム)については現代人は何も知らないようであるが、古代人はよく知っていたのである。それを一つ紹介することにしよう…!!。

 

≪宇宙の中心には透き通った九重の柱があり、その回転波動(響き)が九っの波となって地球に達し、人の呼吸や水面のさざ波として現れて来る。それを「アナミ(天の波)」という。≫……!!。   … 古代文献「ホツマツタエ」より…。




 
 


  さあ、ここで現代人の誰も知らない「神の法陣」の驚くべき秘法を一つ開示して見よう。アッと驚き腰を抜かすことは必定である、心ある方は是非検証して貰いたい。

 

 以前に確か「陰」と「陽」は向きが逆であり、それらを合一すると無、すなわち、0になると言ったことがある。要するに、これらの図は「陰」と「陽」を加算すると必ず0が現われてすべては無に収斂し、静止状態、中庸状態に還ることを示唆している。

恐らく、言葉で言っても意味は解らないであろうが、「数」はしっかりとその事実の存在を証言し、真実を示している。そのあたりの仔細をじっくり見てみることにしよう。



 
 


 次の「2次元法陣表」は自分で作り計算をして欲しい、まことに簡単であり、同様に同じような芯が通っているものである。
 このあたりから見ると現代物理学の法則よりも余程正確無比な論理性、整然性、すなわち自然性を持った数の流れを持っていることに気がつくであろう。

とにかく、これらのすべては並数列を加算して「9」となり、更には見事な大円団を迎えて「0」と化すのである。まさにお見事、弥栄、弥栄と言うしか誉め言葉はない。

 

ある程度納得いった方は次に「5次元法陣表」や「4次元法陣表」、あるいは「3次元法陣表」の左上がりの図で検証するがよい。すべては同じ様な結果が現われて完全に幕が引かれすべては完結となるのである。これらすべては「神」のご沙汰、いや尊い「神の言葉」と言ってもいいものであろう。

これらの次第一切を知って「神の数学」の存在を疑うような者はいないはずである。 感極まった者は恐らく涙を流し平伏し言葉も無いであろう。

 

要するに、すべてにわたり「宇宙人の数学」が現われて、をつくり自然究極の答であるを導きだしているのである。
 
 それにしても何と見事な「数の走り」であり、摩訶不思議な「数の業」なのであろうか…!!。ただただ感嘆があるにみである。

ここに至っては現代数学の未熟さとその不毛さ、そしてその不完全さと言うものをどうしても感じてしまうのであるが…!!。

 

これらから現れた「数」を並べて表を作ると次のような規律ある数が並び、唖然とさせるのであるが…!!、考えて貰いたい。

   

 まさにランダムに見える数の群ではあるが、そこには寸分の隙も無い絆ですべての数は結ばれているのが判ると言うものである。これが本当の自然の「数の調べ」であり、そこにある歴然とした秩序ある「数の歩み」の存在の証と言うものである。疑う者は更に6次元、7次元、8次元の図を計算して数をつなげていって貰いたい、すべてが解るはずである。 これらすべては自然の態であり、大自然の姿のあるべき秩序を示しているものである。これらの計算は小学生でも出来るような簡単なものである。

要するに、これらは自然とは思いもよらなかった純然たる秩序と見事な調和を持っていることの証明であり、そこには決して不整合や不合理なものは何も無い。
 不審に思う者は自分の手で計算を行い、頭でなく心で確かめ納得してもらいたい…!!。

 

  それから忘れてならないのは相対するもう一つの「対角線」の存在である。

それは上に示した「右上がりの対角線」90度の交わりを持つ「左上がりの対角線」の存在である。その「左上がりの対角線」に対して同様な処理を行うと摩訶不思議、またもや同じような「陰」と「陽」の答が出現して我々を唸らせるのである。計算してその行き着く果てを見るがいい、そこにはただ驚嘆があり、敬畏があるのみである。

要するに、真理と言うものは形状や過程はどのようにも変化しても、最後に現れる答はまったく同じと言うことである。 そこには決して偶然とか、その場限りのものなどは一切無いと言うことを知って欲しい。

 

このように自然のあるべき姿を垣間見せる「神の法陣」の窮理を一つ一つ学んで心で納得しながら理解の段階を踏むことにより、「自然の明かす真理」、「形而上のあるべき学」が心の中に次々に積み重なり、知らず知らずの中に「宇宙意識」と「我々の心」が同調を始め、それが共振共鳴のリズムを芽生えさせることになるのである。

 

「数」はまさに「宇宙意識(神)」の語り部であり、一切の自然宇宙の理(ことわり)を包含して、今まで何も知らない人間の下でいろいろと手助けをして来たものである。

ここに来て、我々は本当の「数の語り」を学ぶことがどうしても必要となり、もう一度最初から「数の世界」を見つめ直して新たな「数の学」を構築することが求められているのである。それが大自然と会話する為の最低条件であり、唯一の近道なのである。

要するに、「数の学」を初めから整理し直すことが宇宙自然の真理に迫っていくための大道であり、数学再生の最短の近道であると言うことである。  

                                            (今月の記は完)

 
 


     「神の法陣」大精義講()



      「神の法陣」こと始め(その5)
                              
2014年 10月 上載


 「神の法陣」…、それは「神」の手により描かれた偉大な「数理のタブレット」であり、天地普遍の「数の処理法」である。 我々はそれを解明することにより「永遠の真理」、「天地の大律」の真実を知り、大きな未来へと駆け上がることが出来るのである。

 

 我々の生きる目的とは一体何であろうか、考えて見てほしい、何かがあるはずである。

 ただ、生を受けて子孫を残し、この世を去るだけが定められた宿命なのであろうか…!!。それとも命のある限り、ただただ体を動かしてこの世にオサラバすることで何らかの使命が達せられると言うことなのであろうか…!!。 いや、そうではないはずである。

  恐らくそこには「大きな由々しき使命があるはずであり、何か「意味のある使命」があるはずである。ただ、今の未発達な知の段階、まだ揺籃期から抜け出すことも出来ない知の状態ではそれを察することは出来ない、いや、考えても無理なことなのであろう。
 我々は何らかの大きな使命を与えられているのは確かであり、我々はそれに挑戦して達成しょうとしているのもこれ確かである。恐らく、その使命から大きく外れた者は不用としてただ滅びるだけであり、改めて再転生、あるいは再々転生を図ることにより次の人生のやり直しが始まるのであろうと思われる…!!?。
 また使命に忠実に沿って真面目に生きている者は繁栄と無事息災な一生がセットされているような気もするのであるが…!!。さて、さて、如何であろうか…!!。

 

 我々人類は発生以来ずっと「神」を求め、「神」の心を知り、「神」と共にあろうと懸命に努力を続けて来ている。我々日本人は言わずがもな、世界中の人間の恐らくは90%以上は「神」を信じ、長い間「神」を求めてさ迷い続けている。何故なのであろうか…!!?。なにゆえなのであろうか…!!?。
 しかるに何千年過ぎた今でも「神」は何辺にあって、何を司っている存在なのかについてはまったく判らない、これだけ時間をかけてもその正体は少しも掴めないのである。

すると、それは神の概念そのものか、あるいはその探す方向がまったく異なっている可能性もあると言うことである。恐らく、これ以上どうしても「神」の正体を知りたいならば、180度視界を転換して新たな目と素直な心でそれを求めることが必要なのである。その道案内となるのがこの「神の法陣」と言うものである。
 

 見るがいい、そして知るがいい、何と、そこには「神の姿」、「神の御業」がしっかりと描かれ、しっかりと「その仕組み」が目に見える形で開示されている事実があることを…!!!。ただ、あなた方は「神」、そんなものは無いと言う「西洋の言葉」に騙されているだけであり、「西洋科学」の目くらましに陥っているだけである。
 目を覚ますがよい…、心を静かにおいて耳をそばだてるがいい…!!、その上で「神の法陣」「数の語り」をじっくりと見つめることである。そこにはまごうことない「神の存在」が顔を出し、あまたの「神の理」を囁いていることが判るはずである。ただ、あなた方は「神」を否定しているから見えないのであり、本気で探そうとしないから見つけることが出来ないのである。
 
 
 

 ただし、それを日常の言葉で説明するのは大変難しい、なぜならば、「神の存在」、「神の御業」を説明する言葉を現代人の我々はまったく持ってはいないからである。その理由は、現在の「西洋科学」は余りにも「神」の探索を怠り過ぎたからであり、余りにも「神」の存在を怖れ、「神」の存在を拒否したからである。それが所謂、デカルトによる「神の棚上げ」であったのである。それは「神」の存在があれば、人間の理(西洋科学)は通らないと言うまことに他愛の無い理由からであり、それは「神」があれば人間の存在は「神」の僕(しもべ)以下の存在でしかないと言うまことに簡単な理由からなのである。
 今の日本人もまんまとその術中に嵌り、「神」をさし置いて行動し、「神」を目くらましにかけて金儲けに走っている状態である。さて、その果てにあるものは…!!??。

 その「神」の存在例として、我々の生命を維持するにはどうしても必要な、「見えない」、「匂いも無い」空気の存在、いわば「神」よりも切実に必要な空気の存在について考えて見よう。それは「見えないもの」、「感じられない」ものであり、しかも、それは我々の体と殆ど一体化してすべてを包んでいるものでもある。しかるに、日常生活において、誰も何も思わない、考えることも無い、探すことなどもしない。何故なら、見えない、感じないからである。
 しかし、未だ知が十分に発達していない未開の時代において、ある学者が「空気」と言うものは命を長らえ、長命をもたらし幸せを与えてくれるものであると言い出したとしよう、すると人々はその「空気」を探し求めて長い間右往左往を繰り返すはずである。でもそんなものは何処にも無い、探しても無い、ただ憧れだけが残っているのである。

 恐らく、あなた方は笑いだすであろう、何と馬鹿な奴らだ、「空気」は常に身の周りに偏在し、過不足無く誰の身にも一様にまんべんなく行き渡っていることも知らないのかと…!!。その存在があるからこそ毎日が無事に過していけるのであると…!!。

 考えて見るがよい、我々はまさに同じ轍を踏み、同じ道を辿っているのである…!!。

 恐らくは我々よりもハイレベルにある別世界の知の先駆者達は同じような感慨に耽って我々を嘲笑うであろう、すなわち、「地球人は最も大切な自然誕生、生命維持には欠かせない「神」の存在を認めてはいない。それは空気や水と同じょうに普遍な存在であり、それが欠けたら一瞬で死に至り生命は果ててしまうことを知らないのであろうか」と…!!。

 

 確かに、「神」は至るところに遍く偏在し、すべてのものと関わりを持ちながら存在しているのであるが、誰もその存在、その働きさえもまったく知らないのである。

 要するに、自然のすべてのもの最初から最後まで「神」はあまねく関与して見守っているからこそ恙無く一生を終えることが出来るのであり、途中の経過もすべて知っているのである。 それさえも、現代人は誰も知らないのである…!!、何と言うこと…!!。

 

恐らく、欲の深い人間は「神」は特別な場に存在する存在と考え、何とか自分に呼び込みたいと考え、あらゆる手段を尽くして「神」とコンタクトを取ろうとしている。  
 要するに、「神」を特別な存在と見据えて独占を図ろうとしている愚かな者達が大勢いると言うことである。
 しかし残念ではあるが、現在の人類の持つ知には大きな落ち度、欠陥があり、それを修正しない限りは「神」を見出すことは決して出来ないのである。

 今の日本を見るがいい、誰もが「神」などは信じないと胸を張って威張り、西洋科学の最先端下僕とばかり懸命に頑張っている。しかし、そこには明らかな二面性が重なり、外部から見るとまことに面白く、おかしなものに見えるのである。 ある宗教団体の発表によると日本人の「神」、「仏」の信者は一億人を越えているとのことである。
 実際のうわべとは完全に逆転した形をもっていると言うことである。本当に言うこととやることが逆と言う、おかしくって面白い姿を持っている国民、それが日本民族なのである。 しかし、誰も現実を見ようとはしない、信じようともしないのは確かである。 考えて見るとまことに愚かなことであり、今の日本の現実の社会の裏と表の姿を写しているものと言えよう。

 
 それはすなわち、「神」の言葉である「数」の本当の姿を知らずして、数にあやどられて鎮座している「神の言葉」を戴こうとしているようなものである。それはまことに愚かな行為であり、「神」に対するボウドクであり、背信行為と言うべきものであろう。

さて、ここで一つ考えて見よう、現代文明が芽生えてからこの方数千年、誰もそこにあった「数の真実」を見抜いたものは本当にいなかったのであろうか…!!?。

 

いや、そうではない、その証拠には古の知者達は声を揃えて言い残しているではないか「古代の数とは1から9までしか無かった」と…!!!。
 それが今も古い歴史を持つ国々に残っている「9進法計算」であり、「1から9までの数の循環により天地の理を知ることが出来る」と言うまことに不思議な数術なのである それがすなわち、「バビロニアの占星術」、「カバラの数秘術」、「インドのウエ−ダサ−クル数学」等であり、また考えによっては「中国の易」などもその一種であろう。 なぜならば、「易」の基本である3次方陣図を見るがいい、そこには1〜9までの数が変化しながらいろいろな天地の諸象変化を生みだしているからである…!!。

  要するに、これらは特有の計算式を用いて自然の成り立ちや先天的な宿命の予言さえも可能であり、それは大いなる過去に多くの人々に支持されて来たものなのである。確かに、それは特別な許された者だけに秘密の情報として口頭で伝えられて来ているものであると古文書は伝えている。。

それらの秘術は共通して1から9までの循環数だけが自然の動きを明らかにすることが出来、更には天変地異はおろか、人間の運命さえも算出可能とされていたものである。それはすなわち、1から9までの循環数だけで「神」は大宇宙自然を創り、大宇宙自然の運行を制御していると言うことに由来するものであり、それを極めることにより自然象の変化全般の現れや我々人間の運命さえも明らかに出来ると言われているものである。

 

しかし、今や学校教育が進んで全世界が10進法を採用するにつれてどんどん影が薄くなり、いまではほんの少数の人々だけの知として残され、今や消え去るばかりである。

しかるに、あなた方人間は指が10本ある故に何事も10本単位の計算法を作りあげて満足し、まことに便利、重宝であるとして「10進法」の礎を築き上げて来たのである。要するに「10進法」はあなた方が便宜上編み出した人間だけに通じる計算法であり、人間同士にだけ通じる符丁なのである。すなわち、人間には通じるが、その他には通じないと言うことである。 まずはそれを知ることから自然の研究調査を始めるべきであり、それにより我々の知も自然知と深く結びついて会話が可能になるのである。

 

ところが増長慢の現代人は「10進法」は宇宙の万物に通じる正しい計算法であり、永遠無窮の計算法であると信じ懸命にそれを用いて自然の象を解こうとしているのである。 しかし、それは大きな誤りであり人間サイドの誤解である。なぜならば、宇宙自然の持つ計算手法は基本形態において人間の計算法とはまったく異なる姿を持っているからである。

 

それをあからさまにして止まないのが、日本の古神道の奥儀祝詞であり、3千年の間そのままの姿で一切人間の手が触れていなかったものである。それが祝詞の奥儀と言われる「ひふみ…天地の数歌」であり、そこに隠されていた「ひふみ九九算」の姿なのである。

それはまさしく古代の数法である「九進法」の真髄を携えながら何とか現代まで生き延び、今やっと現代にバトンタッチして安堵の吐息をついている状態なのである。

 

さあ、今回は大分以前に少々お披露目したことのある相交わりながら流れる「天のエネルギ−」とそれに対して90度の位相をもつ「地のエネルギ−」の雄大な流れ、そしてまたその二つに対して45度の位相を持って流れる「神のエネルギ−」の流れ、この3者の秩序と調和のある流れの存在を見て来た。今回はその確たる姿を目にも鮮やかに見える形で眼前にお目見えさせ、あなた方の驚かせようと言うのである。

 

まことに不思議千万な数図であり、現代人の意識外、すなわち思いもよらない数の現れである。要するに、中心を挟んで相対的な位置関係にある二つの数を加算すると、あら、不思議まったく同一の数が現われて何かを語りかけているのである。

それはこの「5次元法陣」ばかりでは無く、他のすべて、すなわち、0から無限大までのすべての「神の法陣」はこのDNA的な骨子構造を持って存在しているのである。

要するに、このDNA的な骨子構造とはすべての相対的な象は中心を軸に求心的な形で結ばれているのであり、各相対場のエネルギ−、すなわち、すべての力のモ−メントは中心場と言う一点の場に集中しているのである。それはすなわち、中心場は常に最大なエネルギ−の集積場であり、強力なエネルギ−の発生場でもあると言うことなのである。

 

さあ、次の図を見て貰いたい。これらのセル(空間)の中の「数」はエネルギ−の強弱を表すと考えると中心の場は各対称位置にある数の中心点、すなわち、二つの数の釣り合った場と言える。するとモ−メント的には力の0点、すなわち原点と言うことである。

 するとエネルギ−についても最大=最小、すなわち、9=0が成り立つことになる。しかし、今の西洋科学はそのあたりのことは考えてはいない、調べようともしない。

ただ、現代物理の論証では「中心力は大きさは原点と物体の距離rのみ依存し方向は原点と物体を結ぶ線に沿っている力でる」と語っているだけである。

私のような無学な者には言葉が難しくて、いくら考えてもよくは解らない。もっと易しく、一般的な言葉で説明が出来ないのであろうか。これではまるで権威を守るために一般人の参入を拒むためにわざわざ作文した意味不明の言葉としか思えない。

 
 中心の場、それは最もパワ−フルで、あらゆる自然象の基本の場、すなわち、最も大きなエネルギ−の溜まり場でもあることはこの≪Aの図≫から判断が出来るであろう。

これについては余り深く考えずに上図を素直に直感で見て、簡単に考えてもらいたい。まあ、色々な文献を開いて見ると今まで何人かの人が気がついていたようである。

その一人に戦前に活躍した肥田春充と言う御仁がいる。彼は聖中心道と言う言葉を用いて人間の中心場のエネルギ−を開放して武芸の達人としての大きな名声を得た方である。また、現代でも、西野浩三氏とか他の色々な方々が人体パワ−を用いて手を触れることも無く大勢の人々を吹っ飛ばしている。これは間違いなく人間の中心、すなわち丹田に潜む恐るべき潜在パワ−を活用している大いなる技であり、日本独特の人間の持つ「知られざる力(気)」の発現と言うものである。

 

偶然の一致であろうか、「神の法陣」と相似な形を持つものが現代物理の「電子の軌道図」である。まさに瓜二つと言ってもいいであろう。後半に記してある「神の法陣」の数の走りを見ながらそのあたりの事情をじっくりと見て考えて貰いたいものである。果たして、嘘か本当か、幻か白昼夢なのか、じっくりと検証してほしい。
 確かに、同一的な姿であり、構造も同じである、偶然の一致にしてはあまりにもリアル過ぎはしないか…。確か諺にも「下界は天上界の写しである」と言っているのもうなずけるものである。

 

 

 

 

 

 

 


  すべては「神」の手の為せる業であり、我々はその意味を考えるだけである。いわゆるこれは自然の道のあるべき知の回路であり、自然の大道を示しているものである。 考えるがよい、この自然の教えをどのようにして取り上げ、どのように人の道に生かすべきかを…!!。それがあなた方の重大な未来を決することになるのである。

「数」はいみじくも自然の有るべき道を示しているのであり、当然我々はそれに呼応順応し、歩調を合わせて自然との共存することを進めなければならないのである。

要するに、我々の知の視線を出来る限り自然との協調、共生につなげていくことが必要なのである。なぜならば、それによりすべては円満に運ばれ未来永劫に文明を謳歌することが出来るからである。

 これらの「神の法陣」の語りはは自然の理を示すものであり、どう足掻いても、どう難癖つけてもどうにもならないものである。我々がどう反抗し、どう逆らっても所詮、宇宙自然の大律からは逃れられないのであり、常に宇宙自然の意識の中でもがいてさ迷っているだけである。けっしてその意識の外には出られないことを知るべきである。

 ようするに、我々はひたすら恭順して教えを乞うだけであり、 ただただあなかしことばかり膝まずいて頭を垂れるのみであることを意味しているものである。。

 

「神の法陣」はすべて「数の語り」であり、「図」と「数」の絡み合いによって語られる宇宙意識(神)の持つ大叡知の集大成と呼ぶべきものである。、すなわちそれは宇宙意識の持つ最高の「知の金字塔」と言ってもいいものであろう。その存在を知りたいがために我々は数千年と言う長い時間をかけて知を磨き、学を学んで来たのである。
 今やっと念願が叶ってやっと目指して来た目的にタッチしょうとしているのであり、晴れて手の中に抱きしめることが可能な状態に近づきつつあるのである。
 さあ、後は頑張ってこれらの「自然の知の語り」をなるべく早く取り込み、自然と手を取り合いながら永遠なる繁栄に向かうことを心掛けるべきである…!!!。  

                                                                あらあらかしこ  あなかしこ…!!!。

                              今月(10月)の講座


    「神の法陣」大精義講()

   「神の法陣」こと始め(その6)
                              
2014年 11月 上載


 先月の「神の法陣」こと始め(その5)において「神の法陣」の秘密、すなわち「宇宙自然の「陰」「陽」の二元象を観る」における「天(横)」と「地(縦)」、及び「ななめのエネルギ−の走りの存在を検証し終えたあなた方は、自然の大律(理)の素晴らしさ、その神妙なる仕組みの存在に感嘆の声を上げ、感無量の心地を味わったことであろう。それはまさに現代史上、初めての大発見であり、同時に古神道の中には驚くべき「大いなる自然原理」が秘隠されていると言う古神道研究家達の言い伝えが本当であったことを物語るものである。

 今回は更にその上をいく「神」のエネルギ−の走り、すなわち、斜めのエネルギ−の走りと言う存在について言及して見よう。それはまだ誰も知らないものであり、恐らく、この言葉には学者達でも目を剥いて口もきけなくなるはずである。それは当然、あなた方も同じであろう。

その確たる存在と言うものを今回は諸氏と共にじっくりと見てみることにしよう。 素直に数を読み、素直に考えることである。

要するに、「神」のエネルギ−の走りとは「天(横)」、「地(縦)」の中間にあってこれらを等しく監視し、バランスを保ちながらしっかりと全体を治めている聖なる存在のことである。その働きはすなわち、「天」、「地」全体に及ぶものであり、すべからく個に影響を与えながら全体をコントロ−ルしている偉大なる永遠の存在と言うものである。

今回はその「神のエネルギ−」がそれぞれの個をまとめ上げながら全体を覆い、それにより全体的な調和状態を醸し出している不可思議な「数の語り」、玄遠なる「数の物語」を紹介して見たいと思う。

ここに掲示してあるのは「神の法陣」の中の最初の簡単な図、すなわち、3次元、4次元、5次元における「神の仕組み」の詳細を解き放ったものであるが、この恐るべき手法は「神の法陣」の全般にわたって通じるものであり、例外は無いものであることを知って貰いたい。

時間のある方は是非、計算検証して真実を確かめた上で、十二分に心で納得してもらいたい。

それによりあなたの心は天外に飛び、改めて現在の人間知の儚さを知り、同時に大いなる落胆と多大な無力感を味わい尽くすことになるのである。

あなた方はよく耳にする言葉、それは現代文明知は過去には無かったような絶頂期を迎え、更なる発展を目指してると学者達は広言していることである、しかし、それが果たして真実なのであろうか…!?。 それはとんでもない幻想であり、単なる自分達のつくり上げた学を礼賛するための大言壮語であることが、神の数学」を学んでいくにつれて序々に判ってくるはずである。

 

我々の学んでいる現代の学とはいわゆる「形而下の知」と言うものであり、実際にはその上には「形而上の叡知」が厳然として存在しているのである。
 しかし、現代の学者達はその事実を領分外として一切無視を決め込むだけであり、決して口にすることは無い。

確か、古代のギリシャ人は「地球上で適用される1組の法則とは別に天空で適用される別の1組の法則がある」と言っていたが、それはまさに真実であり、適言であったのである。  …『心は量子で語れるか』…R・ペンロ−ズ著より

 おそらく、この二つの法則が日本語にある「形而下」と「形而上」と言う言葉であり、その内容と言うものであろう。

今の若い人々には聞き慣れない言葉ではあろうが、平たく訳せば「人間知」と「神の知」と言った方が解りやすいかも知れない。ただ日本では今は滅多に使われていない言葉、必要とされない言葉となってしまったので余り知られてはいないだけである。 甚だ残念なことであるが…。

要するに、今までは西洋科学知の下に現代文明を推し進め、科学知では測れない自然象の存在を切り捨てて来た結果が今となって思わぬ矛盾となって現れて来ているのである。

その元となっているのが聖書であり、そこにある「自然は人間が支配するものである」の言葉であり、それを合言葉として自然を簒奪支配し、破壊を重ねて来たのが現代西洋科学文明知なのである。 そのあたりの聖書の言葉内容についてはあなた方もよく知っていることであろう。

またそれに輪を掛けたのがデカルトの「神の棚上げ」であり、それにより「神」、「霊」等の目に見えないもの、計算で表わせないものは一切無い、存在しないとして科学の世界から完全追放し、立ち入り禁止、調査禁止にしてしまったものである。

それらによりますます人類と神の間は遠ざかり、人間至上主義をモット−とした現代西洋文明が栄え、それと共に自然からはますます離れ、大きな溝をつくっている現在である。

ところが21世紀末になって科学の限界を感じ始めた多くの先端物理学者達から疑問の声が巻き起こり、「神」が無ければ自然の存在はあり得ない、「神」の存在があるからこそこのような素晴らしい大自然が存続可能になっているのであるとの声が上がり始めたのである。

要するに、人間のまだ知らない「自然の奥に潜んでいるもの」、「自然事象の起点にあるもの」の存在に科学者達は今ここに至って初めて気がつき、目を向け始めたのである。

それも様々な先端物理理論の成立過程の変遷や自然の秘密の探索における行き詰まり等を経験することにより、本来のあるべきスタ−ト点をやっと見出したと言うことである。

 

しかるに、彼等科学者達は宗教の「神」との混同を嫌い、「宇宙意識」、「大いなる存在」、「創造主」、「超知的な存在」、「宇宙の最高知性」、「サムシング・グレイト」、「オ−バ−・ソウル」等と勝手に自分で名前をつけて問題解決を図ろうとしているようであるが、傍らから見ると宗教界の「神」とまったく同じ言葉であり、完全に同義語に聞こえるものである。

 

要するに、「神」、そんなものは無いと足蹴にして来たことが今度は逆に作用して科学知のネックとなって、今では現代文明の進歩発展の妨げになり始めているのである。

恐らく、この危機的な知の矛盾の状態を解消するには大分時間がかかるであろう。何故なら自分達が蒔いた「神無し」の種はすでに300年と言う時を経て成長しているからであり、それを改めて種を蒔き直すためには当然長い時間が必要と考えられるからである。

 さあ、この先、何時になったら「神」の存在が公然と認められて、人々はその作用、その働きを誉め讃えながら、懸命に生活に精出すことが出来るようになるのであろうか…!!。

 
 
 


  何と言うことであろうか…!!?。まさに驚くべき「神」のメッセ−ジ・コードの出現である…!!!。


 次元表内におけるそれぞれのエネルギ−は対極的な大きな循環を繰り返しながら、次元全体を覆い一つの共鳴体に変えて意思伝達が可能なものとなっているのである。ここで言えばと言う数が全体を仕切り、全体を統率している要(かなめ)の数であり、言葉なのである。出来れば、ここで先月の「天」のエネルギ−の走りと「地」のエネルギ−の走りの図を参照しながら検証して貰いたい。 それによりなお全体がハッキリと明らかになり、感慨も一汐増すことになるはずである。

 まさにそれにより個と全体は互いに調和を保ちながら自己調和という形をつくり上げて一つの有機的な全体構造をつくり上げているのであり、まさに知のメッセ−ジ ・ コードと言ってもいいものである。

言葉を変えればそれは「意思をもっている」、「目的を持っている」と言う驚くべき基本的な特性を有しながら、更には、知を有するすべての者にそれを開示しようとしている姿である。有名な統計数学者であり情報科学者である北川敏男氏はこれらを称して「意味を持つ秩序ある記号体系」と言っている。

 
 この図が「天」のエネルギ−の走り、あるいは「地」のエネルギ−の走りと共に存在する「神」のエネルギ−の走りであり、人類には未だ知られてはいない第3のエネルギ−と言うものである。その確たる存在を語っているのが「神の法陣」であり、そこにある斜めの「数の走り」の姿なのである。

 

なお、これらの真実の存在を更に確信したい方、疑いを払拭したい方は更なる次元、すなわち、6、7、8,9の次法陣表を作って同じ姿の循環線を描き、同じ要領をもって計算を進めて見てほしい。

例え10次元。100次元と進んでも決して変わらぬものであり、そこに展開される「数の妙技」にはただただ感嘆し、ため息をつくだけで終わりとなるであろう。

 

要するに、それは前回記した「天」のエネルギ−の走り』とそれに対して90度の位相を持つ『「地」のエネルギ−の走りの存在であり、それに対して正中心とも言うべき45度の角度をもって流れる斜めの数列の存在こそが誰も知らない「神」エネルギ−の走りなのである。

その「神」のエネルギ−の走りこそはゆくりない「神の世界」の存在証であり、まごうことない「神」の存在を示している聖なる「数の走り」なのである。

何と、「神」は身近にいて常に「天」と「地」、すなわち我々の世界をシッカリと見守って、その進むべき道を睨みながら共存している究極体と言うべきものである。

その明らかなる証拠、すなわち、この数の物語は正しいことを証明している数的な証拠が最後に現われて来る12345……の自然数であり、宇宙自然の正しい秩序の姿のあり方を開示している窮極の姿なのである。良く見れば、それは古神道の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」の高らかなる響であり、古代の祖達の魂の真実の叫びなのである

 

それらは偶然に創られたものでは無いことは上記を検証すればすぐに判ることである。何故なら、それらすべては「神」のつくった正自然数の流れ、すなわち古神道の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数数」を伴なって永遠なる回帰を果たしているのであり、その事実を「数」がハッキリと語っているからである。

そこに現れ出た「ひふみ数」、それはいみじくも古神道の奥儀祝詞で歌われている「ひふみ…天地の数歌」そのものの姿である。まさしくそれは天地宇宙の仕組みを語って止まない宇宙叡知のほとばしりの言葉であり、超一級の世界の知宝と言うべきものである。

 

何と言うこと…!!、日本の古神道とはゆるぎなない「神の叡知」を納めている人類の「知の秘宝」であり、かっての神道先達者達が「日本神道には全人類の最高の叡知が潜在している」と叫んでいたものである。その声はまさに真実を語って止まないものであったのである。

 

 ここで一つ説明しなければならないことがある、それはすなわち、次元転換の角度の存在と言う新事実の出現であり、90度の位相転換こそが次の次元の扉を開け放つ鍵を握っていると言う新たな「数の証言」がここに出て来たと言うことである。

次元転換の例を簡単に上げておくので一人静かに思考し、指で空間をなぞりながらじっくりと考えて貰いたい。

 ≪ここに点がある、それを90度位相を変えて見るのである。いや、考えただけでは判らない御仁もいるであろう。よって細いマッチの棒を一本取り出し、それを翳(かざ)し、切断面を正面から見る、それが点であり、1次元の世界と言うものである。

今度はそれを横に90度位相を変えて見ると今度は長いサイド面となる。それが縦と横の広がりを持つ2次元世界の姿である。

次は改めて一冊の本を目の前に置く、それを横にして正面から見る、するとそれが縦と横の広がりを持つ2次元の世界の現れである。今度はそれを上下のどちらかに90度回転させる。するとそれは縦、横、高さ、を所有する3次元の世界である。

要するに、一直角、すなわち90度の位相転換により別な次元世界が現れると言うことである。しかし、次元世界の定義は定まってはいない、例えば、現在の我々の世界は3次元世界であるとも言うし、いや、それに時間を加えた4次元世界であるとも言っている。

要するに、学者の世界でもハッキリした根拠ある判断は下せないものであり、今の我々の知では到底歯が立たないものである。≫

 

物質文明の進展に溺れるあまり、自然象の追求を完全に忘れた現代人、それが今や進むこともままならない完全な岐路にあるのである。もはや人間知は限界に達して新たな知は生まれず、今までの知を絡ませながら何とか時代を食いつないでいるだけである。

今や、とうに本当の神学は崩れ去り、その骸(むくろ)に人々が寄り添っているだけである。 哲学も少し前に姿を消し、今では語る者とていない有り様である。最後の科学と言う砦も終焉を迎え、最早新たな進展は無いと人々は噂している今日この頃である。

 

今の中に少しでも可能性のある新たな知のフィ−ルドを見出し、少しでも未来に備えて置くことが望ましい。 最早、躊躇している時間は無い、まずは我々の意識を変えながら新しい発想を重ね、新しい着想で考え始めなければならないのである。それが今、必要不可決な条件であり、断固として進まなければならない道である。

 今や、パラドックスやアマノリ−などに悩まされて前進を止めるような悠長な時ではない、前進が無ければ最早人類文明はただ壊死があるだけであり、それを待つだけの状態である。

常識が妨げるのならば常識を変えればいいのであり、理論や手法が通らないのならば、まったく新しい考えや手法を生みだせばいいのである。

今や、科学は我々の宇宙はスピンしたり、回転や振動を伴った小さな「ヒモ」から成り立ち、それが我々の世界の基本的な存在因子であると説き始めている。
 それが最先端の物理理論である「超ひも理論」であり、21世紀の物理学理論と言われているものである。

 

最早、今までの常識などはまったく通じない世界に突入し、新たな理論を形成して宇宙自然と交信出来なければこれ以上の進化は不可能なところまで人類は来ているのである。

常識をうんぬんしているならば完全に取り残され、自然破滅してしまうような厳しさの間際にあるのである。今やその時は刻々と迫っていることを知って欲しい。

 このように「神の方陣」の示す数の走りには深遠なる真理、すなわち、今までは判らなかった「意味のある神の啓示」が内蔵され、それを誰かに伝えようとしているのである。

恐らく、その相手はこの宇宙の中で知のあり方に悩み、迷っている知的生命体であろう。

 

我々は現実に数を見ながら計算検証し、答を出しているのであるから決して夢などではない。また、このようにハッキリした結果、答があることから見ると、決して空虚なストリ−ではなく、完全な意味内容を持つ驚くべき重大事を示唆していることが誰にでも判るのである。

 
      Break time
!!

 


  少々ペ−ジ数にゆとりが見えて来たので、もう一つ続きの図、すなわち、7次元の「神の走り」を掲載しておこう。果たして思惑通りに数は進んでくれているのか、それとも思惑は外れて混沌の世界が顔を出し、すべては複雑で終わってしまうのであろうか…!!?。それは親しく7次元図を辿った者のお楽しみと言うことにしょう。

 続く8次、9次の「神の法陣」についてはあなた方の手にゆだねるので、宜しく、御頼み申し上げたい。すべからく、知は手で求めることであり、手が脳に従うのではなく、脳が手の先導により知に至ることになるのである。そしてそれが何時かは心に大きな結果を残すと言うことになるのである。


  

付録  「神の法陣」7次元の『神の数の走り』を見る。

      ≪8次元、9次元の計算はあなたの手で行って貰いたい。≫

すべては自然数による自然的な計算手法である。そこに展開される美しい数の舞い、見事な
   数の展開に心を引かれ、むげに否定などは出来ないものである。


 

 

≪例≫ 

 @  この7次元の対角線右下がりの図を見て貰いたい。その6番目の計算を行って見る。55555は当然5×5で答は25である。現代の計算では32108+23456=55564→25となる。しかし、一桁化の計算ではすべての数の加算=3210823456()=34である。何かおかしい…!?、ここで考えるのである、すなわち、34と25の差は9である。 そこで34を25と9に分解する、すると9+25になる。そこで9=0を持ち出すことにより、残るのは25だけとなって問題は簡単に解決されるのである。 最早、そこには少しも疑念もなく、すべては弥栄で終わるのである。

    A  上記の3,4,5の各次元表では敢えて省いたのであるが、本来はこの7次元表のように最初に0を置くべきなのである。この最初にある0はその後に続く「見える世界」をつくり 上げた「神」であり、最初と最後には必ず置くことによりすべては弥栄となり、矛盾は完全解消となって終わるのである。

その証拠を見せよ」、と言われれば何時でもお見せ申し上げることが出来る。 覚えていて欲しい。

 

 さあ、これらを学んだあなた方は何を考え、新たな何を見出すのであろうか、甚だ興味深い展開が待っている。出来る限り誠心誠意を旨に数としっかり向き合い、数の語るストリ−を聞き洩らさず、そのすべての囁きを心に刻み込んでこれからの知の糧にして新たな発展に向かうことを期待したい。

ここにはまことに面白く、興味の尽きない「数の醍醐味」の展開があり、まさに注目すべき「数の自然仕組み」が詰まっている「神の図」が展開されているのである。これらを学ぶことにより新しい「知の未来」が開け、あなたの人生は180度の転換を迎え、心は一気に別世界へと飛翔を始めることになるはずである。

すべては知られざる「神の知」であり、今までの人間の知には全く無かったものである。まさにこれらすべては新しい「自然の語り」と言うものであり、初めて見参するものである。

また、ここから更に多くの新鮮な「宇宙の叡知」が人々により見出され、どんどん世の中に広まっていくことを期待したい。私は常にそうであることを願ってやまない。

 

ひょっとするとこれらの「神の知」は今までの我々の世界観をガラリと変えて、もっと自然のまま、すなわち、今までの知の呪縛から解放されてもっと楽観的に生きることを示唆しているのかも知れない。なぜならば、すべては最初から決められているのであり、我々がどう足掻いてもどうにもならないことを人類は知るからである。
 すべては天と地の定めであり、縦糸と横糸の交叉が結ぶこの世の規律正しいめぐり合いの結果なのである。

 

この法陣の図には本当の自然の姿、「科学」、「哲学」、「神学」の真髄が秘められ、開示されていることを知って欲しい。  果たして、誰かがこれを完全に読み解き、それを人知に加えながら現代知を修正して新たな出発点にすることになるのであろうか、それともまったく意味の無いものとして完全に無視して葬り去ってしまうのか、それがまさに思案のしどころであり、未来を決する重大な岐路となるものである。
 
 「数の秘密」、それこそ我々現代人が学び取らなければならない最大の未知の学であり、自然と語り合うためには必要不可欠な知なのである。

果たして、今の現代西洋科学知の発展が人類を繁栄に向かわせ、輝ける未来を築きあげることが出来るのか、果たして存在する知的な宇宙生物と伍しながら存出来るような知の段階に進むことが可能なのであろうか…、私は怪しむ…!!??。

 今の、人類の知の度合いの不完全さから見ても、すべては ??? である。

 

「神の法陣」の示す知は、すべて宇宙の普遍の知なのである。すべては「宇宙の大律」であり、宇宙の中で生存するすべてのものはその律の下で生存し、知を育んでいるいるものである。

すなわち、この律の下から外れたものは即、自然消滅が待っていると言うことである。

 

ただ我々は何も知らない、厳然たる宇宙の律の下にあって常に宇宙の律に縛られ(守られ…?)ながら生きているのであり、完全な監視下にあるのである。
 しかし、我々はそんなことも知らずにただ我儘勝手に生き、したい放題をしているだけである。 何と、哀れな…!!?。

本来はその事実を知らなければならないのであり、知ることにより感謝と畏敬の念を抱いて敬虔に生きていくことが出来るのである。
 しかし、残念ながら、人類の誰もがそれを知らない、そのような事実がしっかり存在していることさえも誰も知らないのである。

 

まあ、知ってもしょうがないものかも知れない。なぜならば、宇宙と共に存在する限り、その律から逃れることは出来ず、常に縛られ続けているからである。でもそれらを常に心に置けば心は大きく広がり、それにつれて心も体も健康の度合いを増し、快活な人生を送れるのである。
 少なくても私自身はそのような心掛けをもって生きて来ている積りであり、これからもそのつもりで生きていこうとしているのである。

手っ取り早く言えば、空気に感謝し、水に感謝をし、太陽に感謝し、宇宙(宇宙意識、神)に感謝を捧げながら生きると言うことであり、同時に、それらが作りあげているもろもろの聖なる自然の恵みにも大感謝をしながら生きていくと言うことである。

また、それは誰にでも出来ることであり、誰にでも出来る自然本来の生き方と言うものである。しかし、残念にも誰もそれを知る人はいない…!!!。

                                   (今月の講 完)



    「神の法陣」大精義講()

   「神の法陣」こと始め(その7)
                              
2014年 12月 上載

 

今までの「神の数学」講座の中でも何回も述べ、検証して来たのであるが更にもう一度述べて置くことにしたい。それは現代直線系数学形態の遥か以前の時代に用いられていた古代の「数の理」とは、すべて1〜9までの「循環的な数の運び」であり、それは自然の持つ循環の理に完全に合った素晴らしい形式を持っていたものであった。

 要するに、それが本当の自然数学形態であり、まさに自然の声を聞くためには必要不可欠な「数の走り」と言うものであったのである。それをハッキリした形で見せているものが「神の数学」であり、その中にある「神の法陣」の順序立った「数の走り」の姿である。

  逆に考えれば「神の数学」を学ぶことにより、我々は初めて大いなる「自然の理」の存在を知ることが可能になると言うことである。要するに、それを学ぶことにより自然と対話が可能になるばかりか、自然の「意思のあり方」までも究めることが出来るのである。

  しかし、残念ながら、現代のあなた方は「自然の理」を知ることは叶わない。

なぜならば、あなた方の知はすべて現代西洋の知、すなわち、現代西洋知の常識にまみれ去って最早、自然の本当の真実からは完全に離れ、遠ざかっているからである。

 だから、当たり前の自然の道筋でも現代知に沿って考えてしまうと言うまったく理解が出来ない羽目に陥っているのである。要するに、あなた方は「現代知」と言う「自然知」に逆らった考え方を常識としているので、いくら考えても自然知と言うものは解らない、理解が出来ないと言うことである。

 

 それは同じ宗教と言うジャンルの中におけるキリスト教とイスラム教のようなものである。本来、同じ宗教と言う神を求める立場でありながらお互いに助け合うこともせずに完全にいがみ合っているのである。例えば、基本的な問題においてもイスラム教で否定されるがキリスト教では是であり、逆にキリスト教では是でもイスラム教では否とされることも多々あるのである。要するに、これが人間知のあやふい所、すなわち、人間知は自然のように絶対的なスタンダ−ド理(律)を何も持っていないと言うことが原因なのである。

 

 いや、そんなことはない、我々にだってそのくらいの自然知は理解出来る、現代知で十分に理解可能であると反論する御仁もいるであろう。そのように自信に漲る方は次に掲げる「自然知にとっては当たり前の問題」を掲げて置くので出来る限り懸命に考えて貰いたい。果たして理解が出来、更なる奥の知を引っ張り出すことが出来るのであろうか…!!?。

そして何らかの新しい事実を掴み上げることが出来るのであろうか…!!??。

恐らく、これらはあなた方にとっては考えられないものに遭遇したと考え慌てふためくものであろう、多分、目から鱗が落ちるような不可思議な問題、今まで誰も考えたことも無い奇妙な問題に映り、困り果てるであろう。ゆえに、そんなことはある筈がないと全面的な否定に走るのはこれまた間違いの無いことである。しかし、現実は現実、真実はあくまでも真実であり、自然の真実の前には誰も否定などは出来ないのである。そのことだけはシッカリ覚え、肝に銘じて置くべきである。

 何故なら、すべては「神」の手になる「数の走り」であり、我々にはどうしょうも無い宇宙意識のほとばしりであり、常に永久無変の姿を持っているものであるからである。

 

これは、あなた方の想像の域を遥かに越えた由々しき大問題であり、恐らく、学者達にとっても肝が抜けるばかりの驚くべき「神の叡知」の出現と言ってもいいものであろう。

だから、決して否定には走らず、持てる知をフルに使いながら考え、改めて現代知を更に発展進化させるための一つの試金石として利用しなければならないのである。

今回の講座内容はあなた方にとっては永遠なる謎である「メビュ−スの輪(Mobius loop)」の真実を明かすための「数の実証図」であり、まさに驚くべき「数の語り」の一端なのである。要するにこれは現代人の誰も知らない「神の秘密」の紹介講座の一つなのである。

 

要するに、この我々の自然2元宇宙はメビュ−ス的な捻じれがあって初めて発生可能なものであり、その捻じれが「陰」と「陽」を生み、「この世」と「あの世」の誕生につながったと数は証言しているのである。 これはまさに貴重な我々の宇宙の始まりを説く「数の語り」の姿と言うものである。

恐らく、今までそのような現代科学の域を超えた自然の驚くべき働きについては誰も知らないものであり、今まで誰も考えたこともないものであろう。

 

要するに、現代人にとっては「メビュ−スの輪」は単なるゲ−ム上の遊び、言葉の飾り、物理学上の理論遊びの道具であり、実用はおろか、学理にも至らないバ−チャル的な想像に過ぎないものである。いや、ひょっとすると、私が知らないだけであって何か実現化されて有用化されているのなのであろうか…!?。

ハッキリ言えば、未だ我々のような知の浅い種族には「メビュ−スの輪」と言う現象を完全に理解することは叶わず、その作用的な働きの実体もまったく掴むことも出来ないのである。

 しかしである、本来は「メビュ−スの輪」的現象は宇宙的にはあまねく存在している自然の現象であり、当たり前の自然的な普遍現象なのである。それはすなわち、「天」「地」、「陰」「陽」の相対的な現象を生み出す自然の基本的な営みであり、同時に「正」「反」と言う二元的な対立を生む最初の根源となるものである。要するに、それは宇宙の(+)(−)と言う正反対の力を発生させて、顕在現象を生みだす根本的な作用と言うものである。

 

何を大げさなことを言うのか、世界中の科学者さえ掴めていない宇宙の発生の根源をドンキホ−テ風情の田舎学者が口にするとは何たる失礼、何たる、傲慢であり、礼を知らない無礼な態度であるとあなた方は非難するかもしれない。しかし、それは違う、まったくのお門違いな発言と言うものである。

何故なら、あなた方は真実ではないいい加減な推量に惑わされながら宇宙の成立過程を論じ、常識上の基本に惑わされてまったく芸の無い宇宙創生の話に口角泡を飛ばし、大激論を交わして熱くなっているだけであり、ただただ、実証の無い思いつきの宇宙論をぶちまけて大騒ぎしているだけである。

それがビックバン宇宙説であり、宇宙の中心で起きた大爆発の結果が今でも続いて宇宙はどんどんと外側に広がっているという一つの現代宇宙理論なのである。

 

しかし、最近では「宇宙に爆発的な始まりなどは無く、始まりの前は何も無い無辺世界が広がり、定常状態が続いていたとされている。ある時、そこに突然神の一撃が加えられそこから天と地が自然的に分かれ、その結果、宇宙の万物が生成されたと言う説が大変有力になって来ているのであり、そのことを知って貰いたい。

しかし、残念ながら、この「神の一撃」とは何を意味するものかについてはまったく解明は出来ず、学者達はただ戸惑いを見せているだけである。

 

さあ、ここから「神の数学」の出番である。そのあたりのことを「神の数学」は理路整然と無理なく説明し、しかも、現代知を持って検証しても何ら不都合な点は無いのである。


 

 要するに、

   @  始原宇宙とは何の変化も無い無辺世界である。→ 上記の太極の世界

A  それが中心から180度捻じれてメビュ−ス状になり、その結果、の性質の異なる二つの世界が出現した、それが正と反の二元世界の誕生である。

B  そのあり様を語っているものが古神道の奥儀祝詞の「ひふみ…天地の数歌」であり、また、その本体である「ひふみ九九算表」の極まりない姿なのである。

  C  よく見るがいい、「ひふみ九九算表」は中心から180度メビュ−ス状に捻じれることにより、2元世界、すなわち、「陰」と「陽」の世界が姿を現しているのである。   それがすなわち、我々が「あの世」「この世」と呼んでいる二つの世界である。

  D  上記の表を見て欲しい、元の世界、すなわち、太極世界ではすべての流れは滔々と一方に流れ、一切の変化は無い、それがすなわち、0の静寂な世界、涅槃   の極楽世界と言うものである。

ある時、そこに神の一撃が加えられ、180のねじりが発生し、そのまま合一して一つの世界となってしまった。要するに、そこで初めて一つの宇宙の中に正、反の異質が共存すると言う極めて不可思議な二元世界が誕生したのである。

  その結果、宇宙の本質はすべて0となり、永久不変、永劫無変の姿になったのである。それと同時にそこにあるすべての森羅万象は宇宙と同様に正と反、すなわち、「陰」と「陽」の性質を持っようになったのである。


 

 

このように中心から180度捩じられた世界ではすべては二元的な「陰」と「陽」の性質を持つことにより、調和のある変化世界へと転化を遂げることが出来るのである。

   では次にその誰も知らない事実を「神の法陣」用いてその仕組みを探証して見よう。


 

 

 この「3次元法陣」体で示されている計算の真意は『すべての次元体は真ん中からひねられてメビュ−ス体になることにより「陰」と「陽」と言う正反対の性質を持つ場が自然発生し、それにより変化が生まれ、すべては調和に至り、永遠性を誇っている。』 ことを示しているものである。

  その仕組みはまさにメビュ−ス状であり、ご覧のように180度ひねられた形である。

 

 


 如何であろうか…!!、要するに、「太極」の単純極まりない一方的な流れが「神」の一撃によりメビュス的にひねられた結果、「陰」、「陽」と言う対逆的な二つの構造(両義構造)が発生し、静から動へと見事な変転を遂げたことをハッキリ物語っている図である。

かくして、やがてはそこには生命と言うものが誕生し、それは何かを求めるように「死」と「生」の間を次々と循環して永遠に向かう長い旅が始まったのである。

  恐らく、誰も知らないと思うが、宇宙自然の申し子である我々の身にもそれは等しく起っているのである。それは我々の右脳は体の左側と繋がり、左脳は体の右側と繋がっていると言う事実である。要するに、我々の神経は首の上部にある脳幹あたりで交叉しているのであり、そこは人間の機能上最も大切な部分と言われてる場所である。要するに、それは我々の体もメビュ−スの輪のようにX状に交叉した形をもって創られていると言うことである。そのあたりのことを是非ともも知って欲しい。

 

いや、よくよく考えてみると、我々の基本因子である遺伝子でさえも ]と言う交叉した構造を持っているのである…!!。いやそう言えば、我々の体でさえも手と足を伸ばせばまさにX状を表すものと言えるものである。要するに、両手は陰と陽の対の役割を果たし、それらが揃って作業に取り組むからこそ満足に活動が出来るのである。足も同様である、左右の足、すなわち、陰と陽の足が交互に動くからこそスム−スに歩くことが出来るのである。すべては陰と陽の仕組みの作用の結果であり、それがあるからすべてはスム−スに完遂される、要するに、その当たり前の動き、自然の動きが自然体の作用と言うものである。

いやはや驚いた、まさに通常の中でも知らないうちに陰と陽の働きが相呼応しながら、すべてを導いて滞りなく作用を完遂させているのである。

 初心者の方には少々判り兼ねるかもしれない、しかし、何回でもこれらの「神の法陣」の図を検証し、読み込んで行けば段々に判って来ると思う。要は何回でもチャレンジし、何回でも読み込んで心に刻み込むことであり、常に心に置いて反芻をすることである。

 

 これらを簡単にまとめると以下のように集約される。

 

「陰」と「陽」の存在が有って、初めて現象として顕在化される。「陰」または「陽」だけの単体では変化を生むことはなく、現象化に至ることは無い。

    「陰」、「陽」は中心を軸に相対的に展開され、お互いに逆なエネルギ−方向を持っている。

    中心とは相対的な「陰」と「陽」が相重なった場であり、お互いのエネルギ−が相殺されてエネルギ−方向は無(0)になる、すなわち、それが0のエネルギ−場なのである。

    「陰」と「陽」は事象の中心を180度回転(ひねり)させた時に発生し、安定する。そして、「陰」と「陽」の存在とは、すなわち、二つの対逆的なエネルギ−の現れであり、そのエネルギ−に占有された場である。

 これらの「神の方陣」における「陰」、「陽」のメビュ−ス的な転化は(1)の「ひふみ九九算表」とまったく同じである。  そのあたりは(1)の「ひふみ九九算表」と天地の世界の図を見ればよく判るであろう。故に私は「ひふみ九九算表」は「神の方陣」の手ほどきの図、すなわち、ガイド案内図であると常々言っているのである。

 

ではここに示された「陰」と「陽」の姿を現代物理学ではどのように見ているのか…!?、

 そのあたりを色々な物理学の記述書を見ながら報告して見よう。

  まずは物質の基本因子である原子を見てみょう、原子はマイナスの質を持つ電子とプラスの質を持つ陽子、それに中性子から成り立っている。「神の数学」的に言えば電子は陰であり、陽子は陽、そして中性子は0の因子である。そのあたりのことは古神道の祝詞である「ひふみ天地の数歌」に詳細に述べられているのであるが、ただ、現代西洋科学に夢中な今の日本民族は誰一人見向きもしない、信じようともしないのである。嘆かわしい…!!。

 

恐らく、今から約半世紀前、すなわち、1950年あたりまでの西洋物理学者達の描いていた原子の形は中心にある陽子の周りを電子が高速で回っていると言う簡単なものであった、そこに待ったをかけたのが日本の理論物理学者の湯川秀樹博士である。

彼は「プラスとマイナスの質は決して接することは出来ない、何かその間にその力を中和する存在があるはず」と考えて作りあげたのがあの有名な中間子理論である。要するに、陽子(プラス)と電子(マイナス)の間には何かが存在して力を無効化させていると考え、そこから生まれたのがノ−ベル賞を貰ったあの有名な中間子理論なのである。

 

私に言わせると彼は東洋的自然道、すなわち、神道を信じている日本人だからこそ、その大発見に至ったのである。また、日本人として何らかの神的インスピレ−ションを備えていたからこそ、自然の事実を見事に見抜くことが出来、理論化に成功したのである。

そのあたりのもっとハッキリした物理的な証拠、すなわち、古代における中性子と電子、陽子の関係をどうしても知りたい方は、古神道の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」を徹底的に検証して見ることである。それはそこにある「12345…」を「アイウエオ」の言葉で解けば明らかなる「陰」〜〜0〜〜「陽」の大いなる関係が見つかるはずである。

それほど「ひふみ…天地の数歌」はまばゆい光を放ちながら「現代物理学」を凌いで輝いているものであり、更には「神」の明らかな存在までも示し、我々に教えようとしている。

あなた方が本気で「神」の存在を追求するならば、そこにはその扉を開く鍵である大いなる言霊の姿も見受けられるはずである。そのことだけはシッカリ伝えて置きたい。

それでも見つからないと言う御仁は是非、私に尋ねるがよい。あなたが完全理解に至るまで手を取って教え申そう。それはこれ一つを明らかにするだけで世の中は大騒ぎになり現代物理学や現代数学は完全に光を失って凋んでいくことになるものでもある。

ただし、目から鼻に抜けるような賢しい方、あるいは1を聞いて10を知るような洞察力の優れた御仁が望ましい、何故なら、これらのすべての秘密をあなた方の手で次の世代の人々に宜しく伝えて貰わなければならないからである。それともまたは鈍な御仁であっても根気があり、何処までも真実を追求しょうとする真面目な方であるならば、それでもよかろう、心から歓迎もしよう。

 

高々、ひふみ…の九文字の追求と言う単純至極なことである。しかし、そこには現代知では及びもつかないほどの偉大な「宇宙の叡知」が密かに潜んでいるのである。

恐らく、その真実の存在を明らかにすれば現代の第一級の物理学者、あるいは数学の大先生でも間違いなく、のけぞり返るほどの衝撃を受けることになるはずである。

そこにあるのはそれほど偉大で素晴らしい「天与の叡知」であり、それが顔を覗かせているのである。それは今の西洋かぶれの人間知ではどうしても考えられないものであり、それを見出すことが出来るのは祖である縄文人のDNAを持つ日本民族だけであろう。

 

それは思考力の問題であり、大変やさしいものである。ただ、あなた方が、現代知的な常識に惑わされているから、見出せないだけであり、考えることが出来ないだけである。

あなたが現代知の常識を傍らに置いて考えると簡単に見出すことが出来るのであり、簡単に納得出来るものでもある。

 

あなた方は大袈裟な、と言うかも知れない。しかし、真実を知れば誰でも天に感謝し、地に伏して自然の驚くべき超作用に感激を覚えるであろう。今回の「神の法陣」のメビュ−ス化による「数の有機的存在」に目覚めた方は次の段階、すなわち、「神の法陣」の指し示す数字の語る更なる理論展開を見守って貰いたい。数の展開はますます勢いを見せ、驚くべき「神の秘密」を次々と披露してくれることになるはずである。

 

このあたりで一応、『「神の法陣」こと始め』は幕を引くことにしたい。

次回からは[
神の法陣」大精義講(2)に移行し、偉大な「自然の真実」の語り部達に席をゆづり、新たな歩を進めて行きたい。宜しく…!!!。

                                                                           今月の記 


  「神の法陣」大精義講(2)

   偉大な「自然の真実」の語り部達…!!(その1)

                                                              平成15年1月


 

 現代の学者達はあまりにも現代知に関しては自信過剰ぎみであり、余りにも自然の知を軽く見て、あまり高い評価をしては来なかった。今ではそれが災いして自然から疎外され、場合によっては攻撃されているようにも思われるような場面も時々見られるような今日この頃である。

あなた方は知らないのである、自然の真実とは「神(宇宙意識)」、「神々(自然の守り神)」は存在し、我々の一挙一動の一切を見守っていると言う驚くべき事実の存在を…!!!。

「『神』、そんなものがある筈が無い」と言うのは現代西洋科学信者の戯言か、それとも物事を深く追求したことの無い学者の発している寝言に過ぎないものである。

 

私が「神の方陣」をあなた方に紹介しようとする最大の目的はそれ、すなわち、「神の方陣」を用いれば「神の存在証明」が簡単に証明出来る事実を知って貰いたいからである。

 今までどれほど多くの歴史上の賢人、知者、哲学者、神学者達がこの重大なタイトルに挑戦したがすべての人が涙を飲んで敗退している。まことに残念ながら、誰一人としてこの「神の存在証拠」のハッキリした存在を見出すことが出来なかったのである。

いや、それどころか、「神の存在」の匂いさえも嗅ぎ出すことも出来なかったのである。

 

 要するに、恐らく、今まで世に現れた人類の90%は「神」の存在を信じ、「神」を求めて右往左往していたと思う。しかるに、誰も「神」と言うものの存在はおろか、その息吹さえも感じた者はいなかったのである。 要するに、「神」の形、姿はおろか、その影さえも掴むことが叶わなかったと言うことである。
 それは科学が最高に発達した現代でも少しも変わってはいない、相も変わらず「神」を求めて人々は右往左往し、「神」を求めて泣き叫び、「神」を求めて大金が動いているのである。それが真実の人類の歴史であり、有史以来の変わらない世相の流れと言うものである。

 

 さて、宇宙は、世界はと言う話を小さく千切り、日本に持って来ることにしよう。あなた方は馬鹿にしているようであるが、日本はもともと神国と言われる世界にも稀な由縁を持つ特別な国であり、世界で一番歴史の古い国であることが判って来ているのである。

今では日本の縄文時代は古代エジプト文明に匹敵す位の長い歴史、すなわち一万五千年と言う輝かしい歴史を有している世界に並び無い国なのである。

 なぜならば、日本で発掘された古代土器は年代計測によると約1万6千年と言う古いものであり、それに続くのが中国の1万2千年であり、次が中東のメソピタミャの8千年が続くのである。要するに日本の土器は群を抜いて古いものである。また、土器に限らず、工芸品でも世界一古いと言われている、すなわち、糸に朱の漆をしみ込ませた織物が9千年前の縄文期に作られたことも時代検証の結果、ハッキリ判明している。

何せ、世界でも飛びぬけて古い文明を持っていた国が日本の国、すなわち、最も神秘な国と言われている日本なのである。

ただ、おかしなことに、それを一向に信じようとはしないのが当の日本人達である。

まあ、何と面白い現象であり、まことに不可思議千万な現象と言ものである…!!?。日本の国の過去には一体何があったのであろうか…!!。

 

 一つ言って置きたい、今までの日本人は昔から中国を学問、文化の発祥国として尊敬のまなざしを持って眺めて来たと教科書では教えられてきたが、それは甚だおかしい。 それはほんの一時期だけに限れば、そう言ってもいいかもしれない。

中国が大きな文化を築き、日本に影響を及ぼしていたのは、せいぜい西暦6百年あたりの遣隋使から遣唐使が廃止された西暦9百年の時期までの僅か3百年間くらいである。要するに、当時の権威者たちは学ぶものは最早何も無いとして中国との外交を打ち切っていたのである。それ以後、江戸時代は鎖国政策により少々の貿易関係があったくらいであり、明治、大正、昭和初期あたりではかえって日本は大きな影響を中国に与えていたのである。

なぜか日本の歴史では余りにも大袈裟に書かれ、長い間、日本は中国に頼って色々なものを教わって来ているように記され、そう教えられているが、それは何かおかしい。何故なら、上記の数百年以外は頻繁な王朝交代、すなわち、たび重なる外来民族による王朝建立のはざまで中国の国内は戦乱が絶えず、民心は安定することがなかったはずである。要するに、国内事情が不安定で日本は近づかなかったと言うのが正しい解釈であろう。

 

更に、おかしいのは今の中華民国の歴史は僅か70年であり、世界でもっとも新しい国に入るはずである。正確に言えば、70年前の正当な漢民族による正当な政府は、北方異民族(北満族)の軍隊に追われて台湾に逃げて台湾を占領して台湾国をつくり上げているのである。だから、今でもその二つは仲が悪いのは誰でも知っているはずである。 そのことさえも日本の学校では教えていない。だから、子供達は何も知らないのである。

よく、中国4000年の歴史と言われているが、あれは日本のマスコミがコマ−シャルとして流した単なる宣伝文句であり、それを横取りにして中国が言い始めているのである。それをまた、日本人は信じているのである。これもまた、おかしな笑い話である。

 

 最近、特に中国の首脳が日本に対して歴史を学べと言っているのに対して、日本側は一言の抗弁も出来ないようである。政治家も同じように中国4000年の歴史を信じているからであろう。歴史の無い国が長い歴史を持つ国を歴史問題で脅す、何と言う滑稽なことであろうか。脅す方も脅す方であるが、脅される方も脅される方である。 まさに世界の笑いものであるが、我々にとっては歯がゆい話どころか、腹ただしい話である。

 

それに比べれば、その遥か昔、すなわち、あの中国の初代の王と言われている伏儀や神農が日本に留学していた頃から始皇帝の時代あたりまでの数千年間は中国人にとっては日本の国は憧れの文明開化の国であり、まさに至福の「神」の国、安寧な長寿の国であったのである。
 そのあたりのことは中国の数多の古代歴史書にも載っているではないか。 それが春秋時代のあの孔子は友人と語った折に「是非文明の国、憧れの日本に海を渡って行ってみたい」と言ったと書かれている件である。

そのような古代文献の存在さえも今の日本人は知らないし、知ろうともしない。故になおさら、日本の古代文献についてはまったく知らないのである。

例えば、中国史上初めて中国全土を統一した始皇帝はわざわざ船を仕立て貢物として男女各500人を載せて日本に向かわせている。要するに、それが当時、日本は憧れの国として名声を馳せ、知者達の行きたい国のNo1であったことの何よりの証明と言うものである。 ではもっと古い時代の日本と中国の関係を見て見よう。


 あなた方が御馴染の中国の「易」は当時日本に留学していた伏儀が日本から持ち出したものであることは余り知られていない。その事情は日本の古代文献に載っているのであるが、…!!。しかし、人のいい日本人は「易」は中国で見出されたものとして、その内容の不可思議さに拍手喝采を送っているのである。まったく、どちらもどちらであり、呆れたものである。

 

私の言うことに腹をたてるなら、その前に古神道の祝詞を正しい形で唱えて、その奥を探して見てほしい。 何故なら、そこには「易」の原型が密かに眠っているからである。まづはそれを知ることから古神道の調査検証を始めるべきである。 残念ながら、今の神社神主達もそれらの事実をまったく知らないのである。

本気で真実を探そうとするなら、本来のあるべきひふみ祝詞の「正しい形」を見出し、それを奏上しながら「易」の原型を探して揺り起こさなければならない。

その上で「易」の日本発祥の由来とその仔細をじっくり調べて見ることである。それによりそのすべては明らかになってくるのであり、歴史の真実と言うものも判って来るのである。それについての初歩学と言うものを既に「神の数学」のホ−ムぺ−ジの中でご披露しているのであるが、誰もあまり興味を持たないようである。

また、本来のあるべき正しい「日本と中国の関係」を年表で自分の手で丹念に仔細を探索して見ることである。それによりおぼろげながら歴史の本当の推移が段々判ってくるはずである。また、西洋の歴史等などよりも、日本と外国の間の歴史事情と言うものををシッカリ調べて認識すべきである。
 それが無いから隣国に舐められ、歴史を学べと脅されて平身低頭しているのである。

 

確か、明治の中ごろから現代までの百年間、中国を助け、その礎をつくり上げて来たのは日本であり、当時の中国の人々が憧れ、希望を託していた国 はこの日本なのである。 その証拠に、当時中国で活躍をした多くの人々は日本に留学し、学んでいた事実が上げられるのである。

もっとハッキリ言えば、中国が現在の隆盛を迎えることが出来たのがすべて日本が後押ししたからであり、日本が陰で助けていたからである。その関係は隠されていて中々見えては来ないが歴史の背景を調べると、そlこには間違いなく日本が動き、陰で助けていた姿があるのを発見出来るはずである。

いくら威張っていても、現実はあくまでもシビャ−であり、言い訳などは一切立たず、何時かは真実が暴露され、明るみに出されてしまうのである。
 要するに、、いくら頑張っても歴史は動かすことは出来ず、何時かは真実は洩れて元の黙阿弥に還ると言うことである。
 その最大の証拠となるものが、現在の中国が完全に日本との関係を絶てば、恐らく、5年以内に中国の経済は破綻に追い込まれ、同時に抑圧されていた周辺民族は反乱を起こすことは必定である。その結果、現在の中国は完全に消え、新しい旗がなびくことになるであろう。

それはそうであろう、中国の産業を支えている工作機械のすべては日本製であり、それもほとんどが日本の中古の機械である。同時にすべての産業のテクノロジ−も日本から持ち出したものばかりである。あなた方は知らないであろうが、そもそも現代の中国人は金儲けには才能を発揮するが、物を作る、新しいものを発明すると言う才能には大変疎(うと)い民族なのである。要するに、日本との交流が止まれば中国は経済活動のすべては止まり、国の経済は破綻するのは疑いの無い事である。

確かに、歴史上では紙、火薬、羅針盤が中国で生まれたとなっているが、何しろ、古い時代の話であり、今の中国のパクリ事情から推察すればあまり信用は出来そうもない。中国の新幹線事件がそのいい例であろう、すべてがばれた挙句、中国が世界中で大恥をかいたあの事件である。でも、すべては忘れられて500年後の世界ではまことしゃかに中国が新幹線を発明した国であると教科書には載っていることであろう。

 

私の言いたいことは、すなわち、日本人よ、あまり中国政府に対してヘイコラすべきではないと言うことである。余りにもヘイコラが過ぎるからタカビシャに抑えられるのであり、歴史問題でも何も言わないから、いい気になって何時までも持ち出されるのである。相手は商売に長けた目を持っている連中であり、とうに日本人の心を見抜いていたぶっているだけである。商売と言うのは相手に欲があると見抜いた方が勝ちであり、それが無ければ、交渉はすぐに終わりになるのが通例である。
 要するに、彼等の日頃の精神構造が我々日本人とは全く異なっていることをシッカリ覚えておくことであり、決して同一視してはならないことを知るべきである。

この際である、政治家たるものシッカリ隣国の性格、性癖と言うものを知っておくべきであり、それを今後の関係に生かして、交流に臨むべきである。
今、起こっている諸問題が相手を見極めるいいチャンスであり、じっくり相手の言動を観察して未来に備えることがもっとも望ましいことである。

 

さてさて、またもや余分な言葉に時間を費やしてしまったようである、堪忍堪忍…!!。

言いたい論旨がすっかり不明になったが、やっと今、思い出した、では「神の数学」へと一つ歩を進めて参ろう…!!。

 

あなた方は「数が物を言う」とか「数は真実のすべてを知っている」等と言われても誰も信じはせず、せせら笑うだけであろう。それは要するに、脳が西洋知に完全に冒され、正しい判断が出来ないと言うことであり、完全な洗脳状態にあると言うことである。

本当の自然知、すなわち、「神の知」と言うものはすべて「数」で語られるのであり、すべての真実は数が握っているのである。 それ故に、
 「数」こそがまさに自然知の大いなる語り部であり、また、自然知の守護者を任じている偉大な存在と言うべきものであるのである。

 
 現代西洋知とはその「数の語り」を見出すために人間が営々と作りあげた人間による「人工の知」であり、その歴史は非常に短く高々数百年に過ぎないものである。要するに、我々が学んでいる現代西洋科学知はまだまだ「揺籃の知」、すなわち、人間の考え出した「芽生えたばかりの知」と言ってもいいものなのである。

  要するに、この自然の知、すなわち「神の知」とは宇宙創成時に「神」が「数」と共に作り上げたものであり、宇宙創成以来、限りない修正、訂正を繰り返しながら「完璧」に至り、その後も無限の年月を経ながら「大完成の極(きわみ)」に達したものなのである。 要するに、この「神の知」は「姿」「形」「内容

。すべてにわたって欠点は全く無く、永劫未来にわたって常に真理であり、けっして変わる事の無い永遠の道を歌い続けているものある。

 

要するに、ここでその「人間の知」と「神の知」を見比べて見ることにしたい。 それはすなわち、その両者を相並べてそこにある仔細をシッカリあなた方に見て貰おうと言うことである。 あなた方はその立会人であり、歴史的な証人となるべき大いなる方々、すなわち、歴史の審判官と呼んでもいい方々である。

さあ、じっくり見ながらあなた方の持っている「人間の知」とこれから紹介する「神の知」の間に横たわる相違、すなわち、その両者の異なる存在性と言うものをじっくりと見極め、本来のあるべき自然の真実をシッカリと心に刻みこんで未来に歩を進めなければならないのである。

 

私は余計なことは言わない、ただ書き述べるだけにするつもりである。 それが私に与えられた今生の使命なのであろうと考えているからである。

あとはあなた方がシッカリ検証して考えるだけであり、その両者の技の優劣を検証しながらいい方を学び取るだけである。そして、それを人間知に取り入れる、それがあなた方の務めと言うものである。

もう一度言う、これは世界初の「人間知」と「神の知」の初顔合わせであり、お互いの技比べと言うものである。 あなた方はその知能比べの立会人、例えて見れば、相撲の行司と言う立場にある身分である。 そして、私は単なるメッセンジャ−的な存在と言う儚い立場にあるだけであり、あなた方に伝え終えればそこで私の使命は終わることになるのである。

その結末の如何を判断するのがあなた方であり、その上で優れているもの選んで学ぶことが大切なのである。ただし、一方のみに片寄った検証では駄目であり、四方八方を睨みながら公平な目で八方を十分に検証し、その上でシッカリ考えて取捨選択する、それがあなた方に与えられた使命と言うものである。

 

何も難しくはない、ある程度の心得があれば、小学生でも十分に計算して答を出すことが出来るものである。しかし、正直に言えば、あなた方大人には少々難しいかもしれない。何故ならあなた方の脳は「現代数学知」に完全に汚染され、あるべき自然の数の姿は全く見えないからである。その点、小学生は天真爛漫で天衣無縫な姿をもって本来の道筋を辿ることが簡単に出来るのであり、素直にそれに従うことが出来るのである。

要するに、自然の姿は自然の心のままで追い求めることが最もベタ−なのである。

 

そもそも、現代人は「現代の数手法」を唯一無二のものと考え、人類全体がそれに向かって足並みをそろえ、考え出した結果が現在の「現代数学」と言うものである。 また、「現代文明」は現代数学を基本の柱として構築されているので、その内容に誤りがあれば文明全体に響き、すべてにゆがみが生じてしまうのである。
  なかんずく「現代物理」は群を抜いて100%現代数学に頼りっきりである。それが現在、現代物理が壁にぶつかり足踏みしている理由である。

 確かに、今、物理学は進むことも出来ず、ただもがいているだけである、その理由とは余りにも過度に数学に頼り過ぎて来たと言うことにあるのである。

 
  
そのあたりの事情については最近、先端物理学者達は次のように述べ始めている。一つその声を聞いてみよう。


 アメリカの先端物理学の雄である デビット・ボ−ムはその書の中で「現代物理学は理論の哲学的な背景、物理的な実証を無視して余りにも「数学」に頼り過ぎている」と語り、また「現代数学には根本的な指導原理である『自然原理』は何も無い」と語っている。

 また、有名な物理学者であるマイケル・グリ−ン(現ケンブリッチ大学教授)「先端物理学理論が戸惑い、真実にアプロ−チ出来ないのは余りにも過度に現代数学に頼り過ぎたことが原因である」と述べている。我々はもっと素直になってじっくりと耳を傾けることが必要なのである…!!。

 

 「神の方陣」、それは実に自然体であり、自然の数を枠(セル)の中に自然秩序の順を追って次々と入れて言ったものである。それは「魔方陣」のように頭で考えて「数」を選んで入れて行ったもの、すなわち、人工的なものではなく、自然の作り上げたリアルで純な自然の道を示しているものである。

 また、「神の方陣」は余りにも単純至極な故に、今まで誰も目を向け考えることもしなかったものである。有名な学者が言っているではないか、「自然は簡単明瞭なものでありながら、至極、美しい姿を持っものである」と…!!。

美しいものとは「均整の取れているもの」、すなわち、左右対称のもの。自然的な秩序を持つもの等であり、見ていて心地よく心に響き、なんら異和感もなく心に感動が自然に湧いてくるものである。

また、「心に感動が湧く」とは「心と同調、共鳴」するものであり、宇宙の心と同一な波動を持っているものである。だから、自然に心が動かされ、感動するのである。

我々が「神の法陣」を解明する度に感動を感じるのは、そこには常に真実があり、一糸乱れぬ永遠の秩序と無限の調和が咲き誇っているからである。
 また、そこには決して欠落、不完などの異形は無く、すべては完全な完成体のみであり、そこにある終始がすべてにわたり相揃っている姿であることが何時でも確認出来るものである。

 ここにおける完全な完成体とは、すなわち、陰(−)と陽(+)が相揃って存在し、その二つを合わせるとすべては0となり、すべては初源に戻った姿になるものを言うのである。

あなた方は信じられないであろう、「神の法陣」のすべてすなわち、1次元体から数千、数万次元体のすべての法陣は必ず陰(−)と陽(+)の相対する極を持ち、そのすべての相対極を加算すると必ず0になると言う「数の秘め事」を持っていると言うことを…!!。

 例えば、次に挙げる各次元表の持つ数の並びを見て行くと恐ろしくなるような整然と並んだ秩序ある数が見出され、何かを囁くと言う不思議が数象が見出されるのである。これらをして、偶然であるとか、たまたまの出来事であるとのたまうような軽薄な心を持った学者は恐らくはいないであろう、何故なら、それは現代科学の定義。すなわち、「何時でも、誰でも検証が可能であり、誰が行っても常に答は同一である」と言うことから外れてはいないからである。

すべては宇宙創成の時から存在している神の手になる「数の仕組みの物語」であり、ただ、今まで「現代知」はその存在を知らなかったのであり、見出すことも叶わなかったものなのである。

 よく見るがいい…!!!。 

若し、あなたが鋭い直感を持っているならば、まさに、「神の法陣」はまさにかんばしい「真理の匂い」を放ちながら深い「有機的な意味」を持って懸命に何かを囁いていることが解るであろう。若し、あなたが鋭い洞察力をもった方ならば、それらは「神の意思」を持って連続的に展開されている「数のタブレット」であり、それらを順次連ねて行けば「大いなる神の意思」に辿りつき、「神」の心を垣間見ることが出来ることになるものである。

 しかもである、それらは部分的なものではなく全体的無限の存在であり、しかも全体的な繋がりを見せながら永遠的な存在として宇宙の始めから微動もせずに鎮座ましましているものである。 故に、私は「神の法陣」は数の語る「真理のタブレット」であり、天与の「自然律の宝庫」であると言ってはばからないのである。改めてもう一度「神の法陣」の流れを見て貰いたい、すべての表は不思議な数の流れを見せながら、同時に表現的に高い格調を持ち、その数字的内容は調和に溢れ、人の心を虜にして止まないものであることが解るはずである。それは学んで見ればすぐに解ることになるであろう。

  また、感受性の高い目で見るとそこには隠された秩序や調和をもった数列が流れの中で嬉々とした形で、常に永遠なる真理を囁きながら流れていることに気がつくはずである。 しかし、問題は誰がそれを解き放ち、どのようにして「現代の知」に組み込むかである。恐らく、未来のいずれかの時に輝くばかりの聡明な方が現れて苦もなくその二つを結びつけ新しい人間知の構築を始めることになるであろう。今はただそれを希望を持って待つだけであり、その望みが早く叶うことを懸命に祈るのみである。

 
         


  お解りであろうか…??。 この「5次元表」の最後の計算で数が合わない、すなわち、29+29=58となって、今までの8、16、24、32、と8の倍数体の形で数が進んで来たのに、ここに来て突然本来あるべき数の40が58になって現れているのである。(∴40=58の成立が不可欠である…!!)。
 さあ、並びいる「現代数学」を学んでいる頭脳自慢の方々よ、コンピュタ―を用いてもいい、この計算を完遂することが出来るかな…!!?。
 
 このように単純な数と単なる正方図形の中にも驚くべき
「自然の語り」が芽吹いているのである。難しい言葉と煩雑な数式を使って誰にも判らないような結論を導き出す現代数学や現代物理学とは一体、何を語ろうとするものであり、我々を何処え連れていこうとしているものなのであろうか…!!。

 また、これは≪9=0≫の一つの証明でもあり、9=0、すなわち、「神の数学」と言う循環数学を用いれば簡単に解けるのである。しかし、「現代数学」では不能としてピリオットが打たれ、計算は成り立たないとして、捨てられてしまうだけである。本来は「現代数学」サイドに非があるのであるが…!?。
 それには誰も気がつくことは無く、「現代数学」こそは唯一無二のものであると思う傲慢があった故に、それ以上の探索はまったく行われることは無かったのである。 要するに、「現代数学」は「数」のことをよく知らなかった、「数」に重きを置かなかった故に「数の持つ法則」等の存在には今まで全く気がつかなかったと言うことである。
 何と悲しいことであろうか、「数の法則」の存在も全く知らずに「現代数学」をしやにむに作りあげ、文明知の骨組みに用いていたのである。それでは知の進歩はままならず、壁にぶつかってに進退もままならないのは当然のことである。

 また、驚くべきことに0については「現代数学」何も知らない、まったく無知そのものなのである。また、欧米の数学者達と違い、日本の数学者は余り 0にはまったく興味をもってはいない。それはまさに悲しいことであり、劣学の極みと言うものあろう…!!?。

本来「0」とはすべてのものの初源、、すなわち、宇宙の森羅万象を生みだすポテンシャル的な存在であり、すべてを生みだす基本因子と言っても決して言い過ぎではないものである。

 欧米のある数学者は「0は空でもあり、満でもある、空と満は相反するものではなく、共に更に大きい現実の一部であり、同じものの二つの局面でもある。それら二つはどちらもお互いに存在するためには必要不可欠なものである」と言っている…。 

 今、我々はこの言葉をじっくり噛みしめるべきであろう。それに忘れてはならないことが一つある、本来、これらの
次元表の最初と最後には必ず「神(0)」を置いて計算をすることが必要なのである。それが全次元表の共通な最初の0と最後の0の加算式、すなわち0+0=0である。すべてはそこから始まるのである。要するに、4,5次元表の計算は0、8、88、888、……となるのであり、その比は0、1、2、3、……となるものである。  
 また、ここで学ぶべきことはここにある本象は
0、8、88、888、……と進むことは見かけは一見大きくなって行くのであるが、それは外見だけなの姿なのである。
 
 それも知らず、「現代数学」はこれらは
0、8、16、24、32、……と規則性を持って大きくなっていると言っているのである。しかし、それは外見だけの姿であり、本質と言うものには少しも触れられてはいないものである。少しは気がつくべきである。要するに、「現代数学」は外見にだけこだわるあまり、本質の如何等は何も問わないのである。本来、外見と本質はまったく別なものであり、その関係は、いわば、反比例関係的な内容を持っものと言えるものである。 ひょっとして、それは人間で言えば、体と心の関係に似ているものと言えるものであるが、全く別物と言ってもいいものである。
 
要するに、「現代数学」は外見しか見ない、すべては外見にこだわる学問なのである。そこにある「本質」と言うものの存在をまったく知らないのである。その内部にある本質と言うものは一切気にしない、いや、本質の存在にも気がついてはいないと言うのが正しい言い方であろう。

  

 今回は、これらの数列の本質と言う存在を一つ探って見ようではないか…!!。

要するに、これらの数列を一桁化して自然数に変えるだけで「本質」は現れて来るのであるしかし、そのあたりのことを「現代数学」は何も知らない、考えたこともないものである。

このあたりでしっかりと「数」の本質をシッカリ尋ね、そこに潜む「自然の真理」を見出すように試みるべきである。これは「現代数学」が見逃していた「数」の本来のあるべき姿であり、そこにある自然数の本質と言うものの本来の姿と言うものである。

そもそも本質を知り、それを学ぶと言うことは自然を探求する上では必要不可欠なものであり、絶対に欠くことができないものである。

 

また、ここで一つだけ言っておかなければならない。それはここにおけるすべての次元表の計算は「右上がりの仕様」を用いて計算を行い、その数列の数の加算()数を見たものであるが、ここで原稿の枚数の都合で「左上がりの仕様」の計算を省いてしまったことをお詫びしなければならない。

願わくば、あなた方の手でこれらの省いた「左上がりの仕様」の計算を行い、改めてその()の答を出してそこに書き添えて貰いたい。それからじっくり考えるのである。すると間違いなく、その「右上がり」と「左上がり」の計算値は同じ答となるはずである。 要するに、そこにある「右上がり」と「左上がり」の二つの存在とは宇宙原理である「陰」と「陽」の存在を告げているものであり、その二つを合一するとまさに0の姿になることを教えているのである。 

さあ、「右上がりの仕様」と「左上がりの仕様」の同一数の答を合一すると0にならなければならない。それが自然の律と言うものである。 その論証となる業を一つ考えて貰いたい。 既にその技は以前にあなた方に伝えているはずであり、あなた方も十分に知っているはずである。、
 さて、どうすればいいのであろうか、シッカリそこにある本来のあるべき論理を考え、形にしてて貰いたい。 さて、さて…!!?。

「陰」と「陽」、それに「0」の三種の存在は自然宇宙の大元(おおもと)原理(げんり)である3身一体の輝かしい姿であり、それはまた、日本の神話にも登場してくる「神々」の姿でもある。 知らない方はもう一度「古事記」あたりを再点検して貰いたい。

要するに、宇宙の森羅万象は「陰」と「陽」、それに「0」から成り立っていることを「数」が説き、教えているのである。よく考えて見ると物質原子の基本粒子は(+)粒子と(−)粒子。それに中間子(0)の3ヶから成り立っていることを物理学は突き止めており、あなた方もそのことは教科書等により十分に知っているはずである。シッカリ思い出してほしい…!!。

まあ、申し訳ない、2、3、4、5、の各次元表の計算様式は一応書き留めて置いたが、6次元表と7次元表についてはあなた方の手で計算を仕上げ、中身を検証しててもらえればまことに有難い。計算としては甚だ容易いものであるが、その内容には大学者でも及びもつかないものがあることを改めて述べて置くことにしたい。

それらの表の「右上がり」と「左上がり」の計算値が同じものであったなら、それは正解と言うものである。 宜しく計算を仕上げて心から納得することを望むだけである。

さあ、最後にサンプルとして「8次元表」を載せて置くので十分にご賞味下され。すべては現代知はまだ知らないものであり、現代数学手法では決して解決の出来ないものである。そのことを改めてもう一度申し述べて置くことにしたい。


     『自然数の語り』とその解き方 (2)

  

 

何と見事な「数」の現れであり、美しい「数」の並びであろうか…!!。まさに目を剥くばかりの自然的な数の奇蹟的な現れであり、単純でありながら目をみはるばかりの美しい姿があるのである。また、ここには現代数学手法ではとても考えられない驚くべき演算の仕組みがあり、今まで誰も気がつく事の無かった大いなる「数の語り」の姿があるのである。 一つ、気の向くまま、気の済むまでじっくりと検算と検証を行い、美しい数の並びを十分に堪能して貰いたい。すべては「神業」であり、人知ではどうあっても不可能なものである。

これらのすべては自然知のみが解き放つことが出来、その正しい答を得ることが出来るのである。要するに、あなた方の用いている「現代数学」ではどうにもならないことがよくお解りであろう。 まさに、数の奏でる素晴らしい「弥栄」の仕組みであり、宇宙自然の持つ驚くべき大叡知のほとばしりを感じさせるものである。

それにも拘わらず我々は「現代数学」的な手法で自然の法則の解明を行おうとしているのである。それは甚だおこがましい限りであり、自然をないがしろにする行為である。 「神」の手になる「自然の学」はすでに遥かな過去から連綿として「数」により語り継がれ、決して亡びることの無い永遠な叡知として存在していることを知るべきである。

それを見出して用いない限り、自然のすべてを知り、そこにある法則を学ぼうとしても、それはまったく向こう見ずなことであり、全く不可能な事である。
 近い将来、自然と手を携えながら、共生と言う形で狂いに狂った地球環境パラダイムの再構築を図ろうとするならば「自然の数学」、すなわち「神の数学」を学ぶことが必要であり、不可欠なのである。その上で、自然との対話を始め、相手の言い分を十分に理解することである。今までのように、自然と相対して自然を克服しようとするのは甚だ論外なものであり、自然は決して味方してくれないと考えるべきである。まずは自然と共存共栄を図り、歩みを共にすべきである。

 30年後、あるいは50年後に改めて学び直そうと再び「神の数学」を開いても、それは少しも変わらず永遠な姿で顔を見せて温かく迎かい入れ、手を取って更なる奥へと誘ってくれるはずである。また、改めて真理と言うものを学びたくなった時でいい、必ず訪れてこれを開き、改めて「自然の叡知」をもう一度確かめて、何時の日か改めて心の底からの驚きの声を是非、上げて戴きたいと思う。

                                                                           (2015年1月の講座 完)

 

  「神の法陣」大精義講()

   偉大な「自然の真実」の語り部達…!!(その2)

                                                              平成15年2月

 あなた方の言う、「数」とは人間が作りあげた一種の「記号」であり、物の量、あるいは「物の順序」を見るための道具であると…!!。
 だから、そこには人間の知らないことは絶対に無いと…!!。 しかし、それは人間の無知と傲慢さを表すものであり、「神」を畏れぬ言葉と言うものである。
 本当の真実は「数字」は人間の作りあげた記号であるが、「数」は「神」が宇宙を作りあげた時に用いた知の道具なのである。要するに、「神」は宇宙創成の際にそれを用いて宇宙のシステムや法則等を定めたと言うことである。、「数」は宇宙全般のシステムやそれに用いる法則を作りあげたので、すべてを知っている存在と言ってもいいものである。


 古来、その事実を突き止めた哲人達は異口同音に叫んでいるのである。

 宇宙の万物は数で出来ている ……  ピタゴラス

≪また彼は言う、人間は数によって支配されている。人間は数学の法則によって神界と結ばれている。それゆえに数学を学ぶことによって心が浄化され、明敏な力を常に発揮することができる。ピタゴラスは、この浄化作用のことを「カタルシス」と名付けていた≫。

 

● エレガントな調和に満ちた宇宙を創造したのは神であるから、その言葉はおそらく数式で書かれているに違いない …… ニュ−トン

 
●   宇宙は「数」で解ける …… スティ−ヴン・W・ホ−キング



  このように昔から自然物理学の大家達は「数と宇宙は切っても切れない関係下にある」と言っているのである。しかし、残念ながら、まだ誰もその真実を突き止めた者は未だいない。

 要するに、我々は」あまりにも「数」の存在を軽んじていたために、数の持つ大きな意味、役割に全く気がつかずに無為な長い年月を過ごしてきたのであり、まさに、人知以外に学は無いと誇って来たのがそもそもの原因なのである。つらつら考えて見ると、今から2500年以前のピタゴラスの時代までは「数」は尊敬の的であり、宇宙的な尊い存在として大変に崇められていたことが判る。

 その時代に在っては9までの数はものを数えるために使う記号の域を超え自然と宇宙を支配している神秘な「数」としての認識であったのである。とりわけはすべてのものを完全性に導く「成就の数」であり、「完成の数」と言われていたものである。        
 要するに、
から9までの数は天体の運行と自然の仕組みから学び取った天与の「数」としての位置にあり、その後に続く数は人間が作りあげた2次的な従属数とされていたのである。そのことは1から9までの数だけが用いられている「占数学」、すなわち、数秘術を探せば判るであろう。そこには人間が作りあげた二桁の数は一切見られず、すべては1〜9までの数の動きだけがあるだけである。

 

よくよく考えて見ると、それは古代の日本においても事情はまったく同じであったのである。それは古神道の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」を正式に唱えて見れば判るであろう。しかし、現在の神道家達は正式な唱え方、本来の言葉の在り方をまったく知らないと言ってもよい。それではいくら唱えてもただただ冗漫に流れるだけで、「神」に届くことは決して無いと考えるべきである。
 まずは、そのあたりから考えて見ることが必要であろう。それは正しい日本語の在り方、その筋道を考えれば一目了然な事である

 何時かは、その件について真面目な学者達、心ある有志達と十分なる討議をして見たいと思っている。
 
 その鍵そのものは祝詞
「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音図」が握っているのであり、そこから考えを出発させなければ決して本当の答には行きつかないと言ってもいい。 何と、「神」の尻尾を今の今まで握っていたのは古神道の奥儀祝詞であったのである
 
 そこには「神」の存在が言葉の中に織り込まれ、理路整然とした序を持って朗々しく歌われていたのである。まさに、ショック…!!。
 

 易しいものでありながら、そこには誰も気がつかなかった自然論理的なシッカリした音節(シラブル)が姿を現して
「神」の存在を歌っていたのである。それは確かに、「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音図」が組み合ってこそ、初めて真実の言葉が生まれるものであり、単独の形では決して意味を持つことはない。本来、この二つは古神道の双対の奥儀祝詞であったが、何らかの事情で「アイウエオ五十音図」一般社会に下野し、そのまま別れ別れの文言としてそれぞれの分野で活躍を果たすjことになったと考えられる。
 
 
 この件は言霊史上由々しきものであり、自然物理学上、あるいは神学上
(宗教史上)においても必要不可欠な論証として通じるものであり、十分に論理的な理解をすれば、誰しも当然な理として迎い入れることが出来るものである。
 この件一つ考えて見ても、
「神」の存在が明らかであり昔から「神」は我々にとって必要不可欠な存在と考えられていたのも頷けることである。
 それ如何により、神道はまさに世界に冠たる存在となり得るものであり、輝きを放って世界の宗教上にどっしりと君臨出来ることになるのである。
 
 
 
心ある有識者達の奮起を是非とも望みたい、日本人のDNAをもっているのなら、必ずや、この理を理解出来るはずである。必ずや…!!!。

 

 あなた方は現在。知らず知らずのうちに西洋の知に完全に洗脳され、そのコントロ−ル下にあるのであるが、その事実をまったく知らないのである。それ故に、日本に現実に現存する超古代の文物資料を見ても、ただ否定するだけでまったく心を動かすことはない。

 甘い言葉による巧みな洗脳、それは純な日本民族にとっては天使の囁きに聞こえる悪魔の声であり、決していい方には向うものでは無かったものである。なにしろ、日本では数千年にわたり仏教を始め、色々な大陸の知(儒教、道経)が全土を覆い、人々を涅槃浄土に導く方法と銘打って心の中に潜り込んで勢力拡大を図って来たのである。それはいわゆる一つの洗脳の手段であり、善良で無垢な人々を騙して取り込むことにより勢力拡大を図って来たものである。

それにより、それまであった神々の時代(先史時代)から伝わる「神の叡知」の類はことごとく姿を消すことになり、人々の心から次第に忘れ去ったものである。 なぜならば、人々の心はだんだんに欲に目覚め、他人と区別を図るために外国の知を求め己の心を飾り始めようとしたからである。

 そのための第一弾が大陸からのある種の精神文化の侵攻、すなわち、仏教を頭に様々な精神修養的な教えと称するものが日本に乱入し、人々の純な心を次々と蝕み、それと共に日本古来の和の心が失われて行ったのである。それが、すなわち、仏教伝来時に起きた人々の対立と混乱を生みだした大いなる闘争なのである。すべては仏教伝来が要因になって起きたものである。
 そのために、仏教支持の曾我馬子等は神代からの紳典、宝物の保管庫であった由緒ある神祇殿に火を放ち、多くの原文秘録書や古文書、天津祖紳からの代々伝わる紳典、万国の記録、数々の天地の言文記録のすべてをすべて焼失させてしまったのである。……九鬼(クカミ)紳伝文書より

 

続いて、第二弾が西洋文明による物質文化の侵略であり、それは価値のある物質、人々の持っていない新たな知を手にすることにより、他人との区別度を高くして己と他人との差を作り、著しい差別世界の誕生の幕開けになったのである。それと同時に、人心は益々乱れるようになり、やがては他人との闘争に明け暮れる社会が当たり前と言う時代が始まったのである。

例えば、現在、世界一の文明国と言われているアメリカをみてみよう、日本人はある程度相手を包み込むような和の気持ちを今でも持っているが、アメリカ人にはそれが無い、必ず、人は人、吾は吾としての境界を作りあげ、テレトリ−を侵す者は決して容赦はせず、直ちに法律に訴えてでも黒白をつけようとするのである。要するに、和の心が無く、他人を顧みる余裕はまったく無いと言う無情で無機質な社会が誕生したのである。

さてさて、物質文明の世界とはまことに窮屈で、世知辛いものであることがお解りであろう、せめて一時だけでもこのような心を歪めて息を凝らすような物質第一主義の絆から解放され、本来あるべき自由闊達な古の精神文明、気ままで自由奔放な宇宙精神の中に身を置いて世の中のしがらみから逃れることが必要なのである。、それが間もなくやって来るであろう意識文明社会のあるべき姿なのであり、一段上のランクに身を置くことなのである。今,それは日本から始まるであろうと世界の人々は予想しているようであり、日本の一挙手一投足に注意を払っているのである。そう言えば、最近は日本文化や日本語が大変ク−ルであると世界中で評判のようでもあり、結果的には日本国の株を上げている結構な現象が始まっていると言えよう。
 
 
 
 考えて見ると、確か、『ひふみ神示』にもあるではないか、
「日本はお土が上がる、外国はお土が下がる」と…。人々は地盤の隆起、崩壊などを予想してとりとめもない噂に身をやつしているがそれはあまりにも次元の低い話であり、『ひふみ神示』にはそぐわないような余りにも世俗的過ぎるもののように思われる。 私の言う『ひふみ神示』はもっと高尚な未来の日本の姿を語っている予言言葉であり、現代の一般知では中々解することもままならないものである。恐らくは、これから始まる次の意識文明の中で改めて解き放たれるものであり、その時になって初めて人々の心に響くことになると考えている。

 その意識文明を覗くための一つの方法がこの「神の数学」であり、、そこにある「数の調べ」を開いてジックリと心を置いて見ることである。すると、そこには何時も闊達なる数の群が屯(たむろ)して、常に永遠自在なる真理のお喋りを交わしているのが見え、心が知らず、知らずに弾んで来ることになるはずである。
 
 

 さて、気まぐれなので突然話は変わる、私も今までに数年間にわたって
「古神道の真の姿」をあなた方に説いて来たのであるが、部分的にはどうしても言葉が足りず説明が不十分なところがあったようである。そのあたりのことはあなた方からの有難い質疑文面により察しがつくのである。今回は不手際を解消するためにそのあたりの解説を少々追加して円満なる理解を得ることに留意したいと思う。 よろしく。

 それらの中でも特に、古神道の奥儀祝詞である
「ひふみ…天地の数歌」とその奥に鎮まる「ひふみ九九算」、更にはそれにより導かれる「神の法陣」、それら三者の絡み合いが全く不明であり、その三者がどのような由縁で関連して古神道の中に納まっているのか、その間のことを是非知りたい、その関連性の真実の証を教えて欲しい、との質問が甚だ多かったのである。

 そこで急遽、内容を差し替えて講義することにより、あなた方の心のわだかまりを一掃したいと思うのである。 とにかく、この事実が不明な限り、常に心にわだかまりが残り、更なる前進はなかなか出来ないと思われる。 ゆえにここでわだかまりをさらりと解いて前進に向かって歩を進めて貰いたい。
それが今回の私の願いである。

 

〔1〕   古神道大道(その2)


「ひふみ…天地の数歌」と「ひふみ…九九算」の相関的な結びつきを見る。

  「ひふみ…天地の数歌」と「ひふみ…九九算」は一体どのような関係下にあるのだろう、一体、どのようにすれば祝詞「ひふみ…」から「ひふみ…九九算」が導き出されると言うのであろうか…!?。恐らくは、誰しも首をかしげるだけで答は出ては来ない問題であろう。

 あなた方はこの二つはどうしても結びつかない、関連付けるのは難しいと感じているであろう。要するに、どう考えてもこの二つには共通するところが無い、よって強引に関連付けようと、無理な展開で古神道の範疇に持って行っているとの疑いを持っていると言うことである。

その誤解をまずは解く必要がある。それは簡単なものであり、以下の通りである。

何と、この二つは同一な数的構造を持っていて、それぞれはそれに分解されるのである。要するに同じ基本構造を持っていることに留意して貰いたい。すなわち、同じ基本型をもって、お互いに共鳴しながらゆくりなく鎮座していると言うことなのである。

この「ひふみ…九九算」の全体は「ひふみ…天地の数歌」を用いて書かれているのであり、すべての数列は芯に「ひふみ…天地の数歌」を持っていると言うことになるのであり、同時的共鳴を奏でながら相通じている存在なのである。

それはすなわち、「神」の知の基本数列はひふみ…の九つの文字であり、それ以外の数は一切必要が無いと言うことになるのである。それは要するに、自然の叡知や宇宙の設計図のすべては「『ひふみ…の九つの数』で書かれている」と言うことであり、それらはこの「九つの数」を用いて基本母体と共鳴し合う、それがお互い同士の一つの話し合いの手法であり、瞬時的な通信手法の確立と言うものであろう…!!??。

 


 ではもっと詳しく見て見よう、これらの秘密は一応、以前に掲載した「ひふみ九九算表」にで解説済みのものではあるが、今回もう一度
 あなたの手でじっくりと検証に走ってもらいたい。それにより、
何かを発見出来るはずであるが…!!。


 

  
  どうであろう、これであなた方も「ひふみ九九算」「ひふみ…天地の数歌」を用いて書かれていることを納得出来たことであろう。
 これらすべては古代日本に存在した
「神々の叡知」であり、永遠に変わることのいない「宇宙自然の本質」を語っているものである。


 さて次は「ひふみ…九九算(宇宙次元原理表)」と「神の法陣」との繋がりについての検証である。

 

 

     〔1〕  古神道大道(その3)




「ひふみ…九九算(宇宙次元原理表)」と「神の法陣」との繋がりを見る。

 

 さて、これについても今まで何度か説明している、しかし、今まではリスポンスは無かったのであるが、それは理解不能が原因であったようである。恐らくは余りにも唐突過ぎる理論展開が原因で、理解が出来なかったようである。よって、その詳細をもう一度ここに書き留めて置くことにする。


 「神の法陣表」とはa×aの正方形のマス中に自然数である123456789の九文字をそのままの順で入れたものである。別名「ひふみ法陣」とも呼ばれているものである。

 これと同じ手法を持つものには「魔方陣」があり、その驚くべき「数の仕組み」は数千年前から知られているもので、世界中で話題になっているものである。それがすなわち、「易」であり、古代中国が発祥の地とされているものである。

 
 現在でも西洋の先端物理学者達は「易」を東洋の神秘学と呼んで盛んにチャレンジしている。何故なら、「易」は現代物理学」の最先端にある理論と甚だ多くの一致性を持ち、相似た哲学的な一貫性を持っていることが判ってきたからである。その類似性を見出した旗手がアメリカの物理学者であるF・カプラであり、彼の手になる名書が「タオ自然学」である。

 

しかし、我々が日本人なら残されている超古代の文献から「易」は古代日本の伝承知であり、今から約四千年前に中国人留学生、伏儀により日本から持ち出されて中国に渡ったものであることを知っているはずである。 それは噂にはあるけれど肝心の原本が見つからないので今の今までは証拠不十分で何も反駁が出来なかったのである。 いや、そんなことはない、あくまでも中国で生まれたものであると反駁する方は、どうか中国発の「3次方陣」、より両義、四象、八卦の各陣を作って見せてほしい。今まで何千年の歴史上それらを作りあげて証した者は誰もいない、単なる噂だけの存在である。価値ずけのために人々を煙に捲いて伝説化したものが河図、洛書と言われる伝説上の物語なのである。
 しかし、古神道の「神の易」、すなわち、
「ひふみ九九算表」からは容易に誰でも「両義」、「四象」、「八卦」の象を見出すことが出来る。例え、少、中学生あたりでも…!!。

それ故に、私は敢えて言う、「易」の初発地は太古日本であると…!!、 その証拠となるものが古神道の中から発見されていると…!!。それがこの「ひふみ…九九算」であり、別名「宇宙次元原理表」と呼ばれているものである。 心の騒ぐ方、乞う、検証を…!!。

 

そんな、馬鹿な…!!?、と 悲鳴を上げる方は自分の手で検証するがよい、そこには間違いなく、太極が鎮座し、それから分かれた両義、四象、八卦等がうやうやしく礼儀を持ってあなたを出迎えてくれるのである。すべては論理的、数学的な思考に基づいて考察を重ねると誰でも簡単に見出せるものであり、誰が見ても納得のいくものである。

 
 

  


 

 ●ここにある各次元の数列を縦に加算した答、それが最後の太字で記してある数である。

 ●この数字と次の「宇宙次元原理表」の太字の数を見比べるがよい、まさに瓜々であろう。

 
  


 

要するに、≪3の図≫と≪4の図≫の数表、すなわち、「神の法陣」「宇宙次元原理表」は大変密接な関係にあると言うことがこれでゆくりなく証明されたのである。

つらつら考えて見るに、この二つは「神」が作りあげた「宇宙次元の設計図」と言うものであり、神与の「次元仕組みのブル−プリント」と言ってもいいものであろう。

 

 なお本来は、最初に古神道大道(その1)、「ひふみ天地の数歌」の持つ大きな秘密について語るべきなのであろうが、そこにはまことに深い意味合いと天地を揺るがさんばかりの「宇宙創成理論」が陣を張って語られているので、今回は述べず、改めて不日、あなた方にその詳細なる「数の物語」を紹介することにしたい。

≪これらの宇宙創成の事実とは現代宇宙物理の持つ宇宙創成理論とは全く異なり、陰陽のメビュ−ス的な静かな反転現象が起こって外部の極限(特異点)まで進み、そこでまた反転して内部の極限的な特異点へ向かう…。まさに無限とも言うべき広大な時間をかけて宇宙はその繰り返しを行っている、と「数」は言っているのである。まさに、それはまさに、静かなメビュ−ス的な反転現象であり、現代宇宙論者が言っているような「ビックバン宇宙論」の中心爆発などにより宇宙が創成されたものではないと数は語っているのである。≫


  

これでよくお解りであろう、日本の古神道とは単なる宗教などではなく、偉大なる神々の時代、すなわち、先史文明時代から伝承されて来た「聖なる遺産知」であり、現代知などではとてもとても歯が立たない「超々科学知」と言ってもいいものであることが…!!!。

そのすべては「数」で示され、「数」で書かれた内容を持つものであり、現代知では到底読み解くことなどは出来ないものである。

恐らくその知の起源は人間より遥か高度な叡知を持つ宇宙の知的存在、すなわち、ある種の宇宙生命体であろうと思われるものである。


 

その根拠となるものは今のところ三つある。その一つはアメリカで墜落した空飛ぶ円盤から発見された謎の数式と完全に一致する古神道の「数の語り」の存在、もう一つは超古代文献(神文伝)に記されている先史時代から伝承による「数」に関する驚くべき内容の記述である。

そして最後の一つが日本神話にある「神々の日本降臨」、すなわち、宇宙から舞い降りて来た神々の件(くだり)の存在である。それは今まで荒唐無稽な作り話であるとか、あり得ない白昼夢であると見下し、散々嘲笑して来たものであるが、それは我々サイドの判断ミスであり、大いなる知不足によって真実は歪められていたと言うことである。真実はやはり遥かな宇宙から来訪した知的生命体、それが我々人類の最初の祖先であったのである。

 

さあ、忘れないうちにもう一つの不可思議な数の物語を記しておかなければならない。ただし、この「数の物語る物語」完成にまでは持って行くことは出来ない。なぜならば、現在の我々の知ではすべてを解くことが出来ないからである。

 例え、解けなくてもいいではないか、時には夢幻の心に乗って、しばし、有、無の世界に遊び時間の狭間をさ迷い歩くのも…!!。
それはこの世知辛く、苦しみの多い今の世の中にあってはまさに贅沢三昧の極みであり、極楽至極の道と言うものである。
 現実に押し潰されながら、毎日をあくせくと過ごすのも、これまた世の習いと言うものかも知れない
。しかし、時には広大無辺、永劫無窮の宇宙に魂を飛ばし、世俗にまみれてえびつになった魂を自然真理で洗い流し、ふくよかな真円に戻す、これもまた健やかなる世渡りの一つの極意でもある。

 
次の「神の語り」に進もう。 
 これら諸次元表の
対極(陰と陽)と言う位置に在る二つの数列を加算すると次表のような答の数が得られる、すなわち、これらの次元表は完全なる秩序を持って繋がっていると言う一つの証拠であり、次元は単独で気まぐれな状態で存在しているのではなく、一つの固まったブロック状態でまとまった状態で存在している知う証拠となるものである。
 その仔細は次の通りである…。 甚だ易しいものではあるが、その奥には甚だ深い「数の語り」が存在していることを知って欲しい。

 

 要するに、我々の住む次元帯とは離れ離れな存在ではなく、一つに固まったブロック状態、すなわち、すべての次元は鎖のように繋がった状態で整然とし姿をもって一つに固まって存在しているものである。そのように「数」は語っているのである。

 これらすべては「数」が語る現代知の領外に属する「超知」であり、現在の我々の頭脳では到底検証は不可能なものである。我々はこれを仮説と呼んでいいのであろうか…?。我々は人間の作った理論、実証出来ない理論を仮説と呼んではいるのであるが…!!?。

 しかし、これは「神」が作りあげた数理であり、「数」がそれを説明しているのである。人間は単なるトランスレィタ−(翻訳者)であり、単なる間接的な傍観者なのである。

 

 そもそも、「神の叡知」を解き放つため、その情報を読むためには「鍵」が必要なのである。その「鍵」となるものが古神道の祝詞である「ひふみ…天地の数歌」である。それを用いて解錠した結果、奥から現れたもの、それが「ひふみ九九算表」であり、「神の法陣」である。いわば、それらが古神道研究者達が追い求めていた「古神道に秘められていた叡知」と言うものである。すべてそれらは先史文明時代(神々の時代)の「大いなる叡知」であり、恐らくは数万年の時を経て現在の世に甦ったものと考えられる。

 そうでも考えなければ到底説明がつかないものであり、辻褄が合わないものなのである…!!、??。

 

恐らくこれらの「数」の語る有機的とも言えるような次元構造体の存在については誰も否定も肯定も出来ず、目を見張るだけであろう。なぜならば、あまりにも簡単でありながら、実に見事に組織だった構造を持ち、更には大いなる秩序と調和を見せながら論証的に構成されているから文句が付けようがないのである。とにかく、今のところ、人類は口をはさむことも叶わず、ただ学ぶだけと言う第3者的な存在なのである。とにかく、今や一刻も早く自然の真実を明らかにするための本当の「学の道」を見出し、全力をあげて学び取る、それが次の世代に対する責務であり、未来の子孫達にそれらを残すための大前提となるものである。
                                                                          2015年2月 (今月の講座 完)





      「神の法陣」大精義講()

    偉大な「自然の真実」の語り部達…!!(その3)

                                                              平成15年3月

  さあ、今月も「神の方陣」の持つ「神の叡知」を諸氏と共に明らかにしていこうではないか。

 あなた方は目を剥くであろうが、「神の方陣」は『次元的な宇宙』であり、『次元宇宙の縮小モデル』と言ってもいいものである。しかもそれらは「宇宙の法則」がギッシリと内蔵されている『ミニ宇宙構造体』、すなわち、一つの『宇宙モデル』的な存在なのである。

  なぜならば、これら「神の方陣」の数の流れを追っていくと、何とそこには人知では追い求めることが不可能な宇宙のマトリックス(鋳型、母型、子宮)さえも見出すことが出来ることになるからである。それがすなわち、「神の方陣」の母体である「ひふみ…九九算表」である。  

  おお、また何と言うことであろうか…!!、「易」で言う太極の図とは「ひふみ…九九算表」そのものであったのである疑う方はこの「ひふみ…九九算表」を用いて両義、四象、八卦の諸象を見出して見ることである。それらは単に2分割、4分割、8分割を進めるだけのことで、そこには目を凝らすばかりの素晴らしい「陰」、「陽」が現れ、互いが緊密な相関状態にあることを告げていることが解るのである。 これがすなわち、「神の易」であり、中国の留学生であった伏儀が日本から持ち帰ったと言われている「易」の本来の姿であり、古代日本に存在した「易の元図」と言うものである。その後、彼の地では春秋時代あたりに色々と手を加えられて出来上がったのが、いわゆる「中国易」であり、ご存じの通り世界に広がっているものである。






 さあ、「直感力」と「洞察力」をフルに発揮して上の3ヶの図から浮かび上がる「真正宇宙次元」の姿を考察してほしい。時には、真実を求めてのたうち回るのもいいではないか。 必要とされるのは遥かに越えた「神の知」を解明するための「大洞察の術(すべ)」であり、今の人間知とは異なる優れた考察力、並外れた類察的な思考力なのである。

  これらの「神の数学」を学ぶ上においては現代の知識、すなわち、学校教育などによる「人間知」、「人間の常識知」等は一切不要である。なぜならば、人間知とは人間同士が理解し合い、それぞれ互いが摩擦無く存続する為に人間が作り上げた非自然的な知、すなわち、自然とはまったく関係の無い知であり、その殆どは自然と同調共鳴、あるいは知的共有状態を有することろはないものである。

 要するに、人間の持つ知と自然の持つ知はまったく別なものであり、殆ど一致するものは無いと言うことである。

  我々現代人はその認識はまったく無く、我々の持つ現代知で十分に自然を解明出来ると信じているのである。まさに身の程知らず、傲慢この上無い呆れた思いあがりと言えよう。

 考えて見るがいい、自然の持つ知を知らずして、自然を解こうとしているのである。

 それが、如何に大きな思い上りであるかは学者自身が十分に判っているはずである。

そのあたりのことはこの半世紀における物理学の進捗状態を見ればよく判るはずである。

 

今までに、彼等物理学者は目の覚めるような鮮やかな「自然の秘密」を見出し、我々の知を一変させるような素晴らしい感動を生みだしたことがあるであろうか、何か人間の生活に大きな寄与をするような素晴らしいものを見出したであろうか、答はNOである。何も新しい自然を解明するような理論を生みだしたとはまったく聞いてはいない。

 

 今後、このままの状態で物質科学が更に発展を遂げることになれば、人類が予想も、想像もしなかったような大きな自然の反乱が堰を切ったような勢いで始まると予想されるのである。

何故ならば、生物と自然は常にバランスの上で均衡を持って存在しているのであり、人間によかれとの人間至上主義的な行為は結果的にそのバランスを崩すことになり、そのしっぺ返しが必ずやって来るのである。それは徐々にではなく、一気に大波のように押し寄せてバランスの復元に努めるのであり、それが乱発的に常時発生することになるからである。

 

自然界から見ると、全く慮外なもの、真っ向から対立せざるを得ないもの、それが現代西洋科学知、我々人類が最高の知と信じて疑わない「現代の知」なのである。

何故なら、それは自然から学んだものではなく、人間の飽くなき欲望が生んだ異端の知、すなわち、自らの欲望を満たすために生み出された甚だ独善的な知であり、自然とは全く共鳴もせず、歩を共にすることはないものであるからである。いや、それどころか自然の営みを破壊するような反自然的な性質が甚だ強いので、いずれは自然に押されて滅び去る運命にあるものと考えるべきであろう。

それに気がついたのが先端物理学者達であり、本来の「宇宙の自然真実の種」の必要性を痛切に感じ始めている現在である。彼等は1980年あたりから「革命的な新しい数学的な言語」、すなわち、全く新しい「数学的手法」を見出して自然と会話しない限り、現代物理をこれ以上のレベルアップは出来ないと考え、その手法を求めて右往左往している現在である。彼等はその手法を見出さない限り、物理学の長年の懸案である「相対性理論」と「量子理論」は手を結ぶことは決して出来ないと考え始めているのであるが、未だに解決策を見出せないままである。

 

  彼等はここに来て矛盾の壁に突き当たり、どうあってもそれを回避することは出来ないと考えているのであり、それ故に、現代数学に変わる全く新しい「数学の種」を求めはじめているのである。その新しい「数学の種」とは常に自然の在り方にのっとり、常に自然の基本レベルと同調しているものでなければならないと考えているのである。

 要するに、「自然の持つ数学」の存在を突き止め、それを利用しない限りこれ以上の自然の探索は無理でありと考え初めていると言うことである。

 例えば、物理学者達が素粒子を記述しょうとする場合、現代数学の手法で計算を進めて行くと最後には何時でも答が無限大が現れて悩まされるのである。
 本来、素粒子のエネルギ−と質量は極めて小さいはずであるが、それを明確な形できちんと計算しょうとすると、常に計算の答は無限大が導き出されてしまうのである。

すなわち、理論上ではに近いはずの答が何時の間にか無限大(∞)にすり変わってしまうのである。これらを是正するために色々な数学的なトリックを用いて挑戦しているのであるが、相変わらず根本そのものは一向に解決されずに残っているのである。

これなどは「神の数学」の定理である、0=9すなわち無限小=無限大(∞)を用いれば即、解決出来るのであるが彼らには今度はその循環法の仕組みが理解出来ないのである。すなわち、あくまでも10進法にべったりとすがっているので、循環法計算は全く及びが無い、理解することがまったく出来ないと言うことである。

 

また、現代物理学の大御所であるペンロ−ズは宇宙の場、すなわち空間は整数のみから、組み合わせ作用だけが必要なのであり、「比」「足し算」「引き算」「置き換え」、等の単純な算術演算だけで創られていると言っている。また、「神」が数学を知っているのなら。「神」は必ず数えることで宇宙を創造しているとも述べている。

これらの宇宙の場の算術演算の存在はまさに「神の数学」とまったく同じものである。それ故に「神の数学」は宇宙自然の用いている「計算手法」そのものであると考えても少しもおかしくは無く、決して的外れのものではないものである。

 

何と驚くことに、「神の数学」は宇宙大自然の持つ「自然の計算法」とまったく同じなのである。

 それはすなわち、「神の数学」の基本態は閉鎖的な循環系の姿を持つものである。それに対して「現代数学」は直線系であり、何処までも開放系的無限を目指して進んでいる。その結果、すべて複雑、混沌、無限大と言う処置不能な答になり、ただただ困り果てているのである。

 <閉鎖型循環系>例えば体の仕組みがそうである。体を流れる体液(血液)は体の中を循環して各部署の活動に必要なエネルギ−源を補給し、終わったらまた最初に戻り、リフレッシュしてまた活動に戻る、その繰り返しである。要するに、循環を繰り返しながら与えられた役目をまっとうしているのである。これも閉鎖的な循環系の姿である。要するに、自分のことはあくまで自分で処理して、他には影響を与え無い、それが自然の在るべき姿、本来の姿なのである。

 

  「神の数学」はすべて「数」による語りであり、「数」が循環を繰り返すことによりそこに知的な意味が発生し、それをつなぎ合わせることにより自然の真実が語られると言うことが基本となっているものである。 あとはそれを直感と洞察力によりじっくり考え、その意味するところを我々の言語に転換し、意味を整えればいいのである。

 要するに、そこにある真実の全てを我々にもたらしてくれるのは「数」であり、だから我々は「数」の読み方、「数」の語る意味を解すことから始めなければならないのである。 しかるに、そこにはまだまだ私には御しきれない重大な意味合い、もっと重要な真実が存在するのは確かなことである。ただただ、今は力不足が悔やまれるだけであり、ただただ一人で嘆き悲しみ、悶え苦しんでいるだけである。

 そもそも、人間サイドにある「数の知」に対する理解度は皆無であり、その存在を口にする者は誰もいないような有り様である。それが現代知のアキレス腱であり、自然との会話を阻んでいる最大のネックとなっているものであるが、その事実を誰も知らないのである。要するに、「数」の語る自然の真実、それは未だ知の未熟な現代人にとっては到底あり得ないことであり、信じることなどはどうあっても出来ない想定外のものなのである。

 
 そのあたりについて自然学者のC・G・ユングは次のように述べているので少々紹介して置くことにする。


  「数」には独特な、あるいは神秘的な何かがある。それは一群の対象の数からその特性、あるいは特徴を一つずつ取っても、最後にはなお  その数が残っておる。その ことは「数」が何か還元出来ないものであることを示している。

 

自然数の系列は、意外にも同一の単位の単なるより合せ以上のものである。つまり、そこには数学の全体とこの分野ではまだ発見されていないすべてがそこにあるのである。

 

1から9までの「数」は大変神聖視されるべきものである。これらの数構造は秩序をあらわすばかりではなく、それを創り上げているものである。

 

「数」は諸現像の混沌に秩序をもたらすばかりではなく、秩序を創ったり、あるいはすでに存在しているが、まだ知られていない整然とした配置、もしくは規則性を把握するために予定されている道具でもある。

 

「宇宙意識」は秩序づける因子として「数」を生みだしたのであり、そしてそれを用いているのである。

 

自然数は元型的な性質を持ち、元型と共通して意識に先行して存在するものである。その結果、元型に類比出来る相対的な自律性を持つものである。

 

 何と、含蓄のある言葉であろうか、今から約100年前の自然学者、心理学者であったC・G・ユングの語った言葉である。しかるに、当時においては余り反響は無かったものである。それはそうであろう、当時の「数」は今とまったく同じような扱いであり、誰も「数」に注意を払うものはいなかったのである。要するに、今も、昔も、「数」と言うものは人間の知の枠外に置かれ、まったく注目されることはないのである。

 それが動いたのは東洋の神秘の国である日本においての先史文明の遺物知である「神の数学」が古神道の中から見出された20世紀末である。要するに、これによりC・G・ユングの言葉の正しさが証明され、その言葉通りの「数」本質が3千年の歴史を持つ古神道の中から導き出されて来たのである。

何と、まず西洋でユングにより「型の言葉」が出され、それを追うように東洋の日本でその「型通りの数の走り」の存在が明らかにされたのである。それがすなわち、古神道から躍り出た「神の数学」と呼ばれる自然数学の姿なのである。

 

このように知の先人達は「数」に対して驚くべき見解を抱いていたのであるが、いかにせん、物質世界を優先させた学者達はそれにたいしては目もくれず完全に黙視を決め込むだけであったのである。その結果、今になって現代数学は量子物理世界ではまったく役に立たない、滑らかな計算が出来ないと愚痴をこぼしている始末である。

 

私に言わせれば、「数」は宇宙意識(元型)と同等の知と表現力を持っている有機的(知的)な存在である。ただ、我々人類サイドがそれを見抜けず、単なる計算の道具としてのみ用いているだけなのである。その本当の姿を未だ誰も見出せず、完全に見失っているのである。

そのすべては知の未熟に帰するものであり、知不足による愚かな結末の果ての結末であり、本来は大変憂うるべきことなのであるが、誰もそれを知らない。

 

そもそも、我々の持つ「現代知」とは人間の学者達が現存する知の下で正しいであろうと判定されたものに過ぎず、何も自然的なジャッジ・スケ−ル、すなわち自然規範により判断されたものではない。その自然規範、つまり自然の真実を語るミニ「宇宙モデル」がこの「神の方陣」である。でも悲しいことにそんなことは誰も信じない。

 

例えば、今までには「自然の象」の現れと言うものは常に対称的な姿を持つ、それが自然の規範であると何回もこの講座で説明している。でも誰も理解出来なかったようである。 現代物理ではそれを称して「対称性原理」と呼んで自然界の基本原理としているのであるが…!!。

しかし、果たしてそれが本当に自然の規範であるかどうかについては確かめる術(すべ)と言うものを現代科学はまったく持ってはいない。要するに、それは人間が作りあげた単なる人間知に過ぎず、自然一般の真理則としては正しいものかと言う疑問は何時までも残っている結果となっているのである。

 

ところが、このミニ「宇宙モデル」である「神の方陣」を用いれば自然の本来の姿、あるべき自然具象と言うものを調べることが出来るのである。今回はそれを一つ復習して見ようではないか。 その検証モデルとして今回、3次、4次、そして5次の「神の法陣」を登場させて少々調べて見よう。

 

これらの「神の法陣」は果たして自然の範である「対称性と言う自然原理」を持つものであろうか、一つ調べて見ることにしたい。要するに、これは洞察力があれば誰でも簡単に検証できるものであり、誰でも簡単に理解が可能なものと言えよう。

ただ、今の○×式の学力テスト形式では暗記力が強ければ誰でも正解を出せる、すなわち、機械的な暗記力があればいいいい成績を取ることが出来るのである。しかるに、残念ながら、洞察力、推理力に関しては少しも鋭さを養うようなことは一切無く、いわば、今の○×式の学力テスト形式はマンガチックな代物と考えるべき劣った成績判定手法と言うものである。

これから必要になるのは鋭い直感力や並外れた洞察力であり、暗記力などではない。飽くなき推理力と非凡なる表現力こそが絶対的に必要とされるのである。

考えるがいい、暗記よりもそれに代わる何十倍、何百倍の能力を持つパソコンを利用した方が何倍もの能力が上がることは誰しも認める事実では無いのか…!!。

  要するに、未来における繁栄国家の根幹は国民一人一人の洞察力と直観理力をどのようにして高めるか、素晴らしい能力を持つ大勢の若者をどれだけ育成出来るのかにかかっているのである。しかも、なるべく早い中に…!!、これからは、他国に少しでも先立つことが絶対に必要な時代になるのである。


 

 
 

「神の法陣(宇宙モデル)」における「対称性原理」の存在(1)

まずは各表の持つ二つの対角線に注目してもらいたい。

@ 3次表の対角線……A(陰)=1、5、0 B(陽)=3、5、7、、これが対称的なものであるべき筈なのであるが、どう考えても対称の姿からは程遠い。要するに、現代数学手法では答を見出せないのである。

     そこで「神の数学」を用いて、次のように解くのである。

           A(陰)=150→1+5+9=15→6、   B(陽)=357→3+5+7=15→6

何とAにもBにもまったく同じ数が現れたのである。要するに、ABの対角線は90度異なる位相を持っている、すなわち、それは「陰」、[陽」、または(プラス)、(マイナス)の完全に正反対の特性をもっている、すなわち、対称的な姿を有していると言うことである。

それはA=+6B=−6、と言う完全な正反対の性質を持つものであり、A(陰)B(陽)=0という宇宙の本質特性が現れて来るものである。

 

A 4次表の対角線……同じように、A=1627()=16→7 B =4714()=16→7、すなわちA=+7B=−7よって=0となる。

B 5次……同じように、A=17417()=20→2 B =50483()=20→2、すなわち、A=+2B=−2、よって=0となる。

 この計算は次元表が宇宙大まで延びてもまったく同じ結果が現れて来るのである。

その結果とは宇宙の本質は「対称性原理 に従い、なおかつその本質は0であると言うことを如実に示しているものである。

しかるに、これがすべてではない、これを遥かに上回る膨大なスケ−ルのバイ・プル−フ、すなわち傍証(もう一つの証拠)が存在して、その真実性を更に強固に歌って込んでいるのである。

 それは全体を対角線と同様な斜めの計算を用いて全体の数を処理することによって明らかにされるのである。

一つ、それを取り出して「真実か」、「否か」、すなわちその真実性の存在を検証して見よう。

確かこの一月にその仔細を検証済みなのであるが、今回はそこに出さなかった「6次元表」を新たに繰り出してその結果結末を明らかにすることにして見よう。


 

 ご覧の通り、「神の法陣」の左右の「斜め陣」。すなわち、「陰の斜め陣」と「陽の斜め陣」における計算の答を見るとまったく同じ姿の答が並んでいる。また、方向が逆向き、すなわち、正反対な性質を表す符号には、(+)と(−)が一般的な符号となっていることは御承知であろう。

すなわち、片方が(+)とすれば他方には(−)の性質を与えると言うことになる。

このように自然の証の場合にはどちらが(+)でどちらが(−)かの明確な証は不要であり、どちらかに(+)を付帯させると、他方は自動的に(−)を付帯させることが出来るのである。

 するともうお解りであろう、6次元【A】と【B】の関係は次のようになることを…!!。

   【A】+【B】=0 (要するに、宇宙物理学の言う宇宙係数は0であることが「数」により証明されたのである)

 

この見事な数の調べを見るがいい、まさに共鳴的≠ネ響きを有している構図であり、まさに、自然象における相対性の存在と言うものを明らかにしているものである…!!。

要するに、自然界に見られる動物や植物のデザインはすべて対称性を持っていると言う事実は自然次元自体が対称に創られているからなのである。要するに、母なる自然が対称形なのでその中に存在するすべての動物や植物も自然原理通りに相似的な形をもって創られていると言うことである。これで何故我々の体は左右対称に創られているのかと言う昔からの疑問、哲学者達が悩みに悩んでいた大きな疑問もこれで解けてくるのである。

これら両者、すなわち、「神の法陣」の左右の「斜め陣」は見かけはまったく異なるが、本質的には全く同じ姿を有していると言う事実を見ると、まさに驚きであり、人知の儚さ、至らなさをただただ知るだけである。

 ここに描かれている答とは、この「図全体が一つの共鳴的な構造体」であり、個の情報は即、全体にもたらされる。すなわち「全体は個であり、個は全体」であることを示しているものである。

 すなわち、「神の法陣」内においては常にダイナミックな関係で互いを構成し合い、すべてが自己調和的な共鳴関係をもって全体につながっている」と言うことである。
 それはまさにオ−ル・フォ−・ワン、ワン・フォ−・オ−ル と言う言葉そのものである。それはまた、哲裡的な内容を持つ先端物理理論である「ブ−ツストラップ理論」における偉大なる言葉を彷彿させるものでもある。それはすなわち、「宇宙は一つの相互に関係しあった全体であり、個々の部分が全体を含むものである」、「それぞれの中に全てがあり、全ての中にそれぞれがあって全体的な調和を保っている」と言う言葉である。……タオ自然学より

 

すると、現在の情報社会では、個の情報は即、社会全体に、いや世界全体にもたらされていると言う状態はまさしく自然の摂理に合うものであることが見て取れる。 もし、その情報が自然的に正しいものであれば、まことに結構な事であり、全体的にも繁栄をもたらしてくれることにもなるはずである。      

今まで、このような概念そのものを言葉で言い表すことや視覚化することなどはまったく出来なかったのである。ところが「神の数学」では、彼等、学者達の意に反してこのように見事な形で視覚化や、説明が十分出来ると言う驚くべき姿を持っているのである。

「神の数学」の基本手法を知り、しっかりとその則の通りに計算を行えば、これら左右の「斜め陣」は見事に共鳴し合いながら同一な答を生み出すこと解るのである。そのあたりのことを改めて自己検証しながら「自然の数理」の存在の確かさをしっかり確認してもらいたい。

現代数学手法を用いると、この斜めの計算のすべては単なるランダムの数の現れで終わり、決してまとまることは無い、すべてはそこで終止符が打たれ投げ出されてしまうのである。

実際に、自然的な意味においてはいくら正しく理論的なものでも、頑是ない人間知を持つ学者達により瞬時に葬り去られてしまうのである。まさに、豚に真珠、猫に小判の言葉の通りに…!!?。

何かを考えている時。ふとした感動が心を打つ時がある、その感動のうねりが連続的に高まった場合、それは心が何か新しくて真なものを感じた時であり、それはまさに魂の底から湧き出す大いなる感情のほとばしりと言ってもいいものである。それを少しでも感じたら、全てを忘れてそれに没頭し、出来るだけ長い時間をかけて慈しみながら育てていくことである。それにかけた愛着が深ければ深いほど、時間が長ければ長いほどやがて咲く花は大きくなって深みのある素晴らしい実をもたらすことになるのである。その結果、それは 世の中の人々に活気を与え、潤いを与えることが出来るものになるのである。今回は、たったこれだけの講座の中で現代西洋科学が悩み苦しんでいる答の一端を見事な形で「数」が解き放っているのである。 それらは次のようなものである。

 〔1〕自然象は完全な対称性を持っている。

〔2〕完全な対称性の本質とは0である。

〔3〕先端物理理論である「ブ−ツストラップ理論」こそが正しい自然理論である。

 

さあ、知を任じて止まない優秀なる諸氏諸君よ、何度でもこの「数の語る言葉」を読み、反芻また反芻を繰り返して考えて見ることである。その上で間違いや、矛盾点が出て来たならば、更にそれを追求して見る、それがこれからの知の拡張拡大には絶対的に必要なものになるのである。

 

これらの「数の走り」は「自然原理」、「自然規範」に基づくものであり、決して間違いや、矛盾は無いものと考えて欲しい。もし、あった場合にはそれは人間の知の何処かに誤りがあると受け取り、それを用いて逆に人間の知を追求して誤りを探し出すことが大切である。それにより、人間知の誤りを見出し是正することが人類の進歩発展に大きく寄与するのである。

 

見るがいい、今や、科学知は前進は出来ず、既に足を止めたままである。気の早い連中は科学はすでに終焉期を迎えていると囁いている。この状態を打破するには何らかの「新しい知」を導入することが絶対的に必要なのである。さもなければ、人間知はだんだん壊死状態に陥り、やがて人類は時間と共に破滅することにもなりかねないところまできているのである。

 しかし、今のところ、なんの手だても無く、科学者達はただ茫然と佇んでいるだけである。

 

 さあ、今や、350年前にデカルトに追い出された「神」を呼び戻すべきであろうか、それとも「神」の僕(しもべ)である「数」の囁きを聞くべきであろうか、さあ、今がその正念場であり、現代知はまさに岐路に立っている時なのである。

さてさて、あなた方の判断は如何に……!!?。

2015年3月(今月の講座 完)

 
 まことに勝手ですが、次回の4月は衣を改めて「神の法陣(3)」としての上載となります。どうかそちらの方で御検証のほどをお願いいたします。

889脳幹

直感ち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3次元産3次元いうことで、