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9.数のささやき(1) 10.数のささやき(2) 11.神の法陣(1) 12.神の法陣(2)
13.神の法陣(3) 14.神の法陣(4) 15.神の法陣(5)


 人はよく「初心に戻れ」という、
それは物事が複雑になればなるほど
「正当」「本質」を問うための原点であり
複雑重畳を解き放つためには必要なものである。
それは歴史や伝統、あるいは神話でもまったく同じである。
日本神道の原郷としての縄文神道(原始神道)の中にあるものこそ
本来の「古代の叡智」であり、失われて久しいと言われるものである。
驚くことにそれらはあり得ない遠い過去の真実であり、未来の超知の数々である。
我々はそれに対し、どう対応し、どのような処置を施すべきなのであろうか…?。
無視か、それとも真実を求めて新たな旅立ちを始めるべきなのであろうか。
最早我々の文明は破綻寸前であり、新しい手法を求めているのである。
今、我々は温故知新の故事に倣ってもう一度過去をさかのぼり
新しい真実世界の基本原理を探し求めなければならない。
ぐずぐずしていると間に合わないことになる
今や限界ぎりぎりの状態の時である。


       《温故知新》→(歴史、思想、古典などをよく調べて昔のことを知り、そこから新しい知識や道理を得ること)

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 「神の数学」・研究・検証

【神の数学本編 7.古代日本の真実】

ガイド
 
 @  古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(1) …2012年2月上載
         
 A 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(2) …2012年3月上載
             
 B 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(3) …2012年4月上載
    

 C 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(4) …2012年5月上載
    
 D古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(5) …2012年6月上載
    

 E古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(6) …2012年7月上載

 F古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(7) …2012年8月上載<最新の記>

    

 
 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(1)


                                                2012年2月 謹んで上載
                                             

 日本に存在した先史時代、すなわち神々の時代の知の遺産とは…!!?
 


 そもそも古神道とは縄文神道とも言い、密教・仏教・道教などの外来宗教の影響を受ける以前の神道のことであり、純粋な日本民族の意識が遥かな年月をかけて培い、育て上げて来た自然にまつろう叡智の集大成と言えるものである。しかし、それは甚だ不幸な出来事により失われ、途切れてしまったのであるが、歴史は一切そのことに関しては何も言わず口を噤みつづけて知らん顔しているだけである。心ある者もいるではあろうが、恐らくは古代日本に存在した叡智の姿は今ある西洋科学知とはまったく異なった姿を持つものである故に言い出すことが憚れるのであろうか、それとも未だ誰もその事実に気がついてはいないのであろうか…?。私はいぶかしむ。

 ここにそれを証言する一つの古代文献がある、それは今を去ること1400年くらい前に聖徳太子が記したとされる古代の書、すなわち古代日本の歴史的な書物『先代旧事本紀』である。
                <『広辞苑』には『先代旧事本紀』とは「神代から推古朝までの事跡を記した史書」とある。>

 そこには確かに不可思議な言葉、すなわち「数」に関する意味不明な言葉がずらりと並んでいるのである。それは人類史上極めて優れた頭脳を持つと自賛しているあなた方現代人でも恐らく目を疑い、即否定するばかりの有ってはならない言葉の群れである。
 それゆえに現代では打ち捨てられて誰も顧みようとはしない。恐らく,あなた方もそれらの不可解極まりない言葉の数々には、ただただ呆れて言葉も出ないはずであろう。
 だから、江戸時代の学者達もその不可解さに大騒ぎをし、その結果幕府は発行禁止の処分をした曰くつきのものである。その結果すべては偽書として片づけられ、荒唐無稽な偽作文書として捨て置かれ、そのまま現代に至っているのである。

 その名は『先代旧事本紀』の中に収録されている「神文傳(かみふみのこととぎ)」と言う不可思議な言葉を持っている記であり、一切は不可解な「数」にまつわる文言なのである。
さあ、見るがいい、読んでそこにある事実とその真実をあなたの目でしっかりと確かめるがいい。これらは日本の古代文書からの引用そのままであり、古代の学の真実の確かな答を持っているものである。これをして昭和初期の学者達は「数が物言うなんて馬鹿げた話であり、到底信じることなどは出来ない。まさに狂人の戯言であり、誰かが面白く、おかしく捏造した単なる偽作文書である」と言って見向きもしなかったのである。しかもその流れは今も延々と続いているのである。要するに、歴史の真実を解する頭脳は当時そのままであり、一切進歩発展はしてはいないと言うことである。当時の知的水準、すなわち、ものを見る目の度合いと現在のそれの間には格段の差があり、当然見る目もずい分変わっていると思われるのであるが…!。今のあなたはどう感じるのであろうか、この二十一世紀と言う新しいミレアムな時代に生きるあなたはどのように感じ、どのように思うのであろうか…。

この「神文伝(かみつふみのこととぎ)の内容はあまりにも常識外であり、それゆえ解釈も叶わず今まであまり人目を引くこともなかったものである。それを一つ紹介しよう。

     
  神文傳(かみつふみのこととぎ)



「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その 理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり。        <先天→先史文明>

「数は天、地、神、人、物の法(のり)を総()べ、しかして萬法(よろずのり)の根(おおね)となる。故にこの文、その 音は数によさす。これ先天の理なるのみ」

「天皇(すめらみこと)はこの傳(つたえ)を得(さとりえ)たまい、聖人(ひじりびと)に請(まわし)たまい。聖人はもって その密(みふかさ)を察(さとり)たまひ、神代の数の音(こえ)をもちて、人代(ひとのよ)の義音(よきこえ)となしたまい、しかして理(ことわり)に合わせ章(つづり)をなされたまう。その学(まなび)は明らかにありて、人これを知得(さとら)ん。これ後天(いましよ)の傳(つたえ)なり。

「中なる……の字(ふみ)は天上(たかあまはら)の数なり。その詞(ことのは)傳はらじ。下の……の字(ふみ)は、 黄泉(よもつくに)の数なり。また傳はらじ。

「これを以ってこれを思うに、神文(かみつふみ)はフトミタカラなり。何れの世、何れの人がこの文(フミ=書いたもの)を宗(たっと)ばざる。この道を学ばざらんや。 ……臣、大連の秦河勝、神文の傳を敬て白すこと璽れり。

                 以上、『先代旧事本紀』に収録されている「神文傳(かみつふみのこととぎ)」より…

  如何であろう、何回も読み直しその素晴らしさを“心”で感じてほしいものである。、

《学びの道は「数」にはじまる、数は天、地、神、人、物の法(のり)を総()べ、しかして萬法(よろずのり)の根(おおね)となる》

 
何とまた意味の深い驚くべき言葉の現れなのであろうか。学者たちはこれを読んで心が動かされることはないのであろうか…?

 これははっきり言えばかのピタゴラスが言った「宇宙は数でつくられている」と全く同じ意味を持つ言葉と言ってもいいものである。いや含まれる概念、意味するものはさらに大きく、もっとストリクトで、甚だ正確な内容を持つ言葉と考えてもいいものである。
西洋の科学者達は今でもこのソクラテスの言葉を金科玉条として日々自然探求に明け暮れている。それを代弁するのが現代理論物理学の第一人者であるイギリスのステ−ブン・ホ−キング博士である。彼が初めて世に出た時の言葉には「宇宙は全て「数」で説明が出来る…」と言う言葉があったと確か記憶にはある。それほど「数」は威厳ある存在と見られ注目されていたのである。

 現代的な言葉にすると次のようになるのであるが、今までの学者たちは誰も気にする者はいなかったのである。我が国日本ではそんなことを言うものならそれこそ気狂い扱いである。誰も相手にされないのは必定だからである。何だろう、この違いは…?。
 ましてや、古代文献など引っ張り出して来ようものなら、そんな古代の言葉、学も定まらない古い時代の下らない書物を相手にしているとはおおたわけそのものであると叱咤されるだけである。若し、その内容が到底理解の出来ないものなら、即、無視であり、また、それが現代の知に即しているなら、そんなことはあり得ない、これは後代の誰かがつくった偽書であると断ぜられ、そこでお終になるのが常である。

 何と、そこにあるのは驚くべき前代未聞の言葉が並び、それは現代知のフレ−ムを覆さんばかりの由々しい言葉である。何とそれらはまさしく古代ギリシャの哲人、聖プラトンがいみじくも呟(つぶや)いていた言葉を彷彿させるものであり、明らかな先史文明の知の響きを感じさせるものである。
 それはすなわち、「遥か遠い古代に存在したアトランチス大陸には素晴らしい真理を持つ「哲理数学」があった。しかし、今ではそのすべては失われ、忘れられてしまった」と嘆いていた彼の言葉の真実性を裏付ける確かなものと言えるものでもある。何と、今の日本にもそれらの証拠となるものが脈々と伝り、秘かに真実を告げていたのである。それはまさに誰も予想もしなかったことである。何と言うことであろうか…!!?。


 「神の数学」とは……《学問の道とは「数」に教えを乞うことが必要である。なぜなら、「数」は天、地を始め宇宙万物の法則を操り、すべてを統治して納めているもの、すなわち、あらゆる法則の生みの親、すなわち「数」はあらゆるものの大元となり、すべてを導き納めているものなのである》。

 まあ、このことは一応さし置いてこれら古代の文を現代風な言葉に直して見よう。


「学(まなびのみち)」はここに始まる。その言(のたまい)は数(かず)にあり。しかも数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり」。

 ……《われわれの学ぶ自然の道の始まりとはここにある、すなわち、そのすべての仔細一切は「数」が知り、そこに内蔵されているのである。その「数の道」 は「天地の理」を秘め、その内容は時間、空間を超越した存在として天地万物の根源となる絶対的なものである。しかし、誰もその内容は知らない。これらすべては遥か昔に存在した先史文明(神代の世)からの伝承である。
 (ここにある「数の道」とは、おそらく祝詞「ひふみ…天地の数歌」であり、「ひふみ九九表」のことであろう)


 驚いたことに、これはまさに「神の数学」と内容がまったく一致しているものではないか…!。何と現代物理学者や数学者、はたまた歴史学者でさえも裸足で逃げ出すような驚くべき古代の言葉であり、未だかって誰も聞いたことの無いまさに驚くべき内容である。
それが古代日本に存在していたと伝えているのである。何と言うことであろうか…!!.

 恐らく、この言葉は異形の物ではあるが、あまりにも真実を突いているゆえに、本当の学者には甚だ耳が痛いものであろうし、目が点になり、のぞけかえるほどの驚愕を与えて止まないはずであろう。若し、彼が本当の学者魂を持っているならばである。
 とにかく、学者と言うものは己の知を過信するあまり、己の知に反するものは徹底して攻撃するという学者からぬ振る舞いをしがちであるが、それだけは慎むべきであろう。

 確か、C・G・ユングとW・パウリの共書である「自然の解明と精神」には次の言葉が記されているはずである。そのあたりをしっかり心に止めて置いてほしい。

 「本当の数学を深く学んだ傑出した数学者によって、自然は計測され神秘のベ−ルがはがされる。しかし、偽物でいい加減な数学者にとっては、自然は明らかにならず隠されたままである。偽物は本質を計測する代わりに影しか計測出来ず、いい加減な見解で自らを装うしかない。一方、前述の傑出した科学者は影を拒否して、本質を掴まえ、真理を発見する喜びを得る…」。

  さあ、次に進むことにしよう。

「天皇(すめらみこと)はこの傳(つたえ)を得(さとりえ)たまい、聖人(ひじりびと)に請(まわし)たまい。聖人はもってその密(みふかさ)を察(さとり)たまひ、神代の数の音(こえ)をもちて、人代(ひとのよ)の義音(よきこえ)となしたまい、しかして理(ことわり)に合わせ章(つづり)をなされたまう。その学(まなび)は明らかにありて、人これを知得(さとら)ん。これ後天(いましよ)の傳(つたえ)なり。

 訳意……《天皇はこれら先天の伝承の伝える素晴らしい知の存在を知って、学者達に調べるように言いつけた。彼等学者達はその奥深い自然の存在を学び知り、その先天の数の発音をそのまま用いて今の言葉に取り入れて、それをそのままの理に合わせて一つの意味のある言葉を作り上げたのである。その上、そこに示されている天地の理にそのまま合わせて意味のある言葉を作り上げたのである。それ以降、その言葉の意味をだんだん人々は知るに及んで広くひろまっていった。これが今の世の初めにあった出来事であり、それが代々伝承されて今に伝えられているものである。これからも、これらの知は聖なる伝承知として子孫代々伝えていかなければならないものである》。

 最後にもう一つ。

「これを以ってこれを思うに、神文(かみつふみ)はフトミタカラなり。何れの世、何れの人がこの文(フミ=書いたもの)を宗(たっと)ばざる。この道を学ばざらんや。

 ……《つらつら考えるに、この代々伝えられて来た古の「神文(かみつふみ)の伝承言葉こそは本当に大切な人類の宝であり、子孫代々に渡って伝えていくべきものである。しかるに果たして、この後のいづれかの時代に誰かがこの言葉文の内容を解き明かし、この大切な理の全容を学んでくれる者が出て来てくるであろうか…!?。願わくば是非これら古代の尊い言い伝えを知って学んでもらいたいものである》。

 さあ、考えてほしい、これらの古の言葉の表す「数の学びの道」とは一体何であろうか…?!!。 「フトミタカラ」とは一体何を指すものなのであろうか…??!。

 「フトミタカラ」この言葉の意味するものは果たして一体何なのであろうか、いろいろな文献、あるいは辞書等を調べてもこの言葉は見つからない、完全に、歴史上からは消え去った謎の言葉であり、完全に行方不明の言葉なのである。る。
 
僅かに、太占(フトマニ)=天地のロゴス(道理)、、太祝詞(フトノリト)=天地の数の原理太御宝(フトミタカラ)=天地の数の教え
、などの言葉が残されてはいるが、これらの詳細内容は時のはざまに消え去り、ただ、言葉のみが残っているだけである。


 今までこの「神文傳」の言葉は現代にあっては「意味不明」として放り出されたままであり、単なる愚言、埒の無いものとして誰も関心を持って調べようとはせずに打ち置かれたままなのである。そうかと思って歴史を探すと「江戸時代には大いなる関心が持たれ、そのために偽書としては幕府やその御用学者から大弾圧を受けた」と当時の書には記されているのである。
 あなたはこれらの真実を解せなかったと言って当時の神学者、歴史家達を非難することは出来ない。なぜなら現代の名だたる学者、一流の知識層でさえも頭を抱えて否定に走ることは間違いないのであるからである。
 当時はこれらの常識外の言葉、あり得ざる大それた内容、不可思議極まりない文意、すべてはあり得ないものであり、まるでバテレンの言葉のように聞こえたものであろう。そうかと言っても現代の日本にあっても余り事情は変わりなく、学者達は旧態依然の数の学に明け暮れて、あまり本来の「数の真実」についての考えを誰も進めようとはしない。
 
 最近の書を開くと、欧米の学者たちは最近次々と数「0」について意見を述べ始め、大勢がその著作の中で0の持つ本質を語り始めている。それゆえに、今では0の持つ驚くべき真実、不可思議な性質はあまた世に知れることになって世を騒がせているのは諸氏もご存じであろう。いやそれどころか、今や、この奇妙な数「0」の持つ数学的、哲学的な性質は西洋の根本哲学と完全に衝突を始め、押し負かそうとしていると彼等、西洋の学者達は考え始めている、まさに「数」の革命が静かに起きつつあるのである。


 このような事情が現在数学の世界を覆い、学者達は懸命にそれについて思索しているのであるが、現代の日本の学者たちは何も知らずにのほほんと惰眠をむさぼっているだけである。 誰ひとり、これらの真実に気づくことはなく揃って夢見心地で相変わらず旧態依然とした数学概念の中に身を置いて満足に浸っている現状である。

 しかも、これらの古代における「数についての驚くべき箴言」、すなわち、世界的にも重大な意味を持つこれらの言葉を今の学者達は単なる戯言(ざれごと)であるとか、江戸時代の学者達が偽書であると判定したのだから偽書なのであろう、とただ傍観しているだけで取り上げようともしない。そこには、仲間には後ろ指を指されたくない、故に非常識なことは取り上げないと言う態度がありありと見えるのである。その罪はまさに重い。完全に学者としては責任放棄であり、失格であると言ってもいい態度である。また、自己保身のためと言われても言い訳がたたないものであろう。

 要するに学者としてはあるまじき態度であり、故に、今更私がどのように解釈を下しても、口を挟める立場にはない、すなわち口出しは一切出来ないと言うことである。

 もっとハッキリ言えば、現代の知識人と言われてはいても超古代の物知り(学者)と比べると一段と学の程度が低い、いや、感覚的な次元(精神性)に対する認識の程度がはなはだ劣っていると言ってもいいものである…!。

 とにかく、現代の知識人達は余りにも西洋に心酔し、かぶれが甚だしい。口を開けば、「その昔ギリシャの大哲人プラトンはかって存在したアトランテック文明には驚くべき数哲科学と言う学があったがいまでは完全に失われてしまったと嘆いた」と残念そうに語って古代西洋文明知の存在を称賛している。しかし、それはおかしい。よく見るがいい、日本にはそれに格段優っているこのような古代文書が存在し、確かな筆で数の持つ驚くべき真実を語っている生々しい件(くだり)があるのである。それがこの『先代旧事本紀』に収録されている「神文傳(かみつふみのこととぎ)」にある驚くべき言葉の群れであり、その内容等である。

 「数の道は理(ことわり)を含む。その理(ことわり)は玄(ふかき)を有(たもち)て在り。しかし、人はこれを知らじ。これ先天(さきのあめみよ)の傳(つたえ)なり」。 

 彼等、学者達はよく調べもせずにこれらの言葉尻だけを掴まえて偽言であり、偽書であると断じている。要するに、江戸時代の学者の言葉をそのまま流し、それを信じていると言うことである。ただそれだけであり、自らの手では調査は一切何もしていないのである。言葉を換えれば、彼等の知の程度は数百年前のものそのままであり、何も進歩はしていないと言っても何ら差し支え無いはずである。確かに、一般常識から言えば、あり得ないこと、理解できない内容ではある、しかしよく考えて見れば、これは哲人プラトンの語った幻の言葉よりはよほど現実的であり、理解可能な現実性のある言葉と言ってもいいはずのものである。

 果たして、この古の神文傳(かみつふみのこととぎの持つ古の真実とは何を語るものなのか、そのあたりを日本の最も古い伝承を持つ「古神道」の祝詞とからませながら見るとよく解るのではないかと思い、試みたらまさにドンピシャリの様相を示したのである。では、古神道の奥儀祝詞「ひふみ…天地の歌」の数言葉とこの神文傳(かみつふみのこととぎと言う二つの古い文献の内容を同時進行の形で重ね合わせ、検証して見よう。

 ひょつとすれば、これが古来から言われている「天地の岩戸開き(言答開き)」となるものかも知れない、そのあたりのことは天明さんの「ひふみ神示」にも何度か書かれているはずである。
 あなたが本当に日本古代の文明の存在を少しでも納得したいならば常にこの「神文傳」の言葉を心にしっかり置いて、それから古代の知の詮索詮議を始めることが望ましい。偽書であるとの江戸時代の学者の言葉はもはや捨て去るべきであろう。
 これは爾来3千年と言う歴史を持つ日本神道の根幹を揺さぶり、そこに坐する本当の「超古代の真実」を掘り起こそうと言う大それた企みであり、果てしのない時間と空間を横切って時の真実を探ろうとする誰も試みたことのない無謀な挑戦とも言えよう。

 さあ、ここからが本当の問題解決の端緒が始まる、これから「あらん限りの直感と洞察力のアンテナを高く掲げ、知を出来る限り鋭敏にセットし、可能な限りの本来あるべき本当の「古代の真実」をあぶり出して来るべき未来に備えなければならない。
 まずは最も深い謎を秘めながら、巷間の神官達に軽侮されている古神道の祝詞「ひふみ天地の数歌」のあるべき本来の姿を見てみようではないか。それも明治期いらいの卓越した神道研究家達の研究足跡をたどりながら進めて見ようと言うのである。

 古神道における「陰」と「陽」の双対の太祝詞の存在、それについては今では誰も知る者はいない、ただ古い口伝だけがその存在をかすかに伝えているだけである。それをまず発掘することから始めなければならない。大変困難なことである。
 確かに、そこにある真実をあぶり出すには余りにも時の経過が重なり、余りにも言葉の変化が大き過ぎて、今更解く術とて無いと思われる。発音の変化、言葉の変遷、時代の背景、それらを根気よく丹念に掘り起こして初めて真相に突き当ることが出来るのである。考えて見ればそれは僅か100年、200年単位の時の経過でも言葉や意味が不明、不鮮明となるものが多い今の世の中なのである。それを1000年単位という大きなエクステンドをもって大胆にも探ろうというのである。まさに狂気の沙汰と言うものであろう。

 数年前の私のHPサイトの記述には確か次のような言葉があったと私は覚えている。

 太祝詞「アイウエオ五十音図」を連れて奥儀祝詞「ひふみ…天地の数歌」を解く、

 すでにご存じであろう、「アイウエオ五十音図」と「ひふみ…天地の数歌」は神に対する誓文と同時にすべてを祓い清めるためのやんごとない「大いなる言葉」であることを…。そこには並々ならぬ「神」のご加護を受けた「天の叡智」が密かに眠り、相互共鳴と言う形で不可思議極まりない真実を述べているものである。そもそもこの二つはお互いに寄り合い、結び合って初めてそこにある本来の秘密が明らかになるのである。すなわち、「アイウエオ五十音図」と「ひふみ…天地の数歌」を互換的な形を用いることにより、はじめてそこに驚くべき「天の仕組み」が顔を出し、本当の真実を告げてくれるものなのである。

 さあ、これら「双対の祝詞」の秘密を一つづつ明らかにしていこう。

  〔T〕祝詞「ひふみ…天地の数歌」に込められた言霊とは…?。

<誰も知る者はいないが、祝詞「ひふみ…天地の数歌」には大いなる言霊が隠されているのである。それを押し開くことが、すなわち、「天の岩戸開き」の第一歩である。>

 〔U〕「「ひふみ…天地の数歌」の秘密の扉を開く…。

<「アイウエオ五十音図」を揃えて共鳴させない限り、永遠に「ひふみ…天地の数歌」の持つ真実の内容(知)は「天の岩戸」の中に隠れたままであり、天地はそのまま闇の中に置かれたままなのである、要するに、「天の岩戸」はいまだ開かれてはいないのである>。

 〔V〕、「アイウエオ五十音図」の秘密の扉を開く…。

<「ひふみ…天地の数歌」を用いて開かない限り、永遠に闇の中であり、決して陽の目を見ることは無い。その言わんとする不可思議極まりない内容は1、とまったく同じ性質(天啓天与)のものであり、いまだ、「天の岩戸」は開かれてはいないのである>。
  ≪「天啓」とは人知では及ばない導きのインスピレションの存在であり、「天与」とは神から与えられたものとの意味である。≫

 これらの知は「人間の持つ知」ではないことをその内容が示しているのであり、これらを紐解けば万人が気がつくはずである。これらを読み解き、その知の仕組を納得すれば、自然々の中にだんだん解ってくるのである。


 要するに、これらの二つの古神道の太祝詞同士は完全なる相関関係にあり、お互いに相手と相関的な共鳴状態を持ちながら真実を明らかにしているのである。まさにそれは青天の霹靂とも言うべき驚くべき仕組みであり。3次元の中の4次元的な現れと言うべき衝撃的な現れを持つものである。それは現在の常識世界の中では決してあってはならないものであり、おぞましいものと言ってもいいものである。敢えて言えば、それは一つの「神の息吹」の現れ、「神の作品」としか言いようのないものである。なぜなら、それはどう考えても、どう捻り回しても「神」が作り上げたものとしか言えない不可解極まりない構造を持つものであるからである。

 さあ、知の誇りをもつ者達よ、あらん限りの知と力限りの洞察力を込めてこれら古神道の持つ双対の奥儀祝詞の正体を確かめて見てほしい、果たしてこれが人知の成果の所業であり、人の手になるものであろうか…!?。それとも遥か太古の昔に天空から日本に降り立った天津人(宇宙人)が携えて来た天空の叡智であり、その遥かなる口伝の業と言うべきものなのであろうか。
 さりとて、驚くほど難しいものでもない、ただ表現的に難があるだけであり、現在の科学的な言葉では十分に表現が出来ないものと言うことである。しかし、何時の日か頭脳明晰な若者が現れて知と言葉を尽くして明快なる答えを出してくれるであろう。

 ハッキリ言えば今の私にも解しかねるものである、この「双(左右)対の祝詞」の持つ不可思議な理を世の中に出してから、もう十数年の時が経つ、しかし今でも釈然としない、どうしても人間の知、人間の業とは思われものがそこには厳然として存在しているのである。 今回はそれを3回(2,3,4月)くらいに分けて説明を加えていくことにしたい。

 今回は平成10年12月のHPのサイトの記である「祝詞『ひふみ…天地の数歌』の本当の姿を見る」にある内容をもう一度おさらいしてその概要を再び共に考え、その意義の詳細を補って見みることにしたい。



〔T〕 「祝詞『ひふみ…天地の数歌』に込められた言霊とは…?。

 1、祝詞「ひふみ…」の言霊を見出す

(あなた方も直感と洞察力のアンテナを最大に伸ばし、これらの委細がっさいを点検認識してほしい、)

 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
 ふ いっ なな ここ と(たり)

(光)
 
(空気)
 

(地球自然)

(現れる)

(毛々)

(完了)
天(1次自然象)・・・ア    地(2次自然象)・・・ワ (『アワノウタ(天地の歌)』より)     

 すなわち、ここにあるように、祝詞「ひふみ天地の数歌」とはこの地球自然界の創生順を高らかに歌っているものであり、その発生の順が言葉で綴られているのである。恐らく太古の知者が嵌め込んだ巧みな言葉の業と言うべきものである。おそらくこの二重言葉のことを称して後代の人々は「言霊」と呼んだのではないであろうか。確かに、これは世界にも類の無い恐るべき言葉のテクニックであり、まさに「言霊」=「裏言葉」の証言と言うべきものである。これらの証言は確かに岡本天さんの言葉にもあるはずである。
すなわち、「言葉の裏には数があり、数の裏には必ず言葉が隠されている」と…。  岡本天明の「古事記数霊解序説」より

 現在までの神話学的な解釈では一番重要な「数の理」がまったく不明なので、いきおい中国観に結び付け、なんとか辻褄を合わせようとしているので、すべては落とし穴に落ち込んで意味がますます不明になっているのである。……田上晃彩著「古事記の謎」より。


【参考A】……

「日」→@太陽の光 A霊・神霊 「世」→地球自然 「なな」→「な(魚)」の複数 「や」→矢であり、空をとぶもの、すなわち「鳥」を指す。(や=鳥、天地の歌48音図より) 「ここ」→「けけ=毛々」からの転訛、「毛々」は獣の複数、獣類を表す。 「と」→「人」の意、「ヒト」の「ヒ」は霊(ヒ)であり、「ト」は物(物質)、体(からだ)を表す。 要するに「心」と「肉体」が見事に合体しているもの、それが「人」であり、「一(ひ=霊)」+「十(と=体)」であると説明しているのである(広辞苑より)。確かにこれは「10進法」が根付いてからの、それに沿った解釈と言えるものである。しかし、そこには「ひ.ふ.み.よ.…ここ.たり」の元歌の精神が密かに隠され、流れていることに注意すべきであろう。すなわち「ひと(人)」とはひ(一)であり、と(十)でもある(1=10)≠アとの大いなる天地の数の理≠ネのである。それがひふみの心≠ナある「123456789123456…」の10が1に変わる=Aすなわち1=10≠ニいう『日本9進法』の数循環の物語であり、宇宙的普遍の数の道である本当の数序≠フ真相を歌っているものである。
 
 それはまさに自然宇宙の循環の理≠表している聖なる自然の道≠サのものであることに注目してほしい。
 例えば自然界における万象の働き(動き)である「原子における電子の軌道回転」「地球を巡る月の自転・公転」「地球を含む太陽系惑星の自転・公転」「大銀河系の回転」「大宇宙全体の大回転」など、すべては回転により平衡を保ち、永遠性を紡ぎ出しているのである。それが宇宙自然の本当の姿であり、完全大循環のあるべき態(すがた)なのである。

【参考B】】……

「ヒト」は『ヒ(霊)=意識』と『ト(肉体)=物質』の合体したものであるとの認識が強く見られる。ところが、これは日本語辞典には見られるが漢和辞典には一切その解釈は見当たらない。そこに注目すべきである。そこには、漢字以前の大和言葉(神代文字)の影が強く見え隠れし、何かを囁いているのに気がつかなければならないのである。

【参考C】】……

『ひ』とは→霊=霊力、神霊、或いは祝詞等を示す言葉である。ここから神事に対し、祝詞が最初に奏上される理由が解るであろう。古代言葉とは、まさに多重多義な意味を持ちながら、決して筋が外れてはいないものである。

【参考D】】……

『や』の古代の意味は『鳥』を表す(「天地の歌四十八音図」日本超古代秘資料より)。この「天地の歌四十八音図」は首音「ア」(天)と尾音「ワ」(地)をとって『アワノウタ(天地の歌)』と呼ばれるもので、驚くことに今から2600年前、記紀より約1000年前に編纂された日本最古の超古代文書に記されているものである。その古代文書の名は『ホツマツタヱ』であり、江戸時代に失われて、昭和40年代に松本善之助氏により四国で再発見されたものである。
 それによると「天」はアとも読み最初を意味する言葉であり、「地」はワと読み天の後に現れたあとの言葉と言うことである。

【参考E】】……

天地の『天』に属するものは天の神が創成した「ひ.ふ.み.よ.」であり、『地』に属するものは地の神が産み落とした「いっ.む.なな.や.ここ.」であると述べ、これこそまさに素晴らしい自然の恵みの姿、神の妙なる創造物、その自然の賜物の素晴らしさを称え、感嘆の声を挙げている様(さま)を見事に描いているものである。そのどよめきの姿が「ア」と「ワ」の感嘆の言葉で表されているのである。「ア−」は最初の畏れるほど吃驚した感嘆のことばであり、「ワ−」は最後に感じたどよめき、感激の言葉なのである。それを数で表したものが天(ア)の数は<1234→10→1>であり、地(ワ)の数は<56780→35→8>なのである。それがすなわち、天の数1+地の数8=0であり.まさに宇宙の本質を指しているものである。
 また、それは最近やっと近代宇宙物理学が辿りついた宇宙の本質の姿と言えるものでもあろう。               
                                                   「数学幻視考」講座 古神道(その3) より。

 この祝詞『ひふみ…天地の数歌』の歌をうた≠ニ読んでいるが、本来はうたい≠ニ読むべきものであり、天地の万象を表す言葉≠ニでも訳すべきものである。またそこには数歌≠ニ言う文字があるのでそれは数によってあらわされている大切なものとの解釈が出来るはずである。まさにこれは神文傳(かみつふみのこととぎ)の言葉である「深き数の道の理(ことわり)」と瓜々とも言うべき姿なのである。

 また、うたい≠ニはうたいだし≠ノ通じ、「在るものの初め」「最初の部分」「最初の出だし」を表す大変重要な意味を持つものと考えるべきである。そのあたりをしっかり判断して、その全体的なもの、祝詞『ひふみ…』が指し示す全体なるものを見出してほしい。 今の貴方なら十分に分かるはずである。すべては推して知るべし…!!。

 一体、これら驚くべき仕組みを持つ双対の祝詞の発祥の地は何処であろうか、どうもその現代知よりも遥かに優れている仕組構造の存在から考えると、どうも遥かな宇宙から舞い降りた天空人の持つ宇宙の知の名残であると考えるのが最良のような気がする。 そうすると遥か古代の知として古神道に封じられ祭られていたのもうなずけるし、天孫降臨の神話も生きて来るのである。要するに、すべての「古神道物語」は 矛盾なく納まり、めでたし、めでたしに納まるのである。 如何かな…!?。


 要するに、この古神道の祝詞『ひふみ‥天地の数歌』とは、何か非常に大切なものの最初の出だし≠ナあり、しかも数による歌いだし∞始めの部分∞最初の一章節≠ナあるとの意になるのである。すなわち「それをもって全体を指す名前として呼ばれていたものである」との判断が出来るのである。すると当然「そのあとに続くもの」の存在がくっきりと浮かび上がって来るのである。
 それがすなわち、大いなる「数の道」、すなわち「ひふみ九九算表」の存在である。
                    (ちなみに広辞苑によれば「歌とは動詞ウタウの連用形であり、うたい≠ニ読む」と解している)

 さあ、今まさに、古神道の奥儀祝詞「ひふみ…天地の数歌」と遥かなる秘伝の言葉「神文傳(かみつふみのこととぎ)」の連用により超古代の日本の真実が明らかにされようとしているのである。一体何であろう、そこにある奇妙な言葉の群れの伝える真実とは…!?。

 すべてはこれから開かれ、始まるのである。要するに、遥か超古代の神々の時代、すなわち現代の歴史以前に存在した神代と呼ばれる大いなる「先史時代」に存在した「天の叡智」の一切は先史文明の終焉と共に一旦閉ざされてしまった。
 それが「天の岩戸が閉ざされた」との表現であり、すべては忘れ去られ、今まで人の目に触れることも無く永い眠りについていたのである。ところがひょんなことから、ここに来て改めて「神の数学」として驚くべき復活を遂げ、甦りを果たすことになったのである。それがすなわち、再び「天の岩戸が開かれ始める」と言う言葉であり、本来あるべき自然の知が陽の目を見てすべて天地は再び明るくなった、すなわち、自然の本当の叡智が広がり、すべては正常に戻ったと解せるものである。

 すべては余りにも突飛な話ではあり、信じられない話である。何せ私自身も呆気にとられている現状なのである。信じるもよし、信じないのもよし、すべては神の御心のまま、すべてはあなた次第に尽きると言うことである。

         あなかしこ…!、あなかしこ…!!。(ああ、もったいない。ああ、なんと恐れ多いことなのであろうか…!!。)


    

 
古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(2)

                                             2012年3月 謹んで上載


  「魔方陣」と『神法陣 (ヒフミ法陣)』、 そして『神の易』の秘密を語る (NO1)



 
 
さあ、一つ、このあたりで長年の懸案だった「魔方陣」と『神法陣』について述べて置くことにしたい。考えて見れば、本来、「魔方陣」は日本に起源を持つものであり、古神道の流れの基本に据えられるべきものである。爾来より、古代文献にはそのように記述されてはいるが、誰も信じようとはしない、逆にあるまじき偽書として国家やマスコミが激しい攻撃を加え、葬り去ろうとさえした時期があったのである。
 要するに、日本人も本来の由来由緒は知っておくべきであり、それを知らない限り古神道の本質は語れず、ただ今までの神道家や、神道研究家のように表面だけを見て議論に終始しているだけで一向に埒が明かない事態に陥るだけである。
しかし、この程度ではまだ序の口に過ぎないものかも知れない、なぜなら、これを切り口にして大勢の研究者がなだれ込み、一切をあぶり出すことになるであろうから。
 何せ、超古代の歴史の秘密、すなわち、「易の真実」と神の秘密である「宇宙の2元の理」が一挙に解き放されると言うのである。おそらく、歴史始まって以来初めての快挙であろう。 まったく、日本の本当の歴史は面白いものであり、痛快極まりないものである。

 その歴史の秘密とは、すなわち、今から四千数百年前、中国からの留学生である伏儀により持ち帰られ、彼の地で研究検証され、大いに威を揮ったのもの、それが「易」である。その後長い年月と共に時代は変わり、日本に逆輸入されたことにより中国発として伝承されているものである。それがすなわち、あなた方が後生大事に語る「中国易」である。その歴史的な真実をこれから明かそうというのであり、そこにある真実を「数」がいみじくも語り上げて、誤のある歴史を正しく是正しょうとしているのである。
 諸氏はカンラ、カンラと大笑いするであろう、またもやこの唐変朴が世間を騒がせて有頂天になっていると…!?。

 さて、真面目に取り上げ、本気で追求して見たいと言う方々、ほんの僅か、恐らく人口の数%に過ぎない知(ち)、血(ち)、霊(ち)の繋がりのある方々(縄文人のDNAを持った方)だけに申し上げておきたい。真実を知ると言うことは心の励みであり、常にそれを心に置けば何時かは真実を伝えて止まないグロ−バルな展開に至ることになることを…。

 これらは決して妄想や作り話ではない、白昼夢を見ているわけでもない。もし、そうであれば、他人は信じはしまいし、打ち捨てておかれるだけである。ましてや、左脳で物事を判断する西洋の人々達は頭から否定し、決して理解することは出来ないはずである。

 しかし、事実は逆なことが起きてしまっているのである、そのあたりの面白い仔細を申しあげよう。私の友人にイギリスはアイルランドから来て近くの中学校で英語の教師をしている1人の青年がいる、彼の地で有名な大学の数学科出身であり、大変おとなしく、また人見知りする好青年として私の家族にも大変好かれていたのである。
 数学科で学んだということなので「神の数学」の基本となるものを少々教え、その後でこの『神の法陣』を直接見せながら、やり方を教えたのである。そこで私は「陰」と「陽」と言う言葉を初めて口にしたのである。しかしどうしても、「イン」、「ヨウ」の言葉が通じず、しばし、考えていた。そのうちハタと膝を打ち「イン」。「ヤン」かと言いだした、そこで私も初めて西洋では「イン」、「ヤン」と言うことを知ったのである。その後、しばらくして「ヨウ」の発音は西洋人には難しいということを知ったのである。

 そこでこの「ヒフミ法陣(神の易)」図から「イン」。「ヤン」の原理を彼に引っ張り出させて見たのである。何と、彼は面白そうに『太極図(ひふみ九九算表) 』を見ていたが、やがてまたたく間にそこから、両義、四象、八卦を引っ張り出し、苦もなく完成させたのである。まさにそれは私の持っていた「神の易」の序列である陰陽の整然とした姿であった。
 そのような経過があったからこそ私は「神の数学」は世界に通じるものであることを確認し、以来声を大にして広言し、少しもはばかることはないのである。
 「神の易」はまことにたやすい、小、中学生でも作れるものでありながら、そこには大自然の理である「陰」と「陽」の大理が陣を構えてしっかり対峙しているのである。それに比べると通常の「易」はなんと煩雑であり、なんと判りにくいものなのであろうか…?!。

 さて、本題に入ろう、大分話がすべってしまった、真面目に講義に入ろう。

 その前に、一つお断りしておきたい、私は76歳、今更パソコンで絵を描いて詳細に説明せよと言われても少々無理であり、大変な難題である。そこで絵図による説明の方は私を師匠と敬ってくれる一人の青年に任せたいと思うので、是非そちらを参考にして戴きたい、見ていると彼は私の思い通りの絵を描いて説明も付加してくれるので大変ありがたい。
 これからも、図は彼に託したい、恐らく、解りやすく鮮明な絵図が完成するはずである。「神の数学」はいわゆる2人三脚の作品と言うものである、楽しみにお待ち下され。            リンクはこちら → 「神の数学」大目次

 さあ、思いっきり、口頭で説明する、不明な点、疑問などはお受けする積りである。
 とりたてて別に難しいものではない、小、中学生でも十分に理解出来るものと言いたい。
逆に、高学歴者や大学者等には難しいかも知れない、何故ならば、そこは人間知と言う常識が通らないからである。要するに、そこは自然に当たり前のことは通り、人間知などは一切通らない世界なのである。常識は捨てたほうがいい、ただ邪魔になるだけである。
 自然の目で見ると当たり前であるが、人間知を通すとどう言う訳か、曇りや、不透明が生じて不鮮明になり、複雑化するのである。

 では、4千年来の日本の秘儀『神の法陣の図』を解き明かそう。それはかって日本から中国に渡り、かの地では「魔方陣」と呼ばれて聖帝伏義が天から戴いたものとして歴史には記されているものであり、「易」の基本となる「数の物語」の図として有名なものである。
「太古の数秘」、それは驚くべきものであり、「現代西洋科学文明」の間違いを諭(さとし過ちを教えてくれるものである。物質万能主義(哲学では唯物論)をモット−に進んできた現代科学は今や行く場を失い、錯乱に陥っている状態である。それを救えるものは日本の「太古の数秘」、すなわち『神の数学』のみであり、そこに示されている大いなる自然の「天地の理」だけである。

 「宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)」は「方陣」の母体でもあり、『易』の本当の姿である『神の易陣』〈原図〉でもある。要するに、「中国易」の基盤である「3次方陣図」(神話では河図・洛書)とはこの「宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)」を模して作った、いわゆるミニチュア版であろう。恐らく伏義の日本留学中に風聞による簡単なサンプル作品なのであろう。それだから、いくらこの「3次魔方陣」から『太極図』、「両義」、「四象」、「八卦」等の易図を見出そうとしても、決して現れてはこないのである。この数千年の間、あまたの人々がこれらの仕組みを描きだそうと心血を注いできたのであるが1人も成功した者はいないのである。
 
 
 何と、「易」の基本となる3次魔方陣のすべては風聞による単なる幻に過ぎないものであった。

要するに、おそらく日本を去る時、単なる「サンプル」を伏儀・神農あたりが持ち出したものか、それとも日本滞在中に聞いた風聞を元に、帰国後自ら作ったものか、そのいずれかであろう。なぜなら「魔方陣」の秩序そのものが実に不安定であり、そこには何らの「自然の真実」「天の知」等は一切見出すことは叶わないからである。いや、ただ人為的に数を並べ替えたものなので、あるべき自然の真実は失われて完全なる形骸と化してしまったものである。
 今まで、数千年の中で何十万、何百万の人々が何も知らず、噂に惹かれて挑み、一生を無駄のうちに過ごしたことであろうか、まさに罪作りなものであり、無為なる人生を悔やんでも余るものである。

 そもそも中国の歴史を見ても、「太極図」と言う言葉は誰により作られたのかも分かっていない。その起源となる図について早くに言及したものに明時代の初に著された趙ヒ謙『六書本義』であるが、そこに記されているのは「太極図」と言う名ではなく、「天地自然之図」または「天地自然河図」と記しされているのである。だから「太極図」なる言葉は明の時代(西暦1,400〜1600年)以降、すなわち割合最近に作られたものと言うことである。
 学識達者と自称する日本人の研究家が公然と中国発の古い言葉として常識的に用いて、人々に説いているが、まさに人を煙に巻くだけの情けない話である。

 日本で流布している中国の「易」についての話のほとんどはただの風聞や神話的な作為のものと言うべき類いであり、3千年も4千年も前とも言われる伝聞話を、面白くおかしく脚色して伝えたものである。恐らく、江戸時代あたりの八卦師、すなわち、占いに携わった者たちの仕業か、それとも面白く囃し立てようと図った当時の講談師の作り話の名残あたりであろう。,

 また、易から「五行説」が生まれたと言われているが、過去における「易学」の専門研究者達が「易には五行の説無し」と言っている通り、易の中にはそれを示すような真理は何もない。まして「3次魔方陣から五行を見出すことは叶わない」と過去の研究者の誰もが認めているものである。それは偶然、河図・洛書の「3次魔方陣」の真ん中に「5」が鎮座しているので、その「5」を引っ掛けて五行説を作り上げたものに過ぎないとも言われていることも知ってほしい。

 もっとはっきり言おうではないか。要するに、 人の創作した偽りの人工の「魔方陣」(河図・洛書)に比べると、日本発の自然の作品である『神易』、すなわち、『宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)』には、上述の要素の全てがしっかりと内蔵されているものであり、しかも有無を言わせない綺麗なで形で存在しているのである。
「易」で言う〈太極〉〈両義〉〈四象〉〈八卦〉はもちろん、〈五行〉や〈洪範九躊〉(洪範は洪大な規範の意味。九躊は九種の分類を示す)まで全て容易な姿で内蔵され、確かな形で開示されていると言う不思議な姿を持つ数表なのである。ゆえに私はこれを称し、『神の易陣』とも呼んでいるのである。

 ここで、さらにもう一つの「驚くべき真実」の存在を告白しなければならない。
それはこの「宇宙次元原理表(ひふみ‥九九算表)」は、数多ある『神の方陣』の〈解き方サンプル図〉でもあり、一つの〈指南説明図〉であることを申し上げなければならないのである。
 なぜなら、ここで見出した「解き方」や「発見した法則」は『神の数学』の根本原理であって、それ故に数多の『神の方陣』を解き明かす際に用いることのできる大変有用なものであり、まさに見事な「天地の理」を表しているものだからである。
 
 しかしここで、一つの疑問が生じる。この驚くべき「神の叡智」「自然の大理」と言うべきものを一体、誰が用意し、そして一体誰にそれを伝えようとしているのであろうか…?!。
 よく考えて見てほしい、「解き方のマニュアルの図」が存在するということは,誰かが意思を持ってわざわざ作り上げたものであり、誰かにそれを伝えるために用意されたものと言うことである。
 それはまるで、今話題になっている細胞内の遺伝子,DNA情報の書き込みと同じものと考えてもいいものであろう。それは大自然の誰かが、意思を持って書き込み、それを細胞にインプットして代々永遠に伝えようとしているものであり、まさにそこは確かな意思を持つ何者かの存在がなければならないのである。いったい、それは何者なのであろうか…?!。

 果たして何者がここまで用意周到な備えを用意し、それを誰かに教え、伝えようとするのであろうか、まさに興味は尽きない…!!。 それはおそらく永遠に解けない永遠の謎として残るものであろう。


 やはり、宇宙には「大いなる意志」が存在し、それが脚本を描いて、我々万象がそれを演じて永遠を飾ろうとしているのであろうか…??。それとも、万物は定められたコースに沿って永遠に収斂されて0になり、そこから改めて新しい旅立ちに向かうのであろうか……!??。
 まさにいろいろと疑問は尽きない…、しかし、何時かその答えを未来の子孫達が明確な形で出してくれるであろう、ただそれを切に望むだけである。

 ここ「宇宙次元原理表(ひふみ‥九九算表)」には「八卦の神妙の理」と「ひふみ算」相沿って奏でる見事な宇宙自然の陰陽の理が顔を出し、驚くべき自然の陣構えを次々と作り上げ永遠を全うし永続しているのである。それは一つの確定した真実世界であり、人知を超える「知の存在世界」である。
それは未だ誰も足を踏み入れたことのない「数の語る世界」であり、神のみが知る「真実の世界」とも言うべきものである。

 
さあ、このあたりで一つ本題に入り、真実の証を尋ねてみよう。

『太極図(ひふみ九九算表) 』(別名「神の易」


《太極の証》

  縦列、横列のすべての数を加算→0、すなわち全体の本質は0である。またどのように回転させてもすべて同じ姿である。→「宇宙次元原理表解図」(5)より。

  二つの対角線上の数列を加算→0、またこの二つの対角線に沿った各数列のΣもすべて→0である。そこには次のような驚くべき「神の数」が秩序を持って順に並んでいるのである。

 B  それが、すなわち、0、9、18、27、36、45、54、であり、すべては本質0の「神の数」の姿であり、整数比では0,1,2,3,4,5,6となる。しかも、そこにある数列はすべて鏡面対称数列なのである。→「宇宙次元原理表解図」(6)より。

  そこに右上から左下に流れる斜めの数の合計を見るがよい、それらは上から流れて、0、0、1,4,10、20,26、20、39、30、と流れている。そこでこれらの数の本質を調べるのである、それらすべては1、2、3、4、5、6、7、8、0の数字となって見事な「ひふみ…の歌」が流れていることが解るはずである。          →「宇宙次元原理表解図」(24)より。

D そこにあるもう一つの斜めに走る数字、すなわち左上から右下に流れる斜めの数のΣは、上から0,0、8、14,17、16,10、34、24、24と流れている。その本質を調べると、そこには8,7,6,5,4,3,2,1,0の「ひふみ数の逆数の並びがあらわれるが現れる。

E CとDの関係とは、すなわち「陰」と「陽」の関係である。なぜなら、 CとDの答えの数を加算すると見事な9の群れが現れてすべては0に納まるからである。

 F  同時に、対角線を中心軸に折り曲げると、そこにある半図同士はミラー対称性を持つことが分かる、このミラー対称性は一体何を表わすのであろうか、そこには現代物理学でも未だ見出すことの出来ない「神の理」が群れをなして鎮座しているのである。これらをしっかり見極めると、そこにはまさに「天地の理」、「宇宙の二元の理」が静々と姿を現すのである。→「宇宙次元原理表解図」(24)より。

 G  ここに示されている『宇宙次元原理表(ひふみ九九算表)』こそは、まさに日本超古代に存在した『神の易』であり、伏義により中国に持ちだされた「易の原図」そのものである。 その理由、及びその仔細の一切はこれから始まる『太極図』の解説をみれば分かると思う。
                                               → 「宇宙次元原理表解図」(bP〜29)より。

 H  またこれは日本では最も古い言葉である「フトマニ」の図でもあり、インドの「曼荼羅(マンダラ)の図、すなわち「神々の配置図」でもある。よく見るがよい、中央の大神を囲むようにすべての神々は坐しているのがお解りであろう。→「宇宙次元原理表解図」(17)より。

 「フトマニ」とは神道各家により解釈が異なり、種々雑多な「フトマニ説」存在する、例えば占いの一種であるとか、言霊の展開法であるとか、または神の意志、すなわち神の啓示による神理をしめすものとか、まさにいろいろな説が紛紛として存在している。今のところ定説はないのである。……「日本超古代秘史研究原典」より

 

さあ、この『太極図(ひふみ九九表) 』がいかいして「両義」、「四象」、「八卦」へと本質(DNA)を失わず分化し、しかも、分極性を持って歩を進めて行くのかを見てみることにしょう。

 

〔1〕その概要を見てみよう

【太極】…… 未だ分化せずに、混沌の状態にありながら、原始的な陰陽の形態、未完の陰陽を示す。               (混沌にあってもすべては0の本質を持ち、全体としての本質は0である)

 【両義】…… 陰陽に分かれて対峙しながら変化を生みだす。(陰陽対峙して本質0となる。)

【四象】…… 大いなる上下左右の陰陽の変化の始まり。四方が対峙して変化を競う。(四方がそれぞれ0の本質を掲げ           ながら、相互に相対峙する。)

【八卦】
…… 四象が更に陰陽に分裂して八方に分かれ、その各々が規律を持って調和しながら整列分岐している姿で           ある。 それでも、(やはり本質〇は失われず持つ。)

 

〔2〕その仕組みとは…?。

ここにあるのはまさに「神の芸術」の表れであり、「神の意志」の存在の記録である。それはどう見ても偶然とか、たまたまと言う表現ではとても解決出来るものではない。そこには間違いなく何者かの意思が大きく働き、呼びかけているのである。

 

≪両義≫

 「ひふみ九九算表」、すなわち、太極図を真ん中から切り裂き分断する、するとその切り口から数がこぼれ落ちる、その数を拾い集め加算する。その上でもう一方も同じ処理をして比べて見るのである。すると、驚くなかれ、右の陰相は天から地に流れ、左の陽相は地から天に流れると言うお互いが反相の状態で出現し、それぞれが抱き合って目の前で弥栄を歌いだす(本質0になる)のである。すなわち、これが「両義」の本来の真実の姿である。

 ≪四象≫

 更には両義を真ん中から切り裂き、こぼれる数を拾い加算する、するとそこには「天から地への流れ」と「地から天への流れ」が生まれるのであり、更には「右から左への流れ」、「左から右への流れ」が相呼応して陰陽の姿をつくって四つの陣が対峙するのである。それら四つの陣(四象)はそれぞれ0の本質を持って秩序の通りに流れて完成に至るのである。

 ≪八卦≫

 これほど美しい調和をもった「真実の世界」が他にあるであろうか…!?、すべては「ひふみの数」で構造化されているものである。すなわち、各四象を更に真ん中から切り裂いて、切り口からこぼれ落ちる数を加算する。すると、そこには8ヶの陰陽が現れて、相対的な布陣を構える図が出現するのである。そこには8ヶの数列が本質を持ちながら、相対的な陣を張って対峙している図が現れるのである。

 

すべては見事な「神の作品」であり、素晴らしい「神の化神の図」とも言うべきものである。我々がその解明の一翼を担うだけでも、まさに光栄の至りであり、至福の至りと言うべきものである。

心静かに上述した言葉の通りに解いていってほしい、何も難しいものではない。素直になれば小、中学生にでも解けるものである。ただ、あなた方は「易」とは不可解なものであり、難しいものと最初から考えているから解けないのである。

 

さあ、明日への希望を掲げて、見事「神の易」を解くがいい、これらは古代の日本に起源を持つものである、我々日本民族が解かずして、誰が解き得るであろうか…!!?。

私はサジェストを与えるだけに止め、敢えて本性、本筋は明かさない積りである。何故ならば、これは「神の真髄」の部分であり、やんごとない神知のスト−リそのものなのである。出来る限り自らの直感と洞察力を用いて、この絵(太極図)を咀嚼して内蔵されている「天地の理」をひも解き解明の限りを尽くしてもらいたい。

「神の数学」をここまで会得したあなたがたの知を持ってすれば、おそらく軽々と正しい答えを手に出来るはずであり、更にはそれを反芻してまことの真実を見出すであろう。

 

ただ、読み方、解き方を口授し、教えるだけでは、何となく不信感が残るであろう。よってここに結果として「八卦の伝え」の数字を少しばかり残して真実の証としたい。出来ればこれらを一つの手掛かりに歩を進めていくがよかろう。
 最後の答えを求めながら、心のいくまで楽しみ、妄想に耽ることを勧める。妄想とは未来の出来事を己の心のままに描くことであり、将来的な事実を予感し、考えることである。

とにかく、自分の手と目を用いて心で考えることである、なまじ他人の手と口を当てにすれば己の心は陰るだけであり、だんだん錆ついて動きを失うことにもなるのである。どうも現代日本人は西洋科学文明を学び出してから、そのような傾向にあるように思える。
 少しでもいい、目で見て、手を動かしながら考えるのである。とにかくやさしいものである、ほんの少しだけの努力で世界の大きな謎と言われていた「易」の秘密があなたの前に姿を現すのである。それらは4000前の知ではないか、現代知を誇り、過去の知を顧みないあなた達ではないか…、解けなければ解けないと素直に認めて大いなる反省をすべきであろう。

 

何と、この「八卦の図」に現れた縦と横の数字は完全な「神の意思」を持った数字の群れと言ってもいいものである。そこにあるのは決してランダムな数などではない、そのあたりを逐一順序に沿って調べてみると、そこに間違いなくは大いなる宇宙の意思(神)が存在していることが自然々に解ってくるのである。

真実に目覚めるためのいい機会である、そのあたりを十分に探索・検証し、学んでもらいたい。

そのあたりの一切は次の「八卦の図」の検証仔細あたりを見ながら心と魂で理解すべきである。


「八卦の図」の検証の部より

…『[魔方陣]と「神の法陣」』(bR)より

 

何と、驚くことには、「陰」と「陽」の相である「縦の数列」と「横の数列」はまったく同じ数を示しているではないか…。まさにここには3456の4数が正しい秩序をもって並んで、何かを囁いているのである。

また、この3456のΣ=18であり、本質は0である。その位置関係を見るとそれは「ひふみ数、0123456789」の中央と言うやんごとない位置を占めているのであり、まさに、神の座にある「神の数」の現れであることが判るのである。

 最後に、ここに祝詞「ひふみの天地の数歌」を掲げておくのでそのあたりの様子を見てほしい。すべては「神」の心のまま、自然の真実のままを「数」が知らせているのである。


 
古神道太祝詞 「0 1 2     7 8 9(0)

                      …… 数学幻視考「魔方陣」と「神法陣」(1)、(2)、(3)より

 

ここでよく見てほしい、ここで古神道の天地物語を考えてほしい、するとここに現れたのは神々を生んだとされる中心の神「天の中主の神」である。するとその前に御座する012はカミムスビの神」であり、後ろに鎮座するのは「タカミ結の神」ということになる、本当なのであろうか…。ではその証を示すためにこれら二つの神々を結んでみよう。

012+789Σ=702(神算法) Or 801(計算機) →  →  

おお、何と言うこと…、 この3神は確かに無に還り、身を隠されたことを数は証しているではないか…!!。

 

ここに改めて天地開闢の大神である造化三神が揃い踏みし、次なる神々の九十九神を生み出すことになるのである。もはや、あなたにはお解りであろう、そう、その九十九神とはこの大神太祝詞の後ろにひそかに坐する「ひふみ九九表」の神々であり、そこに坐す陰と陽の対の神々である。 古神道ではこれらの陰陽の対の神々を夫婦(めおと)と捉えてそのように扱っていることからもその真実はわかるであろう。

あらためて考えると、この奥儀祝詞の申すことには嘘偽りなどは一切ないことが判る…!。今まで陽の目を見なかったのは知に疎かったからであり、真実の知に目覚めなかったからである。まさに日本の神々の物語は万々歳であり、弥栄であり、弥栄の限りである……!!!。 あなかしこ…、あなかしこ…!!。
                                 
                          あなかしこ =(ああ、もったいない。ああ、なんと恐れ多いことなのであろうか…!!。)

               3月の記」 以上


古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(3)


                                                           2012年4月 謹んで上載


  「魔方陣」と『神法陣 (ヒフミ法陣)』、 そして『神の易』の秘密を語る (NO2)



 先月(NO1)においては『神の易』の概念とそこにある諸事情について考察を述べかたがた、由緒、初源に至るまでを数字的な展開をもって大披露したのであるが、まあ、今となってはこのような些事的な昔物語も余り耳には入らないであろう。とにかく全世界は大揺れに揺れていて、明日のことさえまったく不透明な感じであり、すべてが切迫し諸事多難と言う状況を示している状態にあるのである。

 しかしである、我々一個人、あるいは儚い老境に入っている者が目を剥いても今更どうなるものでもない、考えてもただ精神的に落ち込むだけである。そのようではお天道様にまことに申し訳ないのであるが…。さらばと言っても、この閉塞状態の世の中を打ち破るような術とて持たず、だからと言ってただ蝉の抜け殻のような状態で残された時間を過ごすには余りにも哀れを覚えるというものである。せめて。金と力はないが、知力だけはまだある、懸命に考えを進めて、とことんまで答えを求めていくというしぶとさだけは、なぜか我々世代には未だ残されているのである。

 一般的には3次の「魔方陣」こそが「易」の各象の出所であり、それは神話である「河図、洛書」に止めを指すものと言われて、最早数千年の年月が流れている。しかし、その間、誰もこの3次の「魔方陣」からは易の各象である「太極」、「両義」、「四象」、「八卦」を順序よく取り出した者はいないのはまことに不思議なことである。ただ有名無実のその言葉の影だけが歴史の中を歩き回り、人々の心をかき回しているだけであり、それにつられて名を為さんとばかり、人々が群がって来て右往左往と騒いでいるだけである。

  そもそも、「易」とは「陰」と「陽」の対立補完により万物の変化の有様を言葉にし、自然の作用を描いたものと言われ、それが数千年の間代々伝承されて現代にいたっているものである。そこにあるのは絶え間ない自然の流れと変化であり万象の移り変わりの姿である。 それはまさに西洋の無機的で機械的な世界観ではなく東洋思想の有機体的な「エコロジカル」な世界観と言うものである。
 また、それは同時に自然と人間に対する自然界の共鳴法則の存在を高らかに歌っているものと言われているものである。
 しかし、よく見るがいい、この「易」を生んだとされる3次の魔方陣にはこれらの言葉の裏付けとなるものは何も無く、ただあるのは横、縦、斜めの加算数が同一数であるという他愛のない姿があるだけである。
 そこには本来あるべき「易」の基本形態などは一切見当らず、その匂いさえも全く無い状態であり、あるのはただ噂だけである。

論より証拠、この数千年間、誰かこの3次の魔方陣から易の基本である「太極」、「両義」、「四象」、「八卦」を引っ張り出した者がいたであろうか、NOである。要するに、すべては単なる風聞であり、数千年前の知の亡霊に惑わされて右往左往している人々の頼りの無い姿があるだけである。
 一体そこにある本当の歴史の真実とは何であろうか……、それを知る者はだれもいない、ただ私と「神の数学」だけを除いて。そこにある真実とはまさに驚天動地のスト−リ−であり、しっかりと古代の史実とその真実の証を伝えてやまないものである。

 
  小賢しい人は言う、確か「易」はその昔、大陸から入ってきたものと…!?。


 小賢(こざか)しい人は言う、確かそれは遥かなる大昔に大陸から入ってきたもの…と、いや実際はまったくの事実誤認であって、まさに無学曲解の甚だしいものと言わなければならないものである。ただ、それに人のいい日本人はまんまと騙され、数千年の間それを信じて来たのである。何と言うことであろうか…!。これから、その真実を明かそう。.ぜひ心を澄ませて慎重に聞いてほしい。
 すべては「数」の語りによるものであり、私も初めて知った驚異の「数の語る真実物語」の歴史的な断片なのである。 まさにこれは真実一路のあくなき歴史の真実をしかとと捉えているものであり、まさに歴史の真実を明かに語る数の雄叫びなのである。
 
 日本の古代文献の記述の中では、「易のすべては遥か遠い太古の時代に日本から大陸に渡ったものであり、それが彼の地で花を咲かせ大成されたものである」と記されている。その確かな明細事情については日本超古代史書の中では伏義、神農が帰朝の折に「易」と「薬学」を共に持ち帰ったものと記してある…。また、それについての真実は古文書「カタカムナ」の発見者である楢崎氏が濾有三老師と交わした会話の中にもあるのである…「大陸の易の思想や薬学漢方とはすべて日本からもたらされたものであり、その後の文化の中で展開されてきたものである…」と。しかし、誰もそれを信じようとはしない。それどころか、これらの古伝書は偽作であると一人の学者が唱えればそれを信じてすべての古代文書を完全に無視し、排斥するだけである。 それが学者としての務めであると信じてやまない姿であり、まさに愚かな行為、幼い行為としか言えないものである。 

 歴史の背景あたりから考えるとどうしても「易」の根元、発祥は日本にあったと考えるべきであり、事実、「数」もそのように語っているのである。その証拠とその実在性を如実に語っているものが日本古神道の太祝詞「ひふみ…天地の数歌」の本体なのである。
 なぜならば、この中には「易」の言う太極、両義、四象、八卦、の諸象のすべてを網羅してもなお余りのあるものがあるからである。
 その証拠に我々は何時でも誰でも自由にそれらを取り出せ検証ができるのである。まさにその説くところは「易」の本質そのものであり、仕組みも「易」とまったく同じと言ってもいいものである。それに反して、中国の「易」の原本である、「河図」や「洛書」から太極、両義、四象、八卦、の諸象は全く姿を見せたことはないのである。

「中国易」の解き方の道具は? ?等の独特の符丁であり、それを陰陽の卦として用いて諸象を説明しているのである。しかし、日本の祝詞「ひふみ…天地の数歌」から現れたものは「数」であり、「数」を用いてすべての象を満足させながら、同時に何人にも判るように簡単明瞭な形と仕組みを開示しているものである私はこれを『神の易』と名付けて日頃学びを教え乞い、修学に明け暮れているのである。その名はまさに「魔」に対する『神』であり、まことに好一対と言うべきものであろう。 

まことに「魔」と「神」は好一対、すなわち偶の仕組みを愛してやまない「神」存在が伺われるものである。

 今ではこの「易」はとうの昔に中国ではすたれ、同じように東洋と西洋のはざまにある日本でも忘れ去られようとしている。
 なぜならば、当たるも八卦、当たらぬのも八卦と言われるように、あまり評判が良くないからである。ただ、面白いことに、どういうわけか、逆に西洋先端物理の世界では「易」は最近になって取り上げられ甦りを果たそうとしているようである。
 なぜならば、これら東洋の神秘思想と先端物理学は極めて深遠な類似性が見られることに西洋の学者達は気づき始めたからである。要するに、東洋の神秘思想と先端物理学の間には一致した美しい哲学的な枠組みを持っていることに気が付き始めたのである。現代物理学が発展し、分子から原子、原子から素粒子へと理論物理が探究の歩を進めるにつれてますます類似性は顕著になってきていると言われているが、これからは果たしてどのような展開になるのかが楽しみである。

 「易」は確かに、独特の文字を持って「天地の理」を説いている、しかし、それは言葉や独特な図象文字の仕組みを擁しながらの説明であり、口頭によるものである。しかし、悲しいことに言葉の類などとはまさにいい加減なもので人によって異なり、時に応じて異なるものである。また、相手次第でどうにでもなり、どうにでも誤魔化せるものである。そこにははっきりした真実を伝える統一的なものは何も無く、人の心によりどうにでもなるのである。だから、解く人により説が入れ替わり、たち代わり生まれ、そして消えていくのである。

しかし「数」だけは別で、常に真実を囁き、真実のみを明かしてくれるものである。しかも、時代や人の心などでは決して動かされず、常に真実を指し示し、決していい加減に動いて心を踏みにじるようなことはないのである。
 その証拠に、現代科学文明下においても「数」は自然を記述するための自然の持つ固有な道具であると信じている数学者は甚だ多いことを知ってほしい。要するに、「数」はそれだけ絶対的な信頼が置けるものであり、自然を説明するためには欠かせない偉大な道具なのである。 知っているであろうか、その最初の人が「万物は数である」と言う有名な文句を残したピタゴラスであることを……。
 私の持つ「神の易」はすべて「数」で置かれて意味を持ち、、「数」で解かれて答となるのである。

しかし、残念なことに、現代科学文明は「数」にはあまり重きを置かず、それは人間の発明したものであり、人間知に従属するものとの認識しかない。したがって人間知以上のものは何も含まないと考え、「数」を調べても何ら意味がなく、無駄であると考えているのである。しかし、ここで人間はとんでもない大きな誤りを犯しているのであが、それには誰も気がついてはいないのである。
 すなわち、人間の発明したものは[数]ではなくそれらを表すための「数字」であり、単なる一つの表意文字に過ぎないと言うことである。現在、我々は「数」と「数字」を混同し、履き違えて得々としているのである。まことに情けない話と言うものである。

そもそも「数意識」、あるいは「数概念」は宇宙意識(神)が宇宙を創造する際に手足となって力を貸し、共に働いたものなのである。それが現代人間知では「数」と呼ばれるものであり、無下なものとして足蹴にされているような状態である。
 それら数を称して、意識学者であるC・G・ユングは「数は原型と共通して意識に先行して存在し、意識を条件づける」と述べ、また、彼は「自然数は原型的な性格をもっているようである。なぜなら数は原型的な組み合わせとともに、ある特殊なあり方で行動する傾向がある」と言っている。とにかく「数」は有機的な意識があり、潜在的な自然知さえも持っているものである。
 ゆえに、それを知って学び取ることにより、我々はたゆまない自然の流れと遥かに広大な自然世界の姿を見出すことが出来るのであるが、残念にも、我々はそれを知らず数を足元に置いてこき使っているだけである。

    敢えてもう一度言いたい、「数」には意識があり、知があるということを……!!。


 そのことを十分に心に置いて、古代日本に起源を持つ本当の「易の姿」、すなわち大元の自然易である「神の易」をひも解いてもらいたい。すべてはそこから始まるのである。では、これから諸氏と共にそれらの「神の心」少し覗いてそれを確かめて見ることにしよう。

 日本4000年来の秘儀、これまで誰も想像し得なかった歴史の秘密を解き明かそう。それは突然この20世紀末に古神道から現れ出て真実を告げ始めているものである。  (貴方は、日本の国の歴史は中国よりも遥かに古いことを知るべきである。日本は1万5000年、中国が1万2000年、中東あたりで8000年である。この数字は当時の遺物から割り出されたものである。)
 
 それは、かつて古代日本から大陸に渡り、彼の地で大成されたと伝えられている「易」と「魔方陣」の素性とその秘密である。それが、奇しくももこの20世紀末に古神道の中から這い出して来て、懸命に何事かを我々に告げようとしているのである。

また、時を同じくして、古神道の中から失われて幾久しいとされる「カムナガラの道」の本璽言葉やその内容さえも「神の数学」により明らかにされたのであり、それにより日本神道は単なる宗教の類ではなく、遥か超古代に存在した超科学・超哲学を封じ込めた「タイムカプセル」とも言うべき存在であったことが今ここに来て判り始めているのである。
 世の中は、この事実を知って大いにどよめくであろう。大笑いするか、それとも非常識な妄想であるとか、非科学的な戯言とかの非難がごうごうと上がるかも知れない。しかしその反論等は、ぜひこの「神の数学」という大いなる資料を一見し、すべてを精査した上で、嘘とか偽りであるとかの確実な証を改めて見出し、それを天下に示してからにしてもらいたい。




  



  〔太極図の説明〕

 この太極図の持つ絶対本質の姿は常に0である。そのあたりを見て見よう。

  @横列の数のΣ(総和)は常に0である。

  A縦列の数のΣは常に0である。

  B上記の円の真下の数のΣは0である。また、マスを一ヶづつ移動した同心円の真下にある数のΣもすべて0である。

  C図を構成している相似形の枠を見るがよい、すべての枠内の数のΣは9の倍数であり、0である。

  Dこの太極図の二つの対角線下の数のΣも0である。

  Eこの全体の数のΣも当然0である。


  F中心点からのトイ面、すなわち、すべての対称位置にある二つの数のΣは9であり、0である。総数は50セットである。


 これはまさに、現代宇宙物理学が唱えている宇宙の本質は0であるを証明する何よりの「数の調べ」であり、自然の真理を歌いあげてやまないものである。その事実を数はいみじくも語り上げ証言しているのである。一方、結論としては宇宙の本質が0であることには間違いないのであるが、その理由、どうしてそうなるのかは解らないと言っている。それが現代宇宙論なのである。

 もうお解りであろう、すべては『太極』から始まった「陰」と「陽」の分極こそが「易」の動きであり、「陰」と「陽」の変化により自然万象の開花が始まり、次々と万展変化してまた最後には究極に還る、それが自然のあくなき動きであり、元化なのである。




   

 

 〔両義の説明〕…

(○)=0123456780、 陽(●)=0876543210であり、それを結び加算すると…

○+●=0999999990 → 0000000000、すなわち、「陰」と「陽」の場を折り重ねて合一すると0になり、無、空、になるということである。「陰」と「陽」、それらはもともと、お互いに強い力で引き合い、合一しょうとしている性質を持つのである。それはまさに、天然磁石のようにである。なぜ、そうなるかは、現代科学にも未だ答は無い。 要するに、0の本質は、分かれてもしっかり継続保存されているのである。

 また、よく見るがいい、ここには陰(○)と陽(●)の確たる性質の違い、そのあるべき本質の違いがはっきりと描かれているではないか…!。すなわち、それは数による正と逆の流れが示す完全な「正」「逆」の本質関係の表れであり、まさにこれは歴史上の一大証言と言うものである。今までは陰と陽の関係とは天と地、男と女、昼と夜、のようにお互いが対立する属性と考え、その二つはお互いに対立消長しながら流転変化していくと考えられてきたのである。
 しかし、実際はこのように流れ方の正反、向きの正反こそが「陰」と「陽」の本質であることが誰にでも解るのである。
 これらの本義を当てはめながら、改めて「自然の数計算」を行って見ると、我々の持つ「10進法計算式」には大いなる誤りがありことが解るのである。要するに、「10進法と言う計算方式」は自然に沿ったものではなく、完全に自然を無視したものであることがハッキリ解るのである。面白半分でもいい、数学の好きな方はぜひそのあたりを考察しながら、改めて検算して見てみることをお勧めしたい。 <それら計算法の詳細は「神の法陣」上級講座No6、7、8、9、を参照のこと>


  
  

 〔四象の説明〕                                    

 これらの四象を再び、真ん中より分断して、再びこぼれ落ちた数を加算する。するとそこには見事な八卦の象が現れて数をもって
語り始めるのである。見るがいい、○○と●●を折り重ねると縦の数も、横の数もすべてが9となり、0になるではないか…。また、○●と●○も同様にであり、二つを折り重ねるとすべてが9になり、0になるのである。そこにある意味とは一体何であろうか……?!。
 
 これらは確かに『易』で言う「陰」と「陽」による天地の象の現れ、すなわち、言葉通りの「陰」と「陽」の確かな象であり、自然的にもまったく乱れのない秩序を持つ真実物語なのであるが、その意味するところは今のところ誰にも解らないのである。
 誰でもいい、誰にでも解るように素直な言葉、すなわち、知識人や宗教家達の知ったかぶりの言葉などではなく、もっとやさしい誰にでも理解出来る言葉で説明してくれる人はいないであろうか…?!。 とにかく、これは生きとし生けるもののすべてのものに関係するものである。いや、そうではなく、ひよっとすると自然の創り上げた森羅万象すべてに通じるものと言えるかも知れないものである。
 よく見るがいい、これら四象にある毅然たる数の流れを…!。すべては流れ流れて見事な循環の姿、すなわち、0123456780
と言う「ひふみ…天地の数歌」の姿であり、大循環も小循環もすべてにわたって同じ歌を歌ってやまない驚くべき姿である。
 すべてはまさに自然の歌であり、大、小の天地をめぐって流れてやまない見事な自然の賛歌とも言うべきものであろう。

 さあ、もうここまで仕組みの方法とその意味するところを説いたのであるから、このあとについてはあなたがたは自分の手と頭を使って自在に展開し、これから先の「陰陽八卦」の存在とその仕組みを目と心をフルに利用して作り上げてもらいたい。 それがすなわち、万事納得と了解につながり、生涯の心の安堵に結つくことになるものである。
すべては自然の心なのであり、それが我々の心に響いて安堵となり、心が落ち着き、寛裕となるのである。

私がこれ以上説明や図を掲げなくても、もはや、あなた方は十分に出来るはずである。

                           just see→参考リンクはこちら → http://hifumi.busidou.jp/190/m-02.html(メ−ル97)




 最後に一つだけ覚えていてもらいたい、すなわち○+●=◎であり、○は「陰」、●は「陽」であり、○+●、すなわち、陰陽を合一すると◎になるということである。○○+●●=◎◎であり、○●+●○=◎◎であり、まったく同様なものとなるのである。

 また、これを言葉で言うとなれば、○は凹の象であり、●は凸の象の状態である。それら二つがピッタリと嵌合することによってすべては「無」になり、「空」になり、「完全無欠」となって無妄へと昇華して最初、すなわち諸元に戻ることになるのである。それが元化(げんか)という自然の流れの姿なのである。        <○+●=◎についての詳細説明は「宇宙次元原理表27」参照のこと

 すなわち、それが◎の象の表す「真実の表れと言う姿」であり、至上、無垢、完全完成、究極等の姿につながるものである。そこからさらに天上界、極楽浄土、涅槃、などの仏教的な極上の姿を表す言葉を人間は生み出し、最高の姿として人々はわが身に求めようと懸命に努力し、心を修めようとして来たのである。      <関係資料は「真実の数理」bT、宇宙次元原理表27、参照> 

判らないと言うなかれ、知恵の限りをしぼって考えてほしい。時間はいくらでもあるではないか…。死ぬまでにゆっくり考え、往生の間際までに答が出ればそれでいいのである。それが心に安堵を与え極楽浄土往生への免罪符となり、一切の因果や未練を断ち切って心を空白にしてくれるものなのである。

あなた方の認識では現代人とは遥か時代を超えた最高水準の学に生きていると自負し、常日頃そのように思い、豪語してやまないのである。もしそうであるならば、この「易」の持つ数千年の壁を見事越えて見て見るがよい。もし、越えられなければ、この数千年の間の一切の心の進歩、魂の向上発展などは無かったと言うことであり、哲学的な思索やそれに付随する悟り等ははすべて無駄なものであり、まったく収穫は無かったと言えるのである。何とすべては瓦解と帰してしまうのである。まさに哀れなるかなである…!!。

さあ、懸命に考えて答を出してほしい…!!。

 最早、我々には学者や専門家の出す結論等を待っている時間などは無いのである。いくら人間の本質を問おうとしても、そこには認識の原点となるもの、その主観的存在となるものは何も見当たらないのであり、相変わらず数千年前と同じ状態にあるのである。

また、長年かけて培って来た宗教、哲学等の中にも答となるようなものは一切無く、ただ無味乾燥な言葉が漠然と並んでいるだけである。そこにはただ、レトリックな言葉がうわべを飾って人々を惑わしているだけであり、空念仏的な言葉の姿があるだけである。

一体我々は何者であり、何処からきて何処に行こうとしているのか、そしてその目的は何なのか…。一切は未だ流れ流れてやまない混沌とした闇の中であり、未だ暗中模索の最中なのである。恐らくこのままでは100年経っても、200年経っても同じ状態であろう。

 もし、あなた方がもっと科学的な説明をと言うならば、○は意識であり●は物質と考えてもいいであろう。すなわち、それが人間知の行きついた二元の世界と言う究極の世界観であると考えるならばである。
 よって、これを現代の言葉、科学上の言葉を用いて表わすならば、○+●=◎となるのである。ただし、この◎の意味する言葉は今の人間知には無い。要するに今の人間知の段階では説明不能と言うことである。
 しかし、この◎は一体何を意味するものであり、何を示唆するものなのであろうか。それをまずは解き明かさなければならない。まさに、やさしくて難しい問題であり、まだ、誰も考えたことは無い遥かなる「哲学上の思考」と言ってもいいものである。

さあ、それが大きな人間知上の問題である。一体それは何を表そうとしているのであろうか……!?。

学者だけでは手不足である、どの路地にも市井の学者がいる、町には哲学者がいるし、近所には坊さんも裸足と言う宗教家達も大勢いるではないか、皆で考えよう…!。まさにこれは相手にとって不足ない人類至高の問題であり、「神」の心の探索、自然の行きつく果ての姿と言うものであろう。    <この答となるものは「真実の数理」(5)にある、参照してほしい


 私の認識では、確か先端物理学の語る本当のあるべき自然の姿とは2元の世界、すなわち、「意識(見えない世界)」「物質(見える世界)」の二つの存在が並立して完全無欠な真実世界を創り上げていると言うことである。すなわち、その二つの世界の相互相関的な仕組みにより至った究極の世界、それが、調和と秩序、そして満足、充実、完成、に至った姿、すなわち、◎の姿である。すなわち、すべては達成されて、もはやそこには一切の欲望や願望はなく、全く未練の無い「無碍の世界」、「涅槃の世界」と言う究極の存在、それが◎の表す極致であり、もしそれを形で表すならば完全無窮で限りない至高の超球体、ホ−リ−・スファイヤ―とも言うべきものであろう。

さて、従来の「易」の本性を追いかけて,旧来の知を改めて探し出すのはあなたがたに任すことにして、ここでは「神の易」の語る素晴らしい、未来の学を追いかけてみよう。我々がそれを完全に理解するのは今の時点ではまだまだ無理かも知れない、しかし、いつかは未来の学者達がその答えを見出し、教えてくれるであろう。今はただ、それを期待するだけである。



    『神の易』の語る未来の学とは……!!!。

 さあ、勇を鼓して「数」の語る「神のみぞ知る真実世界」を垣間見ようではないか、その上で共にそれを検証して見よう…。その結果如何により、やはり、「神の真実」とは易で言う八卦の世界あたりに留めておくべきか、それとも考えを新たにして次のステップまで昇り、あるべき真実を求めるべきなのか、その結論を出さなければならないのである。その真実とは直感的の度合いが深い方には判り、感じの鈍い人には何もわからないものである。ハッキリいえば、本当に心を開いている者にとっては簡単なものであり、直感的に心に響いて論を待たずに納得のいくものと言うものである。お解りかな…!!。

上述した図はすなわち、古神道から現われた「神の易」の概念図であり、その「神の易」を旧来の易手法をもって解き、「太極」、「両義」、「四象」の各象に至ったものである。これらは自然の姿を模している「仕組み図」と言われて来たものである。この後はあなた方がよく知っている「八卦」に至るものであり、自然を八っの象に分類してその変化の状態を表すものと言われているものである。そのあたりの概略については前回の『神の易』の秘密を語る(No1)をもう一度読んで考えてもらいたい。その上で各自独自の思考を巡らせて、改めて「易の語る図」を調査検証してもらいたいと思う。  <詳細は「魔方陣」と「神の方陣」No @、A、Bを参照してほしい


  〔「神の易」の一つの語りの例を見てみよう、すべては数が語り明らかにしているものである〕

【両義より】 

+A=○○+●●=(1次元折り<1回折り重ねて>)=横(01234+08765=09999→00000)

                                     縦(01234+08765=09999→00000)

A +C=○●+●○=(1次元折り<1回折り重ねて>)横(56780+43210=99990→00000)

                                     縦(08765+01234=09999→00000)

                        (ここ両義には「ふみ九九算」の最上位置にある00000…が現われている

【四象より】

@ +C=《2次元折り<2回折り重ねて>》=横(01234+01234=02468)

                                  縦(01234+01234=02468) 

+B=《2次元折り<2回折り重ねて>》=横(08765+08765=07531)

                              縦(08765+08765=07531)

                (ここ四象には「ひふみ九九算」の3番目の位置にある0246813570…が現われている)

すると次の【八卦】には一体どのような「ひふみ九九算」の数列が現われてくるのであろうか…!!。

 知にうずく者は確かめるがよい、それによってまた誰も知らない新たな知の回廊が一つ現われてくるはずである。

 

一体、ここには何が語られ、何を示そうとしているんであろうか、じっくり考えてほしい。

 さあ、これ以上の「古代易」にまつわる真実の探究は諸氏に任せて、一つ現代科学に沿った線で話を進めていこうではないか。
科学に沿ってこれらの「易」を展開すると一体何が見えてくるのであろうか……、?!。

  そのヒントとなるものは中学の教科書に載っている、いわゆる生体の細胞分裂の話なのである。

ここに一つの親細胞があり、それが真ん中からくびれて分裂し、二つになり、それらがまた同じ状態を呈して二つが四つになり、更に八ヶから一六ヶとなる。 その後更に分裂が進んで最後には一体の成体となる。それが自然が作り上げた生命体の荘厳な仕組みの姿なのである。ここまでの仕組みは何も不思議はない、ただ倍々と算術級数的に増える姿があるだけである。

しかし、それと重なって行われる染色体の仕組みにはただ驚かされるだけである。何故ならば、細胞が二つに分裂されると同時にその本質であるDNAはすでに分割された半分の姿から分裂前の完全完成の姿に戻り、すべての機能を全うしていると言うからである。
 要するに、分裂により半分に分割されたはずの染色体の姿がいつの間にか復元されて以前とまったく同様な姿で中心に鎮座しているのである。まさに不思議極まりないものと言えよう。それも親細胞と全く変わらない完全な姿そのままの状態にてである。細胞の数が2ヶになっても、4ヶになっても、8ヶになってもそれは相変わらず本質は同じ完全な姿に復元された状態となって機能を発揮しているのである。すなわち、どんどん分割していっても、常に本質であるDNAは完全な形で転写され正しい形のまま受け継がれていると言うことである。人間の場合は受精卵1ヶから始まり、最後には60億ヶまで分裂が続き大きく増えて成体となるのである。しかも、すべての各細胞には最初の母細胞と全く同じDNAがしっかり納まっていて未来永劫を見つめながら、変わらぬ形で秩序を保ちながら機能しているのである。その姿はまさに神業であり、奇跡としか呼べないものである…!。

 それはまさに「神の易」の本領発揮と言わざるをえない。なぜなら、「神の易」を二つに引き裂いても、更に四つに裂き、また八ヶに裂いても常に本質は変わらず同じ0の姿になって「神秘の姿」を引き継いでやまないからである。
 要するに、大元の「太極」の本質は0であり、その0の本質は不思議な数のアヤを伴いながら「両義」、「四象」、「八卦」……と引き継がれてすべてにわたり0の本質の揃い踏みを行っているということである。

 要するに、そこにある「個」と「全体」、すなわちすべての構成要素は常に調和を保ち合う自己調和という形で何処までもつながっているのである。もっとはっきり言えば、「それぞれの中にすべてがあり、すべての中にそれぞれがある」と言える関係、それを司っているのがDNAの自己製造システムであり、自分自身の本質を自動的に複製する不可思議なプログラムの存在なのである。

もっとはっきり言えば、この「神の易」の図は『生命の鋳型』、すなわち、生命の基本構造の存在を語る唯一無二の「神の作品」であり、「永遠の金字塔」とも言うべきものである。

確かにこの「神の易」の天啓図は尋常一様なものではなく、まさに「神の設計図」と言うものであろう。

ではそのあたりをもう少し深く考えて見よう、これ、すなわち「神の易」は生命の鋳型を語るものと考えるなら、またそれをもっと大きく膨らませて宇宙にまで広げて見るのである…!!。
 すなわち、大風呂敷的にこれは大宇宙全体の基本構造を示すものであると考えるのである。それにより、ひょっとすると大宇宙の構造のあり方、いや宇宙の起源、誕生さえも解き明かしてくれることになるかも知れないのである。現在の宇宙論のビックバン理論や定常宇宙論等は現段階では単なる仮説にすぎないとされ、それらを否定する新しい宇宙論が続々と誕生している現在である。

要するに、古神道においては宇宙自体も細胞と同じように二つに分裂し二つの宇宙が生まれ、それが2転、3転と分裂しながら進化発展していくと語っているのである。そのようにして宇宙自体はどんどん大きくなり、拡大進化して極限にまで進むと言うことである。

 何をほざくかと言われるかもしれない、しかし、初期の宇宙論の中にはそのような理論があったような気がするのであるが、それとも寄る年波のせいで私の記憶違いなのであろうか…?!。

 これは「神の易」が囁く宇宙論であり、「数」の物語る宇宙の創生物語と言えるものである。あまり眉唾ものとは思わないでほしい。なぜなら、現在、宇宙論は数多くあってそのどれもが一長一短であり、いろいろな物議をかもし未だ結論は何も出てはいないからである。その中には、次のような極めて有機的で,かつ、意図的な形で進化を図っているような宇宙論も存在しているのもご存知であろうか。

 (1)電子に例えると一つの電子が二つに分かれるように一つの宇宙が分離して次々に宇宙が生まれると言うベビ−・ユニバー論で    あり、現在、宇宙物理学の大家であるステイ−ブン・ホ−キングが相対的量子論から導き出したものである。

 (2)また、チャイルドユニバース論は、宇宙物理学者である佐藤勝彦氏が相対論から導き出したインフレーション理論によるもの     で、マザーユニバースがまずあって、そこから別のチャイルドユニバースが次々と芽を出し、生まれるというものである。この芽     を称して「アインシュタイン・ロゼン・ブリッジ」と呼んでいるのである。

 これらに比べても「神の易」が囁く宇宙論は何ら遜色のないものであることがわかるであろう。いや、もっと自然的にはあり得るものかも知れない…!!!。

あなた方は御存じであろうか、現在、宇宙と言う極大の世界に関する研究と素粒子と言う極微の世界の研究は完全につながってしまっていることを…。この意味はまさに大きい、すなわち、極大の世界と極小の世界は構造的には相似関係にあると言うことである。

 
恐らく、構造的には「大きいもの」も「小さいもの」も同じと言うことかも知れないのである。それは、まさに西洋の諺にある「天が下にあるものは、すべて天が上の写しである」のようにである。要するに自然のすべては相似の仕組みによって造られ、形こそ異なるが本質はまったく同じ関係であるといみじくも言っているのである。

しっかり読み込み、再三再四の反芻検証を行ってほしい、それによりまだまだ新たな世界が開けて、あなたをさらなる夢幻の世界へといざなっていくはずであるから…。

常に好奇心と希望は失わずに進んでほしい。好奇心と希望、それは人間の持つ最高の「神からの贈り物」である。それらが失われた時は人生終わりの時であり、心の力が完全に失われて希望が消えた時に初めて敗北を告げればいいのである。

                以上


 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(4)

                                                           2012年5月 謹んで上載



古神道の魂である双祝詞「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音」の秘密を探る

                (その1)


 これから古神道の本義を見るのであるが、その前にまずは過去の私の講義の中に今回の本旨と大変関係があるものがあるので、まずはそちらを披露し、もう一度その意味を噛みしめながら、改めて古代日本に存在した天授の叡智の姿を見てもらいたい。

 それは「太古神道の秘密(その3)の中の≪祝詞の本当の姿とその本性を見る(その1)≫」である。

 その内容は今回の「アイウエオの秘密」と大変深い関係があるのでもう一度おさらいの意味で読んでもらいたい。少々古い記事ではあるが私にとっては甚だ含蓄を含んでいる懐かしい思い出の記事である。

 

   以下、再掲文である(部分的には加筆や訂正が加えられているところもあり)

 

恐るべき言葉、それは古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」であり、「アイウエオ五十音図」である。この言葉を戯言(ざれごと)ととるか、はたまた真実的な意味合いを天与の福音と考えるかのより、これからの日本の将来、あるいは現代文明の行く末を決定するものである。それらはまさに「天啓の叡智」と言うべきものであり、「神の言葉」と言っても決して過言ではないはずである。

 それだけの内容は十分にあるものであり、再考するには十分に値するものである。。

 「神道」、それは最早忘れられ、滅びんとする日本の宗教ではあるが、その出来(しゅつらい)全く不明である。今まで様々な説や、解説が取り沙汰されてはいるが決定的なものとてない。本章はそのあたりの真実とその根拠等を改めて現代の観点からしっかり見つめ、そこにある本義を探ろうとするものである。人々は恐らく、言うであろう、「神懸かり的なものである」、「人間業ではない」と…。
 でもいいではないか、今までの何も解らない神道関係者の本性探索よりも一歩でも二歩でも真実に近づけるならば…。

遥かなる古代の秘儀であった「神々の真実言葉」の存在は今では失われてあまり知る人とていない、その中でも最高の権威と内容を持っていたのが双幅の祝詞である「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音図」の二つなのである。要するに、遥か、太古の昔にその二つは双対の祝詞として恭しく神々に奏納されていたのであるが、今ではその由来はもとより、意義内容さえも失われて無い。

 それら二つの祝詞が「陰」と「陽」の形で絡み合い、結び合って「天地の真理」を開示し、アルゴリズム的な形式を持ってそこにある内容仔細を伝えていたのである。しかし、ある時日本を揺るがす大変事が起こり、すべては大いなる時のはざまに失われ、忘れ去られてしまったのである。そのあたりの仔細は一切歴史書には語られてはいない、ただ歴史年表には空白があるだけである。

 その突然の大事件の勃発により日本古来の文明を担ってきた者達の大部分は殺戮惨殺され、あらゆる文明文物、文明遺産等は廃棄され、あるいは火中に投じられてすべては終わりを告げたのである。それが原因で歴史は縄文時代から一気に弥生時代に変わっていったと言うのが事実である。

 要するに、それは日本が大陸よりの侵略者達により完全占拠されたと言う驚くべき事実の存在である。あなた達はそのような歴史は聞いたことがない、単なる絵空事であるとか、想像による架空の物語であるとかのたまい、決して信じることはないであろう。

しかし次の参考事例を見ると恐らくその考えはひるんで、考え込んでしまうであろう。                                    

  @   ここに一つの報告書がある、ある調査(産経新聞)によれば 、弥生人と中国揚子江下流で発見された人骨の遺伝子が完全    に一致したとある。また、現在の日本人の70%以上が弥生人であり、残りがその他の人種(南方系、朝鮮系、純日本民族)であ    ると報じている。すると。恐らく、現代の日本では在来純日本民族系は数%という僅かなものになるであろう。

 

A   縄文晩期(紀元前200年あたり、始皇帝が帝国を打ち立てたころ)には日本の人口は7万5千人くらいであり、それが7世紀には450万人以上になったのである。それは単なる自然人口増加では説明が出来ないのであり、そのためには150万人以上の大陸からの渡来者があったと考える必要がある。すなわち、そこには単純比例でも縄文人直系と渡来人と差は1:9となり、当時のすざましい迫害の様相が浮き彫りにされるのである。……「日本の歴史」佐々木高明著より

 

B   自然人類学の埴原和朗氏(東大教授)の調査研究によると「紀元前300年から紀元後700年までの1000年間の日本の人口増加は世界のどの民族に比べても異常に高く、自然増加だけでは説明がつかず、海外からの渡航者と言う要素を考えざるを得ないと言う。その比率は在来人に対して渡来人が25、少なく見積もっても1:9という完全に逆転した数字になり、当時ものすごい勢いで日本列島に戦乱難民、敗残兵達が流れ込んでいたと推測される。  <この資料は「科学朝日」1988年2月号より>

 

C   日本列島に押し寄せた侵略人とその子孫は縄文人を駆逐することに専念した。その事情史あたりが「日本書紀」にある内容であり侵略者達の日本征服と先住民である縄文人の駆逐の事情を記したものである。それが現在では日本の正当な歴史物語資料として大手を振ってまかり通っているのである。何と言うこと…!!。<間違いだらけの歴史教科書「秘められたる日本古代史」…斉藤忠著より>

 

何と、日本の本当の古代史については我々と同様に歴史専門家達も見事なくらい何も知らないのであり、侵略者達、支配者達が作り上げた歴史を我々は正統な歴史と誰もが信じて懸命に学んで来たのである。そのあたりから判断すると古代歴史より更に古い時代に発生した古神道については誰も全く知らないし、語ることも出来ないのと言うことは誰でも容易に想像できるであろう。

 
 当時の大陸の状況を申し上げよう。始皇帝の帝国建立の際(BC220)に数千万人の人々や敗残兵達が命からがら国外に脱出を図ったと推測される。なぜなら始皇帝は異蛮の王であり、生粋の中国人ではなかったからである。それだけ敗残兵には厳しく、容赦は一切せず、ただ殺掠殲滅し、あるいは領土から遠くに追い払い、戻ることは決して許さなかったのである。

それに恐れをなした人民や戦いに敗れた将軍や兵士たちは一族郎党引き連れて国外に逃れようと必死なったことは容易に想像ができる。なぜなら、当時の処罰は厳しくて捕まれば当人ばかりではなく、一族郎党はもとより血族関係の者まですべて殺されたからである。いや、そればかりか、住んでいた家屋は打ち壊され、先祖の墳墓のすべてが掘りあばかれ捨て去られたというのである。とにかく前政権のものは何も残さず完全否定することにより後患を絶つ、それが代々続くしきたりであったのである。

また、あなた方は数千万人の人口の減少とは大げさと思うかも知れない、しかし、歴史書を見ればすべてがうなずけるものである。

例えば、

前漢末の紀元2年当時、5,959万人であった人口が後漢の初期の57年には2100万人まで減少したのであり、僅か50年くらいの間には4000万近い人口が失われてしまったのである。

 

後漢の最盛期であったDC156年における漢民族の人口は5000万人以上であったがその後、後漢が滅びた頃(220年〜240年)の人口は一割強の763万人に激減している。僅かの間に4300万人の人口が失われてしまったのである。

 

このような人口の大減少がその後の晋、隋、唐、宋の各王朝が交代する度に同じように起こっていたことを知るべきである。    <これらの資料は「中国4000年の真実」杉山徹宗著より>

 

この数字に誇張があるとは思わないでほしい。あなた方は最早忘れてしまったのであろうか。最近起こった文革では数千万、天安門事件では数百万人の人々が虐殺されていることを…!。疑問のある者は当時の新聞を調べるがよい、今のインタ−ネットからは数字はすべて消されている、しかし、大きな図書館に行って当時の新聞を調べればすぐに解ることである】。

 

さあ、一方当時の日本の状況はと言うと、その遥か昔から大陸人にとっては最大の憧れの国、すなわち、神仙の住む国、長寿の国として名を馳せていた憧憬の国であったのである。そのあたりについては彼の秦の始皇帝の時代以前から神々の住む国、文明尺度の高い国、極楽世界の夢のような国としてあまたの人に知られ、その臣下の徐福が護衛も連れずに童子数千名を手土産代りに日本に来ていることからも十分に察することが出来るであろう。

現存している当時の古代文書を見ると日本礼賛の言葉だらけ、すなわち「神仙のように長寿で、百余歳の者甚だ多し、天性従順にして治めるを道をもってなす…」とまである。<漢書の倭人伝より>

要するに、日本がそのような素晴らしい国であるとの噂が広まっていたということは、すなわち、国を追われた将軍一族、敗残兵達が一路海を越えて日本に続々と向かったことが容易に推察できる。
 なぜならば、大陸から海流(黒潮)に乗りさえすれば自然に日本に流れ着くからである。たとえ半分は失敗し、海の藻屑と消えたとしても長い間には数百万人くらいは十分に来ていたと考えるべきである。

 確かに彼らは生死を乗り越えて来た分、気性は荒く略奪、暴行、殺戮はお手のものであり、在来縄文人からすべてを奪い、殺戮の限りをつくし日本を奪ったのは間違いないことであろう。

この日本占領は単なる推理ではなく、しっかり、古代文献には記されているものである。そこには「神武即位から566年、天皇は新都である三輪を侵略軍達に明け渡し、巻向川北岸の穴師に移られた。しかし、侵略軍は支那や韓国から大勢の学者を呼び寄せ、漢字を知らない万民を奴隷の奴とした。役人たちは遊び、贅沢三昧に暮らしていたので食料が不足した。そこで侵略者達は国中を荒らしまわり、出雲に神宝を求め、吉備から出雲の東に進軍するなどの横暴を極めた。かれら侵略軍の皇都占領で、これまでの平和な日本の縄文文化が弥生文化に大革命されたのである」と……。…<神代の万国史より>
 

 あなた方もこれでお判りであろう、なぜ明治時代以来、国家権力により古代文献が迫害され、御用学者によって偽書扱いにされ決して陽の目を見ることが無かったのかを、要するに今までに日本が外国勢力により完全占領されたことを歴史家達は知ってはいるが、言ってはならず、自分の身可愛さに口を閉じていただけなのである。本当の歴史とは記述されていること(+)以外にその背面にある(−)の部分も透かして読まなければ真実の歴史を知ることは出来ないのである。なぜなら、歴史を作り上げた為政者達は自分達に不利になるようなことは一切記載せず、すべてを切り捨てていたからである。現在の日本や中国の歴史的な正史とはそのようなものであることは誰も否定できないものである。

歴史家達は恐らく、知ってはいるであろう、しかし、言うことも叶わず、ただ不明、空白としての歴史を展開して誤魔化しているだけである。それが歴史年表の空白の姿であり、謎の空白史と言われている三〜四世紀あたりの130年間の姿である。そこには余程のことが有ったことが歴代の天皇在籍年数からも伺われるはずである。空白とは何ごともなかったと言うことでは決してない。

年表を見るとそれまでの天皇の在籍年数は平均60年くらいと長かったのであるが、突然、どう言う訳か一気に一ケタ代の在籍、すなわち、僅かの5,6年くらいで代替わりしているのである。それも七、八代にわたって続いたのである。
 興味のある方は調べるがよい、それは17代の履中天皇(在位6年)に始まる25代の武烈天皇(在位9年)あたりである。
 一体4世紀あたり(AD250〜400年)に日本では何が起こり、何があったのであろうか…??。

 

考えて見るがいい、今まででは日本は神国であり、決して他の国に侵略され占拠されたなどの事実はあってはならなかった、それが国の基本的な認識方針であったのである。それゆえに、事実を記しているような古代文献等は国や御用学者によってすべて切り捨てられ、迫害されたのである。歴史の裏にはこれら語られない真実の存在があることをしっかり覚えていてほしい、なぜなら行方不明とされる神道言葉とこのことは大いに関係があるからである。神道関係の書にはただ行方不明になったとだけ記されているだけである。

 

さあ、このあたりで私流の歴史の基礎講座は完了しそろそろ本題に入ろう。  

 

なんせ本当の歴史がハッキリ解らなければ古神道のあるべき由来、その本分本性、その姿も解らないのである。

 

今となっては解き明かす術もない、すべては数千年という時の闇に埋もれて歴史からは完全に消えてしまった存在なのである。なんせ、当事者である神官や長年携わってきた神道研究家さえも完全にお手上げ状態で、ただ閑居してただ時を過ごしていただけである。その報いが来て、現在、神道は完全に国民から見放され危機的状態にあって完全な窒息状態に陥っているのは誰の目にも明らかである。このままでは恐らくあと数十年の命であろう。

それもこれもすべては歴史を改ざんし、偽ってきたことが原因であり、本当の歴史を掲げてこなかったことが原因と考えられる。すべては解らない、行き方知らずの言葉で終わらした結果が今を招いていると言ってもいいであろう。

 今となっては、すべてを初めに戻し、改めて初心に立ち返り一から調べ直すことが必要なのである。それがすなわち、神道の事始めとして、その最初に述べられる奥儀祝詞、あるいは太祝詞と言われている「ひふみ…天地の数歌」をもう一度改めて見直すことが必要と言うことである。

そこにあるのは余りにも平平凡凡であり、稚児的なものとして誰も顧みることもなかった「ひふみ…天地の数歌」であるが、すべてはそこから始め、その端緒から始まる委細合切のすべてを調査しなければならないと言うことである。
 とにかく、一旦初心に立ち返って考えて見ることが必要なのである。すべては最も簡単な言葉である「ひふみ…天地の数歌」の中に人知れず隠され、人々の目から逃れていたのである。西洋の諺にもあるではないか、「ものを隠すなら、もっとも簡単なもの、ありふれたものの中に隠せ」と…。

 

そもそも、「神の数学」とは「ひふみ…天地の数歌」、すなわち、123456789のたった九文字から成り立つ「数のぺ−ジエント」を詳しく検証することにより見出されたものであり、その並びによりすべての「天の理」が開花され、循環的に推移していくことを限りない形で歌っているものである。驚くべきことは、たったこの九文字の中には「宇宙」、「神」、「天地」の真理がしっかり込められていることであり、それをゆくりなく語っているものが、この古神道の太祝詞「ひふみ…天地の数歌」なのである。

 

この九文字こそは「神」の化身、分身とも言うべきものであるが、それを知らずただ単なる「数字」、大小を表すものとして用いて無限なる「大の世界」を目指して走り出したものが「10進法」、すなわち、「現代数学」の基幹をなす「10進法」と言う計算法なのである。
 
 また、同じようにこの九文字を用いて「小の世界」を尋ね、妙なる自然の意識(神) を見出そうと努めたのが、我々の祖である縄文人達であり、その知なのである。一方は無限の開いた世界、すなわち物質的自然世界の解明を目指し、他方は有限の閉じた世界、すなわち自然的意識の世界の探究に乗り出したということである。

 欲に駆られた人類達の大方は無限を目指す「10進法」に走り、その結果として「10進法」を基盤とする現代文明が花開したのであるが、その挙句に自然との対立が生まれ、その結果、今の文明は崩壊寸前の姿となったのである。要するに、自然との歩調が合わず対立をもたらした「10進法」は自然に合う計算法ではなく、自然の心を読むことが出来なかったということである。

 一方、我々日本人の祖達、すなわち、自然の語り数「ひふみ…天地の数歌」をもって「小の世界」を尋ねようとした者達は欲の学である「10進法」に追われて自然的に消滅の一途をたどり、最後にはそのすべてを古神道に託して将来に残そうと図ったのである。それがすなわち、「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音図」の双対の祝詞なのである。

 

今はすっかり忘れられてしまったが、本来、祝詞とはすべて「陰」と「陽」と言う双対関係を持っているものであり、その二つがそれぞれが絡み合い、対応し合って深い意味(真理)を歌い上げていくものなのである。その事実が今まではすっかり忘れられて顧みる人もいないありさまであり、それらすべてはある事情、すなわち、上記の日本国大乱によって完全に失われてしまったのである。
 この二つ、すなわち、「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音図」と言う双対の姿の存在こそ本来のあるべき姿であり、そのまま鍵と錠の関係で次々と遷移し、「神の真理」を朗々と歌い上げていくものなのである。要するに、これら二つを合わせ用いない限りそこに封じられている「神の秘密」は決して陽の目を見ることはないと言うことである。

 そこにあるのは「ひふみ…」と「数」によるコラボ的な数の証言であり、単純明快でありながら、確かな答の姿である。それはまさに「神の息吹」であり、やんごとない「神の言葉」と言っていいものである。恐らく、あなた方も、余りのことにただ呆然とするだけであろう。

<ここにあるコラボ的な数の証言とはこの二つが同一的な韻を踏みながら流れるような形で循環を繰り返していることである。冒頭の方で「アルゴリズム的な数の流れ」と述べたがここでそれを訂正して「コラボ的な数の証言」としたい。その方が現代風であり、理解出来やすいはずと思われるからである。>


 それは私ばかりではない、たしか言語学の権威である山田孝雄博士はその書の中でこのように述べている、「『アイウエオ五十音図』は宇宙間の音韻の根本原理を示すものであり、まさしく神授のものと言えるものである。このような図表を作り上げた我ら祖先の偉大なる頭脳を驚嘆せずにはいられない」と…。 これにはまったく同感であり、諸手を挙げて同意したい。

 本来、そこにあったのは山田孝雄博士の指摘にある通りの偉大なる「宇宙間の音律の根本原理」であり、世界に並ぶものない「自然知の叡智」の姿なのである。驚くなかれ、それは遥か遠い先史時代の「知のオ−パツ」であり、同時に「神々の知のモニュメント」とも言うべきものなのである。 気障っぽく聞こえるかもしれないが、どうしてもそう言わざるを得ないのであり、それがまさにピタリと息の合った言葉とも言えるものであることは検証すれば誰にも判るはずである。

 何とそこにあったのは現代科学とは一線を画すばかりの異形の知であり、異形の答でもあったのである。 それは学べば学ぶほど現代知との差は顕著になって我々に迫り、心に響いてくるものである。 またそれを知れば知るほどますます真実味を増して我々の心に大きく響いて来るものである。 何故ならば、それはまさに神の手になるものであり、決して人間の作品などではないからである。

 しかし、それは確かに見かけは簡単明白なものではあるが、改めてその内容を作り出そうとしても、とてもとても人間業では不能なものであり、たとえ巨大なコンピュタ−といえどもただ跪(ひざまずく)だけの無用の長物と化してしまうだけであろう。 まさにそれは単純でありながら美しい形を持って我々を驚嘆のるつぼに追いやり、感激させてやまないものである。<詳細は「神の方陣」上級講座(4)参照>

 さあ、それらの克明な詳細については来月の記で改めて述べる積りである。すべては3千年来の古神道に秘められていた「神の秘密」であり、異形の知を持つ者達(侵略者達やその子孫)には解けなかったものである。それは純な古代人の血を引いている者のみに響くメッセージであり、遥か古代のDNAを引き継いでいる者のみが感じる懐かしいフィ−リングの響きである。考えて見ると、今までに多くの神道の先達達が日本神道の中には「人類最高の叡智」が封じられているとか、「古神道は近代物理学を先取りしている」と言い、あまつさえそこには「法があり、理がある」とまで言い切っているのもなるほどと頷け、感銘を受けるのは確かでもある。
 彼らも恐らくは古代の血(霊)をひく者達であり、淡いフィ−リングの中にかすかな響きを感じていたのであろう。しかし、すべてはそこまでであり、それ以上の進展を見ることはなかったのである。
 なぜならば、彼等は現代西洋知を前提に置いて古神道を解こうとしていたからである、それでは駄目なのである。 我々が学の根拠としている現代西洋知、それは自然の響きを取り入れたものではなく、あくまで人間知の上に人間知を積み上げて出来た人間の学問であり、自然の声、その響き等は一切無視して構築されたものなのである。だから自然に関してはまったく手が出ないのである。

 もう一度考えて見よう、現代数学と言うものは10進法方式により組み立てられたものであり、人間の日常生活の上では一つの決めごと的とも言うべき人間の間での約束事なのである。人間同士のあいだではスム−スに守られているので問題はないのであるが、いったん人間世界の外に持ち出すと何も機能せず、何も意味を持たないものとなるのである。そのことも知らずに、学者達は人間同士の約束事を表に持ち出して適応させようとしているから事を難しくして解けない、解らない、複雑系であるとかカオスとか言いながら自分達を煙に巻いて誤魔化そうとしているのである。

 本当の自然数学、すなわち、自然法を用いている「循環数学(神の数学)」にはそのような誤魔化し類は一切無く、すべては最後まできちんと枠におさまって機能しているものである。そこでは大は小であり、小は大としてすべては調和と秩序を持って循環体をつくりあげ最後までしっかりつながりを保っているのである。それがすなわち、(0=9)と言う自然の理なのである。

 改めて言う、古神道の祝詞「ひふみ…天地の数歌」をもって自然を解かない限りすべては水泡に帰すだけである。 まさに「ひふみ…天地の数歌」こそ天地を揺るがすばかりの天地の歌であり、驚くべき「数の極めつけ」を歌っているものなのである。 なぜなら、「神の数学」にて「自然の数学」や「次元の理」、はたまた「自然の序」を解くと、正しい場合にはすべてが0123456780の正自然数の循環をもって現われ、答を示しているからである。まさにその姿は「天地の数歌」の内容を語るものであり、古神道は正しい自然理をもった存在として3千年と言う長い間失われることもなく続いてきたのである。

 明治の文明開化以来、祝詞「ひふみ…天地の数歌」は三才の稚児でも知っているつまらない言葉であり、未開の原始宗教の類であると外国の宗教家や宗教団体から嘲笑され、そんなものを大切に崇め奉ることは宗教の名を辱めるものであると強い指弾を受けていたのである。それも、 あろうことか、西洋かぶれの神道家や学者までが神道軽侮をあらわにし、年々祝詞「ひふみ…」の奏上を怠るようになり、それと共に神道の権威はますます地に落ちてきているのである。

 恐らく、今では祝詞「ひふみ…」は宮中の儀式あたりで奏上されるくらいであり、殆どは無視の状態であろう。要するに、当事者達は自分達の不勉強を棚に上げて神道の信義を疑問視し始めると言う甚だけしからぬ態度をとっているのである。改めてよく考えて見れば、神官達は数千年という長い間権威を笠に遊び呆け、勢いに任せて人を見下し一切の本義探求をなおざりにしていたのも神道没落の原因の一つと言えよう。

 しかし、今更真実云々を求めんとしても最早時遅しであり、すべてはすでに失われて「空ろな言葉」だけが空しく残っているだけである。要するに、ますます信者の足は遠のき、それと共に神道の影はどんどん薄くなって来ているのである。 


 しかし、ちょっと待ってもらいたい、今ここに来て、何とこの辱められ、疎まれてきた「ひふみ…天地の数歌」が日本神道を救わんとして目覚め始め初めていると言う事態が起こっているのである。それが完全に目覚め、時の声を上げれば、それは完全な逆転劇の姿をもたらすものであり、まさに皮肉な廻り合せを語るものとして大変期待してやまないものである。

 なぜならば、今まで散々あざけり、笑いものにしてきた日本の神道の前に今度は外国の宗教がひれ伏すことになるからである。
それほど強いインパクトをもつもの、それが祝詞「ひふみ…」や「アイウエオ五十音図」、更には「カムナガラの道」等の「ぬけがら言葉」の正体なのである。まさに、その姿はまさに神受のものであり、神の手になるものと言ってもいいものである。

 今までもこの「アイウエオ」の言葉は由来不明とされ多くの学者達が研究を重ねてきたが皆目正体不明であり、議論が尽きないものなのである。ましてや、祝詞「ひふみ…天地の数歌」にいたっては一切がまったく不明であり、したがって論議の対象にもならず、ただ捨て置かれていただけである。なぜなら、そこには余りにも深い「神の理」が込められ、人の知を寄せ付けようとはしなかったからである。私も偶然により解き放った後にそれを知り、まさに言葉も出ない有様で感激に震えたことを思い出す。まさに、あらかしこである。

 さあ、来月からはこれらのすべてを解き放ち、3千年来の古神道の本当の姿、その内容を開いて見ようではないか…。ただし、100%とはいかない、なぜならそこには言葉の壁があり、しかもそれらの中にはすでに失われて幾久しい言葉や発音があるからである。それらをパズルとして捉え、糊づけし、法則をもってつなぎ合わせることにより、本来のあるべき言葉が判り、同時に全体のあるべき姿が甦って来ることになるはずである。その結末の正否を判断するのはほかでもない、あなた方であり、あなた方に託すものである。

 さあ、我々現代人は果たして「神の知」の一切を解き明かし、見事、古代人の知と肩を並べることが出来るのであろうか。果たして、現代人の知、それは果たしてに「神の理」を読み取るだけの力を持っているのであろうか。、私にとっても大変興味のあることである。
 
 すべては来月の記で明らかになるはずであり、現代人の知の程度が判明するはずである。  しばし、坐して待たれよ…!。   
       
                                                                           以上

 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(5)

                               2012年6月 謹んで上載

  

古神道の魂である双祝詞「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音」の秘密を探る

                (その2)


 さあ、約束の通り、誰も見出し得なかった超古代の叡智、素晴らしい「神の叡智」をご披露申し上げることにする。それは今の所誰も知らないものであり、想像すら叶わない人知外のものでもある。

それは人間知とは少々思考法や表現法が異なるものなので、最初は戸惑い、真実を見てもなかなか信ずることさえも出来ないと思う。しかし、そうかと言っても何も難しいものではなく、素直に解いて行けば誰にでも十分に判るものである。

 これらのことについては大分以前に簡易な内容を記した案内的なものを載せたことがあるので覚えている方もいるではあろう。ここでもう一度、記憶の糸をたぐって、それを思い出してもらいたい。

 

古代祝詞の双璧の一つである『アイウエオ五十音図』の見せる思いもよらない驚嘆すべき内容、今でも私はただただ畏敬の念で眺めるだけである。そこにある古代の祖達の持っていた驚くべき言葉による「縁(韻)結びの秘密」、それらは世界の暗号史にも残る素晴らしい姿を持つものである、なぜなら、我々の常識を越える知的アルゴリズムを示しながら、まさに唖然とするような驚くべき真理の片鱗を見せ、それを展開しながら見事な「神の業」の存在を我々に見せてくれるからである。

それはまさに言語学の権威である明治時代の山田孝雄博士がその書の中で述べている通りである。すなわち、「『アイウエオ五十音図』は宇宙間の音韻の根本原理を示すものであり、まさしく神授のものと言えるものである。このような図表を作り上げた我ら祖先の偉大なる頭脳を驚嘆せずにはいられない」と…。まさに恵眼の至りであり、真実をついてやまないものである。

さて、思うままに知の才が溢れると自負する方々よ、ならば試しに、ここ『アイウエオ』に含まれる祖達の巧みな文字表現による「あの世」と「この世」の構図を見事に解いて見るがいい。そこには『アイウエオ』で綴る「顕幽の世界」の縮図がしっかりと描かれていることが解るであろう。 

それは一般に知られている「いろは」歌の持つ暗号言葉「とがなくてしす」などの個人の叫びではなく、もっと奥深い日本民族の「叡智の叫び」であり、真実を伝えようとしてやまない大いなる知の叫びなのである。それはまた神代文字を消し去り、漢字導入が強制的に行なわれた際に残存した知者達によりひそかに組み上げられた「言霊言葉」の姿であり、支配者達(大陸からの侵攻者)の目から逃れるための「隠し言葉」として用いられていた「言霊」の姿なのである。そこにある詳細説明やその真実の内容については、いずれまた近い中に改めて述べることにしたい。

いや、それでは困る、悠長すぎるとのたまう方に一つヒントを申し上げて置こう。まずは手元に「日本超古代秘史資料」…吾郷清彦著をお持ちの方はご用意願いたい、その162ぺ−ジに超古代の「天地の歌(アワノウタ)」が記載されている。そのアワノウタの漢字を綴って用い「アイウエオ」、「カキクケコ」を書き出してもらいたい。後はその文字群を眺め、その文字の意味を考えればいいだけである。するとそこにはまさに不可思議な超古代の語り言葉が現われて我々を驚かすのである。

それは前者、すなわち、「アイウエオ」は顕(この世)に属し、後者「カキクケコ」は幽(あの世)に属することをハッキリ歌っている文字の群れの存在が見えるであろう。ぜひトライして見てほしい。

やる気のある者には大変やさしいことであり、中学生でも十分に解るものである。
                                       <詳細説明は「数学幻視考古神道bUを参照されたし>

このような驚くべき古代の秘密が長い間明らかにされず不明であった理由は学者と言うものは頭で考えるだけで心で考えようとはしなかったからであり、古代人の知は低いと言う先人達の言葉を丸飲みにしてそれ以上の探究を一切しなかったからである。

私は言いたい、古代人の知は我々より劣っていると考えるのは明らかな間違いであり、無能極まりない愚かな考えであると…。そのあたりは是非再考の必要があると常々思っている。

例えば、古い時代の作品である「源氏物語」などを見るがよい。あまり日本人は関心を持たぬが、あれは世界一古い長編物語であり、その繊細な内容は大変美しくて、素晴らしいものであると世界の専門家が賞賛するいわば、日本の誇りである。しかし、日本人は余りにも知らな過ぎる。恐らく、今の若者達は読むこともないし、手にすることもないであろう。

 

自然と和するには心で考えることが必要であり、心だけが触れ得るものである。また、我々が祖達の心を知るには真摯に心で対応し、そのかすかなフィ−リングの存在に心を合わせることが必要である。それにより、時代の差、言葉の差などはあまり問題ではなくなり、魂と魂がしっかりと結ぶ合うことを知ってほしい。

ならば、見事心で迫って「アイウエオ」、「カキクケコ」の心を覗いて感動してもらいたい。そこには見事な「顕幽の世界(あの世とこの世)」の姿内容がしっかり描かれ、その存在を我々に伝え心を震わすものである。その巧みさ、その妙、その幽玄な姿や囁きを身近に感じて、感動を味わってもらいたい。

<この四十八音の首音の「ア(天)」と尾音の「わ(地)」を取って「アワノウタ」あるいは「アワウタ(天地歌)」と呼ばれるのである。この天地歌は漢字によってほぼ想像出来るごとく、天地宇宙の実相、事理を具現・象徴しているものである…著者 吾郷清彦記す>

 

更にそこにはもう一つの真実がしっかりと納まり、誰にも知られずひそかに眠っているのであるが、それについては誰も知らない。それが、すなわち『ひふみ‥‥天地の数歌』により導かれる『アイウエオ五十音図』の「数の理」、すなわち、数で描かれた「大いなる神の心」の存在である。

確かに、今まで古神道の太祝詞。奥儀祝詞として神々に恭しく奉納され、歌われて数千年の間、人々に守られて来たのであるが、そこには大いなる「神の秘密」が隠されていたことなどは今の今まで誰も知らなかったのである。 
 恐らく、これらを称して直感に優れていた古神道の先人達は「神道の中には大いなる神の叡智が眠っている」、「日本神道の中には人類にとっての最高の叡智が納められている」と言い、また、二ユ−ョ−工科大学の教授であった馬野周二氏は「古神道は現代物理学を先取りし、さらに進んでいる」とまで言っていたものであろう。それが確かであり、確実に存在していたことがここで改めて証明されたのである。

 

今回はそれについて述べ、語り置くので心で読みしっかりその業を自らの手で検証してもらいたい。なぜなら、それを知ることにより「天理の妙図」の存在を確かめることが出来、同時に日本神道の素晴らしさを再認識出来るからである。また、あなたの意識は一挙に現世界から離れ、神の意識世界へと入っていくことになるはずである。

そこにあるのは現代科学手法とは全く異なる自然知による巧妙な解法であり、人類にとってはまさに天与の授かりものと言うべき「妙なる手法」でもある。決しておろそかにしたり、無視したりはすべきではない。

なんとそこには驚くべき方法で「宇宙次元の実相」、「あの世とこの世のつながり」が描かれているという不可思議な真実が見出され、我々をして仰天させ、慌てさせてやまないのである。

それはまさに驚くべき「神の仕組み」の表れであり、『ひふみ‥』の心、「天地の理」の真髄を知らない者にはなかなか理解するのは困難なものであろう。それはまことに畏敬すべき「神の仕組み」の一つであり、まさに世紀の「知のスク−プ」の出現と言ってもいいものである。

またそれは古代の奥儀祝詞である「アイウエオ五十音図」にもう一つの祝詞である『ひふみ数』を打ち込んで初めて開錠されるものであり、『ひふみ‥』と『アイウエオ』の二つの祝詞を相携えて用いなければその姿は決して現れることはないものである。

それをして私は『ひふみ‥』と『アイウエオ』のコラボ的な数の証言と申し上げているのである。

要するに、ここにある『ひふみ‥』と『アイウエオ』のコラボ的な調べの存在こそがまさしくこの二つの祝詞が同時期に揃って存在したものであり、双対の関係にあった祝詞であることの証拠であり、証明となるものである。

このコラボ的な調べの存在こそが、すなわち、以前に記した「ひふみ…天地の数歌」を連れて、「アイウエオ五十音図」を解くとの言葉の意味であり、その真実を解くかけ橋となるものである。その姿はまさにコラボレ−ションである。

何と、このコラボ的な関係を経てはじめて「正しい神の答」、「数が示す驚くべき真実」が見出されるのであり、その事実は誰も否定できない「天の理」として我々を唸らせてやまないのである。 それはまさに神妙な自然の理であり、少なくとも『神』の関与無くしては到底不可能と言えるものである。   【詳細は『古神道』D参照】

『ひふみ‥‥数歌』により導かれる『アイウエオ五十音図』の秘密、これだけはいくら口で説いてもなかなか解るものではない、そこにある「神の本心」を導き出すにはどうしても数と図の力を借りて描き出さなければならないものである。また、それにより誰にでも容易に理解でき、同時に自然の持つ「神の理」の本筋さえもだんだん解ってくることになるのである。乍今の神道学者達もそのあたりは心得て本義を求めるためには図式を最大現に利用し、図をもって説明を図っていたようである。まあ、それが最も妥当なものであり、適宜なものであろう。例えば、『アイウエオ五十音図』におけるアイウエオの五母音とカサタナハマヤラワの九父音により組み立てられた五十音図を「五十の神名字(イソノカナジ)」と呼んでいる仕組みのようにである。

ただ、悲しいことに、それを読むのに「ひふみ…天地の数歌」を用いる代わりに「十進法」の数を持ち込んだために、封印が解けなかったことである。それでは駄目なのである、それを解くには「ひふみ…天地の数歌」を打ち込まなければ決してその扉は開くことは出来ないのである。

 

大体、古神道を解こうとした今までの神道学者と称する者達は大変けしからんと思う、なぜならば、何事も数的な解釈や、あるいは神話学的な追及に行き詰まったりするとすぐに「中国の故事」、あるいは「易」などに結び付けて解釈を濁してしまいたがるからである。たとえば、7、5、3などの奇数を見出し場合、何も考えずにすぐ中国の風習に結びつけ、ただ瑞数(おめでたい数)であるとして終わるなどである。本来は2、4、6…などの偶数と共に古神道の双(左右)の道につながる重要な数と考えて斟酌し、取り上げるべきであるが、誰もそのことについては言及もしない…!!。

とにかく、解らないもの、判断が出来ないものはすべて外国に結び付けることにより、ことをうやむやにすると言う悪い習慣を学者達は持っているのである。恐らく、それにより民衆の方もそれ以上の追及は出来ないと考えていたのであろう。一つの狡猾なやり口、結果の見える詐意的な落とし穴として用いていたようにも感じられるのであるが…。

 確かに、古来よりの言霊研究、すなわち五十言(イソコトバ)、五十言霊(イソコトダマ)等の研究等においては難しい言葉を並べたてることにより威厳を保ち、同時に博学なる知識の存在を誇ろうとしたようである。すこぶる難解な言葉をもってよしとし、他人の介在を防ごうとしたきらいもある。また、神道各派の学者による自説の押し売りや、余りにも観念的な論述が多すぎることも甚だ嘆かわしい問題である。それらは一見宗教的とも思える大乗的見地から説かれているようにも見えるが、甚だ自己満足的な表現や自説の押し売りが多く、一般の人々や外国の人には理解し難く、まったく一般性に欠けているものである。それが更なる普及を妨げているのを知らないのであろうか。

それが、神道のグロ−バルな発展には阻害をもたらしていたのであり、日本だけの単なる地域宗教として存在に甘んじなければならなかった最大の理由なのである。

その点、この古神道発の「神の数学」は数による真理の表現であり、どのような国の人々にも十分に解るものであり、更に各自の知次第によりどうにでも開くことが可能なものである。

 
 さて、論より証拠、一つ『アイウエオ五十音図』を『ひふみ‥天地の数歌』で開錠して見ることにしょう。その上で開錠した答を読み込むのである。そこで必要なのがヒラメキであり、直感である。ヒラメキ度の高い方は一瞬にしてすべてを悟り、自然の知の深さを改めて知ることになるであろう。すべては自然の敷いた叡智のレ−ル上にあるのであり、我々がたまたまそれを見出しただけである。その思考の一端を取り入れて人間知に接続すれば、恐らく、我々人類は新しい知のテレトリ―を見出すことが出来、知の新たな未来を迎えて更なる発展に入ることが出来るはずである。

 

古神道の魂である双祝詞「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音」の秘密を見る

               

 次の図は『アイウエオ五十音図』に『ひふみ‥天地の数歌』を縦に打ち込んでいった図である。

さあ、考えていただこう、一体どのような展開を見せることになるのであろうか…?!!。

これらは単に「数」を用いたものであり、初期数学である算術的な甚だ簡単な数学と言ってもいいものである。それは決して難しい高等数学的な知識などは必要とせず、簡単な演算だけで十分にこと足りるものである。
 
どうも自然はやさしい数的な表現を好み、慣れ親しんでいるようである。

そのあたりは有名なイギリスの物理学の大御所であるペンロ−ズは次のように述べている「宇宙は整数のみから、組み合わせの作用からつくられている。すなわち、足し算、引き算、置き換え、比、という単純な算術演算によりこの宇宙を創造しているのであり、人間の持っている高等数学なんかはまったく必要としていない」と…。





 
 さあ、この図をしっかり見て、しっかり読んで、それからしっかり考えてもらわなければならない。これらは考えれば考えるほど不可思議な数の現われであり、人知知などでは到底つくることなどは出来ないものである。
  ≪図の見方≫       

この図は『アイウエオ五十音図』に対して『ひふみ‥天地の数歌』を図の右側から縦に置いたものであり、日本古来の読み方に沿ったものである。

 

(1) この『アイウエオ五十音図』の図外の右に並ぶ、二桁の数は左横に並ぶ数の加算合計数(Σ)である。その姿は上から37,38,39、40、41、となる見事な連続した姿を見せている。また、それらの数を一桁に置き換えれば(Σ=37→1)、(Σ=38→2)、(Σ=39→3)……となるものである。
 それらは上から下に流れる1、2、3、4、5、となる正自然数の姿となり、確実な自然数の秩序と調和を見せてゆくりなく展開されているものである。

 

 (2) この『アイウエオ五十音図』の図外の下にあるΣ=6、Σ=8、Σ=1、……はその『アイウエオ五十音図』に置いた数を縦に加算したものである。そこには見事な81357024の数列が現われ、その姿は「ひふみ…九九算表」上から3番目の数列の姿である事が解る。この両端にある6の数に注目してほしい。

 

 (3) この表の最初のア行と最後のワ行にはまったく同じ数列、12345があらわれていることを知ってほしい。その意味とはすなわち、『アイウエオ五十音図』の最初のアイウエオの段と最後のワィウエオの段は全く同じものであり、意味のある重複状態にあることを示しているものである。

 恐らく、完全な同じ文字を用いたならば、何らかのさしさわり、あるいは不具合が生ずるので、それを防ぐために少し文字を変えることにより本来の真実を隠し、解き得た者だけに真実を伝えようとしているのである。一体、その真実とは何であろうか。それにしても見事な神業とも言うべきものである。ここが『アイウエオ五十音図』の持つ重要なポイントであり、決して意味のないものではなく、そこには逆に恐ろしい自然の真実の現われが存在するのである。

すなわち、両端にまったく同じものが並んで存在すると言うことはそこには大変自然的には大切な意味があるということである。その意味とはその両端、すなわち、(端)と(もう一つの端)を重ねて円筒状(立体)にすることであり、自然の常套手法なのである。それが正しいものと言う証明がそこに縦に並ぶ12345の自然数の現われである。

 また、両端を重ねて円筒状にした場合、すなわち2次平面図を3次元立体構造にした場合、両端は重複して1ヶとなるのでその重複数、すなわち重なった数をマイナスすればいいのである。それが最右端にある数、すなわち、37−1=36、38−2=36、39−3=36、……の姿である、それらはすべては36→9→0となって本質は0になり有象、無象の森羅万象の生ずる世界、すなわち次元本質0の世界の出現となるのである。

現在の我々の宇宙も本質0であると科学者は言う。すなわち、一切のこだわりのない自由自在な自然意識世界であると言うことである。まさに、0次元の本質を持つ有難い「神(意識)の世界」なのである。

 

(4)この本図の外側(上)にある0000…の数群、それは実際には何も無い、それで0の群れを置いたのである。しかし、そこには「見えない世界」が連続して存在すると考えて縦の数列を延長した数を置く、すなわち、それがこの世と連続している「見えない世界」の数であり、そのあるべき数と考えるのである。すると、右側の縦の数列は12345であるから縦のの前の数は0、次の縦列の数は67801、ゆえにの前の数はである、あとは同じように考えて数を置くとそこには0483726150となる「ひふみ…九九算」の五番目の数列が現われる。 その本質は、すなわち、Σ=36→9→0であり、何も無いと考えて00000…の群れを置いた場合とまったく同一な答(0)が現われていることが解る。それはすなわち、これらの数の示しにより「この世」の外側にはまがうことない「あの世」が連続して存在していることを数が示していると言うことである。

さあ、もう一度考えてほしい、そこの縦のΣの数列は37,38,39,40,41、となる連続数を作り上げていることを…、するとそのまえの存在する「見えない世界」の数は37の前の36であり、最後の41の次の数は42となるはずである。何とそこにはそれらが見事につながって、そこに現われる「あの世」「この世」は完全につながりを持っ連続体であることの証明となっているのである。 さあ、見るがよい、そこには「あの世」「この世」には完全連数である36,37,38,39,40,41、42とが現われて完全に連続した世界であることを証明しているではないか。 まさにこれは あなかしこあなかしこ、の連続世界である…!

 

(5)最下端の赤い文字で記されている数列を見てほしい、それらは『アイウエオ五十音図』の縦の数列の次に来るべき各数である。まずは右側の「アイウエオ」の数である12345の次の数は(6)であり、次の「カキクケコ」の数は67801で、その1の次に来る数は(2)であることが解る。そのように考えて数を取り出していくと、そこには左から15048372の姿が現われて見事な「ひふみ…九九算」表の五番目の数列が現われるのである。 これらの赤い数は「見えない世界」の数列であり、意識上の数と言ってもいいものである。この姿はまさに、我々の現世界とつながって存在する「あの世」の存在をしっかりと語る大いなる数列である。
 腑に落ちない方は何回でも検算検証し、是非納得のいくまで考えてもらいたい。この方法は先端物理学者が用いているものであり、緩やかな数の秩序を辿り、見えない世界(素粒子の世界)を探索する手法、すなわち「S行列理論」とか、「Sマトリックス式」と呼ばれている手法である。

 

(6)ここまで理解したら、もう一度よく見てほしい、ここには両端にある数列である12345や、あの世の数である図上の数(0)(0)ばかりではなく、図下の数6,(6)までが声をそろえて右端と左端は同一なものであると囁いていることがお分りであろう。この両端数の一致とは、すなわち重ねて重複状態により、3次元構造体が求められると言うことである。そのあたりは両端の(0)、1、2、3、4、5、(6)となる完全な自然数のつながりの存在に気がつけば解るであろう。

  とにかく、そこには不一致とか、不整合、あるいは矛盾などは一切なくすべてが定められた軌道を作ってすべてが同一方向を指していることは明白である。しかも、ランダムとか無意味な数などではなく、すべては「ひふみ…九九算表」の中にある九つの数列を持って答を示しているのであり、その妙なる姿で流れ流れているのである。

 

さあ、これに驚いてはいけない、これに続くとても信じられない『アイウエオ五十音図』の更なる仕組みの存在を知ってほしい。これは紙数の都合で図だけを掲示し、詳細説明は省くことにする。各自力の限り自分の手で検証して見事「神の秘密」を見出してもらいたい…!。


   【その1】では『ひふみ…天地』の数を縦に置いて検証したが、今回【その2】はそれを横に置いて結果を見たものである。しかし、【その2】の内容は【その1】とまったく変わらないと言う不思議さを持っているのである。最初のアの縦列、最後のワの縦列、共に0123456の数列が【その1】と同様に並んでいる、これはまさに神技の業、不可知極まりない絶妙な業と言うべきものである。

【その2】の内容及び説明の一切は【その1】にあるものそのままであり、付け加えることなどは一切ない。すなわち、【その1】の説明をそのまま用いればいいと言うことである。

要するに、『アイウエオ五十音図』に対し、『ひふみ…天地』の数を縦に置いても横に置いても結果としての答はまったく同じと言うことであり、まさに不可思議極まりない構図と言うものである。


【その1】の図を見てもらいたい、このような不可思議な秩序ある「数の理」が何重にも重なって現われる確率は何十万分の1か何百万分の1くらいであろう。それに【その2】もまったく同様なのである。すると【その1】と【その2】がまったく同じ内容を持つ確率は何億分の1か、何十億分の1となり、到底考えられないような確率0の世界である。それはすなわち、発生確率は0であるということは、絶対にあり得ないことと同意義と考えるべきである。 

しかしこのように、しっかりとここにあるのである。まさに自然の超知(神)による大いなる業仕組みであり、人間業ではないと言うことである。《詳細は『数学幻視考』古神道bV参照》


 それゆえに、私は人間知では不可能な「神の御業」であり、「神の作品」であると言ってはばからないのである。まさに言語学の権威である山田孝雄博士が述べている通りである。すなわち、「『アイウエオ五十音図』は宇宙間の音韻の根本原理を示すものであり、まさしく神授のものと言えるものである」と…。

 

私が声を大にして申しておきたいのは古代の言い伝えにある通りのもの、すなわち、『ひふみ‥天地の数歌』と『アイウエオ五十音図』はまさに不可分の双対の太祝詞であって、二つが揃って初めて「天地の理」が開かれて日本神道のあるべき本儀、本質が現われてくると言うことである。

まあ、時間の許す限りでよい、懸命にこれらの図を眺めて苦慮苦心すれば、あなたの心も少しづつ覚醒し、新たな目を持つことになるであろう。要するに、それが心の目と言うものであり、心眼というものである。

 

ここでもう一度おさらいしたい、今まで私が申し上げた古神道の奥儀祝詞の真髄のまことについてである。

   『ひふみ‥天地の数歌』とは数、すなわち、01223456789(0)であり、その合計(Σ)は45(36)であり、一ケタ化すれば9→0となるものである。これをカミムスビすれば最初の0と最後の9(0)は重なって一つになりΣは36→9→0になる。すなわち、平面的な形でありながら全体の本質は0となるものである。そこにあるものは0との共鳴であり、無限との同調なのである。それはすなわち、森羅万象の自由発生の元になる千変万化の自由なエネルギ−の発露が可能な場、すなわち、「神」の場0の誕生なのである。

  A   『アイウエオ五十音図』とは上に述べたようにその最初と最後の縦列はまったく同じものである。そこでその両端を重複させる、すなわちカミムスビを行えば最初と最後は重なって一つになり、すべての横列のΣは36→0の姿になるものである。それはすなわち、立体的な構造体である円筒形となるものであり、その全体的な本質は0を示すものとなるのである。→「神」の場0の誕生。

  B   更にもう一つ、『ひふみ‥天地の数歌』の本体である「ひふみ…九九算表」について申し上げなければならない。もうすでに何度も繰り返し説明しているので十分にお解りであろう。古神道の表面には表題として「ひふみ…天地の数歌」が存在するが、その本体は最も奥まったところにひそかに鎮座しているこの「ひふみ…九九算表」である。
 
この「ひふみ…九九算表」こそが神道の最大の真髄を語ってやまない「古代の秘密」の正体なのである。

 ご存じの通り、この「ひふみ…九九算表」は縦に加算しても、横に加算してもすべての数列はΣ=36→0という優れものである。なおかつ、右と左の両端をカミムスビして連結し、更には最上と最下をカミムスビすることによりド−ナツ形の超立体構造が誕生して完全な本質0の性質を持つ次元体が生まれるのである。ちなみに、これは「易」の原型、すなわち、「太極」ともなるものでもある。また、我々の宇宙も≪「神」の場0≫の姿を持つものである。それは現代宇宙物理学が「宇宙の本質は0である」「宇宙定数は0である」と言っていることからも解るはずである

 最近の宇宙物理学者は語っている、「ド−ナツのように真ん中に穴のあいている空間を「多重連結の空間」と呼ぶ。我々の宇宙は近くを見ている限り、穴があいているとは思えない、しかし、宇宙全体を外から見た場合には穴のあいている可能性は大いにあるのである」。…「宇宙創生に挑むパイオニア」…NHK取材班(日本放送出版協会)より

 どうであろう、どう考えても古神道を奉ってきた我々の祖達の知は現代の先端知よりも遥かに秀でていて到底太刀打ちすることも出来ないように思えるのであるが…!。

 例えば、神話に出てくる三種の神器についてである。今までの学者達は神話物語にある通りに勾玉、剣、鏡を三種の神器であると信じて疑うことは知らない。そこには古代の知恵者が放った何らかのカモフラージ・メッセ−ジなるものが潜んではいないであろうか、要するに侵略者達の略奪から免れるために真実を隠し、ありふれたもの、どこにでもあるもので代用したということである。今までの歴史考察から見ると、そのことは十分あり得ることである。
 しからば真実はと言うと、この神器の言葉にあると考えてはどうであろうか、「器」とはうつわであり、品物である。「神」と「品物」、どう考えても不釣り合いであり、どこかおかしい。
 確か、古事記・日本書紀には、「三種の宝物(タカラモノ)」と記されていることから見れば、「三種の神器」となる言葉の発生はそれ以降の時代、すなわち、奈良時代後期か、平安時代と考えてもいいであろう。
 うろ覚えではあるが、思い出すと、過去の神道研究家がそのことについて言及していた者もいた。彼は三種の神器とは品物ではなく神の尊い言葉であり、意味のある尊い言葉であると言っていたのである。


 確か、漢和大辞典の中には『誼(ぎ)』と言うまさのそれにふさわしい言葉があるではないか、それを分解すると、「言」の意味は言葉であり、「宣」の意味は正しいもの、道理に叶っている言葉、あるいは文字の意味である。すなわち、『神誼』とは「神」の語るこの上ない真理法則としてすべてを満足させて鎮まるものが「誼」と言う言葉の本義を指すものである。それにより三種の神誼(ぎ)の意味とは三つの自然に叶った正しい道理(真実)を語る真理言葉となり、それにて弥栄を迎えることになるものと言うことである。   
 すると、古神道の失われた言葉である「カムナガラの道」の言葉もここで俄然生き返ってくるのではないか…!!。


 何故なら、それは古神道を満足させ、我々の心を満足させ、自然を満足させ、神を満足させることにより永遠に語り継がれて、不滅なものとして人々の心に残ることになるからである。

 

すなわち、これら3種の神誼(じんぎ)の表す正しいものとは、

@  祝詞「ひふみ…天地の数歌」……平面環状の響き…1次元体…→一つの平面立体

A  祝詞「アイウエオ五十音図」……立体円筒の響き…2次元体…→ワ−ムホ−ル

B  祝詞「ひふみ…天地の数歌」の奥儀本体の「ひふみ九九算」……超立体の響き

…超3次元体…→現在の宇宙

 

まさに世にもまれな1次、2次、3次と言う三体の有難い自然を語る真理言葉を指すもの、すなわち、それが(誼(ぎ))の本義であり、その存在を説くものである。出来れば何回も考えてこれらの是非とその仕組みを考えてもらいたい。

宇宙物理学に精通している感のよい方は、ここで宇宙物理学理論のアインシタイン・ロ−ゼンの橋を思い出してもらいたい。最初に存在するのは一つの平面立体である、そこから内部的なワ−ムホ−ル(円筒状)が発生して頭がキノコのようになり、そのキノコの頭が独立状態となってどんどん広がって宇宙になったもの、それが現在の宇宙であると最近の宇宙理論は語っているのである。

これをして、荒唐無稽なものであるとは言わないでほしい、何故なら、一般の我々でさえ素直に上記の@ABをこの順序通りにつないで形にすると、そこには見事な今の宇宙の姿 (インフレ−ション宇宙と呼ばれるもの)が現われるからである。
 <その詳細、及びその絵図は「宇宙の96%の謎」…佐藤勝彦(東京大学教授)著の(175ぺ−ジ)を参照のこと。ちなみに、佐藤勝彦氏はこの最新宇宙理論の創始者でもあり、日本を代表する宇宙物理学のリ−ダ−でもある。>

考えて見るがよい、何せ、相手は数千年と言う歴史をかいくぐって現在に至っている「神聖なる神の言葉」であり、「神のメッセ−ジ」なのである。何ら意味のない言葉であるならば、とうの昔に雲散霧消し残っていることはないはずである。 必要だからこそ現在あるのであり、歴史の保護下にあるのである。我々の体を見るがよい、使われなく不必要なものはどんどん機能を失って消滅するが、将来必要とされるものは今は役に立たなくても必ず残され、保存されていくのである。  例えば、我々の脳である、脳の97%は今まったく使われてはいない、しかし、しっかりと保存され、失われてはいない。なぜならば、それらは今は不必要でも将来は必ず必要となるからである。そのあたりから考えると人間にはまだまだ素晴らしい多くの未来が残され、これからも存続していくことが解るのである。ただし、正しい生き方をすればである。
そのことから判断しても、これらの古(
いにしえ)の知の遺産を十分に考慮し、かつ尊敬の念をもって取り扱うべきであろう。

 何と、日本最古の知と日本最新の知がここでつながり、=で結ばれたのである。まさに事実は小説(フィクション)よりも奇なりであり、到底、想像すら及ばないものなのである。


 さあ、日本神道はいずれを選択し、いずれに還るのであろうか…。古代からの言い伝えをそのまま申受け、神の名残のうつわ(器)をそのまま戴いて滅び去る運命に準ずるのか、それとも真実に従って思い切った変革を行い大きく世界に乗り出して永遠なる真理を誇り、示すべきなのか、まさに今がその岐路であり、神道は大いなる時の分かれ道にさしかかっている時である。日本民族のため、人類の将来のためにもしっかり考えてほしい。

あなかしこ…!!。




 古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(6)

                               2012年7月 謹んで上載

  

 古神道の魂である双祝詞「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音」の秘密を探る

                (その3)


 さてさて、先回は双祝詞「ひふみ…天地の数歌」を連れて「アイウエオ五十音」の秘密をまさぐったのであるが、今回はその逆、すなわち祝詞「アイウエオ五十音」を連れて「ひふみ…天地の数歌」の大いなる秘密を尋ねることにしょう。

それは形としては大変やさしいものである、しかし、その本髄、いや神髄に至る道のりはとても容易なことではない。なぜならば、それを解き去り、それを現在知のランクで説明をするには余りにも大きい段差がそこにはあるからである。
 要するに、現在の知の程度と先史時代の知の程度の差は余りにも大きいのであり、余程ずば抜けた「天の知」を見出して、それを間に置いて語らなければ無理なのである。これは「神の数学」ばかりではなく、超古代の遺物知として知られている「カタカムナの知」もまったく同様のものである。なぜか、現代の日本人にはまったく解くことが出来ないのである。

考えて見れば無理もない、その理由は現代の日本人の大部分は外国からの移住者の子孫であり、その血の遺伝子を継いでいる者が殆どだからである。そのあたりの事情はこの以前の稿、すなわち、2012年5月のbPに記してある通りである。

歴史上、今から2千年くらい前に何らかに事情で他の国から流れて来た人々が主流と言われている。その侵入者の群れが一気に先住民、すなわち、縄文文化の担い手であった者達を滅ぼして作り上げた国家、それが今の日本の国と言うことである。そのあたりは細々と歴史書には記されていることからも判断出来るはずである。すなわち、縄文文化は徐々に弥生式文化に向かったのではなく、一気に変化したと記されていることがそれである。
 それはエジプト文明と並ぶ1万5000年と言う世界一長い歴史を持った縄文の文化が、一気に崩れ落ちてアッと言う間に弥生式文化にとって代わられたということを意味するものである。これなどはやむを得ないと合点がいき、同情が出来ることである。なぜならば、平和に暮らしていた縄文人達は知らない間に数倍から数十倍にも及ぶ大陸からの侵略者達に突然襲われ一気に略奪殺戮された、多勢に無勢でどうにもならなかったことが十分に推察されるからである。

そんな、馬鹿なことはあるはずがないと言うことなかれ、歴史上にはアッと言う間もなく国が滅び去った例がいくらでもあるではないか…。

例えば、繁栄を誇ったインカ帝国をみるがよい、たった200人足らずのスペインの軍隊により人口数十万を擁する帝国がたったの2〜3日で占領され、手も足も出ずに簡単に滅ぼされてしまったことである。すべては脅しと、卑怯な謀略により一気に国が押さえられ如何ともし難く哀れな結末を迎えることになったものである。

 あなた方は大笑いするであろう、何といくじ無しの民族であり、何と度し難い軟弱な国なのであろうかと…。しかし、よした方がいい、なぜならば、それはまさに、目くそ、鼻くそ笑う結果を招くことになるからである。

考えて見れば、これなどはまだいいほうである、歴史上にはもっと短期間であっという間、たった1日で一億近い人口を持つ国が完全に無条件で占領され、無条件で降伏してしまった国もあることを忘れてはいけない。無条件降伏とはすなわち、歴史的にも最もみじめな降伏の仕方であり、一方的な仕打ちを我慢しなければならないものである。それは、あなた方の言うことはなんでも聞きます、何でもおっしゃる通りにいたします、何でも好きなものは差し上げますということを意味する完全な土下座降伏なのである。この場合もまさに恫喝が物を言ったのである。その恫喝の種こそが原子爆弾であったのである。

 ところが今、それら原子爆弾の脅威を遥かに上回るような国家の大事件が芽吹きつつあるのをご存じであろうか。しかもそれは現在はおろか、大いなる国家の遥かな未来、百年後の日本の未来までも決定せんばかりの前代未聞の簡単なまさかの形、呆れるような単純極まりの無い手段で今、始まろうとしているのである。
 そのあたりをしっかり読み込むことが必要なのであり、一つ読み違えれば大変な禍根を遥かな未来まで残すことになるのである。今、その事実をしっかり見通すことが絶対的に必要なのである。要するに、今ここでしっかり考えて道を正しく修正し、選択しなければ数十年後の日本の未来はみじめなものとなり、塗炭の苦しみの中で国民は永遠なる闇をさ迷うことになるのである。

今でも国はホイホイと外国におだてられ(原発ビジネスをアメリカから買ったこと)自分の国に自爆装置まがいのものをせっせと埋め込んで満足しているのである。その様子はトランプのババ引き気ゲ−ムでババを引いて無邪気に喜んでいるようなものである。それが将来、どのような結果を生み、どれだけ国民を苦しめることになるかはまったく考えようとはせずに…。

この日本の津々裏々に散在する多数の原発、すなわち、原子力発電所の存在こそが外国から見れば何時でも恫喝の手段となるものであり、何時でも自由に操ることが出来るリモコンを手にしているようなものである。いや、単なる一介のテロリスト集団でも恫喝と言う手段として十分に国家をコントロ−ル出来るのはあなたにもお解りになるであろう。     

まさに恐ろしいあなた任せの最終兵器を自分の手で懸命に埋め込んでい嬉々としているのである。今の日本はまさに何時でも、何処からでも攻撃してくれと言わんばかりの危い姿である。しかし、危機感等はまったく無い、誰も考えることもない。それはどこかが戦争など仕掛けたらアメリカが許さないであろうとの時代錯誤的な幻想を抱いて平然と構えている姿であり、人目もはばからない他人まかせの姿である。その幻想は憲法制定後のこの65年間まったく変わらず、常に国防は他人に預けて知らん顔の異常な姿である。
 しかしよく見るがいい、今起こりつつある資本主義社会の終焉はそんな生易しいものではなく、金融上の殺伐な関係により、まさに、死ぬか、生きるかの瀬戸際の危ない状態である。今や、どの国も明日の国の運命は解らないと言う混沌とした状態に怯えている姿であり、まさにそれは一触即発の事態がいつ起こるのか予断は許されない状態である。次に始まるのは国家間の食うか、食われるかの命を賭けた戦いであり、国家の存亡を賭けた熾烈な戦いである。そこをしっかり読まなければ日本は生き残れないのである。


  我々は肝心なことを知らなければならない、そもそも資本主義下においては真の人道うんぬん等は通じず、すべてはモノの奪い合い、金の奪い合いが原則であることを…、 個人でもしかり、国でもしかりである。すべてを他人に任せてのほほんとしている者は、あらん限りの財産を奪い取られるのは、これ、当たり前の結末であり、当然のなりゆきなのである。

それを地で行っているのが、アメリカと日本の関係である。知らずに恫喝され、知らないうちにむしり取られ、挙句の果てには知らないうちに国家は破産を迎えようとしている現状である。果たして、どれだけのお金が詐取され、かの国を潤おしてきたのか、誰も解らない。ただ解ることは、今、日本は借金財政で火の車、まさに破産寸前であると言うことである。何と1000兆円の負債(借金)を背負い、財政難に喘ぐ姿である。 しかも、その1000兆円の中の700兆円はアメリカに貸したものであるが、アメリカは決して返すことは出来ないとハッキリ言っているものである。  それは何故なのか…?。
 
 その理由はそれを返せば一気にアメリカは破産し、同時に世界中が経済的なパニック状態になり、大混乱になるからと言うのである。 結果として残るのは、膨大いな負債を抱えまさに破産寸前の日本の姿であり、それも待ったなしの状態にあると言うことである。
 しかも、国民の知らない間にである。まさに、鮮やかであり、希代の魔術師的な恫喝の親玉、それがアメリカの本当の顔なのである。 多分、これこそ新植民地主義とも呼ぶべき巧妙で新しい詐取の形態であると後世の歴史家は呼ぶであろう。

まさに、魑魅魍魎、騙しの世界が本当の資本主義の正体なのである…、人道的、求道的うんぬん、あるいは国防は他人任せなどと生易しいことを言っていては、国家も民族も即、消滅する時代がこれから始まろうとしているのである。世界の人口はすでに飽和状態であり、これからどのようにして大量の人口を減らすのかが世界のVIP達の大きな課題となっているのは諸氏も御存じのはずである。
 まあ、これからどのような奇策、人口減少作戦を展開することやら…。恐らく、戦争などの局部的なものでは間に合わないであろう。
 

最早、常識的うんぬんは口先だけであり、最後にもの言うのは非常識であり、非常識と非情式が勝利をもぎ取り、それを実践したものだけがこれからは生き残れることになるのである。
 そのいい教訓が、太平洋戦争末期における、突然のソ連参戦であろう。対日講和を結んでいるから安心であると油断していた終戦間際における突然の大幅な攻撃の開始であり、宣戦布告なのである。それが二百万人にも及ぶ日本人同胞の悲劇の始まりであり、六十万人にも及ぶ日本兵士たちの酷寒の地、シベリアへの強制連行である。そして、、それはその後に起こった長い苦難の強制労働、そして大量の兵士死亡事件と続いた悲惨な結末となったのである。まさに騙し打ちであり、裏切りである。しかし、世界のどの国も当然と考えて誰もソ連を非難した国は無かった。現に、日本人でさえ、いや名の通った日本の政治家さえもすっかり忘れているではないか…。

このように過去の歴史には大いなる教訓が含まれ、いろいろと教えられることが多いことを知らなければならない。 それらを学び、生かしてこそ国家の安泰や、個人の一生が保障されるのである。その大きなうねりを見れば、歴史はまさに生きているのであり、セオリ−通りに動いていることが解るはずである。まさに、歴史は蓋然性を持つと言うことである。

有名な歴史家が言ったではないか…、「歴史をおろそかにする者は歴史に復讐されると…!」。

何故、解らないのであろうか、そのうち何処からか小さなミサイルが飛んで来て僅か2,3ヶ所の原発に命中しただけで日本の国家が吹っ飛ぶことを…!。その挙句、放射能のために土地は汚染され数百年以上にわたって再起不能に状態に陥るのである。それは民族の滅亡であり、一つの国家の消滅でもあるのである。要するに、それらの危険極まりない自爆もどきの装置のセットが完了すれば、それこそ永劫未来にわたって日本民族は不安と恐怖におびえながら毎日を過ごすことになるのである。
 このわずか、一手先、二手先の未来のことを読めないとはまさに政治家失格、いや人間失格であろう。同じ日本人でも碁や将棋の打ち手は10手先、20手先まで読むことが出来ると言うのに…?!。

今、その50数基のうちの一部がおかしくなり国を挙げてのてんやわんやの大騒ぎである、この後の推移いかんでは東京をはじめ近隣の数千万人の住民が移動を余儀なくされると言われていることを貴方は知っているのであろうか…?。

要するに、今のところ何ら後始末のめどはたっていない、処理策はもとより防御策すらまったく見えない現状である。事故が発生してからもう1年以上は経っている、しかし、後始末は完全に処理不能状態であり、発生当時と何も変わってはいないのである。

 <更には20年前、2兆2千億円かけてに鳴り物入りで着工した青森県の再処理工場は未だトラブル続きで先は見えない、毎年かかる維持費だけでも1千数百億円必要である。また、福井県の「文殊」はまだ開発段階であり、これまでの総事業費は1兆円を超え、維持費だけでも年間150億円はかかる。これら核燃料サイクルは実現性、経済性が疑問視されて、福島の原発事故の後見直し作業が進められている。また廃炉された「ふげん」は平成30年までには撤収完了となるはずであるが、それまでにはどれだけの費用がかかることやら。しかも、数万年間のあいだは跡地は使用不能とされている>

 

一番いいのはこれを神の啓示と捉えて原発全廃に向けて行動を開始することであろう。

 場合によっては全部の廃止処理が済むまでには100年以上かかるかもしれない、何故なら、世界的にも処理法が何も無く、手詰まり状態を見せているからである。その上、更に悪いことには使用済みの核燃料を余るほど抱えて貯蔵し、処理に困り果てている現状でもある。それも世界の専門家達は再処理や最終処理は不能であると匙を投げているにもかかわらずにである。まさに狂気の沙汰であり、非見識の限りである。原発再稼働などと言うのははまさに自殺行為であり、国を滅ぼす基となるものである。
 今はじっくり世界の動きを観察すべきであり、どうしてもと言うなら、4〜5年時を置いてから再考しても遅くはないはずである。

このあたりでしっかり国の未来を考えて、最善の策を見出さなければならない。それは誰が考えても原発全廃と完全撤去である。
それが国を無事に未来に残すための最善の策であり、国民の信頼を勝ち得る最良のプログラムと言うものである。

 その結果、未来を含めて日本国家は常に安泰であり、国民は国際的な緊張や不安等からも一掃されることになるのである。今度は原発が無いぶん、逆に近隣諸国には十分に睨みを効かすことが出来るのであり、交流もスム−スにいくと言うものである。
 それはまさに天と地の違いであり、天国と地獄の差でもある。

再びあなた方はそんな馬鹿なことが起こるはずがないと笑うであろうが、その浅はかな考えが結局、命取りになるのである。現在の世界情勢、特にアジアの動きをしっかり見ることである。特に日本の近くのある国を…。現在、懸命にミサイルの開発と試射実験を狂気のように行っているではないか、何のためにであろうか…?。 一つ、じっくりと考えることである。  

恐らく、この分では何年か後には原発を大量に抱えている日本やその他の国々は哀れにも完全にのど元を抑えられ、抵抗は出来なくなることは間違いないであろう。

まさに、今は危機一髪の情勢である、平和ボケもいい加減に卒業してほしい。

今の老政治家達にはそれが解らない、未来が読めないのである。今、我々に必要なのは民族を未来に連れて行ってくれる強いリ−ダ−であり、百年の大計を考える優れた政治家なのである。

見るがいい、パソコンのボタンを押せば、何時でもあなたの家が人工衛星から見ることができることを…、何とあなたの家がくっきりと腑観的に写るのである。北緯何度何分、東経何度何分にあなたの家があるのか一目でわかるのである。ひょっとするともっといい性能を持つ軍事衛星ならあなたの家の瓦の一枚、草木一本までも鮮明に写るはずである。要するに、攻撃目標うんぬんなんて言うのは昔の話である。今では素人でも部屋にいて目標を定めることが十分に出来ることを知るべきである。世の中はすっかり変わったのである。

そんな物騒な原発を沢山用意して近隣諸国に恫喝の種をわざわざ与えて明日に憂いを残すよりも、4,5年の間、電気不足の事情を何とか我慢し、やりくりを考えるべきであろう。そのうちに必ず誰かが有り余るような電力を生み出す方法を考え出してくれるはずである。なんせ、日本人の知の力の凄さ、発想力の素晴らしさは世界中が認めているではないか。
 困った時にこそ日本人の頭脳は力を発揮するのであり、日本人のエネルギ−は爆発することを今まで何度も経験して来ているはずである…!!。

報道によれば、現在、ある地方の大学で現在のソ−ラ−パネルよりも100倍の発電量があり、しかも現在の100分の1のコストで済む新型の超ソ−ラ−パネルが発明されて実用段階に入っていると報ぜられている。また現在のソ−ラ−発電の50倍の発電量(1平米当たり)をもつような海の波を利用した波力発電も開発されているようである。それこそ1基の原子力発電所を作る費用の何分の一、何十分の一かの費用を国が援助することにより短期間で完成し、すべては解決するのは誰の目から見ても明らかである。

しかし、大企業と政府は動こうとはせず、逆に潰そうと図っている可能性もあると新聞は報じている。なぜならば、コストが安いということは儲けにつながらない、すなわち、会社には余り利益は入らず、したがって政治家の懐にもあぶく銭が入らないからであろう。

その証拠に見るがいい、現にそのような優秀な発明をしたところは予算をバッサリ切られたり、資金を引き揚げられたりして研究がストップし、その後の音信は絶えている実情を…!?。この国には本当の人、見る目のある人はいないのであろうか…!?。

我々は、しっかりそのあたりを監視しなければならない…。それが我々の役目と言うものである。

要するに、国のこと、国民のことを政府や役人は何も考えてはいないことは明らかである。ときどき、本音を言う優秀な官僚を見かける、しかし、その途端、あっさり首を切られて生活もままならない状態である。まさに、見せしめである。一体この国はどうなっているのか…??。

我々凡人が考えれば、すべてを日本で製造して世界中に設置すれば人類の安定と平和につながり、開発費用などはアッと言う間に回収され国が潤うことになるはずである。また、同時にそれは日本に対する尊敬と信頼の現われとなって日本を更に不動のものにして、未来永劫に輝くことになるのである。そのくらいの国家大計を考えるような見識のある官僚、根性のある大物政治家はいないのであろうか、まことに嘆かわしく寒いのは昨今の国政事情であり、肝っ玉の小さく己の保身に汲々している政治家と官僚の存在である。

 

まあ、愚痴はこのくらいにして、本題に入らなければならない。さて。今回の外題は確か、祝詞「アイウエオ五十音」を連れて「ひふみ…天地の数歌」の大いなる秘密を尋ねるであった。さあ、それをしっかりここで尋ねて日頃の心の憂さを存分に晴らすことにしよう。その方が精神衛生と体の健康保全のためには遥かにいいことである。

諸氏は御存じであろうか、超古代から代々伝わる最も由緒ある古神道の奥儀祝詞「ひふみ…天地の数歌」とは一体何であり、どのような意義内容を秘めているものであるかを…!?。今ではそれは道端に捨て去られ誰も顧みる者もいない、気にする者もいない。なぜならば、かってそれは外国の知識人や宗教家達から世界で最も原始的で稚拙きわまりない最低の宗教言葉であると軽侮され、面目を逸したことがあったからである。要するに、単なる、12345…の誰でも知っているこのような数詞をもって宗教の大上段に構え置くと呆れた行為であり、まことに愚かな所業であると散々叩かれたことが余程骨身に沁みて、ひとしお情けなく感じたのであろう。

それらを伝え聞いたとたんに心の軽い軽薄浮塵な神官達はそのまま唱えることを止めてしまったのである。悲しいことに、今ではそれは宮中の重要行事あたりしか見受けられず、すべてはもはや失われたと言ってもいいものである。

ここに、改めて祝詞の中でも最古の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」を開いて見ることにする。それにより真実をあきらかにして、少しでも世を糺さなければ、この歴史と由緒あるある日本神道は滅び、真実は闇の中に消え去ってしまうのである。

確かにそれは世界中で最も簡単なものであり、日本人はおろか、世界中の人々の誰もが知っているものである。しかし、その本当の心(本質)は誰も知らない、その存在さえ知るものもいない。ただ古来からの伝承だけがかすかにそれを伝えているだけなのである。 今、それを開いて、その神髄を永遠に遺す、それが今生の私に与えられた使命と考え最後の力を振り絞っているのである。
せめて、何人かはそれを汲みあげて誇りを持って次の後世に古代日本の「類なき叡智」、「栄えある叡智」の存在をゆくりなく伝えてもらえたら本望である。。

ただ、それを解くための鍵は純日本人だけが握っているのであり、歴史ある日本民族だけが古神道の祝詞言葉を開くことが出来、中身を覗くことが出来るのである。ただし、同じ日本人でも日本に対して軽侮と猜疑心の深い異郷の血筋(DNA)を持つ者達は読み取ることは出来ない、魂のつながりの無い彼らにはどうあっても無理なのである。

 

最古の奥儀祝詞である「ひふみ…天地の数歌」とは…

ひ、ふ、み、よ、いっ、む、なな、や、ここのたり…

ひ、ふ、み、よ、いっ、む、なな、や、ここのたり…

ひ、ふ、み、よ、いっ、む、なな、や、ここのたり…

 
 正式にはこのように3回の繰り返しで終わるのである。その3回の繰り返しの意味とはすべては繰り返す、すなわち、循環こそが正しい自然の道であることを祝詞が恭しく伝えているのである。

よく見かけるのであるが、この後に、もも(百)、ち(千)、よろず(萬)の言葉が連なって唱えられて如何にも理に叶っているように見える。しかし、これらは後代の神官達が如何にも古代から存在して来た正統言葉のように見せるために付け加えられた言葉である。

恐らくこれらは10進法が次第に広がるに従って、これではならずと付け加えた後代の「付け足し言葉」であろう。その証拠に、十から百、百から千、千から万へとつながる中間の言葉、あるはずの間に入る言葉数詞と言うものがまったく見当たらないのである。本当に古代から百、千、万の数が存在したなら当然それらを結ぶ秩序ある数詞の数々が少しは伝えられているはずであろう…、しかし、それらはまったく見当たらない、ナッスイングなのである。

さあ、まずはこの「ひふみ…天地の数歌」を詳しく計り見て、そこにある真実を見てみることにしよう。そこには今まで誰にも見出されることもなく眠りこけていた「神のハカリゴト」「神の息吹」の存在をしっかりと見て取るはずである。ただし、天眼をしっかり見開き、そこに流れる神々の鼓動を感じ、ひそかな神の言葉の響きを聞こうとしない限り、それら一切を押し開くことは出来ないと心得てほしい。

すべては神の御心のままの姿であり、隠された存在としての姿である。ただあなたの鋭い直感と深い洞察力がこれらを結び上げることが出来き、それによりそこにある「数」と「言」の持つ二つの魂とその絆の存在をはっきり見通し、掬い上げることが出来るのである。

また、それはただただ易しくて、ただただ難しいものである。なぜならば、それは古(いにしえ)の心には存在したが現代の心にはそのかけらも無いからである。果たして、そのどちらが自然の心に合い、自然の姿を写しているものなのであろうか…。

さあ、心してそこにある祝詞「アイウエオ五十音」を鍵として「ひふみ…天地の数歌」の錠を開いて見よう…!。その姿は次のような子音の結びを丹念に追いながらひも解くことから始まるのであり、その結びの存在こそが誰も知らない「永遠の妙なる循環」の存在を高らかに語り上げているものである。

出来る限り心を大きく開いて夢想無念になって、これら「ひふみ…天地の数歌」を唱えることである。その上で心を無にして奥を覗き込むのである。するとそこには次のような秘めやかで微かな子音の流れが秩序を持って連なって存在していることが解るはずである。

 それは… 、み、よ、い、む、な、や、ここ、足り(ここまで)、ひ、ふ、み、よ、い、む、……と続くのである。すべてはここ(9)で足りて(完了して)循環が繰り返されているものである。
   (発音は少々今とは異なる、何しろ数千年の時を経ている言葉であるからやむを得ないものであろう…。)

これが元々の正しい「ひふみ…天地の数歌」の読み方であり、その綴り方でもある。そこからこれらの子音を取り出して並べて見る。すると次のようになって何事かを囁いていることがお分りになるであろう。

  い、 う、 え、 お、 い、 う、 え、 お、 あ、 い、 う、 え、 お、 ……。

 
 何かおかしい、少々変な感じがするであろう、それはすなわち、「あいうえお」の最初の「」が欠損して正常な流れではない、すなわち、それが欠けてあるべき場に無いからである。そこをひとまず考えるのである。まずはこの不足しているところに「」を入れて見よう。すると、次のように素直な形で流れる「あいうえお」のの姿が見えて来るのである。

 

、い、う、え、お、、い、う、え、お、、い、う、え、お、、い、う、え、お、、い、う、え、お、……。

 
 次はこれらの子音に付帯する言葉、すなわち、母なる「ひふみ…数詞」を見てみよう。すると、そこには何か不足の数詞言葉の存在があることに気がつき考え込むはずである。そこでその存在の位置をハッキリ確認するために、「ひふみ…天地の数歌」を数字で書き出して、改めてしっかり考えて見ることである。

 

 、1,2,3,4,、5,6,7,8,、1,2,3,4,、5,6,7,8、9……つづく


 ここからが直感と洞察力がものをいうのである、大きく目を見開き、素直な心で考えて見てほしい。


   一つここまでを整理して見よう。

 

1の前と5の前にある(マル)の持つ意味を考えるのである。すると、そこに入るものは1の子音が「い」であるから、その前にあるべきものは「あ」の子音を持つものでなければならないことが解る。

 

8の次の9は1の前のものと同じでなければならないことは数の並びから解るであろう。その事実があなたの心の壁を取り払い、あたらしい意識世界へと導いてくれることになるのである。

 

   現代数学的な定義では、自然数の最初は1であり、その前には何も無い、流れは12345…となり、最初の数は1と言うことである。しかし、我々は常識的、あるいは計算的、図形的に1の前には0があることを知りはじめた。その証拠が最近の「自然数の定義」の変遷である、すなわち、自然数とは0(ゼロ)を含めて012345…となりつつあることであり、それがすべてを物語っているものである。
 確かに、現在の先端数学式では1の前にある数は 0(ゼロ)であり、その数詞を置くことにより、すべては理に叶って自然的な姿となり、一切の計算上の矛盾と言うものが無くなって来ているのである。
 要するに、現代数学は今までの定義を捨て、新しい真実に沿う道を選択しつつある現在である。それは同時に、我々も時代に従って今までの心、意識を変えていかなければならないと言うことである。
 
 よく見るがいい、確かに、古代日本の祝詞「ひふみ…天地の数歌」は1から始まっている。
しかし、そこにはあるべき別の言葉がひそかに隠され、その解き方の鍵までそこには置かれているのである。その事実は「ひふみ…天地の数歌」の子音の響きの順を調べて見れば誰にでも解り、誰でも自己検証が可能なのである。それゆえに、また最も大切なものゆえに、
古神道の奥儀言葉の太祝詞はやんごとなきフトマニ大祝詞として最初に置かれ、恭しく唱えられて来たのである。まさに、「天地の数歌」の本分、本領の現われであり、真実を語る「永遠な言葉」とも言うべきものである。それを理解出来なかった我々の知のランクは古代の祖達よりも甚だ低いと言うことを改めて認めるべきであろう。それを知ることが祖達への心を込めた礼儀であり、作法礼と言うものであろう。 (太=フト → 長上なものに対する最高の尊称言葉)
 
ちなみに、フトマニとは天地宇宙の大道理であり、規則、作法のことである。…水谷凝真素美の「天津金木学」より

<まさに、祖達の頭脳よ栄えあれ、やさかましませ、いやさかましませである。「ひふみ伸示」にもあるではないか、「123唱えて岩戸が開くぞ、123とけよ、123は神ぞ、神のはたらきが123であるぞ、123は神の息吹ぞ、123の仕組みは永遠の動かぬ道のことぞ、」、と…。>

 

C 確かに、古代日本には0(ゼロ)の言葉は無い、しかし、よく調べると、その0と言う観念を表す代わりの言葉がひそかに隠されていることを「ひふみ…天地の数歌」がしっかり教えてくれている。
 その言葉とは1の前に最初に入るべき形容言葉であり、かつ語尾が「あ」で終わる一つの
言葉である。要するに、それは 12345…と言う「見える現象世界」の前に位置する「見えない世界」を表す一つの枕詞的な言葉である。それを表している現代数学の言葉が、すなわち、0(ゼロ) と言う数字なのである。
 面白いことに、現代の宗教家達はそれを表すのにの中に・(チョン)をいれて「神」を表していることである。また、「ひふみ神示」の中にも『一厘の仕組み』とはの中に・(チョン)をいれることぞ。よく心にたたみ置いてくれよ。」とある。何か古代の知者からのお告げがあったような感じであり、まことに不思議千万なことである。

よく見ると、8の次は9の数字が見られる、しかもそれは次の繰り返しの1の前の数である0の位置にあるものと同じものであると言っているので、ここからも(9=0)が導き出すことが出来るのである。 これらすべては「神の数学」のセオリ−通りであり、まことに不思議千万な数の表れである。
 今まで、数多の歴史上の知識人達が
この事実を見出すことが叶わなかったのであるが、ここに来て一気に真実が噴き出し始めているのである。 何故であろうか…!?。

    
   E 
更に不思議なことがある、ひふみ神示には「岩戸が開けると言うことは半分のところは天界となることじゃ、天界の半分は地となることじゃ。今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸は開けんぞ。」とある。要するに、「ひふみ…天地の数歌」に上記のように「神」を正しく配置すれば半分の1234は天界となり、残りの半分の5678は地になる、すなわち、その姿は天=012340であり、地=056780であると言っているのである。 よく下の図を見るがいい、012340と056780は動きが逆相であることを…。すなわち、012340は下りの象(陰)を持ち、056780は昇りの象(陽)の関係なのである。確かに、これらの真実は今の科学概念では解き放つことはどうあっても出来ない、不可能なことである。→下記の図2照覧…(資料追加)

 

 以上で我々の現代数学的な考察はひとまず終わりとする。次にこれらの関係を古代言葉である「ひ、ふ、み、…」をもって、しっかり考えるのである。 すると「ひぃ」の前に何らかの言葉が欠けていることが解る。そこで「ひふみ…」の言葉の順序から考えると、その言葉は「ぁ」の子音を持つ言葉であり、の心を満足させるものと考えるのである。すなわち、それは「0の心」を持ちながら、しかも、「無」の姿、「空」の姿をもつ大切な言葉でなければならないのである。

また、それは古代数詞である「ひ、ふ、み…」と時代を一つにする言葉であり、しかも、「ひふみ…」の心を十分に満足させながら、しかも最初に存在しなければならないものである。

 さてはて、その古代言葉、すなわち1の前にあるべき言葉とは一体何であろうか……?!。

純な心、古代に帰った自然の心をもって考えてほしい。すべては古代日本の真実を知るためであり、由緒ある古代日本の姿と古神道の本質を見出すための一つの前哨戦なのである。

そのあたりを改めて検証しなければならない、現代数学的に問題となるものはそこ、すなわち、4と5の間にある 0の存在である。その姿は現代数学には無い、しかし、古代の「ひふみ…」の中には確かな形で存在しているのである、それをまずは解決しなければならない。しかし、残念ながら、それはどうあっても現代数学的な流れの中では解決することは出来ない、なぜならば、古代の「ひふみ…」の数詞はご存じの通り、循環と言う流れの中で流れて意味を持っているからである。

要するにそれを解決するには循環態という自然の流れの中で考えなければならないのであり、その中で追求しなければならないのである。

 

 それを示しているのが次の図である。

 

 

 次の【図3】は【図2】の「ひふみ…循環体」をデフォルメして縦の数の関係を見たものである。

 
 

            <これらの図は「真実の数理」講座(bP)からの抜粋である>


 【図2】を見てほしい、ここにあるのは自然の道、すなわち、「1234」と下方に向かって流れる「陰の数列」と平行点(中庸点)を経て今度は逆に上に向かって流れる「5678」の「陽の数列」である。よく見てほしい、そこには平行(平衡)という傾きのない中心場が2か所あるではないか…。その一つが上部の(0,9)の場であり、(0=9)の理の存在を示しているものである。

 さて、問題は下方に位置する4と5の間であり、そこにも 0 がなければならないと言うことである。何故なら、ここももう一つの平行(平衡)場が存在するからである。それが自然の決まり、すなわち、「天の理」であり、「天の律」なのである。ただし、それは現代数学(10進法)にはその姿がまったく無いのである。

この平行(平衡)場とは中立(中庸)のエネルギ−場であり、動きの無い場、すなわち、運動(位置)エネルギ−が0であり、ポテンシャル・エネルギ−(潜在エネルギ−)は無限大という場のことである。

何故なら、物理法則であるエネルギ−保存則により運動エネルギ−とポテンシャル・エネルギ−の和は一定だからである。ここにある平行(平衡)の場は運動エネルギーが0であると言うことであり、それはすなわち、ポテンシャル・エネルギ−は無限大で、無限の力を持つ場を意味することなのである。要するに、それら二つのエネルギ−の関係は反比例状態にあると言うことである。

もし、それが一つのエネルギー的な存在であるとするならば、恐らくそれは無限のポテンシャル・エネルギ−を持つ「神」と呼ぶべき存在と考えるべきであろう。それを表している巷の言葉が「神は万能である」、「神は無限の力を持つ」などの言葉なのであろう。

すなわち、無限のポテンシャル・エネルギ−を持つ「神」とはの存在であり神=0 と言うことになるのである。また、この「神」が12345…の前にあると言うことは、すなわち、「神」こそがこの現実世界(12345…)を生み出した完全母体と言うことである。このあたりのことをしっかり考え、心に含み置いてもらいたい。

 そのようなことを納得出来たならば、後は考えることは容易(たやすい)いものになるはずである。

 自然の基本態である原子の基本因子である電子の動きを見るがいい、めぐるましい動きで陰の場と陽の場を駆け巡り、常に変化の連続にあるものである…。【図2】は現代物理で言うところの電子の動きを表わす「電子軌道とその位置エネルギ−」の図とまったく同じものであり、寸分も違わないものなのである。
 また、電子の動きこそが自然の揺らぎの原点であり、自然の吐息とも言うべき陰(−)と陽(+)の絶えることのない変化なのである。

 さあ、最終的な結論に入ろう。すなわち、上記のの中に入る言葉を見出すのである。

 解っているのは「あ」の子音を持ち、「神」を示す尊い古代言葉であるの二つなのである。

もはや残されたぺ−ジも少ない、急ごう。私が古語辞典から選び出した言葉は「カムナ」であり、「神名」、すなわち、「神の名と言う言葉」なのである。すると…、不思議な事に「カムナ」=「神名」=「神の名と言う言葉」= と言うことになるのである。


 
カムナ、ひ、ふ、み、よカムナ、い、む……と続く。

                                       (一つ、唱えながらその響きを感じることである…!)

また、9=0と考えると9の場にも「カムナ」を入れるべきであろう。それにしても一体誰がこのような驚くべき言葉仕組みを作り上げたのであろうか…。ただ畏る(かしこまる)だけであり、ただただ畏(おそ)れ入るだけである。
 また、「カムナ」の代わりに「カムナガラ」でもいいのかも知れない。祝詞として唱える際には自分の心と口上の流れにピタリと合う方を用いるのがいい、それは、すべては心のままに、言葉の流れるままに用いるのが自然であり、よろしいと言うことである。

最後になったが、この流れの全体を称して古の知者達は「カムナガラの道」と呼んでいたものであろう。何故ならその言葉の持つ意義やその時代の背景がピタリ合い、すべてが叶っているからである。カムナガラの道、それはまさに大自然の道、神が創り上げた自然創成物語と言うものなのである。
 「カムナガラの道」→遥かな神代から伝わってきた神慮のままで人為のない日本固有の自然の道…広辞苑より

この後に続くのは、これらを証するための数学的な数の証言の数々である。しかし、今のあなた方には少々解り兼ねる神の「数の理」と言うものである、それは「自然の理」さえも未だ解き明かすことの出来ないあなた方には少々荷が重いものと言うことである。何せ、形態の異なる「神の数学」を現代数学で推し測ろうとしても生まれるのはただ疑心暗鬼と不可解、そしてカオスと複雑とだけである。それはすなわち、基本概念、概念基盤がまったく異なり、一致するものは無いからである。

それを示しているのが、上記の円上を循環的に流れる数の姿であり、同時に廻り回る大自然の姿でもある。それに対し、あなた方が用いている現代数学は直線上を直線に進む数の走りの姿なのである。   <この後の詳細なる「数の理」を知りたい方は古神道(8)を参照してほしい>

 

果たして、循環系である円を直線系の定規で測れるのか…?!、それはお互いに基本の形が異なるので無理なのである。しかし、それにはまったく気がつかつかず、懸命に直線を円に合わせようとして苦労しているのが現代科学である。それでは何千年経っても、何万年かかっても合うはずがない…!!。
 
  
さあ、どっちかが折れて相手に従わない限り、一致点を見出すことは叶わない。

その折れるべきなのは人間側か、それとも自然サイドの方なのであろうか……!!!?。

                                                               以上

 

<申し訳ない、寄る年波には勝てず、妄碌の限りの状態である。本来なら、もっと明確明瞭にしっかり筋を掴まえて、これらの理論を的確、かつピンポイントに捉えて説明をし、十分に整えた上で改めて世間に出すべきであろう、なんせ、虫眼鏡片手に文字を追い、少し書いて腰をなだめ、また書いては萎えた足を揉む有様なのである。恐らく、誤字、脱字、意味不明諒等の不手際が多分にあると思われるが、 そのあたりは一つご了承下され。また、出来る限り文意を汲みながら、推察しながら、正しいものにご訂正いただきたい。もし、誰か、若くて頭脳明晰、推察力抜群の方がいて、もっと懇切丁寧、そして巧みな表現力をもってこれらの文章を意味を簡明。簡略に書き改めて下さるならば、まことに有難いと思うのである。そのような奇特な方はいないであろうか…?!!。これらは国の宝であり、あなた方日本民族の叡智と言うべきものである。出来れば、1億人全体の頭脳を介して仕上げるべきものであり、総出で纏めるべきものと言ってもいいものである。出来れば心と力を貸していただき、もっと明瞭な形にまとめておきたいと思う。今は無理でも将来の誰かがこれらのすべてを解き明かし、世界に向かって万全の気を吐いてくれるはずである。 さあ、私には残されている時間は余り無い、もそろそろラスト・スパ−トの態勢に入り、更なる「神の数学」の数々の至宝を世の中の「知に飢えている」方々に紹介しておかなければならないと考えている。でも、果たして、何人の現代人に「神のの数学」は通じているのであろうか…!!・。

                          敬具

 

古神道に封印された「古代日本の真実」を求めて(7)

                               2012年8月 謹んで上載

  

 古神道の魂である双祝詞「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音」の秘密を探る

                (その4)

 さあ、今回がこのシリ−ズ、古神道に封印された「古代日本の真実を求めて」の最終章である。

 まだまだ言いたいことは山ほどある、書き足さなければならないものも海ほどあるが、とにかく先を急がなければならない。

何故なら、数の本編である「神の数学」の諸稿もなおざりには出来ないからである。そちらがあるべき本来の主人公であり、本来の筋と言うものであるから…。 とにかく急いで次へと進まなければならない。時間には限りあり、待ってはくれない。

もし、共感を得て、なおも奥の知の拝殿を伺い見したければ直に私に尋ねるがよい、出来る限り案内もしようし、知っている限りにおいては答えてもいこう。それも恐らく、この2,3年限りであろう、人生には限りがある、それを迎えると言う避けられない究極の運命が待っているのである。

 過去の歴史ばかりではなく、現在の日本にも封じれ忘れ去られようとしている「真実」がまだまだあることを知ってほしい。
、今の若い人々は何も知らない。恐らく、100年も経てば完全に風化してしまいうであろう。すでに人々に忘れ去られ、風化して消えて行った真実の歴史が同じように数多存在するはずである。それらを出来る限り掘り起こし、世の中に出すことはすなわち、本当の歴史が陽の目を見て、改めて人々の心を揺るがすことになるのである。

確かに、現在の一般の歴史書を見る限り、今回の敗戦においては何事もなく、スム−スに物事は展開されアメリカ占領軍の下で平和裡にすべてが終了し、混乱は何も無かったと記されている。しかし、それは表の顔である。そこには触れてはいけない裏の顔があったことを我々は決して忘れてはならない。それが封印された裏の歴史であり、国が忘れ去ろうとしている裏の歴史の存在なのである。

 その裏の顔とは歴史では語られていないが、今回の第2次世界大戦で満州国に遺棄された200万人余の日本国民(関東軍を含む)の存在であり、70万人にも及ぶ日本兵士の終戦後における強制的なシベリヤ連行事件の存在である。迫りくる飢えと寒さにさいなまれ、命を落とした者が数十万人、恐らく満州における民間人とシベリアの強制労働に従事していた者達を合わせると五十万人に近い数字があったはずである。これらすべては政府は何の術はなく、在留の200万人はまさに人身御供の態であり、どうにもできなかった、すなわち、帰ることもままならない状態に突然放り出され、多くの命が失われたのである。

今ではそんな事実はすっかり忘れ去られて話題にも上らない。それらのすべては脅しと謀略に屈した戦争の悲惨な裏話であり、外交と言う言葉の奇策に見事に引っかかった日本の恥部なのである。だから歴史の表には出ては来ない。要するに、国は忘れようとしているのである。

しかし、今まさに再び、それが起ころうとしているのである。現在の中国に進出している日本企業は3万〜4万社、人員は15〜20万人くらいはいるであろう。万が一、中国が崩壊し動乱が起こった場合、彼等は完全に見捨てられ放り出され民衆の餌食になる、すなわち命を失うことになるのである。 日本政府には救出する手立てはまったくない、ただただ全員見殺しにするだけである。恐らく、この1〜2年(2012〜2013)の間に中国崩壊はおこり、大動乱が始まると専門家達は見ているようである。機を見るに敏な韓国企業は今、夜逃げ同様な形で中国から逃げ出している。相変わらず鷹揚なのは日本企業であり、まったく安閑として他人のことのように眺めている状態である。

今、各企業は何らかの方策を立て準備はしておくべきであろう、それが転ばぬ先の杖と言うものである。日本人は余りにも鷹揚過ぎる、それが日本では長所なのであるが、見知らぬ外国では欠点となるものであり、命取りになることを知ってほしい。

 

何故このような見苦しい日本の過去に今更首を突っ込み、あばき出すのかとお尋ねもあろう、その理由を申し上げよう。かく言う私がその最後の証言者という資格を持つ者だからである。もはやすべての先達証言者達は没し去り、語る者とてはいない現状である。私は上に記したようなことの僅かに残る経験者の最後の一人であり、数少ない伝承者と言う立場にある者として真実を告げなければならない、それが私の義務があると考えているからである。

私は知っている、終戦後におけるシベリヤ連行事件の裏幕を、悪いのは軍の統括者達であり、最後の命令を下した司令官達である。なぜなら、彼らの稚拙な命令、安易な命令こそが数十万人を死に追いやった元凶だからである。彼等は敵に脅かされるままに安易に命令を下したのがそもそものはじまりである。それを話そう、当時10歳の私と3歳の弟は飢えと寒さに震えながら吉林省から命からがら徒歩で南下途中であり、そこで同じように港を目指して南下中であった陸軍のトラック部隊(約10台くらい)に運よく拾われたのである。
 それまでの半年以上の逃避行で7人の家族のうちの5人は次々と倒れて死亡し、そのまま道端に埋めて置いて来たと言うみじめな状態であった。あと1日も拾われるのが遅かったら確実に死んだであろうとトラック部隊の兵隊さんに言われたのを覚えている。

そのトラック部隊は途中でクリ−ク橋の破壊、道の崩落、突然の匪賊に遭遇などに遭いながら何とか苦労してやっと最終地である港までたどり着いたのである。たしかコロ島と言う名前であったと思う。 (ずっと地図でコロ島を探してきたが見つからない、誰か知っている方がいるならば是非教えてほしい)      

 その翌日、すぐさま30歳くらいの部隊長から重大声明が下されたのである。   

それは「これから明日○○時に再び出発する、向かうところは××である。そこで一斉に武装解除を受けて、そこで改めて皆で一緒に内地に帰還する」と言う内容であったことを今でも鮮明に覚えている。彼ら軍人達は誰も不平も洩らさず、そのまま来た道を一人の脱走者も出さずに戻って行った。確か、全員20歳代の若者達であったと甦った記憶は告げている。この○○時はその通りの言葉○○であり、数字の時間ではなかった、それが子供心にも不思議であったので今でも記憶にあるのである。それらの光景が65年たった今、おかしい位、鮮明に時空を超えてフラッシバックして脳裏に焼きついて離れないのである。

あとで聞いた話によると、何と、集団で武装解除を受けた兵隊たちはすべてそのままソ連軍にシベリアに連行され、捕虜として酷寒地での強制労働に従事することになったのである。とにかく上官の命令に忠実に服したことが結果的に命取りとなり、そのまま騙されて強制的に連行されてしまったのである。そのような上官の集合命令がなかったならそれぞれ三々五々と連れだって早々に日本に帰って来れたであろうに。彼等は余りにも律儀で正直者であり、上官の命令は天皇陛下の命令と信じていたので決して逆らうことは出来なかった兵達(つわものたち)であった。そのあまりの忠実さ、従順さが今では悔やまれる。

ソ連兵によって武装解除された彼らの大量の武器弾薬や車両のすべては北方匪賊である八路軍に回されて政府軍とのドンパチに使われてしまったのである。それはすなわち、ソ連軍と八路軍は裏でつるんでいたということであろう。恐らく、ソ連軍は押収した武器や弾薬を八路軍にひそかに売って莫大な利益を上げたと思われる。何しろ70万人の軍隊が所持していた大量の武器と弾薬である、その行方こそがその後の大陸の大勢を決した、すなわち、中国共産党(八路軍)の勝利とその後の大躍進の最大の要因になったのがこの大量な武器と弾薬、そして八路軍に身を投じた日本兵(数万人?)の存在であり、彼らの類まれな作戦能力と行動力こそがその後の大勢を決したのである。

 なんせ、八路軍(北方匪賊の集団)は最初から威勢がよかった、なぜならば満州国の鉄道、工場、その他のあらゆる日本のぼう大な遺産のすべてを引き継ぎ、と同時に優秀な日本軍の幹部や兵隊を続々と八路軍に勧誘参加させて戦略を立てさせたからである。それが次々と政府軍を敗走させていった最大の要因であり、強さの基であったのである。そのあたりのことは大人が噂するので、幼い私の耳にも入ってきたのである。正直に言えば、それは幽霊関東軍と中国正規軍との戦争の続きであり、陰の戦争と呼んでいいものである。

それらの事情があったからこそ、単なる北方匪賊の集団に過ぎない八路軍が正規軍である政府軍を完膚なくまで敗走させ、最後には中国全土を治めることが出来たのである。なんせ、当時の八路軍は日本兵が混入していたので日本人の難民にはやさしく危害を加えることは決して無かった。それに比べれば、ソ連軍は鬼畜そのものであった。彼等は見たことの無い連発式の短い銃(長さ1メトルくらい)を首から掛け、酔っ払っては日本人の群れに威嚇射撃をして何人もの婦女子をさらっていった。今でも、その悲鳴や家族の嗚咽等はしっかリ耳に残っている。これは恐らく一生消えることはないであろう。

北方匪賊である八路軍との戦いに次々と敗れた蒋介石の率いる政府軍は逃げ場を失い、最終的には海を越えて台湾に逃げていった、それが現在の台湾政府であり、蒋介石が築き上げた台湾という新しい国なのである。

大陸と大変仲が悪く今でも犬猿の間柄なのは歴史上から言っても至極当然なことであり、当たり前のことなのである。

なんせ、彼等は他民族同士であり、歴史上でも何千年と言う長い間、常に抗争に明け暮れしていた間柄であるのから…。

もっとハッキリ言えば、今の中国は漢民族の正当な民族政府ではなく、北方周辺民族の寄せ集め集団によるもの、いわば、異民族である北方民族であり、漢民族よる正統な国家ではないのである。しかも、現在の中華民国成立の本当の立役者は日本であり、敗戦で散った精鋭関東軍の兵士達なのである。しかし、そんなことは誰も知らない、今の中国人でさえも恐らく知る者は少ないであろう。
 要するに、現在の中国、すなわち大陸の覇者である中華民国の生みの親は旧日本軍であり、日本人こそが本当の立役者なのである。それが正しい歴史の答であり、その姿なのである。それが歴史の正しい見方なのである。しかし、今では、誰もそんなことは知らない。

そこには日本人のエネルギ−のほとばしり、すなわちジャパ二−ズ・パワ−の炸裂が底辺にあり、それがすべての原動力となり、起因力となったことを我々は知らなければならない。

あなた方は何を勝手な手前味噌をほざくのかと笑うかも知れない、しかし、現在の状態を見るがよい、かって日本人のエネルギ−のほとばしりの洗礼を受けた現在のアジァの国々をしっかり見るがよい。彼等は500年近くも西欧の国々の圧制と搾取により大変苦しんでいたのであるが、それが僅か3〜4年で見事に西欧から解放され、それぞれが独立を勝ち取っているのである…!!
 それも、たったの3,4年の間にである。そのきっかけを作ったのが日本人であり、日本のエネルギ−のほとばしりの洗礼を受けた国々の現在の姿なのである。が肝心の日本人だけがそれを知らない。

それを知っているのがアジア諸国の政治家であり、知識人達である。例えば、インドネシア政府の高官は言う、「我々インドネシア国民が感謝することは戦争が終わってから数千人の日本軍人が帰国もせずに、インドネシア国軍と共にオランダ軍と戦い、国の独立を助けてくれたことである」と。また彼等は面白いことも言っている「500年も我々を支配していたヨロッパが謝罪もしないのに、僅か3年半の大東亜戦争での占領を日本が謝罪するのはおかしい、外交音痴も甚だしい。これがイギリスや中国だったら、謝りまわる海部首相や村山首相などの政治家の姿は「利敵行為をした売国奴である」として罵倒されることになる。現実を見るがよい、イギリス、オランダ、フランスは謝罪はしない、だから賠償金も払わない。ところが日本は謝ってばかりいる、だから賠償金をあちこちに支払う羽目になるのである。まさに外交音痴である、日本の政治家はもっと勉強してほしい」。…「困った国ニッポン(土生良樹著)」より。

更に彼等は言う、「どんなに状況が悪くなっても日本には頑張ってもらわなければならない、日本が低落すれば先の大戦で独立した我々の国々も駄目になる。だから、我々はこぞって日本人の覚醒を促す活動をつづけなければならない」と…。彼等は我々よりも日本人の本質を見抜いているのである。 まさに、目から鱗(うろこ)の言葉である。日本の常識は世界の非常識である、そのことを日本人は知らなければならない。特にこの国の将来を担おうとする若い政治家達には…!!。


 そのあたりを俯瞰的な歴史として古代から順を追って見てみると、なんとなく際立った一つのうねりの兆候が見え、歴史的にもうなずけることになる。そのあたりはこの第2次世界大戦後の僅か40年〜50年間のアジア諸国における日本の足跡をしっかり見ても何となく解るはずである。要は歴史の筋道をしっかり見ることが必要でであり、その上で考えることである。

まずは韓国である。戦後の1970年あたりから日本の企業が韓国に進出した結果、韓国の経済力が強くなり、現在の繁栄があるのである。しかし、民族性が日本とは全く異なり対立性が強いので国が豊かになったのは日本のお陰である等の感謝の気持ちは一切無い。恐らく、日本が駄目になる時が来れば、その前に韓国はつぶれるであろう。また、韓国がつぶれそうになると必ず、日本に助けを求めてしがみつくはずである。 終戦後、日本はどれだけ韓国に資金援助をしたことか。しかし、すぐにそれを忘れ日本を誹謗するのが韓国人の特質である。有難がたがるどころか、強い者は弱い者を助けるのが当たり前だと威張っている。歴史的な因縁を見ると昔から同じ事の繰り返しであり、何も変わらないのである。
【その詳細を申し上げよう、例えば、1969年に韓国経済は破産し、助けを求められた日本は当時の韓国の国家予算の3分の1にあたる金額をを無償供与をしたのである。最近でもウオン高救済資金200億ドル(2006年)、リ−マンシヨック時に300億ドル(2008年)、その上今回は新たに700憶ドル(5兆4000億円)の資金援助を野田総理大臣は申し出ているのである(2012年)。 この大地震と言う災難と不景気というダブルパンチの時にである。まるでこれでは日本は韓国の財布そのものではないのか…。】  資料拝借大摩邇(おおまに)井口博士のHPサイトより、

次に日本は韓国から台湾に転出したのであるが、ほんの僅かな期間で台湾経済を盛り上げて世界的な技術立国にしたのである。またこの国は元来日本びいきなので、今のところ日本と仲良くやっているし、これからも同じような関係が続くであろう。これも歴史にある通りそのままである。その昔からイザコザは何もない。

今は、日本の企業はこぞって中国大陸に進出している、それこそ猫も杓子もである。それが中国の経済を変え人々の生活を変えようとしている。現在は日本の技術者を懸命に集め、工場を招聘して日本の技術をあらん限り吸収して自国の基盤を固めることに専念しているところである。そのあたりの深い策謀の存在を果たして日本人は知っていることやら…。??

しかし、これが一段落するとどうなるのか…?!。

それは最早日本は必要なしとばかり、石を持って追われるだけである。すなわち、工場や機械、あるいは知的テクノロジ−等はすべて没収され、あらん限りの資産は奪われて日本人は帰れ、日本人は不用(プヨウ)との怒号の波で無一文となってすごすごと帰るだけである。それが歴史の語る真実なのである。 しかし、それを行うのは中国政府ではない、ただ民衆にそれをやらせるだけである。それが中国の常套手段であり、悪賢いところでもある。要するに終戦時の甘い体験が彼らには忘れられないのである、ただ、一夜にして大金持ちになったあの経験が…。また同じことが必ず起こるはずである、それが歴史の繰り返し現象であり、歴史の本質の現われと言うものである。私の経験と直感がそう囁いているのであるが…。しかとご用心、ご用心…!!。

同じような大変化、すなわち、日本人の赴くところ、すなわち東南アジア全体で起こっていることを知ってほしい。要するに、日本人が進出するところはどこでも同じように国全体が大きく変わり、発展テンポが速くなると言う近代化現象が起こっているのである。マレ−シャ、ベトナム、タイ、ビルマ、シンガポ−ル、インドネシヤあたりがそうである。その証拠に、これらの国は今では経済的にも大きく進展し、国力をつけつつあるではないか…!。 唯一の例外がフィリッピンである、余り発展性は見られない、なぜならばそこはアメリカ圏内であり、アメリカの勢力範囲であるからである。

もっと大きく目を走らせよう、世界の識者達は今や言う、「世界中の日本人が進出しているところでは日本文明が花を咲かせ、それが人々を魅了し始めている」と…、まさにその通りである。 もっとハッキリ言えば日本人のエネルギ−が今世界を席巻しはじめているのであり、日本文化が世界を魅了しつつあると言うことである。要するに、大きく言えば、世界が日本化現象に向かいつつあると言うことであろう。

 

そのような認識の下で世界を見るとすべてがよく解る、例えば、1万六千五百年前の世界最古の縄文式土器が存在や1万1千年前の漆塗りの装飾品の出土など、あるいは読解不能とされていた世界の古代文字が日本語で解読可能などの驚くべき事実の発見等である。 また、稲作は外国から持ち込まれたのではなく、日本から外国に持ち出され、広がったと言う事実、すなわち、今までの通説の逆の事実が見出されているのである。それまでは、稲作は中国から伝来したと有難がっていたのである。なんせ、その稲の化石が六千年前の縄文期の地層から見つかっているのである、誰も文句のつけようの無い立派な証拠である。それは稲作は日本から世界に広がったとある日本超古代文献の語る世界はまさに真実であり、嘘偽りは無かったとの証明である。要するに、遥かな過去に偉大な日本文明が存在した紛れもない証拠であり、大いに讃えるべきものである。

 まさに面白い事実が次々に発見されて歴史は塗り変えられようとしている、今の日本の姿は過去の歴史の再来、大いなる歴史の繰り変えしと言ってもいいものであろう。そのあたりは、超古代の物理理論書である「カタカムナ文献」やこの「神の数学」の語る「古代の知」の現実存在から見ても誰でも納得出来るものである。

それはまさに超古代文献の言う「数千年前に世界を巻き込んだ古代日本超文明」の再来であり、その再現現象とも言うべきものではないのか…。 そうすると、かってアメリカのキッシンジャ−ァ博士が「個人に遺伝子があるように、国家にも遺伝子がある」と言った言葉も、まさにむべなるかなと言えるものである。

それはフランスの心理学者であるユングの言う時空をまたぐシンクロ二シテイ(共時性)の現われと言ったものであり、過去の歴史の再来現象と言ってもいいものである。 更に彼は言う、「シンクロ二シテイとはこの世の裏側に潜在する何者かの意思、あるいはより深いところに隠されている秩序からもたらされる「意味のある示唆」である」と…。<常識に閉ざされている者には数千年前に世界を巻き込んだ古代日本文明と言っても解らないであろう、まずは「竹内太古文献史」を読んでみるがよかろう。>

 

  またもや、今月も脱線したようである、話を本筋に戻そう。ここからが本文本節である。

 

『天地(テンチ)の歌』を歌っているものは祝詞「ひふみ…天地の数歌」ばかりではない、双祝詞であるもう一つの古代祝詞である「アイウエオ五十音図」にも同じ「天地の相(姿)」が歌い込まれているのであるが、誰もそのことを知らない。今回はそのあたりをかいつまんで話してみよう。すべては超古代の文献からの資料転載であり、事実そのものを記しているものである。

確かに、調べれば、調べるほど日本の古代歴史は奇々怪々なものであり、奇妙な面影を漂わせているものである。それを証しているものが古来から秘匿伝承されて来た数多の超古代文献の群れである。なぜなら、そこには記・紀等の既存の古典文献には無い数々の記録がふんだんに盛り込まれ、それを細々と伝えているからである。それらは我々に歴史の真相を語りかけてやまないのである。

驚くべきことに、これらが世界中が羨むほど多数転がっているのであり、掃いて捨てるほどあるのである。ただ、それらは歴史学者達が構築してきた歴史とは相矛盾するものなので、無視し否定されているるだけである。特に戦前は皇室を侮辱するものとして厳しく取り締まりを受け、弾劾され足踏みされたので、そのしがらみが今でも残って研究者の足を引っ張っているのである。

 

それから、もうそろそろ100年、真実を再び語ってもいいであろう。いや、今語り置かなければ永久に闇の中に葬りされて陽の目を見ることは叶わないものになる可能性もあるのである。

それらが正しいか否かは諸氏の心が判断すればよいのであり、しっかり考えて自己検証すればいいことである。なまじっか学者達に尋ねても生返事が返って来るだけであり、否定されるだけである。何故なら、彼らもあなた方同様に何も知らないので答えようがなく、それに自尊心が強いので否定の言葉が返って来るだけなのである。

古代より伝承され、広がってきた日本語の基本である「アイウエオ五十音図」、すなわち、「アイウエオ言霊之図」は単なる古代音韻の発音を伝えているだけではなく、その裏には驚くべき秘密が隠されていたのである。おそらく、それらは祖達が苦労に苦労を重ねて作り上げたものであり、神代文字、あるいは神代言葉を漢字に改定した際に暗々裡に隠し置いたものと推察されるものである。 何故なら、弥生時代には権威を奮って我が物顔に日本を牛耳っていた大陸勢が大勢存在していたからであり、彼らにその真実内容を悟られることを大変恐れ、嫌っていたからであろう。

誰も知らないそのあたりの事情を少々竹内古代文献の万国史から抜粋して転記してみよう。

……「漢軍の皇都占領でこれまでの平和な縄文文化は弥生文化に一変し、武力による統治方式が確立されたのである。また漢人は神代カナを抹殺して朝挺その他の公用文書には漢字が使用を命じ、神代文字の日本文化は完全に勢いを失ってしまったのである。漢字を知らない者は奴(ヤッコ)と呼ばれて奴隷のような身分に落とされ、帰化人はすべての分野で指導階級となったのである。この後帰化人達の急増により弥生文化はますます強化され、縄文文化はいよいよその影を薄くしていったのである。」…万国史より

これから始まる「あいうえお五十音図」にまつわる不可思議な物語は古代文献の「ホツマツタエ」の中にある「天地の歌(アワの歌)」にある漢字をそのまま転記したものである。そこには「アワノウタ」として知られる四十八の漢字が記され、その最初の音であるア(天)と最後音であるワ(地)をそれぞれ取って「天地(アワ)の歌」と呼ばれているものである。この「天地(アワ)の歌」はその漢字の持つ意味により想像出来る通り、すべては天地宇宙間の諸象や、現代人も知り得ない「あの世」と「この世」の関係を表しているものである。それを見れば古代の祖達の知のレベルと言うものは現代人の知のレベルを遥かに超えていることが解るであろう。  まあ、ひとまず頭を冷やしてじっくりと考えることである。

  果たしてそれは失われたのか、それとも秘密のうちに隠され封じられてしまったのであろうか。

 その謎を探り解き明かし、さらに不思議な祝詞の《言霊の仕組み》を用いてそれを現代の世に呼び戻して見ようではないか…!!。これは今だからこそ出来る古代日本の「真実解明の物語」であり、古代日本の「超知の存在物語」でもある…。

  古代より伝承されて来た尊い双対の祝詞の一つである「アイウエオ五十音図」はなぜか祝詞から外され、代わりに「いろは…歌」が庶民の間に姿を現し始めたと歴史は告げている。確かにいかつい発音を持つ「アイウエオ五十音図」よりそこはかとない哲学的な流れを持ち、口にも軽やかで心地よい響きを持つ「いろは…歌」のほうが一般大衆には好まれ、愛されて来たのも無理はないことである。それは「色は匂えど、散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ…」と流れて、哲学的思想観と共にあるのが無常世界の心の響きもあり、まさに日本人の心、好みにピッタリと合ったものであった。しかし、これは歴史的には大変浅いものであり、平安時代の弘法大師の作といわれて大衆からは「色葉(いろは)歌」と呼ばれていたものである。また当時流行っていた数言葉に「だるまさんがころんだ」という数え唄があり、それを口ずさみながら1〜10までを数えるのである。この歌も甚だ意味が深いものを含んでいるようである。 これもまた同じく弘法大師の作と言われている。
 要するに、達磨さんが転んだの意味とはすなわち、「天竺の知よりも、こちら(日本)の知の方が遥かに真実である」と暗にほのめかしていると考えてもいいものである。 <天竺梵語ではダルマ(Dahrma)とは法、理法、教法を指す>
 そのあたりから考えると、ひょっとしたら、祝詞「アイウエオ五十音図」を一般大衆から隠すために祝詞から下野させて隠し、代わりに「いろは…歌」を大衆に与えたのは弘法大師であったと考えてもいいであろう。
 なぜならば、「ひふみ…天地の数歌」と「アイウエオ五十音図」を相並列させて置くと何時か誰かがこれら二つはお互いに関与していることを知り、そこにある秘密が見出されることを恐れたからと考えられる。

 ではそこにある絶対の秘密とは一体どのようなものであろうか、それをこれからじっくりと披露しょう。

 恐らく、西洋科学知と言う宗教に頭を冒されている方々は「遥か古代の人々が現代科学さえも掴んでもいないような高度な知を持っていたとは到底考えられないと申し立て、反発するであろう。しかし、それは自分達の程度の低い知を棚に上げて古代の知を悪ざまに罵っているだけである。要するに、勉強不足、知識不足を自ら暴露しているようなものであり、ただただ、100年以上も前の知を今でも引き摺っている姿があるだけなのである。

 考えて見てほしい、世界中どこを探してもこの「アイウエオ五十音図」のように父音と母音が正しい秩序で固く結び合っている見事な秩序仕組みをもつ言葉は無いのである。まさしくそこにあるのは相繋がって流れる永遠の「陰」と「陽」と言う自然の道であり、同時にそれは古神道の奏でる「陰」と「陽」の調べの存在を物語ってやまないものである。まさしくこれは人類最高の言語上のマスタ−ピ−スと言えるものであろう。本来は、もっともっと誇りを持ってもいいものであり、世界に向かって声を大にしで叫んでもいいものなのである。何を遠慮しているのであろうか、誰にも遠慮等はいらぬものである…!!。
 それら何もを知らぬ学者達は愚かにもインドの梵字から来たとか、タミ−ル語と文法が似ているからそちらから来たとか愚にもつかないことを言っているのである。要するに、仏教の伝来以来すべては大陸から渡ってきたと言う誤った概念が彼らの頭を占めて離れないのであろう。本来は、遥か遠い日本の超古代に起源を持つもので、その驚くべき内容から判断するとその昔、飛来した宇宙の神々により伝えられたものであると結論づけてもいいものである。そのやんごとない証拠が「古代日本の真実を求めて」の(5)、(6)の数による解説なのである。そこにある数の理を見れば誰でもうなづけるものであり、否定等はどうあっても叶わないものである。何故なら、それらはとても、とても人間業などでは作ることが不可能なものであり、まさに「神業のマスタ−ピ−ス」と言うべきものであるからである。
 
 それはまさに言語学の権威である明治時代の山田孝雄博士がその書の中で述べている通りである。すなわち、「『アイウエオ五十音図』は宇宙間の音韻の根本原理を示すものであり、まさしく神授のものである。このような図表を作り上げた我ら祖先の偉大なる頭脳を驚嘆せずにはいられない」と…。まさに恵眼の至りであり、真実をついてやまないものである。

古神道の奏でる「陰」と「陽」の調べとは、すなわち、「神結び(カミムスビ)」と「他神結び(タカミムスビ)の両神や、「イザナギ」、「イザナミ」等の二神のゆくりない存在とその物語であり、そこにある固い結びつきの存在である。その「陰」と「陽」の結びつきこそが宇宙大自然を作り上げている本性本質であり、自然界の大摂理なのである。そしてその真実を語っているものが「神の数学」の数の語りであり、その秩序の存在なのであるが、これについては今まで、まだ誰も覗いた者はいない。

 
 古代言葉、「天地(アワ)の歌」より天(あの世)と地(この世)の姿を見る。

         『天地(アワ)の歌四十八音』…日本超古代史資料・吾郷清彦著(新人物往来社刊より


   あ(天)   い(命)   う(生)   え(胞)    お(緒)

  ↓        ↓        ↓       ↓         ↓

 (造化の神)     (巡りあい)      (生命)   (膜に包まれ,子宮)   (魂を?ぐひも)

   
 何と、生き生きと輝いている言葉の群れであり、まさに生命観が溢れている文字群の現われである。
 

 「お(緒)」は魂を繋ぐもの(紐)≠ナあり、「魂」とは次の『かきくけこ』の存在であり、その連結を指している言葉である。すなわち「あいうえお」と「かきくけこ」は「表の世界(この世)」と「裏世界(あの世)」という繋がった世界の存在であり、それを結び繋いでいるものが緒≠ニいう紐であると言っているのである。つまり、魂は緒により「あの世」と「この世」の間を行き来し、輪廻転生を繰り返していると言うことである。
            ※「緒」の語源は繭(まゆ)を煮て糸を引く出すこと(漢語林辞典)

 次に転じて『あいうえお』に続く『かきくけこ』を同じく『天地の歌四十八音』より拾うと、次のような驚くべき言葉の群が浮か

び上がって来るのである。何と言うことであろうか…!!

 一体これらの古代言葉とは何であろうか。そこには実に奇々怪々な文字とその意味が不思議な関係で平行状態で並び、何事かを囁いているのである。はっきり断じれば、これが謎の言葉と言われて来た「言霊(ことだま)」の正体と言うものであろう。

 

か(幽)   き(兆)   く(潜)   け(気)    こ(凝)

  ↓        ↓       ↓       ↓          ↓

 意思に反して  (魂のゆき場所)  (じっと潜む)  (目に見えない)    (そこにとどまる)
  押し込められる


 何と、暗くて淋しい文字の群れなのか、これは一目でその前にある「アイウエオ」の文字と対称的な意味合いを持つものと判る。

 上に示された漢字の意味を考えれば、どちらが「顕在(この世)」の姿であり、どちらが「潜在(あの世)」の姿であるかは一目瞭然であろう。これこそは、まさに「現実の姿(この世)」と「意識の姿(あの世)」の存在を示し、そのつながりを語り上げているものである。その事実を我々の祖はは十分知っていたのであり、これはその事実の確たる証拠と言える文字群である。

   ※ちなみに、利便のために辞書(広辞苑・漢語林)にある意味を記しておくので、各々の意味を再調査の上、直観的な心で検証してほしい。

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⇒ 宇宙の主宰者・造化の神・創造主

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⇒ 生命・めぐり合わせ・宿命

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⇒ あらゆる自然の生物・生み出す・発生する

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⇒ 胎児を包む膜(えな)・母の胎内・子宮、外部を膜で包まれている小さいもの

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⇒ 系統・心・尋ねる・長く続くもの・命や魂を繋ぐもの

 

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あの世・意志に反して押し込められる・隠れる・暗い・微かな・深く遠い

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⇒ 墓地・場所区域・特定な場所

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⇒ ひそめる・ひそかに隠れる・深いところ

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⇒ 心・感じ・宇宙の万物を生成する質料・目に見えない力

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⇒ 一つになる・とどまる・集中する・思いに心を用いる

 
 

ここにあるのは超古代の「アイウエオ五十音図」に隠された言霊を開いたものである。一体だれがこのように漢文字の裏に真実を隠し、ひそかに心ある人々や遠い子孫に残そうとしたのであろう。

それにしても、そこにある知の豊かさ、情知の素晴らしさにはただただ驚かされるだけである。

この後、さらに「さしすせそ」、「たちつてと」と続くのであるが、誰か興味と時間がある方は一つこの「言霊」の心を開いてほしい、ただし、知と運が上手に重なり、祖達の魂を呼びこまない限り、無理かもしれないが…。
 もし、手元に「日本超古代史資料」の原書があるならば、開い見るがよかろう。無ければそのコピ−(2〜3ぺ−ジ)を請求するがよい。お送り申し上げよう。】

 

この「天地(アワ)の歌」は超古代文献の「ホツマツタエ」と「ミカサフミ」の両書に記されている重要な歌である。なお、「ホツマツタエ」は約2000年前の書であり、「宇宙原理の書」とも言われているものである。ただ、学者達は2000年前の日本には文字がなかったと言い、これらの古代文献を偽書扱いにし無視しているものである。それはまったく数百年前の江戸時代の学者の受け売りであり、それをそのまま信じているだけである。それはまた、当時の知と同じレベルの何も進歩の無い脳をさらしているのである。
 それが日本の歴史学であり、世界にまれな他国からの拝領文字を有難がって何とも思わない姿なのである。なにしろ、国語学者や歴史学者等は口を開けば漢字は中国からの伝来であるとのたまい、しきりに中国を礼賛の態度を示し、その愚に気がつかないのである。 要するに、彼らの血には未だ大陸から来た外来祖のDNAがいくばくかは流れていると言うことであり、だから憧憬の念がひとしおなのであろう。最近の学校教師達が国旗、国歌等の無視、軽視等を耳にするたびにその思いが強くなるのであるが…。

 周囲を見るがよい、中国と境を接しているモンゴルや朝鮮半島でさえも漢字とははっきり縁を切って、まったく異なる文字、すなわち、モンゴル文字やハングル文字などの自国の文字を作り上げているのである。漢字を用いて何とも思わないのは日本人の悪いところあり、また、何とも思わない鷹揚なところにはまた何か大きな歴史の秘密があるようにも思われる。

考えて見るがよい、漢字を用いていると言うことはかって大陸人に占領されたと言う事実の何よりの証拠であり、漢字の伝来などの言葉でお茶を濁している場合ではない。それは世界の侵略史を見ればよくわかる、何しろ100年以上にわたり国が占領された場合には公用語はすべて占領国の言葉に変わってしまうのが歴史の常であり、現実なのである。歴史年表を見るがよい、西暦250年あたりから西暦400年あたりは歴史の空白時代とか、謎の空白時代と呼ばれて空白の欄が広がっているではないか…?!。

しかし、そのあたりの事情は超古代文献にしっかり記されているものであり、真実の響きを持って動かないものである。

つらつら考えて見ると、それだから中国に頭ごなしに馬鹿にされ、いいようにごり押しされているとも言えるのではないか…。彼等の頭の中は単純である、漢字を用いている、ははん、これは我々の属国であるに違いないと代々思っている可能性もあるのではないのか…。 ひょっとすると今でもそう思っているのかも知れない。ハハハ―…!?。

さてどうであろう、よほど意識を深く沈めて考えを巡らせない限り、あるいは博学な哲人的思索知の持ち主でなければ知ることの出来ない内容が『天地(あわ)の歌四十八音』の裏に人知れず隠されていたのである。 ここまで意味の深い「この世」と「あの世」の存在とその仕組みは我々現代人でさえ今のところ探ることが不可能であり、学者達も頭を悩ませている問題である。
 しかし、それらの具象内容の全般を古代の人々は十分に知り尽くし、このように文字の裏にそれを留め、書き残して置いているのである。それはまさに大いなる驚愕であり、信じられない真実の出現と言ってもいいものである。

その驚きを隠せないものが、すなわち、万葉集に歌われている「言霊(コトダマ)」の言葉であり、その裏に隠されている信じられない内容である。まさにそれは古代からもてはやされている「言葉の霊力」であり、「アイウエオ五十音図」の秘密なのである。
 言われてみればたしかにそうである、現在の我々でさえもそう思い、強くそう感じてやまないのであるから…。

古来より日本にはその言霊が大変多く存在し、いろいろな真実を秘めているおくゆかしい言葉として万葉集あたりで歌われているのは諸氏もご存じの通りである。昔から大いなる謎の言葉とされ、人の心をくすぐる言葉として伝えられて来たものである。例えば、「言霊の幸(さき)わう国」や「言霊の扶(たす)くる国」などの言葉であり、盛んに昔から万葉言葉として登場し、歴史を賑わせ、人々の心を華やかにして来ているのである。本来、そこにあるのは漢字に呪縛された真実言葉、すなわち漢字の裏に貼り付けられた日本古代の超知のいたけない姿の数々であり、遥かな祖達が子孫に残した思いを込めた「秘密のメッセ−ジ」なのである。

それは神代カナ文字を漢字に書き直す際に意図的な神代文字の意味移し≠ェあったことを示しているものなのであるが、誰もそこまで読み込み、頭をひねった者はいない。本当はそれらを考察するのが歴史学、あるいは歴史国語学者達の本分なのであるが、誰一人として、今までそこに気がつかず、目をやる者はいなかったのである。

ただあるのは万葉集にある「言霊」の言葉だけが一人歩きし人々を惑わし、人の心を迷わしている淋しい姿があるだけである。

 人々はただ「言霊」という言葉の響きに惚れ込み、憧れ続けてきているのである。その真実の何かを全く知らずにである…、ただ真実を誰も解き放った者がいなかったので、なおさら追慕の念を強く抱いていただけなのである。

しかしながら、これだけは「時」「知」「縁」といった環境がすべて整わなければ解き放つことは不可能であったものであり、それゆえに今まで誰一人知ることが叶わなかったのかも知れない。それも、やっとこの21世紀になって従来の科学的見地と言うものの見直しが始まり、人々は過去を凝視しはじめ、神話、伝説、習慣、あるいは古代文献に目を向け歴史の裏に隠されている真実を改めて探し始め、考えを巡らしはじめている状態、それが現在なのである。
 しかし、言葉の裏に秘められていた言霊の内容は我々現代人のもつ科学的常識の知を遥かに超えているものであり、なかなか正体を現すこともままならならず、今、やっと尻尾を掴まえたと言うところであろう。

果たして、我々はその古代知の仕組み図=Aその全体図を完全に手に入れ、自在に心に描けるのは何時であろうか。それを考えると、ただ溜め息が残り、虚ろな心が広がるだけである。  

我々現代人は果たして精神的な意味での進化の道を歩んでいるのであろうか? 果たして、我々現代人は古代人に比べて、より大きな知を得、天地自然の実相の真(まこと)を観てとっているのであろうか? 私には大変気がかりであり、また大いに危ぶむ気持ちで一杯である。

 まだまだ、古神道については述べて置きたい秘密が多々ある、しかし「神の数学」もおろそかには出来ない。

何故なら、古神道は日本人の学であるが、「神の数学」は世界の人々の学裡であり、未来の人々の学問でもあるからである。
 さあ、一つ頑張って未来への道、本当の自然の道の姿の真実を見て、明日の心の糧として頑張って見ようではないか…!!。

 次回からまた「神の数学」の講座に戻り、次の段階の「数の検証物語」を改めて披露するつもりである。

それはいわば今までの講座の応用編であり、検証編とでも申し上げてもいいものであろう。しかし、順序不同、とりとめもないような数の調べも入っているかも知れない。しかし間違いなく首尾一貫して真理を捉えてはばからないことは確かである。

「神の数学」は純然たる意識数学でもあり、そのジャンルに属するものである。すなわち、数学を通して意識を高め、不動の心を持つ人間性を作ることを本分とするものである。要するに、自然の事象を通して、人間にも、あるいは神にも通じる「絶対数学」、「真理数学」の存在を明らかにして世に知らしめようとするものである。そして大変やさしく誰でも学べるものである。

そこにあるものすべては珠玉の「数の物語」であり、数の奏でる天下無双の「大叡智」の数々である。そのあたりをよく汲んで検証し、十分に合点が行ったなら学びとって是非のちの世に伝えてもらいたい。

 日本の歴史は魔物である、まとわりついている執念の糸を払いのけ、真実の目で透かして見ない限り、その正体は見えないのである。まさに謎の中にまた、謎が潜んでいるのであり、秘密の中にまた秘密が口を開いているのである。一人、一人心の異なった者が思い思いにそのベ−ルを剥ぎ取りながら中身を検証し、それを伝えていかなければならない、それが検証なのである。
 要するに、すべてを甦らせるためには大勢の人々の力が必要であり、連携して調べることが必要と言うことである。

それは要するに、それだけ日本の歴史が古いと言うことであり、それだけ歴史は長く、それだけ込みいっていると言うことなのである。来月からの「神の数学の真理証明」の中では更に深い数の真実が光を放ちながらホ−ム:ぺ−ジと言う「まな板」の上でいろいろと自然の「数物語」を語り上げて、我々を驚かしてくれるはずである。すべては世界では初めての「秘密物語」であり、誰もまったく知らないものである。少しづつでもいい、 楽しみながら学んでもらいたい。
                                                                 以上。

来月、平成24年9月からの「神の数学」の記述は(8)「数が語る真実証明」に移行する。是非、そちらを見て戴きたい。要するに、9月の衣替えと思ってほしい…!!。