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  【超古神道物語2】

   「神の数学」の真実を語ろう


    令和編   『神の数学』
  
とても、とても信じられない不思議な,不思議な「数」
と「神」との物語。
                   
                                                         令和3年5月   上載 

 さて、さて、少々油断していたら、何と、今年も5月を迎えてしまった、何か、月日は益々速度を早めて来ているような気がするのは私だけであろうか、まさに、光陰矢の如くの言葉が、何故かこの年になってから、身に染みて判るような毎日である。

 
私はこの約半年の間に、人間には考え付かないような二つの大仕事をしてしまった、一つは「数」に関することであり、しかも、それは「現代数学」では考えられないような簡単な「数の計算」を用いて、「神」の存在とその検証を明らかにしたと言う事実である。
  
 要するに、今まで、誰もなしえなかった「神の存在」を簡単な「数計算」で明らかにしてしまったと言うことなのである。しかも、大変易しい計算、すなわち、小学生にでも出来るような簡単な一桁の「数の計算」でを用いてである……!!!。
 
 ただ、今の私に言わせれば、あなた方は、余りにも深く考え、遠くを求めてさ迷い歩っているので、それ故に、近くの真実にはまったく気が付かなかったのである。
 それともう一つ、あなた方は現代知に誇りを持っている故に、古い神話や古代史など言っていることには全然信頼を持たなかったことが災いしていると言うことである。
 要するに、その行為は同時に、「神」を敬遠していると言うことであり、故に、それは逆に「神」に惑わされている要因となり、本来のあるべき真実に気が付かないようにさせられているような感じもするのであるが、……!!??。 
 そのあたりは、大いに考えるべきであり、迷いから覚めもっと謙虚になるべきなのである。
 
 これは「神の数学」により「神」そのものは確実に存在すると言うことを間違いなく証明しているものであり、しかも、誰でも驚くような易しい「数」の仕組みを用いての証明なのである。
 
 要するに、「数」の本質を改めて突くことにより、そこに「神」の存在が強く浮かび上がって来るのであり、その時点で「神」をシッカリと身近に呼び寄せて、仲良くすればよかったのである。
 別に、「神」はあなた方を敬遠している訳では無く、あなた方が「神」を理解しょうとはしないだけなのである。それが今になって大きな災いとなって我々を苦しめ始めていることになっているのである。ひょっとすると、それはもっと、もっと深刻な事態を呼び起こし、我々を更に蒙昧の果てに追い込み、更なる嘆き苦しみを与え、挙句の果てには、進むべき知の方行さえも失ってしまうことにもなるかも知れないのである。
 
 「数」の本質を追うことにより「神」の本質を糺すことが出来る、これだけは誰も否定はできない正真神明の大いなる事実なのであるが、あなた方は誰もやろうともしない、まさに、それは大きな悔やむべき乾坤一擲のミステイクであり、我々人類のの大きな過ちでもあっただったのである。

 それを証しているものが、大古日本の古神道であり、あの「カムナガラの道」なのである。
 今では大分、デフォルメされて形が変わりはしたが、本来の神髄はそのまま保っているものである。しかるに、あなた達はその事実にはまったく気が付いてはいない悲しい有様なのである。
 そのあたりを少々説明しておこう。それにより何人かの直感、ヒラメキのある方が「カムナガラの道」を調査分析し、その解明の糸口を手繰り当て、そこにある内容を公開してくれることになれば、
我々、人類の知は、また一歩「神の叡智」に近づくことになって来るということになるのである。
 
 ただしである、「神」はあなた方の想像しているような人間的な姿とか、物質的な有形な存在等ではなく、科学者達が言っているような一種の姿の無い「超知的な存在」であり、現在の宇宙自然を設計し産み出した「大いなる究極的な存在」、あるいは、すべての自然の摂理を作り上げた意識的な「大いなる全知全能の存在」と言うものであり、同時に、どのような空間や時間の中にも常に等しく存在している「極め付きの存在」、それが
「大いなる神」と言うものなのである。
 それが「神」の偽らざる本質であり、全能無限極まりの無い「神」の本当の姿なのである。。  
 あなた方はガッカリするであろうが、しかし、それが本当の「神」の正体であり、「神」の本当の姿なのである。要するに、今の学者達の言い分も、ある程度正しかったと言う事なのであろう。
 
 確かに、あなた方は落胆するであろう、何故ならば、今まで我々は「神」は我々と同一的な存在、すなわち、それは我々には想像の出来ないような超知的な力を持った「人間もどきの現実的存在」と考えていたので、懸命に呼びかけたり、拝んだりして物事を頼んだり、お願いしたりしてきたのであるが、それらは何と、一切何の役にも立たなかったと言うことになるからである。 
 

 
恐らく、この「神」の存在証明は小学高学年程度の学歴あれば、誰でも計算出来るものであり、しかも、キチンと計算は成り立って、不思議なことを次から次へと語り上げてくれるものである。
 それだからと言って、別に、威張るようなものでもない。それは不思議な動きを見せてはいるが、よく、考えて見ると当たり前の話であり、しかも真実をついているものなのである。
 考えてみると、我々人間の方が考えとしては相当ひねくれているので、いくら「神」を求めようとしても、何も見出せないと言うジレンマに陥いっていたのであり、それにより、「神」を求めて止まない心も萎えようとするばかりであったのである。
 ひょっとすると、すでに、その大義名分さえも知らず知らずに失っていたのかもしれない。
 
 まあ、簡単に言えば、ただ、「神」の言葉と「神の業」を「数」で記すことにより、「神の存在」の姿がおぼろげに判って来ると言うだけのことであり、来るべきものが来たという感じがするだけである。 しかも、それと同時に、「神」は大いなる意味を秘めながらも、普遍的で、かつ永遠的な形で常に、何処にでも存在していると言う大いなる事実そのものが、同時に判ってこようと言うものである。

 そこまでの不思議は誰が見ても判るのであるが、さて、その意義、意味となると余りに大きすぎて判断に苦しむことになることは知って欲しい。 何故ならば、そこには我々が未だ手にしていない宇宙の形や、次元の真実等がすべて、見事な「数」の形を持って表現されているのであり、更には、更なる進展をサジエストしながら我々の来訪を待っている様子がありありと感じられるからである。
 しかも、それは、甚だ易しくて、難しいものでありながら、大変面白いもの、大変興味が湧くと言う「おまけ」がつくのである。
 それら宇宙のカタチを数で学ぶだけでも、一生の心の徳となり、また、同時に、何につけても自信につながって世間を大手を振って闊歩出来る程の心に猶予が満杯の状態になって来るのである……!!!!。
 一体全体、なんだろう、この心の余裕の発露は、そして、この素晴らしい心の存在とは……!!!!。

 これから、それらの「神の存在」を数ヶ月かけて、「数表」とその論理をまとめ上げるつもりであり、その後、改めて公にするつもりである。 ただし、それが何時になるかは今の所、ハッキリと言う事は出来ないのが甚だもどかしい限りである。
 恐らく、一生懸命にやれば、図表とその説明のまとめだけは2~3ヶ月もあれば出来るかも知れないが、しかし、折角なので、私は十分に時間をかけて自分を楽しませながらジックリとやって行くつもりでありる。何故なら、それが、何時もの私の流儀であり、楽しみ方でもあるからである。 しかし、そこには考えることは山のようにあり、しかもすべては人知未踏の 『神の知』 である。すべては易しい 数字で示されている大変易しいものではあるが、我々「西洋学問」を学んだ者にとっては甚だ難しくて厄介なものなのである。
 何故なら、我々は神の知の流儀とその作法、すなわち、その解き方等の技術や、方法等はまったく、「西洋学問」は知らないものであるからである。
 要するに、すべての計算形式というものが、「現代数学」とまったく異なっているので、あなた方には予測さえもできないのである。また、それは非常に易しくて、かつ非常に難しいものなのであるが、「西洋学問」にはまったく無いものであるからである。
 
 しかし、誰か、聡明で直感と洞察力に優れた方が、手助けしてくれるならばその限りでもない、割合早く皆さんの前にすべてを披露できるはずである。ぜひ、そのよう殊勝な方が協力を申し出ることを期待したいものである。
 しかし、難渋することは知って欲しい、なんせ、それは小学生並みの数の計算から始めなければならないからである。
 そのような簡単な計算に2時間も3時間も耐えられる御方、そして、誰にも負けない直感と洞察力のある方は、是非とも来訪して力を貸して貰いたい。 決して落胆させるような羽目にはさせないから……。
 
 ただし、
あなたが用いている計算器などはまったく役には立たないことだけは知って欲しい。なぜならば、そこにあるのは、すべては一桁だけのあるべき「数の仕組み」上の計算であり、自然の妙なる「数の理」を用いている当たり前の自然の計算法そのものだからである。
 それ故に、我々の用いている10進法様式の計算器はまったく役に立たないのである。そのあたりのことは、是非、知って貰いたい。

 恐らくは、あなた方がその「神」の言葉を理解しようとしても、最初は少々難しく、意味がまったく不明で、理解が出来ないであろう。何故なら、その内容たるものは「現代物理」の用語には未だ無い不可思議な次元的な特殊な方法と、その解き方、あるいは特殊な計算手法を持っているからであり、これを理解して、初めて、人間の知の上に重ねながら、これから少しづつ人間知に加えられるものになるからである。とにかく、すべては易しいものではあり、誰でも出来るものではあるだけは言っておきたい。
 悲しいことに、古代人はいざ知らず、現在の現代人はその「神の手法」の存在と言うものをまったく知らず、ただただ、視線を遠くに移し、ただただ、意味のない考察と熟慮のみをを重ねながら思案しているだけなのである。甚だ、もったいない話であり、時間の無駄と言うものである。
 
 要するに、それは今までの「人間知」、あるいは現在の人間知等の総括的な数の計算形式、すなわち、「現代数学」では、どうしても「神」の真実を語ることが出来ないと言う事を我々にシッカリ教えているものなのである。
 もっとハッキリ言えば、「数の計算法」は我々と自然界ではまったく異なる様相を持って君臨していると言うことであり、我々の「現代数学」は小乗的であるのに対して、「神の数学」は大乗的な形を持っているものである。 それを敢えて、私は「神の数学」は
大乗的であり、「現代数学」」は小乗的な形式を持って常に作動していると言っているのである。その二つ、すなわち、「現代数学」と「神の数学」は遥か古代には繋がりはあったが現在ではまったく無く、ただただ、本質的には意味のない方向に懸命に走っているだけなのであるが、今の今まで、誰も気が付かなかったのである。

 その「数の計算法」、すなわち、「神の数学」を少しでも知れば、自然、々に「数」の虜(とりこ)になり、それによって徐々に「数の本質」を知ることが出来、「現代数学」の曖昧さや、自然とはまったく噛み合わない計算法の存在が嫌と言うほど、あなたは知ることになるのである。
 そのあたりのことは、すべては我々の心がまえ一つにあると言ってもいいであろう。
 
 まさに、それが我々にとっては大いなるジレンマとなって来たものであり、それこそが、我々人間が古代から大変苦しみ藻掻いて来た最大の理由なのである。少し考えて見ると簡単に判るはずのものなのであるが、今までの人間はあまりにも独善的で独りよがりが強すぎたのである。本来、「数」の根本は一つであり、我々はそれに従っていかなければならないのであるが……!!!。
 今のあなた方はその自然の持っている「易しい計算方式」の存在さえも知らず、人間が作り上げた「現代数学」をして、すべては完全とばかり余りにも鷹揚に構え、威張っていすぎるのである。

 現在のような人間知によるあり得ない数学形態を進めて行けば、末は恐ろしく、、お可笑しな結末となって、ただただ、「複雑とカオスの世界」に入り、抜き差しのならない状態になるだけであろう。 最早、「現代数学」は半ばそうなっているような気がするのであるが…!!!。 その証拠が、この100年の間、自然世界と共有できるような意味のある数学的な発見はまったく見られず、独自なカオスの世界へとまっしぐらに進み、すべては複雑で、まとまりがなく、不可解な世界、それが「自然世界の姿」である騒いでいる様子を見れば、大体の察しはつくはずであろう。

 とにかく、日本民族の祖たちが必死で守ってきた栄えある「古代の叡智」をないがしろにして、この4,5百年に台頭してきた西洋科学を祀り上げ、その神輿(みこし)を懸命に担いでいるような似非学者達を見るがいい、言うこと、やること、すべては日本人離れしていて、完全な非日本人的な面相を持っているような気がしてしょうがない。恐らく、彼らはこの4,5百年くらい前に日本に帰化した大陸の者達であり、恐らく、日本人とは異なるDNAを持った一派と言ってもいい者達なのであろう。 
 
 現在はこの「神の数学」は完全に無視されている状態であるが、今後、人々が騒ぎ立てれば、立てるほど、また、真実を知れば知ったで、何とか、難癖を付けて邪魔しようとするのは、恐らく彼らであろう。まさに、それは度し難く、かつ慇懃無礼な態度であり、自分の無能ぶりをさらけ出しているようなものである。 しかし、そのことは自分ではまったく解らないと言うのは甚だ悲しく、また、痛ましい限りではあるが、もともと遺伝子が異なっているのではどうにもしようが無い……!!!。
 
 それを証明しているのが最近の新聞記事である。何と、アジァ地区の20位までの大学ランキングには、日本は僅か、1校か2校しか入ってはいないのである。何と、中国や、韓国に完全に負けている、いや、言葉は悪いがゴロ負けしている状態であり、まったく歯が立たないような有様である。
 そのあたりから見る限り、余り威張れないのであるが、実際的には大違いであることはノーベル賞の受賞者の多さを見れば誰でも、何かがおかしいと気が付くはずである。
 
 要するに、「知」では負けているかも知れないが、「智」や「叡智」などに関してはでは日本民族は世界では最高に秀でているのであり、それを世界の人々は称賛し、高く見ている現在である。
 しかし、現在は「知」のみの一辺倒の世界なのである。しかし、ゆくゆくは世界は「智」や「叡智」などなどの日本にのみある素晴らしい叡智の存在に気が付いて、今後ますます称賛する声が大きくなってゆく事であろう。
 
 
 しかし、現実的には、あまり称賛は出来ないことは事実である。何故ならば、「智」に勝ることや、「叡智」に優れている事と、学識(知)が高いことは、まったく別物なのであるが、現在、世界中の人々は、すべてを混同し、「知」と、「智」、「叡智」等を同一視しているような状態なのである。

 そもそも「叡智」とは神様が与えたものであり、「知」、あるいは「学識」は人間から買ったようなものであり、しかも、時間と言う代償を払って買ったものと言ってもいいものである。しかも、それは学校卒と言う高い名刺代と言う代償と交換に買ったものと同然なのである。
 要するに、「知」と「智」、あるいは「叡智」自体は構成基本、すなわち、内容そのものがまったく異なる様式を持っているものであるが、それを一括して同一的に見ること自体がおこがましい限りであり、あまりにも僭越過ぎると申し上げたいのである。

 「知」は他人から教わったものであり、「智」は「神」の下で己の心が育て上げ、磨いたものである。また、「叡智」は「神」から授かったたぐいまれなものであることに、是非とも、気付いてもらいたいものである。
 要するに、「知」は人間が編み出したものなので、それ故に、日常の人間関係の中で用いればいいのであり、それを持って「自然界」までかき乱そうとするのはあまりにも大それた事であり、迷惑至極なことであると言いたいのである。

 それは諺にもあるではないか…!!、それが
「余り知に溺れると身を亡ぼす」 と……!!!。
 要するに、「知」は世の荒波を生き抜くための手段として用いればいいのであり、それ以上獲得し、知に埋もれても、それを使いこなすだけの技量が無ければ、まったく意味が無く、ただただ、笑われるだけなのである。
 

 そんな事を考えていた時に、何となくで思い出した歌がある、それは今から、100年以上前に作られた歌であり、今の人たちは余り聞いたことの無いはずである。大変懐かしくなってユー・チュ―ブを覗いて見た。すると、そこには懐かしい言葉と共にシッカリその歌が載っていたのである。そこには懐かしい曲とともに、色々な「神の御業」が歌われていて、大変、懐かしい思い出が走馬灯のように浮かんだり、消えたりして大変楽しい時間を過ごすことが出来た。
 それはまさに、一つの大いなる心の慰めになるものであり、心を大きく広げてくれたものであった。

 思い出しながら共に歌って見ると、何と、美しい日本語と共に、「神」の真実を讃える文句が鈴なりに歌われて、改めて、先達たちの「神」に対する心構えに、いたく、感動し、その長い歌詞のフレ-ズを最後の最後まで聞いてしまったのである。
 その歌の名前は
「美しき天然」であり、いまでは失われてしまった素晴らしい言葉、懐かしい文句等が綺麗なメロデイで次々と歌われていて、心から「神」の御業を賛美、讃褒している様子が、ありありと伺えるものである。
 そのすべてはあなた方が聞いたこともない見事な言葉と共に歌われている心静かな素晴らしいメロデイーであり、それらが過去の日本にシッカリ存在して、人々に歌われていたことがよく判り、大変、心が打たれるものであったのである。
 まさに、それは心をほのぼのとさせる日本の本当の歌であり、素晴らしい本当の日本の心の歌なのである。 余りのなつかしさに、我を忘れて夜中に大声で歌い、万感をしばし楽しみ、そして涙したのである。
 まあ、年甲斐もない話し、恥かしい話しではあるが……!。

 
 さて、またもや馬鹿馬鹿しいことを述べて自己満足に浸っているとのたまい、軽蔑の念に一杯の御仁がいれば、御足労ではあるが、是非とも、当宅に足を運び、私の言う通りに少しばかり、「神の数学」の計算を軽く行い、その検証を楽しんでもらいたい。あなた方が、一気に「神の叡智」を獲得したいと思うのならば、それ以外には方法は無いことを是非知って欲しい。
 交通費とかのいろいろの費用が掛かるではあろうが、そのくらいは「知の代償」と考えれば安いものであろう。
 それにより、あなたの「数」に対する疑念も完全に消え失せてしまうことになるであろう。いや、恐らくは、「現代数学」に対する疑問点が次から次えと浮かび上がって枚挙にいとまがないかも知れない。あなた方は世間で教えられたことに対して、余りにも忠実すぎて疑問さえも抱こうとはしない、それが大きな現代人の一つの欠点なのである。
 いや、疑問を抱かないように、巧妙に誘導されていると言った方が正しいのかも知れない……!!。
 それが神の数学の「神算法」、すなわち「システム オブ ナインズ」の計算法により、すべてが明らかにされ、本当の真実が判り、完全に目が覚めることになるのである。信じる人には大変簡単な計算法であり、30分もあれば誰でも覚えてしまう真実の計算法と言うものなのである。
 
 そのような方には私は応援は惜しまないつもりである。出来るならば、ついでに「神の存在計算」を少々手助けして、覚えて貰えれば、まことに有難いと思うのであるが…!!!。
 まさに、それは驚き一杯のものであり、現代数学が如何に頼りない空論的な存在が多いかが判ろうと言うものである。
 要するに、心に染み渡って希望を与えてくれるような感動性と言うものが「現代数学」の中には何も無いのである。

 一方、「神の数学」には学べば、学ぶほどに、なるほど、そうかと心から叫びたくなるような「思いも寄らない知」が次々と出現して感動に咽び、しかも、それらはジグソーパズルのように数に寄り添い、場に寄り添いながら、すべてを完成の域に持って行ってすべてを完全完成させてくれるのである。今の学者たちは、哀れにもこの基本となる本当の「数の理」をまったく知らず、「いい加減な数理」を扱って、ただただ、ため息を漏らしているだけなのである。
 それ故に、彼らは0を恐れ、9の不思議さに逃げ回っていると言われているのもむべかなと思われるのである。
 しかし、「神の数学」を知ってさえいれば、何のことはない、0も9も自然の仕組みのなかの一つであり、それぞれが大役を果たして、自然を完全完成の域に導いていることが解るのである。  
 
 本当の0の正体、9の真実を知っているのが「神の数学」であり、古代の本祝詞である「カムナガラの道」だけなのである。
 だから、私は常々、「カムナガラの道」学べば、「数」の理が解り、自然の真実を知ることが出来ると言っているのである。
 げにも、恐ろしきは古神道の本祝詞である「カムナガラの道」であり、古代日本の祖達が持っていた素晴らしい「叡智」の数々である。何と、「数の理」の発信元はすべてにおいて古神道の本祝詞である「カムナガラの道」そのものなのである。


 それを知り、改めて、家に帰ってから、自分の手でジックリと再検証して真実を確証しながら、その確かな事実を確かめて貰いたい。また、それはあなたの心の成長にも大きく寄与することにもなるはずである。とにかく、それは一見、馬鹿馬鹿しいような奇妙な計算であり、小学生でも出来る大変易しくて、不思議な計算であることは何時も言っている通りである。
 しかし、また、それは強靭な威力を持っている事実を知れば、万人が万人、肝を潰し、驚嘆すると言う、まさにそれは、驚くべき「数の威力」をまざまざと見せつけて止まないものである。

 また、その簡単な計算を行い、かつ考えることにより、あなたの心は十分満足し、これからの自然を見る目や「神の存在」を感じることが出来、更には、あなたの人生までもが変わってくることになるはずである。また、それと同時に「神」の存在さえも感じられて仕方が無いものなのである。
 
 要するに、その簡単な「数の業」、誰にでも出来る「自然の持つ数手法」を会得すると共にあなたの生活も一変し、「神」の存在を強く感じて信じることにより、より強く、より楽しく、かつ明るく生きて行くことになるのである。
 
 ただし、その数計算は一桁の加算計算であるが、甚だ、「数」が多いので少々面倒な計算ではある。また、時間がかかるので、ある程度の忍耐力と持久力(2時間から3時間以上)が必要となるものである。そのことは、あらかじめ、言って置きたい。
 
 また、その結果を図示して、まとめるのにも直感と洞察力がある程度必要なものでもあり、それは言ってみれば、まさに、あなたなの腕と頭脳による自然との力比べ,対決と言うことになるものと言うことでもある。 また、場合によれば、パソコンにて綺麗に表を完成させ、意味を糺し、結論付けるにには、場合によっては1日か二日位くらいはかかるかも知れない。 
 しかし、その手法さえ覚えたならば、当宅から持ち帰って後日にでも自宅で完成させて、感激するのも一つの手ではあろう。
 
 とにかく、短時間では無理なものであるが、大変、意味深く、大変、考えさせられることになるのは間違いの無いことである。 そのことだけ十分に承知して来宅して戴きたい。ひょっとすると、それはあなたの人格さえも変えるモノかも知れない。
 
 せめて、「神」の存在を明かしたいと言う強い希望があなたにあるならば、来訪するくらいの自己犠牲は払ってもいいであろう、その価値は十分にあるものである。そのあたりは覚悟して来て貰いたい。私も懸命に応援するつもりでいる。
 とにかく、「神」の存在を知りたい方、その驚くべき計算法を知りたい方は遠慮なくどうぞ…!!。
 ただし、「神」と言う言葉に対して、喧嘩腰や、余りにもアグレッシブな御仁達にはご遠慮を戴きたい。そのような特殊な方々は甚だ苦手である。とにかく、私は日頃、真面目に悩み、知のために懸命に勤しみ、かつ、悩み苦しんでいる真面目な方々を応援したいと思っているのである。
 
 一つ、言って置きたいことがある。それは最近の若者たちは我こそはと言う覇気がないばかりか、辛抱強さもないのが大変気にかかり、民族としての将来には少々考えさせられるという事である。すべては親任せ、学校任せ、人任せで自分の進路が定まらず、あやふやなままで過ごし、今になって慌てふためいているのであり、自分の方針が何も無いと言うことなのである。
 要するに、日頃、甘えさせられて苦労が足りないと言うことであり、それ故に大望と言うものが抱けないと言う事であろう。
 是非、そのあたりを自問自答しながら、自分の腕と技量を試して見ることにしてもらいたい。いい経験になるはずである。
 要するに、少々、すべてに渡って安楽し過ぎるのであり、苦労しながら深く考えること等は一切しなかったと言うことであろう。
 それでは何時まで経っても半ば、生半可な人生で終わり、満足した深い生涯は送れず、不満だらけの人生を送ることになりかねないのである。とにかく、若い中に何でも経験しておくことが大切なことであり、それが打たれ強い人間、我慢強い人間を作り上げることになるのである。一つ、このあたりで立ち止まって、周囲を見回して見ることも必要であろう。。。。 


 私などは、自慢じゃないが、10歳にもならない中に、外国で親、兄弟5人のすべてを失い、飢餓と渇きに苛まされながら、一年半と言う長い間、2歳半の歩けない弟を抱えて、何百里と言う距離を歩き通して、一人で日本に引き揚げて来た苦しい経歴を持っている身である。 それはまさに、壮烈な人生、在ってはならないような経験そのものであり、深い心の傷を負いながら、人には言えないような苦しみの連続の果てに、何とか、やっと日本に帰って来ることが出来たのである。
 
 しかし、その経験は後の人生には大いに役立ったと今では、逆に「神」に感謝の気持ちで一杯であり、何時も「神」と波長が合っているような感じがあるのである。それ故に「神」を求めようとして苦心惨憺を繰り返しながら、現在に至っているのである。
 しかし、その経験だけは、今でも誇りに思い、大切にしているので、どのような難局でも乗り切れるだけの自信はもっている。
 
 それで頑張ることには何も違和感は無く、頑張りこそが生きがいであり、生きていくための必須条件であると思って、86歳の今でも懸命に、かつ楽しく生きている次第である。とにかく、今の口達者な若者達には体力では負けても、根性では負けないつもりである。
 
 だから、貧乏や飢餓なんては何と思ってはいない、今でも、三日くらい何も口にせずとも平気の平左でであり、何とも思わない。
 とにかく、生きていくためには希望と頑張りが必要であり、それが人間の人間たる大いなる由縁と思っているだけである。
 そうすることにより、運は開け、女神は微笑んでくれ、思うように人生は開けて来ると信じているのである……!!!!。
 それが私の信条であり、堅い信念と情熱をもって、今でも懸命に頑張って楽しく生きて来ている最中である……!!!。
 昔は石の上にも3年と言われていたが、私の経験から言えば、現在では3年ではなく10年が必要なのである。

 さてさて、つい、力が入ってしまった、御免、ごめん。 さあ、余計な話は止して、改めて、本題に戻ることにしよう。

 
 この「神」の存在を、見出したいと思うならば、それは簡単である。要するに、一切の思考を停止して、当分の間、数の計算だけに心を集中することである。それに慣れてくると、今度は「数」の方から話しかけてくるようになるのである。そのための数表があの古神道の神髄である「カムナガラの道」であり、我々を驚くべき夢幻の「数の世界」に連れて行って呉れる「この世」では唯一のものなのである。

 とにかく、そこには驚くばかりの数の見せる「ファンタジーな世界」が大きく広がり、夢にも思わなかったような階層的な「数の理」が色々な形で我々を出迎えて、色々と話しかけてくれるのである。要するに、今までは単なる平面的な「数の表」と思っていたものが、実は多面的、階層的な顔を持っていたのであり、それを見出さない限りは、まったく手がかりが無いのである。
 それを神意を借りて見出すことにより、「数」は無機的ものでは無く、人間以上の有機的な心を持っていることが判明するのである。

 確かに、「数」は今までは単なる記号であり、心は持ってはいないと考えていたのであるが、それは大間違いであり、それにより、我々の文明は大きく道を踏み外し、停滞することになってしまったのである。
 果たして、このような重大な「道の踏み外し」と言うものが今の今まで人類史の中にあったであろうか、いや、考えても思い当たらない。まさに、それは大きな波紋を呼ぶものであり、我々人間にとっては大きなミステークでもあったのである。
 現在、私は大いに訝(いぶか)しみながら、悩んでいる最中である…!!。
 すべては本当の話しであり、現実の事なのである、まあ、そこまで行き着くのが大変、年数がかかったのであるが!!!。
 
 何故ならば、それは現代数学的な「数」の操作ではなく、あくまでも「数」と言う記号操作による自然的な数の計算により、自然の心を探ろうとするものであり、その計算が完成された場合、驚くべき「神の答え」の証が次々と姿を表すことになって、ただただ驚嘆と驚異、その上、畏敬と心服で心が一杯になるものであり、ただただ、呆然となって頭を垂れるだけなのである。
 また、それを一見するだけで、その余りの見事さにどのような大学者でも驚嘆し、ただただ、腰を抜かし頭を垂れることは間違いの無いものでもある。それ程、「数」の威力は素晴らしいものなのである。
 しかも、それは誰でも簡単に数計算が出来る、恐らくは小学生でも出来ようと言うほどの、簡単な計算式なのである。
 しかるに、その答えに至っては大の大人でさえも目を見張り、驚嘆するような素晴らしい「神の作品」であることは誰でも頷けるものである。現に、今の私でさえも、あり得ないと心の底では思っているのでるが、現実にはどうしても逆らえない状態なのである。

 それほど、「数」の力は偉大であり、人々の魂を揺るがして止まない大きな存在なのである。
 
 これらを称して、古代西洋世界では、東洋から来た「数の秘術」と称して、秘密裡の中に代々伝えられて来たのである。
 それを最初に世に出したのはギリシャの数学者であり、哲学者でもあったピタゴラスであり、彼は西洋では初めて「宇宙のすべては数の法則に従う」という思想を確立したのであり、そこから「数秘学」という学問が始まったと伝えられてい

 
しかし、残念なことに、その経緯は伝えられてはいない。
   
しかしである、現代科学が発達するにつれて、彼の言葉は否定され、人々の口から離れていったのは事実である。
 
 
彼の言う「宇宙のすべては数の法則に従う」という事実は,そもそも、古神道の「カムナガラの道」に「数」でシッカリ記されているものであり、それが遥か大昔に日本人の海外雄飛とともに、彼の地、すなわち、古代ギリシャあたりに伝わり、そこからまた、古代の西洋世界に伝播していったと私は思っているのである。その証拠になるものが、あのギリシャ近くのエーゲ海にあるクレタ島に伝わる日本の古代文字の存在であり、それらはシッカリ日本の古代文字で読み解かれているのである。
 

 それが、クレタ島のミケ-ネ-文明遺跡から発掘された「フアイストの円盤」であり、そこには日本の古代文字が沢山書かれていたのである。それを日本の古
代文字であると指摘したのが、ケンブリッチ大学の教授であり、それを読み解いたのが日本の古代文字研究家の相馬龍夫氏なのである。 その事実は世界では有名であるが、何故か、日本の学者達はあまり口にしょうとはしない…!!!。本来なら、歴史上の大発見として取り上げ、大騒ぎになるはずであるが、誰も無視しているだけである。

 また面白いことに、このミケ-ネ-文明の発掘者であるシユリ-マンが発掘後の幕末にわざわざ日本までやって来て、散々日本を褒めそやしていたと言うのである。一体、そこにはどのような経緯(
いきさつ)があったのであろうか…??。
 その時の日記本が、あの有名な「シユリ-マンの日本訪問記」であり、今でも本屋の棚に飾られているものである。

 
 
そのように日本にとっては大切な歴史の一コマのはずであるが、口にする者はいない、本にも書かれる事も一切ない。
 丸で懸命に何かを隠そうと頑張っているような感じである。一体、歴史家たちは誰に遠慮しているのであろうか……!??。 一体、そこには何があるのであろうか。まったく今の日本の歴史は闇の中の状態のようである。
 
 とにかく、日本の歴史家はなってはいない、私の若いころは日本の縄文時代は3000年続いたと教えられていたのであるが、それがこの50年間の中に縄文期は1万6千年に延びて、エジプト文明と肩を並べような状態になって来ている。 しかし、本当の歴史はまだまだ遥かに長いのであるが、まだ勇気を出して、そこまで言い出すような歴史学者は誰もいない…!!!!。
 その中に誰かが言い出して、日本の歴史はまだまだ長いスパンを持っ事にがハッキリと認証されることになるであろう。
 なんせ、余り真実を突き止めれば、日本の歴史は一瞬で変わつてしまうので、本当のことは認めたくは無いのであろう。歴史が変わったら、変わったで自分達の無能ぶりが明らかになるので……!!!?。要するに、今までの歴史には無かったことは、例え事実でもあっても、認めたくないと言うのが彼等の本当の気持ちであり、恐らく、それが歴史ボスの意向なのであろう。

 でも、最近、近年急速に発達した血液研究によると、日本の歴史学者の主張や教科書で習ったこととは全く違う、不可解な事実が浮かび上がってきているのである。それは、日本人のDNAは、中国人や朝鮮人のDNAと全く一致しない別物であるという新事実であり、これに関して、ある有名大学の名誉教授が、この.DNAの不一致について新しい説を発表していることを知って欲しい。

 その理由は、「アフリカで誕生した人類が、中国大陸に到達するのは約3万年前。だが日本にはもっと早い、約4万年前には到達していることが最新のDNAの研究で分かっている。」と言っているのである。 つまり中国よりも1万年も早く日本に来た人類が、縄文人であり、その縄文人が日本で独自のDNAを築きあげてきたのであるとの歴史的な大真実を告げているのである。

 また、それと同時に、それによりまでの歴史上の疑問である「なぜ大陸よりも古い遺跡が日本で大量に見つかっているのか……???、等の疑問も自然に解けて来るのである。それは要するに、日本の関東地域では、世界最古(35000年前)の磨製石器が出土しており、また、世界最古級(16300年前)の土器も大量に見つかっている事実のことである。また、稲作も我々の時代には大陸から朝鮮経由で日本にもたらされたと教えられていたのであるが、今では遥か6000年前に日本から大陸方面に伝えられたと)ハッキリ、断言されているのである。)

  これらのことは、すなわち、DNAだけではなく「考古学的」にも、縄文以前は、中国・朝鮮系の大陸文化の影響は受けておらず、独自の文明を築き上げていたことを意味するものであり、なおかつ、大いなる過去に、古史古伝にあるような高度な文明を築いた日本人のルーツはどこにあったのかなどの疑問さえもも一挙に解決できるものである。

 そこで私も解ったのである、何故、韓国人や中国人は日本人と気質や感情がまったく幼稚で異なっているのである。それ故に、日本人と考え方が相容れないと言うことである。
 
 これまでの疑問はすべてはこれで了解となり、現実に沿った真実と歴史的な側面はここで完全一致し、長年の疑問はサラリと解けたのである。

  
 
最近の私でさえもピタゴラスの言葉である「宇宙のすべては数の法則に従う」は正しい言葉であり、事実であることを身をもって知るようになっているのである。何故ならば、その事実を「カムナガラの道」の中には、それを立証するような「数の流れ」がシッカリ存在し、我々に色々と教えてくれるからである。また、それを解き放つことは、恐らく、日本人が最適であり、最も理解しやすいと思われる。なぜなら、日本人は「九九算」に強く、暗算にも長(た)け、なおかつ「数」に思いを寄せている人々が多いからである。

 なんせ、その中には、長年調べている私でさえも、驚くような「数の秘儀」が鈴なりに並んでいるのであり、呆れ果てるような「数の秘密」が数多(あまた)勢ぞろいしながら懸命に足踏みしているのである。しかも、それらは、何としたことか、皆「現代科学知」の方向とは反対の方向を向いて並び、かつ足並みを揃えて進んでいるのである。

 また、何回も言うようであるが、日本の超古代文書の一つである『先代旧事本紀』にも「数」は宇宙のすべてを知っていると書かれているのであり、それが、恐らくは江戸幕府による禁書の理由にもなったものであろう。
 いや、少なくてもそれが禁書の理由の一つであることは間違いの無いことであろう。
 
 まさにこの古神道の「カムナガラの道」こそが「数」は宇宙の法則のすべてを知っていると言ってもいい存在であり、
そこにある「数」が見せる万象の転々と移り行く姿こそが、まさに「宇宙の法則」に即した見事な流れを表しているものである。しかし、そんな事実の存在すら、今の日本人はまったく知らず、ただ、ただ、懸命に、西洋科学の思いを寄せているのである。
 

 
また、愚かにも日本人だけが、現在、「数」はインドで見出され、そこから西洋に伝わったものと信じて止まないのである。
 その理由は簡単であり、、西洋人がそう言い出したので、ただただ、単純な日本人は信じて、そう言っているだけなのである。 
 
 そもそも、インドと日本の歴史はどちらが古いのか、そこを新しい歴史的な事実に沿ってシッカリ考えてもらいたいものであるが、……!!!!!。

 要するに、30年前の歴史の目ではなく、すっかり衣替えした現代日本の新しい歴史の目を持って眺めることが、今こそ必要な時なのである。
 
 あなた方はインドの方が日本よりも遥かに古い歴史を持つと信じているようであるが、それは何も知らない諸外国の三文歴史家達が150年以上前に言っていたことであり、それを鵜呑みにした日本の学者達がそう日本人に教えてきたから、皆、そう信じて来たのである。これから、日本の文明、文化を引き継ぐ、若い人々にはもっとシッカリしてもらわなければならないのである。
 とにかく、日本の歴史は世界で一番古いことは疑いの無い事実であり、疑いの無いことなのである。
 その証拠に、 現在でもユーチューブを見ると 「何故、日本にはインドの失われた文化文物がそのまま残っているのか…!!」などのインド人の驚いているコメントが挙げられているのを見かける。しかし、それは当然なこなことなのである。
 そこをシッカリ考えてもらいたい、それは当たり前のことであり、当然、すべてはあるべき歴史の結果。結末なのである。
 
 当時、今から数十年前の日本の歴史は、せいぜい3000年~5000年と言われ、世界もそう認めていたのである。
 ところが、今や、日本の縄文時代の歴史は1万6500年以上と世界では言われ、インドより遥かに古く、何せ、1万5000年のエジプト文明と肩を並べているのである。 なんせ、当時の遺物が次々と日本で発掘され、シッカリ年代測定により明らかにされているのである。しかし、当事国の日本ではあまり知られてはいなく、話題にも上がってはいない、まことに不思議な事であり、奇妙なことであるる……!!!。

 
 
また、日本の古神道の遺物そのものが現在でもチベットやインドにはあまた存在していることを知って欲しい。
 それがチベットの「摩尼車(マニグルマ}」や「曼陀羅の図」などであり、またインドの「ヨガ」もそうであり、それは身体の動き、すなわち、身体を結ぶことによって輪廻を願い、宿命からの解脱を計ろうとしているものである。
 要するに、それは日本神話にある宇宙開闢の神々である「カミムスビ」、「タカミムスビ」の仕組みが教えている動きそのものであり、大宇宙(自然)と小宇宙(我)を結びつけ、永遠を願うために、身体を用いてその動きを表そうとしているものなのである。
 
 私も長らく、その簡単な日本版を実践しているが、何となく体は柔らかく、その上、頭も余りボケの症状は無いようである。 それは簡単すぎるくらい簡単であり、時間にして一分くらいで、誰でも出来るものなのである。しかも、身体をあまり動かさず、ただただ、「カミムスビ」、「タカミムスビ」の運動を繰り返すだけでいいのである。
 しかし、そんな簡単なことさえも今の日本人はまったく知らず、知ろうともしない。まさに愚かなこと甚だしい限りである。

 要するに、「マニグルマ」や「曼陀羅の図」、あるいは「ヨガの原理」等は、古神道の真髄である「カムナガラの道」の中に、シッカリと納まりながら存在しているのであり、その事実さえも私は何時でも、あなた方に「数」で示し出すことが出来るのである。まさにそれらは自然真実の物語であり、遥か遠い我々の「kぁ見」の古代の祖達が知っていた
 また、何回も言うようであるが、それは大宇宙のカタチそのものさえも、「数」で数理的に具現している恐るべきものである。 それが、すなわち、古神道の本祝詞「カムナガラの道」の正体であり、まさしく日本の「宝知」と言うべきものなのである。
 何と、大宇宙の形や、そのエネルギー的な構造さえも「カムナガラの道」は開示していると言うのである……!!!。
 
 
 そもそも、あなた方は世界で3番目に大きいインドの宗教であるヒンズー教、あるいはシンドウー教(12億人)と呼ばれているものの正体を知っているであろうか……!!!。
 これこそまさに、日本の神道のなれの果てなのである。その証拠に発音をみるがいい、神道とシンドウー、まったく同じ発音なのである。また、それでも疑うような方は、そこにある神話の内容を調べて見るがいい、そこにも瓜二つなものが数多見つかるはずである。
 しかし、その事実は学者達は知っているかもしれないが、悲しいことに、一般の日本人には余り知られてはいない事実である。

 そのように、遥かな古代日本には世界に誇る偉大なる叡智や、文化、文物が花を開き、ひしめき合って花を咲かせていたのである。そのあたりのことは「竹内古文書」、あるいは「カタカム文献」や「ホツマツタエ」に記されている通りである。
 
 

 
さてさて、堪忍、堪忍、またもや、大分、道に迷って余分なことを申し上げてしまった。そろそろ「神の数学」に戻らなけば、叱責を受けそうである、


 要するに、「神の数学」は「数」を有機的な記号として扱う、一つの 計算操作手法(アルゴリズム)でもあり、それにより、私は初めて「カムナガラの道」の数表の上に「神の存在」と言うものが、おもむろに姿を現わして、色々と囁いていることを知ったのである。
 それは、まさしく、人類初見の、目を見張るばかりの驚くべき一大ペ―ジエント形式をもって、素晴らしい自然の業が次々と姿を表わして、色々とものを申しているのである。しかし、残念なことに今まで、誰一人としてその事実を知った者はいなかっただけなのである。
 
 今の私でさえ、それを見る度に驚きと興奮で心は何時も心が波打ち、中々冷めやらぬ状態になるのである。
 それはまさに、簡単極まりの無い姿を見せながら、常に心には大きく響いて来るものであり、常に確たる統率のある姿を見ながら、「現代数学」の反自然的な計算法をあざ笑い、半ば愚弄しているような感じもするものでもある。
 
 恐らく、それが「神」の持っている計算法こそが、本当の「自然の計算法」であり、それを学んで行くことにより、同時に、徐々に神の本当の正体と言うものがだんだん解って来ることになると思われる。
 とにかく、すべての「カムナガラの道」の何十、何百と言う計算の答えは、どうも、最終的には同一な答えになってしまうのであり、それはまさに、本当の「神の祝詞」か、「神の呪文」のようにも思われて仕方が無いのである。
 
 あなた方は疑って大笑いすることではあろう、しかし、小数の真面目に「神」を求めて止まない方々は、是非、その手法を学んで「神の真実」を突き止めることをお勧めする。とにかく、すべては「カムナガラの道」の中に存在して、数千年にわたってつぶやき通して来たのである。しかし、誰一人としてそれに気付き、取り上げた者はいなかったのである。
 何回も言うが、それは小学生にでも出来るものであるが、あなた方には理解が甚だ難しいものかも知れない、ただし、素直で優しいな心の持ち主は、これまた別であるが …… 。

 要するに、今まで、我々は「神」は一面性の存在であると思っていたのであるが、何と、「神」は多面性の存在であり、重合的な存在なのである。「神」は平面的な存在では無く、重層的構造体であり、それを開かない限り、正体も見せず、つぶやきさえも聞こえない状態であったのである。それは誰でも簡単に開けるものであり、意識を集中して心と目を動かせば、その正体、すなわち、一のものが何と、81倍に広がって色々と呟きながら我々の目の前に広がりながら、現れて来るのである。また、言葉を変えて言い直せば、一つ柏手を打って、心を一つにすれば一つのものが、あら不思議、81倍に膨れ上がって眼前に現れてくるのである。
 
 何と、シッカリと、心を開くことにより、それらは81体の「神々」の姿となって異なった神言をつぶやきながら、自然の真実と言うものを我々に囁いてくれるのであり、しかも、すべては「数」と言う我々には異様な真実文字を用いてである。
 我々は今の今まで、そんなことは知る由もなく長い間、「神」を求めてさすらい続け、悩み続けているのである。
 何という、嬉しくて、悲しいめぐり合わせなのであろうか……!!!!!。

 さて、さて、その「神を求める」ための数計算テキストとなる「数計算」の数種類(神の呪文)は当方が用意し、あなた方の眼前に差し出すので、是非、これらの「神の計算」の是非を検証し、それを大勢の人々、出来れば世界中の人々に伝えてもらいたい、それが、今の私の望であり、使命と言うものである。出来れば、誰か、それらの記録を写真にでも撮って、それらの一切を世の中にぶちまけて下さるのなら、まことに有難い。
 さぞかし、世界中の学者達はは吃驚し、気を失いかけるであろう。さぞや面白いことになるであろう……!!!!。
 果たして、是か非か、狂かノーマルなのか、あなた方の判定はどのようになるのであろうか、甚だ、楽しみである。 ハ-、ハ-、ハ-、……。しかし、恐らくは、この世知辛い世の中にはそのような酔狂な御仁はいないであろう。
 大勢の方々はただただ、狂った老人のたわごととしか見ないであろう、悲しいことではあるが……!!!。


 恐らく、我々がある程度の仲間を得て、その事実をシッカリ突き止めるのには、数年、いや数十年はかかるであろう。
 何故ならば、この「カムナガラの道」の表は余りにも荘厳極まりの無い神聖なものなので、余程、慎重に点検、検証しなければならず、少しでも間違った場合には、それは解明不能となって雲消霧散 (うんしょうむさん)状態になって、再び、消えてしまうものであるからである。 しかも、この「カムナガラの道」は有史以来、何回も失われ、そのたびに見出されているのである。

 
 要するに、現代知にいくら卓越し、現代物理学や現代数学に堪能な学者であっても、そのよう絶対的な「自然的な知」、すなわち、「神の知」に対しては、まったく無力で意味は為さなく、何の役にも立たないものであることを我々はこれから知ることになるのである。すべてのあなた方が学んで来た「現代知」は完全に霧散して泡と消えてしまうのである。
 
 また、それは、どうしても知りたい、どうしても解き明かして見たいと言う強い意志を持った者でなければ、これらを見ることは叶わず、あくまでも、意志を貫徹させたいと思う者だけが通り抜けることが可能な細い道であることは知ってもらいたい。
 要するに、それだけ信じようとしても、なかなか信じられないものなのであり、一筋縄ではいかない手ごわいものなのでもある。

 しかし一方、それは国籍や言葉が異なる外国の方でも、その知りたいと言う意思を強く持っているのならば、言葉などはまったく不要であり、「数」のみで十分に理解が出来るものである。それが一番の強味と言うものであろう。
 また、何度でも言うが、それは小学高学年の学力があれば十分に理解可能なものでもあるが、残念ながら、彼らはそこにある意味は十分に読み取ることが出来無いのである。何故なら、まだ世の中のことを未だ知らず、完全なロジック不足の状態、まっさらな無垢の状態にあるからなのである。
 
 なにしろ、「神の数学」は、単なる「足し算」と「引き算」だけで、ほとんどは済むものであり、「掛け算」や「割り算」等の現代的な数学形式はまったく不要なものなのである。それはあのイギリスの数物理学者であるロジャー・ペンローズが「宇宙を解くための数学とは、「足し算」や「引き算」、それに「比」があれば十分である」と言っているが、まさにその通りであり、それだけあれば事が済むのである。何と、「神の数学」には掛け算も割り算や、その他の高等数学等はまったく不必要なのである。

 また、同様に自然界にはマイナスと言う概念は無い…、例え、引き算で答えがマイナス数になった場合には、即、該当するプラスの数に変えればいいのであり、それが、すなわち、あの宇宙人の数学である
「システム オブ ナインズ」の用いている「数の仕組み」であり、また、同時に神の数学」では「神算法」と呼んでいる数手法そのものなのである。

 なまじっか、高学歴の持ち主は今まで学んできたことに余りにも拘泥し過ぎて、変な方に傾き始め、甚だ扱いにくいことになることが甚だ多い。特に、自然界には無い「マイナス数」を取り入れたことにより、完全に自然界とは反りが合わなくなってしまっているのであり、その結果、行き着くところが大きく異なっているのである。
 とにかく、自然界には「引き算」は存在しても、「マイナス数」は存在しないのである。すなわち、ー1、とかー3等の概念は一切自然には通用しないのである。あなた方は自然的な実数直線 上に、果たして、それを表すことが出来るのか……!!??。

 すべてにおいてそうである。本来の「あるべき数学(自然数学)」とは、もっと簡単で、易しいもののはずであり、すべては自然の中で見られるものであり、しかも、計算が出来るものである……!!!。
 このように自然から完全に離れたもの、バーチャル的で、かつ実体の無いものを操って現実を混乱させている学とは、一体何なんだろうか、それが、今の所、私にとっては大きな不満であり、いたく心を傷つけられるものなのである。
 
 要するに、彼等は素直ではない、純真な心を持ってはいない、すなわち、易しいことを殊更難しくして、あなた方には解けないであろうと言って、我々を見下して満足しているだけの人間が甚だ多いのであり、それが現代の有識者には多いと言うのは、まことに残念なことであり、将来が思いやられることなのである。
 
 拙宅は余り遠くではない、伊豆のど真ん中である。現在の交通機関を利用すれば、誰でも来れるはずである。
 心の底から「数の心」を知りたいと思うならば、是非、この1年か、2年の間に来宅して疑問を晴らし、更に、己の知を磨いて将来に備えて頑張ってもらいたい。本気になれば割合に簡単なことである。要は心の問題であり、気持ちの問題でもある。
 
 現在は86歳なのでそれ以降はどうなるかは判らない。 後は、単なる、好々爺となって世間を憚って、ひっそりと生きて行こうと思っている。私と既に顔なじみの御方は、その折にはまた、尋ねて来るが良かろう、何時でも歓待し、歓談することを約束しよう…!!!!!。
 
 出来れば、若い頭脳を持った数学に興味をもっ高校生あたりが2~3人くらいで来て、無理なく学んで貰いたいのであるが…!!。 とにかく、易しくて、難しいものであり、学べば、学ぶほど楽しく, かつ夢中になることは私が請け合う……!!!。
 


 さて、さて、冒頭で紹介した、もう一つの大変なものとは、すなわち、「カムナガラの道」の中の「神の秘儀」を少々お借りして、我々日本人が大変困っているある病、日本人の60~70%が甚だ困り抜いている、ある病の症状を、いとも簡単に消してしまうような「あるモノ」を「神」の助けを借りて作り上げたことである。まことに、「神の秘儀」は偉大であり、やんごと無いものと大いに感謝している次第である。これを困っている方々に利用して貰う、そこに「神」の存在意義があるのであり、同時にそれが日本神道の本来の務めなのであると思っているのであるが…!!??。
 
 これは、恐らく、あの始皇帝が日本に求めた「不老不死の妙薬」かも知れない、いや、少なくとも、現代の老人たちが望んでいる、あの「ピンピンコロリ」という考え方に寄り添うようなものであることは間違いの無い事である。

それは、「ピンピン健康で長生きし、死ぬときはコロリと大往生」、すなわち、あの世の使いが来るまで、元気いっぱいに余生を無事に乗り切ろうと言う現代老人達の大いなる願いでもあり、「苦しまずに、あの世に楽にまかりたい」という我々庶民の大いなる願い、切ない願いでもあるのである。

 
そうすることにより、当人も満足し、家族にも負担はかけず、最も負担をかけている国家の財政(年金)にも迷惑をかけないと言う、三方丸く納まり、誰もが納得する最良の方法であると、私は思っているのである。

 考えて見れば、このような素晴らしいものは、この三界の世界には恐らくは無いはずであり、これからも出現することは無いであろう。
 とにかく、それを作り出した私でさえも、毎日が、驚きの連続なのであり、頭を捻っている毎日なのである。

 それは、すなわち、一つの物質波動を利用したものであり、邪悪なものを寄せ付けないものである。また、何もせずに、ただそれを傍らにおいてい置けばいいと言う事である。また、一切、触れることさえも必要が無い、声をかけることさえも必要が無いと言うものなのである。
 しかも、少なくとも10年以上は十分に使用が出来るモノなのである。

 現在、私自身は、モルモットとして自分の身体を使用して、実験中であり、その効果は驚くほど鮮明に身に受けながら楽しんでいる最中である。
 いずれ、その結末譚は面白く、可笑しく、数年後にはここに披露申し上げるつもりでいる。ただし、それまで無事平穏に過ごせたならばである。
 恐らくは、私自身の体験で、すべてを締めくくることになるであろうが、それでいいと思っている。ただ、十分なる資料は書いて残しておくつもりである。

 今は無理でも、後、数年後の私の亡きあとは誰か真実の人が現れて、それを用いて人々の難渋を救ってくれるであろう、今は、ただ、それを祈るだけである。
 
 私が、思うのに、自分は賢い現代人であると自負している100人が100人、馬鹿なことと笑って信じようとはしないであろう。それでいいのである。
 私は心から、それでいいと思っているのであり、歓迎しているのである、何故なら、真実を告げても、出来るだけ波風を立てたくないと思っているからであり、、なるべく、安寧に、ひっそりと平穏無事に、これからの余生を過ごしたいと願っているからである。

 さあ、さあ、これ以上、馬鹿にされるのは避けて、これ以上のことを言うのは止めにして、またの回に廻すとしよう。
 その上で、少しは真面目な老人の一人、ボケて頭のおかしい人間になって世の中を楽しんで見ようと思う……!!!!。 ハ-ハ-ハ- ……!!!!!。


 
 そのような偉大な「自然の理」の素晴らしい存在を打ち忘れ、、由緒ある古神道を放り出し、下げずんで満足しているのが,今の日本民族の知識階級であり、懸命に外見のいい西洋知を有難がって褒め讃えて満足している現在なのである。 
 何かおかしい、何か変である……!!??。

 さて、少々詳細を説明しておこう、馬鹿馬鹿しい、あるはずが無いとのたまう方は、是非、スル―して戴きたい。

 
 それは別に何もしない、ただ、「ある物体」を寝る際に布団の傍らに置いておくだけであり、それでありながら、効果絶大と言うものであり、半ば、永遠なる時間、恐らく、10年~20年くらい効果を保ってくれるものと考えている。
 ただし、まだ開発して1年くらいなものなので、はっきりとは断言出来ない……!!。

 それは単に、簡単な軽い物体を就寝時に傍らに置いておくだけであり、恐らく、医師法違反にはならないであろうし、薬事法違反にも問われないであろうと思うのであるが……!!??。とにかく、彼等は、いくら正しいも、役に立つものでも、自分達にとって邪魔なもの、役には立たないものは法的に始末して、この世から消したいと常に思っているのである。 
 そこは、慎重に、更に慎重にしていきたいと思っている。

 とにかく、簡単なものではあるが、現代の科学では理解できない、解明不能な摩訶不思議な物体であり、古代の遺物の延長と言ってもいいものでもある。とにかく、これは古神道の神髄である「カムナガラの道」にある法則を用いて作りあげた「神の秘儀」の一つであり、まさに不可思議極まるものであると言って置きたい。私はこれからの時代は「古代の知恵と最新の医学、すなわち、波動医学はリンクして病を治すことになる」と思っているのである。
 
 私としては現在、人々を苦しめている嫌な病から救うことを第一に考えているのであるが、それが法に触れるのなら即刻、止めてもいい、果たして、今の世間はどう見るのであろうか……???。

 人を病から救い出し、幸せにすることは悪いことであり、罪になることなのであろうか、そのあたりが私には判らない…!!?。しかもそれは簡単な方法で「あの世」を少々操作するだけであり、それにより、病は完全に消え去ってしまうのである。
 まあ、法に触れるのなら、家族だけで使い、安楽の齢、永遠の眠りに就くまでの最後の一時を十分に楽しむだけであり、有難く頂いて使って見るつもりである。  ハ―、ハ―、ハ― !!。

 まあ、当分の間、親戚や友人の間で実験検証し、笑い合って楽しむことにしょう、とにかく、おそろしいものであり、思いもよらないものであるとだけは言って置こう。しかし、よく考えれば、古代から日本人の間では、同一的なもので規模の小さいものは遥か古代から使われていたような気がするのであるが…!!?。
 
 ただ、今では西洋科学知がはびこる中で、古い言い伝えは半ば、馬鹿にされ、あまり、用いられることは無いようになって来ているのは事実である。 それは日本民族の大なるミス、悔やまれる大きなミスであると私は思っている。
 すべては見栄えはいいが、実の無い西洋知により、駆逐されてしまったものであり、まさに「悪貨は良貨を駆逐する」の例えの通りのものである。
 
 まあ、これに関することは、折に触れて、時々、その経過と言うものを、ここに載せて皆さんに大笑いしたいと思っている。
 さて、さて、それは一体何であろうか……!!!??。すべては、これからのお楽しみと言うものである。
 
 それは、甚だ、馬鹿馬鹿しく、また滑稽なものなのであるが、それは「人間の知」、「人間の健康」、はたまた、「病」とは一体、何であろうかと言う大きな疑問を我々に突きつけているものである。さて、「病」と「あの世」は一体、どのような繋がりがあり、どのような関係にあるのであろうか、さて、さて …… !!!??。

 また、その効果を見るにつけ、ひしししと、「あの世」の存在を考えさせられるものでもある。
 要するに、現代科学のように「あの世」の存在を完全に無視している限り、病は無くならないということである。
 何故ならば、すべての病の根は「あの世」にあり、あの世の操作を少々行えば、完全に無くなること判るからである。
 あなた方にはとても信じられないであろうが、 すべては事実であり、真実なのである……!!!??。
 
 まあ、今後、その掲載記事を見つけ出したならば、是非、見て考え込み、そして、大いに悩んで欲しい。そして、余りの法外な現代科学との矛盾に呆れ果て、恐る々、あたりを見回すことになるはずである……!!!?。  何故、一体どうしてと……!!!?、それは余りにも教えられて来た事と違う、そんなはずは無い…、と常識で一杯な心を半ば痛めながらである。

 また、どうしてもその内容をハッキリさせたいのならば、当方にその小冊(解説書)があるので読んで頂きたい…!!。
 恐らく、あなた方は目をパチクリして呆然となるはずである。果たして、そんなことが、果たしてあり得るのかと……!!!?。
 
 以上が約半年、ご無沙汰した理由であり、その報告でもある。お陰様で、私は86歳になった今でも甚だ、矍鑠(かくしゃく)であり、若いものには、まだ負けないつもりで頑張っている。しかし、老いは年ごとに近づきつつあるのは確かでもあり、体力の低下は日頃、だんだん目立ってきていることは否めない事実ではある。  さあ、あと何年生きていくことやら、…!!!??。

 以上、半年間のご無沙汰の報告は終わりにして、ここからは本題に入ることにしょう。

 
 「数」は神の言葉であり、「神」は数を用いて我々と会話をし、我々に色々なことを告げようとしているのであるが、如何にせん、人間サイドはそれには気が付かず、飛んでもない方向を見て、懸命に「神」を探しているだけである。
 それでは、いくら年月をかけても、いくら努力して呼びかけても、「神」は見つからないはずであり、「神」の言葉に遭遇することなどは無いはずである。それを人類は誕生以来、延々と続けて来たのであり、今でも同じことを続けているのである。

 しかも、日本の国には、遥か古代から、その徴(しるし)になるものは残されていたのであるが、如何にせん、見る目を持たず、聞く耳を持たない者達、すなわち、 外つ国(とつくに)に魂を持つ輩が長年にわたって国を治めて来たので、陽の目を見ることは叶わず、すべては行方不明となってしまったのである。

 あなた方は知らないであろうが、日本は今回の戦争でアメリカによる完全占領を含めて合計3回、外国勢に占領され、蹂躙されているのをご存知であろうか、①それは紀元前の漢の武帝による日本支配、②白村江の敗戦による唐の役人(数千人)の日本駐留、③太平洋戦争の3回である。
その度に、古代の歴史書や日本神宝等は次々と失われてきたのである。皆さんは、余り知らないようであるが、今回の占領下でもアメリカはジープを用いて日本の有名図書館や大きな神社を次々と廻り、日本の古い歴史書や由緒ある神道関係の書を大量に押収して、アメリカ本国へ持ち帰っているのである。あなたも噂には聞いたことはあるであろう…!!。

 恐らく、日本神道の恐るべき本態を知っていたからであろう。そのために占領直後、アメリカは日本に対して神道禁止命令をいいち早く出したのである。


 その狙っていた神宝の一つが、すなわち、古神道の神髄である「カムナガラの道」であり、古神道の奥儀祝詞の「ひふみ…天地の数歌」の本体となるものである。しかし、それは、幸いなことに、遥か昔に失われしまい、手に入れることは出来なかったのである。とにかく、そこには驚くべき「神の秘儀」が数多眠っているのであり、それを呼び起さない限り、人類は新しい「天の叡智」を手にすることは出来ないのである。

 しかも、ごく最近(1990年代)になってから見出されたもの、それが「ヒフミ…天地の数歌」の本体である「カムナガラの道」」であり、まさに「宇宙叡智」の神宝だったのである。また、それは「数」で自然宇宙の摂理の明らかな存在を歌っている「神の秘儀」と讃えられたものでもある。更に、もっとハッキリ言えば、それを解き明かしたものが、「神の数学」と言う天下御免の「数」が語る大叡智であり、天下無双の「神の数言葉」の数々なのである。
 

 「神の数学」は何処まで広げても、常に「陰」と「陽」の関係を持ちながら正しい秩序を持って完全連動しているものであり、それにより、「宇宙大自然の理」を無理なく解き明かしているものである。そこには何処までも尽きることの無い、不思議極まりない「陰」と「陽」の組み合わせが軽いステップを踏んで規則正しく、秩序を踏んで踊っていることを是非、知って欲しい。

 それは誰にでも検証可能であり、決め手を覚えれば何時でも、何処でも姿を表して踊ってくれるのである。
 
 それに比べると、「現代数学」はまったく別な数学形式を持つものであり、いささか、バーチャル的、いや、いい加減な人為的な面を持っている数学体系なのである。要するに、「現代数学」こそが遥に自然から離れた数学体系実体を持つ仮想的な空間世界を人知により組み上げて構築しているものであり、実態にまったくそぐわないものであることを知るべきである。
 恐らく、それ故に、更なる発展を遂げながら新しい「自然的な真実理論」を構築することは最早、望めないはずである。
 
 何故なら、「現代数学」は「陰」と「陽」の関係等は一切考慮せずに、わき目も振らずただただ無限を目指して一直線に進む姿があるだけ、それが直線数学、すなわち、「現代数学(10進法)」なのである。 本来の数学、すなわち、「自然数学」は平面的に進んで四方と相結びながら秩序や並びに調和を持つ「数学形式」を指すものであり、古代に存在した数学体系である。
 あなた方には何も判らないであろうが、本来のあるべき数学とは「現代西洋数学」、すなわち「10進法」では無く、自然数学である日本の古代数学」、すなわち、「カムナガラの道」にある「9進法」によるものでなければならないのである。

 「現代数学」に比べると、「神の数学」は、すべて「陰」と「陽」の組み合わせと、その本質を語る数多の数列がめくりめくばかりに序を持って整列しながら「真実」を囁き、懸命に我々に「真実」を教えようとしているのである。
 
 しかるに、我々はそれには少しも気が付かないのである。一生懸命、我々に気付かせようと「神」は頑張っているのであるが、如何にせん、それに気づく者は誰もいないような有様、それが現代の哀れな西洋知主導の「世の中」なのである。
 
 とにかく、自然界には現代数学のような「ランダム」とか「意味の無い数の並び」等は一切無く、すべては大いなる意味を秘めながら常に「陰」と「陽」の関係を持ってキチンとした状態で存在しているのである。しかるに、人間界ではその事実をまったく知らずに好き勝手な論証を作り上げて人々を煙に巻いているのであり、その事実は誰も知らないと言う甚だお粗末なものである…!!。
 その「数の理」の真実は、甚だ簡単なものであり、小、中学生にでも理解が出来る、簡単な計算でありながら、思考的には、甚だ難しいものなのである。 何故ならば、その基本的な思考概念と言うものを我々は持っていないからである。
 
 確かに、その「神の数学」の実体については未だ知る者は誰もいない。要するに、その「陰」と「陽」の関係は常に正確な形で連動しながら真実の存在を指示し、動いているのである。また、その「陰」と「陽」の関係の存在や、動きも規律と序を持って間断なく変化しているのである。そのことさえも現代人はまったく知らないのであり、知ろうともしないのである。
 本来は、最も大切な自然界の象(あらわれ)なのであるが…!!。

 確かに、現代社会において、「神」とか、「神の囁き」等と言っても、笑われるだけであり、信用は地に落ちるだけであろう。
 今のように、あなた方、いや現代社会全体が「神の存在」とか、「神の知」に対して、完全無視、あるいは 侮蔑的な態度を見せている限り、いくら「神の存在」、「神の存在証明」、「神を求めて」等のおこがましい願望を大きく連ねても、その成就は絶対的に叶わないのである。何故なら、私に言わせると、あなた方の学んでいる数学は少々おかしく、そこには大きな矛盾が有って、本来の自然の切口とは大きく違っているからである。要するに、すべては出発点から間違っていたのである。
 
 しかし、知的な盲目なあなた方にはそれが見えない、いや、余りにも基本的な根っこの部分に誤りがあるので、気が付かないと言うべきかも知れない。もっと、大きく目を見開いて「真実理」の捜索の網を広げてもらいたい。それにより、だんだん多くの人々が誤りに気が付き、大騒ぎするはずである。そのためにも古神道の神髄である「カムナガラの道」の持つ理を学んでもらいたいと思っているのである。
 ひょっとして、その先導役として、旗を振るのは、あなた自身なのかも…!!!。
 
 考えて見ると、その切口は大きな矛盾を見せながら横たわり始めてから、最早、数千年と言う年月が流れているのである。
 その間、誰もその実際の切口と観念上の切口との違いには気が付かず、観念上の切口を合わせようと営々と努力を重ねて来たのであり、その結果として、永遠に合うことの無い怪しげな論理を導き出して自画自賛して満足しているのである。

 本来はもっと素直な数の論理、すなわち、「自然数学」を構築して、大自然と共鳴共歩すべきであったのであるが……!!!。

   
 
 
 さてさて、このような漠然としている寝言を繰り広げてもあなた方にはまったく解らないであろう。
 では、現代文明の持っている数学の成り立ちから説明しょう、色々な数的な学説を見てみると、どうも、我々人間には指が10本あるので、それを利用する形で10進法と言う形態が始まったようである。本来ならば、自然の持つ理か、自然の数の現われを学ぶべきなのであるが、それをしなかったのである。 要するに、あまりにも蓋然的なことを基本にして始めたものであり、何ら、自然的な具象から学ぶことは無かったと言う残念な事なのである。それが自然と我々の「数の理」において基本から異なっている最大の理由なのである。

 何と、我々の数学は自然とまったく無縁なものであり、単なる、人間の手の構造的な理由から便宜上始めたものであり、それが現代数学の基幹となって進められてきたものなのである。それは、人間の生活上、10本の指は甚だ便利なものであり、また、その数をを我々は勝手気ままに操り、生活上便利なように、2本、3本と気の向くままにその姿を作り変えることが出来たのである。しかし、自然はそうはいかない、起源があり、すべてはそこから順を追って進んできているので、ランダムは許されず、序、順があり、その道をその通りに進んで、数十億年、あるいは数百億年と言う長い間歩んで来ているのである。
 そこにはいい加減とか、曖昧さ等は一切無く、すべてはその成立通り、その規則通りに進んで来ているものである、それ故に我々はそれを大自然と言っているのである。
 しかし、我々の持っている数学は新機軸を極めたものであり、一つの人間知の素晴らしい発展なのであると言って「現代数学」を全員で祭り上げ、恭しく歴史上にとどめて満足しながら現在に至っているのである。
 しかし、その結果、今になって、自然の理には合わない、自然とはマッチしないと学者達は大騒ぎしているのである。
 それが、量子理論と相対性原理の不一致であり、それ故に、現代物理学が足踏みして、進むことが出来ない最大の理由なのである。
 
 それがいわゆる、「現代数学」の中身であり、その本質と言うものである。要するに、今の自然にはまったくそぐわない非現実的な数学体系であり、遥か過去の体質を改めること無しに、そのまま伸ばして来ているものであり、いささかも変わってはいないと言う事である。
 それに比べると、物理学は現実に沿った形で、古典物理、現代物理、量子物理(波動物理)と次々と名を変えて、現実に寄り添うとしているのであるが、残念ながら今でも寄り添うことが出来ずにもがいている最中である。
 何故ならば、物理は元より、すべての人間知の基幹、基盤と言うものは「現代数学」が深く拘わって来ているからである。
 
 今現在、先進的な数学者達は「現代数学」の持つ様々な定理や規則を武器に自然の本質と相対しょうとしているのであるが、進めば進むほどに矛盾まみれになって困惑している状態であり、もはや、手はすべて出しきったと半ば諦め顔なのである。

 例えば、素粒子のエネルギ-と質量は極めて小さいはずであるが、キチンと計算すればするほど、無限大と言う答えが出てくるのである。しかし、あなた方、「神の数学」を少しでも学んだ方はそのようになる理由が十分に判るはずである。
 それを如実に示しているのが、あの宇宙人の数学、すなわち、「システム オブ ナインズ」なのである。

 要するに、古神道の神髄である「カムナガラの道」は驚くべきことに「システム オブ ナインズ」で作られているのであり、「システム オブ ナインズ(9進法)」で運用されているものである…、何と、何と ……!!!!!。
 
 故に、私は何時も「神の数学」は「宇宙人の数学」とまったく同じものと言って、あなた方を驚かし、結果として大きな侮蔑を買い、信用されることは無いと言う有様であり、これについての質問の声をかけられることも余り無い現状である。 
 
 要するに、「現代数学」の顔を立てれば、自然はソッポ向いて、言うことを聞いてはくれないのであり、自然の顔を重んじれば「現代数学」はとんでもない答えを返してくれると言うことなのである。要するに、現在のところ、人間知と自然知は相思相愛の仲でな無く、相思相反の仲であり、当分の間、手を繋ぐこと等は無いであろう。
 しかし、それは有ってはならない事なのであり、何時かは変えなければならないものなのである。
 また、そうしてしまったのも人間の奢りであり、人間の欲望なのである、もって、このあたりでそろそろ反省すべきであろう。


 
何故、そうなったかの理由は簡単である。それは、自然と同調共鳴している「9進法」を用いず、宇宙自然と共鳴することの無い人類独自の「10進法」を用いているからなのである。要するに、9進法こそが「自然の理」を明らかにするものであり、自然と連鎖共鳴して、鳴動し合っているものなのである。
 

 
もっと、ハッキリ言えば、我々の持つ「現代数学」直線数学、すなわち「平面数学」的な姿を持っているものであるが、宇宙自然は立体的な構造を持っている数学、すなわち、循環法である9進法をベ-スに持つ半ば立体的な計算法を用いなければ、すべての答えは出ては来ないのである。
 それを我々現代人は玉石混合で、日頃の計算ばかりか、自然の計算にも用いようとしているので正しい答えが見つからず右往左往しているのである。


 
もう一度言う、我々の日常の世界には2種類の計算法が必要なのである。 それが日常生活に必要な「10進法」と自然を学ぶための「9進法」なのである。そのことは科学者達が一番よく知っているはずであり、それを知ることにより、一般相対性理論と量子理論は手を結ぶことが出来るのであり、その間に横たわる解決できない矛盾もスム-スに解き放たれることになるはずである。


 さあ、久しぶりに言いたいことを長いことを言ってしまった、これで完全に溜飲が降りた状態である。あなた方には気の毒ではあるが…!!!。

 そこで、次回からは、「数」の調べ、「数」の語りに戻ることにしよう。 さてさて、何を語り上げてあなた方の心を満足させるのかである。
 まあ、次回が始まるまでの一時、折角のコロナ禍なので、静かに毎日を過ごそうではないか…!!!。しばしの骨休みと思えばいいのである。

                           それでは次回にまたお会いしょう…!!!。


   

 令和編   『神の数学』

とても信じられない不思議な不思議な「数」と「神」との物語。
                   
                                                        
 令和3年7月   上載 


さて、さて、毎日の回転が余りにも早すぎて止まることも知らない、まさに、漢詩の「少年老い易く学成り難し」を地で行くような毎日である。

 先回、約束したように今回からは「数」をあげながら、「数と言うものの性質」、あるいは「数」と「空間」の関係を最初から説明して行きたいと思う。

「神の数学」は「数」が開示している一つの自然哲学であり、未だ誰も開いたことは無いものである。なぜ、開けないのか、それは人間の持つ知的概念が自然の持つ概念とは根底から異なっているからであり、なおかつ、誰もその事実を知らないからなのである。

  まずは、そのあたりから説明して行かない限り、どのように「現代数学」を懸命に操作しても、決して自然の理(ことわり)の解明には至ることは無く、ただ、徒(いたずらに心を搔き乱すばかりになるだけである。

要するに、最初の最初からの「数の仕組み」、本当の「自然数の本質」から説明しない限り、「現代知」に完全に脳を侵されているあなた方を正気に戻すことができないのである。

 いくら、正攻法を持って「現代数学」にぶっかっても、今の所、多勢に無勢で「神の数学」は敗残あるのみなのであり、易しくて簡単な正しい認識法と言うものを確立しない限り、今の所、無理と思うものである。なんせ、人類の99,9%は「現代数学」に帰依して、「現代数学」に精進している現在だからである。

 そのあたりを鑑みながら、今回からは、あなたの脳に?(はてな)…との思いを起こさせるような易しい問題、すなわち、「神の数学」の基本中の基本の問題から抜粋したものを取り上げながら、順を追って解説してゆくようにしたいと思う。

  果たして、あなた方の脳に、微かなチカ、チカと瞬くような疑念が起こり、はて、!!???…、何だろうとなるような感情の乱れが生じるであろうか、それとも、別に疑念は何も湧かず、何だ、これは…!?、馬鹿馬鹿しいと言う感じだけで、ただ、スル-の状態があるだけなのか、それにより、あなた方の行き着く終点がまったく違うことはシッカリと覚悟してもらいたいのである。

 今回は、「哲理数学」、すなわち、「神の数学」の基本である自然数の方陣である「神の法陣」を用いながら「自然の理」の存在を明らかにし、もって、その理を追いながら、本来のあるべき自然の「数の理」の存在をしかと確かめて見よう。

 

その類(たぐい)には有名な中国の「魔方陣」があって、昔から世界を駆けめぐっている有名な存在として名を馳せている。

さてさて、あなた方は知っているであろうか…??、あの中国の「魔方陣」は、遥か昔に、留学生であった伏羲が日本から密かに持ち出した日本の古来から伝承されて来た、永遠なる宇宙の「知の秘宝」であることを…!!。   ……  この詳細は「竹内古代文献」にあり。

彼は密かに、それを日本から持ち出し、それを自己流で一個の「3次元方陣」を数字で組み立て、あろうことか、その知を武器にして中国の伝説上の帝王になってしまったとj密かに囁かれているのである。

 なんせ、彼は日本で学ぶ中に、風聞のみで「神の法陣」の所在を知ったが、その数のめぐりの詳細は知らず、おそらく、国に帰ってから,苦心惨澹して数を組み上げたのであろう、それがあの中国の「3次の魔方陣」なのである。論より証拠、正当な「日本の法陣」は「カムナガラの道」の中にはゴロゴロと転がっているのであるが、そんなことは今の日本人の誰も知らず、今でも懸命に意味のない中国の魔方陣」を追いかけているのである。
 それは甚だ滑稽なことであり、驚くべき所作と言うものである。なんせ、当時の中国に存在したのは「3次の魔方陣」の一個だけであり、其の一個を用いて「魔法陣」と名をつけ、やれ、洪水の時に捕まえた亀の背中にあった図であるとか、千里を走る名馬があり、その馬の額にあったのが3次の魔法陣であったと言いふらして箔をつけ、とうとう最後のは中国の初代皇帝にのぼろりつめたと歴史は言う。
 
 
しかし、考えてみるがいい、当時の「魔法陣」は3次元の方陣一個であり、今あるいろいろな「魔法陣」は最近になってから、欧米や日本で考えられたものである。その結末を話せば、(3次の魔法陣)は一個のみであり、4行4列の魔法陣(4次の魔法陣)は880種、更に5行5列の魔法陣、すなわち、5次の魔法陣に至っては2億くらいあると言われている。
 ただし、言って置きtたい,日本の「神の法陣」は何処まで広げても、すべて一種だけの存在であるとあなた方は思っているようであるが、そうではない、そこには沢山の3行3列の「法陣」が重層状態で眠っていのである。それらは柏手(
かしわで)を打つだけで眠りから目覚め、整然とした並びをもって現れ、何事かを懸命に囁いているのである。私に判るのは、それは「数」と言う言葉で何事かを囁いているという事実である。
 その事実に驚いた私は、現在、懸命にそれらの囁きを聞こうとしている最中であり、一生懸命、記録を残そうとしている真っ最中なのである。 
 
 果たして、あなた方は信じられるであろうか…!?、「カムナガラの道」が一瞬にして百に近い81ヶの「3次元方陣」に変わると言うことを……!!!!。
 それはまさに神業であり、我々には到底、思いつかないものであり、ただただ、驚愕があるだけである。
 それでも信じられないとのたまう方には、数多、現物が当家にはあるので、是非とも、検証方々、来訪していただきたい。すべてをお見せしょう。
 また、遠方の方には、現物の一部をお送りしてもいいとも思っている。
 それが嘘か本当かは、出来ることなら、一部でも持って帰り、改めて、明細に検証して戴きたいものである。恐らくは、吃驚仰天するであろう。
 それらのすべては日本発の古代叡智の遺産であり、遥かな時を超えて、今、現代の西洋知の仮面を剥ぎ取ろうとしているのである。
 それが、代々、内密に伝えられて来た古神道の世界を救う日本の「人類最高の叡智」と言われているものである。

  お-、おー、  だいぶ本筋から離れてしまった話を元に戻そう。

 
  「魔方陣」についての中国の言及は一切ない、要するに、他国が勝手に誉めそやしてくれるのなら、それでいいではないかと言う何時もの傲慢な態度であり、これが逆であったなら、どうなるのかは今までの歴史が証明してくれているはずである。
なんせ、自分の国の誉になるなら、日本から技術を譲り受け継いだ有様の新幹線でも中国発と言うくらいである。義理もプライドも何もない……!!!。

 この中国の「魔方陣」の方とは単に四角と言う意味であり、陣とは戦いの座を意味するものである。また、一方の日本の「神の法陣」の法とは「法則」、「律理」、「さだめ」を意味するものであり、一つの「神」の手になる座を意味するものなのである。
 要するに、同じ「ホウ」でも、 それぞれはまったく異なる意味を持っていることを知ってもらいたい。

 また「陣」は配置、備え、並び、等の意味であり、「並んで敵に備える」ことを意味するものであり、一種の戦いの際の戦法のたぐいを指しているものである。
 それらの文字の意味の奥の深さや、教えの理等を是非、知ってもらいたい。
 同じ、「ホウ」でも日本と中国では天地の違いが、そこにはあるのである。

このあたりは最早、何回も書き記しているので、あなた方は十分にご存知のことであろう。

 

まずは、易しい所、3次元法陣」、4次元法陣」、「5次元法陣」から始めてみょう。
 出来るだけ、これらの「数の手法」を学び取り、自然の持つ法則である「摂理」と言う存在の真実を確かめて見て貰いたい。それがこれからのあなたの生き様に大きく拘わってくるものであり、一生の運命にも必ず拘わって来ることにもなるのである。

  これらはすべて古神道の神髄である「カムナガラの道」により明らかにされたものであり、「カムナガラの道」が出典なのである。
 
 何回も言うようであるが、これらの「神の叡智」は人類史上初めて公開されるものであり、いま、それを取り出さない限りは、2度と現れることは無いであろう。それ故に、あなた方も出来るだけ、メモして置いて自分の知の啓発に役立てて貰いたい。
 すべては神意そのものであり、永遠なる真実を語っているものである。
 これをして、偶然とが、たまたまの奇遇であるとの言葉をのたまうのならば、更に続けて、6次元法陣、7次元法陣、8次元法陣、9次元法陣を作り、同様な手口を用いてすべてを解き放って見て貰いたい。 それにより、あなた方も十分に理解し、心も穏やかになるはずである。

     
    

 
 まずは「3次元法陣」から始てめて見よう。
 

問題  3次元法陣を解く

 【其の1】

 これは日本発の正式な「神の法陣」による解であるが、以前にどこかで紹介した覚えがある。でも章を改めて、新しく出発しているのでもう一度、ご紹介したい 要するに、中国の「魔法陣」と同様な手口で解いて行けばいいのである。ただし、中国の「魔法陣」は並列式であり、日本の「神の法陣」循環式であり、自然とまったく同じものである。

   123
  +987



   111




 この3次元法陣の外側の枠の数字のすべてを加算してもらいたい、さて、いくつになるであろうか…!?。恐らく、あなた方の99,9%は正しい答えを出すことは出来ないであろう。 それは今までのあなた方の常識が間違っていたからなのである。

 いくら、口惜しがっても無理なものは無理なのである。それがあなた方の持つ人間知の程度であり、それ故に、自然の知とはまったく相供ないものであることが判るのである。これらすべては「神」の心のままであり、あるべき、正しい「自然の仕組み」を表しているものなのであり、すべては「神の心」を持っているものなのである。

 われわれは今の人間知を正しいものと思い込んで、更に畳み込むように、それを基準にして自然の事象を調査、検証して来ているので、辻褄がまったく合わず、自然は難しい、複雑怪奇であると嘆くだけであるのである。 それは、要するに、「人間の知」と「自然の知」は反りが合わない、方向が異なっているからなのである。 さあ、そのあたりをジックリと見ながら検証を始め、結果をシッカリ出して貰いたい。

 そのためにはその意味や数の語りを交えながら、深く数を読むことが必要なのである。

 一つ、数字を読みながら、どのような形で「数」を拾っているのか、を一つ探ってもらいたい。拾い方がまったく異なっていることが判るはずである。

  あなた方の計算法、——— 1,2,3, 6,9, 8,7, 4,1, (Σ)=40……誤り ×

  
  自然の計算法 ——— 1,2,3, 3,6,9, 9,8,7, 7,4,1, (Σ)=60……正解 〇



 
 あなた方は、余りにも何も考えずに、ただ短絡的に物事(事象)を見ているので、本来の数の本質を掴むことが出来ないのである。シッカリ内部と外部を俯瞰しながら、かつ、全体の姿をジックリ掴む必要があるのである。
そうしない限り、また、同じような過ちを再び犯すことになるのは明らかである。

 考えて見るがいい、古い言葉である「天象地文」とは自然界を指すものであり、昔は上は天。下は地と言い、それらは完全に異なる質を持つものを指す言葉なのである。また四門と言う言葉で天と地、左と右を区別して、その4ヶは完全に異なる本質を持つものであるとハッキリ定義しているのである。

 この場合も天には天の持ち分があり、それが,,3であり、右の持ち分が,,、同様に、地の持ち分が987、左の持ち分が7,,1であると定められているのである。

 要するに、天、すなわち上部から来た圧力(敵)は1,,3で受け止め、右から来た圧力は3,,,で抗(あらが)い、下部から来た圧力は987で逆(さか)らい、左からのものは741で流して、同一的な体制の下で全体をシッカリ守り通しているのである。それが自然の決まりであり、掟と言うものである。

 まさに、その方法こそが全体を考えている最も自然的で無難な発想でもあり、誰が見ても公平で平等なものでもある。

 あなた方の知っている計算法は、この「自然のやりかた」とはまったく異なり、奇々怪々な計算法、まったく自然の理には合わず、不公平極まりないやり方を持っているものなのである。 しかし、 果たして、それは本当のことなのであろうかと疑うであろう。しかし、それは「数」が教えてくれるはずである。

 出来れば人間世界の常識論などは棚上げして、心を無にして「数」の囁きをジックリと検証してもらいたい。すべては自然の業であり、すべからく公平無私なものである。

 さあ、次は残されている中心の数も同じように考えることであり、天、右、下、左となる四門の在り方を公平に考えることである。

 要するに、天は5、右は5、地は5、右は5と公平に考えること、それが自然の方法であり、完全極まりの無い方法なのである。






 
 これらの同一整数の並びの出現は果たして、偶然なのであろうか、それとも無理にこじつけて作り上げた人工の図なのであろうか……!!??。
 それを確かめる方法,,また、その答えは「カムナガラの道」の中にシッカリ存在していることを是非、知って欲しい。これらの答えの数は一体、何を語り上げているのであろうか、あなた方の持っている直感と洞察力を駆使して、一つ、考えて見て貰いたい。

 そのあたりの真実をシッカリ知りたい方は、当方にある
「神のつぶやく呪文」を委細を見て検証することである。
 それらは
「神の呪文(
つぶやき)とその九変化の象(すがた)」と題した、誰も知らない古神道の「「神の秘事」の集大成である。
 そのすべては大変易しいものでありながら、あなた方には大変難しいと言えるものである。恐らく、あなた方よりも小学生の方が簡単に解き去ってしまうことになるであろう。 ハー、ハー、ハー…!!!。
 
 要するに、「カムナガラの道」の中の「法陣の図」を何処までも伸ばして行っても、常に同一数が並ぶと言うことを、単に偶然であると言って見逃すことになっても良心の呵責を覚えないのであろうか…!!。
 これらを神意と言わずして何と言うのであろうか……!!!。
 それほど「カムナガラの道」には不可思議極まりの無い「神の秘事」が一杯詰まり、満ち溢れているのである。

 
これは現代知に対する挑戦の一つであり、その答えを見出さない限りこれ以上の前進は無いと思って欲しい。
 並び揃った
「同一数の現れ」、それは大いなる「神」の意志の現れなのであるが、今まで、誰も取り上げようとする者はいなかったのである。
 いやいや、誰も見出すことすらも叶わなかったものである。
 
 はて、さて、そのあたりをシッカリ吟味しながら考えて見て貰いたい……!!??。要するに、これは驚くべき自然の産物か、それともいい加減な人知的な産物なのであろうかをシッカリ見極めて貰いたいと言うことなのである。ここまでならば、いざ知らず、この後をドンドン追うことによりその結果はハッキリすることになるはずである。
 
 要するに、それは、この後の、上図の素晴らしい6次元、7次元、8次元、9次元の法陣を連続検証し、答えを出すことにより、ハッキリと判るのであり、また、それにより、不思議さはますます際だって来ることになるのである。まさに、不思議、不思議の連続であり、目を離すことも出来ないものである。
 
 また、更に余裕のある方は10次元の法陣以降のものを作って確かめて見ることである。それにより、すべてはだんだん解って来ることになり、
「数」は心を持っていることが解ってくるはずであり、それが「数霊」と言われているものである。また、そうなれば、次に現れて来る「数」も簡単に予見が出来、そこにある公式然としたものを見出すことにもなるのである。そのあたりのこともシッカリ知って貰いたい。

 
この答えとなっている同一数の群れを称して、「神の数学」では「アマテラス数列」と呼んで最高位の数列としている。何故ならば、そこに現れた「本質の数」を見るがいい、これらはすべて、古神道の一霊四魂の中の一霊、すなわち、直霊(なおひ)とまったく同一同格なものであり、宇宙の最高神と通じている素晴らしい数列であるからである。
 とにかく、古神道の神髄である「カムナガラの道」の中は、この「アマテラス数列」で満ち溢れているのであり、その「アマテラス数列」世の中を造り、宇宙自然を操っているのは間違いの無いことなのである。
 また、これらの「アマテラス数列」のすベては完全鏡面数列と言う本来の神々の姿を持っていることにも、是非注意を払ってもらいたい。
 
鏡面数列、それは大変恐るべき数列であり、深遠で永遠な知を誇っている「神の数列」そのものでもあるのである。

 一体、これらの数の示しとは、何を語り、何を示唆しょうとしているのであろうか……!!??。まあ、シッカリ考えて見ることである。
 まあ、その中には驚くべき
「哲数理の真実」が込められていて、それを我々に伝えようとしているのである。しかし、考えの浅い我々には見当もつかず、ただため息をつくだけであり、ただただ、腕をこまねくだけなのである。

 また、この中には古神道の目録にある
「一霊四魂」の真実が説かれているのであるが、それはこの方法を用いて探すことにより、姿を現わすことを知って欲しい。とにかく、試して実証することであり、色々と考え、捜索して見ることである。それにより、すべては明らかになり、同時にこの手法の真実を知ることになるはずである。頭で考えていては駄目であり、目、心、手、足などの5つのセンサ—を駆使しながら順序立って考えなければ上手くはいかん。

 「数」はまことに偉大であり、我々の知らなかった「数の理」、すなわち、この広大な宇宙を創り上げている「自然の摂理」、「天の法則」の存在を教えてくれているのである。 しかし、あなた方はそんなもがあるとは信じられない、いい加減なことを言わないで欲しいとのたまうことであろう。

 しかしである、
これらは「神」の囁きであり、すべては数により示されている「神の叡智」の発露なのである。要するに、「神」は数と言う手法をもって、我々人類に最大の「示し」を下されているのであり、この終末期の人類をして何らかの救済法を教えようとしているのである。

 アハハ!!、 少々宗教家じみたセリフを吐いてしまったが、別に、そのような意図は何も無い、安心して下され……!!!。

 「神の数学」は決して出所が曖昧なものなどでは無い。ただし、あなた方にとっては歴史上初めてお目にかかるモノであり、甚だ面食らい、疑問を呈することは間違いないことであろう。
すべては古神道の
「カムナガラの道」に始まる神の叡智の物語であり、現代史上はじめてお目見えするのものである。

                                                  
 しかし、これでは答えを問うことは余りにも漠然としすぎて、あなた方は戸惑うばかりであろう。

 色々と考えをまとめるためのヒントを一つ、二つ出しておこう。

 ヒント① →答え  これは「哲数理」の問題であり、未だ、現代科学は突き止めることの出来ない由々しい問題なのである。
       要するに、「空間」と「エネルギ-」の間にある相関的な関係の所在を示すものであり、その両者の間にはとてつもない関係が有って、お互い       に牽制しあい、自制しあっている事実を、このように「数」が教えてくれているのである。そのあたりを一つ、考えて見て貰いたい。
       甚だ、面白い「神の秘儀」であるが、現代科学は未だ知らない、突き止めようともしない。 
                                                                    (令和3年7月15日 記す)。 
 
 ヒント② →答え  この枠を一つの空間(スぺ-ス)、あるいはセルと考え、その中にある数字をエネルギ-と考えて貰いたい。次にはその空間を
               「数」の場合とまったく同じ理屈をもって計算し、それぞれの合計数を出すのである。すると、「3次元体」のエネルギ-は 示した                 通りに、 222:2、すなわち 、3:1という比率になり、同時に、空間の比率も同じく3:1の比率を持って仲良く円満に納まっているのである。
                それは要するに、外側の枠のセルは、3+3+3+3=12、内側のセルは1+1+1+1=4となって、比は3:1となり、                      すべての比は何処まで行っても完全に一致した数比で納まっている事を示しているのである。

  これは、何時も言っているように、小、中学生でも解ける計算問題である。ただ、彼等は知に対する視野がまだまだ狭いので、計算は出来ても、まだ十分な理解には 至らないだけなのである。
                                                                    (令和3年7月20日 記す)

 ヒント③→答え  さてさて、試算もしようとしない あなたがたには、判るはずが無いのであるが、一応、言った手前、書き置くことが礼儀であろう。
             要するにである、これらの次元体を計算すると、面白いことに、答えの数は次のような数の並びになるのである。
 
          1,3,5,7,9の奇数の次元体の本質数はエネルギー的にも空間的にも …… 1:3:5:7:9 → と奇数的な比率で伸びて行き、

          また、2,4,6,8等の偶数の次元体エネルギー的にも空間的にも …… 1:2:3:4:5、→ と自然数列的な比率で伸びて行く。

  一体、そこにはどのような関係があり、何を意味するものなのであろうか……!!??。   誰か、その答えを出して見て貰いたい。 
  また、そこには色々な意味を囁いている「数の群れ」がたむろして、あなた方に「大いなる意味」を語ろうとしているのであるが、
  果たして、あなた方はそれらを捕まえて、その意味を察することが出来るのであろうか、 さて、さて、 はて、はて……!!??。
                                                                     (令和3年7月25日 記す)

 今、思い出した、確か、「カタカムナ」の発見者であった楢崎皐月氏は「次元には偶次元と奇次元と言う2種類が存在している」と発言していた世界で唯一の学者である。それから70年以上経った今でも、その事実は誰も口にしてはいない、調べようともしない…!!!。
 要するに、彼は、そのような素晴らしい自然の理象を言葉にした日本が誇る大科学者の一人なのである。覚えていて欲しい…!!。
 ひょっとすると、古代文献である「カタカムナ」の中にそれらの事象を語っているような言葉があるのであろうか…!!。
 あれば是非、教えて戴きたい。

 ヒント④→答え  さて、これは甚だ深遠で、奥深い「神の秘儀」の一つである。恐らくは、今まで誰も遭遇したことの無いものであろう。
            皆さんもこぞって考え、そこにある答えと言うものをシッカリあぶり出して貰いたい。
            どっちみち、何時かは遭遇しなければならないものであり、考えて答えを出さなければならないものである。

  さて、これらの次元表の本質数を見ると次のようになる。1次元体は→4, 2次元体は→1, 3次元体は→2、 4次元体は→7、5次元体は→7、   6次元体は→2、7次元体は→1、8次元体表は→4、9次元体は→2、となることがお判りであろう。
  それを並べると次のような数列が現れて来るので、ジックリと眺めて、検証に入るのである。

               4 1 2 7 7 2 1 4 2

 そこでまた考えるのである。 1次元の前には、当然、「神の次元」である0次元が存在して、全体を見張っているはずであると…!!!。

 一つ、断っておきたい、あなた方は数の多い方が高次元であると思っているようであるが、それは今まで何回も言っているように大きな誤りなのである。実際は小さい方、すなわち、0次元が最高次元であり、「神」の次元なのである。 

 科学者達は10次元の空間から6次元の空間を巻き取ったもの、それが4次元空間であるとか、26次元の存在とか勝手なことを口にして議論しているが、果たして、次元はそのように伸びて行って、数多にわたって存在しているのであろうか…!?。到底、それは考えられない。次元は有限であり、9次元終わっているのである。要するに、全部では10次元存在しているのであるが、一つはダブって重なっているので9次元なのである。
 私の持つ次元論は次元は少なくなればなるほど高次元の世界になると言うことである。それ故に、0次元は最高次元であり、「神」の次元であると主張しているのであり、実在(陽)の次元では四次元が最高であり、それ以上の次元は相対的に結ばれている蔭の次元、すなわち、「あの世」的な次元なのであり、すべては9次元で終わっているものである。そのことは、今まで何回も「数」で説明していることであるが…!!!。

 そうすると、1次元の前には、当然、0次元と言う「神」の次元が存在していると考えて、その0と言う「神の次元」の本質数を調べて、付け加えることが必要なのである。すると、それはこれらの対象的な位置関係から考えると、当然、9次元の数と同じ2であることは、今までの学びによって、お判りになるはずである。 (09より)
今回の0次元の数として2を入れる、すると驚くことに、そこに2412772142となる姿の完全鏡面数列が現れて、幕を下ろすのである。


 要するに、0はすべての数を持つ、すなわち、すべての「数」に姿を変えることの出来る、いわば、「神」の数ではあるが、ただし、その場合には何の数でもいいわけではなく、そこには一つの規制があるのである。それは、必ず9次元体の持つ「数」と同一数で無ければならないと言うことである。すなわち、それが偉大なる「神」の宿命であり、「神」の唯一の泣き所なのである。 そのような訳で、今回の0次元である「神の持つ数」はとなるのであり、そのような理由なのである。
 
 すると、次のような0次元から9次元体からの本質数からなる次系数列が現れ、しかも、それは完成対称数列、すなわち、
完全鏡面対称数列の姿を持っている「神の数列」であることが解るのである……!!!。
   
   2 4 1 2 7 7 2 1 4 2 …… 完全鏡面数列



 何故 完全鏡面対称数列は「神の数列」であるのかと言えば、完全鏡面対称数列は常に、その中に「カムナガラの道」の中のいずれかの数列の完成した形を必ず持っているからである。恐らく、あなた方は「そんなバカな」と疑い、笑うことであろう、しかし、それは疑いの無い事実であり、「神の数学」の中の「神算法」を用いることにより、すべては簡単に判るのである。  

 そこで、今度は、果たして、この0次元の本質数が
であると言うのが正しいのかどうか、それを改めて確かめて見ようと言うのである。 あなた方も、是非、その事実を一緒に検証して見てもらいたい…!!。恐らくは目が点になるはずである。


 

 

 ほら、面白いことに、完全鏡面数列を探れば、何と、「神」、すなわち、「カムナガラの道」の中の数列が静々と現れて来たではないか……!!!!。
 それが、すなわち、完全鏡面数列が「神」と呼ばれている由縁であり、鏡面数列は「神」の分身であるとの証拠というものである。

 恐らく、あなた方は、この完全鏡面数列が「神」と呼ばれている由縁と鏡面数列は「神」の分身であるとの理由については頭を悩ますであろう。しかし、その答えはすべて、古神道の神髄である「カムナガラの道」の中にシッカリ示されているのである。
 例えばである、この「カムナガラの道」の中にある二つの対角線数列だけが完全鏡面数列であり、完全な「神」の姿を持っているものであり、古神道では「大神」と呼んでいるものである。また、それ以外の「神」は、単に「神」と言われている一種の「神の眷属」なのである。。
 
 それ故に、「カムナガラの道」においては完全な姿を持つ二つの対角線数列を私は「神」と呼び、それ以外の数多(
あまた)の斜めに走る未完成体な鏡面数列体を私は神より一段劣る神、すなわち、「神の分身」、あるいは「次神」と呼んでいるのである。 また、あなた方はそれらの「神の分身」達を精霊、あるいは妖精と何故なら、鏡面数列は未完成なものであり、決められているもう一つの相対的な鏡面数列と合一することにより、初めて完全鏡面数列となって「大神」に昇格するからである。
 
 それが、本当である証明に「カムナガラの道」の中にある二つの対角線数列を取り出し、上部の式と同じように「神算法」を用いて右の数より左の数を引いて見ることである。すると、同じょうに、そこには」カムナガラの道」の中のいずれかの「神の数列」が現れて、弥栄となって納まっているのがお判りになるはずである。

 とにかく、これら二つの対角線数列を上部の計算式を見習って計算をして見ることである。それから、その二つの計算式の答えを見比べて見るのである。すると不可思議な事実、あなた方が見たこともない不思議な「数の流れ」に遭遇し、その不思議さに目を回し驚くことになるのである。その姿こそが、すなわち自然の真実の姿であり、本当の「数の流れ」と言うものに、あなたは初めて、やっと行き着いたということなのである。

 たった二つの「カムナガラの道」の対角数列を「神算法」で処理して、その結果を見比べるだけですべてが判るのであり、
それと同時に、「現代数学」の未熟さ、不完全さが手に取るように判るのである。そこには不可思議な数の並びとマイナス数の無い健全な数の並びが整列してあなたを出迎えてくれているのである。

 そこで、あなたはそこにある不可思議な数の囁きの存在に気が付くことになるのであり、それが、ようやく、「現代数学」と言う煩悩から開放されることになると言う事になるのである。

 いや、いや、ひょっとしてあなた方は計算(
引き算)、すなわち、1-4=6、2-7=4、2-4=7となる計算である「神算法」が出来ないのであり、迷った挙句、投げ出しているのではないか…!!??。  ハー、ハー、ハー……!!?????。
 私は何回も教えてきたはずであるが、まともに相手にしてこなかったあなたに非があるのであり、あなたに落ち度があるのである。 もっと素直になって私の言う事を聞いてもらっていれば、有数な「数の達人」になれたたはずであるが……!!!?。

 とにかく、自然界にはマイナス(ー)となる象は無いのである、それを強引にマイナス数で押し切ろうとしても、決して、正しい自然的な答えを求めることは出来ないのである。 それを無理強いして、行なっているのが西洋発の「現代数学」なのであり、あなた方なのである。
 そのあげく、「現代数学」を基調にしている物理学は「自然は複雑怪奇であり、かつ混沌に満ちている」、とぼやいて、嘆き、半ば投げ出しているような有様なのである。しかし、あなた方はそれでも「現代数学」と言う偽善体系数学から離れれられないのである。 何と嘆かわしい……!!!!。

 試みに、「神算法」、すなわち、宇宙人の数学である
「システム オブナインズ」を投入して、計算を試みるがいい、すべてはあれよあれよと言う間に、結果結論が出て来て心から納得するはずである。 


 また、それをあからさまに立証しているのが、この「カムナガラの道」の数図にある二つの対応する対角線数列である。また、そのあたりについては、陰」と「陽」のこれら二つの対角線数列から現れた二つの「神の数列」をシッカリ同様な手口(
神算法)で調べて見れば、すべてはハッキリと解るはずなのであるが……!!。
 それにより、この二つの対角線数列は間違いなく、「陰」と「陽」の性質を持って存在していることが判明するのであり、同時に、マイナス数の無い世界の真実、すなわち、「自然世界の真実」の存在と言うものを、改めて深く知ることが出来るのである。
 
 
 要するに、今まで漠然としていた「陰」と「陽」の本質、本性が即座にこれで解って来ると言う事なのであり、まったく不明であった言葉の意味がここに来てやっと、解けたと言うことになるである。考えて見ると、2000年近くの年月が経って、初めて解明に至った次第であり、まことに素晴らしいことと称賛して欲しいものである。ハー、ハー、ハー… 。

 それは確かに、今の今まで漠然としていて、完全に不明の状態にあった「陰」と「陽」の性質、いや本性そのものと言うものが完全に判明したことになるのであり、長年、歴史上で騒がれていた問題もこれで終わりを告げることになったのである。
 目出度い、目出度い……!!!!。とにかく、「陰」と「陽」は自然象の根幹を為すものであるが、この存在理由を解き明かさない限り、自然の本質、本性は決して判ることはないのである。それを明かせるのは「神の数学」だけである。
 
 このように、それは「陰」と「陽」の本質の極みと言うものを見せてくれるものであり、また、それにより、自然における「哲学的世界観」の現実的な姿をハッキリと示してくれるものでもある。今、現代科学の変則的な発展段階により、現在は「自然の哲学」と言うものは完全に圧されて、まさに消失寸前の有様である。
 恐らく、何時の日か、現在、失われつつある「自然哲学」と言う学問の大切さを改めて我々は認識することになるであろう。
 
 要は、とにかく自らの手で計算を行って見ることであり、ただ、ただ、漫然と考えているだけでは決して前に進むことはできないのである。
 頭を捻って更に深く考える、すべてはこの一言に尽きるのである。 ムー、弥栄、弥栄 ……!!!。

 とにかく、人間の思考なんては、まったく当てにはならず、「自然世界」の真実を掴むのには程遠いものである。それ比べると、「神」の思慮は理路整然であり、簡単にして着実方正なのである。それ故に、決して間違うようなことは無いものなのである。 日頃、私はそれを称して「神コンピュウター」と言って敬い、奉っているのである。

 その「神コンピュウター」の素晴らしさ、ゆくりないその性能の如何を調べたい方は、いくらでもそのサンプル的な問題は当方にあるので、是非、来宅して調べて見ることである。驚いて、腰を抜かすことは、これ、また、当然なことでもある。

 ほい、また、路線が狂ってしまった、堪忍、堪忍 …!!!。 「神」の説明途中であったはず、続けよう …!!!。


 またまた面白いことに、どういう訳か、これらの「神の分身」である鏡面数列のすべては、必ず対となっている相手の数列を探し当てて完成に至るべく、懸命にその相手となる鏡面数列を求めようとしているのである。良く調べて見ると、その相手の数列は遥かに離れた対極にある同じ斜めの数列帯の中に100%完全な形で存在しているのであり、その二つが完全な結び合うことにより。完全な「神」に昇格し、不思議な能力を発揮して止まないのである。まことに不思議なことであるが……!!!。
 
 それ故に、ある一つの法則を見出して、その相棒となる二つの数列を繋いで見るのである。すると、その二つはピッタリと合って完全な合体数列、すなわち、九つの数を抱いている「神の数列」の姿となって我々の前に静々と現れて来るのである。
 それと同じ法則を用いることにより、すべての他の鏡面数列も、それぞれが九つの数からなる数列となって「神」に納まり、力を持つことになるのである。 まさに、数の語るストーリは素晴らしく、また面白いものである。 
 しかも、すべては整然とした法則に従って動いているのである。
 それ故に、私は「カムナガラの道」とは素晴らしい「神の叡智」の集成体であり、集合体なのである。
 それ故に私は「神」の系図の姿を見せている素晴らしい「神の贈物」、すなわち「天与の数図」と呼んで日頃から敬っているのである。

 
 その見事な数列の関係から見ても、この古神道の神髄である「カムナガラの道」の存在は驚くべきものであり、それはまさに「神の手」により作られたものとしか思えないものである。恐らく、将来、いくら性能の良い巨大コンピユターが発明されても、とても同じようなモノは決して作れないであろう。
 また、同時に、この「カムナガラの道」を探索し、その業を極めることにより、「神の存在」が明らかになるはずであり、現存している神の在、不在の論証は完全に姿を消すことになるのである。要するに、「神」は間違いなく存在していることが明らかになり、大きな歴史的な問題は解決されることになるのである。 後は自由に「神」の姿をトレ-スしながら色々と学んで、人生を送るだけである。 まさに、弥栄、弥栄 弥栄の極みと言うものである…!!!。


 また、これらの仕組みは、「神」の存在を肯定する最大の材料としての存在を認めざるを得ないものであり、同時に、そのような偉大なものが日本の国に存在していたことを感謝しなければならないものである。とにかく、日本と言う国は他の国とは5歩も10歩も秀でている国であり、まったく異なる由緒を持つ素晴らしい国なのである。そのあたりは、これから、ますます世界中に知れ渡り、人々の尊敬を重層して受けることになるであろう。

 しかし、そのような事実関係の所在については、今の所、誰も知らない、誰も知ろうともしない、ちょっと、手を動かせば簡単に解るはずなのであるが…!!。
 
 まあ、そのあたリのことを、どうしても知りたい方は、わたしを尋ねるがいい、改めて、講義申しあげよう、これらは2~3時間もあれば、中学生でも解き放つことが出来るような易しいものであるが……!!!。ただし、どの問題の解答が欲しいのかはハッキリ明示して貰いたい。
 「神」とはそのような、素晴らしい姿や形をしているのであるが、実際に遭遇し、調べて見なければ、その素晴らしさはわからないものである……!!!!!。ただただ、憧れ、崇めているだけでは、決して、求めることは出来ず、ましてや、その正体やその働き等は解ることは決して無いものなのである。
 
 
 また、更に面白いことに、何と、御覧の通りに「神の数」である「0」の後ろには必ず最終次元体である「9次元体」の姿が、見え隠れして、全体を支えていることが証明もされているのである。それは宇宙自然の一つの律であり、当然の決まりなのである。

 その姿は完全循環体においては当たり前のことなのであり、それがすなわち、循環体の姿なのである。そのあたりのことは、確か、西洋の黙示禄にもあるのであるが、今の今までその言葉をの意味を解明した者は誰もいない、ただただ、口で唱えながら考えているのであるが、今のままでは、永久に答えは出ないはずである。何故なら、今の世界の考えの根本がまったく違うからなのである。
 それがすなわち、「神」の言葉である「わたしはアルファであり、オメガである、または、わたしは最初であり、最後でもあると言う謎の言葉なのである。それは、すなわち、「神」の本当の姿は循環体を持っていると言うことを指している言葉なのである。

 その完全な姿を持っているものが、すなわち、日本の古神道の神髄である、あの「カムナガラの道」であり、自由自在に、このわたしは最初であり、最後でもあると言う言葉に意味を説明出来る世界で唯一無二のものなのである。
 
 この当たり前の言葉、その意味を解した者は誰もいないと言うのが、今の「知の世界」であり、哀れな我々の世界の姿なのである。
 それは、要するに、自然世界(神の世界)は直線世界ではなく、完全なる循環態を持っていることを表している言葉なのである。
 確かに、今の世の中は何かが狂っている、何かが正常ではないような気がするのであるが……!!!。

 このわたしは最初であり、最後でもあると言う言葉の理由、その違いの真実を知りたいのならば、是非、古神道の神髄である「カムナガラの道」を懸命に調べることである。判らなければ私もシッカリ応援しよう、真実を求めるにははばかることは無かれ……!!!!。
 
 すべての答えは、そこに記されているのであり、すべての完全な自然世界の答えはそこにシッカリ出ているのである。
 また、その上、答えを求めようとしているあなた方の訪れを今か、今かと首を長くして待っているのである……!!!。

 要するに、今、世界で一番求められている真実の言葉がこの「カムナガラの道」の中に存在しているのである、しかし、誰もがせせら笑うだけであり、歩みを止めることもないのである……!!!!!。それが西洋知に真っ赤に染まってしまった日本民族であり、我が身を振返ることも無く、一心不乱に西洋知と言う反自然な現代知に塗(まみ)れ去った哀れな民族なのである。
 

 この「神の数」である「0」の後ろには必ず最終次元体である「9次元体」の姿が、見え隠れして、全体を支えていると言うことは忘れないでもらいたい
、すなわち、例えて見ると、それは丸で、あなた方一家の様である、要するに、全体的な権力を持っていると思われている一家の長であるあなたの後ろには常に、奥さんの目が光っていて、バランスを取っている、それとまったく同じ構図であり、それが自然の真実の姿、永久に変わらぬ姿なのである。要するに、あなたと奥さんは常に一心同体で無ければならないのであり、心に違いがあってはならないことを教えているのである。
 あるべき自然とはそのようなバランスの上に立ってすべては成り立ち、調和により永遠性を保っていることを知って欲しい。すべては同じなのである。 
 おわかりであろうか、あなたも宜しく、この自然の原理を学ぶがいい、家庭は永遠に保たれて無事にハッピ-エンドまで行くことになるぞょ。
 、ハ-、ハ-、ハ- …… !!!!。
 

れはすなわち、0はすべての数の母体であり、あらゆる「数」を産み出すことが出来る、いわば、母なのである。それ故に、唯一、すべての数を表す(代用する)ことが可能なものなのである
 しかし、そこには制限があり、必ず、9次元体の本質数と同一なものでなければならないのである。要するに、それはトランプのババ抜きゲ-ムのジョカ-と同じようなものであり、数の順序が来ても、手持ちにその数が無ければ、ジョ-カ-で代用してもいい、と同じようにである。 

ただし、この場合、すなわち、トランプの場合には「数」は何でもいいのであるが、この自然体の0の場合には必ず、9次元体と同じ「数」でなければならず、そこには大きな制限が付き纏っていることを知ってもらいたい。また、それを示しているのが、すなわち、(0=9)なのである。
 私も、最初の出会いでは解らなくて甚だ面くらったのであるが、2度、3度同じような場面に出合って、考えた挙句、だんだん解るようになって来たのである。自然とはそのようなものであり、余り、突飛さ、不合理さ、と言うものは持ち合わせてはいないのである。
 それが、自然体、すなわち、自然体の姿なのであり、あり、その本性と言うものなのである。

 恐らく、そこには何らかの大きな意味があって、永遠な姿、無窮なる存在となって時間を闊歩しているのであろうが、残念なことに、今の私には何も解らない。とにかく、自然はまろやかな姿で回転しながら、永遠の回廊をめぐっているのは確かであり、我々の存在等には歯牙もかけてはいないのである。

 私の推量としては、偉大なる「0の姿」の「神」はオ-ルマイテイであるが、やはりそこには規制がかけられている、その規制のひもをにぎっているのが、何と、9次元体そのものなのである。このようなことは、今の今まで、誰も言ったことは無く、いや、誰も思ってもみなかったことである。

 しかし、自然の真相を語る「数」はそう言っているのであり、そう、明かして止まないのである。

この「完全鏡面数列」の現れこそを称して、私は「神の姿の現れ」を予見するものであり、また、計算(神算法)に従って現れて来るのが、御覧の通り、間違いの無い「カムナガラの道」と言う日本固有のまことの「神の道」の姿なのである。そこをシッカリ、覚えていてもらいたい。
 要するに、
この「カムナガラの道」のいづれかの数列が計算により現れた場合には、すべては正しい経過で最終答えに至っていることの証明となるものなのである。 

  要するに、この「カムナガラの道」の出現により、すべては「正しい形」、「満足状態」が示され、また、それは一つの自然象による完全証明に至つたことを物語るものであり、完全な大団円を迎えたことを表している「神の数列の群れ」なのである。
  この「カムナガラの道」の出現こそが、すべてを満足させて、弥栄を迎える大前提となるものであり、それほど素晴らしいものなのである。

しかし、誰も知らない、誰も気にしない。ただ、ただ、何となく生きているだけであり、何となく死んでゆくだけである。


 とにかく、「神の答え」は一つばかりではなく、そこには数多あるのであり、いわば、枚挙に暇が無いと言ってもいいくらいなのである。
  あなた方も、決して慢心することは無く、更なる奥へと進んで、見事、「神の寵愛」を受けて見る事である。それが人生の華であり、生きがいと言うものである。ただ、ただ、散漫に生きて、何となく大切な人生を無駄に過ごして、死んでゆく、それでは余りにも悲しすぎるではないか……!!!!!。

 あなた方は、これと まったく、同じような計算手法で、他の次元表の計算を行い、真実を掘り起こしてもらいたい、別に矛盾は起こらないはずである。  すべては、同様にスム-スに行って、そこにある人間の未だ触れていない「真実の法則」の存在を数多、見出すことになるのである。
 それは、一つの生きがい達成であり、同時に、人類に対しての「こよない奉仕」ともなるものである。

 そこで、改めて考えてもらいたい…!!。  まだまだ、この「神の示し」には余禄(よろく)が色々とあるはずである、それを是非、探し出して見て貰いたい。
 とにかく、頭を捻って考え、更に考えることであり、ペンと紙を用意して、黒くなるまで書きまくることである。
 さてさて、 一体、あなた達はどのように考えて、何を引っ張り出して、どのような形で幕引を計ろうとするのやら……!!??。

 今回は、熱が入り過ぎて少々難しいものとなってしまったが、次回からは、また、なるべく平易な「神の話し」に戻ることにしょう。
 あなた方の頭ッを混乱させて、まことに済まなんだ…!!。堪忍、堪忍……!!!!!。

  果たして、人知を超える「哲数学」の真実の存在を掘り起こすことが出来るのであろうか、甚だ、面白い限りである……ハ-、ハ-、ハ-!!!。                                                               
  

 令和編   『神の数学』
   とても信じられない不思議な不思議な「数」と「神」との物語。

                                                              令和3年10月   上載 

  
 私は少々、あなた方に謝らなければならない、
それは先回の〘4〙の中で少々暴言を吐いたことである。
 それは。要するに、次のような言葉である。
 
 「現代数学」を基調にしている物理学は「自然は複雑怪奇であり、かつ混沌に満ちている」、とぼやいて、嘆き、半ば投げ出しているような有様なのである。しかし、あなた方はそれでも「現代数学」と言う偽善体系数学から離れれられないのである。

 しかし、よく考えて見ると、これはどうも、私のような西洋学問のど素人が口にするような言葉では無いようである。

 〔1〕 「神の存在」について……!!!。

 最近目にすることの多いインタ-ネットの中の言葉には、次のようなものが甚だ多いように感じられる。

 「神」は存在するのか…?、 数は「神」の言葉なのか…?,等々である。 しかし、今の所、誰もそれに答えを出す者はいないようである……!!!。本当は、そろそろ、真剣に考えなければならない問題なのであるが…!!?。

 しかし、それらに答えを出すような学者は一人としていない、いや、考えようともしないのが現実であると言ってもいいかも知れない。 私にとっては、まさに哀れの一言に尽きるものであり、ただただ、無念の言葉があるだけである。

 何と、誰もその答えを知らないのであり、それを証拠立てるような事実を持っているような学者も恐らくはいないと言うことなのであろう。 それにしても、人間が「神の存在」について疑問を持ち始めてから、最早、数千年から数万年になるはずである。

 要するに、今まで、世界中では何十万人か、何百万人の数学を生業(なわわい)にしているような方々がいたのであるが、何と、誰一人として、0の正体さえも知らず、また使い方も知らないと言うのである。ただただ、哀れとしか言いようがない。

 それは早く言えば、「現代数学」では始末が出来ない、処理が出来ないと言う事であり、その本当の意味や使い方もまったく知らないと言う事なのである。インタ―ネットの記事を見る限り、どうしてもそのように感じられて仕方が無いのである。

 実際には「神」は数と言う会話媒体、いや通信用語かな…??、それを用いて数万年前から、常に我々日本民族に話しかけて来ている,何故ならば、古代日本人は「数」に対しては甚だ敏感で、その「理を秘めた驚くべき存在」として、広く認知していたからである。その内容証拠こそが、あの超古代文献の「
先代旧事本紀」の中の数に関する記事である。
 しかし、「現代数学」を奉信し、わき目もふらなかった御仁たちは誰もそれに気が付く者はいなかったのである。それもやっと最近になって何人かがそれに気付きはじめたようである、それがインタ―ネット上の悲痛な叫びなのである……!!!。

 しかし私は断言する、由緒ある日本民族はその答えを密かに心に持って生まれて来ているのであるが、ただただ、西洋の「現代数学」に帰依する余り、本当の事実に気付くこともないのである。 本来ならば、ごく身近な所にその答えは転がっているのであり、常に手を挙げながら我々に語りかけているのであるが……!!!。
 しかし、今の今まで誰も気が付くことは無かったのである。

 
「数」はまさに、「神」の用語であり、それを用いて間断なく、我々に話しかけているのであるが 我々は今の今まで、まったくそれに気付くことも無かったのである……!!!!!。

現に、古神道の神髄である「カムナガラの道」は懸命に本当の数のあり方を学んでほしい、と懸命に呼びかけているのであるが、誰も知らん顔で振り向きもしない‥…
!!!。
 あ-、あ-、何という、お目出度い民族であり、甚だ、バチ当たりの民族なのであろうか、ただため息が洩れるだけである。
 

 
〔2〕 「神の存在」を明らかにしよう …… !!!
 
 そのあたりをこれから説明して行くのであるが、まずは、私の説明の全体を見てから、意見、あるいは疑問のある御仁は、改めて、抗議、あるいは質問状を発して貰いたいと思う、素性の正しい質問や、けれんみのない質問には喜んで答えを必ず返すつもりであるが、揶揄嘲笑の類や、余りにも愚問過ぎるモノは、馬鹿馬鹿しいので無視するつもりである。その点は是非、ご承知願いたい…!!。これらすべては真剣勝負そのものであり、人類の命運をかけるばかりの畢竟の命題と思って戴きたい。
 私も、それに応じた返答をするつもりである。

 すべては国の為、あるいは民族の為に、そして、最早、今となっては人類の為に、少しでも事実を明らかにしたい、それが私の偽りに無い本心である
とにかく、今のままでは人類が衰退するのは目に見えるのであり、最早、時間の問題なのである。
 今、その兆候は天にも地にも現れているのであるが、極楽トンボの日本人はまったく気が付かない有様である。

   
 あなた方は知らないであろうが、本当の自然体系の数学の基本は、本来、古神道の「カムナガラの道」の中に「神の呪文」として納められ来ているのであり、しかも、それは誰が見ても、不思議、不可思議とばかり首を傾げてやまないものなのである。
 それらは、まさに多層状態で並列に並んでいるのであり、まさに、マトリックス状態にあると言ってもいいものである。
 しかも、何と、それらは一点を打てば全体に響き渡る状態にあるのである。

 それはその昔から、智のある人々に不思議がられて「神の囁き」とか「神の呪文」として大切に扱われてきた甚だ古い経歴のあるものである。 そこには同じ文句の繰り返しが何十にも重なって真実を告げていたのであるが、誰もその意味を解すことは出来ずに、古来から、ただただ、「神の呪文」として尊ばれ、そのように扱われて大切にされて来ているものなのである。

 しかし、それも、この数千年から数万年の間には何時しか忘れ去られ、失われてしまったのである。その後、知者達により新しく再興され、神を崇める為の祝詞として再出発したもの、それが現代まで続いていている古式ゆかしき「祝詞」の言葉であり、甚だ、意味不明の言葉で綴られ、誰もその真実は知らず、ただただ散々人々を煙に巻き、迷わせていて来ているものなのである。
 
 
 私はその本来のあるべき「神の呪文」を復元した驚くべきものを神から頂いて持っているが、それらは不思議な文句を「数」で綴られている由々しいもの、いわば、それは一種の「神の言葉」でもあり、祖先たちはそれを「神の呪文」と名付けていたのである。すべては不可思議極まりの無い「数」で語られ、人知には無い驚くべき超知的な意味を持っているものでありながら、極めて奥の深い意味を持っているのである。

 私はそれ等の「神の呪文」を紐解きながら、懸命に人々に伝えようと頑張って来ているのであるが、誰も一向に耳を貸そうとはしない。それは私にとっては余りにも、易しくて難しいものであるが、ただただ、興味深く、捨てがたいものなので悲鳴をあげながら、転げ回っているような毎日なのである。とにかく、解決する傍ら、次々と新しいものが現れて解けと強要するのである。
 まさに、それらは意味不明な言葉を「数」で語り上げられているものであり、まさしく、それらは「人間知」の向こうにある自然の真理、真実を語っているものである。それは、まさしく「神」は何とかしてそれらを我々に伝えようと懸命になっていると言うことであろう。そのことは心にひしひしと伝わって来て、ただただ、新たな感涙にむせぶのである。


 それらの「神の呪文」の大半は甚だ易しいものではあるが、現代数学知などではどうにもならないものである。
 何故ならば、発想自体が甚だ異形(
いぎょう)なものであり、それに加えて著しく計算形態そのものも異なっているものだからである。要するに、心の素直な者だけが感応できるものであり、現代知にまみれているような御仁では取り憑くことも叶わないものなのである。そのことは「現代数学」から視線を外して、考えて見るとよく判ることである。
 
 要するに、「現代数学」は人知を傾けて短期間(数百年くらい)で作り上げたものであるが、一方の「神の数学」は数百億年かけて自然(神)がジックリと錬成し、醸造した歴史と由緒のあるものだからである。 それはすなわち、間違いや、食い違いを完全に排除し、再三再四、練り直されて来たものであり、それにより、常に自然と共鳴状態にあって響き合いながら、時間の中をまったりと経過し、少しづつ醸し出されて来て究極な完全完成に至ったものなのだからである。 
 それはまさに、悠然とした形で時間をむさぼりながら、泰然とした姿で成って来た自然体と言う大いなる姿を持っているものであり、自然の持つ叡智を朗々と「数」の形で歌い上げている至高のものと私は思っているのである。

 それ故に、誰が見ても、目を見張るものであると同時に、甚だ、心が惹かれるばかりの「数」の動きの美しさや素晴らしさ、まさに、そこには躍動美さえ感じられるものである。  ハー、ハー、ハー、 西洋学信者のあなた方には、とても、とても信じられないものであろう。そのあたりの一切は過去の「神の数学」を検証すれば、だんだん判ってくるはずであるが……!!!。
 
 

 さて、さて、これから先は機嫌のいい時に改めて口述しよう、なんせ87歳に近い老人の戯言としか思われないのであり、支えてくれるような殊勝な方々も余りいないような現在の有様なのである。
 それ故に、甚だ心が軽く、責任も余り感じないとあなた方は思われるであろうが、私はそれでいいと思ってはいる。

しかし、本人は懸命に歴史の真実を伝えようとして頑張っているのであるが、信じようとする者もあまりいなく、ただただ寄る年波には勝てず、だんだん」根気も失せて来るような状態であり、まさに、かつかつの日々の連続なのである。 ハー、ハー、ハー ー。

 しかし、いや、待てない、真実をどうしても知りたいと言うせっかちな御仁がいるならば、是非、来宅して、これらの謎一杯の「神の呪文」の数々を調べて見て欲しい。私としては大歓迎するつもりである。まずは、信用度の挨拶として、希望者には、このほんの一部だけを資料として送付申し上げよう、その内容を十分にあなたの手で検(あらた)めた上で、改めて意見を聞かせて戴きたい。とにかく、吃驚仰天して腰を抜かすことは疑いの無いとであり、何故、現代人は、今の今まで、このような非凡な数の業を見逃し来たのであろうか、まことに悔やまれて仕方が無いとばかり、ただただ口惜し涙を流すだけである。
 
 そのような「数」に好奇心のある殊勝な方は、是非、「神の数学」の表紙の電話番号にFAXでご連絡を戴きたい。
 
 この驚くべき「神の呪文」は全部では9種類あって、また、そこから
細分化されているのであるが、私はこれらを「九変化の象」と命名し、日頃大切に扱っているものである。しかし、残念ながら、完全なものは、未だ6種類しか完成していない。残りを鋭意、解読中であり、順次、整理している真っ最中であるが、何しろ年齢が邪魔しようがないのである。
 なんせ、根気が無くなり、それに加え、頭もボケ始ているようで、思うように進まないのが悩みの種である。ハー、ハー、ハー。それも、そうであろう、何故ならば、「数」は真実性はもとより、芸術的なセンスも多分に持っているのであるが、それが中々判別できないのである。とにかく、遠くから見ると綺麗で、驚くべ整然とした姿なのであるが、それが老眼ではなかなか判らないと言う哀れな始末なのである。とにかく、「数」は優美で、とめどもない素晴らしい姿、見るだけでも陶然とする形を常に我々に見せて、誘(いざ)なっているのである。

 何とか、この資料だけは後世に残して置かなければ、あの世に行ってから「神」に大目玉を食らうことは必須であろうと思いながら懸命に力を振り絞って、纏めているのであるが、悲しいかな、年には勝てない、年々、物忘れが激しくなるだけである。

 それでも、まあ、今年中には何とかなるであろうと楽観はしている。とにかく、すべては不思議、不思議の連続でありながら、すべては的を射ているものであり、十分に満足しているものである。そこには、迷いなどはまったく無い、不思議……!!!。
 とにかく、現在、整理に大わらわであり、年甲斐もなく頑張っている最中である。


 
〔3〕 「神」との知比べをやって見よう …… !!!
 

 

 もし、あなたが望むのならば、私は、それらすべてをあなたの前にさらけだして見せよう、包み隠さずすべてをである。
 いわば、それはあなたと、「神」の真剣勝負であり、私がそれを審神者(さにわ)を努めようと言うのである。
 ただ、出来れば、オブザバーとして、あなたの仲間を何人か連れて来て、一切を見て戴くことを希望する。
 要するに、「神の存在」をあなたが認め、学びたいと言うことになれば勝負はついたことになると言うことであり、また、あなたが「神」を認めず、すべての「神の学問」を論破することが出来れば、あなたは「神」の存在を完全に否定出来たことになるのであり、私は喜んであなたの軍門に下ろう。
 ハー、ハー、ハー、 甚だ面白いことではないか…!!!。

 恐らく、これらの「神の呪文」自ら習得し、学びを進めるようになれば、あなたの疑心暗鬼の切ない心は晴れ晴れとなり、一切の懸念などは雲散霧消し、「神」の存在を確信する事になり、一生悩むことも無くなることであろう。

 ただし、
「神の呪文」は強力であり、一切の人間知などは受け付けない見事な作りになっていることは、予め言っておく。
 その神業とは、ただただ、すべての「現代数学知」を跳ね返し、自然的な歩みの存在を告げることになり、その威力はスパーコンピュター以上であり、まさに「神コンピュター」の業と言って置きたい。 ハー、ハー、ハー …!!!、信じられるかな……???。 「神コンピュター」の存在などは到底信じられないであろう、恐らくはただの大言壮語としか思われないであろう。そのような方は是非来宅の上、「神」の語る「数の業」を検証して、己の不甲斐なさを実感することが必要であろう。
 それにより、「数」は知に秀でていて、色々なことを我々に教えてくれると言う事実を身をもって実感することになるはずである。 
 
 何も難しくは無い、たった一桁の数の計算でことは足りるのであり、「現代数学」のように難しい、記号や計算式などは、まったく必要はないのである。

 今はその「神コンピュター
が創り上げた驚嘆すべき「数の資料」と言うものをなるべく易しい形でまとめようとしている最中であり、いわば、苦戦中なのである。なんせ、エクセルなどは見たことも無いので、すべてをヮードのみで数表を完成させる必要があるのであり、まさに、塗炭の苦しみを味わっているような毎日である。
 
まあ、それらの一時的な題として、「カムナガラの道」が歌う真実の歌、すなわち、「神の呪文」とでも名付けて頑張って見るつもりである…!!。しかし、それらは完全な自然の歌そのものであり、しかも一目見るだけであなたは絶句するような意味深な「数の文句」が所狭しと立ち並んでいることを知ってもらいたい。
 
 それはまさに、「神の呪文」の名に値(
あたい)するものであり、古来からの真理追及者達が懸命に追い求めていた究極の「真実の実」と言うものなのである。恐らくは、あなた方は見ただけで卒倒するようなものではあるが、それが何を意味するのかについては私にも判らない、とにかく、見ただけで、その素晴らしさに圧倒されるのは判るのであるが、その意味することは現在の人間知のスケールではとても解らないと言うことなのである、残念ながら……!!!。

 内容は甚だ奇想天外な「自然の真実の道」を数で明かしているものであり、そのすべては古神道の「カムナガラの道」の中にある飛んでもない「神の業」からの出題である。また、それらは誰も遭遇したことの無い驚くべき新事実の「数の物語」であるが、しかし、それらは大変易しくて難しいものであるとだけは言って置かなければならないではあろう。

 結果としては、まさに、驚くべし、驚くべしの連続である、全体としては易しいものではあるが、すべては数で示された完全なコアを持って作られているので、甚だ考えさせられるものである。まさに、それらは「神の仕事」そのものである。 

 
あなた方は有限な「自然世界」を、無限な数学手法、すなわち、「現代数学」と言う偽手法を用いて追っているだけである。
 それでは何時まで経っても答えは得られないのは当たり前である。そろそろ目を覚ましてもいいのではないのかな…!!!。

  
 我こそはと思う御仁がいるならば、一つ、手を上げて、動いて貰いたい。 この世知辛い西洋の学一辺倒の世の中、視点を少々変えて考えてもいいではないか、決して、失望はさせないつもりである。 いや、逆にあなた方の目を大きく見開かせて、真実の香りをシッカリと嗅ぐことが出来るものである。
 誰か、率先して手を挙げるような御仁、直感と洞察力にすぐれてる若者はいないであろうか …… !!??。
  


  さて、面白かろう、しかし私は少々疲れた、またこの続きは、気の向いた時にでも、書き上げることにしよう。しばし、待って下され、さあ、今晩は、これで寝ることにしょう。

             


 

令和編   『神の数学』
   とても信じられない不思議な不思議な「数」と「神」との物語。

                                                              令和3年12月   上載 


 
 あなた方は「数」を人間が作り上げた相互の意志を伝え合うための単なる記号、符号 に過ぎないと思っているかも知れないが、それは大間違いであり、完全な思考錯誤.に陥っているもの、すなわち、あなた方が選択しているベクトル方向が正しいものではないものなのである。
 本来、「数」とは、宇宙意識、すなわち、「神」が用いている「神の言語」であり、それを用いて宇宙大自然をしろしめしているのである。しかるに我々は人間独自の「数の概念」をかざして自然界を解き明かそうとして.意気がっているものである。
 要するに、そこには大きなギャップ、すなわち考え方の違いが存在して我々を困らせているのであるが、それには誰も気が付かないのである。。

 例えばである、あなた方は天と地、すなわち上と下との関係を理論的に説明せよ、と言われても誰もそれを完全な形で証明することは出来ないはずである。確かに、観念上では理解はしているのであるが、いざ、言葉を用いて完全な形、誰でも判るような理論的な証拠を出しての現実的な証明は誰も出来ないのである。しかし、「数」はその説明を完全無欠な形で、しかも、よどみなく、しかも、誰にでも判るような形、すなわち、いとも簡単な方法で「上と下」、や「右と左」の関係をよどみなく「数」を用いて説明してくれるのである。

 あなた方は笑うかもしれない、しかし、現実には数学で上と下の関係や右と左の関係を悦明することは至難の業であり、ましてや、その本質等を説明することなどは殆ど不可能であろう、まあ、不可解と言ってもいいものである。そのあたりを鑑みながら、「数」にお出ましを願い、今、ここに古神道の真髄を語る大祝詞の真実を語って貰っている最中なので、今の所、私は大忙しの状態である。

 それが、すなわち、大祝詞「カムナガラの道」から現れた重層的な解析図であり、そこには9×9=81の「3次元図」から現れ出た、人間には思いもよらない数字で描かれている数多の「神の声」なのである。それを命名して、私は
〖本祝詞「カムナガラの道」が歌う神々の呪文〗と名付けて、その真実の一切のすべてを書き留めている最中である。

 恐らく、それらを見れば、どのような反骨丁の御仁でも、なるほど、「数」が口をきくとは本当である、いや、参った、参ったと白旗を掲げることは間違いの無ことである。 それはどのようにしても、現代知などではその理を覆すことなどは出来ず、ただただ、唖然として頭をかきむしるだけであろう。

 それらの神々の呪文は誰でも簡単に解することが出来るのであるが、しかし、その神業たるやただただ目ぐるましく順を追って整然と並んでいるのであるが、その様は恐らく、人類最大の規模を持つ巨大コンピュタ―でも表示不能な驚くべき数的な意味を示しているのであり、それに対しては、恐らくは誰もが、ただただ、唖然として、黙するだけであろう。要するに、それほど見事な驚くべき作品なのである。
 とにかく、歴史上に現れた最高の叡智であり、とてもとても信じられないものである。それが古代日本の産物であり、日本から出現しているのである。

 虚言を吐くな、そんなものはあるはずが無いと悲鳴をあげる御仁がいるならば、是非、来宅の上でそれらの「神の呪文」を散見して、その真実を自分の目で改めて、シッカリ検証して見ることである。 その上で、改めて、古代日本の国はそら恐ろしい国であることを実感し、歴史の真実を見直してみて貰いたい。

 とにかく、シッカリ、真実を見出して、己の手でその前髪を掴むことである、要するに、待ち構えて引きずり倒してでも、検証すべきであり、決してチャンスを逃すべきではない。このチャンスを逃せば、次に現れるのは100年も200年も後であることは間違いない。
 自分がやらなければ、誰がやる、そのくらいの意気込みで決めたタ-ゲットを征服する、それが男の本懐であり、生き甲斐と言うものであろう。


 何度も言うようであるが、現代数学はマイナスと言う虚の数概念を作り上げ、それを日頃の数計算の中で用いて、結果を出していることが大きな間違いなのである。その点、「神の数学」の9進法計算はマイナス数が出た場合には、必ずそのマイナス数をプラス数に置き換えてから計算しなければならないのである。それをいみじくも語っているのが、あの墜落したUFOの中でみつかった宇宙人の数学式「システム オブ ナインズ」であり、「神の数学」の「神算法」なのである。 
 それを用いて計算すると、「数」は自然的な序を乱すことなく、綺麗な流れを持って整然と並んで序をつくり、我々の心を和らげ、楽しませてくれることになるのである。


 要するに、自然の中にはマイナス数は無く、すべてはプラス概念の中で動きながら存在していると言うことなのである。  それが自然と言うものであり、それが自然の「真実の道」と言うものなのである。
 
要するに、あなた方はその無いもの、虚的で不完全な手法を用いて懸命に自然の実態を探ろうとしているのである。
 それでは正しい答えが見つけられないのも無理は無い、まったく実態に合わない手法で懸命に自然を探っているからである。本当のあるべき「真実の道」を知らず、ただただ、虚の道、バ-チャル的な表面上の学に足を踏み入れて、懸命に自己満足感を満たしているだけ、それが我々の持っている「現代数学」の本当の姿なのである。

 そのあたりのことを、この「カムナガラの道」は易しく、小学生でも判るような形で図で説明しているのである。
 とにかく、あなた方は西洋数学のペテンに引っかかって、おたおたしているのである。
 とにかく、自然界にはマイナスと言う姿は無い、それだけは言っておきたい。
 
 それを証明する方法が、簡単な形で「神の数学」にはあるのであり、恐らく、少、中学生でも簡単に会得が出来るものなのである。ただ、あなた方は心の底から「現代数学」に帰依し、マイナス数の存在を信じているので、そんなことは考えないだけなのである。

 
 

 今回は、そのあたりを易しい形で説明して見よう。さて、果たしてあなた方は理解してくれることであろうか……!!??。
 
   さてさて、どのように考えと手法を持って説明すればいいのやら、ただただ、悩むだけである。
 それは、例えは悪いが、まるで幼い子供に高等数学を教えるのとまったく変わらず、完全に脳は眠った状態にあるのである。 
 このあたりで一つ、新しく脳に刺激を与えて風通しを良くしなければあなたの脳は生涯眠ったままで終わるような危険性があるのであるが……!!!??。  我々の脳は考えることが大好きであり、考えることが大いに必要とするもであり、考えることにより大きく成長もするのでもある。
 
 私は現在、古神道の神髄である「カムナガラの道」から現れた「自然数学」こそがすべての真実を語る本来のあるべき数学形態であり、それを身に着けることにより、自然は難なく解明できるのであり、それを世に出そうと懸命に努力している最中であり、考えている最中である。
 恐らく、人々は笑うであろう、まさに蟷螂の斧であり、気が狂っている状態であると……!!!。
 しかし、この古神道から出てきた「神の数学」は、とてつもな正常極まりの無い永遠の「数の流れ」を示し、我々現代人の心胆を寒からしめて止まないのである。まさに、それは「神の業」であり、どう考えても「現代数学」などでは到底太刀打ちができないものなのである。

 


もっと、はっきり言えば、「神の数学」は解くことは一切求めない、ただただ、見るだけでいいのであり、それで自然に心は感動に満たされ、気持ちが自然に高揚して、涙が溢れ出してくるのである。
  要するに、見るだけで感動を覚え、心に迫って、今までにはなかった一入(
ひとしお)の歓喜が身体中に走って止まらないのである。
 
 要するに、西洋発の「現代数学」は心を持っていない数学、いや、心の無い無機質な数学体系であり、いわば、ロボット的な感情の無い数学なのである。もっと、はっきり言えば、その内容からは何も感動を覚えることの無く、、まったく、面白味の無い無機的な数学と言うべきものなのである。

 しかし、この「現代数学」否定論は人類の文明が始まって以来の大きな出来事、いや、もっと詳しく言えば、多分2回目の出来事にばるものであろう。
 何故ならば、すでに日本の古神道の「カムナガラの道」に自然数学体系の詳細がこと細かく記され、かつ、自然数学の道, すなわち、「神々の道」として
伝えられている、それが古神道の「カムナガラの道」なのである。
 

 すると、何ということ、……!!!、学者たちが否定し続けている超古代の記録、すなわち、超古代に存在した素晴らしい日本文明の存在を記録した古代文献類も自ずと肯定されることになるのであり、その古代の記録の確かさも誰でも、確信出来ることにもなるのである。
 それはすなわち、古代に存在した日本の文明の素晴らしい存在も世界に名をとどめ、肯定されることになって、なおかつ日本の古代歴史の再編纂も行われるという大変な事態になってくる可能性もあるのである。恐らく、それは弥生時代が、突然、3000年から1万6千年に書き改められたように、歴史的にはあり得ないような大変革となることは間違いの無いことであろう。

 なんせ、「現代数学」よりも、遥か高度な「自然数学体系」が日本の遥か、大いなる過去には存在したことが世界中で噂されることになるからである。
 それだけの証拠が、現在、私の手に握られているのであり、しかも、それは、誰も反駁出来ないような強烈な形で、出現しているのである。

 要するに、これからの私の一言一句が日本という国の存亡にかかわってくるのであり、大変な事態に突入してしまうと言うことなのである。

 まあ、これからの私の一言一句が日本という国を生かことにもなるということであり、また、逆に嘲笑の的にもなりかねないと言うことにもなるのである。
 私、自身でさえも長らくそう思ってきているのであり、現在もそう思っているのである。これは事実であり、今更、訂正は不可能なものである。

 そのような訳で、これから最後の力を振り絞って、改めて知っている限りの誰も知らない「数学的な真実」のすべてを公開していくつもりである。
 
 
もう一度、念を押して言ってきたい、何故なら、これから、私は今まで大切にして、誰にも見せたことの無かった、「神の非公開文書」、別名、「神のノート」を改めて人生最後の華として公開に踏み切ろうとしているからである。もうすぐ、あと2,3年で90歳を迎えることになり、いよいよ、壽命も尽き果てることであろう。あの世に持っていつても、せんかたのないものであるから……!!。
 
 その前に、是非とも、あなた方に見てもらい、日本人という人種はかくも気高く、「神」に気に入られた、素晴らしい人種であることを知ってもらいたいのである……!!!!!。

 恐らく、あなた方も愕然とし、涙を流し、今までの人生を悔やむことであろう。 それほど素晴らしく、しかも簡単でありながら、実に奥が深いものなのである。
 私もその簡単でありながら奥の深いものから出てきた最終的な答えには口が閉まらない状態であり、常に興奮が収まらない状態なのである。
 何故ならば、何と、その最終的な答えとは 最初と最後は=で結ばれる、であり、しかも一つや二つではなく、すべての神々がそのように伝えているのである。要するに、この「カムナガラの道」は一つの平面的な姿を見せてはいるが、一つ柏手を打てばその姿は100倍近くに広がり、それらのすべてが口々に何かを囁き、モノを申しているのである。それが「神の道」であり、「神」の教えと言うものである。 そのようにして、何千年、何万年の間、懸命に囁き続けて来たのである。
 
 私はこの事態を称して、
意識による第二の「天の岩戸開き」と言っているのである。第一の「天の岩戸開き」は力によるものであるならば、今回の第二の「天の岩戸開き」は意識によりものであり、完全なまでに開かれ、すべての「神の秘密」は明らかにされることになったのである。
 その顛末の一切が、この
「神の非公開文書」、通称、「神のノート」に記されているのである。
 恐らく、ぺ-ジにすればA3の用紙で70~80ぺージくらいはあるであろうか、とにかく、用紙いっぱいに記されていて、私でも戸惑うばかりである。

 反論のある方、もしくは疑いのある方は、是非、私を呼びつけるか、はたまた、当家に来て、すべてを閲覧するがいい、ただし、納得したならば、今度はあなた方で更なる奥を探ってもらいたいと言うのが条件である。、恐らくは、まだまだ未知な件(
くだり)が色々と出て来るはずであるから……。
 ただし、興味本意のみの方、悪意をもった方々にはご遠慮申し上げたい、なんせ、年である、とにかく時間がもったいないので……。
 
 恐らくは、これにより人間界は「神」に近づくことが出来、「神」と共にゆくりなく存在することが出来ようと言うものである。 重畳、々 。
 
 あなた方には信じられないであろう、別に私は嘘を言ってあなた方を騙そうとしているのではない、それが「神の業」であり、「神」の力であり、神の心なのである。
 しかし、あなた方、現代知にまみれている高学歴を自認している御仁達には単なる愚者のたわごととしか聞こえないであろう。

 ハ-ハ-ハ--、これは直に私の説明を聞かない限り、誰も解る者はいないであろう、本当に、一言で済むような他愛のないものであるが、あなた方のような西洋知にまみれた眷属世界にいる諸氏には到底判らない、まったく不明と言うものでであろう。 あ-、思わぬ失言である、まことに失礼 ……。
  
 要するに、我々の世界は平面世界では無く、循環世界であると「数」は告げているのである。それは簡単に言えば、10進法が語る何処まで行っても尽きることのない無限世界,を目指す、反自然的なものであるのに対して、循環世界は自然と調和している本当の「自然世界」であることを「数」はシッカリ告げているのである。それらの事実をハッキリと告げているものが「神のノ-ト」の内容なのである。
 
 あなた方も是非とも、その証拠たるものをシッカリと掴んで
「古くて新たなる学」、すなわち、「神のノ―ト」対して、色々な挑戦を試みてしていただきたいと思う。

 最後に、改めて、来年はあなた方と共にこれらの「神の非公開文書」,、通称、「神のノート」をつぶさに検証して、共に弥栄を斉唱したいと思うのである。 


 では、よいお年を迎えて下され……!!!。

 
 





 さてさて、思わぬ事態が起こり、それらの処理に忙殺されてしまい、意志とは逆に月日ばかりが無常に早く流れる始末となった。
 
 私はこの事態を称して、意識による第二の「天の岩戸開き」と言っているのである。第一の「天の岩戸開き」は力によるものであるならば、今回の第二の「天の岩戸開き」は意識によりものであり、完全なまでに開かれ、すべての「神の秘儀」は明らかにされることになったのである。
 その顛末の一切が、この
「神の非公開文書」、通称、「神のノート」に記されているのである。
 恐らく、ぺ-ジにすればA3の用紙で70~80ぺージくらいはあるであろうか、とにかく、用紙いっぱいに記されていて、私でも戸惑うばかりである。

 これを公開に踏み切るかどうか、それについて、しばし時間を要したが、思い切って全面公開に踏み切ることにした。 何故ならば私は90歳に近い老人であり生きている間に、少しでも役に立つものならこの身を投げ打ってでも社会に奉公するのが義務ではないかと考えたからである。

 まずは第二の「天の岩戸開き」と銘打ったからには、とにかく、神様たちに許可を得てから始めるべきであると考えたので、色々と考えをめぐらし、第一回目の「天の岩戸開き」は九州の高千穂の峰の南側で行われたので、今回は高千穂の峰の北側で行いたいと思い、チャンスが来るのを待っていたのである。 すると、偶然か、それとも「神」の計らいか、大分県の宇佐市から「神の数学」の講演をお願いしたいとの申し込みがあったので、これ幸いと便乗し、心で思っていた通りに、目出度く宇佐神宮に参拝し、 第二の「天の岩戸開き」の件を報告したのである。それが令和4年の5月12日から二日間、主宰者は宇佐倫理法人会と言う団体であった。」
 
 まあ、そういう訳で完全に心は軽くなり、心もやっと平静さを取り戻し、これでやっと、資料の編纂に取り掛かれると思ったのもつかの間、帰宅してから身体と心がどうしても一致しなく、フラフラ、愚図愚図、だらだらと毎日を過ごし、気が付いたら月日は経って、世間は6月を迎えていたと言う次第である。

 私は昔から、神様が大好きで、有名神社に参拝すると、光の跳躍反射加減や、何とも言えない空気の流れの爽やかさ、木の葉のざわめきとその光り方、木々の香りのたおやかさ、水の流れの穏やかな音等が心に反射して、「神の存在」と言うものが、何となく判るような気がしていたのである。有名な神社等に行くと、それが際立ち、心の安堵感が更に増してくるのがよく判るのである。

 しかし、私はその時には、何も感じられなかったので、不在かなと思い、心の中で少々舌打ちをし、何処に行ったのかなと少々そねむような気持ちで参拝したのも事実である。

 恐らく、そのような半ば、反逆心と言うものが逆鱗に触れて、それがこの度の身体の不調を招いてしまったのであろう。少々、心が浮きすぎ、自分がのぼせあがっていたのも事実であり、今、深く、深く反省している次第なのである。

 さてさて、この度の第二の「天の岩戸開き」についての御開帳については少々困った事態になっているのである。

 それは古神道の神髄である「カムナガラの道」を、意識で開いた時に余りにも多くの「カムナガラの道」の有形図象、すなわち、「カムナガラの道」の子供達が、中からが飛び出して来て騒ぎ始め、完全に制御不能な状態になっているのである。
 その数たるや100近くであり、それが立ち並んで、完全一致の状態で、しかも完全連結状態を図を示しながら、「神の叡智」の存在を強く呼びかけ、我々に目を覚ませと言っているのである。

 それらは「カムナガラの道」の中で一定の重った状態で重複しているのであり、一旦、教えられると誰でも簡単に開くことが出来るのものである。要するに、あなた方は「カムナガラの道」を平面と見て、平面上で「神の秘儀」を探しているので見つからなかったのであり、本来は、それは半ば重複したパラレル・ワ-ルド的な存在のものであり、完全な3次元の世界の原型と言うべき存在であり、丁度、我々の世界の雛形そのものなのである。
 ひょっとすると、観念的には、平面的な存在である我々に、立体的な高い山を「探せ」…!!、と言っても無理なようにである。
 
 それら子供達は口々に不可解な数言葉を叫んでいるのであり、その言葉は昔からお釈迦さんのような宗教界の偉人達が発していたお馴染みの言葉であり、その意味は誰にも分らない言葉として残り、今でも有名な言葉である。しかも、それらは今でも、インター・ネット上でも散々囁かれている言葉でもある。何と、それが古神道の神髄である「カムナガラの道」の中に隠されていて、ひっそりと数千年、数万年と言う長い年月を過ごして来ていたのである。何と哀れな物語ではないか……!!!!。

 我々日本人はこれらの不可思議な言葉は仏教を通して、唐や天竺から輸入されとものと思っていたのであるが、あにはからんや、それらは日本原産の古い言葉であり、日本生まれであったことに、今になって、やっと気がついたのである。
 その証拠がこれらの「カムナガラの道」の子供たちの囁きの声であり、その昔から呪文と言われていたものである。
 
 何と、それらの宗教の持つ意味不明の多くの有名な言葉が、厳として古神道の「カムナガラの道」の中に存在し、我々に遥か昔より、懸命に呼びかけていたのであるが、心が幼稚で頑迷な我々には届くこともなかったのである。
 それは例えて見ると、今の今まで愛し、愛(め)でながら大切に育てて来たもらい子は、DNAを調べて見ると、実はわが子であったと言うことに気が付いたと言う、甚だお粗末な結果を生んでいるような驚くべき結果となったのである。
 これらの例でも、日本人の人の良さが十分に偲ばれるような気がするのであるが …… !!!。


 さてさて、本題に入ろう、これら、第2回目の「天の岩戸開き」は報告した通りに無事終了したのであるが、なんせ、そこから現れた「カムナガラの道」の子供達の数の多さには、ほとほと呆れるばかりであり、あなた方にこのサイトで説明するにはその場と時間がかかりすぎて、ニチモサッチモ行かないような次第であり、まさに不可能な状況に近いのである。

 そこで代案として、浮かんで来るのが、ごく少数の「神の数学」の本当の愛好者のみを募り、月2回程度の通信セミナー形式で、本格的な「天の岩戸開き」の本格的な「神の言葉(数)による秘儀内容のすべてを資料としてお送りしたいと思うのであるが、如何であろうか …… !!!。
 
 要するに、皆さんの持っている「全知、全脳」を借りながら、そこにある様々な「神の秘儀」を考え尽くし、改めて、日本の国の為、いや、人類の為に、皆さんと共に新しい道、「神の叡智」の道をを開きたいと思うのであるが …… !!!。
 いや、もっと,ハッキリ言えば、有志を募り、広く、人類の発展のために「神の叡智」を調べ尽くし、世の中に出したいと言う次第なのである。
 

 とにかく、すべては誰にでも解けるような易しいものと感じられるのであるが、ところが、どっこい、現代人の我々にとっては、その奥際にある「神の言葉」は非常に易しいように見えながらも、甚だ手ごわい相手であり、そこには汲んでも汲んでも、汲みつくせない自然の真実が潜んでいるのであるが、貧弱な現代知しか持たない我々は手が出ない有様なのである。

 例えば、そこにある驚くべき事実は、「現代数学」が盛んに用いているマイナス数とは、本来、自然界の規則に反するものであり、使ってはならないものなのである。要するに、マイナス数は「あの世の数」であり、それを「この世の数」であるプラスの数と共に使うことは禁じられた行為であり、本来はマイナス数をプラスの数に変換してから使わなければならないのである。

 その方法こそが、何回も紹介した、あの墜落したUFOから発見された、あの「システム・オブ・ナインズ」と言う手法なのである。
またそれは同様に、神話の言う天の神々からニニギノミコトに下された、あの「10種の神宝言葉」、すなわち「カムナガラの道」さおのものでもあるのである。要するの、時代こそ違うが、共に宇宙からもたらされたまったく同一のものなのである。


 現在の数学では「マイナス数(
あの世の数)と「プラスの数(この世の数)」を並べて用いているので、色々な矛盾が起きて、衝突し、それを避けるためにマイナス×マイナスはプラス、0で割ってはダメ、または不定、不能などがあると教えているが、「神の数学」には、今の所、一切そのようなものは無く、すべては水が流れるようなスム―スな計算があるだけである。


 

 そのような驚くべき色々な事実の存在を数多記述しながら、私の力の続く限り、「神の数学」のノ―を開いて行くことを公にしたい。正式には今年(令和)の九月一日から始めるつもりである。

 申し込み順に、「カムナガラの道」の額縁入りのものと、更に、「カムナガラの道」の子供達の連理表(8!ヶ)を10枚づつ、お送り申し上げるので、九月一日まで頑張って色々と検証して貰いたい。

これらの「カムナガラの道」の額縁入りのものと、更に、「カムナガラの道」の子供達の連理表(8!ヶ)を10枚づつ、お送り申し上げるので、九月一日まで頑張って色々と検証して貰いたい。

 
これらの「カムナガラの道」から現れた「神の秘儀は今の所、30余り、A1版の用紙で60~70枚くらいであり、毎月2回くらいで、何とか、一年で完講したいと思う。


 「神の数学」通信セミナーのご案内

驚くべき「神の数学」が巻き起こした2回目の「天岩戸開き」、第一回目は力により開かれ、今回の第2回目は意識により、余すことなく完全に開かれ、すべては終了したのである。何と、それは歴史上の数多の神道の先達たちが懸命に求め、探したものであり、彼らの合言葉は古来から伝わる「日本の知の秘宝」、すなわち、「世界を救うもの」を一生かけても探し出せであったのである。

「天寿学と日本神道」…太田龍著より

 今回、はからずも意識により「天照大神」、すなわち、「カムナガラの道」探索し、その中に横たわっていた「カムナガラの道」の100近くの子供達を見出し、彼等が口にしている「呪文」を検証したところ、なんと、それらは科学界や宗教界が持っていた未だ、解明不能な言葉の数々であったのである。何と、それらは古代から伝わる「秘密の言葉」の数々であったのであり、未だに解明不能のものであったのである。例えば、「色即是空、空即是色」や、「魔法陣」、「あの世」と「この世」の並行的な存在、輪廻転生の真実、陰陽五行思想、あるいは、今、問題になっている、369や147、あるいは258等の波動数なども、すべて「カムナガラの道」の子供達が何時も囁いている言葉の中にあるのである。

要するに、古代の謎の言葉はすべて「カムナガラの道」の子供たちが囁いている呪文であり、それに対しての返礼言葉、返し言葉が神官たちの祝詞なのである。