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【超古神道物語】 「神の数学」の真実を語ろう あなた方は知らないであろうが、世界の「神秘思想」や「秘教」の大分部は、古代日本から世界に流れて行ったものなのである。 要するに、すべての知のル-ツは太古日本にその根が有ったのである。その大元の根としての日本の古神道の真髄を語っているものが、あの失われた「カムナガラの道」なのである。しかも、その「カムナガラの道」の前置きのフレ-ズのみを、尊い奥儀祝詞として用い、長年、「ひふみ天地の数歌」として神事の前に唱えて、崇め奉って来たのが今の神道界である。 それは、すなわち、「神の言語」は数であり、「神」は数に心に託し、「神」の心を人々に伝えようとしていたのであるが、残念ながら、それについては今の今まで神道界では誰も気が付く者はいなかったのである。 それをシッカリ指し示しているのがが、古神道の本義である「カムナガラの道」であり、残念ながら、今では、その「カムナガラの道」の最初のフレ-ズ(節)である「ひふみ天地の数歌」だけが古神道の奥儀祝詞として残されているだけなのである。 本来は全部で9フレ-ズ(節)あったのであるが、今では最初のフレ-ズ(節)である「ひふみ天地の数歌」だけが奥儀祝詞として残され、それ以外は今では誰も知らず、完全に行方不明となっているのである。 その最初のフレ-ズ(節)である「ひふみ天地の数歌」だけを懸命に守ってきたのが今の神道界であるが、今ではそれさえも失われようとしているのである。それは、要するに、、心無い外国の宗教家達から1234……などの幼児でも知っているたわいもない簡単な数詞を神道の最奥儀言葉として崇め奉るとは何事であるか、まさに原始宗教の最たるものであると、散々たたかれてきたからなのである。 その言いがかりとは本当のことを知らない甚だ低次元のものであり、それを信じて唱えることをやめてしまった、日本の神道家はそれより更にうつけ者であると言わざるを得ないのである。 しかも、まことに残念なことに、現在の日本人はその事実の存在さえも誰も知らないのであり、今では有名神社の神官達にも忘れられて、完全に幻となっている存在、それが今、再来したと騒がれている「カムナガラの道」なのである。また、これこそが先人たちが長い間懸命に探し求めていた、あの超古代日本の極め付きの伝説、すなわち、全人類を救うための「叡智の秘宝」と言われていたものでもある。 しかも、この「叡智の秘宝」は「カムナガラの道」の中に秘められたままなのであり、現在、私はそれを見出すために躍起になって探求している最中なのである。今のところ、約、半分くらいは発見済みと思ってはいるのであるが、それも単なる私の推量に過ぎなく、まだまだあるのは確かである。 恐らく、近い中にその大半の「古代叡智の全貌」と言うものを明らかにし、説明方々諸氏の下え届けることになるであろう.。 とにかく、そこには現代の学者たちが見れば、恐らく発狂しそうな現代知の矛盾点が色々な形で示されているのであり、しかも、それは小、中学生でも理解が出来るものなのである。要するに、すべては一桁の単純計算による「数の理」がものを言っているのであり、しかも単純な「数」と「形」による完全なセオリーによって誰にでも検証が出来るものなのである。要するに、すベては「数」と「形」による真理追及が唯一の真実探求の道なのである。 その上、「数」は完全に序を踏み、その道を外すことはないのである。現在のあなた方はその「カムナガラの道」の数の序の存在さえも知らないのである。 いや、失礼、全部で9ヶあるのであるが、1ヶを知っているだけ、それが「ひふみ天地の数歌」であり、それより後の8ヶの存在をまったく知らないのである。それが、現在の学ぶことを忘れた神道界の姿であり、まさに消滅寸前の哀れな状態なのである。 その1ヶが、あの123456……の群れであり、あなた方が自然数と呼んでいる立派なものである。しかし、言っておきたい、このあなた方が自然数と呼んでいる、この数列さえも不完全体であり、完全なものではないものである。何故なら、そこには最初にあるべき0の姿が無いからである。 要するに、その存在と、真実の意義をを知っている世界で唯一の存在、それが「カムナガラの道」のみなのである。ハッキリ言えば、あなた方より古代の祖達の方が「数」の道には詳しく、遥かに遥かに秀でていたと言うことである。 オット、失礼…!!、しかし、その事実は何と言う驚くべきことであり、誰も知らない古代の真実なのである……!!!. それについては何と、彼等神官でさえ、古神道の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」の本体、、すなわち、「カムナガラの道」の持っている数々の秘められた「神の秘儀」の存在については一切知らないのであり、ただ、ただ、古式にのっとった古い漠然とした口上と音律をもって唱えているだけの現在なのである。要するに、彼等は意味も知らずに、ただただ口上で述べるだけで,自己満足しているだけであり、それで生きながらえて満足しているだけである。 それが、すなわち、現在の日本神道の本当の姿であり、まごうことのない現在の姿なのである。それは、まさに、滅びの一歩手前の状態なのであるが、誰も気が付かない。本来ならば優秀な、誰かが危機を感じて優先して対策を考え、手を打つべきなのであるが……!!??。 本来の奥儀祝詞である「ひふみ天地の数歌」とその本体は、天、地、神、の本質をすべからず網羅しながら、その仔細の一切ををいみじくも語り上げている素晴らしいものなのである。また、同時に、天、地、神、と言う自然の一切の象を歌形式でよどみなく歌い上げることにより、人々にその自然の有難さを教え、その自然の道の素晴らしさをいみじくも語り上げているものでもあるのであるが、その事実は誰も知らない。 また、あろことか、今の日本人は天、地、神、を、天、地、人に置き換えてすまし顔しているのであり、まことに面憎(つらにく)い限りである。 そもそも現代の学校教育は昔のことを毛嫌いし馬鹿にしているのである。それ故に古いことは教えず新しい西洋知を取り込もうと懸命なのである。 しかし、考えて見るがいい、現代の西洋知はたかだか500~600年の歴史があるだけで、 それ以前は曖昧模糊とした話があるだけで、特別なものは無いのである。それに比べると、「日本の叡智」は何千年にもわたって伝承され続けられている、まさに、稀有なものであると言えるものである。 あなた方に一つ知っていていてもらいたい聖徳太子の言葉がある。恐らく、今の日本人は知らないものであろう。 それが「わが日本は種を生じ、震旦(中国)は枝葉で、天竺(インド)は果実に開く。故に、仏教は万法の果実たり、儒教は万法の枝葉たり、そして、神道は万法の根本たり」の言葉である……。 何と、あの聖徳太子はすべての教えの発端は古代日本から始まったと言っているのである。 しかし、今の日本人は誰も知らない。夢にも思うことさえ無い …… !!!。 さあ、その日本人の誰も知らない「古神道の真髄」、世界に誇るべき「素晴らしい超叡智」を秘め隠している、あの失われた「カムナガラの道」の真実、誰も知らない真義をここに語り申し、さらには少々ご案内つかまつることにしょう。 「カムナガラの道それは失われたのではなく、必要に駆られて隠されたのであり、現在、また必要になったからこそ、再び、現代の世に現れ出て来たものなのである。 今度こそが本当の「天の岩戸」が力ではなく、意識によって根源的に開かれることになり、本当の「天照大御神」、すなわち、あの「カムナガラの道」が現れて世の中を光で満ちさせることになるのである。何と、今度こそ、素晴らしい日本発の「神の叡智」が世の中に広がりわたり、矛盾の無い「自然の持つ知」が輝き渡ることになり、人類の知は大いなる発展を遂げることになるのである。 その意識による天の岩戸開きこそが、すなわち、「カムナガラの道」の本当の開き方であり、本来のあるべき開き方なのである。要するに、ただの1ヶの「カムナガラの道」と言う「神の図」を心を込めて柏手を打って、「神々」と心を合わせることにより、何と、「神」の心と反応し、とても信じられないような100近くの「神の図」となって現れて来るのである。 しかもそれらは、それぞれ口々に様々な「神の秘儀」をつぶやきながら、我々に色々と諭(さと)し始めてやまないのである。 恐らくはこれが本当の「天の岩戸」の扉ら開きであり、先達たちが首を長くして待ち望んでいた、本当の「天の岩戸」が開かれると言うことなのであろう。私はそのように思っていて、現在準備中なのである。 恐らくは、第一回目の天の岩戸開きがあった高千穂の峰に連なる場所で行なうことになるであろう。 それにより新しい知の文明形態が花開くことになり、それが段々と世界中に広がって行くことになるのであろう。 それが今回に始まる令和の御代、すなわち、令和の新しい時代に誕生して、世の中に行き渡ることになると言うのである。 私は何度も言っているように、あの失われた「カムナガラの道」こそが、あなた方が毎日拝礼している神棚上の「天照大御神」のお札であり、両者はまったく同一的な存在なのである。また、神話的に見ると、この「カムナガラの道」こそが日本の国の開闢の際に天上界の神々によってニギハヤの尊に授けられた「十種(とくさ)の神宝(神文)」そのものであり、歴史的にも大変由緒のあるものなのである。信じられない方はこの両者、すなわち、「十種(とくさ)の神宝(神言)」と古神道の御本尊祝詞である「カムナガラの道」をとくと比べてみるがいい。 この「カムナガラの道」の本体と易しい説明書はは当方にあるので、ご連絡あり次第、お送り申し上げることにしたい。 恐らくは、それらの示す驚くべき真実にはあなた方も、さぞや吃驚仰天し、肝をつぶすことであろう。 とにかく、驚きである、何としたことであろう、あの失われたと思われていたあの「カムナガラの道」が再び私の下で息を吹き返し、新たな鼓動を刻み始めながら何かを告げようとしているのである。すべては数形式によって反復を繰り返しながら歌っているものである。私はそれを「神の呪文」と受け取って懸命に調べている最中である。 この天上界の神々から授けられた10種の聖なる文言であると思われていた「カムナガラの道」は、私の下でとんでもない変態を果たし、何と100近くの驚くべき象形体、すなわち、「3次元の世界」を生み出しているのであり、しかも、それらの100体近くのものたちは個々に何かを語り出し、我々に何かを告げようと懸命なのである。 私はそれに従って、それらの数で記されている文言を苦労の末に読み解き、すでに15種くらいのリポートにまとめ上げている。すべては少々大きくてA3版にやっと納まってた次第で、計、50~60枚にはなっているものである。恐らく、それを見ることにより学者たちは顔色を変えることは疑いのないことであろう。それ程、ことは重大で深刻なものなのである。 そんな馬鹿なとお疑いの方は、是非とも当方のあばら家を尋ねるがいい、すべてを公開しながら、説明も十二分にして差し上げよう。 ただし、条件もある。それはこれらに関しての貴方がたのご意見を戴きたいと言うことであり、また同時に、十分なご助言も戴きたいのである。 まあ、常日頃、「神」の存在とか、「数の語り」について疑問、あるいは「是非、知りたい」との声を上げている方々には、恐らくは十分な解決策となるものであろう。 さて、これからこの膨大な「神のノート」をどのように処理し、どのようにう役立てるべきか、現在、大いに悩んでいる最中である。 恐らく、これを世の中に出せば、天地がひっくり返るような騒ぎになるはずである。さりとて、私一人で抱えて悩むのも、これまた、甚だ遺憾なものであり、甚だ不公平とも言われもしよう。 さて、さて、……!!!?。 まさに、すべては驚天動地の物語であり、歴史始まっての大事件の勃発であり、しかも同時にそれは「神の存在」を告げているものでもある。 何度でも言うが、物見高い方々、いや失礼、好奇心の旺盛な研究熱心な方は当家まで来て、とにかく、じっくりと調べて見ることである。 委細一切を隠さずにお見せし、かつ、説明をして差し上げよう。とにかく、易しくて、大変難しいものである。私が思うには小学高学年か、中学生くらいが一番理解が出来るはずと思われるのであるが……。それ程、易しくて簡単なものではあるが、西洋知に惑わされているあなたがたには、甚だ難しく厄介なものに映るであろう。 「先代旧事本記」によると、古神道の「十種(とくさ)の神宝」とは、「高天が原(宇宙)」の神々によって代々伝えられてきた「十種(とくさ)の神宝」と言う10種の聖なる文言であり、それは天上界の神々によってニギハヤの尊に授けられ、彼はそれと共に豊葦原の国(日本)に降り立ち、国々をつくったとされる、それが、いわゆる、天孫降臨の神話なのであり、それが日本神話の最初の件(くだり)なのである。 それから、何千年か、何万年経った頃、平和な日本に暗雲が立ち込め始めたのである。、 それは、秦が滅亡した頃、あるいは西暦が始まった前後に大量に発生した大陸の敗残兵達による日本侵攻があり、それで平和な縄文時代が終わり、突然、弥生時代が幕開けしたのはご承知のことであろう。その時の大陸からの侵入者の数は縄文人1人に対して、少なく見積もってもその9倍、多い場合は25倍であると東京大学の歴史の先生は言っている。当時の縄文人の人口は7~8万人くらいであり、それに対して60万人~200万人の荒くれた大陸の敗残兵が波が押し寄せるように次々と日本に押し寄せて来たのである。なんせ、当時の日本は安寧平穏な国、長命な国として大陸人にとっては憧れの国,、垂涎の国でであったと中国の色々な古書には記されていたのである。それでは彼等、すなわち、国を追われて行き場所を失しなった敗残兵達には最高の逃げ場所と考えたのであり、一生、平和に暮らす事が出来る「素晴らしい国」と信じてやってきたのである。 恐らくは、、我も我もと一族郎党は、こぞつて日本を目指して争って船に乗り込んだ事であろう。なんせ、行く先々にはまばゆいばかりの極楽浄土があると信じていたので、潮の流れに乗って懸命に櫂を漕いで日本を目指してやってきたのである……!!!。 また、そのほんの数年前にはあの偉大なる始皇帝は臣徐福をいろいろな貢物と共に日本に旅立たせ、不老長寿の薬なるものを求めさせているのである。 当時は万人が欲しがる、あの「不老長寿の薬」、それは日本にあるとのもっぱらの噂だったのである。 ちなみに、当時の日本は80歳、90歳、中には百歳を超える者も多いとと当時の諸々の中国の古史類には記されているのであり、今の学者たちが縄文人は平均年齢は40歳くらいであり、それに比べて現代人は医薬や医療技術の発達のおかげで寿命が倍増していると威張っているが何のことはない、その昔から日本民族には長寿者が多かったのである。 その古書とは…→「漢書の倭人伝」、「漢の地形訓」、「後漢書の東夷伝」、「魏志の倭人伝」、「後漢書」、「梁書の諸夷の項」等である。 それではとてもたまったものではない、ほとんどの縄文人は生きんがために奴隷の身分となり、奴と呼ばれながらやっと生活していたのである。 そのあたりのことは古代文献である「竹内古文書」にしっかり記されているのであるが、誰も問題として扱う者はいない。いや、それどころか、日本は 完全に大陸勢に占領されて、皇都まで乗っ取られた時に、天皇が深く嘆いていたことも古文書には記されているのである。 しかし、今はそれさえも知らない輩が大部分であろう。、あまりの乱暴狼藉の態度に、天皇は嘆いているとあからさまに記されているのであるが…!! しかし、学者達は何も言わない、口にしょうともしない。ましてや、それを問題にすることなどはまったく思わない、歴史上の一大事実なのに…!!!。 恐らく、その国難と呼ぶような大変な時代に、この「十種(とくさ)の神宝」である「カムナガラの道」は奪われ去ることを恐れて密かに隠されたのであり、それ以来、「カムナガラの道」はその行方が判らなくなったと推測される。その隠された場所が「天の岩戸」であり、神々のみが知っている場所なのである。その後、「天の岩戸」は手力男によって開かれ、取り出されたのであるが、何時の間にか、再び誰かによって隠され、そのままなのである。 それ以来、「天の岩戸」 は開かれることは無く、ただただ、隠されたままであり、そのまま、行方知れずとなっているのである。 残念ながら、最近ではその「カムナガラの道」の言葉の噂さえも聞くこともまったく無い、忘れられた言葉の一つになりつつあるのである。 要するに、日本にあった古い文献等は彼等敗残兵達により、破壊、破棄され始めたので、慌てた、権力者達はそれを携えて都落、すなわち、地方えと落ち延びたのである。と同時に、敗残兵達に奪われることを恐れて、人知れず密かに土中や山社に隠したと思われるのである。しかし、それは完全に隠されたばかりではなく、、何と、何時の間にかそれはデフォルメされて、姿を変えながら人々の心の中で密かに生き続けて来たのであり、々の生活の中でいくばくかは使われて来たと思われるからである。何故ならば、その証拠に、万葉集の中でも二、三、歌われていたと言う事実があるからである。それも恋歌としての遊びの中に出て来るものであり、きわめて洗練された形で歌われ、男女の仲を取り持っていたのである。それが古来から伝わって来た「ヒフミ九九算」であり、「カムナガラの道」なのである。また、それを現代の手法であった十進法でアレンジしたもの、それが現代の「九九算」なのである。 その「九九算」が日本発の証拠に、日本では誰でも知っているものであり、小学生でさえも、口づさんでいるものである。それだけ、国中に普及しているものであり、他の国には見られないものである。見るがいい、アメリカの大学生でも殆ど「九九算」を知っている者はあまりいないと言う事実を……!!!。 確か、大正時代か、昭和の初めの頃に、日本と中国のあいだで、「九九算」の発生地を巡っての学術会議が開かれ、どちらが本当の発祥の地であるかを討議したことがあった。その時は余りにも中国の学者たちが強硬に中国発を述べたので、とうとう、日本が折れて中国が発祥の地になったと言う経過があったのである。要するに、強気に出れば何でも通ってしまうと言うのが何時もの彼等の流儀なのである。確かに、最近の新幹線事件を見ているとよく判る、散々、日本を拝み倒して導入した新幹線を中国が開発したものと主張し、世界から笑われると一気のト-ンダウンし、その後は世界一なのは高速鉄道の線路の長さであるとの自慢になっているようである。それが彼等の何時もの手であると思えば腹も立たない。 そのあたりから見ていくと、中国の3大発明品とされている火薬,、印刷機、羅針盤等も果たして本当なのかどうかも、怪しくなってくるのであるが、…。 諺にもあるではないか…!!、大勢で声を上げれば嘘でも本当になる、船頭多くして船、山に登る等の言葉が…!!!。 それが何時ものあいつらの流儀である、それを我々は忘れてはいけない、それを忘れるから、何時もしてやられるのである。 要するに、私が言いたいのは、古神道の神髄こそが「カムナガラの道」であり、その本来の正体を導きだすものが「ひふみ九九算」と言う日本独特の自然法則の大成を語る一つの数図なのである。しかるに、今では、この「カムナガラの道」は、かっては存在していたのであるが、今では完全に失われてしまい、噂だけの存在となっているものであると述べられているだけである。 要するに、今では、神道学者でさえもその内容を知らず、口にする者もいないような有様なのである。 ただ、辞書をめくると「今では、名だけが残り、その本体はすっかり失われてしまった」とあるだけである。 しかし、「カムナガラの道」、それは間違いなく、現代の人間知の誤りを糺し、新たな形で蘇らせてくれるものであり、我々を思いがけない「自然知の新天地」に誘ってくれるものでもある。その証拠に、その中には現代人の未だ知らない自然の持つ「数の計算手法」が厳として存在し我々を手招いているのであるが、今の所、誰も気付く者はいない有様である。 それを知れば、現在の「九九算表」は古来の「ひふみ九九算」と本質においては余りにも差があり、その内容はデフォルメされて大きく変わり、「現代数学」にピントを合わせていることがハッキリ解って来るはずなのであるが…!!!。 要するに、現代の「九九算表」の母体である、あの、ゆかしき古(いにしえ)の「カムナガラの道」には自然の持つ律理(神の秘儀)が数多収納されていたものであるが、今の「九九算」では、それらの神髄と言うものは完全に失われてしまい、単なる、「現代数学」の数の計算手法の絵図となっていると言うことである。 要するに、現代の「九九算表」は現代人間知に沿った至極簡単なものであり、深い意味や、自然の律理の秘密などは一切含まないものなのである。 従って、あまり騒ぎ立てる必要も無いし、重視する必要も無いと言うことである。 すなわち、どこの国が発祥の地であるか等は、一切問題外であり、まったく気にする必要も無いものとなり、騒ぎ立てる必要などはまったくないものとなっているのである。 要するに、数多の「神の秘儀」を備え、持っているのは古代日本の「カムナガラの道」だけであり、現在の「九九算の表」は完全に魂を抜かれた抜け殻,形骸と言ってもいいものなのである。 よく考えると、まさに、「カムナガラの道」こそが天の配剤の賜物と考えるべきものであり、我々が有難く押し頂くべきものなのである。 まさに、この「カムナガラの道」、すなわち、本来の「ひふみ九九算」だけはまごうことない日本初発の「大叡智」であり、世界に冠たるものであることは日本人全員に知ってもらわなければならないものである。 それだけは何度でも言って置きたい。その証拠となるものが、あの古神道の奥儀祝詞である「ひふみ天地の数歌」であり、それは誰も知らない「天地の理」の存在を密かに歌い上げながら、それに続く「神のコード」の存在をシッカリと示しているものなのである。 「神のコード」、あなた方は馬鹿にするであろうが、この「カムナガラの道」こそが重層構造で造られている、まさに「神のコード」であり、驚くべき内容を秘めているものなのである。しかし、そんなことは誰も知らない、思いもしないのである。 要するに、古神道の奥儀祝詞である、その「ひふみ天地の数歌」の本体こそが、今では失われてしまった古代叡智の魂(真髄)の発露であり、輝くばかりの「叡智の坩堝」、それがあの「カムナガラの道」であったのである。また、それは現在、くすしくも甦りを果たして、現代の我々に何かを懸命に告げようと頑張っていることを是非、知ってほしい。 その「カムナガラの道」を開くために絶対に重要なキ-ヮ-ドがこの「ひふみ天地の数歌」であり、大いなる天地自然の秘儀、すなわち、「天地の大律」の存在をシッカリと歌い上げて鎮まっているものである。 また、言葉を変えれば、あの「カムナガラの道」の冒頭に鎮座している尊い数列こすそが、あの古神道の奥儀祝詞である「ひふみ天地の数歌」であり、その後に続く見事な「数列の理表」が、あの「カムナガラの道」の各数列そのものなのである。その配列こそは、まさに、「天地の響き」を持ち、我々現代人を驚嘆のあまり、ただただ無言にさせてしまう程の威力を持っているものなのである。 まさに、それは大いなる「神の理」、すなわち、「神の存在」と「自然の律理」等をいみじくも歌っているものであり、いわば、それは「神」が与えてくれた尊い「数理律図」であり、驚くべき重層構造から成り立っている一つの天与の「神図」と言ってもいいものなのである。 また、それはいみじくも誰も知らない「神」の存在を示す唯一無二のものでもあり、「神」の存在を確認するためにはまたと無い好材料なのである。 それはまさに不思議な手法で我々を未知の領域に誘(いざな)い、確実な手法で「神の存在」を確認させてくれるのである。しかも、その手法の完全性には誰も兜を脱ぐだけである。また、それは非常に易しくて、難しいものなのである。いや、元へ、誰でも判るモノあるが、思考的には難しいと言うべきかもしれない。何故ならば、超ひも理論にはその手法がシッカリ示されているのであるが、誰もまだ解けないようであるからである。 そのあたりの事実を披露するので、是非、あなた方の手で検証し、ジックリ探り出して貰いたいと思って、ここにすべてを記そうとしているのであるが!!、ただ、その前に、「自然の計算手法」、すなわち、あの宇宙人の数学である「システム・オブ・ナインズ」を是非学んで会得して貰いたい。 何故ならば、この「システム・オブ・ナインズ」こそが「カムナガラの道」を解き放つためには大切なものだからであり、唯一無二のものであるからである。考えてみると、この「システム・オブ・ナインズ手法」は古代日本ばかりか、古代のヨーロッパでも使われていたようである。 それがあの「カバラの数秘術」であり、「ホロスコ-プ」の数の仕組みなのである。 また、この宇宙人の数学である「システム・オブ・ナインズ」こそは、あの日本発の「カムナガラの道」の本体を解き放つ唯一の「鍵」であり、必要欠くべからずのものである。 要するに、「システム・オブ・ナインズ」を知らない限り、「カムナガラの道」の内容を解き放つことは不能であり、不可能なのである。従って、当然、「神の数学」の超叡智を学び知ることも出来ないと言うことなのである。 また、それと同時に、この「システム・オブ・ナインズ」を知らない限り、「神」の存在を確かめることも出来ないのも確かであり、自然の持つ数体系の存在さえも知ることは叶わないものなのである。 それが事実である証拠には現代数学の「数の走り」を見れば良く判ろうと言うものである。それらは自然の「数の走り」ではなく、人間の創り出した勝手気ままな計算法であり、自然にはまったく通用し無いものなのである。まさに、それらは自然にはそぐわない欠陥品とも言うべき「数の走り」であり、まったく自然世界には通じないものなのである。 しかるに、自然に存在する「数の走り」を示しているものが世界には一つだけは存在していることは知っていて貰いたい。 それが日本の古神道の神髄である「カムナガラの道」であり、自然の心をシッカリ掴んでいるものであり、完全にそれにのっとっている甚だ貴重なものなのである。 しかるに、何と言うこと、何も知らない日本民族はただただ、目を逸らしてそれを貶(おとし)め、無視しているだけであり、口にする者も誰もいないのである。、 それが現在の「神」をないがしろにしている日本の有様であり、「神無し」の西洋文明の下僕として大威張りしている情けない姿なのである。 もっとハッキリ言えば、この「カムナガラの道」こそが、世界の「神秘思想」や「秘教」の大分部の源郷であり、遥か昔に日本から世界に流れて行ったものなのである。そのあたりのことは超古代文献の「竹内古文書にも記されていることである。あなた方は到底信じられないと言うであろうが…!!!。 それが、大陸発と言われている「陰と陽と言う対極の存在」、「あの世とこの世の仕組み」、「陰陽五行説」、「魔方陣に始まる易」、チベットの「マニ車の原理」、インドの「ヨガの基本」」等であり、更には、西え流れて「カバラの数秘術」や「マケドニヤの占星術」などの発生に繋がっていったものである。 何と、これらのすべては古神道の神髄である「カムナガラの道」にシッカリと納められているのである。 それに、現在、私が各地で説明している「カムナガラの道」を開けば、宇宙の形が見えて来る等であり、また、同時にそれが「ひふみ天地の歌」こそが宇宙自然天地を共鳴鳴動させる大いなる「神の呪文」であると言う更なる新しい事実の発見にも繋がって来ているのである。 「神の呪文」で思い出した、そう言えば、現在、私が整理している「カムナガラの道」の数理は、まさに呪文の連続のようなものである。何故なら、何時も異なった方法で解き放っても、何故か知らないが、そこには答えとして決まった数列が立ち並んで何事かを告げているからである。 今の私は読み上げるだけが精一杯であり、とても考えて答えを出せるような余裕はない。 まさに、老人特有の思慮の無さ、奥行の無さに、ただただ、愕然とするばかりのであり、肝を冷やすだけである。 ただし、この「神の呪文」の項だけは未だ未完成で放つぱなしである。今の所、まだ絵にかいた餅のように脳の中を駆け巡っているような状態であり、頭では理解しているのであるが、絵図描写がまったく伴わってはいないのである。要するに、これは己の知の不甲斐なさ、腕の不足さを深く感じさせて止まないものであり、これからの一層の奮起を必要なものでもある。 誰か、私の説明する絵を描き上げてくれるような洞察力を持つ奇特な御仁はいないであろうか……!!?。 それはまさに、量子物理学の中の波動理論に沿って解き明かしているものであり、天使の歌声と言われているあの「音楽の倍音と基音の秘密」が2重にも、3重にも重なって更なる大きなエネルギー形態を醸し出していることを描いているものであるが、悲しいかな、未だ、解明には至ってはいない、恥かしい限りである。恐らくは、私の頑是ない知などで解き放つのには無理があると言うことなのかも知れない。 それらの事象こそが、現代の量子力学(波動物理)理論であり、二ュートン物理学を古典物理学に追いやった自然物理学であり、現在の学者達の頭を悩ませているものなのである。 彼等は頭で考えているので難しいのであり、「数」の流れに従えば暗黙のうちに次第次第に解って来るものなのである。 (あなた方もご存知のように量子理論とは、別名、「波動物理学」とも呼ばれている。) まずは、腑に落ちない方は知るがいい、「カムナガラの道」の最初の言葉は「ひふみ…」と言う言葉から始まっていることを…!!。そして、考えるがいい、2番目も3番め4番目…などのすべての「カムナガラの道」の中には必ず「ひふみ天地の言葉」が等しく鋳型、すなわち、基音として埋め込まれていると言うその不思議さを‥…!!!。 更には、これは人類の未だ知らない自然の数計算手法、すなわち、「神算法」や「禊ぎ算」の手法等は本来のあるべき自然の真実、すなわち、現代人のまったく知らない自然の数が語る「本来の真実内容」を明らかにしている世界で唯一の計算法なのである。 しかも、その計算手法は「あの世」と「この世」を厳しく繋いでいる、本来のあるべき「正しい答え」の存在と言うものを、シッカリ教えてくれ、更には、我々の心大きくを励まし勇気づけてくれるものなのである。 その最初の記述は古代文献の「物部秘史」の中の物部太祝詞にハッキリ記されていることを知って貰いたい。そこには「禊ぎ」の意味が「カナ」と「数字」、それに「アヒルクサ文字」でしっかりと描かれているのである。まさに、それは現代の禊ぎの姿を否定して、本来の「禊ぎ」の意味を明らかにしているものでもある。まさに、そこにある意味は、あの閻魔大王が亡者を裁くときに使用するに存在するとされる浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)の説明通りのものであり、「過去の所業」を逆転化させることにより善、悪というものを完全に明らかにする、まさに驚くべき方法なのである。 その手法を用いている「数の仕組み」の法と言うものが、すなわち、この「禊ぎ算」なのである。 また、最近でも「ヒフミ神示」の天明さんはまったく同じことを言っている、それが、123456789ばかりではないぞ、裏には987654321もあるぞ、と言っているフレーズそうである。少々、うろ覚えではあるが、確かにそのような言葉であったと思う。 まさに、これらの言葉こそが、現代数学の不足部分を補い、円満なる「数世界の存在」、現代数学の裏に潜む「自然世界の数学」と言うものを明らかにして止まないものである。と、同時にこれからの確かな未来を作り上げてくれる本当の「基本の知」ともなるものである。 要するに、プラス(+)、とマイナス(-)とは、加算、減算を意味するものではなく、進行方向の違いを示す符号であり、自然世界の真実を明らかにしてくれるものなのである。要するに、プラス(+)とは右回りに回転して答えを求めるものであり、それがいわゆる、「この世」の我々が普段に行っている数学計算法なのである。 また、マイナス(ー)とは左回りに回転して、答えを出す、それがすなわち、「あの世」の計算法の答えなのである。 それはまた、「この世の計算法」と「あの世の計算法」を合わせて行う計算法こそが、本来のあるべき「自然の計算法」と言う正しい計算法であることをシッカリ証明しているものでもある。 もっと、ハッキリ言えば、現代数学には大きな欠落した部分があり、それを教え、補ってくれるのが、この「神の数学」である。 更に、ハッキリ言えば、「現代数学」は「この世の数学」、すなわち「物質世界」の数学であり、自然界にはもう一つの「意識世界」の「数学」が対となって存在して、真実を囁いているのである。しかるに、誰もその事実を知らないのであり、夢にも思わないのである これらの事こそが、「神の数学」はプラス(+)とマイナス(ー)を繋いで常に円滑で正常な答えを出して、すべての自然を満喫させて止まないことを歌っているのであるが、誰もその事実を知らないのである。 それに対しては、「現代数学」は常に右回りの回転のみ、すなわち、「この世」だけを視野に入れている数学方式であり、「あの世」の数学体系などは知らん顔、そんなものは無いと否定するだけなのである。「神の数学」では、この相対的な計算法の存在を称して、「神算法」と名付けており、その中の「禊ぎ算」こそが神道界の「禊ぎ」とか「禊ぎ払い」のいい加減さを暴き、あるべき真実と言うものをしっかりと示している本来の「自然数の語り」なのである。 そのあたりの真実を、今回の「神の数学」令和編あたりで、シッカリ語らせて貰うつもりであり、シカとその証明を行うつもりである。 おそらく、これが私の最後の締めくくりとなるものであり、誰も賛同し、検証する者がいなければ、すべてはお仕舞、ジ・エンドとなるものであろう。 次に現れるのは、恐らく100年以上経った22世紀あたりであろう。まことに残念なことではあるが…!!!。 ただ、言って置きたい、 残念なことに、私は、上記の「神の呪文」の理論上の秘密は解き放っことは出来たのであるが、音楽的な知識や描図的な才能はまったく無いので、それを完成させ証明することも、絵図で描き上げることも出来ず、甚だ歯がゆく、残念なことと感じている次第である。 要するに、これらの「カムナガラの道」はすべて倍音成分要素とその基音で何重にも重なって成り立って構成されている自然の音律の世界を垣間見せているものであり、しかも、そこには「神のエネルギー」が数多充満して、素晴らしい力を発揮している「妙なる音律」、すなわち、「自然のたゆみない波動旋律」がそのままの形で姿を見せているのである。 それ故に、昔から人々を感動感泣させて止まないものなのである。あなた方も出来るならば、少々、「カムナガラの道」を覗いて見るがいい、すべてはその基音と倍音の関係、すなわち、完全な整数倍の関係から成り立っていることがお判りになるはずである。また、それは何重、何層にも重なり合いながら大きな謎を秘めて鎮座していることも判ってもらいたい。 昔の人はその偉大なる力を讃え、尊敬の意味を込めて呼んでいた名前が、あの「ヒフミ…天地の歌」なのである。そもそも、「天地の歌」とはこの上ない「偉大な力」と、その「仕組み」を指している偉大なる言葉なのであるが、今の神道の守り人、すなわち神官達は何も知らない有様である。 試みに、それを立体図化することにより、更なる倍音群が密かに現れて、二重、三重に重なり共鳴しながら何事かを囁きを始めるのである。それは0や9を含みながらサークル的な力を発散させているもので、あの磁力の渦や、地球のを取り巻く磁力構成とまったく同じ構成を持って、作用をしている可能性もあるのである。 要するに、この音の秘密を明らかにすることにより、あなたは地球や太陽の磁場関係や、磁場構成の秘密も解明できるかもしれないのである……!!。 まさに、そこにあるのは「知」の有無の問題等ではなく、直感と洞察力の問題が全てを左右していることに気がつくであろう。 すべては、あるべくしてある本来の自然の象であり、すべてに共通した循環的な動きを持つものであることが、やがては判ることであろう。 そう思うと、何となく、心に満足感が広がり、気が休まって来るように思えるのであるが…!!。 いや、そればかりか、驚くことに、この「カムナガラの道」は、今、話題になっている「セルフェジオ音律」により、すべてが成り立っているものでもあり、それぞれがその要素を持ちながら、厳として、そして、神妙なる形を持って、鎮座ましましているものであることに気がつくことであろう。 同時に、そこにある9ヶの数列は相互的に一定な関係があることに気がつき、またもや、あなたは驚嘆することであろう…!!!。 要するに、それらすべての基音となっていものが、あの、古神道の奥儀祝詞である「ひふみ天地の歌」そのものであり、その倍音形式で存在しているものが、この「カムナガラの道」の中に連なって存在している、あの奇しき「9ヶの数列」の姿なのである……!!!!。 また、面白いことに、これらの9ヶの数列はお互いに加算しても、あるいは減算しても、必ずその答えはもともとの9ヶの数列のいずれかになるのである。 それが、すなわち、古代中国に端を発している「陰陽5行説」の思想とされているものであるが、これは、もともとは「カムナガラの道」の中に連なって存在している数列から出たものであり、まさに、「あの世」と「この世」のつながりを示しているものでもあるのである。 とにかく、中国の「陰陽5行説」は古代日本に端を発しているものであり、あなた方が学んで来た古代中国の思想であると言うのは大間違いである。それは、誰でも「カムナガラの道」を見ると一目で判るはずである。 すべては中国の策略であり、それは現代も連綿と続いて続いていることがよく判る。それが誰でも判るような今回の新幹線の起源略奪の件である。とにかく、世界は湧きに沸いて手を叩いて面白がっているようである。 これらを検証したいと思う気持ちがあるならば、誰でも、素直になれば「カムナガラの道」のすべての数列の中に、今、有名なあの「セルフェジオ音律」のすべてを見ることが出来るのであり、それは頑是ない子供でも見出すことが出来ようと言うものである。 要するに、誰でも簡単に「セルフェジオ音律」の図を見出すとが出来、そのすべての不可思議な数の走りの様子をこの「カムナガラの道」の中に見出すことが出来ると言うことである。それはまことに簡単であり、誰にでも出来ることなのであるが、あなた方には、その手順が判らないだけなのであり、考えようともしないだけなのである。 その手順さえ、解れば、小学生でも出来る簡単なものであり、楽しみながらその後を追うことが出来ようと言うものである。 要するに、、本来のあるべき「ひふみ天地の数歌」を正しい形で歌えば、それは天地に響き渡り、自然と同調共鳴しながら森羅万象を揺り動かすことになるのである。それがすなわち、「ひふみ天地の歌」は単なる「言葉」や「祈り」ではなく「歌」と呼ばれている一つの由縁なのである。 それはすなわち、「祈り」とは心の声であり、「歌」とは声を震わせて自然と共鳴同調を奏するために行う、一つの体による天地のメロデー音律の発現なのである。要するに、それが宇宙との共鳴音を呼び込むために発する驚くべき基音の秘められた姿と言うものなのである。 しかし、あなた方はそんなバカなことはあるはずが無い、と即座にのたまい、完全に否定して、ただただ無視を決め込むだけであろう。 事実、古代の人々は、「音」を利用して巨石を空中浮揚させ、自由自在に動かしていたのである。その証拠に、それを伝える神話や伝承は今でも世界各地に数多存在していることを知って欲しい。そこには何かあるのであるが、現代西洋知などでは到底、解明することなどは出来ないのである。 要するに、現代西洋知の知では、いくら頑張って考えても、自然と調和し、共鳴をすることなどは一切出来るはずが無いのである。それを可能であると決め込んで満足しているもの、それが、今の我々の現在の知であり、途方に暮れている現代科学の現在の姿なのである。 ただしである、一旦、古(いにしえ)に戻って正しい「ひふみ天地の数歌」を唱えれば道は開かれるかも知れないのであるが、しかるに残念なことに、今の「ひふみ天地の数歌」は大きな欠陥があるので、そのあたりを十分に正しく訂正して用いない限りは無理なことなのである。 それを指摘しているのが、あの双対の祝詞である「アイウエオ五十音図」であり、また、天明さんの「ひふみ神示」でもある。それを読めば判るはずなのであるが…!!??。 要するに、今の奥義祝詞である「ひふみ天地の数歌」には欠点があり、それ故に「神の息」と合わせることが出来ないと言っているのである。 甚だ、残念なことではあるが…!!??。 誰か、直感と十分なる洞察力のある方、共に解き放って見たい方は、是非、名乗りを上げてもらいたい。 少々、苦労するかもしれないが、数人で頭を捻れば、そんなに時間はかからないであろう…!!! 天明さんの「ヒフミ神示」の中には、「ヒフミ祝詞」する時は神の息に合わせて宣れよ、とあり、また、『「ヒフミ」唱えると岩戸が明くぞ』、「ひみつの仕組とは一二三の仕組ざぞ、早う一二三唱へて呉れよ、一二三唱へると岩戸あくぞ。」と記されている。それは、すなわち、祝詞「ヒフミ…」の仕組みには大きな秘密が隠されているのであり、それを解き放てば、岩戸は自然に開き放たれると言っているのである。 要するに、「ヒフミ天地の数歌」に隠されている「神の仕組み」を解き明かせば、天地、すなわち、自然界のすべての秘密は明らかになり、「知」の新たな進化が始まると言っているのである。 また、そこには「レ」であるぞ、「ヶ」であるぞ、「ホ」であるぞ、と、ハッキリ指摘しているはずであろうが…!!。 → (「レ」は0、「ヶ」は9、「ホ」は本当に、)であり、それは、すなわち、0=9となることは真実であることを我々に教えている言葉である。 また、その謎を解き放つためには、どうしても「アイウエオ50音図」の子音の並び方をシッカリ知る必要があり、学ぶ必要があるのである。しかるに、それは甚だ簡単なことではあるが、今まで誰も試みようとはしなかったものでもあり、ただただ、打ち捨てられてきたのである。それが、今まで「アイウエオ50音図」が人々の信頼を失って来た最大の理由であり、今や、関心を持つ者は余りいないと言う有様である。 「カムナガラの道」と「アイウエオ50音図」とはまさに、親子か師弟の関係であり、なぞって行くことにより、同一的な意味合いがあることに気づかされるのである。まあ、暇がある時にでもこれら二つを並べて、そこにある意味合いを調べて見ることである…!!!。 いや、出来れば、これからでもいい、祝詞「ヒフミ天地の数歌」と「アイウエオ五十音図」の二つの持つ深い関係性を調べて、そこにある「大いなる神の秘密」を見い出して貰いたい。数を特化すれば、あなたにも簡単に出来るはずである。関心があるならば、何人か揃って拙宅にくるがいい、是非、教えて進ぜようではないか…。まあ、出来れば、あなたの肝が潰れない程度にこの世紀の謎をあなたと共に解き明かして見ようと言うのである。 それがすなわち、、本来の「ひふみ天地の数歌」と「アイウエオ50音図」は「隠」と「陽」と言う相関関係にある「双対の祝詞」であり、極めて重要な相関関係を持っているものであることの一つの証明となるものなのである。 それ故に、「ひふみ天地の数歌」を完全に解き放つためには「アイウエオ50音図」の持つ言語の秘密コ―ドを十分に見極めることが必要であり、それを用いない限りどうしても無理なのである。 それは、基本的には大変簡単なものであり、誰でも、「アイウエオ50音図」から見出せる驚くべき「神の秘密」である。 しかし、誰もそこまでは考えようとはしないのであり、夢にも思わないのである。本来なら、しっかりと心に置くべき大切なものでありながら、誰にも忘れ去られてしまっているものなのである。まことに残念で、いたわしい限りであるが…!!!!。 そのことを「ひふみ神示」の天明さんも強く言っているはずであるが…!!!。 「それがすなわち、五十九柱と申してあるが、その中の九柱はかくれた柱ぢゃ。 ヤイユイヨワイウエオ ぞ、123456789ぞ。 この九柱はぞ。心得なされよ。現われの五十柱のかげのかくれた九柱、心して大切申せよ」と……。 この天明さんの言葉の隠されている九柱とは、「ひふみ天地の数歌」であり、大変、大切なものである。また、現れの五十柱とは「アイウエオ50音図」のことであり、共に働いて何事かを囁いていると言っているのである。それにしても天明さんは偉い、なぜ、このような古代の祖達が残した偉大なる「知の遺産」の存在を知ることが出来たのであろうか…!!??。 改めて言いたい、「カムナガラの道」における「声の秘密」とは誰も知らないものであり、現代科学でもその扉を開けることが叶わないものである。 そこにある倍音効果の存在、それがどれだけ素晴らしい自然の音律を奏で、天地を震わせ、共鳴させるのかは誰も知る者はいないのである。 ひよっとすると音楽を学んでいる方々は「倍音効果」の秘密を知って、その「音の秘密」を、今でも懸命に追っかけているかも知れないのである。 例えばである、夏の盛りの蝉の鳴き声を思い出して欲しい、蝉は小さな弁で体をこすって小さな小さな音を出し、更にはその小さな音をお腹の中の空洞で共鳴させることによって大音響(エネルギーの波)を発生させ、それを更には大気を震わせる(共鳴振動させる)ことにより、究極の大音響を作り上げ、山全体を一入(ひとしお)賑やかに震わせ、人々を驚かせているのである、たった小さな一匹で大自然の主である山を騒がしてやまないことは、あなたも十分にご存知であろし、それは夏になれば誰でも体験が出来ることなのである。 それは、今の人間の科学では到底理解不可能な自然の仕組みであり、自然の大いなるエネルギーの発露と言うべきものなのである。 そのあたりを調べ尽くせば、人類は更に大きな、大きな、エネルギ―の源泉を得ることになるはずなのであるが、恐らくは現代科学理論に従っている限り、それは無理であり、とうてい、不可能な夢なのである…!!!。 また、何回も述べているが、合唱(コ-ラス)の際には本来、聞こえるはずのない素晴らしい高音が「天から降ってくるように」聞こえることがあるが、これもまた倍音の効果である。それは西洋では「天使の歌声」と呼ばれている有名な存在であり、別名「神の歌声」とも言われているものである。 また、ひょっとして、ひょっとすると、あのエジプトのピラミットの大きな石が呪文によって浮き上がり、自在に空を飛んで所定の位置に定着したと言われている話しも、本当かも知れない。そう考えると、山の上にある、あのインカ帝国の大きな、大きな石の塀や、隙間の無い見事な巨石積みも、そのようなテレポーテイションの力を用いていたのかもしれない。そのような不思議な話しも現実には密かに語られているのである。 現実を見てみるがいい、それが、ペルー・インカ帝国の遺跡である、オリャンタイタンボの「六枚の屏風(びょうぶ)岩」がある、そこには一枚平均 高さ4メートル・幅2.5メートルの岩が6枚も横一列に並べられている。一枚あたりの重さは60トンから80トンと言われるものである。この屏風岩が建てられているのは、高さ150メートルほどの丘の上であるが、その岩を切り出したと思われる場所は、この丘の下を流れる川の向こう岸の山の中、それも高さ330メートルの地点なのである。その重い岩を下の川まで運び、更には、そこから再び、高いところまで、人力で運ぶ、そんなことは完全に不可能なことである。 例え、一枚でも現実には不可能なことであるが、それが現実には六枚も見事に運ばれて、屏風のように立っているのである。 また、有名なペルーの遺跡である「マチュピチュ」を考えて見るがよい、あのょうな大きな石を高い山の斜面上まで運ぶことは、とても人間力では考えられないのであり、現実的には不可能なことである。恐らく、現代の重機を使っても無理であろう。要するに、何か、超自然的な力の存在があったと考えるのが自然であり、無理の無いことなのである。よく考えて見て欲しい…!!、日本の神話にもその例があるではないか…!!。 あの天と地を隔てていた、天の岩戸を開けるために、神様たちが知恵を絞りあって アメノコヤネに尊い祝詞(のりと)を唱えさせながら、長鳴き鳥を鳴かせ、神楽を舞いながら神々が大きな声で笑うと相談し、同時に、力のある男神が岩戸を開けることにしたと言われている。 そう言えば、現在、日本の一部の科学者が音響により物体を浮揚させ、移動もさせているようである。 まあ、勝手な推量であるが、これらの大きな石組の形とその重量を見れば、まさに、人力での移動は無理であり、不可能なのである。 要するに、神話が伝える音による物体浮揚もさもありなんとも思えるのであるが……!!!。 是非、これらの事実をあなた方の手で調べてもらいたい。そうすることにより、なた方は古神道の「偉大なる秘密」と古代にあった「日本の大叡智」の存在と言うものが次第々にリンクされて明らかになり、その一切を知ることになるかも知れないのである。また、それを知ることにより、更なる感無量の心地に引きずり込まれ、陶酔感と共に 古い魂の垢(あか)、すなわち、今までの常識と言うものを綺麗に洗い流すことにもなるはずである。 更には、特別な「数の秘術」、すなわち、「神の法陣」の仕組みを用いて調べると、こ「カムナガラの道」の図は何と、意識世界を語り上げている「ミロク(弥勒)の図」、すなわち、来るべき「意識世界」の大いなる姿を密かに垣間見せてくれるものでもある。その特別な数の秘術こそは、何と、あの「神の数学」にある「神の法陣」そのものであり、循環態の存在を説いて止まない畢竟の仕組みなのである。 その大いなる姿を前にする度に、私は何時も、ただただ、涙が溢れ、一切の雑念と言うものは泡沫のごとく、消え去ってしまい、感謝、感激に咽ぶことになるのである。 これらは、別に難しいものではなく、一旦、解き方を学べば、小学の高学年か、中学生でもすらすらと解けるものである。 ただし、あなた方、曇った常識を持っている方々には、解くことは叶わないであろうし、考えて見ること等も無いであろう。。 例えば、上記の表題の中の一つでも完全な形で会得(マスター)することが出来れば、あなたは次々とこれらのものを制覇して、万丈の気を吐くことになるのは間違いの無いことであり、場合にょっては、世界にその名を轟かすことが出来ることにもなるはずである。 なぜならば、1 を知った方々は、次々と新たな事実を知り、最後にはすべて、すなわち、10を知ることにもなり、すべては完成に向かうことになるからである。 また、この「神の数学」の出現により、行き場を失った「現代数学」は方向を転換することになり、それと共に現代知の組み直しが始まり、すべては新たな知の下に大展開が始まるはずである…!!!。 しかし、悲しいかな、現代西洋数学に魂を抜かれているあなた方には、一向に通じず、本気にしょうともしない。 今までは古神道などとは古臭い、誰がそんなものを信じるか、と馬鹿にされていたものであるが、それはとんでもない認識不足と言うものである。 現に、ニュ-ヨ-ク工科大学で教鞭をとっていた馬野周二氏(工学博士)は常々次のように言っておられたのである。 「最も古くて最も新しいものが古神道である、その上、古神道は決して神がかりではない、それどころか、逆に神が懸からないものである。何故ならば、その本性は「自然の叡智」の集大成そのものであるからである。それは何よりも哲理学であり、天文学、及び、自然理学でもあるからである。また、それは近代物理学さえも遥かに凌駕し、更に、遥かその先を行っているものである。 それにしても、古代日本人の思想は不思議である、何故、彼等は、3千年前にあのような物理的世界観観を、整然とした幾何学的な構図(カムナガラの道)の中に収めることが出来たのか…??、その上、どうして、そこから千古比類の無い、人倫と自然哲学と言うものを引き出すことが出来たのか…!!?、と自問自答を繰り返していたのである。 … 「人類文明の秘宝」…馬野周二著より 遠い昔から、日本人が守り続けて来た神道とは一体何であろうか?。神道が判らなければ、日本が判らぬと言われるほど、日本人の心の奥底に根を下ろして来た非常に重要な文化的な現象として忘れてはならないのであるが、大多数の日本人は西洋の学に心酔する余り、すっかり、忘れ果てているのである。しかし、私の目から見れば、神道は今でもなお、数多の謎、不可思議な哲学性を数多秘めている不可思議なものなのである。 これらはまさに、至言であり、血の叫びである。しかし、誰も答えることが出来なかった難問中の難問、それが日本の神道なのである。 私は、その真実を明らかにするために出来るだけ、現代物理の理論を用いながら説明しているのであるが、神道には物理理論が通用するはずが無いと逆に否定されるだけであり、大変.、難渋している最中である。如何にせん、一般の神道家達は物理学を毛嫌いし、物理学者達は神道家達を相手にすることを嫌っているのである。要するに、真っ向から相手にしてもお互いに議論は空を切るだけであり、まったく噛み合わないのである。何とか、ならないものであろうか…!!?? なんせ、生来の口下手の上、老人ボケが重なって、思うように説明が出来ず、現在、苦労の真っ最中なのである。 さてさて、この苦労は何時になったら解消するのであろうか…!!??。それとも、あの世まで引きずって行くことになるのであろうか…!!??。 ハッキリ言おう、それらの真実やその元になるすべての証拠が、すべてこの古神道の「カムナガラの道」の中に厳として存在しているのである。 馬野氏は、これらのすべての証拠は「フトマニ」の中にあると言っているが、何を隠そう、馬野氏の言っていた「フトマニ」とは、あの失なわれた古神道の神髄である「カムナガラの道」そのものであり、その別名なのである。この際である、もっとハッキリ言って置こう。 この「フトマニ」、すなわち、「カムナガラの道」は、またの名は富士神界系では「九の花咲くや姫」と呼ばれ、また、白山神界系では「九九理姫」と呼ばれている大変尊いものなのである。 何故ならば、「カムナガラの道」の中では、縦、横、斜めのすべてにわたって縦横無尽に「九の花」が咲き乱れ、「九の花」の百花繚乱状態となって咲き誇り、何事かを物語っているからである。何と、「カムナガラの道」の図全体が、すべて「九の数」で埋めつくされ、何事かを懸命に我々に告げようとしているのである。その「九の数」で埋めつくされている状態を語っているものが、あの古神道の言葉である「表裏一体」なのであり、全体が「九の数」で埋めつくされている状態を指しているものなのである。要するに、「カムナガラの道」の裏と表を合わせれば、そこには九の花が全面に満開に咲いていて、何事かを囁いていることを伝えている言葉なのである。まさに、不思議、不思議の物語である。 (その吃驚仰天して腰を抜かすさんばかりの該当絵図は当方にあり、どうしても必要な方にはご送付申し上げよう。ご連絡を乞う) ただ、その事実をあなた方は知らないだけであり、教えられていないだけなのである。要するに、「九の花咲くや姫」とはその言葉通り、「コノハナ サクヤ ヒメ」であり、「九の花」が満杯の状態で咲き乱れていることを示しているものであり、また、「九九理姫」とは、その名の通り、九九算そのものを指している言葉である。 それらすべては、「カムナガラの道」の別名なのであり、何事かをあなた方に囁こうとしているもののであるが、あなた方は一向に耳を貸そうとはしないのである。 しかし、これらの不思議な光景を目にすれば、、誰しも、呆気にとられるだけであり、ただ、ただ、心に刻み込まれ、信じざるを得ないのである。 とにかく、すべては、このようにしっかりと繋がりながら、日本の国を懸命に護ろうと頑張っていることを知ってもらいたい。 いくら、「神」等はあるものか、と「神」の所在そのものを拒んでいる者でも、この「九の花」の咲き乱れる光景を目にすれば、たちまち意気消沈し、余りの不可思議さに気が削がれることであろう、それは、まさに「神の秘儀」の威光であり、「神の御業」の威力なのである。今の私でもそれはまったく同じであり、まったく頭が上がらず、ただ、ただ、平伏あるのみの状態にあるだけである。 まさに、それが、すなわち、「カムナガラの道」の不思議極まりない本性なのであり、どう考えても、人間の業の及ぶ所ではないものである。 しかして、難しいものかと思えば、さにあらず、小、中学生でも簡単に理解が出来るものでもあり、計算も十分に出来るのである。 それは、決して現代の人間知などでは再現することなどは不可能であり、まさに、「神」の仕業そのもので、思わず涙がこぼれ落ちるばかりのものである。 果たして、その「神意」が意味、し教えようとするものは一体何であろうか…!!??。 また、今まで、不明とされていた「九九算」の名は、この「九の花」の咲き乱れる光景からもたらされたものであり、何処に出しても恥ずかしくない、まさに大いなる由緒のある素晴らしい命名なのである。残念ながら、今では、この「九の花」の咲き乱れる光景や、その経緯(いきさつ)などは誰も知る者はいないのであり、想像すらも出来ないものなのである…!!!。 恐らくは、それを擁した土地の有力者達がその由来を知り、めいめい思い、思いに勝手に意味を思い名前を付けて、敬い、育(はぐく)んで来たのであろう。それが、「九の花咲くや姫」であり、「九九理姫」、「天照大神」などの地方に残る「神」の由来と言うものであろう。 また、信じられないであろうが、あなた方の神棚に祀っている「天照大神(アマテラス大ミカミ)」の本体は、今では、単なる名前の書き札のみの白紙同様なものではあるが、本来はこの「カムナガラの道」の数が恭しく祀られていたのである。それが本来のあるべき姿であり、その尊い名前の本体と言うものなのである。しかし、今では、誰もそんなことは知らず、白紙のお札を拝んで、満足しきっているのである。 何と、何と言うことか…!!!。 要するに、「九の花咲くや姫(コノハナサクヤヒメ)」、「九九理姫(ククリヒメ)」、そして「天照大神(アマテラスオオミカミ)」はまったく同一の神の名であり、しかも、ヒメと言う言葉から「女の神様」と言われていることも、これまた頷けることでもある。 しかし、歴史もいい加減である、確か、50~60年前は「天照大神」は女神であると、教わったのであるが、最近の風潮では、何時の間にか男神になっている、昔の絵では天戸が開かれて、中から女神姿の「天照大神」が「あめのうずめ」に手を引かれて出て来る様子がしっかり描かれていたのであるが、もし、男神であったならば、この天の岩戸の物語は成り立たないことになり、それを記述している古事記はインチキな書であると言うことになるのである。 まあ、話は大きく逸れてしまったので、元に戻すことにしよう…。 ちなみに私の命名した名前は古くは「宇宙次元原理表」であったが、現在では「ひふみ九九算表」、または古代にあっては「カムナガラの道」と命名されていた恐るべき「古代の超叡智」の集大成と言うものであり、「宇宙自然の大律」や「自然の理律」を納めた驚くべきものである。また、それは、この世には二つとは無い素晴らしい天啓のものであり、「神意」が一杯詰まっているものである。 しかし、現在、それを解き放つことが出来る者は誰もいない。 ただし、宇宙人の数学である「システム オブ ナインズ」の手法を知ることにより、私はやすやすと「カムナガラの道」をき放つことが出来、更には、その奥に潜む「次元の原理」さえも知ることになって、自然物理の坂を駆け上がることになったのである。 また、この「カムナガラの道」の内容は、残念ながら、今では失われてしまい、その名前だけが残っていると、辞書の中には記されている。 一つ、手元の辞書で「カムナガラの道」を調べてもらいたい。そこには次のようにあるはずである。 要するに、「カムナガラの道」とは、何十憶年、何百億年をかけて、自然が独自に創り上げた道、すなわち、天地の律則」と言うものであり、それによって天地の万物はあまねく存在が可能になり、永遠を謳歌しているものである。 しかも、一切、人の手や、人間の考えは入ってはいない純然たる「自然の道(摂理、法則)」の表であり、その内容をシッカリと明らかにしている「数が語る自然法則の解明書」とも言うべきものなのである。 何と、そのようなものがかっての古代日本には存在していたのであり、そのすべてを語っているものなのである…!!!。 それが「次元の秘密」、「神の法陣」、「大宇宙の形」、「宇宙のエネルギ-構造」、「輪廻転生の理」、「宇宙人の数理」、「すべてのものの本質は0である」、「未来のミロクの世界の真実」等であり、あるいは、「人類の未だ知らない数学計算手法」や、「ひふみ天地の歌」こそが宇宙自然天地を共鳴鳴動させる大いなる神の呪文である等であり、はたまた、「神の法陣」の手法を用いることにより、来るべき「ミロクの世」が開かれると言う大変な事実等であり、それらが綺麗に「神の数学」手法により簡単に解き明かすことが出来るのである。まさに、不思議、不思議の連続であり、興味深々な奇怪な物語である。 しかし、誰も信じようともせず、興味を持とうともしない。恐らくは、余りにも己の持っている知とは断絶が深いので,近寄り難かったのであろう。 しかし、何時かはこの事実を知らなければならないものなのであり、手に納めなければならないものなのである。 今の今まで、これらの真実が誰も知られることなしに、この「カムナガラの道」の中に密かに、かつ深く納まり、長い間人に知られることもなく眠り続けていたのである。恐らくは、何時の日か、日本民族の誰かが解き明かしてくれる時を首を長くして待ち続けていたのであろう。何と言う、律義者であろうか、ただ、ただ、涙がこぼれるだけである。 しかも、それは何千年と言う長い間である。その健気さにはただただ、有難さを覚え、深く頭を下げるだけである…!!!!。 それこそ、今まで、ただただ、密かに眠り続けているだけで、誰も起こす者がいなかったので、一切、目を覚ますことも無かったのである。 ところが、私が気がついて、ちょっと揺り動かしただけで、完全に目を覚まし、永遠なる自然の歌、すなわち、「カムナガラの道」を謳い始めたのである。 その名が、すなわち、は古神道の奥儀祝詞である「ひふみ天地の数歌」であり、その本体となる「カムナガラの道」と呼ばれているものである。 それは、今まで、噂ばかりで誰も見たことが無かったものである。それが、この世界中の人心が乱れに乱れ、今にも世界大乱が生じようとしている現代の世の中に突然、「救世主」のように出現し、我々日本民族の行く道を照らし始めようとしているのである。 それはまるで、日本民族よ、立ち上がって、「未来の叡智」を手にして「世界の秩序」を守れとでも言うように…!!!。 これらが、嘘か、本当かはあなたの持つ魂が教えてくれるはずであり、、直感として心に響いて来て、魂が打ち震えて止まらないはずである…!!。 それが本来の日本民族のDNAを受け継いでいる者の大いなる御印であり、来るべき未来世界を作り上げる先駆者となるべき者達であることを示しているものである。とにかく素直になって心を開くことが大切であり、心のままに歩みを進めることが肝心なことである。 それを、是非、期待しよう。そのためにも頑張って捜索、検証し、大いなる未来を垣間見てもらいたい。すべてはまたとない真実なのである。 また、信じたいが、何となく、胡散臭いと思われる方は、少しずつ、この「神の数学」に記載してある「数の学」を検証し、真実を学んで見ることである。それにより、あなた方にもだんだん心が解けて、本当の真実が見えて来ることになるはずである。 考えて見れば、私も85歳となり、「あの世」へ行く準備も始めなければならない年頃である。でも、今の所はお迎えが来たならば、やることを終えるまでしばらく待ってくれと言おう。 そのような訳で、これら上記の残された命題をこれから来年にかけてあなた方に伝え、最後の務めを果たすつもりでいる。 これらは、すべては予定されていた神宜であり、神託なのである。しかし、果たして、あなた方がこれらを完全に理解することが出来るのであろうか…!? 私は大いに訝(いぶか)しみ、怪しむだけである。何故ならば、あなた方の99%は西洋科学に夢中で、古神道を顧みるようとはしないからである。 せめて、古神道の学者あたりが、気がついて学ぶ気配があればいいのであるが、彼等は科学などは完全に無視するばかりか、相変わらず、古くからの伝承神道を学ぶだけであり、新しい風を日本神道に吹き込むことさえも考えようとはしない。おそらく、このままでは後、50年も待たずに消え去ることであろう。今の神道家達のうらぶれて、覇気の無い様子を見るにつけてそう思えて仕方が無いのである。 要するに、人のためになろう、人を救い上げてゆこう等の気持ちは一切見られないのである。甚だ残念なあことではあるが……!!!。 一つ言って置きたい、それは、これからの「神の数学」は、私の気が向き次第、お天気次第、風の方向次第なので、予定は未定となる公算は甚だ多いであろうと言うことである。しかし、私の知っている限りの「神の数学」の内容は出来るだけ、ここにとどめて置くことは約束しょう、なぜならば、これは私に残されている唯一の使命であり、生きがいでもあるからである…!!!。 すべては、神託であり、日本民族の務めとしてまっとうしなければならないものである。 『神の数学』〘2〙 不思議な不思議な「数」の物語 令和編「その1」 令和2年1月上載 さてさて、今年も世界の情勢は混沌として、あやめもつかない状態であるが、それは人間社会の更なる進歩発展には必要なものと達観し、私はただただ、自分の道を進むことにしたい。これからは、ますます世相は混乱し、有象無象が入り乱れて、混乱の極みに達するのは間違いの無いことである。
日本の古神道の真髄である、この「カムナガラの道」の存在こそが「神の存在」を明らかにすることが出来るものであり、それと同時に、我々はその神々の「超智」を戴(いただ)きながら世に処して行くことが可能になるものである。要するに、今までの過ちの多い「人間知」から、過ちの無い「神の叡智」にシフトして自然と共に永遠の回廊を歩んで行くことが我々日本人に課せられた運命であり、定めでもあるのである。 それが我々に与えられた「本来の道」と言うべきものなのであり、歩むべきして歩まなければならない本来の我々日本民族のの歩むべき道なのである。 私があなた方にこれから開示する「神の叡智」をあなた方の心が反発を感じて、受け取ることを拒否するならば、恐らく、次に現れて来るのは、恐らく、数百年後あたりになるであろう。それであるから、素直に受け取り、自らの手で検証を重ねて、学ぶことがことが、今、絶対的に必要なのである。 これらすべては、甚だ易しいものでありながら、かつ非常に難しいものである。その上、古いものでありながら、きわめて新しいものでもある。これらの言葉は甚だ相矛盾しているように聞こえるであろうが、決して、そうではない、すべては相伴って醸成されている自然の知であり、決して矛盾しているものではない。その事実は検証に励んでいれば、自ら自然に解ってくるはずであり、身と心が自然に、しき締まってくるはずである。。 要するに、確かに、これらは数千年前のきわめて古い時代のものではあるが、この「カムナガラの道」の中には現代知では解くことが叶わない「自然の超叡智」が無数に存在し、何時も訪れる人々を首を長くして待っているのである。 例えば、古神道の神髄である「カムナガラの道」の中には驚くほど数多の「3次元方陣(我々の世界)」が存在するのであるが、恐らく、あなた方、平面的な思考に捉われている御仁にはそれらを見い出すことは出来ないであろう。何と、この「カムナガラの道」の中には9×9ヶ、すなわち全部で81ヶの「3次の方陣」が鎮座して、我々に何事かを囁いているのである。私は敢えて言う、あなた方にはそれを見い出すことは決して出来ないと…!!!。 第一、常識的に考えても、全体的に見ても、横10×縦10のマス目(セル)は合計で100しかないのに、その9倍の容量を持つ、3×3の3次方陣が81ヶもあると言うのは、余りにも法外なことであり、とても常識上では信じられないこと、あり得ないことなのである。それは私も同様に感じていると言いたい。 要するに、我々の単視眼的な思考ではここにある「3次元方陣」、すなわち、横3×縦3の方陣のすべてを見出して、数え上げることは決して出来ないのである。もっと大局的な目、すなわち、もっと活眼的な思考を駆使して全体をまさぐれば、自(おの)ずからそこには横9×縦9、すなわち、81ヶの「3次元方陣」が見出すことになるはずである。しかしである、あなた方の99%の方々は、恐らく、8×8の方陣、すなわち、64ヶの「3次元方陣」は見出すだけで終わることになるだけであろう。要するに、あなた方の目では81ヶの「3次方陣」を、どうあっても見出すことは出来ない、不可能であると言っているのである。 そして、これによりあなた方は己の思考の程度、己の思考の限界と言うものを悟ることが出来るのであり、己の知の未熟さを改めて嘆くことになるのである。 それもいいであろう、自己の目覚めがこれから始まるのであるから…!!。 さて、次に「カムナガラの道」の中から探し出した「3次元方陣」を見て貰いたい、そこには9ヶのマス(空間)があり、そこには数字(エネルギ-)が入って、それぞれの均衡を保ちながら、整然とマス(セル)の中に納まっている完璧な状態を示しているものである。そこで、それらの9ヶの数をすべて加算して見てもらいたい、すると、あら、不思議、これら「3次元方陣」の中の合計数(Σ)は必ず9になる と言う目を剥くような信じられない出来事がそこには起こっているのである。 そこにある9とは、(出来上がったもの、最終変化の姿)と言う意味であり、この世にあるすべてのものは因と縁によってもたらされた結果の姿であり、物質的な存在のように見えるが、その本質を尋ねれば、すべては空であり、0(無)であると数は語っているのである。 要するに、「因」が0であり、「縁」が9であると言っているのである。また、それは仏教の根本教理である「色即是空」「空即是色」とまったく同じことを意味しているものでもあり、すべてのものの本質は「空」、「無」であることを「数」で語り、「数」で諭しているものである。 これがすなわち、「数」が口をきく、「数」が教えてくれると言うことである。もっとも、博学多才のあなた方達、己の知に自信満々なあなた方には、とても信じられないことであろうが…!!??。何と、「色即是空」の言葉の大元の姿は日本にあったのである…!!!。決して、仏教に由来する言葉などではなかったのである。 要するに、今まではただ言葉により言い伝えられていた「色即是空」、「空即是色」の言葉であったのであるが、ここに来て初めて「数」により、その真意が明らかにされ、まことの真実の存在と言うものが、もたらされようとしているのである。それが現在の日本に実際に起こっているのである。 また、それと同時に「神の存在」も明らかになったと言ってもいいであろう。それはすなわち、「神」の言葉である「数」により「神の存在」と「神の心」が明らかにされたと言う事実が確定したことになるからである。 と同時に、この古神道の真髄である「カムナガラの道」は「神の心」、すなわち、自然の業のすべてが「数」により示されている、かけがいのない「神のノ-トブック」であることが解って来るのである。それは他の国には無くて我が国、日本だけある大変貴重なものであると、辞書には書かれているではないか…!!!。また、その内容は私が解説しなければ判らないであろうし、あなた方の手には負えないものである。何故ならば、それは現代知とは共通点は無く、、相通じる本分内容と言うものがまったく無いからである。 また、そこには同様に「神の心」が「数」により次々と語られていて、誰も知らない「自然の叡智」と言うものが我々にもたらせられ始められたことをあなた方は知ることになるはずである。そう、「神」の言葉とは「数字」で語られ、数字を用いて教えていると言う事実がハッキリと判ってきたのである。 また、驚くことに、この「カムナガラの道」全体がその「神の心」で満ち溢れ、数多の「自然の叡智」と言うものを持っている事実が、ここで初めて明らかにされたのであり、「数」こそが自然の秘密を語っている「神の言葉」であることが証明されようとしているのである。 また、もう一つ驚くべきことがある、この「カムナガラの道」の表を見ると、その最外側には0の群れが存在し、全体を取り囲んでいるのがお判りであろう。また、それ以外には、内部にあるのは4ヶの0があるのみである。たった、それだけの0(神々)で 9×9、すなわち、81ヶの「3次元世界」のすべてを見守っているのと言うのである。 その事実は「3次元世界」を作って検証すれば、誰にでも判るものである。まさに、驚き、桃ノ木である。 次に、この「カムナガラの道」の中にある9×9ヶの方陣、すなわち、81ヶの「3次元方陣」、すなわち、我々の世界(3次元世界)をジックリと見て貰いたい。それらはあなた方のように平面的な考えしか持たないような方々には決して見つけることは出来ないものである。 (一つ、断っておきたい、我々の世界は「3次元の世界」である。 何と、驚くことにその81ヶの「3次元方陣(我々の世界)」の中のすべてには必ず「0=神」が同座していて、すべてを見守っていることがお判りになるはずである。 まさに、驚きそのものであり、現実にはまったく沿わない話であり、信じられないようなことではある。 それらの事実のすべてが、ここ、21世紀の初頭に来て初めて明らかにされたのであり、すべては「神」の守護の下に生命を与えられ、「神」の守護の下に生命を維持していることをいみじくも物語っているものなのである。 その姿は、まさに、お釈迦さんの掌の上で右往左往している孫悟空そのものであり、いくら頑張ってもそれから逃れる術はないと言うことでもあるのである……!!。 お-、何と言うことであろうか……!!!。 さてさて、本来ならば、ちゃんとした「数図の存在」の下にすべてを説明しなければならないのであるが、如何にせん、頭も痴ほうに近く、図をインタ-ネットに上げる方法さえもままならない状態である。すなわち、しばらく扱わないので、その方法をすっかり忘れ果ててしまったと言う哀れなことになってしまった現在なのである。でも、なるべく誰かの力を借りてでも、主要な図はここに載せて行くつもりではいるのであるが、如何にせん、頭には浮かんでいるが、図に描くまでのパソコンの技術が今の私には失われてしまっているのである。甚だ、口惜しい限りではあるが……!!??。。 それでも考えたこともあるのである、恐らくは、これらの私のほざき(ひとりごと)を見ても、何の感傷も感じない行きずりの方々が甚だ多いと思われるので、面倒な数図をインタ-ネットに掲載することをこれからは止めることにして、関心のある方々だけにこれらの特別な数図や、その詳細な説明をご送付申し上げることにしたいと思っているのであるが、如何であろうか…。 要するに、その方々には、何時でも、疑問、あるいは質問状をお送り下さればすぐさま返答をFAX,または郵送で送ることにしたいと思っているのである。場合によっては拙宅まで乗り込んで来て大いに議論を交わしてもいいと思っている。 とにかく、これらすべては、今世紀のいずれあたりかで、必ず発生すると思われる人類の抱えている「神」との関わりをテ-マにしたものであり、決して的外れのものではないものである。これらすべては、我々の「数」に対する認識を一変させるものであり、新しい「神の叡智」を見極めるための数手法でもある。 また、これらは「神」の正体を見極めようとする特別な方々を対象とするものであり、この新しい知を用いることにより、「神」の存在がハッキリし、その正体も解ろうと言うものである。 今後は、現代知のみでは解決不能な「神の問題」ばかりを取り扱うつもりであり、これらの「数」の語る人知を超えた「神の御心」と言うものをあなた方と共に学んで行きたいと思っているこの頃である。 もっとハッキリ言うと、私もまだ道半ばであり、あなた方により教えられることも多々あるはずである。 さあ、今回は「カムナガラの道」の中にある81ヶ、または64ヶの「3次の方陣」を探して、その中の9ヶの数を加算し、そこにある「大いなる意味」を考えて貰いたいと思う。今回の命題は「それ」であり、多数の方々がそれを見い出して、新たな洞察圏の存在を確認し、検証に走ってもらいたいと思う。 これは小学低学年や中学生でも説明すれば出来るような理路整然とした問題であるが、果たして、あなた方はは解けるであろうか…!!???。 私は大いに訝(いぶか)しみ、大いなる疑問としているのであるが、果たして、あなた方はこれらの事実に答えてくれるのであろうか……!!??。
これからはなるべく定期的な、あるいは必要次第な時に随時にこのサイトに更なる高度な「神の数学」の問題、を取り上げて見たいと思う。これらの問題を関心のある方、または疑問をお持ちの方々は、是非、FAXでその疑問内容をご連絡を戴きたい。なるべく懇切丁寧に、そしてザックバランナ形で直ちに、返答、またはその仔細を記してある関係書類をお送り申し上げ、共に考えることにしたいと思う。ただし、私は赤貧まみれの最中である。 宜しく、お願いのほどを申し上げ、今回はこのあたり筆を止めることにする。次回からはあなた方を「更なる夢幻の幻視考」、すなわち、現代科学を遥かに凌ぐ、超メタ・フィジックの真実世界の存在を語る「数の世界」に、ご案内申し上げ、つぶさに詳細を見て貰うつもりである。 連絡先 FAX 0558 (76) 4334 「神の数学」 サトウ トシオ まで。 『神の数学』〘2〙 不思議な不思議な「数」の物語 令和編「その2」 令和2年3月上載 さて、さて、先回の問題となった「カムナガラの道」の中にある81ヶ、の「3次元の方陣(我々の世界)」が語り上げている究極の内容について、いくらか考察の上、十分に検証されたであろうと思われるが、如何なことであろうか…!!??。 恐らく、これは誰が行っても、常に結果は同じであり、常に同じ答えが見いだされるはずである。また、ひょっとすると、とんでもない大いなる直感を持った御仁が現れて、更なる回答を出して、我々を唖然とさせてくれる可能性も十分にあるのである。 今の所、残念ながら、それは「数」で示されていることが解っただけであり、その内容や、本来の意味するところなどは未だ不明なのである。 この「3次元の方陣(我々の世界)」を尋ねて行けば、最後に存在するものは「0」と「9」のみであり、それはすなわち、3次元の世界とは「見えない世界(意識世界)」と「見える世界(物質世界)」の二つの世界から成り立っていることを語っていると言うことである。 要するに、そこにある0とは「見えない世界(意識世界)」であり、9とは「見える世界(物質世界)」を意味するものであり、しかも、「見えない世界」と「見える世界」は同じ本質、すなわち、0が本質であり、すべては無に帰すもの、すなわち、すべては無的な存在、「空」の存在であることを語っているものなのである。要するに、「見えない象」を表す場合には0を用い、「見える象」の場合には9を用いるのである。しかしその二つ、すなわち、0と9は本質的にはまったく変わりは無く同じものなのである。 ただ、そこには、同じものでも、その現れ方が異なっているのであり、それにより「2元世界の存在」や「1元世界の存在」さえもハッキリと示されているのも面白い限りである。要するに、「3次元の世界」を尋ね歩けば、「2元世界の存在」や「1元世界の存在」が見えて来ると言うことなのである。 要するに、3次元の世界の中に「2次元世界」が存在し、また、また、同時にその中には「1次元の世界」や「0次元の世界」等も共存状態にあることを示しているのである。もっと、ハッキリ言えば、「3次元の世界」の中に「2次元世界」や「1次元の世界」、「0次元の世界」が共存していることを示しているのであり、それらが基本枠組みとなって「次元世界」を作り上げていることを示しているのである。 しかし、現代物理の世界では、それらの次元は別々な状態で個々に存在しているのであるとか、並列状態で繋がっているとか、言われているようであるが、実際はそうではないことを「数」は如実に示しているのである。 また、数は更に語っている。すなわち、我々は「意識(こころ)」と「物質(肉体)」の二つが重なって一つとなっている融合体であり、そのどちらかが欠損すると成り立たたなくなる、すなわち、それが終焉(死)を迎えると言うことであると…。 そのような現代人の知らないことをこの「カムナガラの道」はいみじくも語り上げ、我々に教えているのである。是非そのあたりを知ってもらいたい。 また、それと同じようなことを日本の古代文献である「ホツマツタエ」は語っているのをお存知であろうか…!!。 それは次の通りである、すなわち、我々の意識と言うものは宇宙の中心から降ろされた[タマ」と、地に由来する「シイ」が「タマノヲ」によって結ばれて「タマシイ」となり、それが体と言う物質と一緒になって人間の身体が出来上がっていると記されている記載であり、説明なのである。また、その「タマ」は、寿命が尽きた時には、再び宇宙に帰って行くのであるとも言っているのも甚だ面白い限りである。 更に、なお、地に由来する「シイ」とは、肉体的な欲求である「食欲」、「性欲」、また、「名誉欲」や「金銭欲」などの次元の低い欲望を司っているものであるとも言い、肉体が滅びると共に消え去ってしまうと言っている。 そのあたりをシッカリ学んでゆくと、現代文明知は古代知に比べると、格好はいいかも知れないが、質には甚だ見劣りするものであることがことが良く判るような気がするのであるが…!!!??。 また、「ホツマツタエ」は次のようにも言っている、「アモトは宇宙の中心を指すものである。アモトは透き通ったは柱であり、九重に重なって回転しているのである。その回転の響き(波動)は国玉(地球)にも及び、人の呼吸や水面のさざ波にも影響している」と。 要するに、九重の柱から発せられる波動が「九」の波動であり、それがすなわち、「宇宙の定数波」でもあると言っているのである。 また、それは同時に。我々の呼吸の周期でもあり、海の打ち寄せる波の周期(一分間に18)でもあるとも言っている事実である。のである。 なぜならば、それを一桁化すると9になり、0になるからである。 よく考えて見ると、我々の呼吸は安静時に1分間に12~18回の呼吸をするのが普通の呼吸とされているが、昔の人はもっと少なく、8~10であった。 また、我々の血圧は低くて72であり、それより低い場合には「異常値」となる。高い場合には180くらいで、それより高ければ異常値とされる。また、脈拍は生まれた時が90であり、年と共に上がって行くのである。現在医学の正常血糖値は120から130と言われ、古代人より少々低く算定されているような気がするが、それは恐らく、日頃の生活上の安定性がもたらした結果なのであろう。 昔から知られている漢方によれば、成人では上の血圧が135くらい.下の血圧は72くらいがいいようである。 計算して見るがいい、すべては9の倍数であり、完全に自然と同調的なリズムを持っているものであることが判るであろう。 また人間には九つの穴があり、そのすべては生きていて活動し、自然と合まみれながら同調状態にあると言われているようであるが、まだ誰も突き止めた者はいない。 確か、それは自然と同調しながら、人体の霊的なエネルギ-を出したり、吸ったりしている我々のチャクラと言う神妙な神経器官も9種類あるのであるが、今の所、人々は7種類の存在しか解らないようである。要するに、これら、7つ以外の0と9のチャクラの存在は余りにも神妙過ぎて感応できないと言うことなのであろう。また、これらの9ヶのチャクラのに同調する周波数こそが、あのセルフジオ周波数と思われるのであるが、今の所、残念ながら検証は出来ず、従って結論は出てはいない。 そのあたりのことは「古神道の神髄である「カムナガラの道」にハッキリと記されているのであるが、私としては、あまり、興味が無く、調べるまでには至ってはいない、恐らくは、割合、簡単に答えは見つかるはずと思うのであるが…!!。 確か「カムナガラの道」の中には九つの数列が流れ、お互いに合い呼応しながら神妙な形で流れていると言う事実がある。それらはお互いに合一したり、お互いに、分離状態にあっても、すべては常に、これら、九つの数列が流れのいずれかに姿を変えて、変化なく存在しているのである。不思議なことではあるが……!!!!!。 今度、時間がある時に、そのあたりシッカリ調べてみて、改めてあなた方にご報告したいと思う。 更に、一つだけは言って置く、「カムナガラの道」の中はセルフジオ周波数で満たされ、それこそセルフジオ周波数だらけである言ってもいいものであることを。要するに、すべては「セルフジオ周波数」で作られ、「セルフジオ周波数」で回転しているということである。 誰か、その仔細を検証して見たいと思う御仁が現れれば、私も力を貸そうではないか、恐らく、直感と洞察力がある御仁なら、1~2時間もあればことは済むと思うのであるが、そのような酔狂のある方は恐らくはいないであろう。考えて見ると、これも古神道のジャンルの一つなのであり、日本人の我々が解からない限り、無理なものなのである。 あぁ、、あぁ―、少々、筋がずれ始めたようなので、さあ、さあ、本筋に引き返そう。 これらの人体の持つ不思議な「九」の波動を改めて検証して見るがいい、これら二桁の数を一桁化すればすべては9になり、0になるはずである。 まさに、自然の妙と言えるものであり、誰かが設計したものとしか考えられないものであるが、あなた方はどのように思っているのであろうか…!!。 あなた方は知っているであろうか、9は古来から珍重されている類まれな偉大なる数であることを…!!。それが、すなわち、中国では9は皇帝数と呼ばれ、日本では古来から魔除けの数、あるいは縁起のいい数として知られていたことである。しかし、現在の日本人は九は苦に通じるとか言って、避けているようであるが、それはまさに、程度の落ちた慮外な発想と言うものであり、ただただ、古代の人々に笑われるだけであろう。また、同様に、四は「死」に通じるとか言って商売人には禁数とされているようであるが、まことに馬鹿馬鹿しいことである。 また、現代数学者達には9は不思議な数として知られていて、現在でも、海外のュ-チュ-ブ等では盛んにもてはやされているようである。是非、一見して、論議に参加し,真実の花を咲かせて見て貰いたい。まだまだ、追及することは山ほどあり、今は未だ、一歩踏み出した状態にあるのである。 しかし、断っておくが、現代人は「数の本質」と言うものは一切何も知らないのであり、ただ、ピ-チク、パ-チクと話に花を咲かせてウロウロしているだけであり、誰も真実に迫るような事実を語っている者はいない。真実はすべて「神の数学」が握っているのであり、偉大なる「数」の語りはすべて私が預かり、私だけが知っているだけである。 しかし、そんなことは誰も知らない、知ろうともしない。 しかし、考えてみると、現代知はそうではない、「見えないもの」や「意識」などは一切眼中には無く、物質オンリ-の世界のみを探索中なのである。かれらの学問は「見えないもの」、すなわち、「神」や「霊」などは存在しないものとして、一切の研究は禁止されている状態である。 何故なら、そのようなものを学問の中に引くずり込めば研究範囲が膨大化して手に負えなくなることが目に見えているからであり、始末に負えなくなることが解っているからである。それはまさに、中世時代の遺物知を引き継いでいるものであり、更なる文明の発展にはあってはならないものであるからである。 しかるに、誰かが口火を切らない限り、何時まで経っても現代人は路頭に迷い、無駄な時間を過ごすだけなのである。 たしか、デカルトが「神の棚上げ」を試みて、それ以降は「神」とか「霊」等の目には見えないものに手を付けた場合には村八分の処分をされて来ているのである。それ以来、それらの研究は下火になったのであり、僅か400年前のことである。それ以降、一つの伝統として守られているのであり、今でもそれは続いているのである。その結果、自然は不可解であり、難しいものであるとかの泣き言となって、とどのつまりは、複雑、混沌の言葉で終わっているのである。すると、今後の科学知の発展は最早望めない、ただ、だらだらと片輪の知を引きづって無明な世界を手探りで進むだけである。 とにかく、それを打破しない限り、一歩も前には進めない現状なのである。現実を考えて見るがいい、今までの現代物理学は旧態なものとして、今では窓際に置かれ、変わって、量子物理学が腕を振るっているのが今の科学界である。 皆さんは知らないであろうが、量子物理の本名は波動物理学である。 要するに、波動の世界を明らかにして、自然の本体、本性と言うものを改めて見極め無ければならないのである。 ただし、困ったことに、その世界は現代数学、すなわち、10進法では自然の象は解けないと言う難題にぶつかって、その本質等はまったくわからない状態なのである。 それ故に、科学者たちは10進法に代わる新しい数学手法の出現を今か今かと待ちわびているのが、現在の待ち状態の有様なのである。 現在、科学は停滞期を迎えているが、それは過度期にある状態であると言ってもいいものであり、新しい科学時代の黎明期を迎えようとしている前触れとしての小休止中なのである。 さて、新しい時代が幕を開けるのは何時になるであろうか…!!!。30年後か、50年後か、それとも100年後になるのか、それともこのまま終焉を迎えてしまうのか、今の所、誰にも判らない…!!!。 さあ、今回からは古神道の神髄である「カムナガラの道」について、少々、あなた方と話し合って、あなた方の「数」に対する知識の程度を確かめて見ることにしたい。思うに、あなた方、有識者の「数」の知識は幼稚園児と同程度であると思われるのであるが、如何であろうか…!!??。 私はある時知ったのである、「カムナガラの道」の解き方は「宇宙人の数学」、すなわち、「九進法」を用いることにより、簡単に解けることを…。 要するに、「カムナガラの道」の最初の言葉と墜落したUFOに残されていた「宇宙人の数学」はまったく同じものであったことが偶然にも判ったからである。そのUFOに残されていた「宇宙人の数学」とは、あの「システム オブ ナインズ」とNASA(アメリカ宇宙局)が呼んでいたものである。 もっとハッキリ言えば、「宇宙人の数学」にはマイナスと言う数観念が無いのである。ようするに、負数は無く、すべては正数だけなのである。要するに、負数(ー)が現れた場合には、それを正数(+)に変えて計算すればいいと言うことであり、自然に沿った数の並びになるものである。 そのあたりのことは、すべてあの宇宙人の数学である「システム オブ ナインズ」が教えてくれているのであり、今まで、私も何回も言っていることであるが…!!。誰も見返ることもしない……!!!!。 ただ、あなた方は「そんなことはあるはずが無い」とばかり、信じようとは一切しないので知らないだけであり、知ることもままならないのである。 それ故に、何時までも進歩の波に乗ることも出来ず、ただ、右往左往しているだけなのである。ほんの少し、ほんの少しだけ、耳を傾ければすべては秒速で完了し、新たな知の大海原を見い出すことが出来るのであるが……!!!。 また、そこには虚数観念も無く、すべては実数によるものである。要するに、現代数学が苦し紛れに編み出した「マイナス観念」や「虚数、複素数」等の自然には無い「数学手法」であり、自然にはまったく通じない「幻のあだ花」的な手法と言うものなのである。それは要するに、自然の解明にはまったく役に立たない、単なる思い込みと言うあだ花とも言うべきものなのである。。 恐らく、これを目にした学者達は怒り心頭に達することであり、抗議の言葉が止まむことは無いであろう。 そのような方々は是非、拙宅に参るがいい、是非とも、「マイナス数」を用いることにより、自然は混乱し、ますます真実から遠ざかって行くことを「数」に語らせ、その上でいろいろと検証して確かめて見ようではないか…!!!。真実の道を掴むためには千里の道でも決して遠くは無い。 「マイナス数」を用いずに、正数を用いることにより自然は正常な展開を行い、真実な答えを見せてくれるのである。要するに、自然の正体の真実を垣間見せ、過ちを諭してくれるのである。論より証拠、現代数学では0より大きい数を正数と呼び、自然数と呼んでいることからもお判りになるであろう。自然数にはマイナス数と言うものはは無いのであり、人間だけがマイナス数の概念を抱いて、己を苦しめているだけなのである。 また、虚数は嘘の数、あり得ない数を虚数と呼んでいるのであり、英語では"imaginary number"、すなわち、実際にはあり得ない「想像上の数」 と呼んでいることを知ってもらいたい。要するに、これらの数は人間が作り出した偽りの概念であり、自然にはまったく存在してはいないものなのである。 大分、前置きが長くなってしまったが、諸氏の誰も知らない、誰も信じようとはしなかった「宇宙人の数学」の真実と言うものを見せてあげようではないか。 それは「神の数学」では「神算法」または「禊ぎ算」と呼ばれている自然の算法であり、マイナス数と言うものはまったく必要とはしないものである。要するに、すべてはプラスの数、すなわち正数のみで計算を行うと言う算法である。その算法により、自然は本来の姿をジックリ見せてくれるのであり、すべてはスム-スな形で答えを出してくれることになるものなのである。 それは今までの数学者達にとっては思いもよらないものであり、正しく、その上、素晴らしくて矛盾の無い自然の計算法と言うものを見せてくれるものなのである。 恐らくは、そのようなことを言う私には世界中の学者達から非難がごうごう集まり、初めてこの文を見た者達は私を悪しざまに罵り、気狂い呼ばわりするであろう。しかし、真実はあくまで真実であり、それは「数の論理」がその中に証明してくれるはずである。 また、素直に検証して、自然の答を得た小数の者は喜びに震え、小躍りして「素晴らしいもの」と褒め称えることであろう…!!。 さてさて、これからが私の本当の正念場であり、腕が問われるところなのであるが、よく考えて見ると、余りにも年を取りすぎ、果たして諸氏に十分に理解が出来るような丁寧な説明が可能なのか、どうか、それが頭の痛いところなのである。 まあ、なるべく、丁寧に、かつ安易な言葉で説明しなければならないのであるが、それもまた、頭の痛いところでもある。 なんせ、すべては史上初めてのものを、綺羅星のように並んでいる数学者たちの頭越しに説明しなければならないのである。 恐らく、私は全世界では何十万人と言う数学者達の反感と憎しみを受けながら、モノを申そうとしているのである。 しかしである、何時までも頭の中に宿しておくのも、これまた、本意ではなく、「神」の好意を裏切ることにもなりかねないものでもある…。 今までは、それが恐ろしくて、なるべく隠すようにして数十年間、学んで来たのであり、出来るだけ人にはすべてを告げることは憚ってきたのである。 ただ、希望と勇気を与えてくれるのはあなた方、「神の数学」を学ぼうと言う方々の応援の声が大きな慰めとなって来たのである。 先日も甚だ驚いたことが有る、突然、大分県のある御仁からメ-ルを戴き、頑張って欲しい、私は「神の数学」のホ-ム・ペ-ジの初稿からのものをプリントして大切に持っていると言われて、甚だ赤面の至りとなってしまった次第である。 なぜならば、余りの反応の低さに辟易して、本気で相対しょうと言う気分が失われ、少々ペシミスチックな気持ちになっていたからである。 今は大丈夫、そのメ-ルにより、頑張ろうと言うエネルギ-が湧いて来て、大変、気分も好調の波に乗って来ているので…!!。 この「数」の問題に関しては今まで誰も口にした者はいなく、考えにも浮かばなかったものである。要するに、その詳細、いや、その片編さえも語っている書籍の類等は皆無であろう。 ただ、あるとすれば、アメリカで墜落したUFOの中から発見された「宇宙人の数学」、すなわち、「システム オブ ナインズ」と私が「神」から与えられた「神の数学」だけである。 また、「神」から与えられた経過というのも甚だ信じられないものであり、私自身でさえもあり得ない話しであると思って、ただ、呆気にとられているものである。その次第を、時々人に話して笑われているような有様でもある。折があればその話も披露し、あなた方の笑いを誘ってみたい。すべては本当にあった話であり、私の本当の面白い体験記なのである。ハ-ハ-ハ-…。 『神の数学』〘2〙 不思議な不思議な「数」の物語 令和編「その3」 令和2年4月上載 恐らくは、「神の数学」にとっては今回からが最大の試練であり、まさに天王山そのものであろう。 なんせ、全人類80億人を敵に回しての挑戦であり、しかも歴史を通してもあり得ないものを口にしょうとしているのである。まあ、言って見れば80億対1の呆れた決戦であり、漫画のようなものであると言ってもいいものであろう。果たして、どちらに軍配は上がるのであろうか。まあ、それは100年もたてば、ハッキリすることであろう。 これらすべては「神」から与えられたものであり、すべては誰も知らない「天与の叡智」とも言うべきものであるが、誰も振り向こうとはしない、ただ、冷ややかに通り過ぎるだけである。そのたびに、私の心は情けなくて小さくなるだけであり、身の置き所がだんだんになくなるだけである。 そう言っても、この「神の数学」は別に難しいものでは無く、至極簡単、明瞭なものである。ただ、あなた方は今まで学んで来た過去の知が災いしてスム-スに受け入れようとはしないのであり、身に付けた過去の知の栄光が忘れられずに身を震わせながら反発しているだけなのである。 しかし、言って置くが、あなた方の学んでいる現代数学は片輪の知であり、円滑な内容等は一切無いことを知るべきである。何故ならば、現代数学は物質、すなわち、「見える世界」に関してのものに対する計算手法であり、「見えない世界」に対しては一切、効力は無い、また、拘束力等などはまったくないものだからである。そのあたりのことをあの「ひふみ神示」も言っているではないか…、「片輪車でトンテントンテン、骨折損の草臥(くたびれ)儲けばかり、いつまでしてゐるのぞ」と…。あなた方の知は既に「ヒフミ神示」の天明さんにより70年前に否定されているのである、お判りであろうか…!!!。。 考えて見るがいい、あなた方は知らないだけであり、「見えない世界」は「見る世界」の数十倍、あるいは数百倍の広大な領域を持つ世界なのである。 言葉を変えれば、「見える世界」は「見えない世界」のほんの1部分でしかないものであり、僅かな領域を占めているものなのである。 その1部分だけに通じる計算手法を持って、全体を牛耳ろうとしているのが、現代数学であり、現代文明なのである。 要するに、甚だ、無理無体なことをして満足しているものが現代西洋文明知なのである。 「見えない世界」の存在を知らない我々は、現代数学手法を用いてすべてを紐解こうとしているのであり、それはまさに、向こう見ずな行為と言うものである。 その結果、解けない、解らないと地団駄踏みながらも懸命に頑張っているのである。その挙句には、虚数、無理数等のあり得ない手法を繰り出して、己の心の満足を計ろうとしてもがいているのである。 本来ならば、出て来たマイナスの数をプラスの数に転換しながら、「陰」、陽」と言う相対的な計算結末を確定してから、その答えを出すべきなのであるが、それを知らないので、片方だけの絶対性を信じ、その分野のみに通じる計算手法を自らの手で編み出している、それが現代数学なのである。 本来の自然宇宙の計算法には、足し算と、引き算、それに比だけで済むものであり、マイナス数と言う概念などは無いものである。 これは私が言ったのではなく、現代の宇宙物理学者であるイギリスの ロジャ-・ペンロ-ズが言っている言葉である。 それとまったく同じ手法を持っているものが、「神の数学」の中の「神算法」、または「禊ぎ算」と呼ばれている自然数算法であり、現代人はまったく知らない「自然の演算手法」と言うものなのである。要するに、プラスとかマイナスの本質性とは、その進行性の違いを指すものである。すなわち、数の世界ではプラスは右回り(時計廻り)の方向であり、マイナスはその反対、左回りの方向を指すものである。それは、すなわち、この世(物質世界)ではすべては右回りが本質であり、「あの世(意識世界)」ではすべては、その反対の左回りが本質運動なのである。それが循環世界の決まりであり、それが合一することにより、0が生み出され、それが永遠を紡ぐ由縁となっているのである。それ故に、、自然運動は常に無限性と永遠性を誇って止まないのである。 恐らくは、「数」の動きと、その意味合いが解らなければ自然の本質は永遠に閉ざされた謎として残されて行くだけであり、同時に、人間知の発展も限度を迎え、徐々に没落し、ただ、終焉を迎えるだけであろう。それはまさに、「日本神道」の歩みを思い出させるような没落過程を経ながらである。 その前に一つ言って置きたい、日本神道においては「禊ぎ」とか「禊ぎ祓い」と言う儀式があるが、これはまがいものであり、本来のあるべき意味からはまったくかけ離れているものである。ようするに、神道においては「禊ぎ」とは単に身を洗い清めることとしているが、そんな簡単な仕草ですべてを済まして、「神」に会いまみれるのは甚だおこがましい限りであり、「神」をぼうどくするものでもあろう。本来必要なのは「体」の清めなどではなく、「心」の洗濯であり、心の垢を洗い流し、真心、すなわち、まん丸な心、欠けの無い心に戻ることなのである。 要するに、罪や穢 (けが) れのある者の身を、水やお湯でいくら綺麗にしても、何の効果も無いのは当然なことである。今流の言えば、罪を犯しても、水と石鹸で綺麗に体を洗えば、大手を振って、世間に顔を向けることが出来ると言うことであり、子供が考えても成り立たない屁理屈そのものである。 肝心なのは「心」であり、その者の今まで犯して来た「過ち」を、如何にして清算し、汚れた心を元の綺麗な心、清らかな状態に戻すことが出来るかと言うことである。 それを単なる「水」や「清流」で体を洗いうだけで済まそうと言うのは、甚だ奇怪であり、とても承認などはできないものである。そんな道理は子供でも判ろうと言うものである。 それ故に、我々が「この世」で罪を犯し、心に穢れが生じた場合には、すぐさま逆な行為を行うことにより、心の穢れはだんだん消え去って行くのである。 すなわち、穢れの上に清らかな善行で上塗りすることによりすべてを消し去ることが大切であり、ケガレとはその対極にあって不浄な行為なのである。 それがすなわち、悪を犯した場合には、すぐさま、善行を施して心の汚れを少しづつ、消して行くことが大切と言われていることである。例えば、小さな善行を何度も繰り返すことにより、大きく穢れた行為も少しづつ、消えてしまうことになるのである。 それが自然流であり、「神」の思し召しと言うものである。 とにかく、それが肝心なもの、非常に大切なことなのであり、決して忘れてはならないものなのである。 そのことを忘れて、「あの世」に罷るので閻魔大王により、浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)で生前の善悪の所業のすべてが映し出され、悪行の一切がばれてしまうのであり、すべては一切合切判ってしまい、改めて「あの世」で罪を償うことになるのである。 要するに、生きている時の心の借りは、死んでも消えず、あの世でも責め立てられると言うのである。 ハ-ハ-ハ-、何と言う馬鹿馬鹿しい、愚かなことなのであろうか…と思うであろうが。しかし、これが本来の宇宙自然の掟であり、定めと言うものなのである。 よく考えて見るがいい、本来、心に罪や穢れを持っている者がどうして水を被るだけで、贖罪(しょくざい)が可能になるのであろうか…、、精神的に歪んで、心がえびつに変形したものが、何故に元の正真円に戻るのであろうか、…、これこそまさに欺瞞であり、人々をたぶらかす行為そのものと言えよう。 そのあたりだけを考えれば、西洋宗教の「懺悔」の方がよほど的を射てはいるのであり、考えても判ることでもあろう。考えてみるがいい…!!。 要するに、日本神道は全体にわたって偽善がまかり通っているのであり、古神道の伝えていた神意からは完全にかけ離れてしまっているのである。 それや、これやで今の日本神道の権威は今や完全に地に落ちてしまい、まさに風前の灯のような状態、それが現代の日本神道の姿なのである。 このままでは後、何十年持つことやら…!!!!。 そのあたりのこと、すなわち、「数」の教える自然の真実と言うものををシッカリ知りたいのなら、是非とも、この「神算法」の中の「禊ぎ算」を学んでもらいたい。それにより、あなたは「自然の数の算法」の真実を知り、本当の「自然世界」の大律と言うものの存在に目覚めることになるであろう。 恐らくは、世間からはキチガイ扱いにされ、無視されて終わることになるかも知れない、でもいいではないか…、自分で何回も検証し、すべては真実であることが判明すれば心は十分に満足するのであり、常に快活の状態で一生を過ごすことが出来るのと言うものであるから…。 「現在の知」の片輪な姿を斜め後ろに見て、前にある素晴らしい「自然の知」を姿を追いかけて、円満に結び上げて学び取る、何と言う果報者であろう…!!。 心の充実が人生を豊かにし、健康で快適な一生を送る最大のキイ・ポイントと言うものであり、類ない喜びをもたらしてくれるものなのである。 そのような訳で、これから本来の「自然の持つ計算法」、「素晴らしい神慮の計算法」と言うものをこれから、披露することになるのであるが、心のご用意は宜しいであろうか…。 まあ、これらの「神算法」の中の「禊ぎ算」については、既に何回か披露申し上げているのであるが、一向に反応がなかったので、私もそのままにして、ほおって置いていたのであるが、今回は果たして、どうであろうか。 今回のテ-マ-は「10進法」の不完全性をえぐり出し、自然算法、すなわち、「神の数学」の確かさを諸氏に説明し、納得してもらうことである。 これはまさに現代+文明始まって以来の伝統を持つ現代知の基盤を根本から揺るがすような大仕事であり、恐らくは全世界からの轟々たる非難を受け、軽侮の声が満ち溢れることになるかも知れない。それは重々承知はしている、また覚悟も出来ていることでもある 最早、動じない…!!。 よくよく、考えて見ると、過去数千年間、数計算の仕組みに対して正面きって疑論をぶっつけたり、あるいは反証を掲げた者は誰一人としていない。 確かに、「現代数学」における数の概念はそれほど強固で揺るぎないものと思われて来たものであり、それ故に、今になって「現代数学」は真実を語るものではないなどと否定すれば、恐らくは、身の程知らずと罵倒され、誰にも相手にされ無いことは火を見るより明らかである。 要するに、この計算法は人間の便宜のための一時的な手法であって、何も自然界に基く尺度計算法ではないものであない。 ハッキリ言えば、人間は己の便宜上のために勝手につくり上げたものであり、何ら自然の法則に基いたもの、あるいは自然則に即した尺度法ではないと言うことである。 まあ、これについては誰も同じような見方であり、反対を申し述べるような御仁もいないであろう。 さあ、そこで一つ考えてみよう、この人間により考案された計算法と言うものは果たして自然の持つ計算法と合致し、かつ自然の持つ摂理をうまく説明してくれるものなのであろうか…??。
要するに、これは人間史上の大問題であり、自然を知るためには避けては通れない問題と言うものである。 しかし、いくら調べてもそのような形跡は無い、恐らくは誰もそこまで考えが及ぶ者はいなかったと言うことであろう。 しかし、今まで誰一人として、それに言及する者はいない、考えることもしなかったのである。 要するに、これが今までの100年の日本文明の普遍的な姿であり、その偽らぬ文明知の内容と言っても差しつかいないものであろう。 ところが、どう言う訳か、この西暦2000年あたりを境にして、事態は一変する方向に動き出して来ているように思われるのである。 今まで、日本は世界に追い付け、世界に後れを取るなと言う言葉をスロ-ガンにしゃにむに頑張って来たのであるが、ここに来てホット一息ついたら、何のこと、いつの間にか事態は一変して世界が日本を頼りにしながら懸命に後をついて来ている状態に変わっているのである。 何となく、どことなくそのように感じるのであるが、それは私一人だけなのであろうか…!?。 昔から、山や野原で道に迷った時には、原点に戻って改めて出直すことが肝心と言われている。 もし、その可能性を求めるならば、その場を日本に求めるべきである。なぜなら、そこには夥しい超古代文書の群が存在し、それらは現代常識ではとても御すことが出来ないものばかりだからである。 それらのすべては、ただ、ただ、無残に打ち捨てられたままであり、御用立てする者もいないのである。 今まで、西洋知の持ち主達は、これらの古代文献を荒唐無稽な作り話であるとか、意味のない愚な物語であるとか埒のあかないことを言ってただただ馬鹿にするだけであり、否定あるいは無視することで世間体をつくろうとするだけで、決して近寄ろうとはしなかったのである。まことに、愚かなことである。 見るがよい、現在は科学、哲学などの人間知はもとより、政治、思想、あるいは経済等の人間知に由来するもの全てが完全に閉塞状態に陥って入るではないか…、まさに混乱の真最中と言ってもいい有様なのである…。 いったい、この状態は何時まで続くことやら…!!??。 何故なら、あれほど強固で絶対と思われていた現代物理学でさえ、量子力学の出現により、今では古典物理と名を変え窓際に置かれている状態である。そこから慮れば「現代数学」も何時までも安閑としてはいられないはずである。でも、今はまだ現代知の優勢度に押され告発する者などは誰ももいない。 確かに、「現代数学」における数の概念はそれほど強固で揺るぎないものと思われて来たものであり、それ故に、今になって「現代数学」は真実を語るものではないなどと否定すれば、恐らくは、身の程知らずと罵倒され、誰にも相手にされ無いことは火を見るより明らかである。 しかし、私は敢えてやらなければならない、何故なら、さかしいようであるが、人類の未来のために、人々の心をユ-トピァに導くためのここ一番の切り札を私は持っているからである…!!。これは大義名分の御旗であり、「神の数学」の真髄のほとばしりの一切の仔細であり、永遠の仔細と言うものである。 その意味で、今回からは人間の作った「10進法」の誤りを徹底的に追及して見たいと思う。せめて直感的な確かな目を持った方々にでも巡り合うことが出来ればまことに幸甚であり、私の心も高なって、希望を持ちながら容易にそれらを楽々と解き放つことが出来るであろうし、また、心も休まるはずである。 しかし、逆に無関心と白眼視が目につけば心は私の心は萎え、しどろもどろになって手を休めてしまい、講義も休むことにもなるであろう。要は「現代数学」と「自然の象」の間には何らかの関連と言うものが、一切が見られないこと、それが一番の問題なのである。 要するに、今回の「神の数学」は今までのように数の計算を経て答を出して、その検証に走るものではない。ただ、自然数の計算を経て答を出し、それを確かな目と純な心で眺めるだけでいいのであり、その姿を追い、見つめればいいだけなのである。 ここで最も必要なのは、数学的な知ではなく、緻密な目と真実に対する審美眼、そして素直な心と冴えたる直感的な能力なのである。 要するに、そのためには、自然の中に存在する秩序や調和を見通すだけの大胆で繊細な目と、それを直感的に感じられるかどうかと言うことに尽きるからである。また、それを解き放った場合に、大いなる感動,や、満足感、すなわち、心の同調性と言うものが伴うことになるのである。 ハッキリ言えば、、人間の知などの曖昧なものはいらない、本来、必要なのは自然一般の真実を見通すための素直な目であり、直な心があればいいのである。それと共に感動が伴えば的を射たものと言ってもいいであろう。 さてさて、今月も言葉による説明だけで、肝心な「数の話し」」には至らずに過ごしてしまっいた、大いに悔いは残る。残念至極である…!!!。 来月こそは肝心の「神算法」について最初から申し上げるつもりではいる。 あなた方に単なる与太話で済ませては、甚だ申し訳ないと思うからである。 是非、心気一転、次回こそ驚くべき「数の仕組み」を学んでいただくので、粗相の無いように準備一端をしっかりと整えておくつもりである。 では、快く、次の月を待っていてもらいたい、決して、落胆などはさせないつもりであるが…!!。
不思議な不思議な「数」の物語 令和編「その4」 令和2年8月上載 最近、日本人は英語等の外国語の覚え方が中々出来ないとトツクニ(外国)の痴れ者達に笑われているが、それは当たり前である。何故ならば、日本語こそ人類最初の言葉であり、世界中で最も合理的、合法的な言葉と言えるものだからであるから…!!。 その証拠が世界には2000種以上の言語が存在するが、日本語と同じル—ツを持つような言語は皆無なのである。 強いて探せと言うならば、紀元前3500年前に東ヨ-ロッパに現れたシュメ-ル文明であり、メソポタミア文明の初めに繁栄したのが、このシュメール文明である。彼等は紀元前2000年頃、突然姿を消してしまったとも言われている民族であり、歴史上では彼等、シュメ-ル人達の一部は日本に渡ったとも言われていることを知ってもらいたい。その証拠となるものが、あ地中海に花開いたミケ-ネ文明であり、その遺跡から発見されたあの有名な古代円盤の文字はすべて日本語で読み解かれていると言う驚くべき事実である。
その証拠に、西洋の若者たちは、今まで難しいと言われていた日本語を割合簡単に自分一人で覚えて、日本に来て日本人相手に上手な発音で日本語を話しているではないか…。 笑ってしまうことに、彼等は漫画や日本のアニメ映画などで日本語を覚えて来たと言っているのであり、一人で学習したと言っているのである。 それに比べれば、日本の若者は、殆どが、中、高、大学で6年~10年間、何時もみっちりと英語の教育を受け、試験、試験で練られて来て頑張ってきているはずである。 いくら考えてもどこかが変であり、大きな矛盾がそこにはあると感じているのであるが、それは私だけなのであろうか…!!!!!。 いや、どう考えてもおかしい話であり、私には納得できない話である…??????。 そもそも「神算法」とはアメリカの砂漠地帯に墜落したUFOの中にあったもので、あの宇宙人の数学式である「システム オブ ナインズ」とまったく同じものであり、それはまた、古神道のし真髄である「カムナガラの道」の最初のくだりでもあるのである。それは、あの有名な古神道の奥儀祝詞の「ヒフミ天地の数歌」そのものであり、まったく同じものなのである。何と、この21世紀に来て、宇宙自然の理(ことわり)と太古の古神道の道が完全な一致を見せていると言うのである。 まさに驚木、桃ノ木である。 要するに、それは「ヒフミ天地の数歌」は天地の理を「数と言う神の言葉」で表しているものであり、自然の真実の理とはすべて、この「カムナガラの道」の中にある数列が関係しているものと言っているのである。 改めて、言い直せば、天地自然の理は必ず因子として「カムナガラの道」の中の数列と関係しているものである。それ故に、あなた方の言う「自然の理」が真実か、それとも、まがいものかとのの一つの判定基準になると言うことである。 要するに、これが私の言う「ネイチャ-スタンダ-ド」、すなわち「自然基準」と言うものなのである。 試みに、現代数学の色々な数式、あるいは計算式を見て見るがよい、間違ってもこれら「カムナガラの道」の数列が現れることはない。 それはすなわち、そこ、「現代数学」の用いている計算式と言うものの中には自然の真実を語っているものは何も無いと言うことになるのである。 さあ、さて、この新たな数の計算式を世に出すことにより、地球上のすべての学者達を敵に回してしまったと言うことになるのであり、完全に孤立無縁の危機の状態になってしまった状態になったと言うことである。 これで失地を挽回するにはあなた方の前に、本当のあるべき自然の計算法の存在を示し、あなた方の賛同を得なければならないと言うことである。 でも、よく考えて見ると、余り悲観するようなことではない、大威張りで、私の本論を示せばいいのであり、簡単な話しである。 ただし、最初はあなた方も戸惑うことではあろう、なんせ、これは人類の歴史始まって以来の大問題である、場合によっては人類の文明さえも変えてしまうような「数の真実」の出現であり、人知の理念さえもがらっっと変わってしまうものである。そのあたりを考えながら、ジックリと検証してもらいたい。 しかし、あなた方は「真実の数理」というものをまったく知らないので、それを少しずつ伝えながら説明することになるので、少々時間がかかることは否めない。 まずは、「数の持つ道理」と言うものから始めなければならないので、それが、少々厄介なのである。 まずは「数の持つ道理」と言うものから解いて戴こうではないか…!?。まずは小学生程度の一桁の足し算と引き算問題から始めることにしょう。 「カムナガラの道」、すなわち、「ヒフミ九九算」の中の数多の摩訶不思議な数の出現しているのであるが、、あなたはこれを何と見るのか…!!?。 〖『数』の現われの不思議、不可思議〗、 しかしである、よく見ると、これらすべてには確たる調和と秩序があり、到底、無視などは出来ないものである。更によく調べると、何と、それは意味のある何事かを密かに囁いているのであり、何事かを我々に教えようとしていることがだんだんに判って来るのである…!!!!。 さて、さて、これはまさに、奇妙奇天烈な数の語りのお出ましであり、その「語り上げ」なのであるが、何と、それは我々を揺るぎ無い別天地に誘い、あるべき自然の真実を解き明かすための大いなる「知の種」となるものなのである。これらの「数の語り」を基本に置くことにより、我々は新たな「自然の在り方」の真実、いや、本来のあるべき「自然の姿」を知ることになり、「新しい叡智の世界」への第一歩を踏み出すことが可能になるのである。 「神算法」と≪ ≪概略編≫その1 さて、あなた方、現代人の誰も知らない「禊ぎ算」の講義をそろそろ語り申そう。 「禊ぎ算」とは「神の数学」の「神算法」の一部であり、自然の理を知るためには絶対的に必要なものである。それを「現代数学」は知らないゆえに難渋しているのである。 そう言ってもあなた方の殆どは「カムナガラの道」を知らないはずであり、聞いたことも無いはずである。そもそも「カムナガラの道」とは、神々の持つ自然叡智を、恭しくも歌い上げている古代日本の「叡智の宝」であり、かしこくも、神道の根源とも言うべきものなのである。 しかし、その「カムナガラの道」本当の正体を知る者は誰もいない、いや、その存在を知るものさえ今では誰もいない……!! 恐らく「神々」は言うであろう…、何と言う恥知らずであり、何と言う恩知らずの呆れ果てた人々なのであろうか、それでもあなた方は日本民族のDNAを持っている子孫なのかと…!!。 遥かな昔から、あなた方日本人は家族の無事を祈って、先祖代々、神棚に奉納して、毎日懸命に礼拝し、柏手を打っていたご本尊こそが、この「カムナガラの道」であり、同時に、それは日本神道の神髄であり、その大元締めと言うものなのである。そこをシッカリわきまえることである。 ただし、今では完全に骸(むくろ)と化し、単なる白紙のお札(フダ)となって、神の名を留(とど)めているだけであり、ただ、ただ、神棚に眠っているだけの存在ではあるが…!!!。 遥か昔に、それはちゃんと筋の通った本体として立派に機能を果たし、人々の大いなる信頼を得て日本民族と共に栄えて来たものなのである。
要するに、それは宇宙自然がつくりあげた天然自然の本来の律理であり、人類発生する前から、既に存在していた天地の法則理の存在を声高らかに謳っているものである。 ただし、残念なことに、我々の祖達は、自然の災害や抗争、あるいは他民族の襲来の度の隠匿などにより、少しずつ失われ、とうとう長い間には、すべては時のはざまに失われてしまい、挙句の果て、人々の心からはすっかり忘れ去られてしまったのである。 このようにして、日本民族にとっては大切なご本尊、すなわち、精神的支柱である「日本の叡智魂」をすっかりを失われ、本来の神道の「あるべき真髄」の姿は身を隠してしまったのである。それ以降は大陸や西洋などの外国の魂に身をゆだね、半ば精神的な奴隷となって右往左往の状態が続き、今、やっと目覚めようとしているのである。いずれ今後は、日本が全面的に世界の模範となるのであり、日本主導の世の中になって、人類を守って行くのである。 それについての馬鹿ばかしい話、信じられない話を真面目に申し上げなければならない、ハッキリ言って私自身も余りの不可思議さに、今でも首をかしげているばかりである。まあ、この話は私自身の評判を落とすだけであり、決して褒められるようなものでは無い、しかし、真実はあくまでも真実なので、ここに語り申さなければならないと思い、敢えて真面目に書き記すことにしたのである。まあ、笑いたければ大笑いするがよかろう、私は一向にかまわない。しかし、真実は何処まで行っても真実であり、私は決してこの自説を曲げるつもりは無い。それはすべては真実だからである。 確か、1990年代に、私の下に起こった、あの不可解な現象と共に再びこの世に姿を現わしたのが、なんと、この「カムナガラの道」なのである。 それ以来、10年の長きにわたって、私は「カムナガラの道」に取り憑かれ、半ば奴隷のような状態になって頭に浮かんで来る全然知る由もない不可思議な「数の語り」の数々を、毎晩、8時から午前1時頃まで狂ったように大冊のノートに筆記で書き記す羽目になったのである。
それは突然に起きた、確か私が、50歳を少々過ぎた頃である、ある日の午前中、 その時、私はと言うと、完全に恐怖で体も心も麻痺し、動くことさえままならず、半分錯乱に陥った状態で、声を上げることさえも出来なかったのである。 それが何分くらいだったのか、判らない、不意に光芒は色を失い、次第、次第に消え失せて普段の状態に戻って来たのである。と同時に、不意に右横手上の壁際から黒っぽい目の粗い網状のものがスルスルと降りて来て、その上には一枚の新聞紙が乗っているのに気がついたのである。 その距離は約、2メトル50センチくらいであり、半ば暗い場所である、当然、書いてある文字は読めるはずはない。しかし、その時は不思議にも新聞面の細かい文字までハッキリと読むことが出来たのである。確かに、ある程度暗かったのであるが、それでもハッキリ読めたのである。 それは恐らく、その新聞紙が眼前に近寄って来たのか、それとも、私の目玉がそこまで伸びて行って文字を捕らえたかのどちらかである。そのあたりのことは、いくら考えても皆目不明であり、現在でも、説明が出来かねるものである。 はて、何であろうかと、ぐいと身を乗り出して見ると、それは数字の羅列であり、何やら、沢山の数字が光りを発している一つの「数図」がおもむろに現れて来たのである。何も知らない私は不思議な数図であると思って、見つめていると、間もなく,少しづつ薄くなり始め、スッと消えてしまったのである。 私も、その出現時にはアワをくっていたので、最初の2~3行は覚えていたが、残念ながら、すべてを覚えるまでには至らなかったのである。 が、不思議なことに、夜になって改めて机に向かうと、頭の中にその映像がハッキリと浮かび始めたので、そのすべてを完全に写し終えることが出来たのである。 しかも面白いことに、それを書き写すだけではなく、それと同時に不思議にも、色々なその数字の解き方さえも次々と頭に浮かび、面白いように解くことが出来たことも付け加えておきたい。その結果、私は、それを「宇宙次元原理表」と名付け、そこにある内容を面白半分に片っ端から紐解き始め、それを出来るだけノートに記し始めたのである。 まあ、どういう訳か、他のすべての答えも面白いように判り、すらすらと筆も進み、次々と見知らぬ数式で大判の帳面が次々と満杯になっていったのである。 そのすべては初めて見るものではあるが、しかし、懐かしさが十分い感じられるものなのである。 その上、難なく、すらすらと答えが見つかり、面白いように次々と帳面が一杯になるのである。 今になって見れば、まことに不思議な話ではあり、信じられない話である。 ≪そのことに関して、後日、友人の実藤遠氏(理学博士・大学教授)は、これらの不可思議な事件に関して、恐らくは、宇宙の全知識を詰め込んだ図書館と言われているアカシック・レコードにアクセスしたと思われると言った言葉を改めて思い出すのであるが…!!。そう思わなければ、どうしても私自身も説明がつかないのである。≫ そこで、その友人勧めでインターネットのサイトの登録し、「神の数学」と題して流し始めたのである。結果は散々たる有様であり、閲覧者も殆どいなかった。 それはそうであろう、まだ、誰も言ってはいない20年前に、素性の知れない素人が「我々の世界は9次元で作られている」、とか、「アインシタインの相対性原理は間違いである」、「宇宙次元(時空)の本質は0である」……、 などと、とんでもないことを語り出したのである、まあ、恐らくは狂人扱いであり、とても真っ向には相手には出来ないと思われたのであろう。
それがすなわち、インタ―ネツトのサイトにある「神の数学」の語りの一切であり、まったく隠すことの無い不思議極まりない「数の物語」のすべての次第なのである。 あなたが興味を持つならば、是非、調べて、一応、内容を把握してもらいたい。 そこにある絶対的な「神の秘儀」の秘密は驚くべきものであり、遥かなる古代日本民族が持っていた「数の秘密」の一切を語っているものなのである。 それは、まさに前代未聞のものであり、人類の持つ知を根本から変えてしまうようなものでもある。いわば、それらは日本民族の「知の宝」とも言うべきものであり、現代知のすべてを書き換えてしまうようなものである。 それは調べれば、調べるほど、驚くような事実を語り始めたのであり、それと共に、何と、「現代数学」の欠陥と言うものを指摘しながら、驚くべき「自然数学」の存在についてまでも朗々と語り始めているのである。 それが、すなわち、「自然界にはマイナス数と言うものはまったく存在せず、すべてはプラス数で処理しなければならないものである」であるとの言葉であり、「自然界を語るには加算、減算、それに比があればすべては済むのである」とその計算法さえもシッカリと理路整然とした形で披露しているなのである…!!!。 また、その頃、たまたま手にした物理学の本に、次のようなことが載っていたのも気を強くした一因でもあった、すなわち、有名なイギリスの宇宙物理学者であるロジャー・ペンローズは「宇宙の物理象の本質の計算には足し算、引き算、比だけが必要であり、他はまったく必要ではない」との話であり、それは、まさに、私の「神の数学」の計算法と完全に一致していることが判ったのである。 まさに、それが私の言う「神算法」であったのであり、いわば、それは宇宙人の用いているあの「システム オブ ナインズ」とまったく同じ算法でもあり、驚くべき、効能を持った自然の数学体系そのものでもあったのである。 それには、大変驚いたことは言うまでもない、その驚きを克服して平静になるまでには半年くらいかかり、そこには誰も知らない、未曾有の計算式が次々と誕生して来ているのである。 恐らくは、この自然数学による計算式を用いた計算による答え、すなわち、僅か一桁だけの加算や減算でも、あなた方には正しい答えを出すことなどは出来ないはずである。要するに、完全に我々の用いている10進法とは異なるものであり、したがって計算法も異なった計算形態をを持っているのである。また、すべては自然体であり、十分な合理性と言うものを持っているものである。 確かに、あなた方は西洋式の演算、すなわち現代数学的な計算では答えを出すことが出来るのであるが、それは宇宙自然的な自然演算法の答えとはまったく程遠いもので、本来のあるべき正しい自然の答えではないものである。 さあ、試みとして、ここに一桁の加算式と減算式をサンプルとして掲示して置くので、解いて見て欲しい。これらすべては「ヒフミ九九算表」の中にある甚だ簡単な数の計算の形であり、すべては小学生でも出来るような簡単な問題ばかりである。 でも、馬鹿にすることは禁物なことは言うまでもない。恐らく、あなた方の90%は余程頭を捻らなければこの意味を解くことは出来ず、そこにある正しい意味と言うものを掴むことなどはどうあっても出来ないと思われるのであるが…!!!。 これらは単なる、たった一桁の数の加算と減算である、言って見れば、小学1,2年程度の易しい計算の問題と言えるものであるが、権威ある数学者達でもまったく歯がたたないものであろう。 さあ、時間などはいくらかかってもいいではないか、とにかく、この易しい一桁の数式を解き明かさない限り、今後、人類は100年も、200年も現代数学の下で悩み、もがき苦しみながら、のたうち回ることになるのである。
さあ、さあ、考えて戴こう、たった一桁の自然数学式における加算と減算であるが、果たして、あなた方の手には負えるであろうか、それともまったく負えないものなのであろうか…。
ここには目を見張るばかりの「数の秩序」の真実が渦巻いて、あなた方に「真実の数の在り方」を指し示しているのであるが、「現代数学」に慣れ親しんでいるあなた方には一切が奇妙に感じ、はてな…!!と感じるだけで、ここにある真実を追求する御仁は誰もいないであろう。 もし、ここであなたの目が光り、追及に乗り出すならば、恐らくは、大きな知の収穫を得ることになり、凡人と言う名から脱出することが出来るのである。 要するに、あなたは一気に非凡な界の住人となり、人知未踏の「真実真理のハンタ-」として大いに腕を振るうことが出来るのである。 まあ、恐らくは一生に一度のチャンスであり、2度とは来ない大チャンスである。大いに悩み、大いに苦しむがよかろう、それが、あなたの巡り合わせであり、宿命と思い、思考の汗を思いっきり流して考えてもらいたい。何故ならば、それがあなたを異次元の思考世界に飛ばしてくれるキ-・ストンとなるものであるからである。恐らくは、このような簡単でありながら、難しい問題と言うものは最早、出てくることは無いであろう。 さて、考えて見ると、本来の「九九算」としては当然な「数」の流れではあるが、あなたにはこの流れがお判りになるであろうか…!!!。自然数の流れから見ても、すべては当たり前の序を示しているものものであり、疑問に思うことは何もない。すべては自然に沿った当然な数の流れであり、まさに、「神」の意志を持っている数の流れの実体が、ここには現れているのである。 恐らくは、これらの順序だった数の並びの出現から見ると、我々の知らない何らかの「神の秘儀」の存在を囁いているのであろう、心して、ジックリと考えて見て欲しい。とにかく、既存の知は傍らに置き、心を無にしてから始めることが大切である。 例えばである、「カムナガラの道」の表を覗いて見ると前半の5つの数列は左から右へと流れている、しかし、6番目から始まる後半の5つの数列は逆に右から左えと流れる逆な流れの数列が出現し、完全に断絶状態な反対の形の数の群れが現れているのであるが、その事実は誰にでも判ろうと言うものである。しかし、現実はそうではないのである。 まさに、われわれに取っては不可解極まりのない難問がここにはあるのである、はて、はて……!?。 しかしである、これらの「数」が告げていることをシッカリと自分の目で検算、検証して見ることが大切である。 何故ならば、これらの半分は反対に流れて、断絶しているのではなく、反対に流れることにより完全な連続状態を作り上げていると「数」は囁いているからである。!!!。 あなたにはその意味がお判りであろうか、まさに不可思議なことではあるが、「数」は明らかに真実を告げていることはお判りになるであろう…!!。 その証明がこの減算の答えであり、それは12345678…となる縦の流れであり、正しく順を追って流れることにより、、完全な連続体であることをハッキリと証言しているのである。 そこで考えるのである、その数の語りに隠されている本当の意味と言うものを…、一たい何だろう それは………!!!。 ジックリと考えるがいい、すべてはたった一桁の簡単な計算であり、あなた方が日ごろ馬鹿にしているような計算式なのであるが、恐らくは、あなた方の心の中にはいくらかの戸惑いと恐れが生じてはいるはずであろう、如何かな…??。 見るがいい、縦に流れるすべては整った数の流れとなって、正常な形で滔々と流れて、何かを囁いているのである…!!!。 上記の「足し算」においては、数の流れのすべては「カムナガラの道」の数列そのものが現れ、また、何と、「引き算」においては、すべては同一数の現れ(アマテラス数)となって完全な秩序を示しながら堂々と流れているのである。しかも、そこには縦の数は012345678…と秩序をもって流れる「ヒフミ天地の数」の姿が現れ、そこには一切断絶は無いことを歌っているのである。 要するに、同一数の表われとは、すなわち、「カムナガラの道」の最上段にある「00000…の群れ」と同格な数列であることを意味するものであり、また、それは「カムナガラの道」の中では最高位の数列であることを意味するものでもある。それ故に、私は最高位の名称である「アマテラス数列」と名付けて敬っているものである。よく考えて見ると、同一数の並びとは、同時にそれは「神の数列」である鏡面対称数列でもあり、その一種と考えればいいのである。るのである。 ここにあるすべての数の答えは最高の数列である「アマテラス数列」で表され、大変重要な基本的で、かつ重大な自然の仕組みを持つ最高の数列なのである。、すなわち、自然のあるべき本当の姿を描いているものとして、大切に扱ってもらいたいものである。そのあたりから見ると、「引き算」は「足し算」よりも位は上にあることがお判りになるであろう。 さて、さて、ここで、その「数」の足跡を辿ってみることにしょう、すべての自然の基本は完結循環態であり、それは単純な形で表せば、「円」であり、その仲間である「楕円」や、「四角形」等である。その円、あるいは四角形が真ん中から180度捻じれてメビュース状態になり、それと同時に、その中の流れがそのまま相対的に反転してしまったもの、それが宇宙であり、自然宇宙の姿であると、この「カムナガラの道」「は囁いているのである。同時に、その相対的に反転した世界こそが「陰の世界」、「陽の世界」、すなわち、我々の言う「あの世」と「この世」となったのであるとも「数」は言っているのである。 言い遅れたが、この引き算の場合に現れるまったく同一な数の群れに対しては、「神の数学」では数列上最高の数列として「アマテラス数列」の称号を私は与えているのであり、 要するに、数列にも確かな「格」と言うものがあり、ハッキリとした序を持って存在しているのであるが、その事実ををまったく知らないのが現代数学なのである。 『神の数学』〘2〙 不思議な不思議な「数」の物語 令和編「その5」 令和2年10月上載
今回も、相変わらず、古神道の神髄である「カムナガラの道」をあなたがたと共に紐解いて行くことにしよう。
∨は図の中で、右側の数(大)より左側の数(小)を引くべし、と言う意味であり、その計算記号の下にあるのが、その答えとなる数字である。
∧は図の中で、左側の数(小)より右側の数(大)を引くと言う意味であり、その計算記号の上にあるのが答えとなる数字である。 この(1)と(2)が混じり合った計算手法が、いわゆる「禊ぎ算」であり、物事の本質をシッカリ守って明らかにしてくれるものである。 しかし、まことに残念なことであるが、今の今まで、これらの手法は、「現代数学」にとっては完全に無縁なものであり、あってはならないものであったのである。それが一つの手落ちであり、人間知を遅らせてきたものなのである。
『神の数学』〘2〙 不思議な不思議な「数」の物語 令和編その[6] 令和2年12月上載
あなた方は、まさかそんなことはあるはずが無いと、大声で叫ぶことであろう。 しかし、現実はあくまで現実なのである。 Ⅴ 要するに、今までの計算法に間違いがあるならば、人間のこれまで築いてきた我々の文明世界は、一瞬で瓦解に瀕することを意味するものである。 そうであるならば、今までの人間知と、それがもたらした科学的進歩は、一体何だったのであろう。 いや、そんなはずは無い、現に文明は極度に発達し、我々は最高の文明を享受しているではないか と反問があることであろう。 しかし、私は言いたい、では、次の「数の走り」をあなたは何と見るか、私の見間違えか、それとも計算にミスがあるのであろうか……!!??。 私は願う、完全な、私の間違いか、計算違いであることを……!!。しかし、「数」は情け容赦なく、シビャーな存在でもある。 私の意志などは完全無視で、己の道をただ、まっしぐらに進んで行くだけである。 まことに、、その姿は小憎らしいばかりである。 とにかく、我が道を行くのみで、いくら呼んでも振り返ろうともしない。最早、私の力も尽き果てた、あなた方の手を借りるしかない。 もし、あなたが「数」の導く計算手法に誤りを見い出せるのならば、是非、大声で指摘し、正しい計算による答えを出してもらいたい。 その上で、どうか、数の暴走?を止めて戴きたい、もはや、私にはその力は無く、ただ、悔し涙をこぼすだけである。 また、 願わくば、それは時の間に咲いた、あだ花であり、決して実ることの無い、無駄花であることを証明してもらいたい。 さて、さて、その問題をこれから披露するので、とくと吟味の上で、正しい答え、自然に合う答えを出してをしてもらいたい。 すべては自然的な流れの問題であり、素直に考えなければならないものである。 しかし、一つ言って置く、これは小学生が頭を悩ます問題であり、あなた方の心には余り響かないであろう。何故なら、現代西洋知によってあなたの心はすっかり、錆びついてしまっているからである。 とにかく、優しい問題ではあるが、果たして、高学識者達の目には、どのように映り、どのように納得するのであろうか……!!!!。 恐らくは、馬鹿にされ、笑われてしまうのが、おちであろう。しかし、それもやむを得ないものであろう。 要するに、信実にも時の流れがあり、流れに合わなければ、ただ、漂うだけで誰にも拾われることはないのである。 これらは「ヒフミ…掛け算」による小学生程度の易しい話しであるが、決してあなた方を愚弄するものなどではない、私は真面目に話し、真剣に問題化しているのである。 ただ、時節に合わない、少々早すぎた感もあるのである。でも、直感と言うアンテナに響いた方は、是非、習得した方がいい。 さあ、真面目に答えてもらいたい、すべては「神ごと」であり、「神との対話」なのである。からかう心なんては微塵も無いつもりである。 「神の問題」より あまりにも易しくて馬鹿馬鹿しいような「神の問題」ではあるが、果たして、脳に直感的に 響いて、真面目に計算するような「本当の人」はいるのであろうか……!!??。 ① 「計算機」(十進法)による 0123456789×0=0000000000 0123456789×1=0123456789 0123456789×2=0246913578 0123456789×3=0370370367 0123456789×4=0493827156 0123456789×5=0617283945 0123456789×6=0740740734 0123456789×7=0864197523 0123456789×8=0987654312 0123456789×9=01111111101 ② 「神算法」(九進法)による、 0123456789×0=000000000 0123456789×1=0123456789 0123456789×2=0246813579 0123456789×3=0360360369 0123456789×4=0483726159 0123456789×5=0516273849 0123456789×6=0630630639 0123456789×7=0753186429 0123456789×8=0876543219 0123456789×9=0999999999 さて、さて、この、①の計算器で行った答えの計算結果を直にあなたの手で確かめてもらいたい。間違いは無かろうか…!?。 これが、あなた方の10進法の計算と言うものであり、不合理極まりの無い答えなのである。 また、②の計算は「神の数学」独特の9進法の計算結果であり、宇宙人の数式である「システム オブ ナインズ」とまったく同じ計算法によるものである。 さて、今度は、一つ、視点を変えて、それぞれの縦の数の流れに着目してもらいたい。 すると次のように「数の流れ」は並んで、何かを囁くのであるが、果たして、その意味はあなた方に判るであろうか、私は訝しむ。さて、さて、考えて戴こう。 ③ 計算機(10進法)による①の答えの縦列を検証する。 縦の1列目 …… 0000000000 → 正常 … … 縦の2列目 …… 012346789 → 異常 … … 5が抜けている(自然な流れではない。) 縦の3列目 …… 0246913578 → 異常 … … 流れに正常な秩序無し…!!。 縦の4列目 …… 0370370367 → 異常 … … 流れに正常な秩序無し…!!。 縦の5列目 …… 0493827156 → 異常 … … 流れに正常な秩序無し…!!。 縦の6列目 …… 0517283945 → 異常 … … 流れに正常な秩序無し…!!。 縦の7列目 …… 0617283945 → 異常 … … 流れに正常な秩序無し…!!。 縦の8列目 …… 0740740734 → 異常 … … 流れに正常な秩序無し…!!。 縦の9列目 …… 0864197523 → 異常 … … 流れに正常な秩序無し…!!。 縦の10列目 …… ・01111111101 → 異常 … … 流れに正常な秩序無し…!!。 さてさて、御覧のように、この③の縦の数の流れはノーマルではなく、すべては不連続的な数の現わればかりである。数のあるべき本来の流れが揃わず、全体的にランダムな数の流れであり、乱調子な答えの出現となっているのである。 これらの数の流れの変調は、すべて10進法と言う人間の編み出した桁上がり法が原因であり、自然の流れを阻害し、乱していることは明らかなのである。その結果、自然的な流れは断ち切られて、変調しているのである。そのあたりのことは「現代数学」は何も検証してはいず、ただただ、正常と考えているだけである。 一体どうしたのであろうか…、掛けられる数も掛ける数も、間違いなく自然数である。本来ならば、そこに現れる答えは自然数の答え、すなわち、秩序と調和があるはずなのである。 何か、おかしい……!!??。 何か、変である……!!??,それとも私がおかしいのであろうか……!!??。 あなた方は、この①の答え、すなわち、「現代数学」の計算様式は正しいと思っているであろうが、しかし、それは長年の計算慣習や、思い込みのなせる業であり、実際的には、そう簡単には問屋は卸さないのである。ハッキリ言えば、自然はそう、やすやすと真実を明かしてはくれないのである。 いや、そうではない、そうではない、実際は、人間の目の付け所が最初から間違っているので、自然の真実は隠されたままであり、真実は顔を出すことは無かったと言うのが正しい答えであろう。 私の目、いや、「神の目」から見ると、「現代数学」はただ、人間の指は10本あるので、計算上甚だ便利性があるので用いていただけであり、自然的な考慮、すなわち、自然的なスタンダ―ド(自然規範)と言うものまったく無視されているものである。 要するに、考えのおもむくままに走った結果が、「現代数学」と呼ばれる我々の数学体系なのであり、自然性がまったく無視されているものである。本来は自然性の有無がシッカリ問われるべきなのであるが……!!!。 確かに、ここに至って、ジックリと考えて見ると、我々の用いている計算法は、まったく秩序が無く、調和も無く、、完全な不連続的な状態、完全に自然を無視している、甚だ無礼な振舞を持っているものである。それは、また、実際には「神」を愚弄し、冒涜しているものでもある。しかし、誰もそんなことは知らず、考えることもない、いや、それが当たり前と考えて、何ら疑問も持っこともなかったのである。 要するに、「数」の流れが正常な状態ではない、それはすなわち、不連続的な数の流れの中で、無理に答えを繕い、何とか言葉で胡麻化して成立させているものと言うことである。要するに、自然の流れと言うものを完全に無視しているのである。 この計算式は、まさしく、その10進法の決定的な誤りの場面を見せているものである。しかし、今まで、誰も気がつかなかっただけであり、気付こうともしなかったのである。まことに残念な「現代数学」の失態と言ってもいいものである。 要するに、あなた方の学んでいる現代数学は「神の心」にはそぐわない「人間知」が作り上げた不完全な数学、すなわち、自然律のまったく伴なわない似非数学(えせすうがく)であり、心のまったくない無機的な「不完全数学」とも言うべきものなのである。少々、言葉が過ぎるかも知れないが、そのあたりは愚者か老人の戯言と思ってご勘弁のほどを…!!??。 しかし、本音を言えば、それは「神の数学」を学んでいると、誰でもすぐに気がつくことなのであるが…!!??。 我々は常に自然界に身を置いて、自然の流れに沿って生きているのである。言葉を変えれば、我々は自然の掟の中で生活を営み、自然の掟の中で生命まっとうしているのである。そうすると、我々の扱う知も、当然、あるべき自然の流れに沿っていなければならないはずである。理屈としては自然的なものであり、甚だ易しいものである。しかし、ここにはそれがまったく無い。 一つ、この際、そのあたりのことを考えて見てもらいたい……!!!。 さて、それでは自然に沿ったもの、「神の心」に叶った数の計算仕組みとは、一体、どのようなものなのであるのか、それを得とお目にかけようではないか……!!!!!。 あなた方、感激のあまり目が潰れてしまうかも…。 ハー、ハー、ハー!! 。 ④ 自然算法(神算法)による②の答えの縦列を検証する。 縦の1列目 …… 0000000000 → 正常な流れ…!!! → 等差0 縦の2列目 …… 0123456789 → 正常な流れ…!!! → 等差1 縦の3列目 …… 0246813579 → 正常な流れ…!!! → 等差2 縦の4列目 …… 0360350369 → 正常な流れ…!!! → 等差3 縦の5列目 …… 0483726159 → 正常な流れ…!!! → 等差4 縦の6列目 …… 0516273849 → 正常な流れ…!!! → 等差5 縦の7列目 …… 0630630639 → 正常な流れ…!!! → 等差6 縦の8列目 …… 0753186429 → 正常な流れ…!!! → 等差7 縦の9列目 …… 0876543219 → 正常な流れ…!!! → 等差8 縦の10列目 …… 0999999999 → 正常な流れ…!!! → 等差0 さあ、よく、現れた数列を検証してもらいたい。ここには、驚くべきことに、「数」の縦と横の流れがまったく同一状態にて整然と並び、何事かを囁いているのである。まさに、不思議、不思議の連続ではないか…!!??。 それは、10進法の答えである③の答えの流れと比較検討することによりすぐに判るはずである。 要するに、これは天と地、あるいは横と縦は、すべて同値、同格であることを。この通り、「数」が証言しているものである。 それが、②と④の図はまったく同じものであり、いささかも変わるところがないことを教えてくれ、見せてくれるのである。モット、ハッキリ言えば、原図②と答えの図④は、まったく同じものと言うことは、90度回転させてもまったく同じ姿を見せていると言う事であり、何かそのあたりに「神の秘儀」が隠されているのは誰が見ても判るはずであろう。 ひょっとして、ひょっとすると、これは0=9と言う「神の秘儀」の証明になるものかも知れない、しかしである、そこには、問題があるが、それは、ある程度の「数の知識」が必要であり、それを知らない限り、検証することは出来ないのである。 さあ、上の計算表④をよく見て貰いたい。すべての横と縦の数はすべて秩序を持って流れているものである。また、斜めの対角線数列や、それに沿った斜めの数列もも見事な秩序を持っているのであるが、ただ、その検証の仕方があなた方には解らないだけなのである。 例えばである、①と④の斜めに走る数は、すべて鏡面対象数列であり、それはすべて完全な秩序性や調和性を持っているものであるが、現代数学は未だそれに気づいてはいないのである。 また、同時に、そこには限りない見事な数の配置が見られ、我々の度肝を抜いているのであり、まさに自然性の優位を誇っているものである。しかし、そんなことは誰も知らない。夢にも思うことは無いのであり、ただただ、自分達の自然性を供わない現代数学に溺れ果てているだけである。 少々、そのあたりを検証して見よう、是非、学んで習得してもらいたいものである。いや、生き方が懸かっているものであると申し上げておこう。是非、本気になって攻略して貰いたい……!!!。 「為せば成る、為さねばならぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」 ……!!!、 まさにその通りである。 頭だけで考えていても一向に埒は開かないことを知って欲しい。 まずは、「カムナガラの道」の二つの対角線数列を用いながら始めるので、その「数の現われ方」や計算の経過を見ながら、一つ、あなた方の手で検証をして貰いたい。 ④の対角線数列 0 1 4 0 7 7 0 4 1 0 (完全鏡面数列の姿) v v v v v v v v v (右の数から左の数を引く) 1 3 5 7 0 2 4 6 8 (見事なヒフミ…数の3番目の数列) ここにある②と④における、二つの対角線に沿った、すべての斜めの数列は、同じように完全鏡面数列であり、そこには同じように、ヒフミ数のいずれかが姿を現わして、揃って何かを囁いているのである。自然的な意味においては、その囁きは大変重大な意味を持ち、同時に我々の興味を引くものなのである。しかし、その事実は誰も知らず、尋ねる者もいない。それについては、いずれ、話そう…!!!。 また、もう一つの、②と④の対角線数列である、0850220580についても同じような処理をすることで、同じような結果が現れて来るのである。そのあたりのことも検証すれば自ずと判って来るはずである。 0 8 5 0 2 2 0 5 8 0 (完全鏡面数列の姿) v v v v v v v v v (右の数から左の数を引く) 8 6 4 2 0 7 5 3 1 (見事なヒフミ…数の8番目の数列の現れ) 恐らく、この数の現われは、現代人にとっては驚天動地の出来事であり、初めて見るものであろう。果たして、現代数学者達はこの数式を見て何を感じるのであろうか…!!。 要するに、この姿、形のまったく異なる、この二つの相対した対角線を処理すれば、そこには完全な同一数列の逆数が現れて、現代数学にとどめを刺すことになるのである。 逆に言えば、逆数関係にある数列とは、すなわち、「天」と「地」、「陰」と「陽」、「あの世」と「この世」、などの相対的関係にあることを表すものであり、自然の本質をさらけ出してくれるのである。 それを見い出すための一つのバロメター的な存在がこの逆数と言う数関係の姿なのである。 しかし、現代数学ではその事実は未だ、見出すことが出来ず、ただただ藻掻いている最中である。 考えて見て欲しい、この0140770410と0850220580と言うまったく異なった二つの数列には何らかの関係性があるのかと、最高の頭脳を持った数学者に尋ねても、何も関係性などは無いと言う答えが返ってくるだけであることを…!!。 しかし、実際には上記のような驚くべき関係性を持って、シッカリ君臨しているのである。何ということであろうか…!!!。 これは要するに、「現代数学」は余りにも当てにはならず、未完成、いや未熟性か、もしくは見当違いも甚だしいものと言うことであり、その本質性には疑わしい事があると言うことになるのであろう。それは、すなわち、自然性を無視して始まった結果の集大成、それが現代数学と言う西洋数学体系と言うものなのである。 また、これでは物足りないと思う方は、更に検証を進めて、上記の対角線に沿ったすべてを数列を、今度は、左の数字から右の数字を減算して見ることである。すると今度は、右の数字から左の数字を減算した場合とはまったく逆な数列が現れて、これらすべては完全な逆数関係にあることが判るはずである。それが完全鏡面数列の面白味であり、完全鏡面数列の本当の正体と言うものなのである。そこにはまだまだ面白い「現代数学」の知らない数多の「数の秘儀」が顔を見せているのであるが…!!!。 要するに、それが「神の数列」である「完全鏡面数列」の本意義を表している「数の仕組み業」と言うものであり、今の所、誰も知らない「神の秘儀」と言うものである。 また、それは、すなわち、「あの世」と「この世」の同時的な並列展開を見せている畢竟のものであり、私がこれから説明をしょうとしている「禊ぎ算」の形式そのものを垣間見せているものなのである。このような関係性を持って「禊ぎ算」は「あの世」の存在と「この世」の繋がりと言うものを暴き出してくれるものである。それは、何と言うこと、あの世の主である「閻魔様」持っている浄玻璃鏡 (じょうはりのかがみ)とまったく同じ理屈を持っているものなのである。それはすなわち、一旦死んで地獄をかいま見たのちに、この世に戻って来て閻魔の鏡の存在を世に伝えた者がいたと言うことであり、それを世間に伝えたと言う事である。 何故なら、その原理はまったく同じモノであるからである。 残念ながら、今、この「禊ぎ算」の存在を知っている者は、世界の中で誰もいない。従って、神道の「禊ぎ払い」の誤魔化しと言うものを審議して、正しいものに直そうとする者は誰もいないのである。 ただ、私だけが、大口を叩き、闊歩しているだけであり、追従してくれる者などは皆無の状態で頑張っているのである。 それらは本当は大変面白くて、大変、意義深いものであるが……!!!!。 見るがいい、この二つの対角線数列の相対する数字を加算する、すると、すべては9になり、0になるのである。とにかく、自然界では、相対するものは逆な関係ですべてはピタリと合い、齟齬や矛盾などがが生じることなどは決して無い、それが自然の本質であり、それが「自然数学」の根本原理なのである。それに比べると、「現代数学」は、余りにも自然と相反する矛盾が多く、理論や記号ばかりが重なり合って、とても素人は理解が出来ず、興味を失い、ただただ、離れて行くような状態である。 また、それが高じて行くと、それが今度はその学問のジャンルの崩壊につながり、ただた衰移して終わりを告げることになるのである。 これらのことを更に深く知りたくば、これら二つの対角線数列に沿って並ぶ各斜めの数列(20ヶ)で、改めて検証して見るがいい。すべてはピタリと合ってあなた方を驚かせるはずである。それを通じて、私の言っている意味がよく判ることになるはずである。また、それによりあなたの疑問点も消えて理解度も数段増すはずである。そもそも、何も手を下さないで、頭で解しょうとするだけでは甚だ、無理なことであり、おこがましい限りなのである。 ハッキリ言えば、「数」とは、すべては0を起点に展開しているものであり、0が無ければすべては成り立たないのである。 ところが、「現代数学」の基本である「自然数」では0を排除し、そんな姿の無いものは不要として1から始まっているのである。それでは何も始まらないのであり、何も芽吹くことは無いのである。すべては沈黙の世界であり、不毛の世界となって、ただただ、年月が経るだけの「死の世界」が広がり、時が過ぎるだけである。 言って置くが、「死の世界」は永劫未来にわたって、まったく動きの無い世界であるが、「あの世」は「この世」と同じように目まぐるしいほどの動きの多い世界であり、ただ、時間の推移度が緩慢であり、異なるだけなのである。そのあたりを混同しないように……!!!。 本来は、「0」は「数」の大切な母体であり、すべての「数」は〖0〗から産まれて来ているのであるが…!!!。 ところが、現代数学」は、ちょうど現代西洋科学が「神」、そんなものは無いと「神」を否定しているのとまったく同じ状態であり、まったく同様な轍(わだち)を踏んでいるおかしな状態にあるのである。もっと、ハッキリいえば、「現代数学」は0を否定しながら、その存在を認めて用いているのであり、「現代西洋科学」は今でも「神」は存在しないと頑張って歩を進めているのである。まあ、ハッキリ言えば、どっちも、どっちということであり、信じられないと言うことである。 しかし、最近になって、先進的な科学者達は「神」の存在を認めなければ今の自然の矛盾はそのままであり、このままでは人類には未来は無い」と言い始めているようである。 筋から考えても、「神」の書である聖書を認めている彼等が、「神」の存在を認めない、と言うのはおかしな話しであり、矛盾も甚だしいものでもある。しかし、今まで誰もそこまで突っ込んで言った者はいない。おそらく、それは日本人の優しさなのであろう。「神道」の掟にも有るではないか…、「神」は言挙げをせず、と…!!。 「神の数学」から見れば、まさに、「神」=「0」であり、この二つは性質上から見るとまったく同じものなのである。 そのあたりを調べたければ、古神道の奥義祝詞である「「ヒフミ…天地の数歌」を検証すればよく判るはずである。 そこには0があって、すべてはそこから始まっているのである。 私は何回も言っているのであるが、誰も腰を上げようとはせず、また、改めて、検証しようとする御仁もいないのである。 0の存在、これが本当の「神の数学」の眞骨頂というものであり、「現代数学」には無い快心の数の走りと言うものである。 古神道の奥儀である「カムナガラの道」では0の存在は当たり前であり、0が無ければ、何事も始まらないことを明示しているのである。ところが、何と、「ヒフミ天地の数歌」では意図的に0が省かれているように思えるのであるが……!!!?。 恐らくは、そこには何らかの意味があるのであり、その結果が、まさに日本神道の衰退を引き起こしていると思われるのであるが、誰もその事実には気がつかないようである。少々、頭の優れた方々が5~6も人集まって審議すれば判るのであるが…。 御覧のように、本尊である「カムナガラの道」には0が有るが、しかし、その一部であり、大切な冒頭の「ヒフミ天地の数歌」には、どういう訳か、0が歌われてはいないのである。要するに、肝心要(かんじんかなめ)のものが欠落して、効き目を失っている状態なのである。 恐らくはそれが原因で神道はだんだん神の不興を買うことになり、現代の滅亡寸前の状態を招いたのであろう。 要するに、「カムナガラの道」には最初と最後に0を有し、そこには大きな「神の仕組み」が存在していて、それらが大きな役割を果たして、次の次元的な存在を産み出すことになっているのである。そのあたりの手際の良さ、思い付きの素晴らしさをには、ただただ、頭が下がるだけであり、感激も一入(しとしお)なのである。また、それを見れば、まさに、0こそが、次の次元を産み出すキーパ―ソンであり、キ―プレイャ―であることがよく判ろうと言うものである。 その肝心用語こそが、あの、「カミムスビ」と「タカミムスビ」と言う謎の言葉であり、今まで、誰も解明できなかった神話の言葉なのである。 その現実的な仕組み、その素晴らしい「知の現実」をを知れば、あなたでも簡単に「宇宙の形」が結べるのであり、同時にすべてを理解出来ることになるのである。 (その真実を知りたい方は来宅してその一切の仔細の説明を受けるがいい、吃驚して腰を抜かすであろうよ…!!!。) それでも、数学上における0の不在についての論理的な欠陥については、やっと数学者達も気がついいたようで、最近の大学教育では、自然数は01234……と0を最初に置いて教えているそうである。要するに、中学、や高校では未だに0の無い自然数であり、大学で初めて0のある自然数が採用されていると言うことである。 ほい、また、脱線してしまった…、これらは余計なお節介である、何としよう、ハイ、ハイ、ハイ…!!。 出来れば、縦と横の数列、並びに他の斜めに走るこれらの数列で、この事実を確かめてもらいたい。それにより、あなたは誰も知らない自然数学の面白さを見出すことが可能になるのである。まず、そのためには、その先にある驚くべき「神の秘密」を見い出し、その囁きを聞くことから始めなければならない。神々は面白いほど、素晴らしい「神の秘儀」を囁きながらあなた方の開眼を今か、今かと待っているのである。私はとうに待ちくたびれて勝手にせいと半ば膨れ顔なのであるが…!!。 実際、この先にはとんでもない、不可思議な事実、誰も想像も出来なかった、驚くべき新事実が綺羅星のように控えているのである。その事実は現代の学者達にとっては、ショックそのものであり、夢想にも出来ないものばかりであろう。なんせ、そこには神話が語る手法を用いると、驚くべき「宇宙の形」が現れて、すべてのとどめを刺すのであり、しかも、その姿は現代科学の指し示す「宇宙の形」よりも遥かに正確なものなのである。すべては「数」の流れが指し示しているものである。 是非、そこまで立ち入ってジックリと眺めながら検証してもらいたい、そこには、誰も思いもしなかった自然の持つ不可思議な「数の仕組み」が数多犇めき並び、何事かを囁いているのである。ぜひ、それらを見い出して、世の中に出してもらいたいと思う。 それは、当然、「神」の存在を証明するものでもあり、未だ、誰も出来なかった重大な発見に繋がって来るものでもある。 さあ、さあ、責任重大な大仕事である、頑張ってもらいたい。当然、その判定は私が引き受けるつもりではある。 恐らく、そのすべては、既に私が調査済であり、すべてを既に知り、書棚に資料として保存しているものの中からの抜粋となるものである。なんせ、私の手元にある資料の中には何百とも言える未発表の「神の秘儀」が眠っているのである。 それらに挑戦しょうと思うならば、自らが十分に数の心を会得し、その真実の存在を完全に心で納得してから挑戦することが最も大切なことであろう。なにしろ、「数」は正直者であり、そこまでの心に達すれば、「数」は自ら寄って来ていろいろと話をしてくれるのであり、色々と教えてくれることは私が請け合う。とにかく、「数」は意識を持っている存在であることを知って欲しい。 また、上記の計算が、今後、説明に入る「禊ぎ算」の概略的な説明ともなるものである。よく、そこにある経過を理解してもらいたい。それが出来ない限り、今後の「禊ぎ算」の十分な理解は無理であろう。 ここには、まさに、驚天動地の「数の秘密」が顔を覗かせているものであり、我々の知らない別世界の存在と言う事実を「数」が垣間見せているものである。もし、誰か、覗きたい御仁がいるならば、私が先導を務めて、更なる奥の間にに入って見ようではないか…!!!。遠慮は要らない、ただし、日本人のDNAを引き継いでいる者に限る。 まさに、これは「神」のはかりごとであり、大変興味が湧くものである。また、それは、まさに、「神の存在」を裏づけるものであり、また、「神」は我々の知能より、遥かに高い、飛んでも無いハイレベルの存在であることが判るのである。 あぁー、「神」は間違いなく存在しているのであるが、我々の持つ知、すなわち、現代知の程度では、とても、見出すことが叶わない存在であることが、これによりで証明されるのである。あなた方はすぐに、姿は…??、格好は…??、と、すぐに知りたがるが、「神」は意識的な存在であり、姿、形は無い、しかし、それでありながら実在の存在であり、万能の存在でもあるのである。 それは丁度、我々の心のような存在であり、なんでも一瞬にして想像可能であり、また、存在を可能にする存在なのである。 あなた方、心の大きさや、その姿、形を言えるであろうか、誰も言えないはずである。それと同じことをあなたは尋ねているのである。 意識的な存在とは、物質的なものでは無い。要するに、大きさ、姿、恰好などの物質的な要素はまったく持たず、ただ、あるのは、意識上での感じ、意識上での仕草があるだけで、それは完成したと感じるた場合、それは不思議にも我々の「物質世界」の中の何処か、すなわち、未来か、過去かの何処かでは完成されているものなのである。 ただ、そこには時間軸が関係しているので、限るある時間上しか見えない我々には中々、それが過去においてか、それとも未来においてなのかが判らないのである。それがタイム・ラグである。恐らく、もっと強く念じれば、タイム・ラグは消失し、あのインドのサイババのように必要なものは、直ちに目の前に現れることであろう……!!??。 一つ言っておきたい、現在のインターネットでは「神の存在」の如何を、かまびすしく騒ぎ立てているようであるが、「神の存在」を証明するのは、御覧のように、余り難しいことではない、ただ、自然にそぐわない「西洋科学」や「現代数学」等の物質的なものを扱う学問を用いての探索は無理なことであり、到底叶わないことなのは知ってもらいたい。 それ故に、どう考えても、現在の我々の持つ知では「神」の存在などは確定することは絶対的に無理があるのであり、そもそも最初の「神」の定義そのものが間違っているのである。 おー、調子に乗って、つい長々と道筋が逸れ、またもや、余計なことを言ってしまったようである、堪忍、堪忍、元の路線に戻そう…!!。私は私の持ち分を守らなければならない…!!!。 また、何と、よくよく見ると、ここに現れた④は、まさに、あの「カムナガラの道」そのものの姿ではないか……!!. 確かに、これは古神道の神髄である「カムナガラの道」の姿そのものとまったく変わらないものである。 何と、処理したものは、処理しないものとまったく同じ姿を持っているのである。要するに、そのままの姿(0)と処理完了した姿(9)はまったく同じものと言う事であり、ただ、横と縦が変わった、すなわち、90度変位したもの、もっと、詳しく言えばこれにより,ここには、一つの次元的な90度の変換が有ったと言うことなのであろう。その理由としては、立体(3次元)を90度回転させれば、平面(2次元)が現れ、平面を90度回転させることにより、直線(1次元)が現れ、直線を90度回転させると点が現れると現代物理科学は説明しているのと同じ理由によるものである。 これは現代の科学的な解釈によるものであるが、それが果たして正しいもの出るかどうかはわからない、ただ、数がそのように示しているのであり、私はそれに従っているだけである。 このように、たった、これだけの「数の理表」である「カムナガラの道」の中には、誰も知らない「神の叡智」が数多(あまた)、密かに封じられて、解き放たれるのを待っていると、私は十数年にわたって叫び続けているのであるが……、こんな思わぬところで、またもや「カムナガラの道」に、改めて、再会するとは甚だ面白い限りであり、懐かしい限りである。。 少なくとも、私が解き放った「カムナガラの道」の中の「神の叡智」は、恐らく、100ヶは下らないであろう。 その殆どは10年間にわたって、毎月、私のホームページで公開しているのであるが、それも今や、数式は消されまくってボロボロの状態であり、まさに、無残な有様である。一体、何故なのであろう、ただただ心が痛むだけであり、哀れを感じるだけである。 さてさて、そのあたりのことは、お正月中にでも気が済むまで、ゆっくりと、ご検証くだされたし。よろしくお願いします では、来年も、あなたにとってははいい年であることを祈って…… See you next year again ……!!!。 『神の数学』〘3〙 とても信じられない不思議な「数」と「神」との物語 |
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